伊東 月草(いとう げっそう、1899年(明治32年)12月… 伊東 月草(いとう げっそう、1899年(明治32年)12月17日 - 1946年(昭和21年)12月4日)は、長野県出身の日本の俳人。本名は秀治(ひでじ)。 1899年(明治32年)長野県上伊那郡藤沢村 (現在の伊那市)に生まれる。16歳から俳句を始め、大須賀乙字に師事、乙字の死後は同じ乙字門下の吉田冬葉が立ち上げた「獺祭」に参加、1928年に独立し「草上」を主宰する。 満州事変、日中戦争を機に新体制運動に傾倒、大野林火との戦火想望俳句論争を皮切りに、俳句報国のための団体を結成すべしと全国の主要俳人、結社に「この昭和維新に際会して、新体制に協力しないやうな非国民はあるまい」と檄文を送り、『俳句研究』を中心に論陣を張った。
請川 卓(うけがわ たかし、1899年12月16日 - 19… 請川 卓(うけがわ たかし、1899年12月16日 - 1960年3月24日)は、日本の実業家。元香川相互銀行社長。男子テニス選手。 香川県三豊郡紀伊村(現 観音寺市木之郷町)出身。旧制香川県立三豊中学校(現 香川県立観音寺第一高等学校)、早稲田大学政治経済学部卒業。 1924年(大正13年)早稲田大学卒業後、明治生命保険本社に入社。1年後に帰郷、1928年(昭和3年)七宝無尽株式会社監査役に就任。翌年の1929年(昭和4年)7月、同社社長に昇任。また、大阪市の日本科学研究所所長、紀州田辺市の日本木材株式会社社長を兼任する。 1939年(昭和14年)10月、香川県会議員に当選し、県政に尽力する。
阿部 英児(あべ えいじ、1899年12月16日 - 196… 阿部 英児(あべ えいじ、1899年12月16日 - 1969年10月25日)は、日本の柔道家(講道館8段)、実業家。 学生時代に慶應義塾大学柔道部の傑物として名を馳せ、社会人となってからは昭和天覧試合で3位に入る活躍を見せる傍ら、大日本製糖で専務取締役兼工場長を務めるなど実業家として活躍した。また兄の大六も学生時代に柔道選手として腕を鳴らし、後には中部配電にて常務取締役を務めている。 1899年、司法官僚であり実業家でもあった阿部泰蔵の七男として、東京府東京市麻布区(現・東京都港区)に生まれる。六男の大六(だいろく)とは双生児であった。慶應義塾在籍時、少年時代は飯塚国三郎に、後には中野正三に師事して柔道のイロハを学んだ。
草場 季喜(くさば すえき、1899年(明治32年)12月1… 草場 季喜(くさば すえき、1899年(明治32年)12月16日 - 1963年(昭和38年)5月3日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 滋賀県出身。草場彦輔陸軍少将の息子として生まれる。陸軍中央幼年学校予科、中央幼年学校を経て、1920年(大正9年)5月、陸軍士官学校(32期)を卒業。同年12月、工兵少尉に任官し工兵第15大隊付となった。1923年(大正12年)12月、陸軍砲工学校高等科(29期、員外学生)を優等で卒業した。1924年(大正13年)4月、陸軍派遣学生として東京帝国大学理学部物理学科に入学し、1927年(昭和2年)3月に卒業した。 1928年(昭和3年)4月、陸軍科学研究所員に発令。
丸山 二郎(まるやま じろう、1899年12月15日 - 1… 丸山 二郎(まるやま じろう、1899年12月15日 - 1972年6月30日)は、日本の歴史学者。千葉大学教授。専門は日本古代史。 1899年(明治32年)12月、福島県耶麻郡千里村(現在の耶麻郡猪苗代町)に生まれる。福島県立会津中学校、第三高等学校を経て、1924年(大正13年)、東京帝国大学文学部国史学科を卒業。同時に東京帝国大学文学部副手となる。 1926年(大正15年)、姫路高等学校教授となるが、1929年(昭和4年)に辞職し、黒板勝美の要請によって『新訂増補国史大系』(以下国史大系と略記)編纂の事務局長となった。以後、黒板をたすけて国史大系の編纂に従事し、1936年(昭和11年)11月に黒板が病で倒れたのちは、同書編纂の中心的役割を果たした。
