池 清(いけ きよし、1895年6月10日 - 1952年1… 池 清(いけ きよし、1895年6月10日 - 1952年10月17日)は、朝鮮総督府官僚。徳山市(現・周南市)市長。 山口県都濃郡徳山町(現在の周南市)出身。1917年、逓信官吏練習所卒。朝鮮総督府逓信局に勤務する。1925年に高等試験行政科に合格した後、朝鮮総督府逓信局副事務官、京城貯金管理所主計課長、朝鮮総督府逓信事務官、逓信局庶務課長、高等海員審判所理事官、新義州税関長などを経て、朝鮮総督府農林局林政課長兼土地改良課長から平壌府尹に勤務し、終戦を迎えた。日本に引揚げた後の1947年、徳山市助役に就任した。 1951年の徳山市長選挙に立候補。池は「市政の刷新」「健全財政化」「産業の振興と工場誘致」「学校の建設と充実」などを公約に激しい選挙戦を制して当選、市長に就任した。
西岡 芳次郎(にしおか よしじろう、1895年〈明治28年〉… 西岡 芳次郎(にしおか よしじろう、1895年〈明治28年〉6月9日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。弁護士。 三重県阿山郡新居村(現在の伊賀市)出身。第三高等学校を経て、1921年(大正10年)、東京帝国大学法学部独法科を卒業し、同年11月高等試験行政科に合格した。朝鮮総督府属、警察官講習所教授、忠清北道地方課長、平安南道地方課長、総督官房審議室勤務、農林局水産課長、内務局地方課長、総督官房審議室勤務、企画部長、慶尚南道知事を歴任した。 1943年(昭和18年)に退官した後は、帝国鉱業開発株式会社理事を務めた。戦後に公職追放となった。のち、弁護士を開業。上野市教育委員長を務めた。
里見 勝蔵(さとみ かつぞう、1895年(明治28年)6月9… 里見 勝蔵(さとみ かつぞう、1895年(明治28年)6月9日 - 1981年(昭和56年)5月13日)は、日本の洋画家。 国画会会員。洋画家の山内滋夫は孫にあたる。 京都市四条生まれ。東京美術学校卒業後にフランスに留学。二科展に入会し活躍。1926年には前田寛治・佐伯祐三らと1930年協会を設立したほか、児島善三郎らと独立美術協会を創立し、フォーブ運動を展開した。終戦後に国画会に入会。著書に「ブラマンク」など。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
池内 新蔵(いけうち しんぞう、1895年〈明治28年〉6月… 池内 新蔵(いけうち しんぞう、1895年〈明治28年〉6月6日 - 没年不明)は、日本の実業家、鳥取県多額納税者、地主。池内綿糸店社長。鳥取商工会議所顧問。 鳥取県鳥取市出身。池内新蔵の長男。1913年、旧制鳥取中学校(現・鳥取県立鳥取西高等学校)を卒業する。家業の綿糸商を継承する。池内綿糸店、とりせんビル、丸興綿業各社長、鳥取大丸、鳥取瓦斯、日ノ丸証券、日ノ丸金属、日本海テレビ各取締役をつとめる。 鳥取市の豪商である。趣味は刀剣、読書。宗教は真宗。住所は鳥取市元大工町。 池内家は、藩政時代に主として酒造業により繁栄し、「高砂屋十家」と称された高砂屋一族のうちの一家である。「高砂屋十家」はいずれも高砂の郷士・池内氏を祖とし、本町四丁目にあった沢氏(初代高砂屋惣兵衛)と川端二丁目にあった小川氏(初代高砂屋六兵衛)を高砂屋両本家としていた。
一番ヶ瀬 佳雄(いちばんがせ よしお、1895年(明治28年… 一番ヶ瀬 佳雄(いちばんがせ よしお、1895年(明治28年)6月6日 - 1964年(昭和39年)11月15日)は、大正から昭和時代前期の台湾総督府官僚、陸軍司政長官。新竹州知事、台南州知事。 一番ヶ瀬健太郎の子として東京市に生まれる。第六高等学校を経て、1920年(大正9年)7月、東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業。在学中の1919年(大正8年)10月に高等試験行政科合格。卒業後、直ちに農商務省に奉職し農務局属となり、1925年(大正14年)5月に大阪府工業組合監督官、1934年(昭和9年)2月に拓務省管理局地方課長を経て、1935年(昭和10年)5月に台湾総督府殖産局農務課長に転じた。
小野 祐之(おの すけゆき、1895年(明治28年)6月5日… 小野 祐之(おの すけゆき、1895年(明治28年)6月5日 - 1944年(昭和19年)7月18日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・小沢。長男は元塩尻市長の小野光洪。 長野県上伊那郡小野村(現辰野町小野)で、小沢五郎三郎の三男として生まれ、東筑摩郡筑摩地村(現塩尻市北小野)の小野郡吾の養子となる。旧制長野県立松本中学(現・長野県松本深志高等学校)を経て、1920年、早稲田大学専門部政治経済科を卒業。陸軍に志願して入隊し2年後に歩兵少尉で除隊し、1928年、予備役歩兵中尉に昇進。帝国在郷軍人会本会審議員、同第十四師管連合支部審議員、同東筑摩郡連合分会長、同東筑摩郡将校分団長、同長野支部参事など、在郷軍人会の役職を務めた。
