5代目 古今亭 今輔(ここんてい いますけ、1898年〈明治… 5代目 古今亭 今輔(ここんてい いますけ、1898年〈明治31年〉6月12日 - 1976年〈昭和51年〉12月10日)は、群馬県佐波郡境町(現:伊勢崎市)出身の落語家。本名:鈴木 梧郎(旧姓:斎藤、旧名:五郎)。日本芸術協会会長を務めた。出囃子は『野毛山』。実子は曲芸師の鏡味健二郎。俗にいう「お婆さん落語」で売り出し、「お婆さんの今輔」と呼ばれた。 群馬県佐波郡境町の銘仙織元「藤本屋」の斎藤松右太・かんの三男として生まれる。第5子であったことから五郎と名付けられる。母は1904年(明治37年)に死去。自身は太田中学校、陸軍士官学校と進学し、軍人になることを望んでいたが、父が米相場に手を出して失敗したことにより、進学の道は諦めることとなった。
田中 薫(たなか かおる、1898年6月11日 - 1982… 田中 薫(たなか かおる、1898年6月11日 - 1982年9月20日)は、昭和の地理学、経済地理学者。神戸大学名誉教授。子爵。
守屋 富次郎(もりや とみじろう、1898年6月10日 - … 守屋 富次郎(もりや とみじろう、1898年6月10日 - 1974年3月2日)は、日本の航空技術者。東京帝国大学、名古屋帝国大学、旅順工科大学教授、防衛庁技術研究所本部長、日本航空学会(現・日本航空宇宙学会)会長などを務めた。東京大学名誉教授。航空機の翼理論の権威。 岐阜県本巣郡真桑村上真桑に生誕。静岡県立静岡中学校に学ぶ。中学時代は野球部に所属。旧制第八高等学校を経て、東京帝国大学に入学。新設された同大工学部航空学科の第1期生。1923年3月、卒業論文「Die Tragflügeltheorie.」(翼理論)を提出して卒業。東京帝国大学の講師、助教授を経て、1934年、教授。1938年、万国応用力学会議に日本代表として参加、ヨーロッパの航空事情の調査・研究を行った。
安倍 三郎(あべ さぶろう、1898年6月6日 - 1974… 安倍 三郎(あべ さぶろう、1898年6月6日 - 1974年5月7日)は、日本の心理学者。旧姓は島田、1924年から母方の安倍姓を名乗る。 1898年、岩手県下閉伊郡山田町で生まれた。1929年、卒業論文『二時程比較之研究』を提出して東北大学法文学部心理学科を卒業。 1935年3月、師道高等学校教授に就いた。1939年3月、満州国立建国大学教授に就任。1940年に学位論文『時間意識の実験的研究』を東北帝国大学に提出して文学博士号を取得 (勅令第200号による)。 戦後は1946年8月に引揚帰国する。1947年広島文理科大学・広島高等師範学校教授となるが、間もなく公職追放のため辞職。東北大学教養部教授となり、1962年に定年退官、名誉教授となる。
長谷川 茂雄(はせがわ しげお、1898年(明治31年)6月… 長谷川 茂雄(はせがわ しげお、1898年(明治31年)6月6日 - 1988年(昭和63年)7月22日[要出典])は、昭和時代前期の台湾総督府官僚、陸軍司政官。嘉義市尹、ジャカルタ市長。 東京市本郷区春木町(現・文京区本郷三丁目)に生まれる。1921年(大正10年)3月、東京高等商業学校を卒業し、同年11月、台湾総督府財務局金融課に奉職する。 1929年(昭和4年)10月、高等試験行政科に合格し、1931年(昭和6年)7月に地方理事官に進み、高雄州知事官房税務課長に発令される。1933年(昭和8年)9月、台中州知事官房税務課長に転じ、1934年(昭和9年)9月、台湾総督府税関事務官・財務局勤務、1935年(昭和10年)9月に東勢郡守を経て、1936年(昭和11年)10月に彰化郡守に就任する。
岡 正雄(おか まさお、1898年(明治31年)6月5日 -… 岡 正雄(おか まさお、1898年(明治31年)6月5日 - 1982年(昭和57年)12月5日)は、日本の民族学者。戦中戦後を通じて日本の民族学・文化人類学を主導した。兄は民族学や考古学、山岳書の名著を多数出版した岡書院店主の岡茂雄。息子に文化人類学者の岡千曲。
金子 博信(かねこ ひろのぶ、1898年6月5日 - 198… 金子 博信(かねこ ひろのぶ、1898年6月5日 - 1988年8月17日)は、日本の洋画家。 福岡県久留米市出身。1924年に東京美術学校西洋画科を卒業した。安井曾太郎に師事した。卒業後は地元に戻っていたが、同窓の佐伯祐三がフランスで成功すると東京に移住した。 1928年の第17回二科展に初めて出品し、その後も出品を続けた。 1936年に一水会創立後は同会に所属し、1941年に一水会賞を受賞した。後に一水会の会員や常任委員にもなった。 1936年ベルリンオリンピックの芸術競技の絵画種目に「柔道」という題名の作品を出品している。