山野 一郎(やまの いちろう、1899年12月15日 - 1… 山野 一郎(やまの いちろう、1899年12月15日 - 1958年12月18日)は、日本の活動写真弁士、漫談家、俳優。本名は山内幸一。 弟の山地幸雄(本名:山内倉司)も活動写真弁士である。 1919年、三浦さくと結婚。第1子は夭逝したが、第2子・山内明は俳優、第3子・山内久は脚本家、第4子・山内正は作曲家、また、第5子山内幸子は作曲家小杉太一郎(俳優小杉勇の長男)の妻となった。タレント・エッセイストの山内美郷は孫(明の長女)。 新潟県古志郡半蔵金村生まれ。幼年期に一家で東京に出て、向島に育つ。なお、生涯、自分が東京生まれでないことを隠していたという。東京府立第三中学校卒業。 はじめ俳優を志したが叶わず、三越の店員などを経て弁士となる。
浅岡 信夫(あさおか のぶお、明治32年(1899年)12月… 浅岡 信夫(あさおか のぶお、明治32年(1899年)12月15日 - (昭和43年)1968年11月12日)は、日本の俳優、政治家である。第二次世界大戦前、サイレント映画時代の日活スター俳優であり、映画監督、プロデュースも務めた。戦後、参議院議員も務めた。身長177.3cm、体重93Kg。身長180cm、体重90Kg。
鳥羽 正雄(とば まさお、1899年12月13日 - 197… 鳥羽 正雄(とば まさお、1899年12月13日 - 1979年4月18日)は、日本の林業史学者、城郭研究家。 東京市市谷生まれ。高千穂小学校、東京高等師範学校附属中学校、第一高等学校卒、1924年東京帝国大学文学部国史学科卒。農林省林制沿革調査嘱託、神宮皇學館教授、内務省考証官、神祇院考証課長、林業経済研究所研究員。1951年から鹿児島大学教授、1956年から東洋大学教授。1961年、東洋大学にて文学博士の学位を取得。中京大学教授。1974年退任。1966年日本城郭協会設立に参加し、理事。 甲冑研究家の山上八郎とは小学校以来の交友があり、山上が「日本甲冑論考」で東洋大学より文学博士号を取得したのも鳥羽の推薦があったためという。
近藤 貢(こんどう みつぐ、1899年(明治32年)12月1… 近藤 貢(こんどう みつぐ、1899年(明治32年)12月13日 - 1974年(昭和49年)11月10日)は、日本の新聞学者。 神奈川県三浦郡初声村出身。1925年東京商科大学(現一橋大学)卒業、朝日新聞社入社。1955年日本新聞協会嘱託。新聞経営を研究し、東京大学、早稲田大学、上智大学などで教鞭を執った。旧姓前田。
荒熊 谷五郎(あらくまたにごろう、1899年12月13日 -… 荒熊 谷五郎(あらくまたにごろう、1899年12月13日 - 1979年9月23日)は、現在の兵庫県加古川市出身で陣幕部屋に所属した力士。本名は前田 熊次(まえだ くまじ)。身長174cm、体重113kg。東京での最高位は東前頭6枚目(1928年1月場所)。得意手は右四つ、寄り。 1918年に大坂相撲の陣幕部屋に入門、1922年に入幕、1924年には大関に昇進し、大坂を代表する力士のひとりとなった。 1927年1月大坂相撲より加入の形で東京で新入幕となったが、大坂の大関が東京では前頭9枚目にランク付けられた。それでも、1927年5月場所には8勝2敗の好成績を挙げたり、1928年5月場所には同じ大坂出身の横綱・宮城山を破る金星を挙げた。
服部 敬雄(はっとり よしお、1899年(明治32年)12月… 服部 敬雄(はっとり よしお、1899年(明治32年)12月10日 - 1991年(平成3年)3月14日)は日本の実業家。山形県山形市出身。 父は山形新聞社長の服部敬吉(旧新発田藩士湯浅保之進の子で、現在の新潟県新発田市出身。山形人の服部茂の養子となる。1872年2月〜1952年12月1日)。山形県立新庄中学校を経て早稲田大学政経学部経済科卒業後、同大学大学院へ進学する。在学中は早稲田大学新聞発刊に関わっている。卒業後、朝日新聞社記者を経て、1928年(昭和3年)に父が社長を務める山形新聞の専務取締役として迎えられる。山形新聞は戦時下、県内の中小他紙を吸収合併し県内随一の報道機関に成長する。また、父敬吉と戦時下に進められた県内交通会社の合併の裁定をし、山形交通(現・山交バス)と庄内交通の2社にまとめた。