林 堅太郎(はやし けんたろう、1895年〈明治28年〉6月… 林 堅太郎(はやし けんたろう、1895年〈明治28年〉6月5日 - 1981年〈昭和56年〉2月5日)は、日本の電気工学・物理工学者、電気エネルギー工学者。大阪工業大学名誉教授。元電気工学教室担当。工学博士。京都電燈(現:関西電力)元研究員。 専門は、光工学・物理光学(のちの光エレクトロニクス)、発電/送配電工学(のちの電気エネルギー工学)、放電工学(のちのプラズマ工学)。 1920年京都帝国大学工学部卒業(指導教授:黎明期の日本の電気工学界を支えた重鎮で電気学会元会長の鳥養利三郎)。京都電燈(関西電力の前身)にて蛍光放電管・発電/配電系統の研究に従事。1950年大阪工業大学工学部電気工学科に着任、電気工学教室担当。
鈴木 信太郎(すずき しんたろう、1895年6月3日 - 1… 鈴木 信太郎(すずき しんたろう、1895年6月3日 - 1970年3月4日)は、フランス文学者、日本芸術院会員。
鈴木 信太郎(すずき しんたろう、1895年(明治28年)6… 鈴木 信太郎(すずき しんたろう、1895年(明治28年)6月3日 - 1970年(昭和45年)3月4日)は、日本のフランス文学者、東京大学名誉教授、日本芸術院会員。 1895年(明治28年)、神田川の川口に近い神田佐久間町で米問屋を営んでいた富裕な家庭に生まれた。父・鈴木政次郞の二男。東京女子師範附属幼稚園(現・お茶の水女子大学附属幼稚園)に通った。1908年に東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)を卒業し、東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)に進学・中学校では、諸橋轍次が担任であった。1913年に卒業し、直ちに第一高等学校第一部丁類(仏語法科)に進み、翌年よりボードレールの『悪の華』翻訳に取り組んだ。
長嶺 喜一(ながみね きいち、明治28年(1895年)6月2… 長嶺 喜一(ながみね きいち、明治28年(1895年)6月2日 - 昭和20年(1945年)11月15日)は、大正、昭和期の日本の陸軍軍人。新潟県頸城郡寺野村東山寺(現在の新潟県上越市板倉区)出身。陸士28期・陸大36期。最終階級は陸軍中将。 明治28年(1895年)6月2日、新潟県頸城郡寺野村(現在の上越市板倉区)に三男三女の長男として生まれる。喜一は、明治35年(1902年)4月寺野村立久々野尋常高等小学校に入学、同41年(1908年)同校を卒業し、有恒学舎(現在の新潟県立有恒高等学校)に入学する。往復四里の道を通学、帰宅後は農業を手伝うなどの努力家であり、周囲からは大変な頑張り屋として知られていた。
佐藤 賢了(さとう けんりょう、1895年(明治28年)6月… 佐藤 賢了(さとう けんりょう、1895年(明治28年)6月1日 - 1975年(昭和50年)2月6日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1895年(明治28年)6月1日、石川県河北郡花園村字今町(現・金沢市今町)に生まれる。 1914年(大正3年)に金沢第一中学校(中学校同期には海軍少将中堂観恵(海兵44期)・海軍大佐橘正雄(海兵45期)が在籍した)を卒業し陸軍士官学校へ入学、1917年(大正6年)5月、官報によると第29期を257番/536名の成績で卒業。このクラスからは1番の河村参郎(中将、第224師団長)、3番の有末精三(中将、参謀本部第2部長)、6番の後藤光蔵(中将、第1総軍参謀副長)、11番の鎌田銓一(中将、第2野戦鉄道司令官)、27番の稲田正純(中将、第16方面軍参謀長兼西部軍管区参謀長)、46番の額田坦(中将、陸軍省人事局長)など昭和の陸軍を牽引した多くの人物を輩出している。
杉山 平助(すぎやま へいすけ、1895年6月1日 - 19… 杉山 平助(すぎやま へいすけ、1895年6月1日 - 1946年12月21日)は、昭和初期の文芸評論家。 父杉山岩三郎(1841年 - 1913年)の庶子として生まれる。岩三郎は岡山藩士の家の生まれで、第二十二国立銀行や岡山紡績所の設立に関与した後に中国鉄道社長などを歴任し、「備前西郷」と呼ばれた実業家だった。芸妓だった母の宇野を1歳で失い、大阪市の八百屋の子として養育されたのち、7歳で東京の料理屋旅館「鯛屋」に引き取られ、岩三郎が宇野没後に落籍した若い芸妓に育てられる。 明治35年、尋常小学校3年のときに伯父稲垣洋一郎の子・稲垣平助として慶應幼稚舎に転入、寄宿舎で暮らす。明治44年に父を訪ねて認知を乞い、杉山平助となる。