坂田 重保(さかた しげやす、1898年(明治31年)6月4… 坂田 重保(さかた しげやす、1898年(明治31年)6月4日 - 1984年(昭和59年)1月6日)は、昭和時代中期~後期の日本の銀行家。親和銀行の頭取を長年務めた。 現在の佐賀県佐賀市諸富町出身。旧制唐津中学校を経てシンガポールにあったアングロ・チャイニーズスクールを卒業後、神戸の鈴木商店に入社。1923年(大正12年)に同社の先輩であった北村徳太郎から招かれ、佐世保商業銀行に移り、為替課長、副支配人を歴任。 1939年9月、佐世保銀行と佐世保商業銀行が合併して、親和銀行が誕生すると、1942年に取締役に選任。常務、専務、副頭取を経て、1960年4月に頭取に就任した。 銀行家には珍しい、豪放磊落で、親分肌の人物であり、北村が政界に転じてからは、46歳の若さで副頭取に就いた坂田が、親和銀行の経営を仕切った。
海野 源蔵(うみの げんぞう、1898年〈明治31年〉6月3… 海野 源蔵(うみの げんぞう、1898年〈明治31年〉6月3日 - 没年不明)は、日本の金融業者、大阪府多額納税者、地主・家主。 大阪府西成郡中津村・海野源太郎の長男。今宮中学校を経て1921年、同志社大学法学部経済科を卒業する。大阪府庁に入り議事課に勤務し、1924年にこれを辞す。金融業、土地家屋賃貸業を営む。 地家主である。貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。1940年、紺綬褒章を下賜される。趣味は囲碁、撞球、浄瑠璃。宗教は真宗。住所は大阪府西成郡中津町下三番、大阪市東淀川区中津浜通4丁目。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
河野 一郎(こうの いちろう、1898年〈明治31年〉6月2… 河野 一郎(こうの いちろう、1898年〈明治31年〉6月2日 - 1965年〈昭和40年〉7月8日)は、日本の政治家。副総理、日本自由党幹事長、自由民主党総務会長。昭和中期の政界実力者の一人。春秋会(河野派)会長、領袖。 新聞記者を経て1932年に政友会の代議士となり、戦後、自由党結成に参加。自由民主党の党人派の代表格として権勢を誇り、その政治行動は「横紙破り」 と呼ばれた。農林大臣、建設大臣、経済企画庁長官、行政管理庁長官、副総理、国務大臣(東京五輪担当)を務め、日ソ国交回復交渉及び漁業交渉に尽力した。総理総裁を狙い、1964年、池田首相退陣後の総裁の座を佐藤栄作と争ったが敗れ、翌年急死した。
大八木 栄治(おおやぎ えいじ、明治31年(1898年)5月… 大八木 栄治(おおやぎ えいじ、明治31年(1898年)5月29日 - 昭和37年(1962年)3月19日)は、日本の画家。大山町教育長。 美術教師を務める傍ら画業に励み、日本画、水彩画、油彩画など多くの作品を残した。代表作に、第9回帝展で入選した『枯れたる向日葵』がある。
荻野 一(おぎの はじめ、1898年5月28日 - 1981… 荻野 一(おぎの はじめ、1898年5月28日 - 1981年11月9日)は、昭和期の実業家、警察官。 1924年、関西大学専門部卒業。警察に入り、警察官として勤務し、後に特高警察を経て、太平洋戦争末期に兵庫県警察部の労務係長を辞した。身長180cm、体重95kgの巨体。日本製鉄出入りの運輸会社富島組に入社し常務となる。終戦直後、GHQから、広島県呉市沖の瀬戸内海に堆積していた旧日本陸海軍の砲弾処理作業を請け負い巨額の富を得る。爆弾を2メートル程度の浅瀬に捨て、処理料を得て、再び掘り出して火薬を抜き去り、抜け殻をスクラップとして売り払い二重にもうけた。これを元手に解散寸前の山陽製鋼(現・山陽特殊製鋼)を1000万円で買収、1948年社長に就任した。
打越 顕太郎(うちこし けんたろう、1898年5月26日 -… 打越 顕太郎(うちこし けんたろう、1898年5月26日 - 1962年6月29日)は、日本の教育者。鳥取県鳥取市出身。協同組合短期大学(1973年廃止)の創設者でもある。 宮部一郎 | 打越顕太郎 | 美土路達雄 | 湯河元威 | 江上繁一
堀 真琴(ほり まこと、1898年(明治31年)5月24日 … 堀 真琴(ほり まこと、1898年(明治31年)5月24日 - 1980年(昭和55年)1月16日)は日本の政治学者、政治家。宮城県出身。
清宮 四郎(きよみや しろう、1898年(明治31年)5月2… 清宮 四郎(きよみや しろう、1898年(明治31年)5月23日 - 1989年(平成元年)10月22日)は、日本の法学者。専門は憲法。学位は、法学博士(東北大学)。東北大学名誉教授。従三位勲二等旭日重光章。宮沢俊義とともに戦後の憲法学界をリードした。日本学士院会員。美濃部達吉門下。弟子に佐間忠雄、樋口陽一など。