諸橋 襄(もろはし のぼる、1899年(明治32年)12月1… 諸橋 襄(もろはし のぼる、1899年(明治32年)12月10日 - 1999年(平成11年)1月18日)は、日本の内務官僚。貴族院議員。法学博士。帝京大学法学部長。従四位勲二等。 新潟市出身。新潟中学(後の新潟県立新潟高等学校)から、東京府立三中(後の東京都立両国高等学校・附属中学校)に転校し卒業。そして旧制第八高等学校を経て、1923年(大正12年)に、東京帝国大学農学部農学科を卒業すると、東京帝国大学法学部政治学科に入学した。 同4月30日、新潟県属となり、1924年(大正13年)4月、同大学を卒業した。以後、奈良県、北海道、広島県、富山県、千葉県、福島県の勤務を経て、1937年(昭和12年)7月31日、 行政裁判所評定官となる。
星野 敏雄(ほしの としお、1899年12月10日 - 19… 星野 敏雄(ほしの としお、1899年12月10日 - 1979年2月11日)は、日本の化学者。ビタミンB1、B2の合成など、工業化学の分野で大きな功績を残す。理学博士。位階は従三位。紫綬褒章・勲二等旭日重光章受章。東京工業大学や東京大学の教授など500人以上の門下生を輩出している。 1899年、新潟県に生まれた。父は陸軍少尉(歩兵)の星野辰五郎。1924年、東北帝国大学(現・東北大学)理学部化学科を卒業。大学では真島利行教授の下で有機化学を学んだ。1927年にドイツ・ミュンヘン大学のハインリッヒ・ヴィーラントの研究室に留学した。なお、星野の在独中にヴィーラントは胆汁酸の研究でノーベル化学賞を受賞している。
堀 健夫(ほり たけお、1899年12月7日 - 1994年… 堀 健夫(ほり たけお、1899年12月7日 - 1994年6月9日)は、日本の物理学者。 富山県生まれ。京都帝国大学理学部物理学科を1923年に卒業、旅順工科大学教授を経て、1935年(昭和10年)、北海道帝国大学理学部教授となる。分子が発する光のスペクトルを実験的に調べ、量子力学を使って解析するという、分光学の実験的研究を行い、この分野の後進の育成にもあたった。戦後は二度にわたって北海道大学低温科学研究所の所長を務め、霧についての「総合的研究」をリードする。北大を辞してからは、関西学院大学、京都産業大学で教壇に立った。 堀は25歳のとき京都の旧制第三高等学校で講師として力学の授業を担当する。
堀田 清治(ほった せいじ、1899年(明治32年)12月6… 堀田 清治(ほった せいじ、1899年(明治32年)12月6日 - 1984年(昭和59年)2月17日)は、日本の洋画家。福井県福井市出身。福井県立福井中学(現・福井県立藤島高等学校)卒業。日本の洋画壇を代表するフォーブ(野獣派)の巨匠。日展文部大臣賞ほか受賞歴多数。日洋展委員・動く美術館運営委員もつとめ、積極的な美術活動を展開し多くの俊秀を育てた。芸術院会員に推挙されながらも終始一貫して断り続ける信念の人でもあった。 福井市の紡績原料問屋の長男として生まれる。福井中学入学後油絵を描き始め、1920年(大正9年)に上京、太平洋美術研究所に入所し高間惣七に師事する。同研究所や高間らが結成した新光洋画会で最高賞を受賞後、帰郷した際に同郷の土岡秀太郎らとともに北荘画会を創立、福井の文化的地盤の形成に尽力する。