林 倭衛(はやし しずえ、1895年6月1日 - 1945年… 林 倭衛(はやし しずえ、1895年6月1日 - 1945年1月26日)は、大正から昭和にかけての日本の洋画家。浦和画家。 長野県小県郡上田町(現・上田市)の生まれ。父が製糸工場経営に失敗し、小学校に通い始めた倭衛と弟を実家の小林家に預けたまま東京に逃げたため、倭衛は小学校6年を終えてから上京し、15歳頃から書店や印刷会社に勤める。両親の他に弟3人と妹一人の生計を支えるために苦慮した。明治44年(1911年)4月から大下藤次郎が主宰する日本水彩画研究所の夜間部に入って絵の勉強を始め、丸山晩霞の指導を受けた。大正2年(1913年)7月から道路人夫として働きながら、サンジカリズム研究会に加わり、大杉栄ら無政府主義者と交流するようになる。
菊池 仁康(きくち にこう、1895年〈明治28年〉5月29… 菊池 仁康(きくち にこう、1895年〈明治28年〉5月29日 - 1967年〈昭和42年〉9月14日)は、大正から昭和中期の青森県の実業家でロシア文学者。実業家としては板柳銀行頭取を務め、合併後の青森銀行では取締役となったほか、菊屋百貨店社長としても活躍した。 その一方で、ドストエフスキーやプーシキンの翻訳を行うなどロシア文学者としても知られ、詩人福士幸次郎の地方主義運動に参加するなど文化人としても足跡を残した。 青森県北津軽郡板柳村(現・同郡板柳町)出身。父・菊池仁了、母・たかの長男として生まれる。(旧制)県立青森中学校卒業後、上京し、明治大学政治経済科を中退した後、ニコライ露西亜神学校、東京外国語学校(現・東京外国語大学)でロシア語を学ぶ。
松岡 運(まつおか はこぶ、1895年(明治28年)5月28… 松岡 運(まつおか はこぶ、1895年(明治28年)5月28日 - 1963年(昭和38年)11月20日)は、日本の政治家、農業経営者。衆議院議員、福岡県嘉穂郡山田町長。 福岡県嘉麻郡熊田村大字上山田(現嘉麻市上山田)で、熊田村長、同村会議員を務めた松岡乙五郎の二男として生まれる。福岡県立福岡農業学校を卒業後、一年志願兵として入営し、その後、陸軍歩兵中尉に進級した。 その後、熊田村会議員、福岡県会議員、同参事会員、同副議長、山田農会長、同農業会長、帝国在郷軍人会分会長、同南嘉穂連合分会分会長、嘉穂郡南部食糧品統制組合理事長などを務めた。1933年5月から1945年2月まで山田町長に在任し、炭鉱最盛期の豊富な税収を将来のため町基本金百万円として積立てることを計画、また、1935年6月の大洪水からの復興、山田川改修工事の実施、学校の改築、道路整備などに尽力した。
谷川 徹三(たにかわ てつぞう、1895年〈明治28年〉5月… 谷川 徹三(たにかわ てつぞう、1895年〈明治28年〉5月26日 - 1989年〈平成元年〉9月27日)は、日本の哲学者、翻訳家、評論家。法政大学総長などを務めた。日本芸術院会員。常滑市名誉市民。 ジンメル、ゲーテの翻訳や、文芸、美術、宗教、思想などの幅広い評論活動を行った。 1895年5月26日、煙草の元売りの店を営む谷川米太郎の三男として愛知県知多郡常滑町(現:常滑市保示町)に生まれた。旧制愛知県立第五中学校(現:愛知県立瑞陵高等学校)卒業。1913年、旧制第一高等学校に入学。在学中は真宗大谷派僧侶の近角常観が主宰していた求道学舎に寄宿する。西田幾多郎に影響され、1918年に京都帝国大学文学部哲学科へ入学し、西田に師事する。
高田 休廣(たかだ やすひろ、1895年5月25日 - 19… 高田 休廣(たかだ やすひろ、1895年5月25日 - 1942年1月5日)は、昭和前期日本の官僚。高田 耕甫(たかだ こうほ)の筆名により「東京市歌」を作詞したことで知られる。山形県米沢市出身。 1895年(明治28年)、元会津藩士・高田休烈の五男として山形県米沢市に生まれる。三兄は裁判官で、静岡地方裁判所浜松支部長等を歴任した高田豊。 1921年(大正10年)、東京帝国大学英法科を卒業し東京府庁に入庁。1923年(大正12年)、東京市懸賞公募の「東京市歌」(作曲:山田耕筰)で応募作が一等入選となるが、石川県警察部に出向していたため不在であった。 関東大震災の後に帰京、文部省に入省し学務局農業教育課長、社会教育局青年教育課長、資源局官房文書課長、宗教局長、督学官等を歴任する。