木村 吉太郎(きむら きちたろう、1898年(明治31年)5… 木村 吉太郎(きむら きちたろう、1898年(明治31年)5月23日 - 1937年(昭和12年)4月4日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)。サッカー選手。 大阪市南区(現在は浪速区)出身。早稲田大学に学ぶ。大阪サッカー倶楽部部長を務め、極東選手権競技大会・明治神宮競技大会に出場した。大阪府会議員に3度、同参事会員に2度選ばれ、大阪市会議員・同参事会員にも選出された。 1936年(昭和11年)、第19回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 また若槻礼次郎立憲民政党総裁秘書も務めた。
一井 保造(いちい やすぞう、1898年5月22日 - 19… 一井 保造(いちい やすぞう、1898年5月22日 - 1985年3月27日)は、日本の実業家。三井船舶社長や、同社会長、日本船主協会会長などを務めた。 兵庫県神戸市で生糸商伊藤商店の三男として生まれる。のち篠山藩士一井家に養子入りする。兵庫県立神戸商業学校(現兵庫県立神戸商業高等学校)、神戸高等商業学校(現神戸大学)を経て、1923年旧制東京商科大学(現一橋大学)卒業。上田貞次郎ゼミ出身。大学同期に中山伊知郎がいる。 大学卒業後兼松入社。のち三井物産入社。1946年から三井船舶社長を務め、同社を日本郵船とならぶ海運業大手に成長させた。1951年東京水上防火協会初代会長。1954年造船疑獄により逮捕されるが釈放される。
緒方 安雄(おがた やすお、1898年(明治31年)5月20… 緒方 安雄(おがた やすお、1898年(明治31年)5月20日 - 1989年(平成元年)5月22日)は、日本の小児科医。山王病院名誉院長 曾祖父は緒方洪庵。緒方惟準の二男・銈次郎の長男として大阪府に生まれる。母方の祖父は三浦安。弟は緒方富雄。叔父に緒方章と緒方知三郎。五世祖父に佐藤泰然。旧制大阪府立天王寺中学校、旧制第三高等学校を経て、1924年東京帝国大学医学部卒業。1932年「鐵症の実験的研究」で東京帝大医学博士。1937年東宮侍医となり、今上天皇の幼時まで担当医となる。山王病院院長を経て名誉院長。
片倉 衷(かたくら ただし、1898年(明治31年)5月18… 片倉 衷(かたくら ただし、1898年(明治31年)5月18日 - 1991年(平成3年)7月23日)は、日本の陸軍軍人、実業家。最終階級は陸軍少将。戦後は大平商事会長。 仙台に片倉小太郎陸軍大佐の次男として生まれる。熊本中学校、熊本陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て1917年(大正6年)12月に陸軍士官学校(第31期)に入校。1919年(大正8年)5月、同校を卒業し士官候補生、同年12月に陸軍歩兵少尉に任官され、歩兵第27連隊附を命ぜられる。 1922年(大正11年)12月に歩兵中尉に進級し陸軍大学校(第40期)に入校、1928年(昭和3年)12月、同校を卒業した。1929年(昭和4年)3月に歩兵大尉に進級し、歩兵第27連隊中隊長に補される。
吉野 高善(よしの こうぜん、1898年(明治31年)5月1… 吉野 高善(よしの こうぜん、1898年(明治31年)5月15日 - 1965年(昭和40年)11月4日)は、八重山民政府の政治家で、八重山民政府知事を務めた。沖縄県八重山郡竹富町小浜島出身。 明治31年生まれ。沖縄県立第二中学校を経て台北医学専門学校を卒業する。 その後、昭和2年(1927年)に帰島し、石垣島で医院を開業した。 沖縄戦後は、八重山自治会の副会長に選出され、続いて八重山支庁の衛生部長に就任する。その後、米軍によって八重山民政府の知事に任命される。 1950年の八重山群島知事選挙では、安里積千代候補に敗れた。
能島 武文(のじま たけふみ、1898年5月15日 - 19… 能島 武文(のじま たけふみ、1898年5月15日 - 1978年3月10日)は、日本の演劇評論家、劇作家、翻訳家。 大阪府大阪市北区出身。早稲田大学英文科卒。 在学中の1922年(大正11年)市村座脚本部に入り、かたわら「劇と評論」を創刊。同年に戯曲「秋の心」「波紋」を発表。のち「演劇新潮」編集同人となり、劇評・劇論を担当。また第一書房の『近代劇全集』の編集にも従事した。他に「東京小景」「詩人の靴」などの作品がある。 戦後は、主に推理小説などの翻訳などをおこなった。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
