加藤 本四郎(かとう もとしろう、1870年(明治3年)4月… 加藤 本四郎(かとう もとしろう、1870年(明治3年)4月 - 1908年(明治41年)11月22日)は、明治時代の外交官。 豊後国玖珠郡森町(現在の大分県玖珠町)に生まれる。当地は明治に至るまで森藩の陣屋町であった。共立学校、第五高等学校を経て1895年7月、東京帝国大学法学部を卒業。高等文官試験に合格し、外務省に入省。領事館補となった。ロンドンの公使館に勤務していた際に南方熊楠と親しく交わった。その後蘇州、香港の各領事、1904年の日露戦争中には仁川領事を歴任した。1906年に天津総領事に就任し、1907年に奉天総領事となり、部下に吉田茂がいた。しかし在職中、病のため明治41年11月22日に39歳にて卒去。
正田 貞一郎(しょうだ ていいちろう、明治3年2月28日〈1… 正田 貞一郎(しょうだ ていいちろう、明治3年2月28日〈1870年3月29日〉 - 1961年〈昭和36年〉11月9日)は、日本の実業家。位階は正五位。勲等は勲三等。 日清製粉株式会社社長、東武鉄道株式会社会長、社団法人如水会理事長、貴族院議員などを歴任した。 上皇后美智子の祖父。今上天皇の曽祖父。 生家は群馬県館林において「米文」の名で米問屋を営み、明治に入って醤油醸造業に従事した。横浜で外国米輸入商売をしていた正田作次郎の長男として生まれるが、翌年父が風邪をこじらせて26歳で亡くなり、館林の祖父・3代正田文右衛門の下で育てられた。 館林小学校を卒業。1884年(明治17年)上京し、1887年(明治20年)東京高等商業学校(現・一橋大学)に入学。
伊藤 恭之助(いとう きょうのすけ、1870年3月29日(明… 伊藤 恭之助(いとう きょうのすけ、1870年3月29日(明治3年2月28日)- 1938年(昭和13年)12月15日)は、明治から昭和前期の醸造家、農業経営者、政治家。衆議院議員、第13代伊藤家当主。 出羽国仙北郡南楢岡村及位(秋田県仙北郡南楢岡村、南外村を経て現大仙市南外及位)で、肝煎、酒造業・伊藤重四郎の長男として生れた。神官・高橋村司の私塾で学び、その後、旧久保田藩士・半田忠蔵などに師事した。父の死去に伴い1888年(明治21年)4月に家督を相続した。当主となったため進学が不可能となり、書物によって独学した。 1894年(明治27年)南楢岡村会議員に選出され32年間在任。1897年(明治30年)8月、秋田県会議員に就任し連続7期在任し、同参事会員、仙北郡会議員も務めた。
吉田 信太(よしだ しんた、1870年3月27日(明治3年2… 吉田 信太(よしだ しんた、1870年3月27日(明治3年2月26日) - 1954年12月24日)は、日本の音楽教師、作曲家。宮城県仙台市出身。1894年に東京音楽学校本科師範部卒業。横浜在住時にルドルフ・ディットリヒに師事。 東京音楽学校分教場、広島高等師範学校(1902年 - 1913年)、神奈川県立第一中学校、神奈川県立第三中学校、神奈川県立高等女学校、東京女子高等師範学校などで教鞭を執る。後に、神奈川県視学。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、音楽関係者(バンド等)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ:芸能人)。
堀江 覚治(覺治、ほりえ かくじ、1870年3月26日(明治… 堀江 覚治(覺治、ほりえ かくじ、1870年3月26日(明治3年2月25日)- 1930年(昭和5年)4月23日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・志賀。 陸奥国磐前郡、のちの福島県磐前郡鹿島村(石城郡鹿島村、小名浜町、磐城市を経て現いわき市鹿島町)の志賀家に生まれる。1895年(明治28年)8月、伊達郡梁川村(梁川町を経て現伊達市梁川町)の堀江里の養子となり、1898年(明治31年)10月、家督を相続した。1890年(明治23年)慶應義塾大学部文科を卒業。 郷里の石川義塾(現学校法人石川高等学校・石川義塾中学校)講師に就任。岐阜日日新聞(現岐阜新聞)から招聘され主筆となる。
田中 定吉(たなか さだきち、1870年3月26日(明治3年… 田中 定吉(たなか さだきち、1870年3月26日(明治3年2月25日)- 1929年(昭和4年)1月5日)は、明治から昭和初期の実業家、政治家。衆議院議員、香川県会議長。号・虚堂、俳号・笑蛙。 讃岐国香川郡高松紺屋町(現香川県高松市紺屋町)で、富豪・田中仁八郎の二男として生まれる。1889年(明治22年)に上京し、1892年(明治25年)専修学校理財科を卒業した。1893年(明治26年)3月、家督相続した。 帰郷して、高松銀行取締役を務めた。その他、高松商業会議所会頭、讃紙取締役、高松煉瓦取締役社長、第百十四銀行監査役、高松土地建物監査役、東京郊外土地監査役などに在任。また、讃岐実業新聞社の2代社長に就任し、讃岐日報社に改称して香川新報との競争を繰り広げた。
