森本 茂喜(もりもと しげき、1898年2月10日 - 没年… 森本 茂喜(もりもと しげき、1898年2月10日 - 没年不詳)は、日本の医学者、医師。専門は内科、物理学。 熊本県玉名市出身。熊本県立玉名中学校卒業、第五高等学校を経て、東京帝国大学医学部を1923年(大正12年)に卒業。卒業後、東京帝国大学医学部病理学教室の助手となり、1932年(昭和7年)に医学博士号を授与された。 東京帝国大学医学部が外来医長制度を敷くに当たり、1935年(昭和10年)に初代の内科の外来医長となり、1938年(昭和13年)まで勤めた。1938年(昭和13年)から1940年(昭和15年)まで京橋病院の内科医長を勤め、辞任後は東京都で開業した。
八木 重吉(やぎ じゅうきち、1898年2月9日 - 192… 八木 重吉(やぎ じゅうきち、1898年2月9日 - 1927年10月26日)は、日本の詩人、英語科教師。戦後にクリスチャン詩人としての評価が高まった。
宮之原 謙(みやのはら けん、1898年(明治31年)2月9… 宮之原 謙(みやのはら けん、1898年(明治31年)2月9日 - 1977年(昭和52年)8月23日)は日本の陶芸家。日展理事・参与、光風会理事などを歴任。東京教育大学窯業科講師を務めた。 1898年(明治31年)鹿児島市鷹師町生まれ。麹町小学校、旧制麻布中学校卒業。早稲田大学建築科中退。1924年(大正13年)頃に川端画学校へ通い、山之内高門に日本画、宮川香山に陶芸を学んだ。また、板谷波山にも師事し、1927年(昭和2年)「東陶会」創立に参加。1929年(昭和4年)第10回帝展に「鉄砂釉竹又陶製花器」で初入選し、岡倉由三郎にインド哲学を学ぶ。1931年(昭和6年)第12回帝展に壁面照明「銀河」、翌年の第13回には釉薬象嵌「十字文花瓶」で連続して特選を受賞し、1933年(昭和8年)帝展無鑑査となった。
塚本 善隆(つかもと ぜんりゅう、1898年2月8日 - 1… 塚本 善隆(つかもと ぜんりゅう、1898年2月8日 - 1980年1月30日)は、浄土宗僧侶・仏教史学者。中国仏教研究の世界的権威。京都大学名誉教授。元日本学士院会員。 1898年、愛知県海部郡七宝村(現・あま市)で生まれた。15歳の時に仏門に入った。佛教専門学校(現・佛教大学)で学び、1918年に卒業。その後は東京に出て宗教大学(現・大正大学)研究科に進み、1920年に卒業。博士課程は京都帝国大学文学部哲学科インド哲学専科で修め、仏教学を望月信亨、矢吹慶輝、椎尾弁匡に師事。1923年に修了し、その後は京都帝国大学文学部史学科東洋史専科で学んだ。東洋史学は桑原隲蔵、羽田亨に師事し、仏教学を望月信亨、矢吹慶輝、椎尾弁匡の下で学び、仏教学・史学を併修した独自の学風であった。
藤田 俊訓(ふじた しゅんくん、1898年2月8日 - 19… 藤田 俊訓(ふじた しゅんくん、1898年2月8日 - 1975年2月25日)は、日本の僧侶(曹洞宗)、大学経営者。佐賀県杵島郡大町町出身。 賢崇寺第29代住職、駒沢女子学園学監、駒澤大学学監などを歴任。「駒大中興の祖」と呼ばれる。 佐賀県神埼郡城田村の光円寺住職の父・亮雄と母センの長男として生まれる。1925年、曹洞宗大学(今の駒澤大学)卒業。大学在学中、学内誌「第一義」の編集に携わる(1922年から卒業迄)。1923年、夏休みを早めに切り上げて上京したため、関東大震災に遇う。広川弘禅や安藤文雄らと共に曹洞宗大学の単科大学昇格運動に積極的に関わった。 苦学して大学卒業後、曹洞宗総務院に務めるが程なく帰郷し宗侶として活動。
柳谷 保一(やなぎたに やすいち、明治31年(1898年)2… 柳谷 保一(やなぎたに やすいち、明治31年(1898年)2月8日 - ?)は日本の教育者、実業家、政治家。元鳥取県議会議員、米子市議会議員。 元鳥取県議会議員の柳谷中は長男。 鳥取県出身。丈四郎の長男。 大正12年(1923年)早稲田大学商学部卒業。 倉吉中学校・米子高等女学校各教諭の後、昭和16年(1941年)日本海新聞に入社、米子支社長、取締役総務局長を歴任。 其間米子市議、米子市国民健康保険組合常務理事となり、昭和30年(1955年)8月米子自動車学校理事長・校長に就任。 趣味は釣、俳句。宗教は曹洞宗。住所は米子市皆生・米子市角盤町。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
茨木 杉風(いばらき さんぷう、明治31年(1898年)2月… 茨木 杉風(いばらき さんぷう、明治31年(1898年)2月8日 - 昭和51年(1976年)8月12日)は、近藤浩一路に師事した水墨画家。日本美術院院友を辞し『新興美術院』を創設した。 滋賀県野洲市小篠原出身の茨木家。移り住んだ近江八幡市博労町の初代から数えて五代目の芳蔵こと茨木杉風。菩提寺の近江八幡市東漸寺から長男陽介の意志により大先祖の菩提寺で、本堂に近江八景の襖絵を残す養専寺の墓地に移し眠る。 茨木杉風は、明治31年(1898年)2月8日に滋賀県蒲生郡八幡町(現滋賀県近江八幡市)の商家 梅田屋に生まれた。嫡男として家業である海産物商を継ぐところ、幼少時より絵が好きで大林千万樹に入門、後に大林より近藤浩一路を紹介され、大正9年(1920年)同人に師事した。