井上 房一郎(いのうえ ふさいちろう、1898年〈明治31年… 井上 房一郎(いのうえ ふさいちろう、1898年〈明治31年〉5月13日 - 1993年〈平成5年〉7月27日)は、日本の実業家。井上工業社長・会長。 ブルーノ・タウトを招聘しての工芸運動や、群馬交響楽団の創設、群馬音楽センターの建設といった文化活動によっても知られている。 1898年(明治31年)群馬県西群馬郡高崎町新町(現・高崎市八島町)に生まれる。高崎白衣大観音の建立に力を尽くした井上工業社長・井上保三郎の長男。母は戸ウ(こう)。実母は1904年(明治37年)に死去した。 高崎市立南尋常小学校、旧制高崎中学校を経て、1916年(大正5年)に早稲田大学へ進学する。同時に川合玉堂の塾に通い、山本鼎・北原白秋・片上伸らの知遇を得る。
松本 徳明(まつもと とくめい、1898年〈明治38年〉5月… 松本 徳明(まつもと とくめい、1898年〈明治38年〉5月13日 - 1981年〈昭和56年〉2月27日)は、大正時代から昭和時代にかけての日本の仏教学者、思想家。文学博士。浄土宗の僧籍。 戦前はボン大学教授や報知新聞論説委員などを務め、戦後は日本科学振興財団理事長、芝中学校・高等学校理事長・校長、淑徳短期大学(現淑徳大学短期大学部)教授、大正大学理事長などを歴任した。 1898年、広島市に生まれる。浄土宗内地研究生となった後、1921年〈大正10年〉から1927年〈昭和2年〉にかけて仏教学者で東京帝国大学文学部教授の高楠順次郎の助手となり、「大正新脩大蔵経」刊行事業に従事。1927年〈昭和2年〉からセイロン島で南方仏教を研究した後、ドイツのボン大学に入学。
西下 経一(にしした きょういち、1898年5月10日 - … 西下 経一(にしした きょういち、1898年5月10日 - 1964年1月17日)は、日本の国文学者、東京教育大学名誉教授。旧姓は岡村。 岡山県西北条郡津山町(現・津山市)出身。1922年東京高等師範学校国漢科卒業後、佐賀中学校教諭。東京帝国大学国文科選科を経て、1927年に本科卒。東大国文学研究室副手として源氏物語などの書誌研究を行う。 第六高等学校教授を経て、1953年「古今集の伝本の研究」で東京大学より文学博士の学位を取得。戦後は岡山大学教授、東京教育大学教授、上智大学教授。平安朝文学、特に古今集の和歌を専門とする。蔵書は没後に国文学研究資料館に収蔵された。
西村 彰一(にしむら しょういち、1898年(明治31年)5… 西村 彰一(にしむら しょういち、1898年(明治31年)5月8日)- 1958年(昭和33年)11月24日)は、日本の農林官僚、教育者、政治家。富山県知事、大東文化大学教授、衆議院議員。旧姓・永井。 長野県上水内郡古牧村平林(現長野市)出身。旧制長野中学(現長野県長野高等学校)、松本高等学校理科を経て1923年、東京帝国大学農学部農業経済学科を卒業し、翌1924年、同大法学部政治学科を卒業。農林省に入り農林属となる。 以後、農林事務官、農林書記官、大阪営林局長、農林省山林局長などを歴任。1944年2月、富山県知事に就任し、同年7月まで在任。農商省農政局長に移り、さらに馬政局長官、農林省開拓局長を務めた。
町田 實秀(まちだ さねひで、1898年5月7日 - 197… 町田 實秀(まちだ さねひで、1898年5月7日 - 1971年1月16日)は、日本の法学者。専門は西洋法制史。一橋大学名誉教授。
岡本 茂(おかもと しげる、1898年〈明治31年〉5月7日… 岡本 茂(おかもと しげる、1898年〈明治31年〉5月7日 – 1980年〈昭和55年〉9月30日)は、日本の内務官僚、政治家。山口県知事(官選第27代)、富山県知事(官選第31代)、衆議院議員(4期)。旧姓は小野。 奈良県出身。小野は奈の三男として生まれ、岡本佐七の養子となる。1924年、京都帝国大学法学部政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。大学にさらに一年間在学し、1925年に法学部法律学科を卒業。内務省に入省し滋賀県属となる。 1927年、島根県に移り、会計、学務、庶務の各課長を務める。以後、香川県警察部・新潟県警察部の各特別高等警察課長、満洲国国務院民政部総務科長、内務省社会局事務官、滋賀県書記官・警察部長、警視庁衛生部長、同保安部長、内務省計画局都市計画課長、同地方局振興課長、大阪府書記官・総務部長、同内政部長などを歴任。