山本 直良(やまもと なおよし、1870年3月26日(明治3… 山本 直良(やまもと なおよし、1870年3月26日(明治3年2月25日) - 1945年)は、日本の実業家。公爵岩倉具視家の元家扶、日本郵船など多くの企業の役員を務め、三笠ホテルを創業した。 小浜藩士で岩倉具視の側近だった山本直成の二男として生まれる。東京帝国大学農学部卒業後、千歳海上火災再保険に入社。日本郵船監査、明治製菓役員などの要職を歴任。1897年(明治30年)丁酉銀行創立に伴い頭取に就任した。 長野県北佐久郡軽井沢町に三笠ホテルを建設している。大正11年には、南米企業組合代表者として、山科礼蔵を団長とする南米実業視察団に参加、翌年帰国。 妻の山本愛は有島武郎の妹。息子のひとりが指揮者の山本直忠。
本多 光太郎(ほんだ こうたろう、1870年3月24日(明治… 本多 光太郎(ほんだ こうたろう、1870年3月24日(明治3年2月23日) - 1954年(昭和29年)2月12日)は、日本の物理学者、金属工学者(冶金学者)。鉄鋼及び金属に関する冶金学・材料物性学の研究を、日本はもとより世界に先駆けて創始した。磁性鋼であるKS鋼、新KS鋼の発明者として知られる。文化勲章受章者。文化功労者。 1932年に日本人初のノーベル物理学賞の候補に挙がっていたものの、受賞を逸している。長岡半太郎、鈴木梅太郎と共に理研の三太郎と称される。 KS鋼、新KS鋼はいずれもその発明当時世界最強の永久磁石であった。当時は磁石も特殊鋼の一種工具鋼(1913年に島根県の安来鉄鋼合資会社の伊部喜作らが国産初の合金化に成功)の一種である磁石鋼という名称になっており、工具鋼が鉄鋼材料で最も硬い部類に属するので、これが現代の硬質磁性材料と呼ばれる由縁である。
落合 謙太郎(おちあい けんたろう、1870年3月22日(明… 落合 謙太郎(おちあい けんたろう、1870年3月22日(明治3年2月21日) - 1926年(大正15年)6月4日)は、明治期から大正期の日本の外交官。ポーツマス会議・パリ講和会議に随員として、またローザンヌ近東和平会議やローマでの移民国際会議には首席全権となるなど、重要な国際会議に日本を代表し出席した。奉天総領事館の総領事や、イタリア国特命全権大使等も歴任し、ローマからの帰国途上船中で病没した。 落合謙太郎は、1870年3月22日(明治3年2月21日)、近江国浅井郡川道村(後の滋賀県東浅井郡大郷村、現・長浜市川道町)に落合孝平と母といの長男として生まれた。父は京都で岩垣月洲に学んでおり、学友には坂下門外の変を起こした河本正安がいた。
松居 松葉(まつい しょうよう、1870年3月19日(明治3… 松居 松葉(まつい しょうよう、1870年3月19日(明治3年2月18日) - 1933年(昭和8年)7月14日)は、劇作家、演出家、小説家、翻訳家。別号に、松翁・駿河町人・大久保二八など。 父真房・母鶴子の長男として、陸前国塩釜(現・宮城県塩竈市)に生まれた。幼名は雄児、2歳のときに真玄(まさはる)と改めた。養子だった父は、1876年生家に戻り、真玄は親戚に預けられた。母は再婚した。 1877年(明治10年)(7歳)、宮城県師範学校付属小学校に入り、1880年、宮城県尋常中学校に進んだが、経済的事情から1883年中退して、丁稚奉公に出た。 1887年(17歳)上京して専修学校に、次いで国民英学会に学び、1889年卒業した。
野村 勘左衛門(のむら かんざえもん、1870年3月13日(… 野村 勘左衛門(のむら かんざえもん、1870年3月13日(明治3年2月12日) - 1951年(昭和31年)8月6日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 福井県出身。1890年、東京専門学校政治科卒。日清、日露の両戦争に従軍し、陸軍歩兵大尉となる。農業を営み、坂井郡会議員、福井県会議員、所得税調査委員、地方森林会議員、坂井郡教育会長、福井県教育会副会長、同県救済改良協会副会長となる。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において福井3区から立憲政友会公認で立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1924年の第15回衆議院議員総選挙では政友本党公認で立候補して落選した。1951年に死去した。
佐藤 庄太郎(さとう しょうたろう、1870年3月11日(明… 佐藤 庄太郎(さとう しょうたろう、1870年3月11日(明治3年2月10日)- 1954年(昭和29年)4月29日)は、明治後期から昭和前期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、福島県石城郡神谷村長。旧姓・渡辺、横山。 陸奥国磐城郡泉崎村(福島県石城郡草野村泉崎、平市を経て現いわき市平泉崎)で、庄屋・渡辺市重郎の三男として生まれる。同郡大野村の横山家の養子となるが、事情により1884年(明治17年)同郡神谷村大字中神谷(平市を経て現いわき市平中神谷)の農業、酒造業・佐藤昌三郎の養子となる。大野小学校を経て神谷小学校を卒業。平中学校に進むが、同校が郡山中学校と合併して廃校となり中退。同郡平窪村、室直養の培根塾に入り漢学を学んだ。
