渡辺 銕蔵(わたなべ てつぞう、明治18年(1885年)10… 渡辺 銕蔵(わたなべ てつぞう、明治18年(1885年)10月14日 - 昭和55年(1980年)4月5日)は、大正・昭和期の経済学者、教育者、政治家、実業家。東宝争議時の東宝社長。 大阪市生まれ。9歳から広島県広島市本通電停前の書店・積善館店主の子として育つ。 広島済美小学校(広島偕行社付属済美学校)~広島一中~第一高等学校を経て明治43年(1910年)、東京帝国大学法科大学政治学科を首席で卒業。同年から文部省特派海外留学生として英国・ドイツ・ベルギーに留学。 大正2年(1913年)帰国し東京帝国大学法科大学助教授となる。同年北里柴三郎の長女と結婚。大正5年(1916年)教授、大正6年(1917年)法学博士。
鈴木 敏也(すずき としや、1885年〈明治18年〉10月1… 鈴木 敏也(すずき としや、1885年〈明治18年〉10月13日 - 1945年〈昭和20年〉12月9日)は、日本の国文学者。広島文理科大学教授。族籍は愛知県士族。号は菫村。 愛知県・鈴木光雄の長男。1914年7月、東京帝国大学文科大学国文学科卒業。1926年、家督を相続する。広島高師教授をへて1929年に広島文理大教授となる。 広島高師教授を兼ねる。1945年8月6日、広島市への原子爆弾投下により被爆。学長事務取扱に任命された。1945年12月9日に死去した。 著作に『近世日本小説史』、『近代国文学素描』などがある。住所は広島市牛田本町。
安井 藤治(やすい とうじ、1885年〈明治18年〉10月1… 安井 藤治(やすい とうじ、1885年〈明治18年〉10月11日 - 1970年〈昭和45年〉7月8日)は、明治期から昭和期の陸軍軍人、政治家。従三位勲一等。陸軍中将まで昇った後、鈴木貫太郎内閣の国務大臣(無任所)を務めた。 富山県出身。商業・安井藤蔵の長男として生まれる。富山中学校、名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1905年(明治38年)11月、陸軍士官学校(第18期)920名中を首席卒業。同期生には、陸軍大将になった山下奉文、岡部直三郎、阿南惟幾、山脇正隆、藤江恵輔等がいる。 1906年(明治39年)6月、歩兵少尉に任官し、石川県金沢市野田村に駐屯する歩兵第35聯隊附となる。 1913年(大正2年)11月、陸軍大学校(第25期)を優等で卒業。
岩橋 小弥太(いわはし こやた、明治18年(1885年)10… 岩橋 小弥太(いわはし こやた、明治18年(1885年)10月11日 - 昭和53年(1978年)12月9日)は、日本の歴史学者。國學院大學名誉教授。 1885年(明治18年)、大阪府大阪市東区に生れた。1904年3月、大阪府立天王寺中学校を卒業。同級には西田直二郎、折口信夫、武田祐吉らがいた。私立國學院大學師範部国語漢文科に進学し、1907年(明治40年)7月に卒業。 卒業後は、1097年8月より大阪市史編纂事務嘱託に就いた。1909年3月、大阪市を辞めて三省堂編修所に勤務し、『辞林』の増補に従事。1911年4月からは国書刊行会に勤務した。1914年(大正3年)9月、三井家史編纂事務を嘱託される、1916年12月まで従事。
手塚 敏雄(てづか としお、1885年10月11日 - 19… 手塚 敏雄(てづか としお、1885年10月11日 - 1969年7月30日)は、日本の実業家。川崎重工業社長、会長を務めた。 栃木県河内郡河内町出身。1916年に東京帝国大学法学部を卒業し、翌年に川崎造船所に入社した。取締役を経て、1950年8月に川崎重工業社長に就任し、1961年7月に会長に就任した。1954年1月からは川崎航空機社長も兼任し、1961年11月からは同社会長を務めた。 関西テレビ放送取締役、ラジオ関西取締役なども歴任した。1965年に勲三等瑞宝章を受章した。 1969年7月30日急性肺炎のために死去。83歳没。
諸戸 精太(もろと せいた、1885年(明治18年)10月1… 諸戸 精太(もろと せいた、1885年(明治18年)10月11日 - 1931年(昭和6年)10月2日)は、日本の地主、三重県多額納税者、資産家、実業家。諸戸タオル代表社員。族籍は三重県平民。氏は諸戸氏、家名は諸戸家。 三重県桑名郡桑名町(現桑名市)生まれ。三重県の富豪初代諸戸清六の次男。二代目諸戸清六の兄。1907年、分家して一家を創立する。農業、林業、養魚業を営む。傍ら諸戸精太商会を主宰し、高級タオルの製織を為し、業礎を築く。 諸戸殖産合名会社、合名会社諸戸精太商会、諸戸タオル合名会社各代表社員、保証責任西諸戸家信用購買販売利用組合理事長、桑名商工会長、桑名郡動力組合長、桑名郡水産会長などをつとめる。
