方 宗鰲(ほう そうごう、1884年 – 1951年)は、清… 方 宗鰲(ほう そうごう、1884年 – 1951年)は、清末民初の教育者・経済学者・官僚・政治家。別号は少峯または少峰。主に経済学者として活動する一方で、中華民国臨時政府と南京国民政府(汪兆銘政権)華北政務委員会で各職を歴任した。 清末の1903年(光緒29年)に日本へ留学し、東京同文書院を卒業した。帰国後は故郷の普寧県で師範速成学校を創立している。1908年(光緒34年)に官費留学生として日本へ再び留学し、山口高等商業学校を卒業。1914年(民国3年・大正3年)に明治大学商科を卒業した。なお、来日中には進歩党東京支部政務部長をつとめており、雑誌『国家及国家学』に寄稿している。 帰国後は北京の各大学で教鞭をとり、北京中国大学教務長兼商学系主任、朝陽大学教授、北京大学法学院教授を歴任し、経済学の論文を各雑誌に都度都度寄稿している。
村上 静人(むらかみ せいじん、1884年-1960年)は、… 村上 静人(むらかみ せいじん、1884年-1960年)は、日本の作家・翻訳家。 静岡県の代々医師の家に生まれ、上京して医師となろうとするが、長田秀雄、木下杢太郎らと知り合い文学の道を進み、明治大学文学部で学ぶ。赤城正蔵の「アカギ叢書」の創刊に手を貸し、西洋文学の再話、人情本の注釈などの仕事をし、のちには釣りの本を書いた。
蔡 培(さい ばい、1884年〈光緒10年〉 - 1960年… 蔡 培(さい ばい、1884年〈光緒10年〉 - 1960年)は、中華民国の政治家・外交官。字は子平。南京国民政府(汪兆銘政権)で南京市長、駐日大使などを務めた。 清末に日本に留学する。1912年(民国元年・明治45年)に早稲田大学専門部法律科を卒業し、併せて法学士の称号を取得した。帰国後は、柳亜子らが組織した南社に所属し、衆議院議員にもなった。1928年(民国17年)1月、国民政府交通部秘書となる。6月、参事となった。1930年(民国19年)1月、交通部航政司司長となる。1935年(民国24年)8月、内政部民政司司長に異動した。 1940年(民国29年)3月、汪兆銘が南京国民政府を組織すると、蔡培は工商部政務次長に任命された。
原 輝美(はら てるみ、1884年- 1966年)は長野県諏… 原 輝美(はら てるみ、1884年- 1966年)は長野県諏訪市出身の画家。 諏訪市湖南の製糸業を営む家に生まれる。 長野県諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)を経て、1902年に医学を学ぶため単身渡米。親の希望で医学を学ぶも、美術に志向していく。 1905年 画家になる事を決め美術学校に入学。 1907年 美術学校で優秀な成績を修めイギリスに留学。ロンドンのPolytechnic School of Artに入学。高村光太郎と交流をもつ。 1908年 アメリカに戻る。10月よりニューヨークのアート・スチューデンツ・リーグ、翌年より帰国までナショナル・アカデミー・オブ・デザインにて学ぶ。
山口 菅三(やまぐち すがぞう、1884年 - 1971年)… 山口 菅三(やまぐち すがぞう、1884年 - 1971年)は、日本の実業家。滋賀県東浅井郡小谷村大字河毛の造り酒屋、山口嘉左衛門の次男として生まれた。 「元イマン居留民会長 服部富造君」西川太治郎編纂(昭和13年)、「世界史の中の一億人の昭和史 ロシア革命・大正デモクラシー」毎日新聞社刊によれば、1900年服部富造は親戚の山口家次男・山口菅三を預かり服部商店内で、菅三を含めた5人の日本の若者への「海外版 松下村塾」とも言える教育が始まった。この時菅三は16歳であった。日中は「服部商店」で仕事を通じて貿易と商売を学び、夜は夕食後8時から深夜12時まで連日主人服部富造が直々に菅三等5人の若者にロシア語とロシア情勢について教育を行った。
宮原 民平(みやはら みんぺい、1884年 - 1944年)… 宮原 民平(みやはら みんぺい、1884年 - 1944年)は、中国学者、拓殖大学教授、学監。佐賀県現多久市出身。拓殖大学校歌の作詞者である。長男は北海道大学教授の宮原将平。
小倉 伸吉(おぐら しんきち、1884年 - 1936年11… 小倉 伸吉(おぐら しんきち、1884年 - 1936年11月1日)は、日本の海洋学者、潮汐学者。
郁 華(いく か、チェコ語: YU Hua(ユ フア)、18… 郁 華(いく か、チェコ語: YU Hua(ユ フア)、1884年 - 1939年11月23日)は、中華民国の司法官、法学者。江蘇高等法院第二分院刑事庭庭長、東呉大学教授。郁風(zh:郁風)の父、郁達夫の兄でもある。字は曼陀。 1884年、清国浙江省富陽県生まれ。1904年に日本に官費留学し、早稲田大学清国留学生部師範科、法政大学専門部法律科を卒業。1910年に帰国し、挙人となり七品小京官に任じられた。清国滅亡後、1912年に法官資格を取得し京師高等審判庁推事、北京政府大理院推事に就任する。 1913年に日本の司法制度を視察するため日本に派遣される。この視察に弟の郁達夫も同行し日本に留学している。