永野 若松(ながの わかまつ、1898年(明治31年)5月7… 永野 若松(ながの わかまつ、1898年(明治31年)5月7日 - 1977年(昭和52年)3月30日 )は、日本の内務官僚。勲二等瑞宝章。福井県知事などを歴任し、特に原爆被災時の(官選)長崎県知事として知られる。 福岡県北九州市小倉区生まれ。東京帝国大学工学部電気工学科卒業後、同大学法学部に編入し卒業後、内務省に入省。厚生省労政課長、警視庁刑事部長、同特高部長、内務省保安部長、福井県知事、東海地方協議会参事官、内務省防空総本部総務局長を経て1945年4月21日、長崎県知事に任命された。 同年8月8日夕方、広島市への原子爆弾投下後に被災状況を実見し、長崎に帰った西岡竹次郎代議士から広島の惨状を聞いた永野は、警察との協議で現時点で無傷である長崎にも原子爆弾が投下される可能性が高いとの結論に至った。
内海 一郎(うつみ いちろう、1898年(明治31年)5月7… 内海 一郎(うつみ いちろう、1898年(明治31年)5月7日 - 1972年(昭和47年))は、昭和初期に活躍した日本の歌手、舞台演出家。東京府(現:東京都)出身。 浅草オペラ時代には宇津美 清(うつみ きよし)の名で知られていた。妻は同じく歌手の松島詩子。 東京府吾嬬町(後に東京市向島区東)で履物商を営む内海喜太郎の長男として生まれる。1916年(大正5年)に東京音楽学校卒業後、浅草オペラで活躍した。1917年(大正6年)、河合澄子、天野喜久代、千賀美寿一らとともに佐々紅華の東京歌劇座に参加している。 レコードは宇津美清の時代からニッポノホンでお伽歌劇などを吹き込んでいるが、昭和期にはオリエントおよびニットーレコードでジャズソングを数多く録音した。
弘 好文(ひろ よしふみ、1898年5月6日 - 1958年… 弘 好文(ひろ よしふみ、1898年5月6日 - 1958年6月19日)は昭和期の日本の医学者。 熊本県立玉名中学校(1917年卒業)、第五高等学校を経て、東京帝国大学医学部を卒業した。1926年から1929年まで東京帝国大学大学院に在学。1930年に医学博士を取得。 札幌市立病院の小児科医となり、田坂重元とともに風疹ウイルスを日本で初めて発見した。また、日本における臨床ウィルス学の先駆者と呼ばれている[誰によって?]。1934年から1936年まで欧米に留学し、主にベルリン大学小児科教室・病理科教室で研究に当たった。1947年熊本医科大学医学部教授及び熊本医科大学附属病院院長、1950年北海道大学医学部教授となった。
安藤 孝三(あんどう こうぞう、1898年(明治31年)5月… 安藤 孝三(あんどう こうぞう、1898年(明治31年)5月3日 - 1985年(昭和60年)2月10日)は、日本の政治家、操縦士。衆議院議員(2期)。 愛知県知多郡岡田村(岡田町、知多町を経て現知多市)出身。1916年、名古屋港上空で米飛行士アート・スミスの曲芸飛行を見て航空界を志す。陸軍所沢飛行第四大隊に入り、一等飛行機操縦士となる。陸軍を除隊後、知多郡八幡村(現・知多市)に水上飛行場を開設する。その後、名古屋二見間の定期航空路や和歌山新宮間の航空路を開設する。その一方で1924年に安藤飛行機研究所を開き、所長となり、操縦士、機関士の育成などを行った。 1937年の第20回衆議院議員総選挙では旧愛知2区(戦前)から無所属で立候補して初当選。
山脇 巌(やまわき いわお、1898年4月29日 - 198… 山脇 巌(やまわき いわお、1898年4月29日 - 1987年3月8日)は、戦前から戦後にかけて活躍した建築家、写真家。日本大学の名誉教授。バウハウスを日本へ紹介し、造形理論を教育に導入。日本のデザイン教育の方向に重要な役割を果たした。 1898年4月29日、藤田家の三男として長崎県対馬で生まれる。 1926年、東京美術学校 図案科第二部(建築科)卒業後、横河工務所に入所。横河工務所に入った頃から写真撮影を始める。また、舞台美術にも関心をもち、新興美術グループ「単位三科」にも同人として参加。 裏千家の茶人・山脇善五郎の娘で当時、東京女高師附属高等女学校(現・お茶の水女子大学附属中学校・高等学校)生の山脇道子(1910-2000)とお見合い結婚し、山脇家の養子となる。
鈴木 強平(强平、すずき きょうへい、1898年〈明治31年… 鈴木 強平(强平、すずき きょうへい、1898年〈明治31年〉4月28日 - 1969年〈昭和44年〉3月3日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(2期)、参議院議員(1期)。 群馬県前橋市連雀町(現・本町)で、鈴木留太郎の長男として生まれる。群馬県立前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)を経て、慶應義塾大学部理財科に進んだが、父の病により帰郷して家業を継承した。 1934年(昭和9年)群馬林業社長、全国燃料組合理事組合長に就任。その他、群馬県木炭連合会長、同燃料林産組合長、全国燃料組合連合会副理事長、前橋商工会議所商業部長、群馬県商工倶楽部理事長、全国燃料会館副理事長、前橋文化服装学院(現前橋文化服装専門学校)理事、日本燃料機社長、鈴木商会社長などを務めた。