篠原 英太郎(しのはら えいたろう、1885年(明治18年)… 篠原 英太郎(しのはら えいたろう、1885年(明治18年)10月10日 - 1955年(昭和30年)3月7日)は、日本の内務官僚。林内閣の内務次官、官選県知事、京都市長。 長野県木曽郡木祖村出身。篠原武兵衛の五男として生まれる。第三高等学校を経て、1911年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業し、内務省に入り山梨県属となる。1912年11月、文官高等試験に合格した。 以後、石川県理事官、朝鮮総督府殖産局土地改良課長、内務省大臣官房文書課長、同都市計画課長、北海道庁土木部長などを歴任。 1927年5月、山形県知事に就任。1929年10月、文部省普通学務局長に転じた。1931年12月、岡山県知事に就任。
周防 正季(すおう まさすえ、1885年10月8日 - 19… 周防 正季(すおう まさすえ、1885年10月8日 - 1942年6月20日)は、日本人医師、朝鮮総督府らい療養所小鹿島更生園園長。当時世界最大規模の療養所を作り上げたが、強制隔離政策、患者待遇悪化、植民地支配に対する反感などがあり、患者に刺殺された。 1885年10月8日に滋賀県栗太郡老上村字矢橋(現在の草津市矢橋町)に大神家の3男として出生。医家周防氏の養子となる。滋賀県立第一中学校(現在の滋賀県立彦根東高等学校)を経て愛知県立医学専門学校(現在の名古屋大学医学部)、1909年(明治42年)卒業。県立岡崎病院外科、内務省防疫官補、開業、1916年(大正5年)滋賀県技師衛生主事、1919年(大正8年)愛知県技師学校衛生主事。
渡 久雄(わたり ひさお、1885年(明治18年)10月7日… 渡 久雄(わたり ひさお、1885年(明治18年)10月7日 - 1939年(昭和14年)1月2日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。
長谷部 鋭吉(はせべ えいきち、1885年10月7日 - 1… 長谷部 鋭吉(はせべ えいきち、1885年10月7日 - 1960年10月24日)は日本の建築家、実業家。住友銀行本店などを手掛ける。 東京都出身(北海道生まれ)。住友総本店出身で、日建設計の母体の長谷部竹腰建築事務所の竹腰健造と共に創業者の1人である。大阪市北浜の住友ビルディング(旧住友銀行本店・現三井住友銀行大阪本店)や千代田区の日本神学校(現東京ルーテルセンター教会)などが代表作として知られている。
西出 朝風(にしで ちょうふう、1885年〈明治18年〉10… 西出 朝風(にしで ちょうふう、1885年〈明治18年〉10月6日 - 1943年〈昭和18年〉3月14日)は、口語歌人。本名:西出一(つかさ)。 大聖寺耳聞山(現・石川県加賀市)出身。父の孫一は橋立(現加賀市)で代々北前船業を営む西出家の9代西出孫左衛門の長男であったが、家督相続を許されず、大聖寺に分家した。 朝風は石川県立金沢第一中学校(現在の石川県立金沢泉丘高等学校)から慶應義塾(普通部)に進学し、後に中退した。 明治30年代から口語歌を発表。1910年(明治43年)には同じ詩人の西出うつ木と結婚し、1914年(大正3年)「新短歌と新俳句」を創刊。1915年(大正4年)、金沢の北国新聞社に入社し、紙上で、若い歌人に口語短歌への影響を与えた。
江坂 徳蔵(えさか とくぞう、1885年〈明治18年〉10月… 江坂 徳蔵(えさか とくぞう、1885年〈明治18年〉10月4日 - 1964年〈昭和39年〉8月14日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍機関少将。新潟県高田市長。 新潟県中頸城郡高田町(のち高田市、現・上越市)生まれ。旧制高田中学(現・新潟県立高田高等学校)卒業後、海軍機関学校に入り、1911年(明治44年)卒業する(16期)。戦艦「山城」機関長などを歴任し、1927年(昭和2年)、海軍機関大佐に進級、第3戦隊、練習艦隊、第2艦隊、連合艦隊の各機関長を務め、1933年(昭和8年)海軍機関少将に進級、燃料廠平壌鉱業部長に就任し、1936年(昭和11年)3月、予備役となった。同年7月4日、郷里の高田市長に就任した。
鈴木 氏亨(すずき しこう、1885年〈明治18年〉10月4… 鈴木 氏亨(すずき しこう、1885年〈明治18年〉10月4日 – 1948年〈昭和23年〉1月15日)は、日本の新聞記者、編集者。菊池寛の秘書を務めたのち、1923年に創刊された月刊誌『文藝春秋』の編集に加わり、のちに文藝春秋社の専務取締役を務めた。 1885年(明治18年)10月4日、宮城県仙台市に生まれる。早稲田大学を卒業後、文芸誌『新小説』の記者として編集・執筆の道に入った。 1923年(大正12年)、菊池寛が創刊した『文藝春秋』に編集同人として参加。創刊号には「時代は移る」を寄稿している。以後、編集・経営の両面で同誌の発行体制を支え、専務取締役に就任した。 1948年(昭和23年)1月15日、長野県軽井沢の自宅にて死去。