饒 漢祥(ぎょう かんしょう、繁体字: 饒漢祥; 簡体字: … 饒 漢祥(ぎょう かんしょう、繁体字: 饒漢祥; 簡体字: 饶汉祥; 拼音: Ráo Hànxiáng; ウェード式: Jao Han-hsiang、1884年 - 1927年6月17日)は、清末民初の政治家。字は宓僧。別の署名に珀玕。 1903年(光緒29年)、癸卯科挙人となる。後に日本に留学して法政大学を卒業した。武昌起義(辛亥革命)が勃発すると武昌に向かい、武昌都督府で書記となる。後に黎元洪から抜擢され、秘書や秘書長に昇進した。 中華民国成立後、1912年(民国元年)11月に夏寿康の後任として湖北省内務司司長に任ぜられる。翌年、湖北省民政長署理となった。1914年(民国3年)、副総統黎元洪の秘書長となり、政治会議委員も務めた。
陳 曽栻(ちん そうしょく、1884年〈光緒10年2月〉 –… 陳 曽栻(ちん そうしょく、1884年〈光緒10年2月〉 – 没年不明)は、清末民初の官僚・政治家。別号は矩亭。冀東防共自治政府・中華民国臨時政府・南京国民政府(汪兆銘政権)華北政務委員会で各職を歴任し、特に河北省公署(河北省政府)で長い官歴を持つ。最後は河北省省長代理や華北政務委員会農務総署督弁にまで昇進した。 清末に日本へ留学し、1909年(宣統元年/明治42年)に明治大学政治科を卒業した。1910年(宣統2年)3月、湖北省清丈局専弁となる。中華民国成立後は、呉興県知事、中東鉄路路警処秘書主任、灤県県長などを歴任している。 1935年(民国24年)12月に冀東防共自治政府が成立すると、陳曽栻は自治政府秘書処処長に任命された。
田中 早苗(たなか さなえ、1884年(明治17年) - 1… 田中 早苗(たなか さなえ、1884年(明治17年) - 1945年(昭和20年)5月25日)は日本の翻訳家。男性。本名は田中 豊松(たなか とよまつ)で、この名義での著訳書もある。 英語とフランス語を解し、博文館の雑誌『新青年』などで、モーリス・ルヴェル(フランス語版、英語版)、ウィルキー・コリンズ、エミール・ガボリオ、ガストン・ルルーなどの作品の翻訳紹介につとめた。 1884年(明治17年)、秋田県秋田市に生まれる。 1907年(明治40年)、早稲田大学高等師範部英語科卒業。 雑誌『海外之日本』(海外之日本社)記者、雑誌『太陽』(博文館)嘱託記者を歴任した。 1937年(昭和12年)4月より東京市赤坂区史編纂事務嘱託として『赤坂区史』の編纂に従事する。
朝日枩 清治郎(あさひまつ せいじろう、1884年 - 19… 朝日枩 清治郎(あさひまつ せいじろう、1884年 - 1939年11月25日)は、現在の大阪府岸和田市出身で井筒部屋、猪名川部屋(大坂相撲)に所属した力士。本名は広瀬 伊之助(旧姓熊取谷)。身長167 cm、体重158 kg。 はじめ大阪の猪名川部屋に入門。しばらくして東京に出て井筒部屋から朝日枩の四股名で取り三段目まで進む。1905年1月大阪に戻り1910年1月に入幕。その場所初日に28連勝中の新横綱大木戸を破る殊勲を上げた。1912年5月関脇で8勝1敗で優勝相当成績を残したが脱走して東京に移った。 1913年1月前頭筆頭格番付外付出。翌5月場所の初日に控え力士として物言いを付けたところ、受け容れられずそのまま退場してしまった。
大崎 熊雄(おおさき くまお、1884年〈明治17年〉 - … 大崎 熊雄(おおさき くまお、1884年〈明治17年〉 - 1939年〈昭和14年〉4月25日)は、将棋棋士。贈九段。当初は関根金次郎十三世名人門下であったが、後に井上義雄八段門下に転じる。高知県高知市出身。本名は大崎熊吉。日本将棋連盟の創設時(創設当時は東京将棋連盟)の参加棋士20人のうちの一人。 若い頃には坂本龍馬を尊敬し、政治家を志したこともあるという。 日露戦争に従軍し旅順包囲軍に参加。奉天での戦いで負傷に依り右腕の自由を失う。この負傷で伍長となり金鵄勲章を受ける。 帰還した後に関根金次郎十三世名人門下として将棋界に入り、その後井上義雄八段門下に「師匠替え」する。のちに井上の名から「雄」の字を貰い「熊雄」と改名することになる。