吉國 マツ(よしくに マツ、1870年3月11日(明治3年2… 吉國 マツ(よしくに マツ、1870年3月11日(明治3年2月10日)- 1979年4月11日)は長寿日本一であった女性。晩年は大分県に居住していた。 現在の山口市に生まれる。広島市に移って呉服商の一人娘として育つ。結婚するも離婚し、2度目の夫とは死別した。子供はなく、1945年に広島で被爆し、1948年から大分県別府市の別府老人ホームに入所していた。好き嫌いはなく果物を好み、酒もたしなんだ。106歳時点でもトイレも入浴も介助なしで行っていた。 1976年9月発表の全国高齢者名簿では8位であった。 1977年8月、大阪府の川平小梅の死去により、107歳で長寿日本一の女性となり、1978年、新潟県の佐藤増太郎の死去により長寿日本一となる。
中馬 庚(ちゅうまん かなえ/ちゅうま かのえ、明治3年2月… 中馬 庚(ちゅうまん かなえ/ちゅうま かのえ、明治3年2月9日(1870年3月10日) - 昭和7年(1932年)3月21日)は、日本の教育者、元野球選手。
国富 友次郎(くにとみ ともじろう、明治3年2月3日(187… 国富 友次郎(くにとみ ともじろう、明治3年2月3日(1870年3月4日) - 昭和28年(1953年)12月1日)は、日本の教育者。岡山市長。 備中国浅口郡鴨方(現在の岡山県浅口市)の高戸家に生まれ、岡山市の国富大三郎の養子となった。岡山県師範学校卒業後、岡山県下の小学校で校長を務めた。1904年(明治37年)に岡山実科女学校校長に就任し、1908年(明治41年)には岡山実科高等女学校(のち就実高等女学校に改称)を設立し、両校の校長を兼ねた。岡山県教育副会長、岡山市教育会長、帝国教育会理事を歴任。また県会議員、市会議員、同参事会員、同議長に選出された。 1941年(昭和16年)、岡山市長に就任し、1944年(昭和19年)まで務めた。
血脇 守之助(ちわき もりのすけ、1870年3月2日(明治3… 血脇 守之助(ちわき もりのすけ、1870年3月2日(明治3年2月1日) - 1947年(昭和22年)2月24日)は、日本の歯科医師。日本歯科医師会会長。東京歯科大学の創立者の一人。明治後期から昭和初期にかけて日本の近代歯科医療制度の確立に尽力した。また、野口英世のパトロンとして知られる。
梶原 熊雄(かじわら くまお、1870年3月2日(明治3年2… 梶原 熊雄(かじわら くまお、1870年3月2日(明治3年2月1日) - 没年不明)は、日本の発明家。旭光学工業(後のPENTAX)の創業者。 福岡県福岡薬研町(現・福岡市中央区天神)出身。旧制福岡中学校、京都画学校卒業。1894年(明治27年)から1906年(明治39年)まで宮崎県師範学校兼宮崎県立宮崎中学校教諭、佐賀県立第一中学校兼小城中学校教諭を歴任した。1906年に中国政府から招聘され蘇州高等師範学堂教習となり、1909年(明治42年)に南京高等学堂教習となり、1912年(明治45年)に辛亥革命が起きたため辞職し帰国した。 1919年(大正8年)に旭光学工業を創業した。
坂 仲輔(さか なかすけ、明治3年1月29日(1870年3月… 坂 仲輔(さか なかすけ、明治3年1月29日(1870年3月1日) - 大正14年(1925年)8月14日)は、日本の内務官僚、実業家。茨城県知事、石川県知事、新潟県知事。 長州藩一門家老吉敷毛利家の家臣である坂新一の子として周防山口に生まれ、高等商業学校(のちの一橋大学)を矢野二郎排斥事件により中退し、会計検査院入庁。検査官補を務める。 内務省参事官、神奈川県事務官・第一部長兼第三部長などを経て、1908年10月、茨城県知事、1912年12月、石川県知事、1914年4月、新潟県知事を歴任。 1916年、藤田組常務理事、同年同社総務理事。1918年、小坂鉱山事務所長兼務。藤田銀行設立を決定。1916年に社長に進言し柵原鉱山の買収を決断させる。
五所車 菊太郎(ごしょぐるま きくたろう、1870年3月1日… 五所車 菊太郎(ごしょぐるま きくたろう、1870年3月1日(明治3年1月29日) - 1925年4月3日)は、千葉県夷隅郡江場土村(現在のいすみ市)出身で宮城野部屋、勝ノ浦部屋に所属した力士。6代宮城野。世話人。本名は佐久間 菊太郎。最高位は東前頭8枚目。 京都相撲に在籍経験がある。1896年1月初土俵、1906年1月十両昇進。1907年1月には高見山酉之助らとともに入幕を果たした。この時37歳。しかし、在位はわずかに4場所で、現役晩年は番付が次第に下がり、最終的には三段目にまで陥落してしまい、1913年5月に引退して親方業に専念(すでに二枚鑑札だった)。1916年1月には廃業し、世話人に転じた。