岡井 藤志郎(おかい とうしろう、1895年(明治28年)5… 岡井 藤志郎(おかい とうしろう、1895年(明治28年)5月24日 – 1974年(昭和49年)10月19日)は、大正後期から昭和期の裁判官、弁護士、政治家。衆議院議員(1期)。 愛媛県伊予郡松前村南黒田(現松前町南黒田)で、農業・岡井三郎の長男として生まれる。松山中学校(現愛媛県立松山東高等学校)を経て、1913年(大正2年)9月、海軍兵学校(44期)に進んだが1915年(大正4年)12月に中退した。その後、第一高等学校を経て、1922年(大正11年)3月、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業した。東京帝大在学中に友人佐野茂樹の紹介で剣術家山田次朗吉に入門し師事した。 1922年5月、司法官試補に任官し浦和地方裁判所詰となる。
佐藤 惣之助(さとう そうのすけ、1895年(明治28年)5… 佐藤 惣之助(さとう そうのすけ、1895年(明治28年)5月24日 - 1970年(昭和45年)1月4日)は、大正から昭和期の技官、実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。 宮城県名取郡中田村柳生(現仙台市太白区柳生)で、素封家・佐藤亀八郎の長男として生まれる。1921年(大正10年)北海道帝国大学農学部を卒業した。 農商務省嘱託、同技手、商工技師などを歴任。1929年(昭和4年)に退官して家業を継いだ。1933年(昭和8年)中田村会議員に就任。中田村助役、名取農産物販売組合長、警防団長などを務め、1939年(昭和14年)9月、宮城県会議員に選出された。1940年(昭和15年)12月、大政翼賛会名取郡支部長に就任。
有末 精三(ありすえ せいぞう、1895年(明治28年)5月… 有末 精三(ありすえ せいぞう、1895年(明治28年)5月22日 - 1992年(平成4年)2月14日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 北海道出身。有末孫太郎(村長・京極農場支配人・屯田工兵大尉)の長男として生まれる。 上川中学、仙台陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1917年(大正6年)5月、陸軍士官学校(29期)を優等(3番/536名)で卒業し、恩賜の銀時計を受けた。同期には、河村参郎、後藤光蔵、稲田正純、鎌田銓一、額田坦、小松光彦、佐藤賢了、寺田雅雄など昭和の陸軍を牽引した将軍を多く輩出している。旭川に衛戍する歩兵第25連隊附としてシベリアへ出征する。 1924年(大正13年)11月、陸軍大学校(36期)も優等で卒業し、恩賜の軍刀を受けた。
沼畑 金四郎(ぬまはた きんしろう、1895年(明治28年)… 沼畑 金四郎(ぬまはた きんしろう、1895年(明治28年)5月22日 - 1970年(昭和45年)11月26日)は、日本の生活科学者である。旧姓は佐藤。 青森県に生まれ、東京高等工業学校(現在の東京工業大学)附属の工業教員養成所に入学する。1918年(大正7年)に卒業後は、1926年(大正15年)に大妻高等女学校(現在の大妻中学校・高等学校)にて教師として活動した。その後は同学校付属の技芸学校で教鞭を執り、1933年(昭和8年)には東京女子経済専門学校(現在の新渡戸文化短期大学)の教授となり1970年(昭和45年)の定年退職および死去までその職にあたった。 またその傍らで文化女子大学(現在の文化学園大学)でも教鞭を執り、文部省家庭教科書検定調査委員や編集委員、工業技術庁日本工業標準規格調査委員等も兼任する。
中山 理々(なかやま りり、1895年5月20日 - 198… 中山 理々(なかやま りり、1895年5月20日 - 1981年7月27日)は、東京都出身の日本の宗教家・実業家。浄土真宗東本願寺派法善寺住職。東京大学文学部哲学科卒業。 国際派の仏教人として知られ、世界平和の推進に尽力。日本仏教鑚仰会理事長、世界宗教者平和会議日本委員会常務理事、ガンジー平和連盟理事長、東京博善社社長、仏教タイムス社長、真宗大谷派宗議会議員などの要職を歴任した。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
金刺 不二太郎(かなさし ふじたろう、1895年(明治28年… 金刺 不二太郎(かなさし ふじたろう、1895年(明治28年)5月18日 - 1980年(昭和55年)1月4日)は、日本の政治家。川崎市長(7期)。全国市長会会長(4期)。位階は正四位。勲二等旭日重光章。 静岡県賀茂郡(現在の西伊豆町)で、金刺長蔵の長男として生まれる。1912年に東京高等工芸学校を卒業、1914年に東京工科学校を卒業した。川崎田島町の建設会社飯草組(社長は飯草吉之輔で、東京自動車製作所支配人)に入り、1922年に堀之内の請負業万代商会・上田盛次郎(金沢市出身)の一大事業に協力した。1923年金刺組を興し、公共事業に携わる。川崎市議、同議長、参事会員、神奈川県議を経て、第17回衆議院議員総選挙に静岡県第2区より立候補するが落選に終わる。