山下 十治郎(やました じゅうじろう、1884年 - 194… 山下 十治郎(やました じゅうじろう、1884年 - 1945年4月16日)は、日本の料理人。北海道苫小牧市で第一洋食店を開業した。 「苫小牧に洋食文化の礎を築いた人物」とされる。 1884年(明治17年)に山梨県東山梨郡平等村(現・山梨市)に伊藤金治郎の子として生まれ、山梨県の山下家と養子縁組する。 横浜グランドホテルでフランス料理の修行を行う。横浜市在住中の1908年に長男・誠一を授かる。 年代は不明だが札幌市豊平館にて勤務の後、1910年には札幌市で長女・すみ子を授かると共に、王子製紙苫小牧工場の落成パーティーの料理担当として迎賓館として先行開館していた「王子倶楽部」(苫小牧)に派遣される。
河鍋 きく子(かわなべ きくこ、1884年(明治17年) -… 河鍋 きく子(かわなべ きくこ、1884年(明治17年) - 1918年(大正7年)4月12日)は明治時代から大正時代にかけての女性日本画家。 1884年に愛媛県八幡浜に生まれた。蘭香と号す。始めは京都にでて菊池芳文について四条派を学び、その後、上京して寺崎広業に師事、人物を描いて名声を得た。1891年の日本青年絵画協会臨時研究会に「女福禄寿」を出品して五等褒状を得、1894年の日本青年絵画協会第3回絵画共進会に「近古美人」を出品、三等褒状を受けている。1918年4月12日に没した。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
藤井 利誉(ふじい としたか、明治5年12月2日(1872年… 藤井 利誉(ふじい としたか、明治5年12月2日(1872年12月31日) - 昭和20年(1945年)12月30日)は、日本の教育者。 福島県出身。1901年(明治34年)、東京高等師範学校文科を卒業。福島県師範学校教諭、福井県師範学校教諭、東京女子高等師範学校教授・附属小学校主事を歴任。1916年(大正5年)、欧米諸国に留学。帰国後、東京女子高等師範学校附属高等女学校主事に任命された。1924年(大正13年)、東京市に転じ、教育局学務課長・視学課長、教育局長を歴任した。 1934年(昭和9年)に退官後も帝国教育会理事を務めた。
安西 直一(あんざい なおいち、明治5年12月2日(1872… 安西 直一(あんざい なおいち、明治5年12月2日(1872年12月31日) - 昭和28年(1953年)9月7日)は、日本の実業家、政治家。千葉県会議長。日本養鮑(名)社長。東京瓦斯会長を務めた安西浩は長男。昭和電工社長を務めた安西正夫は次男。孫に東京瓦斯相談役を務めた安西邦夫や実業家の安西孝之などがいる。 千葉県夷隅郡清海村(のち興津町、現勝浦市)出身。父・八郎兵衛は漁師だった。後に次男安西正夫と森矗昶長女の満江が結婚して安西家と森家は親族同士となるが、正夫・満江それぞれの祖父である八郎兵衛・森為吉両人とも、勝浦の有力な網元だった(安西浩#安西家も参照)。 二松學舍修業。日露役に従軍する。郡会議長、県参事会員同議長町長。
岡田 宇之助(おかだ うのすけ、1872年12月30日(明治… 岡田 宇之助(おかだ うのすけ、1872年12月30日(明治5年12月1日) - 1949年(昭和24年)10月17日)は、日本の内務官僚。官選県知事。旧姓・原。 兵庫県出身。原丈之助の弟として生まれ、岡田家の養子となる。第三高等学校を卒業。1896年、東京法学院(現・中央大学)を卒業。1897年12月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し内務属となる。 以後、島根県参事官、長野県参事官、同事務官・第一部長兼第三部長、愛媛県事務官、同内務部長などを歴任。 1912年12月、茨城県知事に就任。青柳橋の架橋、水海道分署新築、御大礼記念教育館建設、県道整備計画の策定などに尽力。1917年1月、佐賀県知事に転任。
筧 克彦(かけい かつひこ、1872年12月28日〈明治5年… 筧 克彦(かけい かつひこ、1872年12月28日〈明治5年11月28日〉 - 1961年〈昭和36年〉2月27日)は、日本の法学者、神道思想家。東京帝国大学法学部教授、國學院大學教授。従三位勲二等法学博士。長野県諏訪出身。 諏訪大社のある筑摩県諏訪郡上諏訪(現・長野県諏訪市)に旧諏訪藩士筧朴郎の長男として生まれる。東京府尋常中学校、第一高等学校を経て、帝国大学法科大学入学。1897年(明治30年)、帝国大学法科大学法律学科首席卒業、法科大学卒業生総代。同期生には美濃部達吉(政治学科)など。大学卒業後直ちに大学院に入り、翌1898年から6年間ドイツに留学して、オットー・フォン・ギールケ、アドルフ・フォン・ハルナック、ヴィルヘルム・ディルタイなどに師事した。