松本 孝次郎(まつもと こうじろう、明治3年(1870年)3… 松本 孝次郎(まつもと こうじろう、明治3年(1870年)3月 - 昭和7年(1932年)6月9日)は、日本の教育心理学者。 東京府東京市神田区で松本孝八の子として生まれる。1888年(明治21年)、第一高等中学校に入学し、1893年(明治26年)に卒業した。同年、東京帝国大学文科大学哲学科に入学し、1896年(明治29年)に卒業。同大学院で心理学を専攻し、元良勇次郎の指導を受けた。1899年(明治32年)、東京高等師範学校の講師となり、翌年には教授に就任した。また高島平三郎とともに雑誌『児童研究』を発行した。 1906年(明治39年)に両江師範学堂に総教習として招かれるが、辛亥革命後に帰国した。
月田 藤三郎(つきだ とうざぶろう、明治3年1月26日(18… 月田 藤三郎(つきだ とうざぶろう、明治3年1月26日(1870年2月26日) - 昭和14年(1939年)1月7日)は、日本の農商務官僚。産業組合中央会会頭。農学博士。 上野国甘楽郡黒岩村(現在の群馬県富岡市)出身。1896年(明治29年)、東京帝国大学農科大学農学科を卒業。農商務属・蚕業講習所技手となり、農事試験場技師・農商務技師、農政局耕地整理課長、農政課長、畜産課長・緬羊課長等を歴任。1924年(大正13年)に東京市区画整理局長に転じ、1926年(大正15年)まで在任した。 その後、産業組合中央会副会頭、同会頭、中央畜産会副会頭、大日本生糸販売組合連合会会長、購買組合共同会理事長、帝国耕地協会副会頭など多くの役職に就いた。
岩村 透(いわむら とおる、明治3年1月25日〈1870年2… 岩村 透(いわむら とおる、明治3年1月25日〈1870年2月25日〉 - 大正6年〈1917年〉8月17日)は、明治後期から大正期の日本の美術批評家。東京美術学校教授。 東京小石川区生まれ。岩村家は土佐藩家老(宿毛領主)伊賀家の家臣で、父・岩村高俊は後に、愛媛県令、愛知県知事、貴族院議員などを務め、男爵となった。母・音瀬。 透は慶應義塾幼稚舎、同人社(中村正直の塾)、東京英和学校(後の青山学院)と進むが中途退学。1888年にアメリカに渡り、キングストンのワイオミング・セミナリー(英語版)およびニューヨークのナショナル・アカデミー・オブ・デザインで、絵画と美術批評を学んだ。この頃アメリカに本多庸一もいてお互いに親交を深めた。
野村 洋三(のむら ようぞう、1870年2月20日〈明治3年… 野村 洋三(のむら ようぞう、1870年2月20日〈明治3年1月20日 〉 - 1965年〈昭和40年〉3月24日 )は、日本の実業家。元横浜商工会議所会頭。幼名は梅太郎。妻は社会活動家の野村ミチ。 1870年(明治3年)に岐阜県揖斐郡公郷村(現在の大野町)で、父平作、母きくの長男として生まれた。野村家は関ヶ原の合戦の落武者だったといわれ、農家だったが名字帯刀を許されていた。 1881年(明治14年)に岐阜中学校へ入学。外国への興味が高まり、中学をやめて外国へ留学するため東京で勉強したいと両親に願い出たが父親はそれを認めず、1884年(明治17年)に14歳で大阪へ出奔した。様々な職に就いて機会を窺っていたが、外国人と接する機会が多い古美術商に目をつけて京都に移り、池田清助が経営する池田商店に入った。
三浦 逸平(みうら いっぺい、1870年2月18日(明治3年… 三浦 逸平(みうら いっぺい、1870年2月18日(明治3年1月18日)- 1936年(昭和11年)11月12日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員(2期)。 愛知県碧海郡刈谷町大字熊字元屋敷(現在の刈谷市)出身。材木商の三浦桂助の長男。いったんは三浦家の家業を継ぎ、1887年(明治20年)頃に家業を整理して上京。日本橋にある株屋の社員となり、株式仲買店を経営して財を成した。1909年(明治42年)9月5日には第10回衆議院議員総選挙の補欠選挙に出馬して当選。1913年(大正2年)1月には第11回衆議院議員総選挙に出馬して2選。三浦は豊田自動織機の工場を刈谷町に誘致するなどした。 1910年(明治43年)には三浦と才賀藤吉が主たる発起者となり、碧海軽便鉄道会社(軌間762mmで動力蒸気による鉄道)を設立。
清水 龍山(清水竜山、しみず りゅうざん、1870年2月15… 清水 龍山(清水竜山、しみず りゅうざん、1870年2月15日〈明治3年1月15日〉 - 1943年〈昭和18年〉1月8日)は、日蓮宗の僧、立正大学の学長を務めた。 越前国(現・福井県越前市高木町)生まれ。幼名・才助、幼くして父母に死別、7歳の時鯖江一乗庵山本智光尼に引きとられ、武生市(現在の越前市)の聞法寺・藤岡日尊について得度した。和歌山感応寺南紀学林学頭・上木日令に師事。中山檀林、日蓮宗大檀林、祖山学院に入り、第1回の内地留学生として比叡山で天台を学ぶ。1904年東京大崎に日蓮宗大学林(現・立正大学)が移転すると教授に就任。本山日本寺晋山。1929年立正大学学長、1935年から1941年まで学長。