小池 正彪(こいけ まさとら、明治18年(1885年)10月… 小池 正彪(こいけ まさとら、明治18年(1885年)10月2日 - 昭和36年(1961年)3月31日)は男爵・小池正直の次男。東京市小石川(現・東京都文京区小石川)出身。三井信託会長を経て、1943年に引責辞任した向井忠晴三井物産会長の後任に内定していた住井辰男が、健康上の理由で就任を辞退したため、急遽三井物産会長に就任した。1944年退任し三井本社・代表取締役常務理事に就任。戦後、公職追放となる。
石川 登盛(いしかわ ともり、1885年〈明治18年〉10月… 石川 登盛(いしかわ ともり、1885年〈明治18年〉10月1日 - 1953年〈昭和28年〉1月10日)は、朝鮮総督府官僚。実業家。旧姓は菊地。 岩手県東磐井郡砂子田村字前川原(八沢村、藤沢町を経て、現一関市)出身。菊地宇太郎、とめの三男。1908年(明治41年)代言人の石川銀作の養子となる。1912年(明治45年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、高等文官試験に合格した。岩手県警部、西磐井郡長、岩手県理事官を務め、1913年(大正2年)に朝鮮総督府事務官に転じた。全羅北道第二部長、同警察部長、警務局保安課長、同衛生課長、同警務課長兼図書課長を歴任し、1929年(昭和4年)に平安北道知事に就任した。
田中 無事生(たなか ぶじお、1885年(明治18年)10月… 田中 無事生(たなか ぶじお、1885年(明治18年)10月 - 没年不詳)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事、福岡県若松市長。 三重県出身。田中健造の長男として生まれる。無事に育つようにと「無事生」と命名された。第七高等学校造士館を卒業。1910年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1911年、内務省に入省し京都府属となる。 以後、京都府竹野郡長、同府南桑田郡長、滋賀県理事官、徳島県警察部長、鳥取県書記官・内務部長、大分県書記官・内務部長、滋賀県書記官・内務部長、長野県書記官・内務部長などを歴任。「万年内務部長」といわれた。 濱口内閣により1929年7月5日、高知県知事に登用された。
福岡 易之助(ふくおか やすのすけ、1885年9月28日 -… 福岡 易之助(ふくおか やすのすけ、1885年9月28日 - 1931年2月8日)は、白水社の創業者。現在の秋田県横手市(旧雄物川町福地)出身。俳号は雄川。 秋田県平鹿郡福地村深井(現・横手市雄物川町)の造り酒屋で、二百町歩の小作地に広大な山林を持つ素封家の長男として生まれる。旧制第三中学校(現秋田県立横手高等学校)から旧制第一高等学校を経て、東京帝国大学仏文科を卒業した。 在学中に父が逝去したため、明治43年(1910年)の卒業後に帰郷し酒造業を継ぎ、農業振興にも力を入れる。大正3年(1914年)に郡会議員となるが、しがらみや因習に疲れ辞職。1917年、農業振興に見切りをつけ上京。 白水社を興してフランス文学の普及につとめる。
斎藤 弥平太(さいとう やへいた、1885年(明治18年)9… 斎藤 弥平太(さいとう やへいた、1885年(明治18年)9月28日 - 没年不詳(1953年(昭和28年)9月28日、戦時死亡宣告))は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。位階および勲等は正三位・勲一等。 香川県三野郡上高野村(現 三豊市豊中町)出身。農業・斎藤浜太郎の次男として生れる。 旧制香川県立三豊中学校(第1回)を経て、1907年(明治40年)5月、陸軍士官学校(19期)を卒業。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第12連隊付となる。1914年(大正3年)11月、陸軍大学校(26期)を卒業した。 参謀本部付勤務、第18師団参謀、参謀本部員などを経て、1923年(大正12年)5月から12月まで欧州に出張した。