朝長正男(ともなが まさお、1898年2月7日 - 1983… 朝長正男(ともなが まさお、1898年2月7日 - 1983年4月11日)は、日本の実業家。長崎県大村市出身で鎮西学院、関西学院高商を卒業、江商(現兼松)株式会社副社長、相談役を経て、母校である関西学院大学理事、千刈cc理事長、(社)関西ゴルフ連盟常務理事、茨木CC理事・鳴尾GC理事とし関西学院大学、関西ゴルフ界の発展に寄与した人物である。大正11年(1922年)関西学院高商卒業。 関西学院体育会のモットーである「Noble Stubbornness(ノーブル スタボネス)品位ある不撓不屈の精神」は、大正9年に関西学院高商庭球部主将であった朝長が、ライバルの神戸高商(神戸大学)庭球部に完敗した時に庭球部部長であった畑歓三教授に、この悔しさを忘れない為に依頼して作られたモットー、標語である。
笹沢 美明(ささざわ よしあき、1898年〈明治31年〉2月… 笹沢 美明(ささざわ よしあき、1898年〈明治31年〉2月6日 - 1984年〈昭和59年〉3月29日)は、日本の詩人。 横浜市の富裕な商人の家庭に生まれ育つ。東京外国語学校(現東京外国語大学)ドイツ語科を卒業後、1週間で勤めを辞し、遊民となる。ハイネによって詩に目覚め、リルケを始めとするドイツ語圏の詩と詩論を日本に紹介。新即物主義の先駆者。親の遺産を使い果たした後は貧困の中で暮らしていたが、戦後、昭和女子大学教授や工学院大学教授を歴任した。 詩集に『蜜蜂の道』『海市帖』『美しき山賊』『おるがん調』『冬の炎』『仮設のクリスタル』など。 三男は小説家の笹沢左保。自伝小説『詩人の家』に父の姿が描かれている。
古市 進(ふるいち すすむ、1898年(明治31年)2月6日… 古市 進(ふるいち すすむ、1898年(明治31年)2月6日 - 1963年(昭和38年)11月1日)は、大正から昭和時代前期の朝鮮総督府官僚。大邱府尹、京城府尹。 石川県金沢市に生まれる。1922年(大正11年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、朝鮮総督府に出仕。咸鏡南道属、京畿道警視、朝鮮総督府警察官講習所教授を経て、江原道理事官に発令される。 ついで事務官に転じ、同府警務局附となり、官房外事課に勤務する。哈爾濱および上海駐在を経て、忠清南道事務官に任官する。のち全羅北道警察部長を経て、同内務部長となり、1937年(昭和12年)4月1日付けで大邱府尹に発令される。府尹を辞したのち、黄海道、京畿道各内務部長を経て、1942年(昭和17年)5月、京城府尹となった。
岩田 欣三(いわた きんぞう、1898年2月5日 - 198… 岩田 欣三(いわた きんぞう、1898年2月5日 - 1986年6月5日)は、翻訳家、医師。本名・良吉。東京生まれ。1925年東京帝国大学英文科卒。45年日本医科大学卒。法政大学教授。 W・H・ハドソン、ロバート・ルイス・スティーヴンソン、ジャック・ロンドン、アーサー・ランサムなど、少年向けの英国小説を訳した。岩田良吉、欣三双方の名を用いた。
尾崎 士郎(おざき しろう、1898年(明治31年)2月5日… 尾崎 士郎(おざき しろう、1898年(明治31年)2月5日 - 1964年(昭和39年)2月19日)は、日本の小説家。新聞連載小説『人生劇場』がヒットし、流行作家になった。 愛知県幡豆郡横須賀村宮前(現・西尾市吉良町上横須賀宮前)に生まれる。尾崎が生まれた年に父の嘉三郎は自宅で三等郵便局を開業した。1904年(明治37年)8月、神奈川県横浜市野毛町(現・中区野毛町)で耳鼻咽喉科医院を営む田島藤一郎(母の兄)の養子となる。1905年(明治38年)、心臓疾患とホームシックを理由に離籍、生家に戻った。 1910年(明治43年)、横須賀尋常高等小学校(現・西尾市立横須賀小学校)卒業。同年、愛知県立第二中学校(現・愛知県立岡崎高等学校)に進学した。
大河内 傳次郎(おおこうち でんじろう、新字体:伝次郎、18… 大河内 傳次郎(おおこうち でんじろう、新字体:伝次郎、1898年(明治31年)2月5日(戸籍上は3月5日)- 1962年(昭和37年)7月18日)は、日本の映画俳優。本名:大邊 男(おおべ ますお)。 戦前を代表する時代劇スターの一人であり、阪東妻三郎、嵐寛寿郎、片岡千恵蔵、市川右太衛門、長谷川一夫とともに「時代劇六大スタア」と呼ばれた。サイレント期は、伊藤大輔監督・唐沢弘光撮影のトリオで『忠次旅日記』『新版大岡政談』などの名作を生んだ。悲愴()感ただよう演技とスピード感あふれる殺陣で、従来の時代劇スターの定型を破り、人気を不動のものとした。当たり役は丹下左膳で、トーキー時代の作品では地元の豊前なまりで「シェイハタンゲ、ナハシャゼン(姓は丹下、名は左膳)」と言う決めゼリフで人気を得た。