星野 仙蔵(ほしの せんぞう、1870年2月15日〈明治3年… 星野 仙蔵(ほしの せんぞう、1870年2月15日〈明治3年1月15日〉 - 1917年〈大正6年〉8月26日)は、日本の実業家、政治家、剣道家。 星野家の当主は代々星野仙蔵を名乗っており、10代目に当たる。別名は星野安大郎。家業は回漕問屋「福田屋」。埼玉県会議員、衆議院議員を務め、東上鉄道(現、東武東上線)建設に尽力した。また、大日本武徳会の剣道家としても有名で、中等学校への剣道採用請願運動を推進し、大日本帝国剣道形制定委員も務めた。 武蔵国入間郡福岡村(現埼玉県ふじみ野市)生まれ。新河岸川の舟運で栄える福岡河岸で回漕問屋「福田屋」を営み、米穀取引所監査や川越商業銀行頭取、黒須銀行を経て、1899年(明治32年)に埼玉県会議員になる。
昌谷 彰(さかや あきら、1870年 2月13日(明治3年1… 昌谷 彰(さかや あきら、1870年 2月13日(明治3年1月13日) - 1946年(昭和21年)10月)は、日本の内務官僚。官選県知事、樺太庁長官。 美作国津山城下(現岡山県津山市)出身。津山藩士・昌谷千里(端一郎)の長男として生まれる。東京英語学校、第一高等中学校を経て、1896年、帝国大学法科大学を卒業。同年7月、内務省に入省し土木局属となる。同年12月、文官高等試験行政科試験に合格した。 1897年4月、宮崎県参事官・内務部第三課長兼第二課長に就任。以後、三重県参事官、神奈川県参事官・第四課長兼官房外出係、滋賀県書記官、福井県事務官・第一部長兼第二部長、静岡県事務官・第一部長兼第三部長、同内務部長、京都府事務官・内務部長などを経て、1910年7月、東京府事務官・内務部長に就任。
北原 多作(きたはら たさく、明治3年1月12日(1870年… 北原 多作(きたはら たさく、明治3年1月12日(1870年2月12日) - 大正11年(1922年)1月12日)は、日本の海洋学者、水産学者。日本における水産行政、水産学研究、海洋測器開発の先駆者として知られる。 明治3年(1870年)、美濃国山県郡北野村(現在の岐阜県岐阜市三輪)の各務家において生まれる。幼い時に父を亡くした後、岐阜中学を経て青山学院へと進むが、その間は学費の捻出の為に学僕を務めた苦学生であった。明治27年(1894年)7月に東京帝国大学理科大学動物学科選科を卒業する。在学中は箕作佳吉の指導により、霞ヶ浦の水族調査を行っている。また、明治26年(1893年)にはウシモツゴの和名の基となった岐阜市での方言名「う志もろこ」の名を初めて報告した。
山本 悌二郎(やまもと ていじろう、1870年2月10日〈明… 山本 悌二郎(やまもと ていじろう、1870年2月10日〈明治3年1月10日〉- 1937年〈昭和12年〉12月14日)は、日本の政治家、実業家。農林大臣。外務大臣の有田八郎は弟。号は二峯。 佐渡国(後の新潟県佐渡郡、現・佐渡市)に、漢方医・山本桂の二男として生まれる。1882年(明治15年)に上京し、一時期二松学舎に在籍した後、獨逸学協会学校(現:獨協中学・高等学校)に転校しドイツ語を学ぶ。1886年(明治19年)に同校を卒業後、宮内省給費生としてドイツに留学し、経済学・農芸化学を学ぶ。1894年(明治27年)、帰国後は宮内省御料局嘱託、第二高等学校教授、日本勧業銀行鑑定課長を経て、1900年(明治33年)には台湾製糖(三井製糖の前身企業の一つ)設立に参画し常務取締役支配人となる。
金子 筑水(かねこ ちくすい、明治3年1月10日〈1870年… 金子 筑水(かねこ ちくすい、明治3年1月10日〈1870年2月10日〉 - 1937年〈昭和12年〉6月1日)は、日本の哲学者・思想・文芸評論家。 本名は金子 馬治(うまじ)。 1870年、長野県小県郡赤坂村(現上田市)生まれ。旧制上田中学(現・長野県上田高等学校)を経て、1893年東京専門学校(現早稲田大学)卒業後、]母校講師となる。 『早稲田文学』1898年2月に評論「所謂社会小説」を発表した。1903年ドイツに留学し、ライプツィヒ大学、ベルリン大学、ハイデルベルク大学で学んだ。帰国後の1907年より早稲田大学教授となり、哲学、心理学、美学を講義した。同大学文学部長、早稲田大学坪内博士記念演劇博物館長、常務理事を務めた。
杉山 四五郎(すぎやま しごろう、1870年2月6日〈明治3… 杉山 四五郎(すぎやま しごろう、1870年2月6日〈明治3年1月6日〉- 1928年〈昭和3年〉6月13日)は、日本の内務官僚、政治家。政友会系府県知事、衆議院議員。 越後国蒲原郡島潟村出身。大庄屋役・小川右平太の四男[要出典]として生まれ、1894年(明治27年)に大蔵省官吏・杉山叙(松本藩士・杉山叙主の次男[要出典]。明治維新後官界に入り、丸亀税務監督局長を務めた)の養子となる。開成中学、第一高等学校を経て、1894年7月、帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年8月、内務省に入り、愛知県属として内務部第一課長に発令された。1895年(明治28年)11月、高等文官試験行政科試験に合格した。 1896年(明治29年)1月、内務属となり土木局に配属された。