田所 哲太郎(たどころ てつたろう、1885年9月27日 -… 田所 哲太郎(たどころ てつたろう、1885年9月27日 - 1980年3月20日)は、日本の農学者・化学者。学位は、農学博士・理学博士(東北帝国大学)。 北海道学芸大学・帯広畜産大学・北海道女子短期大学の学長を歴任。 秋田県能代市生まれ。1910年、東北帝国大学農科大学(現・北海道大学農学部)卒業、同大学助手。1911年、同助教授。1919年農学博士の学位を取得。1921年、北海道帝国大学教授。1928年、東北帝国大学より理学博士の学位を取得、学位論文の題は「Sex differences, from the stand-point of biochemistry(生物化學上に於ける性的差異)」。
塚田 公太(つかだ こうた、1885年9月27日 - 196… 塚田 公太(つかだ こうた、1885年9月27日 - 1966年6月9日)は日本の実業家。東洋棉花会長、日本織物統制社長、貿易庁長官、倉敷紡績社長、同会長等を務めた。藍綬褒章受章。 新潟県出身。東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。三井物産ボンベイ支店員等を経て、三井物産綿花部が独立した東洋棉花に移り、ムンバイ支店長、常務、専務などを経て、1940年東洋綿花会長に就任。1943年トヨタ自動車工業監査役。 日本織物統制社長を経て、1946年公職追放された三井物産出身の向井忠晴に代わり貿易庁長官についたが、その後公職追放となる。 1951年倉敷紡績社長。1955年倉敷紡績会長。日本経営者連盟(のちの日本経営者団体連盟)常任理事等も務めた。
小早川 秋聲(こばやかわ しゅうせい、秋声とも、1885年(… 小早川 秋聲(こばやかわ しゅうせい、秋声とも、1885年(明治18年)9月26日 - 1974年(昭和49年)2月6日)は、大正から昭和中期にかけて活動した日本画家。文展・帝展を中心として活躍、今日では《國之楯》を始めとする戦争画で知られている。 鳥取県日野郡日野町黒坂の光徳寺住職、小早川鐵僊の長男として、母・幸子の実家、神戸市の九鬼隆義子爵邸内で生まれる。本名は盈麿(みつまろ)。秋聲の号は、青年時代に愛読していた『古文真宝』収録の歐陽修の詩「秋聲賦」から取ったという。父は京都東本願寺の事務局長を勤め、母は元摂津三田藩九鬼隆義の妹である。幼少時代を神戸で過ごす。弟の小早川好古も日本画家である。
古賀 峯一(こが みねいち、1885年(明治18年)9月25… 古賀 峯一(こが みねいち、1885年(明治18年)9月25日 - 1944年(昭和19年)3月31日)は、日本の海軍軍人。最終階級は元帥海軍大将。海兵34期・海大15期。連合艦隊司令長官在職中に海軍乙事件にて殉職。 1885年(明治18年)9月25日、佐賀県西松浦郡有田村(現・有田町泉山)に生まれる。生家は現存し(2020年現在)、生家前には2002年に記念碑が建立されている。佐賀中学校在学時には、誠友団と名づけた交友団体に属していた。会員には吉田善吾(海兵32期)や小説家の下村湖人がおり、下村の『次郎物語』に登場する新賀峯雄は古賀である。 1903年(明治36年)12月17日、海軍兵学校(34期)に、席次195名中29番で入校。
片桐 英吉(かたぎり えいきち、1885年9月24日 - 1… 片桐 英吉(かたぎり えいきち、1885年9月24日 - 1972年8月16日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 山形県米沢市出身。片桐作吉の長男として生まれる。米沢中学校を経て、1906年11月、海軍兵学校(34期)を卒業し、翌年12月に海軍少尉任官。海軍砲術学校高等科を卒業し、「摂津」分隊長、「厳島」分隊長、砲術学校教官などを経て、1918年11月、海軍大学校(甲種16期)を卒業。以後、第2水雷戦隊参謀、軍令部出仕兼参謀、「摂津」砲術長、「出雲」砲術長、海兵教官、海軍省教育局第1課局員などを歴任。 さらに、欧米出張、「大井」艦長、「青葉」艦長、教育局第1課長、「榛名」艦長などを経て、1933年11月、海軍少将に進級。
島田 茂(しまだ しげる、1885年9月22日 - 1953… 島田 茂(しまだ しげる、1885年9月22日 - 1953年9月26日)は、昭和時代の日本の大蔵省官僚。台湾銀行頭取。 岡山県出身。旧制津山中学校卒業。東京帝国大学卒業後、大蔵省入省。書記官、特別銀行課長等を経て、1927年に台湾銀行頭取となり、昭和金融恐慌で休業に陥った同行の再建にあたった。1934年に帝人事件で逮捕され辞職した。
船越 作一郎(ふなこし さくいちろう、1885年〈明治18年… 船越 作一郎(ふなこし さくいちろう、1885年〈明治18年〉9月20日 - 1967年〈昭和42年〉5月14日)は、日本の実業家、政治家、鳥取県多額納税者、地主。船越合名会社社主。日本クローム工業社長。鳥取県会議員(政友会系中立→中立)。 鳥取県米子市出身。船越熊治郎の長男。1909年、家督を相続する。1907年、早稲田大学専門部政経科を卒業。鉱山業に従事。また貸金業を営む。 1915年、鳥取県議に当選し、少壯團を組織。1925年9月に鳥取県立米子工業学校建築費金1千円を寄附したため1928年8月14日に褒状が下賜される。1927年、米子市議に当選。 『陰陽八郡郡勢一斑』によると、船越の人柄は「資性活達、荘重明敏で、義気に富む」という。