佐伯 祐三(さえき ゆうぞう、1898年〈明治31年〉4月2… 佐伯 祐三(さえき ゆうぞう、1898年〈明治31年〉4月28日 - 1928年〈昭和3年〉8月16日)は、大正・昭和初期の洋画家。大阪出身で、短い画業の大半を戦間期のフランス(仏国)に渡ってパリのモンパルナス等で過ごし、パリで客死した。作品はパリの街角、店先などを独特の荒々しいタッチで描いたものが多い。佐伯の風景画にはモチーフとして文字の登場するものが多く、街角のポスター、看板等の文字を造形要素の一部として取り入れている点が特色である。作品の大半は都市風景だが、人物画、静物画などもある。 佐伯は1898年(明治31年)、大阪府西成郡中津村(現:大阪市北区中津二丁目)にある光徳寺の男4人女3人兄弟の次男として生まれた。
小菅 芳次(こすげ よしじ、1898年(明治31年)4月28… 小菅 芳次(こすげ よしじ、1898年(明治31年)4月28日 - 1961年(昭和36年)9月16日)は、日本の内務・警察官僚。官選香川県知事、台湾総督府交通局総長。 愛知県出身。小菅佐吉の四男として生まれる。第六高等学校を卒業。1922年11月、高等試験行政科試験に合格。1923年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省に入省し埼玉県属となる。 以後、警視庁事務官、同警視、内務事務官、警視総監官房調停課長、工場監督官、広島県書記官・警察部長、長崎県書記官・警察部長、京都府書記官・警察部長、東京府総務部長などを歴任。 1942年1月、香川県知事に就任。戦時下の対応に尽力。1945年1月、最後の台湾総督府交通局総長に転じ終戦を迎えた。
太田 辨次郎 (弁次郎)(おおた べんじろう、1898年4月… 太田 辨次郎 (弁次郎)(おおた べんじろう、1898年4月27日 - 1981年〈昭和56年〉11月11日)は、日本の実業家、歌人。 四代目太田清蔵のニ男として、福岡県に生まれる。実兄は五代目太田清蔵。1917年福岡県立中学修猷館、1921年7月第五高等学校経済科を経て、1924年7月東京帝国大学経済学部経済学科を卒業。 卒業後、博多湾鉄道汽船に入社し、副支配人となる。1926年6月、第一徴兵保険(東邦生命保険の前身)に転じ、取締役経理部長、1946年4月専務、1954年6月副社長を経て、1961年5月、兄五代目太田清蔵から引き継ぎ、東邦生命保険社長に就任。1977年6月同会長となる。九州勧業、箱根カントリー倶楽部、芝パークホテル、帝国ホテル、西日本鉄道の取締役も務めた。
福井 康順(ふくい こうじゅん、1898年4月27日 - 1… 福井 康順(ふくい こうじゅん、1898年4月27日 - 1991年1月21日)は、日本の仏教学者、中国学者。元大正大学学長、早稲田大学名誉教授。天台宗の僧籍を持ち、日光山輪王寺内にある唯心院の住職を経て、妙法院の門跡となる。 1898年(明治31年)、長野県小県郡長久保新町(現長和町)で生まれた。父は町役場に勤める公務員で、母は寺院の生まれであった。1910年に日光の輪王寺で得度。早稲田大学文学部哲学科で学び、1924年に卒業。同大学大学院に進み、津田左右吉に師事した。 1928年(昭和3年)に大正大学文学部講師に着任。翌1929年には文学部講師に昇任。1932年から1934年まで中国に留学。
内田 吐夢(うちだ とむ、1898年4月26日 - 1970… 内田 吐夢(うちだ とむ、1898年4月26日 - 1970年8月7日)は、日本の映画監督。本名:内田 常次郎。 内田作品は近年では海外でも2005年のロッテルダム映画祭で特集上映されるなど、再評価が始まっている。 妻芳子は新聞記者碧川企救男の三女、映画カメラマン碧川道夫の妹。映画監督の内田一作は長男、元東映生田スタジオ所長の内田有作は次男。浮世絵研究家の内田千鶴子は次男有作の妻である。翻訳家の松田銑は甥。
岩上 夫美雄(いわかみ ふみお、1898年(明治31年)4月… 岩上 夫美雄(いわかみ ふみお、1898年(明治31年)4月25日 - 1986年(昭和61年)12月28日)は、日本の内務・警察官僚、弁護士。官選秋田県知事。 東京府出身。岩上照雄の二男として生まれる。第一高等学校を卒業。1921年11月、高等試験行政科試験に合格。1922年、東京帝国大学法学部法律学科を卒業。内務省に入省し内務属となる。 以後、山梨県理事官、大阪府工場監督官、奈良県書記官・警察部長、岡山県書記官・警察部長、愛知県書記官・警察部長、警視庁警務部長、北海道庁総務部長などを歴任。 1940年7月、秋田県知事に就任。戦時下の体制整備に尽力。1943年7月に知事を退任。同年に退官し、大日本産業報国会常務理事となる。