宮地 久寿馬(みやぢ くすま、1872年12月25日〈明治5… 宮地 久寿馬(みやぢ くすま、1872年12月25日〈明治5年11月25日〉 - 1945年9月30日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1872年(明治5年)、高知城下大川筋(現在の高知市)に生まれた。海南中学校(現在の高知県立高知小津高等学校)を経て、1894年(明治27年)7月、陸軍士官学校(5期)を卒業。同年9月、歩兵少尉に任官。1902年(明治35年)11月、陸軍大学校(16期)を卒業した。 堺連隊区司令官などを経て、1915年(大正4年)8月、歩兵大佐に昇進し歩兵第68連隊長に就任。1917年(大正6年)8月、第1師団参謀長となり、中支那派遣隊司令官に転じ、1919年(大正8年)4月、陸軍少将に進級。
戸叶 薫雄(とかの よしお / しげお、1872年12月24… 戸叶 薫雄(とかの よしお / しげお、1872年12月24日(明治5年11月24日)- 1917年(大正6年)9月26日)は、明治後期から大正期の新聞編集者、実業家、政治家。衆議院議員。旧名・初五郎。田中正造の後継者と目された人物。 栃木県安蘇郡長谷場村(野上村長谷場、田沼町を経て現佐野市長谷場町)で、戸叶庄造の長男として生まれる。1885年(明治18年)2月、家督を相続し薫雄に改名した。栃木師範学校で学んだが教師と対立して退校。1896年(明治29年)自由民権思想の普及のため政治小説『想夫恋』を出版。1898年(明治31年)7月、東京法学院(前身英吉利法律学校、現中央大学)を卒業し、1899年(明治32年)7月、日本法律学校(現日本大学)を卒業した。
走り坊主または走り坊さん(はしりぼうず、はしりぼんさん、18… 走り坊主または走り坊さん(はしりぼうず、はしりぼんさん、1872年12月20日〈明治5年11月20日〉 - 1918年〈大正7年〉11月20日)は、日本の僧である。明治・大正時代の京都市中を阿弥陀如来の使いとして一日中走るという奇行で知られた。本名は新田 常治(にった つねじ)、法名を旗 玄教(はた げんきょう)。「走り坊主の常さん」の通称で親しまれた。 師僧は大蓮寺18世芳井教岸大僧正で、旗姓は同師の旧姓。 出身地は、和泉国泉南郡清児村(現・大阪府貝塚市清児)。18歳で京都の大蓮寺に弟子入りする。当時の大蓮寺は、京都市下京区佛具屋町五条通下るの地に在ったが、第二次大戦中の五条通拡幅に伴い、左京区岡崎の地に移転している。
上原 平太郎(うえはら へいたろう、1872年12月20日(… 上原 平太郎(うえはら へいたろう、1872年12月20日(明治5年11月20日)- 1950年(昭和25年)10月8日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。衆議院議員。 香川県香川郡一宮村(現高松市)で上原秀次郎の長男として生まれる。1896年5月27日、陸軍士官学校(7期)を卒業し、1897年1月25日、陸軍歩兵少尉に任官。義和団の乱、日露戦争に出征。陸軍大学校(17期)で学び、1903年11月28日に卒業した。 以後、参謀本部部員、陸軍大学校教官、第4師団参謀、歩兵第62連隊長、第11師団参謀長、陸軍航空部附、航空部員などを歴任。1921年7月20日、陸軍少将に進み近衛歩兵第1旅団長に就任。
大野 洒竹(おおの しゃちく、明治5年11月19日(1872… 大野 洒竹(おおの しゃちく、明治5年11月19日(1872年12月19日) - 大正2年(1913年)10月12日)は、俳人、医師。明治時代の大蒐書家として知られる。 弥富村 (熊本県)出身、本名は豊太。7歳より東京で育つ。一高を経て、東京帝国大学医学部で土肥慶蔵に師事。 一高時代に正岡子規に誘われ句会に入り、東大在学中の明治27年(1894年)、佐々醒雪、笹川臨風らと筑波会を結成。明治28年(1895年)には、尾崎紅葉、巖谷小波、森無黄、角田竹冷らとともに正岡子規と並ぶ新派の秋声会の創設に関わった。明治30年(1897年)、森鷗外に先駆けて『ファウスト』の部分訳を公表している。 大学卒業後に性病専門の大野病院を京橋にて開業し、患者が門前に群れを成すほど繁盛した。
勝俣 銓吉郎(かつまた せんきちろう、明治5年11月18日(… 勝俣 銓吉郎(かつまた せんきちろう、明治5年11月18日(1872年12月18日) - 1959年(昭和34年)6月4日)は日本の英学者。早稲田大学名誉教授、富士短期大学初代学長。 神奈川県箱根出身。小学校を中退し、横浜郵便局に勤務しながら横浜英和学校で英会話を学んだ。上京して国民英学会に学んだ後、ジャパンタイムズに就職して英作文を研鑽した。東京府立第四中学校、三井鉱山勤務を経て、早稲田大学教授となり、ジャパン・ツーリスト・ビューロー、横浜市立横浜商業専修学校、英語教授研究所に兼務した。終戦直後は行政機関で翻訳に従事し、戦後立正大学教授、富士短期大学学長を務めた。 連語を重視し、長年ノートに用例を書き溜め、『英和活用大辞典』を編纂した。