斎藤 茂八(齋藤 茂八、さいとう もはち、1885年〈明治1… 斎藤 茂八(齋藤 茂八、さいとう もはち、1885年〈明治18年〉9月18日 - 1964年〈昭和39年〉8月19日)は、日本の地方政治家、薬剤師、俳人。埼玉県熊谷町長・熊谷市長を務めた。位階は従六位。勲五等瑞宝章。 幼名は清治、俳号は「紫石」。 埼玉県大里郡熊谷町鎌倉町(現・熊谷市)で斎藤今助の長男として生まれた。実家は薬種商だった。 旧制埼玉県立熊谷中学校(現・埼玉県立熊谷高等学校、1902年卒業)を経て、旧制千葉医学専門学校薬学科(現・千葉大学薬学部薬学科)を卒業し家業を継いだ。 1912年(明治45年)青年組織壬子倶楽部を結成し政治活動を始めた。1913年(大正2年)から熊谷町会議員に2期在任。
加藤 守道(かとう もりみち、1885年〈明治18年〉9月1… 加藤 守道(かとう もりみち、1885年〈明治18年〉9月17日 - 1960年〈昭和35年〉8月17日)は、愛知県豊川市長。東京市区長。基隆市尹。 新潟県新潟市出身。加藤久之助の二男。1906年(明治39年)、新潟県北辰館中学科を卒業し、1909年(明治42年)に文官普通試験に合格した。日本大学中退。新潟県中魚沼郡書記、同南蒲原郡書記、北海道庁長官官房勤務、岩手県九戸郡長、東磐井郡長、下閉伊支庁長を歴任。1928年(昭和3年)、基隆市尹に転じた。 退官後、東京市に入って中野区長、教育局庶務課長、神田区長、日本橋区長を歴任。退任後の1942年(昭和17年)から、川村女学院理事を務めた。1943年(昭和18年)、初代豊川市長に就任した。
豊田 実(とよだ みのる、1885年9月16日 - 1972… 豊田 実(とよだ みのる、1885年9月16日 - 1972年11月22日)は、英語学者、英文学者。
黒田 政一(くろだ まさいち、1885年(明治18年)9月1… 黒田 政一(くろだ まさいち、1885年(明治18年)9月13日 - 1975年(昭和50年)8月4日)は、明治から昭和時代前期の政治家、警察官。愛媛県松山市長、温泉郡三津浜町町長。 愛媛県和気郡新浜村(現・松山市新浜町)で生まれる。 1909年(明治42年)愛媛県巡査となり、1924年(大正13年)壬生川警察署長、1927年(昭和2年)宇和島警察署長、1929年(昭和4年)松山警察署長、1931年(昭和6年)県社寺兵事課長を歴任し、1935年(昭和10年)退職する。同年7月、松山市収入役に転じ、1939年(昭和14年)2月、三津浜町助役を経て、翌月同町長に就任する。さらに松山市との合併に伴い、1940年(昭和15年)10月、同市助役となり、1946年(昭和21年)3月29日に松山市長に就任。
船越 逸平(ふなこし いっぺい、1885年〈明治18年〉9月… 船越 逸平(ふなこし いっぺい、1885年〈明治18年〉9月12日 - 没年不詳)は、日本の実業家。家業である石灰製造業を継いだのち、富岡無尽株式会社の初代社長となった。徳島県那賀郡富岡町出身。旧名・幸平。 1918年富岡無尽合資会社代表社員に就任し、1936年5月24日に株式会社へと組織変更された富岡無尽株式会社の初代社長に就任。 就任から3ヶ月後の8月23日代表取締役を退任。二代目社長として石灰業者として最大の事業規模を持つ樫野恒太郎が富岡無尽株式会社の経営を立て直した。 その後、町会議員や徳島相互銀行社長、徳島空港ビル株式会社取締役会長を歴任した。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
飯田 精太郎(いいだ せいたろう、1885年(明治17年)9… 飯田 精太郎(いいだ せいたろう、1885年(明治17年)9月8日 - 1952年(昭和27年)3月7日)は、明治末から昭和前期の鉄道技術者、政治家、華族。貴族院男爵議員、参議院議員。 山口県出身。陸軍士官・飯田俊助、マサ夫妻の長男として生まれる。1907年(明治40年)京都帝国大学理工科大学電気工学科を卒業。父・俊助の死去に伴い、1914年(大正3年)4月23日、家督を相続し男爵を襲爵した。 1908年(明治41年)臨時台湾工事部嘱託に就任。以後、臨時台湾工事部技師、鉄道技師、鉄道省新橋電力事務所長、同東京電気事務所長、同電気局長、運輸通信次官、技術院参与、鉄道電気工業 (株) 相談役、鉄道電化協会会長、鉄道会議議員、工作機械製造事業委員会委員、帝都高速度交通営団評議員、産業設備評価中央委員会委員などを務めた。