岡島 美行(おかじま よしゆき、1898年4月25日 - 1… 岡島 美行(おかじま よしゆき、1898年4月25日 - 1967年9月19日)は、日本の経営者。奈良県出身。 1921年に東京商科大学専攻科を卒業し、同年に日本綿花に入社。1945年6月に取締役に就任し、1947年に専務を経て、1951年11月には社長に昇格した。1960年11月から1965年5月までに会長を務めた。 1959年に藍綬褒章を受章し、1965年11月に勲二等旭日重光章を受章。 1967年9月19日肝硬変のために死去。69歳没。
須田 銓造(すだ せんぞう、1898年(明治31年)4月24… 須田 銓造(すだ せんぞう、1898年(明治31年)4月24日 - 没年不明)は、昭和時代前期の公吏。東京市赤坂区長、日本橋区長、浅草区長。 須田勝三郎の二男として大阪市に生まれる。1923年(大正12年)京都帝国大学経済学部を卒業し東京市に奉職する。同市商工課勤務、神田、江東各青果市場勤務、中央卸売市場企画課長、同監理課長を務めた。その後、赤坂区長、日本橋区長、浅草区長を歴任した。
杉山 新樹(すぎやま しんじゅ、1898年4月23日 - 1… 杉山 新樹(すぎやま しんじゅ、1898年4月23日 - 1974年2月16日)は、日本の画家、愛知学芸大学(現・愛知教育大学)教授。教育者として西三河美術界に功績を残した。 愛知県額田郡矢作町(現・岡崎市矢作町字西河原)に生まれる。愛知県立第二中学校(現・愛知県立岡崎高等学校)在学中、留年した尾崎士郎と同級になった。1916年(大正5年)、同校卒業。 1923年(大正12年)、東京美術学校卒業。岡崎に戻り、1925年(大正14年)に近藤孝太郎、山本鍬太郎らとともに「我々の会」を作り、洋画の展覧会を開き新人の育成に努める。1944年(昭和19年)まで春台会に所属した。同年、旺元会に出品。また、岡崎市立高等女学校(現・愛知県立岡崎北高等学校)や愛知県岡崎師範学校で教鞭をとった。
三林 隆吉(みばやし りゅういち、1898年4月19日 - … 三林 隆吉(みばやし りゅういち、1898年4月19日 - 1977年2月7日)は、日本の産婦人科学者。京都大学医学部附属助産婦学校第4代校長を歴任。 基靭帯基底部に浸潤した子宮癌に対する超広汎性子宮全摘術や、子宮癌の放射線治療に回転照射術式を考案した。 石川県で生まれる。旧制第四高等学校を経て、1923年(大正12年)に京都帝国大学医学部を卒業する。新潟医科大学(現・新潟大学医学部)の講師を務め、1926年(大正15年) に助教授となる。1929年(昭和4年)医学博士を修める。1930年(昭和5年)ドイツに留学する。 帰国後、1936年(昭和11年)に新潟医科大学産婦人科の第4代教授となる。1938年(昭和13年)、京都帝国大学教授に転任。
鈴木 清(すずき きよし、1898年4月17日 - 1967… 鈴木 清(すずき きよし、1898年4月17日 - 1967年1月16日)は、日本の解剖学者、医師。専門は組織学。鈴木鍍銀法の発明者としても知られる。 1898年04月17日、兵庫県津名郡洲本町常盤町425番地(兵庫県淡路島津名郡洲本町(現洲本市)で生まれた。1923年3月、大阪医科大学(現 大阪大学医学部)を卒業。 大学卒業後は、新潟医科大学助手に就任。1926年07月19日より、京城帝国大学医学部助教授・医学部勤務となった。1926年09月13日、朝鮮総督府医学専門学校講師に就任し、解剖学第二講座を分担する。 1933年11月08日、解剖学研究のために1年6ケ月間、ドイツ、フランス、イギリス、アメリカへ留学派遣される。
山錦 善治郎(やまにしき ぜんじろう、1898年4月17日 … 山錦 善治郎(やまにしき ぜんじろう、1898年4月17日 - 1972年5月27日)は、大阪府大阪市大淀区(現在の北区)出身で出羽海部屋所属の元大相撲力士。本名は山田 善次郎(やまだ ぜんじろう)。最高位は東関脇。現役時代の体格は173cm、107kg。 魚屋の次男に生まれ、関西大学専門部に進んで学生相撲で活躍、大学を中退して同郷の横綱大錦卯一郎を慕って出羽海部屋に入門した。四股名の山錦は本名と大錦の名から一文字ずつ取ったものである。1917年5月場所に初土俵を踏む。その後1922年1月場所に十両に昇進して2場所で通過、1923年1月場所で新入幕を果たす。 1927年10月場所で自己最高位の関脇に昇進したのをはじめ常に幕内上位で活躍、前頭5枚目で迎えた1930年5月場所では3日目に新大関玉錦に初黒星をつけると10日目に横綱宮城山も破り11戦全勝で平幕優勝を果たし、同時に平幕全勝優勝の第1号となった。