大崎 二六郎(おおさき にろくろう、明治3年〈1870年〉2… 大崎 二六郎(おおさき にろくろう、明治3年〈1870年〉2月6日 - 大正14年〈1925年〉7月20日)は、日本の政治家。新潟県長岡市出身。21歳で入東谷村(現、新潟県長岡市)の村長となり、30歳で県会議員に当選。村長となること三期、県会議員当選4回、郡会議員当選3回、政治家として活躍した。大崎家十四代当主。 大崎二六郎は、大崎彦助の長男として明治3年(1870年)2月6日、新潟県古志郡来伝村(現、新潟県長岡市来伝)で生まれる。父・彦助は、旧長岡藩家老・河井継之助の従者であり、長岡藩領来伝村の割元(大庄屋)であった。幼少の頃は、祖父・津右衛門邦常と起居を共にし、大いにその感化を受けた。 二六郎は、歌人(俳号は「梅渓」)として、また、尺八の名手としても活躍し、小学校のピアノ開きに六段や越後獅子の曲を琴と合わせて演奏した。
吉田 賢龍(よしだ けんりゅう、1870年2月5日 - 19… 吉田 賢龍(よしだ けんりゅう、1870年2月5日 - 1943年1月5日)は、日本の教育者、元広島文理科大学学長。
中西 用徳(なかにし もちよし、1870年2月1日(明治3年… 中西 用徳(なかにし もちよし、1870年2月1日(明治3年1月1日) - 1935年(昭和10年)12月9日)は、明治から昭和時代初期の司法官。大審院部長判事。 中西用亮の子としてのちの三重県に生まれる。普通学を修めたのち1892年(明治25年)法科大学に入り、1895年(明治28年)同大を卒業し法学士の称号を得た。1897年(明治30年)栃木区裁判所検事に任じ、同年判事に転じた。浦和地方裁判所判事、東京地方裁判所判事、同部長判事を経て、1902年(明治35年)東京控訴院判事に就任する。その後、東京、大阪各控訴院部長判事、京都、大阪各地方裁判所所長、長崎控訴院長を歴任し、1928年(昭和3年)大審院部長となった。
志々目 藤彦(ししめ ふじひこ、1870年2月1日(明治3年… 志々目 藤彦(ししめ ふじひこ、1870年2月1日(明治3年1月1日)- 1927年(昭和2年)6月7日)は、明治から大正期の農業経営者、政治家。衆議院議員、鹿児島県会議長。政治活動に全財産を用いた「井戸塀政治家」として知られた。 薩摩国揖宿郡、のちの鹿児島県揖宿郡喜入村(喜入町を経て現鹿児島市)で、志々目真幸の長男として生まれる。1879年(明治12年)1月、家督を相続した。普通学、和漢学を修め、1892年(明治25年)明治法律学校(現明治大学)を卒業した。農業を営む。 1897年(明治30年)鹿児島県会議員に選出され、同参事会員、同副議長を務め、1908年(明治41年)11月、県会議長となった。
野村 茂久馬(のむら もくま、1870年1月30日(明治2年… 野村 茂久馬(のむら もくま、1870年1月30日(明治2年12月28日) - 1960年(昭和35年)2月11日)は、「土佐の交通王」と呼ばれた実業家。財団法人板垣会第12代会長。坂本龍馬先生銅像建設会会長。桂浜・坂本龍馬先生銅像の建立責任者。高知城公園・板垣退助先生銅像の再建責任者。 近代交通黎明期に高知県の海運・陸運の発展に貢献し、土佐湾岸航路、バス、鉄道等多くの交通事業に携わった。現在のとさでん交通の前身会社の一つである高知県交通の前身である野村組自動車部、現・新高知重工の前身である野村組工作所の創設者である。また、私鉄高知鉄道手結-安芸線(後の土佐電気鉄道安芸線:昭和49年(1974年)の建設なども手掛けた。
北大路 実信(實信、きたおおじ さねのぶ、 1870年1月2… 北大路 実信(實信、きたおおじ さねのぶ、 1870年1月29日(明治2年12月28日)- 1935年(昭和10年)9月22日)は、明治から昭和期の税関官吏、政治家、奈良華族。貴族院男爵議員。旧姓・園池。幼名・楢麿。 山城国京都で奈良県知事・園池公静の三男として生まれ、1895年(明治28年)8月、男爵・先代北大路公久の死去後に養子となり、同年9月28日に男爵を襲爵。同年10月9日、実信に改名した。 学習院、東京高等商業学校を修了。1895年、税関属に任官。その後、同事務官補などを務め、東京築港に関する貨物調査嘱託となった。 1904年(明治37年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され、公正会に所属して活動し、死去するまで5期在任した。
牧野 義雄(まきの よしお、1870年1月26日(明治2年1… 牧野 義雄(まきの よしお、1870年1月26日(明治2年12月25日) - 1956年(昭和31年)10月18日)は、主にイギリスで活動した画家、随筆家である。ジャポニズムブームに乗り、1910年代にロンドン社交界の寵児となった。挙母藩(現:愛知県豊田市)出身。「霧の画家」と評される。 挙母藩士・牧野利幹と葛(西尾藩士・遠山内記の娘)の次男として誕生する。宣教師が設立した名古屋英和学校に学び、1890年に東京職工学校機械科を卒業した。幼い頃から水墨画を学んだ牧野は23歳の時、単身渡航でアメリカを訪れた。渡米した当初は画家か文筆家かで迷っていたが、アメリカ総領事の珍田捨巳の助言でサンフランシスコの美術学校に通った。