2代目神田 松鯉(かんだ しょうり、1885年(明治18年)… 2代目神田 松鯉(かんだ しょうり、1885年(明治18年)9月8日 - 1967年(昭和42年)4月22日)は、明治時代から昭和時代にかけて活躍した講談師。本名、玉川悦太郎。初代神田松鯉の子。 東京港区芝源助町に生まれた後、京橋五郎兵衛町に転居。1895年、父の門下として高座に上がり、神田悦山を名乗る。1905年から神田小伯山を名乗り、1921年、2代目神田松鯉を襲名。1965年、勲五等双光旭日章受章。 道楽者として有名であり、講談の途中に駄洒落を入れるのが特徴だった。阿部主計は「単調でダラダラと粘った口調のリズムや、抑揚も立体感もない退屈な演技」と評した。6代目三遊亭圓生は「なぜ落語家にならなかったのか」と惜しんだ。
斎藤 与里(さいとう より、1885年(明治18年)9月7日… 斎藤 与里(さいとう より、1885年(明治18年)9月7日-1959年(昭和34年)5月3日)は、大正・昭和期の洋画家、美術評論家。
池田 大伍(いけだ だいご、1885年(明治18年)9月6日… 池田 大伍(いけだ だいご、1885年(明治18年)9月6日 - 1942年(昭和17年)1月8日)は、歌舞伎の劇作家、劇評家、翻訳家。甥は池田弥三郎。 池田鉸三郎・乃婦の次男に生まれた。家は幕末から続く銀座の天ぷら屋「天金」で、兄が金太郎、本人の幼名が銀次郎だった。1891年から私塾の鍋町小学校に通い、公立の麹町小学校を卒業した。その後商工中学を経て、1907年早稲田大学英文科を卒業した。東京毎日新聞の劇評を2年書いた後、1911年(明治44年)、坪内逍遙らの文芸協会の演芸主事となった。1913年(大正2年)の文芸協会解散後は、東儀鉄笛・土肥春曙らと劇団「無名会」を組織し、翌1914年、第一作『滝口時頼』を上演した。
大屋 敦(おおや あつし、明治18年(1885年)9月5日 … 大屋 敦(おおや あつし、明治18年(1885年)9月5日 - 昭和45年(1970年)8月18日)は、日本の実業家。元住友化学工業社長。
鈴木 文治(すずき ぶんじ、男性、1885年(明治18年)9… 鈴木 文治(すずき ぶんじ、男性、1885年(明治18年)9月4日 - 1946年(昭和21年)3月12日)は、大正から昭和期の政治家、労働運動家。友愛会創始者。日本の労働運動の草分け的存在といわれる。 宮城県栗原郡金成村(現・栗原市)の旧家鈴木益治の長男として生まれる。10歳の頃に父親とともにキリスト教に入信。宮城県尋常中学校志田郡立分校(現・宮城県古川高等学校)を卒業後、旧制山口高等学校に入学。中学卒業前後に家業が傾き、高校時代苦学するなかで、在野のキリスト教伝道師本間俊平の影響により、社会問題に目覚めていく。東京帝国大学法科大学政治学科に入学後は、同郷の先輩である吉野作造とともに、海老名弾正率いる組合派の本郷教会に所属する。
吉田 茂(よしだ しげる、1885年〈明治18年〉9月2日 … 吉田 茂(よしだ しげる、1885年〈明治18年〉9月2日 - 1954年〈昭和29年〉12月9日)は、昭和時代の内務官僚、政治家。貴族院議員。 岡田内閣の内閣書記官長、米内内閣と小磯内閣で閣僚を務めた。「新官僚」。戦後、神社本庁設立に関わる。同時期に公職追放にあう。 同時代の外務官僚で、戦後に内閣総理大臣を務めた吉田茂は同姓同名の別人。(#同姓同名参照) 大分県臼杵町海添(現在の臼杵市)生まれ。大分県士族・吉田亀次郎の長男。父親の亀次郎が二十三銀行(大分銀行の前進)に勤めた関係で大分に移り、ついで日本銀行に勤務する事になり、東京に移り住み、旧制東京府立第四中学校(現在の東京都立戸山高等学校)、第一高等学校を経て、1911年に東京帝国大学法科大学独法科を卒業。
渡辺 孫一郎(わたなべ まごいちろう、1885年〈明治18年… 渡辺 孫一郎(わたなべ まごいちろう、1885年〈明治18年〉9月1日 - 1955年〈昭和30年〉6月12日)は、明治から昭和時代にかけての日本の数学者。専門は解析学および確率論で、「確率」という用語の普及に寄与した。 渡辺藤太の長男として栃木県下都賀郡木村(のち赤津村、現在の栃木市都賀町木)に生まれる。実家は酒造業であるという。栃木中学校を経て、1908年(明治41年)東京帝国大学理学部数学科卒業。 1911年(明治44年)、第八高等学校数学教授となる。八高では視察にきた林鶴一から講義を酷評されたため、心配した校長が付近の中学校に出張させ、本人も真面目に講義法を見学したが、一向に変化がなかったという。