武本 喜代蔵(たけもと きよぞう、1872年12月16日(明… 武本 喜代蔵(たけもと きよぞう、1872年12月16日(明治5年11月16日) - 1956年(昭和31年)6月26日)は日本の牧師、巡回伝道者である。 1872年(明治5年)鳥取県倉吉市に生まれる。1889年(明治22年)に日本組合基督教会の倉吉講義所(倉吉教会)でアメリカンボードのJ・H・ペティより洗礼を受ける。キリスト教徒になったことによる、家族の迫害を避けて、津山、岡山、倉敷に流転する。 1890年(明治23年)頃松江市で英国聖公会の宣教師B・F・バックストンに会い、バックストンに導かれ直接献身を決意するより、その後、バックストンと出雲地方での伝道を開始する。 1903年(明治36年)に日本組合基督教会の牧師に就任し、広島教会で牧会をする。
武田 五一(たけだ ごいち、1872年12月15日〈明治5年… 武田 五一(たけだ ごいち、1872年12月15日〈明治5年11月15日〉 - 1938年〈昭和13年〉2月5日)は、日本の建築家・建築学者。京都帝国大学建築学科創設者で、関西建築界の父といわれる。アメリカの著名建築家フランク・ロイド・ライトを日本に紹介した人物でもある。 小田県福山(現・広島県福山市)出身。「関西建築界の父」とも言われる日本の建築家。ヨーロッパ留学で影響を受けたアール・ヌーボー、セセッションなど、新しいデザインを日本に紹介した建築家とも言われる。建築以外にも工芸や図案・テキスタイルデザインなども手掛けた。自身の作品のみならず、京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)図案科や京都帝国大学(現・京都大学)に工学部建築学科を創立し向井寛三郎・瀧本義一など多くの後進を育成した。
佐々木 吉三郎(ささき きちさぶろう、明治5年11月15日(… 佐々木 吉三郎(ささき きちさぶろう、明治5年11月15日(1872年12月15日) – 大正13年(1924年)11月20日)は、日本の教育学者。 宮城県大崎市出身。宮城県師範学校を経て、1899年(明治32年)に東京高等師範学校を卒業。東京高等師範学校附属小学校訓導、東京高等師範学校助教授、同教授を歴任した。1907年(明治40年)から1909年(明治42年)までドイツに留学。帰国後、東京高等師範学校教授・同附属小学校主事を務めた。 その後、東京市視学、同学務課長に就任した。
関口 孝五郎(せきぐち こうごろう、明治5年11月14日〈1… 関口 孝五郎(せきぐち こうごろう、明治5年11月14日〈1872年12月14日〉 - 1953年〈昭和28年〉6月6日)は、明治から昭和にかけての日本の柔道家、柔道整復師。柔道範士、講道館八段を有し、群馬県の柔道の先駆者となった。長男・林五郎、次男・恒五郎はともに柔道八段。 明治5年(1872年)、群馬県西群馬郡中郷村(現・渋川市中郷)の農家に、父儀平治、母タケの長男として生まれる。1877年(明治15年)、渋川町の田子亀之丞に入門し、荒木霞新流柔術を習った。1896年(明治29年)に上京し、講道館に入門。 1900年(明治33年)に群馬県に帰り、前橋市曲輪町(現・千代田町)に嘉納治五郎命名による道場・弘道館を開く。
阿部 守太郎(あべ もりたろう、明治5年11月10日(187… 阿部 守太郎(あべ もりたろう、明治5年11月10日(1872年12月10日) - 大正2年(1913年)9月6日)は、日本の外交官、外務省政務局長。対中国強硬論者に暗殺された。妻の生は末弘直方の次女。 大分県下毛郡桜洲村(現在の中津市)出身。第三高等中学校を経て、1896年(明治29年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業した。同年、高等文官試験に合格し、大蔵属として主計局、理財局、主税局に勤務した。翌1897年(明治30年)、外務書記官に転じ、通商局第二課長心得となった。1899年(明治32年)、参事官に昇進し、翌年からは加藤高明外務大臣の秘書官も兼任した。1901年(明治34年)、イギリス公使館二等書記官となり、1905年(明治38年)からは清国公使館一等書記官を務めた。
樋口 虎若(ひぐち とらわか、明治5年11月10日(1872… 樋口 虎若(ひぐち とらわか、明治5年11月10日(1872年12月10日) – 1958年(昭和33年)6月4日)は、日本の医師。愛媛県宇和島市長。 愛媛県北宇和郡吉田町(現在の宇和島市)に吉田藩士の子として生まれた。1894年(明治27年)、第三高等中学校医学部を卒業し、翌年に陸軍三等軍医となった。一等軍医に昇進するが、辞して1900年(明治33年)に宇和島に耳鼻咽喉科医院を開業した。また宇和島市会議員、北宇和郡会議員、同副議長などを歴任した。 1938年(昭和13年)に宇和島市長に就任したが、翌年5月政党の対立抗争を嫌って退任した。