伊東 深水(いとう しんすい、1898年(明治31年)2月4… 伊東 深水(いとう しんすい、1898年(明治31年)2月4日 - 1972年(昭和47年)5月8日)は、大正昭和期の浮世絵師・日本画家・版画家。本名伊東一。娘に女優の朝丘雪路がいる。 歌川派浮世絵の正統を継いでおり、日本画独特の柔らかな表現による美人画が有名。人気の「美人画」以外の画題を描きたくとも、それ以外の注文が来ず、画家として困惑する時期もあった。本妻の好子をモデルに大作を数多く発表し評価を高めた。戦後は美人画とも並行し、個人的に独自の題材で日本画を制作することが多かった。人気のあまり、戦後には多くの作品が複製版画として頒布されるようになった。 1898年、東京府東京市深川区深川西森下町(現東京都江東区森下一丁目)に伊東半三郎とまさ子の長男として生まれる。
遠藤 直人(えんどう なおと、1898年〈明治31年〉2月3… 遠藤 直人(えんどう なおと、1898年〈明治31年〉2月3日 - 1986年〈昭和61年〉4月6日)は、日本の内務官僚。メナド州知事などを務め、兵庫県最後の官選知事であった。戦後は帰農した一方で、福島県公安委員長などの公職を務めた。 福島県耶麻郡熱塩加納村(現喜多方市)出身。遠藤直美の長男。会津中学、二高を経て、1923年(大正13年)東京帝国大学を卒業。在学中に高等試験に合格しており、内務省に入省した。官歴は大阪府警部に始まる。山梨、長崎での勤務を経て、福岡の社会課、商工課兼水産課の各課長、富山、長崎の書記官、学務部長を歴任。1938年(昭和13年)、厚生省書記官として中央勤務となり、失業対策部総務課長として失業者対策を行った。
成瀬 政男(なるせ まさお、1898年2月3日 - 1979… 成瀬 政男(なるせ まさお、1898年2月3日 - 1979年7月12日)は、日本の機械工学者、東北大学名誉教授。初代職業訓練大学校校長。歯車の権威として知られる。位階および勲等は正三位・勲二等。 千葉県安房郡北条町(現館山市)八幡生まれ。白浜村(現南房総市)育ち。祖父の藤蔵は長尾藩士。父の作蔵は白浜尋常小学校代用教員で家は貧しく、1910年に尋常高等小学校卒業後、畑仕事をしながら進学し、1916年に千葉県安房中学校(現千葉県立安房高等学校)卒業後、尋常高等小学校代用教員となる。小学校の恩師に勧められて進学した東北帝国大学工学専門部機械工学科では銀時計を授かり1920年に卒業後、宮城県立工業学校教諭となる。
青木 作雄(あおき さくお、1898年〈明治31年〉2月3日… 青木 作雄(あおき さくお、1898年〈明治31年〉2月3日 - 1985年〈昭和60年〉8月6日)は、日本の政治家(衆議院議員、山口県会議員、下関市会議員)、家主、山口県多額納税者、会社役員。山陽ビルディング取締役。 山口県下関市出身。青木平七の長男。1920年、東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。広島高等工業学校に学んだ。 古河合名調査課、百十銀行貸付係等歴勤。1923年、家督を相続した。1927年、家業を継いだ。貸家業を営んだ。陸軍三等主計に任ぜられた。 下関市会議員、同参事会員、山口県会議員、同参事会員等となる。1937年、衆議院議員に選ばれ、1期務めた。興亜議員同盟、東方会に所属した。
間宮 成吉(まみや せいきち、1898年(明治31年)2月1… 間宮 成吉(まみや せいきち、1898年(明治31年)2月1日 - 1981年(昭和56年)6月16日)は、日本の農業経営者、政治家。衆議院議員、岐阜県加茂郡田原村長。旧姓・日比野。 岐阜県加茂郡古井村(現美濃加茂市)で、日比野重一の二男として生まれ、8歳で間宮直四郎の養子となる。岐阜県立農林学校を経て、1920年、上田蚕糸専門学校を卒業。 卒業後横浜に出て矢野上甲商会に勤務。二年後、一年志願兵として名古屋野砲兵第3連隊に入隊し、1924年7月、砲兵少尉に任官して退役。その後、名古屋の帝国生繭乾燥器製作所に勤務した。 1926年に帰郷し田原村信用組合専務理事に就任。1932年、田原村助役に転じた。
福井 淳(ふくい きよし、1898年2月1日 - 1955年… 福井 淳(ふくい きよし、1898年2月1日 - 1955年5月3日)は、日本の外交官。元南西方面海軍民政府司政長官。 神奈川県生まれ。1923年旧制東京商科大学(のちの一橋大学)卒。 1921年高等文官試験外交科試験合格、1922年高等試験行政科試験合格、1923年外務省入省、在上海領事官補。1925年在アメリカ合衆国外交官補。1928年在カナダ外交官補兼在オタワ領事官補。1929年在カナダ公使館三等書記官兼在オタワ副領事。1932年外務省条約局第一課外務事務官。1936年同課長代理。同年在上海領事。1937年在中華民国日本大使館二等書記官兼南京総領事代理。同年南京事件のため引揚。1938年在中華民国日本大使館二等書記官。