吉岡 信敬(よしおか しんけい/のぶよし、1885年〈明治1… 吉岡 信敬(よしおか しんけい/のぶよし、1885年〈明治18年〉9月1日 - 1940年〈昭和15年〉12月7日)は、日本の応援団員、新聞記者。早稲田大学の応援隊長として「虎鬚彌次将軍」の通称で知られ、当時は乃木希典、葦原金次郎と並んで「三大将軍」と呼ばれたほどの人気者だった。 なお、名前の正式な読みは「のぶよし」であるが、一般的には「しんけい」と呼ばれており、また本人もそう称していた。 吉岡信敬は1885年(明治18年)9月1日、父・吉岡湖一郎、母・サヨの三男として生まれた。 出生は山口県萩城下河添村説と東京府小石川区(現・東京都文京区)説があり、正確なところは分かっていない。ただ、吉岡家はもともと萩に住んでいたが信敬が小学校に上がる頃には小石川に住んでいた、ということは確かである。
菊沢 季麿(きくざわ すえまろ、1885年(明治18年)9月… 菊沢 季麿(きくざわ すえまろ、1885年(明治18年)9月1日 - 1936年(昭和11年)11月20日)は、日本の文部官僚。旧制浦和高等学校校長。 滋賀県に華房誓因の四男として生まれ、菊沢保孝の養子となった。1913年(大正2年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、高等文官試験に合格した。鳥取県理事官、東北帝国大学事務官、文部事務官、同書記官・東京帝国大学書記官兼秘書官、文部省宗教局長・大臣官房秘書課長を歴任した後、浦和高等学校校長となった。
荒井 陸男(あらい ろくお、1885年9月1日 - 1972… 荒井 陸男(あらい ろくお、1885年9月1日 - 1972年7月6日)は、日本の洋画家。代表作に明治神宮絵画館の壁画『水師営の会見』。 1885年(明治18年)、幕末の元海軍奉行、荒井郁之助の六男として東京、芝区で生れる。旧制麻布中学校、日本中学校、同志社などで学ぶが、画家へのあこがれが強く1909年(明治42年)イギリスへ渡りロンドンの美術学校に学ぶ。 1914年(大正3年)、第一次世界大戦の海軍従軍画家として海洋画を描く。これを機会に戦争画を描く機会が増え第一人者となる。1928年(昭和3年)『旅順開城、乃木大将とステッセル会見の図』(明治神宮絵画館所蔵)完成。1938年(昭和13年)、オーストラリアに取材に出掛け、翌年までに第一次世界大戦中にインド洋で行われた日英協同作戦の様子『軍艦伊吹、豪州ニュージランド軍隊護衛』を描く。
小西 恭介(こにし きょうすけ、1885年(明治18年)9月… 小西 恭介(こにし きょうすけ、1885年(明治18年)9月 - 没年不詳)は、台湾総督府官僚、朝鮮総督府官僚。弁護士。 京都府出身。1910年(明治43年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、高等文官試験に合格した。台湾総督府専売局事務官となり、1913年(大正12年)に欧米に出張した。帰国後、台湾総督府税関事務官・基隆支署長、民政部土木局庶務課長を歴任。1923年(大正12年)、朝鮮に渡って釜山府尹に転じ、さらに江原道内務部長、鉄道局参事を歴任した。1929年(昭和4年)に退官したが、1934年(昭和9年)に朝鮮総督府嘱託となり、在外朝鮮人の保護事務を担当した。 また弁護士を開業し、釜山製氷冷蔵株式会社常任取締役、満洲生活必需品株式会社釜山事務所長、満州国消費組合専務理事を務めた。
三好 英之(みよし ひでゆき、旧名栄次郎、明治18年(188… 三好 英之(みよし ひでゆき、旧名栄次郎、明治18年(1885年)8月29日 - 昭和31年(1956年)2月14日)は、日本の実業家、政治家。元衆議院議員、参議院議員。元国務大臣北海道開発庁長官。鳥取県米子市名誉市民。三好家第10代当主。鳥取県平民。 大正13年(1924年)衆議院議員に初当選し、戦前に6回の当選を重ねた。地元振興の貢献としては、山陰鉄道開通記念の博覧会に尽力したのをはじめ、山陰実業銀行を設立、戦後はラジオ山陰(現山陰放送)の開局に携わるなど調整能力、行動力は抜群であった。家系は清和源氏、小笠原氏の支流・三好氏。 米子道笑町の商家に生まれる。三好常次郎の次男。 県立第二中学校(現米子東高校)、東京の京華中学を経て明治39年(1906年)に早稲田大学政治経済科を卒業。
海野 普吉(うんの しんきち、1885年(明治18年)8月2… 海野 普吉(うんの しんきち、1885年(明治18年)8月29日 - 1968年(昭和43年)7月6日)は、昭和戦前・戦後の社会派、自由人権派の弁護士。 多くの思想裁判・政治裁判の弁護をする。戦後は社会運動も行う。戦後初の最高裁判事も受けず、親友の片山哲内閣の法務大臣も受けず、一貫して在野の弁護士であることを貫く。