竹上 常三郎(たけがみ つねさぶろう、1872年12月9日〈… 竹上 常三郎(たけがみ つねさぶろう、1872年12月9日〈明治5年11月9日〉- 没年不詳)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功四級。旧姓・大橋。 茨城県、後の古河町(現古河市)出身。大橋力蔵の二男として生まれ、竹上寅吉の養子となり家督を相続した。 1894年(明治27年)7月、陸軍士官学校(5期)を卒業し、同年9月、陸軍歩兵少尉に任官。1897年(明治30年)12月、陸軍大学校(14期)に入学し、1900年(明治33年)12月に卒業して士官学校に配属された。日露戦争では第7師団参謀として出征した。 以後、第17師団参謀などを経て、1914年(大正3年)8月、歩兵大佐に進み陸軍省人事局補任課長に就任。
古川 尭道(ふるかわ ぎょうどう、明治5年11月9日(187… 古川 尭道(ふるかわ ぎょうどう、明治5年11月9日(1872年12月8日) - 昭和36年(1961年))は、明治・大正・昭和期の臨済宗の僧。島根県簸川郡出東村の生まれ。出家後しばらくは本名の古川慧訓を通す。号は尭道。室名は毒狼窟。
中條 資俊(ちゅうじょう すけとし、なかじょう すけとし、明… 中條 資俊(ちゅうじょう すけとし、なかじょう すけとし、明治5年11月7日(1872年12月7日) - 昭和22年(1947年)3月1日)は、日本の医師・ハンセン病研究者。医学博士。北部保養院(国立療養所松丘保養園)院長、園長。 1872年11月7日 山形県南置賜郡塩井村(現・米沢市)に生まれる。幼名竹田留吉。1897年 第一高等学校医学部に入学。数え年26歳。1900年 中條家に養子となり、長女ハルと結婚。1901年 千葉医学専門学校卒業。1902年 医術開業免状下付。県立千葉病院医員。1903年 慰廃園嘱託医。1904年 伝染病研究所助手。1909年4月1日 青森県より北部保養院医長同月25日に院長を命じられる。
塚本 清治(つかもと せいじ、1872年12月5日〈明治5年… 塚本 清治(つかもと せいじ、1872年12月5日〈明治5年11月5日〉- 1945年〈昭和20年〉7月11日)は、明治から昭和にかけての内務官僚・政治家。 兵庫県揖東郡旭陽村(現在の姫路市)出身。初めは河田姓を名乗っていたが、1884年(明治17年)に塚本家の養子に入った。第三高等学校を経て東京帝国大学法科大学を卒業、1902年(明治35年)11月の高等文官試験に合格した。 初め東京府職員であったが、翌年には内務省に移籍して、以後1915年(大正4年)に神社局長、1920年(大正9年)に地方局長、1922年(大正11年)に社会局長を務め、1923年(大正12年)の第2次山本内閣成立と同時に内務次官に任じられた。
横山 健堂(よこやま けんどう、1872年12月5日(明治5… 横山 健堂(よこやま けんどう、1872年12月5日(明治5年11月5日) - 1943年(昭和18年)12月24日)は、日本の評論家。 山口県出身。本名は達三。東京帝国大学卒。明治41年(1908年)から黒頭巾の名で『読売新聞』に「新人国記」を連載した。維新史などの評論を書き、のち駒澤大学教授。子は俳人・医師の横山白虹。孫は俳人の寺井谷子。 長州藩に伝わる専當流を学んでいた。
武島 羽衣(たけしま はごろも、明治5年11月3日(1872… 武島 羽衣(たけしま はごろも、明治5年11月3日(1872年12月3日) - 昭和42年(1967年)2月3日)は日本の詩人、国文学者、作詞家。宮内省御歌所寄人。本名・武島 又次郎。
野崎 小十郎(のざき こじゅうろう、1872年12月2日(明… 野崎 小十郎(のざき こじゅうろう、1872年12月2日(明治5年11月2日) - 1946年(昭和21年)4月21日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。日本海海戦における第5戦隊参謀である。 高知県安芸郡馬ノ上村(現・芸西村)に野崎百弥太の長男として生まれる。 その後海南中学校を経て海軍兵学校(21期)を卒業。大尉時代に北清事変に出動し、少佐時代には日露戦争に参戦した。戦後海軍大学校(甲種5期)を卒業。横須賀鎮守府参謀、横須賀海軍工廠検査役、「新高」、「生駒」、「金剛」の各艦長、臨時南洋群島防備隊司令官などを歴任し海軍少将に任官した。位階勲等は従四位勲二等。功五級金鵄勲章を受章。 退役後には、碑衾町長(現在の目黒区)や玉川計器製作所の監査役を務めている。