林 茂政(はやし もせい、本名:しげまさ、1870年1月26… 林 茂政(はやし もせい、本名:しげまさ、1870年1月26日(明治2年12月25日)- 1940年(昭和15年)1月15日)は、日本の政治家。最後の鶴岡町長、初代鶴岡市長、山形県会議員、羽前輸出織物同業組合組合長、勲六等。別名・半次郎。 庄内藩士・林茂明の長男として鶴岡鷹匠町(現・山形県鶴岡市)に生れる。西田川郡中学校(現・山形県立鶴岡南高等学校)卒業。鶴岡英学会に入会し英語などを学び、角田俊次に文章及び漢学の指導を受ける。 1887年(明治20年)福島県会津郡の小学校に勤務。1892年(明治25年)朝暘学校訓導に転じた。 1901年(明治34年)鶴岡町長に就任し、1924年(大正13年)10月、市制施行に伴い初代鶴岡市長に就任し、1927年(昭和2年)まで在任した。
大平 駒槌(おおだいら こまつち、1870年1月25日(明治… 大平 駒槌(おおだいら こまつち、1870年1月25日(明治2年12月24日)- 1957年(昭和32年)4月11日)は、日本の農商務官僚、実業家、政治家。貴族院勅選議員、枢密顧問官。 広島県で大平儀右衛門の二男として生まれる。第三高等学校を経て、1896年7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1897年3月、農商務省に入省し、鉱山監督官輔に任じられ福岡鉱山監督署に在勤。 以後、農商務属・鉱山局勤務、札幌鉱山監督署鉱政課長、東京鉱山監督署鉱政課長、大阪鉱山監督署長を歴任し、1906年3月に退官した。 その後、大阪藤田組に入り、鉱山部庶務課長、兼小坂鉄道 (株) 専務取締役、藤田組証券課長、兼大阪合同紡績 (株) 監査役を務め、1908年12月に退社した。
豊増 竜次郎(とよます りゅうじろう、1870年1月25日(… 豊増 竜次郎(とよます りゅうじろう、1870年1月25日(明治2年12月24日) - 1941年(昭和16年)12月31日)は、日本の衆議院議員(立憲同志会→憲政会)。弁護士。族籍は佐賀県平民。 肥前国養父郡旭村(現在の佐賀県鳥栖市)出身。豊増清作の二男。1889年(明治22年)に明治法律学校(現在の明治大学)を卒業した後、佐賀市で弁護士を開業した。佐賀市弁護士会副会長、同会長を歴任。また佐賀市会議員に選ばれ、議長も務めた。 1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第12回衆議院議員総選挙でも再選を果たした。 その他、佐賀毎日新聞社社長、佐賀瓦斯株式会社取締役などを務めた。
稲村 辰次郎(いなむら たつじろう、1870年1月21日(明… 稲村 辰次郎(いなむら たつじろう、1870年1月21日(明治2年12月20日) - 1917年(大正6年)8月31日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 下総国印旛郡平岡村(千葉県印旛郡木下町、印西町を経て現印西市)で、農業・稲村巳之助の長男として生まれた。1903年、東京法学院(現・中央大学)卒。印旛郡会議員、千葉県会議員となる。 1908年の第10回衆議院議員総選挙において千葉県郡部から無所属で立候補して当選した。のち立憲政友会に入り、1912年の第11回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。1917年に死去した。
内田 司馬彦(うちだ しばひこ 1870年(明治3年)1月2… 内田 司馬彦(うちだ しばひこ 1870年(明治3年)1月20日 – 1928年(昭和3年)12月29日)は、日本の裁判官。 1870年、熊本県山本郡山本村(現・熊本市北区植木町)にて出生。 明治法律学校卒業後、佐賀、名古屋、京都などの地方裁判所検事を経て、松江、福井、鹿児島の各地方裁判所検事正を歴任。後に大審院検事となる。 1928年、死去。59歳。
白井 博之(しらい ひろゆき、1870年1月19日(明治2年… 白井 博之(しらい ひろゆき、1870年1月19日(明治2年12月18日)- 1934年(昭和9年)2月7日)は、明治後期から昭和初期の実業家、政治家。衆議院議員。旧名・貞蔵。1913年(大正2年)5月、博之に改名。 白河県磐城郡上小川村(福島県石城郡上小川村大字上小川、小川町を経て現いわき市小川町上小川)で、実業家白井遠平の長男として生まれる。郷里の小学校を卒業し、同郡平窪村、室直養の培根塾に入り漢学、数学を学んだ。1885年(明治18年)11月に上京し、東京英語学校(現日本学園中学校・高等学校)で英語、数学を学び1887年(明治20年)7月に修業。東京農林学校に進んだが病のため1888年(明治21年)3月に中退し帰郷した。