江口 繁(えぐち しげる、1899年12月6日 - 1971… 江口 繁(えぐち しげる、1899年12月6日 - 1971年9月19日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(1期)。 佐賀県出身。1920年中央大学法律科卒。弁護士と弁理士の業務に従事する。福岡精華女学校(現・精華女子高等学校)を経営し、福岡市議、同参事会員、福岡県議、福岡県弁護士会長、帝国弁護士会理事、大日本弁護士会常任理事、皇教塾、大憲塾塾頭、九州椎茸輸出協同組合理事長を務める。 1937年の第20回衆議院議員総選挙では福岡1区(当時)から立憲民政党公認で立候補して落選。1942年の第21回衆議院議員総選挙では翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選する。戦後は日本進歩党に入ったが、推薦議員のため公職追放となった。
阿部 邦一(あべ くにいち、1899年12月5日 - 198… 阿部 邦一(あべ くにいち、1899年12月5日 - 1988年3月14日)は、日本の内務官僚、政治家、弁護士。徳島県知事を務めた。 1899(明治32)年に麻植郡鴨島町牛島に生まれる。旧制徳島中学校を卒業後、旧制第一高等学校を経て東京帝国大学法学部卒業。 在学中に高等文官試験行政科に合格し、卒業後内務省に入省。戦前においては、石川県河北郡長、大阪府警察部調停課長、兵庫県都市計画課長・学務部学務課長、鹿児島県経済部長、内務省土木局道路課長、愛知県内務部長、三重県書記官・総務部長などをつとめ、戦後は 1951年、公選第二代目の徳島県知事に就任する(在任期間1951年 - 1955年)。高度経済成長期の産業構造を見通した県政運営を行った。
古賀 逸策(こが いっさく、1899年〈明治32年〉12月5… 古賀 逸策(こが いっさく、1899年〈明治32年〉12月5日 - 1982年〈昭和57年〉9月2日)は、日本の電気通信工学者。東京工業大学および東京大学名誉教授。 佐賀県三養基郡田代村(現・鳥栖市)生まれ。熊本中学校、第五高等学校、東京帝国大学卒業。東京工業大学、東京大学の教授を歴任し、東京工業大学及び東京大学名誉教授。東京大学を退官してからは国際電信電話に移籍し研究職を続けた。 水晶結晶(クォーツ)を用いた圧電効果の研究が多くある。無線通信に用いる水晶振動子において温度変化の影響を受けない水晶振動子を開発し、さらに分周器(プリスケーラ)を発明し日本初のクォーツ時計を製作するなど現在の水晶振動子利用の基礎を築いた。
末延三次(すえのぶ さんじ、1899年 <明治32年> 12… 末延三次(すえのぶ さんじ、1899年 <明治32年> 12月5日 - 1989年 <平成元年> 7月24日)は、日本の法学者。専門は英米法。学位は法学博士。東京大学名誉教授。立教大学法学部元教授。末延道成の養子(旧姓・平井)。日本学士院会員。末延財団設立者、同初代理事長。位階は正四位。土方寧、高柳賢三に師事。弟子に海原文雄、伊藤正己、土屋喜平、大木雅夫、田中英夫など。 熊本県熊本市西唐人町の坪井川沿いで蝋燭・マッチ商を営んでいた平井茂八の三男として生まれる。五高、東京帝国大学を出て、東京帝国大学助手を経て助教授となり、1928年英国留学、ケンブリッジ大学で学んだのち渡米し、イエール大学、ハーバード大学で研究。
丹羽 勇(にわ いさむ、1899年(明治32年)12月5日 … 丹羽 勇(にわ いさむ、1899年(明治32年)12月5日 - 1972年(昭和47年)12月10日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 石川県出身。1920年(大正9年)5月に陸軍士官学校第32期卒業。同年12月に陸軍工兵少尉に任官。のち東京帝国大学電気科を卒業する。 1941年(昭和16年)3月、陸軍大佐に進み、1942年(昭和17年)8月、独立工兵第25連隊長、1944年(昭和19年)1月、多摩陸軍技術研究所所員、同年2月、陸軍電波兵器練習部長、1945年(昭和20年)5月、陸軍電波兵器練習部附を経て、翌月、陸軍少将に進んだ。 1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた。