石川 茂吉(いしかわ もきち、1872年〈明治5年〉11月2… 石川 茂吉(いしかわ もきち、1872年〈明治5年〉11月29日 - 没年不明)は、日本の政治家、地主・家主。 農業を営み、西巣鴨町町会議員、衛生委員、同町教育会評議員、青年団名誉会員、共賛会委員、氏神氷川神社総代、重林寺総代である。住所は東京府北豊島郡西巣鴨町字池袋。 父・瀧之進は池袋村の村長や、1889年6月5日より1891年9月5日まで巣鴨村助役をつとめた。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
市川 代治(いちかわ だいじ、明治5年10月25日(1872… 市川 代治(いちかわ だいじ、明治5年10月25日(1872年11月25日) - 大正11年(1922年))は戦前日本の経済学者。ベルリン大学で9年間哲学・経済学を学ぶ傍ら、ベルリン東洋語学校(ドイツ語版)等で日本語を教え、帰国後は東亜経済調査局に勤務した。『方丈記』ドイツ語訳で知られる。 明治5年(1872年)10月25日山形県村山郡蔵増村に生まれた。後の住所は蔵増村蔵増甲1101番地。蔵増尋常小学校、天童高等小学校、山形県立山形中学校を経て、仙台の第二高等学校に入学した。1896年(明治29年)卒業後、上京して帝国大学文科に入学し、社会学を専攻し 、1899年(明治32年)7月東京帝国大学文学部哲学科を卒業した。
田中 清文(たなか せいぶん / きよふみ、1872年11月… 田中 清文(たなか せいぶん / きよふみ、1872年11月24日(明治5年10月24日)- 1951年(昭和26年)10月3日)は、明治から昭和前期の政治家、実業家。衆議院議員、貴族院多額納税者議員、富山県東礪波郡福野町長、初代北日本新聞社長。旧姓・有川。 新川県礪波郡福野村(現:富山県南砺市)で、有川甚造の二男として生まれ、親族で豪農の田中清三の養子となる。1903年(明治36年)中央大学法律科を卒業。帰郷後、田中貯蓄銀行を設立し頭取に就任し、さらに田中銀行頭取となる。 1903年9月、富山県会議員に当選し副議長に就任。1913年(大正2年)2月、第11回衆議院議員総選挙で富山県郡部から選出された広瀬鎮之が選挙法違犯で辞職したことに伴い繰上補充となり、衆議院議員を1期務めた。
鷲山 恭平(わしやま きょうへい、1872年11月24日 -… 鷲山 恭平(わしやま きょうへい、1872年11月24日 - 1957年2月15日)は、日本の篤農家、実業家、政治家。 嶺向報徳社社長(初代)、掛川信用組合組合長、大日本報徳社副社長、静岡県小笠郡土方村長などを歴任した。 浜松県出身の篤農家である。報徳運動や農村復興運動を推進し、嶺向報徳社の初代社長を経て、大日本報徳社の副社長となった。また、日本国内最古の信用金庫として知られる島田掛川信用金庫の源流である掛川信用組合の経営にも携わった。政治家としても活動しており、故郷である土方村で村長を務めた。 1872年11月24日、浜松県城東郡嶺向村にて生まれた。上京して東京法学院に入学し、英語法律学科にて学んだ。
田中 昌太郎(たなか しょうたろう、1872年11月20日(… 田中 昌太郎(たなか しょうたろう、1872年11月20日(明治5年10月20日) - 1964年2月25日)は、日本の法曹(検察官、弁護士)。立命館大学元学長。立命館中学校父兄会会長。京都府船井郡園部村(のち園部町、現・南丹市)生まれ。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
城 ノブ(じょう ノブ、1872年11月18日(明治5年10… 城 ノブ(じょう ノブ、1872年11月18日(明治5年10月18日)- 1959年(昭和34年)12月20日)は、日本のキリスト教徒、社会事業家である。愛称は「愛媛のマザー・テレサ」。 愛媛県温泉郡川上村(現在の東温市)にてフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの弟子であった城謙三の次女として生まれる。松山女学校(現在の松山東雲中学校・高等学校)に入学し、在学中は漢学塾でも学ぶ。1890年(明治23年)に卒業後は宣教師だったデュークス(Oscar A. Dukes)から洗礼を受けキリスト教徒となるが、父から勘当された事により独立した。1893年(明治26年)には横浜に居住し聖経女学校神学部(のち青山学院神学部女子部等を経て現在は東京神学大学)に入学し、卒業後は弘前に移住し来徳女学校(現在の弘前学院大学)にて教鞭を執り養老院勤務の傍らキリスト教の伝道活動にも携わる。