藤本 万次郎(ふじもと まんじろう、1898年2月 - 19… 藤本 万次郎(ふじもと まんじろう、1898年2月 - 1984年)は、日本の実業家、政治家、思想家。 山口県熊毛郡上関町祝島生まれ。旧制広島県立広島商業高校卒業。山口県公安委員長、(社)日本水産物輸入協議会会長、大日本水産会理事、日本海難審判協会(現:公益財団法人海難審判・船舶事故調査協会)理事、日韓親善協会会長、(社)下関水産振興協会会長、下関市社会福祉協議会会長、下関市公平委員会委員、下関都市計画審議会委員、下関市総合政策審議委員などの公職や衆議院議員・安倍晋太郎後援会連合会会長、衆議院議員・周東英雄後援会会長、参議院議員江島淳後援会会長、下関市長・井川克己後援会会長などの政治家後援会の要職を多数務めた。
中原 武之輔(なかはら たけのすけ、1898年(明治31年)… 中原 武之輔(なかはら たけのすけ、1898年(明治31年)1月30日 - 没年不明 )は、日本の実業家。元東京軽合金製作所取締役。兄は茨城大学教授を務めた中原重樹。岡山県倉敷市出身。 1898年(明治31年)、岡山県浅口郡玉島町(現:倉敷市玉島)の士族の家系である中原克一郎の三男として生れる。旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学。1917年(大正6年)に同校を卒業し、山形県にある米沢高等工業学校(現:山形大学工学部)へ進学する。1920年(大正9年)同校機械科を卒業し、当時大企業であった東京瓦斯電気工業(現:いすゞ自動車・日野自動車・DMG森精機)へ就職する。 入社後、中原は東京大森工場へ配属される。
桂田 徳勝(かつらだ のりかつ、1898年〈明治31年〉1月… 桂田 徳勝(かつらだ のりかつ、1898年〈明治31年〉1月30日 - 1987年〈昭和62年〉8月19日)は、日本の電気工学者。工学博士(京都大学)。大阪府立大学名誉教授。大阪工業大学工学部電気工学科元教授。元電気工学教室担当。 専門は、電気工学・電力工学、電気鉄道工学。 1932年京都帝国大学工学部電気工学科卒業。外地の台南高等工業学校教授などを経て、1947年旧制摂南工業専門学校(旧:関西高等工業学校)教授。1949年大阪工業大学工学部電気工学科教授、電気工学教室を担当。その後、大阪府立大学に転任し、京都大学大学院にて工学博士号を取得(京都大学電気工学教室洛友会に所属)。大阪府立大学工短部教授、同大学評議員・審議員などを経て、1963年大阪府立大学名誉教授。
森 敏治(もり びんじ、1898年〈明治31年〉1月29日 … 森 敏治(もり びんじ、1898年〈明治31年〉1月29日 - 1975年〈昭和50年〉6月12日)は、日本の映画俳優。本名は森 敏治(もり としはる)とするものと花川戸 勇(はなかわど いさむ)とするものがある。 1898年(明治31年)群馬県多野郡鬼石町(現・藤岡市)の生まれ。関西大学に学ぶが中退。 倉橋仙太郎の新民衆劇学校で演技を学び、新民衆劇一派(のちに第二新国劇に改称)で活躍。同劇団には原健策、大河内傳次郎らがいた。第二新国劇解散後、日活太秦撮影所に入社。1933年、松竹下加茂撮影所に移籍。1936年、大都映画に移ると、本名の花川戸勇に改名。1939年に東宝へ移り、それから岡譲司劇団に加わる。
安田 徳太郎(やすだ とくたろう、1898年1月28日 - … 安田 徳太郎(やすだ とくたろう、1898年1月28日 - 1983年4月22日)は、日本の医師・歴史家。ゾルゲ事件に連座して執行猶予付きの有罪判決を受けた。 京都市生まれ。妹は高倉輝夫人。父の死後一家が伯母(山本宣治の母)の経営する旅館(宇治・花やしき浮舟園)に引き取られる。 1920年、京都帝国大学医学部に入学。在学中から従兄の山本宣治の産児制限運動に関わる。1930年、医学博士。さらに無産運動に関係し、医師としてこれを支援。 1933年、共産党シンパとして検挙された。1941年にはリヒャルト・ゾルゲらのゾルゲ諜報団に連座し逮捕、1942年に事件裁判で有罪判決(執行猶予付き)を受けた。 医師としてドイツ語に優れ、唯物論的科学思想史の研究を行い、ジークムント・フロイトの訳・解説は今日まで重版。
池田 正之輔(いけだ まさのすけ、1898年1月28日 - … 池田 正之輔(いけだ まさのすけ、1898年1月28日 - 1986年3月27日)は、日本の政治家、衆議院議員(10期)、科学技術庁長官(第9代)、社団法人内外事情研究所理事長。 山形県飽海郡観音寺村芹田(現酒田市観音寺)出身。1922年日本大学新聞創刊。1926年日本大学政治学科を卒業後、読売新聞記者となる。論説委員を経て三木武吉の知遇を得て報知新聞に入社。常務などを歴任後、同盟通信社理事となる。 1942年の翼賛選挙に非推薦候補として初当選。戦争末期には護国同志会に参加。思想検事の大御所である塩野季彦の司法大臣時代には秘書官も務めた。 戦後、護国同志会のメンバーとともに日本協同党の結成に参加。