山井 基清(やまのい もときよ、1885年8月29日 - 1… 山井 基清(やまのい もときよ、1885年8月29日 - 1970年12月8日)は、日本の雅楽師、ヴァイオリニスト、ヴィオリスト、作曲家、音楽教師。 山井基万(もとかず)の三男として生まれる。1898年より宮内省式部職雅楽部楽生となり、式部職雇音楽教師ヴィルヘルム・ドゥブラヴチッチ(1901年に来日)、安藤幸、アウグスト・ユンケルにヴァイオリンを師事する。楽生として左舞、笛、箏、ヴァイオリン、ヴィオラを担当した。1908年に東京音楽学校器楽科を卒業し、同年に式部職楽部楽手、1909年に楽師となる。1922年に長男の山井清雄(すみお)が生まれる。1922年に芝忠重とともにドイツに留学して1924年に帰国。
中谷 秀(なかたに しゅう、1885年(明治18年)8月29… 中谷 秀(なかたに しゅう、1885年(明治18年)8月29日 - 1973年(昭和48年)9月11日)は、日本の内務官僚。官選鳥取県知事。 島根県那賀郡渡津村(江津町を経て現江津市)出身。中谷初十郎の四男として生まれる。1913年(大正2年)に明治大学法科を卒業し、高等文官試験に合格。愛媛県属、愛媛県理事官、山口県理事官、長崎県理事官、奈良県警察部長、富山県警察部長、石川県内務部長、岩手県内務部長、愛知県内務部長などを歴任。1934年(昭和9年)に第28代鳥取県知事に就任し、室戸台風復興に尽力した。1936年(昭和11年)、退官。退官後は出雲電気株式会社専務、同副社長に就任した。のち全国購買販売組合連合会専務理事、農村科学研究所所長、日本澱粉株式会社監査役、東洋組網工業株式会社顧問、大隈鉄工所株式会社顧問を務めた。
村岡 吾一(むらおか ごいち、1885年(明治18年)8月2… 村岡 吾一(むらおか ごいち、1885年(明治18年)8月28日 - 1952年(昭和27年)1月2日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)。弁護士。 山口県大島郡蒲野村(現在の周防大島町)出身。村役場に勤務の後、1906年(明治39年)に裁判所書記試験に合格した。1907年(明治40年)に日本大学を卒業した後は、通信手や東京地方裁判所書記を務めるかたわら、日本大学高等専攻科に在籍した。1910年(明治43年)、弁護士試験に合格し、江木衷の事務所に勤務した。その後、下関市に事務所を開き、後には山口弁護士会長に選出された。下関市会議員、同議長、山口県会議員を歴任。 1930年(昭和5年)、第17回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
武原 熊吉(たけはら くまきち、1885年8月26日 - 1… 武原 熊吉(たけはら くまきち、1885年8月26日 - 1957年4月19日)は、日本の化学者。 青森県青森市出身。1908年東京帝国大学理科大学化学科卒。1909年東北帝国大学農学部教授、1920年東京高等師範学校教授、1949年東京教育大学教授、1950年定年退官、名誉教授。1943年日本化学会会長。
六代目 尾上 菊五郎(おのえ きくごろう、1885年〈明治1… 六代目 尾上 菊五郎(おのえ きくごろう、1885年〈明治18年〉8月26日 - 1949年〈昭和24年〉7月10日)は大正・昭和時代に活躍した歌舞伎役者。屋号は音羽屋。定紋は重ね扇に抱き柏、替紋は四つ輪。俳名に三朝がある。本名は寺島 幸三(てらしま こうぞう)。 初代中村吉右衛門とともに、いわゆる「菊吉時代」の全盛期を築いた。歌舞伎界で単に六代目(ろくだいめ)と言うと、通常はこの六代目尾上菊五郎のことを指す。 五代目尾上菊五郎の長男。母は元柳橋の芸者で権妻の秋田ぎん。実弟に六代目坂東彦三郎、義兄に六代目尾上梅幸がいる。 辞世の句は「まだ足らぬ 踊りおどりて あの世まで」。 立役も女形もこなしたが、殊に九代目市川團十郎に仕込まれたこともあり、『藤娘』の藤の精や『京鹿子娘道成寺』の白拍子花子などの娘役の舞踊を得意としていた。
小熊 捍(おぐま まもる、1885年8月24日 - 1971… 小熊 捍(おぐま まもる、1885年8月24日 - 1971年9月10日)は、日本の昆虫学者、遺伝学者(農学博士)。 東京府出身。中学時代に松村松年に刺激を受け、1903年、東京府立第一中学校(現・東京都立日比谷高等学校)から札幌農学校に進学。1911年、東北帝国大学農科大学農学科(現・北海道大学農学部)を卒業し、農業生物学教室教員となる。1922年から2年間、イギリス・ドイツ・ベルギーへと留学。1929年、八田三郎教授の定年退職に伴い、北海道帝国大学農学部動物学昆虫学養蚕学第一講座教授となる。翌1930年、同大学に新設された理学部動物学科教授に移動し、第一講座の後任には犬飼哲夫が就任した。トンボの研究の権威として知られた。