井上 源治郎(いのうえ げんじろう、1895年〈明治28年〉… 井上 源治郎(いのうえ げんじろう、1895年〈明治28年〉5月18日 - 没年不明)は、日本の実業家。クレパス本舗桜商会取締役技術最高顧問。 大阪府大阪市西区出身。1917年、大阪高等工業学校応用化学科卒業。摂津製油、関西紙工、川上塗料各勤務の後1927年に桜商会入社。 1946年にクレパス本舗桜商会常務に推され、1950年に専務に就任。1967年に技術顧問。 宗教は浄土宗。趣味はカメラ、写真、園芸。住所は大阪市阿倍野区文の里4丁目。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
石毛 郁治(いしげ いくじ、1895年5月18日 - 198… 石毛 郁治(いしげ いくじ、1895年5月18日 - 1981年9月1日)は、日本の化学技術者、実業家。東洋高圧工業(現三井化学)社長や、三井化学工業社長を務めた。 千葉県海上郡飯岡町(現旭市)生まれ。1912年飯岡小学校代用教員。1917年東京高等工業学校(現東京工業大学)応用化学科卒業、三井鉱山入社。肥料用尿素の大量生産法の開発に成功し、1947年から東洋高圧工業社長を務め、1963年には会長に就任。1964年蔵前工業会理事長。1965年飯岡町名誉町民第1号。1966年からは三井化学工業社長を務め、1968年には東洋高圧工業と三井化学工業の合併にあたった。紺綬褒章、藍綬褒章、勲二等旭日重光章受章。
西岡 虎之助(にしおか とらのすけ、1895年5月17日 -… 西岡 虎之助(にしおか とらのすけ、1895年5月17日 - 1970年2月26日)は、日本の歴史学者。早稲田大学名誉教授。 和歌山県伊都郡見好村(現在のかつらぎ町)教良寺の生まれであり、三谷尋常高等小学校を卒業している。1916年和歌山県師範学校卒業。尋常小学校訓導を勤めたのち、1918年東京帝国大学文科大学選科史学科に入学し、1921年卒業。同年、東京帝大史料編纂掛補助嘱託、1924年史料編纂官補、1933年史料編纂官。1946年から1954年まで東京大学史料編纂所事務官を務めたのち、同年早稲田大学教授。1966年に定年退任し、名誉教授。 荘園制を研究、農民など民衆生活の研究をおこなった。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
野口 明(のぐち あきら、1895年(明治28年)5月17日… 野口 明(のぐち あきら、1895年(明治28年)5月17日 - 1979年(昭和54年)9月3日)は、日本の官僚・教育者。お茶の水女子大学初代学長などを歴任した。 1895年、東京府東京市麹町区下六番町で陸軍に奉職する獣医・野口次郎三の子として生まれる。 番町学校、旧制暁星中学校、旧制第二高等学校(宮城県仙台市)文科独法(1916年卒)を経て、1919年に東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。 同年、文部省に入省し、高等文官試験に合格。長崎県警務課長(1922年)、神奈川県警務課長(1923年)を経て、文部省普通学務局第三課長(1924年)、同庶務課長。 1925年に一木喜徳郎大臣の秘書官として宮内省入省。
前川 喜作(まえかわ きさく、1895年(明治28年)5月1… 前川 喜作(まえかわ きさく、1895年(明治28年)5月15日 - 1986年(昭和61年)7月19日)は、日本の実業家。前川製作所創業者。和敬塾創立者。 1895年、奈良県南葛城郡秋津村(現・御所市室)に林業を営む素封家の家に生まれた。前川福松の三男である。旧制奈良県立畝傍中学校(現、奈良県立畝傍高等学校)卒業。1920年、早稲田大学大学部理工科(機械工学科)卒業。 独立し、1924年、前川商店(現・前川製作所)創業。冷蔵庫製造業を創めた。1955年、東京都文京区目白台に地方から上京して都内及び周辺の大学へ通う学生達のための寮(和敬塾)を創設。 1986年7月19日朝、病により死去。 趣味は読書。
伊藤 正一(いとう しょういち、1895年5月15日 - 1… 伊藤 正一(いとう しょういち、1895年5月15日 - 1969年9月15日)は、日本の会計学者。ドイツ会計学専攻。成城大学学長代行等を務めた。 高知県高知市生まれ。1913年高知商業学校(現高知市立高知商業高等学校)卒業。1917年東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。1920年同専攻部卒業。三菱合資会社入社後、三井物産入社。オランダ領東インドやハワイでの勤務や、青山学院教諭を経て、1926年高岡高等商業学校(現富山大学経済学部)教授に就任。1927年から2年間文部省在外研究員としてドイツ、フランスに留学し会計学を修めた。 1931年横浜専門学校(現神奈川大学)教授。1938年日本通運に入社し、同社の会計組織の確立に尽力した。