周東 英雄(すとう ひでお、1898年1月27日 - 198… 周東 英雄(すとう ひでお、1898年1月27日 - 1981年8月8日)は、日本の政治家・官僚。農林大臣や自治大臣などを歴任した。正三位勲一等旭日大綬章。 山口県大津郡三隅村(現・長門市)生まれ。少年時代より京都で過ごし、京都一中(現・京都府立洛北高等学校・附属中学校)、第三高等学校を経て、1921年、東京帝国大学法学部独法科を卒業。農商務省に入省する。後に農林大臣を務めた井野碩哉の懐刀として、農林省米穀局長、農務局長、総務局長の要職を務める。その後企画院第四部長、商工省物価局長官を経て、1942年、帝国油糧統制会社初代社長となる。 戦後の1946年、第1次吉田内閣にて内閣副書記官長に就任し、書記官長林譲治のお株を奪う八面六臂の活躍ぶりを見せ、吉田茂に引き立てられた。
工藤 好美(くどう よしみ、男性、1898年1月26日 - … 工藤 好美(くどう よしみ、男性、1898年1月26日 - 1992年2月22日)は、日本の英文学者。 1898年、大分県佐伯生まれ。第五高等学校で種田山頭火を知る。1924年、早稲田大学英文科を卒業。 卒業後は、千葉県立佐倉中学校(現:千葉県立佐倉高等学校)などで教えたのち、1926年に富山高等学校(現:富山大学文理学部)教授に就いた。土居光知の知遇を得て『享楽主義者マリウス』を訳した。1928年、台北帝国大学助教授となった。1930年から1931年まで、英米文学研究のためオックスフォード大学に留学を命じられ、帰国後教授となった。 敗戦後本土へ帰国し、1948年に名古屋大学文学部教授となった。
三鍋 義三(みなべ よしぞう、1898年(明治31年)1月2… 三鍋 義三(みなべ よしぞう、1898年(明治31年)1月25日 - 1961年(昭和36年)8月14日)は、大正から昭和期の教育者、政治家。衆議院議員。柔道7段。 富山県上新川郡新庄町(現富山市)で生まれる。富山中学校(現富山県立富山高等学校)を経て、1919年(大正8年)武道専門学校を卒業し、1921年(大正10年)同校研究科を修業した。 富山県立神通中学校(現富山県立富山中部高等学校)教諭に就任して1945年(昭和20年)まで在任し、柔道、野球の指導に努めた。その後、町立滑川薬業学校(現富山県立滑川高等学校)長、和合中学校長、呉羽中学校長を歴任。労働運動に加わり、呉羽中学校長在任中の1949年(昭和24年)に富山県教職員組合執行委員長に就任し、県全官公庁労働組合協議会議長も務めた。
八馬 安二良(はちうま やすじろう、1898年〈明治31年〉… 八馬 安二良(はちうま やすじろう、1898年〈明治31年〉1月25日 - 1981年〈昭和56年〉5月17日)は、日本の実業家。八馬汽船社長。多聞酒造取締役。 兵庫県西宮市出身。海運業・八馬永蔵の三男。1920年、慶應義塾大学部理財科卒業。1925年、分家した。 桐花興業監査役、多聞土地社員、西宮信組理事を歴務。宝梅園農場相談役、芦屋市公安委員を兼務。1931年から1966年まで八馬汽船の社長を務めた。 兵庫県西宮市久保町、八馬汽船相談役・三代八馬兼介の弟。八馬駒雄、八馬眞治の兄。 宗教は真宗。住所は芦屋市平田町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
原口 純允(はらぐち すみちか、1898年(明治31年)1月… 原口 純允(はらぐち すみちか、1898年(明治31年)1月24日 - 1980年(昭和55年)3月23日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、鹿児島県伊佐郡大口町長。 鹿児島県伊佐郡菱刈村(菱刈町を経て現伊佐市)で生まれた。旧制鹿児島県立加治木中学校(現 鹿児島県立加治木高等学校)を経て、1918年(大正7年)旧制第七高等学校造士館卒業。1921年(大正10年)東京帝国大学経済学部商業学科を卒業。 1921年(大正10年)5月、南満州鉄道(満鉄)に入社し、電気作業所に配属された。1926年(大正15年)6月、電気作業所が満鉄から独立し南満洲電気 (株) (のち大連都市交通)に改組し同社員となり、奉天支店長、長春支店長、新京支店長を歴任。
吉本 熊夫(よしもと くまお、1898年(明治31年)1月2… 吉本 熊夫(よしもと くまお、1898年(明治31年)1月24日 - 1959年(昭和34年)9月19日)は、日本の実業家。日本ガイシ代表取締役社長や、愛知県経営者協会会長を務めた。 山口県下松市出身。1919年東京高等工業学校(現東京工業大学)電気科卒業。1948年日本碍子社長。1950年初代昭和法人会会長、名古屋地方国有鉄道調停委員会委員。1955年化学工学会東海支部長、経済審議会委員。1958年愛知県経営者協会会長。1959年急逝、正五位勲三等瑞宝章。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