瀬戸 虎記(せと とらき、1870年1月17日(明治2年12… 瀬戸 虎記(せと とらき、1870年1月17日(明治2年12月16日)- 1920年(大正9年)2月9日)は、日本の教育者。第一高等学校長。 土佐国土佐郡高知街鷹匠町(現:高知市鷹匠町)にて、土佐藩士瀬戸直道の長男として生まれる。第一高等中学校英予科、同校本科二部(理科)で学び、1896年帝国大学理科大学物理学科を卒業。 岩手県立盛岡中学校(現:盛岡第一高等学校)教諭、東京高等師範学校(現:筑波大学)教授、第六高等学校(現:岡山大学)教授、長崎高等商業学校(現:長崎大学)教授、文部省視学兼第一高等学校教授、文部省視学官、臨時教育会議委員などを歴任。1913年4月、前任者新渡戸稲造の退任に伴い、日本最難関と言われた第一高等学校の校長に就任する。
小織 桂一郎(さおり けいいちろう、1870年1月11日(明… 小織 桂一郎(さおり けいいちろう、1870年1月11日(明治2年12月10日) - 1943年(昭和18年)7月26日)は、日本の新派俳優である。本名は西巻行蔵。 新潟県柏崎市に生まれる。後に上京し1891年(明治24年)に川上音二郎一座に加入し、立役が認められた後に同座が経営する劇場において初舞台を踏んだ。1896年(明治29年)には同じ新派俳優だった高田実や初代喜多村緑郎らと共に、成美団の結成に携わり大阪にあった角座および朝日座等で舞台を踏む。 1907年(明治40年)には高田および伊井蓉峰が所属した一座に加入し、再度東京で舞台を踏みその座長も務めた。1913年(大正2年)には河合武雄らが結成した公衆劇団にも加入し、新劇運動に尽力する。
井坂 孝(いさか たかし、1870年1月9日(明治2年12月… 井坂 孝(いさか たかし、1870年1月9日(明治2年12月8日)- 1949年(昭和24年)6月19日)は、日本の実業家、政治家。貴族院勅選議員、枢密顧問官。 常陸国茨城郡水戸(現在の茨城県水戸市)で水戸藩士・井坂幹の三男として生まれる。茨城県尋常中学校、第一高等学校を経て、1896年(明治29年)7月、東京帝国大学法科大学を卒業し、東洋汽船会社に入社。 以後、東洋汽船会社取締役兼営業部長、横浜海上火災保険 (株) 専務取締役、同社長を務めた。経営破綻した七十四銀行の整理を行い、受け皿となる横浜興信銀行を設立し、副頭取、頭取を務めた。1921年(大正10年)4月、横浜商業会議所会頭に就任し関東大震災の復興に尽力した。
西久保 豊一郎(にしくぼ とよいちろう、明治2年12月6日〈… 西久保 豊一郎(にしくぼ とよいちろう、明治2年12月6日〈1870年1月7日〉 - 明治38年〈1905年〉7月12日)は、日本の陸軍軍人。階級は陸軍歩兵少佐。栄典は正六位勲四等功四級。 歩兵第50連隊第1大隊長、後備歩兵第29連隊大隊長等を務め日露戦争で勇戦、樺太の戦いに於いて戦死を遂げた。 三重県警部長従七位の西久保紀林の子として肥前国佐賀郡鍋島村八戸(現佐賀市)に生まれる。兄は西久保弘道。明治7年、父に従い東京へ移住。明治8年8月から東京芝区巴町の第一番小学鞆絵学校(後の港区立鞆絵小学校。平成3年3月閉校し現在は港区立御成門小学校)に入校する。明治10年10月に佐賀の日新小学校に転校。明治12年4月には再び父の転勤の為三重県津市養正小学校に転校する。
美濃部 俊吉(みのべ しゅんきち、明治2年12月6日(187… 美濃部 俊吉(みのべ しゅんきち、明治2年12月6日(1870年1月7日) - 1945年(昭和20年)9月26日)は、日本の農商務及び大蔵官僚、銀行家、実業家。北海道拓殖銀行頭取、朝鮮銀行総裁。 兵庫県加古郡高砂町内材木町(現高砂市材木町)で美濃部秀芳の長男として生まれる。美濃部家は代々医業の家系で、父は姫路藩の御典医でもあった漢方医だが、町内の子供たちに習字や漢字を教えて主にその月謝で生活していたため、あまり豊かでなく、母はとても知識と教養をもっており、夫の代わりに診察したり書や漢書を教えていた。美濃部はいずれ上京して勉学に励みたいと考えていたが家計の事情を抱えていたとき、彼の俊才が見込まれて援助をしてくれる素封家が4人現れたことにより、小学校、小野田中学校を経て、1885年(明治18年)上京、第一高等中学校予科に入り、医学を志してドイツ語を学ぶが第一部本科に転じて1年の英語研究をした後、帝国大学法科大学政治科入学、1893年(明治26年)7月卒業(法学士)、第百銀行へ入行しようと池田謙三に会うも曖昧な反応で、返事を待っているうちに結局、同年8月農商務省に入り商工局配属、後に同工務課長となる。
竹下 勇(たけした いさむ、1870年1月5日(明治2年12… 竹下 勇(たけした いさむ、1870年1月5日(明治2年12月4日) - 1946年(昭和21年)7月1日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。鹿児島県出身。