稲荷山 資生(いなりやま すけお、1895年(明治28年)5… 稲荷山 資生(いなりやま すけお、1895年(明治28年)5月15日 - 1976年(昭和51年)5月22日)は、日本の植物学者である。旧姓は土岐。 大分県に生まれ、京都帝国大学(現在の京都大学)入学し理学部植物学科に所属する。1927年(昭和2年)に卒業後は、東京高等師範学校(後の東京教育大学、現在の筑波大学)に勤務し同校で教鞭を執った。その後は東京文理科大学の教授を経て、1949年(昭和24年)に両校は統合され東京教育大学の教授として活動をする。 1955年(昭和30年)より奈良教育大学の学長に就任し、1971年(昭和46年)に退任するまで細胞生物学の研究に携わった。特にヒガンバナ属の模型を用いた種分化の解明に貢献したことにより、理学博士を取得した。
小村 捷治(こむら しょうじ、1895年〈明治28年〉5月1… 小村 捷治(こむら しょうじ、1895年〈明治28年〉5月15日 - 1972年〈昭和47年〉2月9日)は、大正から昭和期の教育者、政治家、華族。貴族院侯爵議員。 外交官・小村壽太郎、マチ夫妻の二男として生まれる。兄小村欣一が死去して3年後の1934年(昭和9年)1月15日、侯爵を襲爵して貴族院侯爵議員に就任。火曜会に所属して1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。 東京帝国大学文学部を修了。財団法人国士舘講師、東京朝日新聞記者、大阪朝日新聞記者などを務めた。1938年(昭和13年)以降、司法制度調査委員会委員、内閣委員、経済関係罰則調査会委員などを歴任。 戦後は外務省研修所講師、明治大学講師を務めた。
杉浦 義勝(すぎうら よしかつ、1895年5月15日 - 1… 杉浦 義勝(すぎうら よしかつ、1895年5月15日 - 1960年12月7日)は、大正から昭和期の物理学者。立教大学元教授、学術研究会議会員、日本学術振興会委員。欧州で黎明期の量子力学を応用した功績を上げ、日本に理論を広めるなど現代物理学の発展に貢献した。物理学者の仁科芳雄と並び、「日本の現代物理学の父」といわれる。 1895年(明治28年)、愛媛県松山市に生まれる。1920年(大正9年)、東京帝国大学(現・東京大学)理学部物理学科卒業。 日本光学(現・ニコン)に入社した後、1922年(大正11年)、理化学研究所長岡半太郎研究室へ移籍。1925年(大正14年)、東京帝国大学(現・東京大学)にて理学博士学位取得。
中村 研一(なかむら けんいち、1895年(明治28年)5月… 中村 研一(なかむら けんいち、1895年(明治28年)5月14日 - 1967年(昭和42年)8月28日)は、日本の洋画家。日本芸術院会員。
芹沢 銈介(芹澤銈介、せりざわ けいすけ、「けい」は金偏に圭… 芹沢 銈介(芹澤銈介、せりざわ けいすけ、「けい」は金偏に圭、1895年(明治28年)5月13日 - 1984年(昭和59年)4月5日)は、日本の染色工芸家。
戸上 信文(とがみ のぶふみ、1895年(明治28年)5月1… 戸上 信文(とがみ のぶふみ、1895年(明治28年)5月13日 - 1967年(昭和42年)8月9日)は、日本の技術者、実業家、経営者、戸上電機製作所創業者、日本タングステン創業者。 1895年(明治28年)熊本県に生まれる。電機学校(現・東京電機大学)卒業後、佐賀市の日本電機鉄工(製麺機の発明で知られる真崎照郷が設立した真崎鉄工場から製麺機以外の電気機械や高圧タービンポンプ部門を引き継いだ企業。社長は藤山雷太。真崎照郷も相談役に就任していた。)の技師時代に自動開閉器配電装置を開発したことで1919年(大正8年)に自動開閉器部を社内に設える事となり、これが戸上電機の源流となった。 1923年(大正12年)に交流電磁石実用化を契機に、1本の回線から昼間線と夜間線を自動的に切り替える「戸上式自動配線装置」と呼ばれる配電装置を考案した。
大木 雄二(おおき ゆうじ、1895年〈明治28年〉5月7日… 大木 雄二(おおき ゆうじ、1895年〈明治28年〉5月7日 - 1963年〈昭和38年〉7月21日)は、日本の歌人、児童文学者。本名・大木 雄三。 群馬県佐波郡赤堀村(現・伊勢崎市)に生まれる。郷里で小学校の教員を勤めたのち、20歳の時に上京。 1932年から雄二を名乗る。1919年「こども雑誌」の編集者となる。「少年雑誌」「金の星」などに童話を発表した。1927年(昭和2年)童話作家協会に入会し、幹事を務める。1928年(昭和3年)プロレタリア系の新興童話作家連盟の結成に参加。反戦童話「可愛い敵め」を発表する。1932年(昭和7年)右翼的な日本文化連盟を結成、戦時中はファシズム作家であった。