寺尾 豊(てらお ゆたか、1898年(明治31年)1月23日… 寺尾 豊(てらお ゆたか、1898年(明治31年)1月23日 – 1972年(昭和47年)11月27日)は、昭和期の政治家、実業家。位階は正三位。 郵政大臣(第13代)、参議院副議長(第5-6代)、衆議院議員(1期)、参議院議員(5期)。財団法人板垣会第13代会長。板垣退助先生顕彰会初代会長。 眼科医・白石純成の三男として、高知県高岡郡須崎町(現須崎市)に生まれる。後に寺尾英吉の養子となる。私立高知工業学校を卒業後、職工を経て上京する。 1929年(昭和4年)3月、立正大学高等師範部を卒業。1934年(昭和9年)に関東正機を設立し代表取締役に就任。戦時中は、同じ高知県出身の軍人・永野修身の仲介により、日本海軍に魚雷用のジャイロスコープを納入。
中川 州男(なかがわ くにお、1898年(明治31年)1月2… 中川 州男(なかがわ くにお、1898年(明治31年)1月23日 - 1944年(昭和19年)11月24日)は、日本の陸軍軍人。陸士30期。最終階級は陸軍中将。 太平洋戦争(大東亜戦争)のペリリューの戦いにおいて、歩兵第2連隊長としてペリリュー島守備隊(約1万2千名)を指揮し、同島を長くても3日で攻略できると楽観していたアメリカ海兵隊(約4万9千名)を相手に71日間に渡って組織的戦闘を続け、自軍の玉砕と引き換えにアメリカ海兵隊に多大な損害を与えたことで知られる。 熊本県出身。小学校校長・中川文次郎の三男として生まれる。玉名中学校を経て(同期生に広瀬藤蔵・海軍少将(海機27期・海大)、由布喜久雄・海軍法務少将(東大卒)、中川千代吉・陸軍大佐(陸士30期)、松島悌二・海軍大佐(海機27期・海大)が居る。
清水 勤二 (しみず きんじ、1898年(明治31年)1月2… 清水 勤二 (しみず きんじ、1898年(明治31年)1月22日 - 1964年(昭和39年)1月10日)は、日本の教育者。 名古屋工業大学初代学長を務めた。 1898年 山口県防府市に生まれる。大正11年 短歌雑誌『水甕』社友、石井直三郎の選歌欄に入る。 1923年 京都帝国大学工学部電気工学科を卒業する。大正13年 名古屋高等工業学校教授となる。 1925年 短歌雑誌『青樹』創刊に際し、発行責任者となる。昭和15年 学位(工学博士)を受ける。 1944年 明治工業専門学校(現九州工業大学)校長となる.このころ漢詩に熱中し、『桑洲詩稿』一帖がある。 1946年 文部省科学技術教育局長となる.このころ、歌稿『武蔵野』 一帖成る。
前田 利鎌(まえだ とがま、1898年(明治31年)1月22… 前田 利鎌(まえだ とがま、1898年(明治31年)1月22日 - 1931年(昭和6年)1月17日)は、日本の哲学者。大正教養主義の時代に荘子・禅・スピノザ・ニーチェなどを論じた。32歳の若さで病没した。主著に『臨済・荘子』。 夏目漱石の末弟子。松岡譲の友人。父は前田案山子。異母姉に前田卓、宮崎槌(宮崎滔天の妻)がいる。 1898年(明治31年)熊本県玉名郡小天村にて、名士の前田案山子(当時70歳)と妾・林ハナの第2子として生まれ、戸籍上は正妻・キヨとの第9子(末子)となる。 利鎌誕生の1年前、夏目漱石が前田家を訪れ、前田家がモデルとして登場する小説『草枕』の着想を得ていた。漱石はその後も数度来訪し、前田卓に抱かれた赤子の利鎌を、漱石が撫でたこともあった。
小山 林平(こやま りんぺい、1898年(明治31年)1月2… 小山 林平(こやま りんぺい、1898年(明治31年)1月22日 - 1976年(昭和51年))は、日本の政治家。東京都東村山市長(1期)。 東京府北多摩郡東村山村(のち東村山町、現・東村山市)で生まれる。東村山村立化成尋常高等小学校(現在の東村山市立化成小学校)卒。卒業後は農業に従事する。1942年(昭和17年)に東村山町会議員に当選。1955年(昭和30年)に東村山町長に当選する。 東村山町は交通の発達などによって人口が急増した。小山は町長時代から東村山の都市化を見越して、人口増加に対応した街づくりを推進した。町長3期目の1963年(昭和38年)東村山町は人口が5万人を突破、市成立の要件が整い、翌1964年(昭和39年)に東村山市が発足、小山は初代市長となった。
津島 文治(つしま ぶんじ、1898年〈明治31年〉1月20… 津島 文治(つしま ぶんじ、1898年〈明治31年〉1月20日 - 1973年〈昭和48年〉5月6日)は、日本の実業家、政治家、地主、青森県多額納税者。 金木銀行頭取。衆議院議員(3期)。参議院議員(2期)。青森県知事(公選初・第2・3代)。陸奥銀行、津軽鉄道、津軽酒造各取締役。東北鳩協会顧問。農業。 小説家の太宰治(津島修治)は弟、俳優の津島康一は長男。元衆議院議員の津島雄二は義理の甥。 大地主で銀行家の津島源右衛門(旧姓松木)とタ子(たね)の三男として青森県北津軽郡金木村(現在の五所川原市)に生まれた。 金木第一尋常小学校から五所川原農学校(現青森県立五所川原農林高等学校)を卒業後上京し、早稲田大学政治経済学部に入学。