土方 与志(ひじかた よし、1898年(明治31年)4月16… 土方 与志(ひじかた よし、1898年(明治31年)4月16日 - 1959年(昭和34年)6月4日)は、日本の演出家。伯爵を継いだが剥奪された。築地小劇場を拠点に新劇運動を興した。東京生まれ。本名は久敬(ひさよし)。 東京市赤坂区表町(現・東京都港区赤坂)に生まれた。祖父久元は土佐藩出身で、維新後は宮内大臣・宮中顧問官・枢密顧問官・國學院大學学長などを務めて伯爵を授けられた。父久明は陸軍大尉だったが、何らかの事情で精神に異常をきたして療養中、与志が生まれて間もない1898年7月15日に拳銃で自殺している。母は加藤泰秋の三女・愛子。 土方は中学時代に友田恭助と子供芝居一座である南湖座を作り、演劇活動を始めている。
崔 瑗浩(チェ・ウォノ、朝鮮語: 최원호、1898年4月16… 崔 瑗浩(チェ・ウォノ、朝鮮語: 최원호、1898年4月16日 - 1980年2月27日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の公務員、政治家。第2・5代韓国国会議員。 漢字表記は崔援浩とも。 慶尚南道金海郡(現・釜山広域市江西区菉山洞)出身。私立普成中学校、中央大学理科専門部、中央大学商科卒。日本統治時代には金海青年会会長、女子夜学会・労働夜学会設立者、衡平社員、洛東江工事促進期成会代表、金海郡洛東江河口地域海水防止会委員を歴任した。解放後は朝鮮開拓株式会社社長、韓国民主党慶南道党部副委員長、国民会金海郡支部副委員長、大韓民族青年団金海郡団部委員長、大同青年団慶南道団部後援会会長、金海農場長、金海産業組合理事、慶南帆船組合長、民主国民党慶尚南道党委員長、民主党慶尚南道党最高委員、慶尚北道商工局長を務めた。
大木 喜福(おおき のぶとみ、1898年(明治31年)4月1… 大木 喜福(おおき のぶとみ、1898年(明治31年)4月16日 - 1972年(昭和47年)11月20日)は、日本の教育者、政治家。貴族院伯爵議員。旧姓・徳川。 男爵・徳川厚の二男として生まれ、伯爵・大木遠吉の養子となる。1924年(大正13年)東京帝国大学経済学部を卒業。養父の死去に伴い、1926年(大正15年)6月15日に伯爵を襲爵した。 大学卒業後、三井銀行に入行。1929年(昭和4年)東工学園理事長に就任し、1931年(昭和6年)東京工業学校を設立し校長となり、校名変更後の東京高等工科学校の校長も務めた。1967年(昭和42年)日本工業大学を設立し理事長に就任。 1940年(昭和15年)11月30日、補欠選挙で貴族院伯爵議員に選出され、研究会に属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
田中 忠夫(たなか ただお、1898年4月13日 - 197… 田中 忠夫(たなか ただお、1898年4月13日 - 1978年12月1日)は、岡山県出身の教育者。 1898年4月13日 岡山県小田郡旧小田町(現・矢掛町)に生まれた。 岡山県立矢掛中学(現・岡山県立矢掛高等学校)卒。 1918年7月 第三高等学校 (旧制)卒。 1923年3月 東京帝国大学経済学部卒。 1923年4月 松山高等商業学校教授。 1930年 - 1932年ドイツ留学。 1934年10月 松山高等商業学校第三代校長に就任。 1944年3月 松山高等商業学校が松山経済専門学校へ名称変更することに伴い松山経済専門学校校長就任。 1947年2月 占領政策の教員適格条項に触れ同校校長辞任。
磯崎 辰五郎(いそざき たつごろう、1898年4月12日 -… 磯崎 辰五郎(いそざき たつごろう、1898年4月12日 - 1990年8月10日 )は、日本の法学者。専門は、憲法・行政法。法学博士。[要出典]大阪大学名誉教授。 香川県三野郡下高瀬村(現:三豊市三野町)出身。香川県立三豊中学校、第六高等学校を経て、京都帝国大学法学部卒業。 京都帝国大学では、佐々木惣一に憲法学および行政法学の指導を受ける。以後、佐々木惣一と研究を共にする。佐々木惣一の著書『日本国憲法論 改訂版』(有斐閣、1952年)および『日本國行政一般法論』(有斐閣、1952年)のはしがきでは、佐々木は磯崎に対して執筆の支援および長年の貢献について感謝を記している。 また、1945年(昭和20年)11月に佐々木惣一が内大臣府御用掛として憲法改正調査に当たり、箱根の奈良屋旅館で大石義雄と共に憲法改正草案「佐々木憲法草案」の作成を行っている。