菅 健次郎(かん けんじろう、明治28年(1895年)5月6… 菅 健次郎(かん けんじろう、明治28年(1895年)5月6日 - 昭和21年(1946年)4月1日)は、日本の鉄道官僚、柔道家。国鉄バス創始者とも言われる。 滋賀県甲賀郡水口町(現在の甲賀市)出身。水口小学校卒業、旧制膳所中学校、第五高等学校を経て、1921年(大正10年)に東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。講道館柔道七段を授けられている。 鉄道省に入省。在外研究員となり、1928年(昭和3年)にアメリカに渡り、自動車運輸の重要性に着眼し、2年半、欧米にて調査研究を行った。省営自動車(旧国鉄バスの前進)の創設に尽力した。当時は外国産のバスに押され、国産バスについても外国製部品の組み立てが多く、完全な国産はできていなかったところ、運輸局長久保田敬一の指示により、国産バスの開発を推進した。
勝本 正晃(かつもと まさあきら、1895年5月5日 - 1… 勝本 正晃(かつもと まさあきら、1895年5月5日 - 1993年4月17日)は、大正時代から平成時代の法学者。学位は、法学博士(東京帝国大学・論文博士・1928年)。 東京出身。1912年京都府立第一中学校卒業。1915年第三高等学校卒業。1918年東京帝国大学法科大学独逸法律学科卒業。 1918年東京帝国大学法科大学助手(指導教員:鳩山秀夫)。1921年独・仏・米に研究留学(1923年まで)。1923年東北帝国大学法文学部助教授。1924年東北帝国大学法文学部教授となり、1928年3月3日に東京帝国大学から法学博士を受ける。1949年から京都大学法学部教授。 1951年京都大学を退官して弁護士・弁理士を開業。
多 忠亮(おおの ただすけ、1895年(明治28年)5月3日… 多 忠亮(おおの ただすけ、1895年(明治28年)5月3日 - 1929年(昭和4年)12月3日)は、大正期のヴァイオリン奏者・作曲家。
林 恵海(はやし めぐみ、男性、1895年5月3日 - 19… 林 恵海(はやし めぐみ、男性、1895年5月3日 - 1985年1月22日)は、日本の社会学者。東京大学名誉教授。 1985年生まれ。第五高等学校卒業し、東京帝国大学文学部社会学科に進んだ。1921年、東京帝国大学文学部社会学科を卒業。 卒業後は母校である東京帝国大学文学部助手となる。1939年8月、東京帝国大学文学部助教授に就任し、社会学を講じた。戦後の1948年、東京大学文学部教授に昇進。戸田貞三退官後の東京大学文学部社会学科主任教授を務めた。1956年に東京大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は日本女子大学教授として教鞭をとった。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
赤星 四郎(あかぼし しろう、1895年5月2日 - 197… 赤星 四郎(あかぼし しろう、1895年5月2日 - 1971年5月5日)は、日本のゴルファー・ゴルフ場設計者。 1895年(明治28年)、実業家・赤星弥之助の四男として東京神楽坂で生まれ、鳥居坂で育った。実業家の赤星鉄馬は実兄、同じくゴルファーでゴルフ場設計者の赤星六郎は実弟。 麻布小学校・中学校を卒業後、1913年(大正2年)に渡米。ローレンスビル・スクールを経てペンシルベニア大学に入学。在学中はアメリカンフットボールの選手として活躍。1921年(大正10年)に帰国して志願して1年間の兵役(陸軍騎兵少尉)を勤めたのち、1923年(大正12年)にスタンダード・オイルに入社。一方でゴルフにも打ち込みコース設計理論も学んだ。
徳永 豊(とくなが ゆたか、1895年(明治28年)5月1日… 徳永 豊(とくなが ゆたか、1895年(明治28年)5月1日 - 1976年(昭和51年)1月4日)は、日本の政治家、弁護士、画家。第7代福山市長(4期)。位階は従四位。 広島県深安郡福山町(現・福山市霞町)に生まれる。1914年(大正3年)3月、広島県立福山誠之館中学校(現・広島県立福山誠之館高等学校)卒業。1915年(大正4年)4月、第一高等学校入学。1921年(大正10年)に東京帝国大学法学部を卒業し、三菱造船(現・三菱重工業)に入社。本社総務部に配属される。翌1922年(大正11年)、病のため三菱造船を退職、療養生活に入る。 1926年(大正15年)、広島県福山師範学校の教師となる。1930年(昭和5年)、退職。