高垣 眸(たかがき ひとみ、1898年〈明治31年〉1月20… 高垣 眸(たかがき ひとみ、1898年〈明治31年〉1月20日 - 1983年〈昭和58年〉4月2日)は、日本の児童文学作家、大衆小説作家、小説家。男性。本名・末男。別筆名に田川緑、青海、小野迪夫がある。 幼少期から軍艦に憧れ、海に情憬を持ち育った。このため海を舞台にした作品が多い。 広島県尾道市土堂生まれ。先祖は備後一宮城主で、生家は酢と醤油の醸造業を営んでいた。1902年(明治35年)、4歳のときに父親が赤痢で死去。翌年、尾道幼稚園に第一回生として入園する。またこの年、祖母より箏曲を習う。1904年(明治37年)、土堂小学校に入学、級長を務めた。1906年(明治39年)の夏に屋根から落ちて頭を打撲し京都府立病院に半年ほど入院。
岩松 五良(いわまつ ごろう、1898年1月20日 - 19… 岩松 五良(いわまつ ごろう、1898年1月20日 - 1964年12月15日)は、日本の文部官僚。文部省実業学務局長等を経て、長崎高等商業学校校長を務めた。 東京府東京市杉並区生まれ。1918年第一高等学校大学予科文科志望卒業。1921年東京帝国大学文学部東洋史科卒業。1924年東京帝国大学法学部法律学科卒業。 1928年海軍兵学校文官教授。1932年文部省社会教育官。1938年文部大臣秘書官、文部大臣官房会計課長、文部大臣官房秘書課長、文部省普通学務局学務課長。 1939年文部省実業学務局長兼企画院参与。同年拓務省拓務局参与。1940年関東局在満教務部長。1942年長崎高等商業学校長。同年退官。
田島 淳(たじま じゅん、1898年(明治31年)1月19日… 田島 淳(たじま じゅん、1898年(明治31年)1月19日 - 1975年(昭和50年)1月29日)は、日本の劇作家、脚本家。 神奈川県横浜市出身。田島商事社長・田島啓次郎の長男。1922年、早稲田大学英文科を卒業した。早大在学中に執筆した処女作(戯曲)「能祇と泥棒」が1921年旧帝国劇場で上演(十四代守田勘彌、二代 市川猿之助による)されている。また同じく早大在学中に松竹キネマに入社した。のち松竹本社文芸部に入社した。昭和期に入ってから劇作から遠ざかり、演出などをした。1926年、『田島淳戯曲集』を刊行した。1968年に復刊された『劇と評論』では編集長を務めた。宗教は日蓮宗。住所は神奈川県横浜市中区根岸町。
福沢 一郎(ふくざわ いちろう、1898年(明治31年)1月… 福沢 一郎(ふくざわ いちろう、1898年(明治31年)1月18日 - 1992年(平成4年)10月16日)は、日本の洋画家。日本にシュルレアリスムを紹介した画家として知られる。文化功労者、文化勲章受章、群馬県名誉県民。 1898年(明治31年)1月18日、群馬県北甘楽郡富岡町(現富岡市)に生まれる。祖父・常五郎は繭商人として組合製糸・甘楽社を設立し成功を収めた人物で、富岡町長や県会議員を務めた。常五郎の長男・仁太郎は衆議院議員・宮口二郎の姪・ハツと結婚し、夫婦の最初の子として生まれたのが一郎である。仁太郎も後に富岡町長を務めた。 一郎は1910年に富岡尋常高等小学校を卒業後、旧制富岡中学校に入学し1915年に卒業。
田辺 平学(たなべ へいがく、1898年1月17日 - 19… 田辺 平学(たなべ へいがく、1898年1月17日 - 1954年2月3日)は、日本の建築構造学者、防災研究者、建築家。日本の建築物、都市の不燃化の研究、啓蒙に務めた。東京工業大学名誉教授。 田辺政之助の子として京都府で生まれる。1922年、東京帝国大学工学部建築学科卒業後、神戸高等工業学校講師。1925(大正14)年、建築構造学研究のため、欧米に出張。ドイツとイギリス、アメリカ合衆国へ2年間滞在する。ドイツでは商店で火事に遭遇する。 帰国後の1929年、神戸高等工業学校教授。「鉄筋混凝土版の基本的事項に関する研究」で工学博士号を取得。東京工業大学教授を兼任。 1931年、日本建築学会学術賞受賞。
中村 為治(なかむら ためじ、1898年1月17日 - 19… 中村 為治(なかむら ためじ、1898年1月17日 - 1991年6月30日)は、日本のイギリス文学者。 東京銀座に生まれる。第一高等学校で川端康成と同級。1923年東京帝国大学英文科卒。関西学院英語講師、1926年東京商科大学(現一橋大学)予科教授。同僚の上原専禄と親しかった。1943年、45歳で辞職し、長野県乗鞍高原に隠棲した。農業と翻訳で暮らすが、1967年中部女子短期大学(現中部学院大学)教授となり、1972年まで務めた。 ロバート・バーンズを専門とし、キップリング詩集の翻訳などがある。大江健三郎は少年時代に中村の訳した岩波文庫の『ハックルベリー・フィンの冒険』を愛読した。
吉田 璋也(よしだ しょうや、1898年1月17日 - 19… 吉田 璋也(よしだ しょうや、1898年1月17日 - 1972年9月13日)は、日本の民藝運動家。医師。鳥取県鳥取市出身。 医学生時代より交流のあった柳宗悦の民藝運動に共感して活動。柳宗悦が見出した民藝の美を日常の生活の中に取り入れるため、1931年(昭和6年)新たな民藝品を作り出す活動を開始した。工種は陶芸・木工・家具・竹工・漆工・染織・金工・石工・和紙・建築等に及び、このような運動は全国各地でも起こりのちに新作民藝運動と呼ばれることになる。吉田は「民藝のプロデューサー」を自認し、「たくみ工芸店」(鳥取・東京)を開き民藝の普及に大きな足跡を残した。新作民藝のプロデューサーとして、企画・デザイン・生産・流通に関わり、また自らも多くのデザインを残しており、衣食住に渡る幅広いデザイナーとしての業績も大きい。