岡本 綺堂(おかもと きどう、1872年11月15日〈明治5… 岡本 綺堂(おかもと きどう、1872年11月15日〈明治5年10月15日〉 - 1939年〈昭和14年〉3月1日)は、日本の小説家、劇作家。本名は岡本 敬二(おかもと けいじ)。別号に狂綺堂、鬼菫、甲字楼など。新歌舞伎の作者として知られ、また著名な作品として小説「半七捕物帳」などがある。帝国芸術院会員。 養子の岡本経一は、出版社「青蛙房」の創業者で、社名は綺堂の作品「青蛙堂鬼談」に由来している。 元徳川幕府御家人で維新後にイギリス公使館に書記として 勤めていた敬之助(後に純(きよし)、号は半渓)の長男として東京高輪の泉岳寺の近くに生まれる。1873年、公使館の麹町移転とともに飯田町をへて麹町元園町に移って育つ。
橋本 喜造(はしもと きぞう、1872年11月14日(明治5… 橋本 喜造(はしもと きぞう、1872年11月14日(明治5年10月14日)- 1947年(昭和22年)2月7日)は、明治末から昭和前期の実業家、政治家、長崎県多額納税者。衆議院議員。長崎県会議員。佐世保市会議員。族籍は長崎県平民。 小倉県下毛郡、のちの大分県下毛郡三保村(現中津市)で、橋本半平の二男として生まれる。1896年(明治29年)1月、長崎県平民の橋本雄造の養子となり、1898年(明治31年)1月に分家した。 長崎商業学校(現長崎市立長崎商業高等学校)、長崎外国語学校(長崎英語学校)を卒業。その後上京して慶應義塾で学んだが中途でアメリカへ渡り4年間遊学し政治経済学を学んだ。 1891年(明治24年)から海運事業を経営し、1918年(大正7年)2月に佐世保市で橋本汽船を設立し、その後、拠点を西宮市、神戸市と転じた。
山田 永俊(やまだ えいしゅん、明治5年10月13日(187… 山田 永俊(やまだ えいしゅん、明治5年10月13日(1872年11月13日) – 昭和31年(1956年)9月24日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→政友本党)。医師。漢詩人。 岐阜県本巣郡七郷村(現在の岐阜市)出身。済生学舎で学び(現・日本医科大学)、1895年(明治28年)に医術開業試験に合格。1901年(明治34年)に岐阜市に眼科医院を開業した。1913年(大正2年)より岐阜市会議員に選ばれ、議長にも選出された。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その他、岐阜県医師会長、同保険部長、日本医師会理事、同副会長、岐阜脳病院理事長などを務めた。 また五洋と称し漢詩を善くした。
磯部 検三(いそべ けんぞう、明治5年10月13日(1872… 磯部 検三(いそべ けんぞう、明治5年10月13日(1872年11月13日) - 1949年(昭和24年)8月3日)は、日本の医師、学校経営者。日本医科大学の前身・日本医学校の創立に事務責任者(肩書は「幹事」)として関与し、のちに日本医科大学の維持員となった。かつては本人の主張に基づき日本医科大学の創立者として扱われていたが、現在では創立者と見なされていない。磯部の申し立てた経歴や業績には詐称や虚飾が多かったことが判明している。 名前は検蔵とも表記される。また嬰賓、孔夏、椿軒とも号した。 明治5年(1872年)10月13日、長門国厚狭郡(現・山口県山陽小野田市埴生)の医師・重枝化甫の三男として生まれ、叔父の磯部禎太郎の養子となった。
篠田 治策(しのだ じさく、明治5年10月12日(1872年… 篠田 治策(しのだ じさく、明治5年10月12日(1872年11月12日) - 昭和21年(1946年)1月23日)は、明治後期から昭和前期にかけての法学者・拓務官僚。 1872年、静岡県城東郡池新田村(現在の御前崎市)の農家の長男に生まれた。15歳の時に上京して錦城中学校(現錦城学園高等学校)、第一高等学校を経て、明治32年(1899年)に東京帝国大学法科大学法律学科を卒業。一度は弁護士になるが、明治37年(1904年)の日露戦争勃発に際して陸軍省の国際法事務嘱託に任ぜられ、第三軍の国際法担当顧問として従軍、旅順要塞陥落後は同要塞の司令部付顧問を兼務した。 戦後の明治40年(1907年)に韓国統監府の嘱託となり、間島派出所総務課長・統監府秘書官を歴任、日韓併合後の明治43年(1910年)10月から朝鮮総督府によって平安南道へ派遣された。
土井 八郎兵衛(どい はちろうべえ、1872年11月10日〈… 土井 八郎兵衛(どい はちろうべえ、1872年11月10日〈明治5年10月10日〉 - 1954年〈昭和29年〉8月12日)は、明治 - 昭和時代の日本の林業家・実業家・三重県多額納税者・慈善家。土井林業代表取締役。尾鷲索道社長。尾鷲銀行頭取。百五銀行、三重共同貯蓄銀行、北山索道各取締役。族籍は三重県平民。三重県立尾鷲高等女学校校舎建築・関東大震災救援・三重県立尾鷲中学校建設のために寄附を行なった。 三重県牟婁郡尾鷲に生まれる。土井嘉八郎の長男。4歳の時に父・嘉八郎が病のため早世する。 専修大学理財科を卒業する。祖業の山林業及び林産物製出販売業を継承し、三重県多額納税者に列し、傍ら銀行会社の重役を兼ねる。