葉室 直躬(はむろ なおみ、1895年(明治28年)4月30… 葉室 直躬(はむろ なおみ、1895年(明治28年)4月30日 - 1971年(昭和46年)12月16日)は、日本の華族、神職。正四位。伯爵。 子爵鍋島直柔(旧蓮池藩主家)の三男として生まれたが、藤原北家勧修寺流(藤原為房の次男藤原顕隆が家祖)の流れを汲む葉室家に婿養子に入り、36代目当主となる。明治大学卒業後、安田銀行勤務などを経て、賀茂御祖神社(下鴨神社)宮司となり、興亜学院理事長なども務めた。
林 茂助(はやし もすけ、明治28年(1895年)4月29日… 林 茂助(はやし もすけ、明治28年(1895年)4月29日 - 平成2年(1990年)10月4日)は、日本の化学者、理学博士、東京工業大学名誉教授、鶴岡工業高等専門学校初代校長。
荻生 規矩夫(おぎゅう きくお、1895年4月29日 - 1… 荻生 規矩夫(おぎゅう きくお、1895年4月29日 - 1981年11月27日)は、日本の医学者、京都大学名誉教授、関西医科大学学長・名誉教授、杏林学園理事。 荻生家は儒学者である荻生徂徠で有名な家系である。 規矩夫の父、荻生録造は、旧姓を福永といった。1859年、幕臣福永清右衛門の三男として江戸麻布新網町で生まれ、荻生家に養子に入りその家督を継いだ。明治維新に伴う徳川家の駿河転封にあたり現在の静岡県沼津市八幡町に移り住んだ。そののち、東大医科に入学し、千葉医学専門学校(現千葉大学医学部)眼科学第2代教授となり、近代眼科学の礎を築いた。 規矩夫は録造の三男として1895年に千葉県千葉市猪花町79番地で生まれる。
夏堀 悌二郎(なつぼり ていじろう、1895年(明治28年)… 夏堀 悌二郎(なつぼり ていじろう、1895年(明治28年)4月29日 - 1967年(昭和42年)12月2日)は、日本の政治家。青森県八戸市の6代目~7代目市長。 青森県三戸郡地引村(現在の南部町)生まれ。東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。1920年(大正9年)、判事として前橋、東京、釧路の裁判所に勤務した。小樽地方裁判所判事となり、退官。小樽市で弁護士を開業し、1928年(昭和3年)から1936年(昭和11年)まで2期北海道会議員を務めた。 夏堀源三郎の要請で帰郷し、1943年(昭和18年)八戸で弁護士を開業、1946年(昭和21年)には、自由党から出馬し、八戸市初の公選市長となった。 山内亮の市長辞任により、当時の市議会議長であった鈴木惣吉より「今日の社会情勢から市会で決定することについては無理があるため、世論を尊重する公選としたい」との提案があり、議員全員がこれに賛成し、市長公選が実現した。
井之口 政雄(いのぐち まさお、明治28年(1895年)4月… 井之口 政雄(いのぐち まさお、明治28年(1895年)4月28日 - 昭和42年(1967年)6月30日)は、日本の政治運動家、革命家、ジャーナリスト、政治家。衆議院議員(1期)。 沖縄県那覇市出身。1912年(大正元年)鹿児島一中を卒業、1916年(大正5年)慶應義塾大学部予科に入学し、卒業。1918年(大正7年)同大学部理財科に進む(後に中退)。在学中に、「日本社会主義同盟」、山川均らが主宰していた水曜会で活躍。1921年(大正10年)12月より翌年11月まで一年志願兵として鹿児島歩兵連隊に入隊。24年春から秋頃まで大阪の『関西日報』の記者となる。 1923年(大正12年)に日本共産党に入党。
前田 幸作(まえだ こうさく、1895年(明治28年)4月2… 前田 幸作(まえだ こうさく、1895年(明治28年)4月28日 - 1987年(昭和62年)9月19日)は、昭和期の実業家、映画興行主、政治家。衆議院議員。旧名・幸三郎。 京都府紀伊郡深草村(深草町を経て現京都市伏見区深草)出身。神戸高等商業学校(のち神戸商業大学)で学んだ。 京都市寺田キネマ (株)に入社し、第二京極支配人を務めた。その後、東亜キネマに移り、その経営となった福岡市の映画館東亜倶楽部(前名・抜天〔バッテン〕館)支配人として1927年(昭和2年)3月に赴任した。昼・夜入替制を連続興行に変更し、低料金制の導入、ポスターの全廃、無料入場券の配布、割引券の飛行機による散布などの奇抜な宣伝を行い話題となった。
奥津 彦重(おくつ ひこしげ、1895年4月28日 - 19… 奥津 彦重(おくつ ひこしげ、1895年4月28日 - 1988年3月13日)は、日本のドイツ文学者。東北大学名誉教授。 滋賀県出身。1920年東京帝国大学文学部独文科卒。東北帝国大学法文学部助教授、東北大学教養部教授、1959年定年退官、名誉教授となった。主としてゲーテを研究した。
鈴木 九萬(すずき ただかつ、1895年4月27日 - 19… 鈴木 九萬(すずき ただかつ、1895年4月27日 - 1987年4月4日)は、日本の外交官。 茨城県出身。第一高等学校及び東京帝国大学卒業後、外務省に入省した。 国立国会図書館に終戦連絡横浜事務局長時代の史資料436点が所蔵されている。