甲斐中 文治郎(かいなか ぶんじろう、1898年(明治31年… 甲斐中 文治郎(かいなか ぶんじろう、1898年(明治31年)1月17日 - 1974年(昭和49年)12月24日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員 (1期) を務めた。 兵庫県城崎郡五荘村(現・豊岡市)栃江に生まれる。苦学の末、弁護士となり、内務省嘱託や斎藤隆夫の秘書になった。1947年五荘村長に就任、1950年に合併による豊岡市発足まで務めた。斎藤隆夫の死(1949年)を受けて地盤を受け継ぎ、1952年の第25回衆議院議員総選挙において兵庫5区から自由党公認で出馬して初当選。1953年の第26回衆議院議員総選挙で落選。1958年の豊岡市長選では現職の佐川辰夫に敗れた。
椎名 悦三郎(しいな えつさぶろう、1898年〈明治31年〉… 椎名 悦三郎(しいな えつさぶろう、1898年〈明治31年〉1月16日 - 1979年〈昭和54年〉9月30日)は、日本の官僚、政治家。岸信介の腹心 として満洲国の運営に関わり、また商工次官として統制経済を推進、軍需次官も務めた。戦後は政界入りし、内閣官房長官(岸内閣)、通商産業大臣(19代・28代)、外務大臣(94-95代)、自由民主党において政調会長、総務会長、副総裁を歴任した。田中角栄の後継の総裁として三木武夫を指名した「椎名裁定」を下した人物として知られている。椎名素夫は次男、血縁のない叔父に後藤新平がいる。 1898年(明治31年)に岩手県胆沢郡水沢町(水沢市を経て、現在の奥州市)に生まれる。
洪 性夏(ホン・ソンハ、朝鮮語: 홍성하、1898年1月15… 洪 性夏(ホン・ソンハ、朝鮮語: 홍성하、1898年1月15日 - 1978年)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の教授、政治家、サッカー組織幹部。制憲韓国国会議員。政界では金融通として知られる。 慶尚南道東萊(現・釜山広域市)または全羅南道光山出身。中央大学政治科もしくは経済科卒。日本統治時代は普成専門学校(現・高麗大学校)教授・評議員、京城第一プリント社経営者を務め、解放後は韓国民主党中央執行委員・中央常務委員・労農部長・青年部長、中央労働調整委員、非常国民会議代議員、大韓国民代表民主議院特別経済専門委員、民族統一総本部宣伝部長、過度政府立法議院議員などを務めた。李承晩が大統領に就任し、ソウル東大門甲選挙区の制憲国会議員に欠員が出た後に実施した1948年の補欠選挙で、韓国民主党の候補として国会議員に当選し、国会財経委員長・金融通貨委員長・財政金融委員長・税制分科委員長を務めた。
斎藤 晌(齋藤 晌、さいとう しょう、1898年1月15日 … 斎藤 晌(齋藤 晌、さいとう しょう、1898年1月15日 - 1989年5月11日)は、日本の哲学研究者、東洋大学名誉教授、明治大学名誉教授。 1898年、愛媛県生まれ。実家は宇和島藩の藩校の儒学者の家系で、早くから漢籍に親しむ。1924年、東京帝国大学文学部哲学科を卒業。 卒業後は東洋大学教授、大東文化学院教授などを務めた。1943年より日本出版会常務理事。1944年に辞職した。 太平洋戦争が終結すると、占領期にはかつての論説等が戦争協力にあたるとされ、公職追放の対象となった。公職追放解除後、1952年より明治大学教授、1953年からは東洋大学教授を兼任。1956年より東洋大学文学部長。1969年に定年退任した。
村上 肇(むらかみ はじめ、1898年(明治31年)1月15… 村上 肇(むらかみ はじめ、1898年(明治31年)1月15日 - 1978年(昭和53年)8月21日)は、元多芸村長、化学者である。岐阜県養老郡養老町橋爪出身。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
内田 登一(うちだ とういち, 1898年1月15日-197… 内田 登一(うちだ とういち, 1898年1月15日-1974年8月17日)は、日本の昆虫学者。北海道大学名誉教授。専門はヒメバチ類の分類。農林害虫に関する論文も多数著し、昆虫生態学の研究をすすめ、指導的役割を果たした。 1898年(明治31)1月15日、埼玉県に生まれる。 1918年(大正7)北海道帝国大学予科に入学し、その後松村松年教授に師事、昆虫学を学ぶ。1924年(大正13)3月、北海道帝国大学農学部農業生物学科を卒業し、4月より同大学農学部助手となる。1930年(昭和5)5月、同大学農学部助教授となり、9月に農学の博士号を取得した。1935年には動物学昆虫学養蚕学の講座を担当している。