池田 勇人(いけだ はやと、1899年〈明治32年〉12月3… 池田 勇人(いけだ はやと、1899年〈明治32年〉12月3日 - 1965年〈昭和40年〉8月13日)は、日本の政治家、大蔵官僚。同国58,59,60代内閣総理大臣。 大蔵次官、衆議院議員(7期)、大蔵大臣(第55・61・62代)、通商産業大臣(第2・6・17代)、経済審議庁長官(第3代)、自由党政調会長・幹事長などを歴任した。全日本居合道連盟創立者及び初代会長。 大蔵官僚を経て終戦後まもなく政界入りすると、吉田茂の右腕として頭角を顕し、第3次吉田内閣の外交・安全保障・経済政策に深く関与した。佐藤栄作と並ぶ「吉田学校」の筆頭格である。保守合同後は自民党の宏池会の領袖として一派をなし、1960年に首相に就任した。
三宅 徳三郎(みやけ とくさぶろう、1899年(明治32年)… 三宅 徳三郎(みやけ とくさぶろう、1899年(明治32年)12月3日 - 1982年(昭和57年)4月10日)は、日本の外科医、政治家。医学博士。 高松市長(在任1期)。 香川県三豊郡荘内村(現 三豊市詫間町)出身。地主の三男として生まれる。 旧制香川県立三豊中学校、旧制第四高等学校を経て、九州帝国大学医学部卒業。 三豊中学時代から第四高等学校、九州帝国大学と野球選手で通し、投手や一塁手で活躍、その間柔道、剣道、テニス、乗馬、弓術も行った。 1926年(大正15年)3月、九州帝国大学医学部卒業後、外科医局に4年間在局、三宅速教授、赤岩八郎教授の指導を受ける。1930年(昭和5年)5月、岩手医学専門学校教授ならびに青森県立病院外科部長に就任。
中村 元治(なかむら もとはる、1899年(明治32年)12… 中村 元治(なかむら もとはる、1899年(明治32年)12月3日 - 1982年(昭和57年)9月1日)は、日本の内務・警察官僚。官選大分県知事、陸軍司政長官。位階は従三位。 神奈川県出身。岩本幸八の六男として生まれ、中村元智の養子となる。第一高等学校を卒業。1923年12月、高等試験行政科試験に合格。1924年、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。内務省に入省し群馬県属となる。 以後、群馬県社会課長、愛知県工場監督官、山梨県勤務、埼玉県地方課長、京都府勤務、青森県経済部長、広島県学務部長、福井県書記官・警察部長、和歌山県書記官・警察部長、新潟県書記官・警察部長などを歴任。1942年8月、陸軍司政長官に任じられ第16軍軍政部付のジャワ島パティ州長官を1944年9月まで務めた。
安居 喜造(やすい きぞう、1899年12月2日 - 198… 安居 喜造(やすい きぞう、1899年12月2日 - 1983年9月30日)は、日本の実業家。東レ会長、経団連副会長、日本化学繊維協会会長等を務めた。また日本国有鉄道監査委員会委員長を務め、国鉄再建のため尽力した。1979年勲一等瑞宝章受章。 近江国彦根・龍潭寺を菩提寺とする安居家(彦根藩)の出身。父の喜造は、犬上郡選出県会議員であったが、大正デモクラシー時代、彦根高等商業学校(滋賀大学経済学部の前身)設立委員長に就任、同校設置運動のため東上不在中に無理矢理に、彦根町長に選挙され、在任中は彦根高商設置のため始終奔走し、翌年に彦根高商新築の着工を見て辞任したことで、「高商町長」(彦根町) の愛称でよばれた。
岸 道三(きし みちぞう、1899年12月1日 - 1962… 岸 道三(きし みちぞう、1899年12月1日 - 1962年3月14日)は、日本の実業家・財界人。経済同友会代表幹事(第10代)・日本道路公団初代総裁。 大阪府大阪市に生まれ、北海道小樽市で育つ。小樽中学校から三浪を経て、第一高等学校に入学。5年間在籍し、その間全寮委員長として、関東大震災後の同校移転問題などに関係する。その後東京帝国大学工学部鉱山学科に入学。在学中はボート部で活躍し、1929年(昭和4年)の卒業後も後輩の指導に当たった。 東京帝大学生課嘱託などを経て、1931年(昭和6年)に名古屋合板支配人として財界に入る。以後明治製革常務、満鉄調査部嘱託、興中公司広東事務所長などを歴任する一方、昭和研究会に所属し、各界に広く人脈を持つようになる。
片山 佃(かたやま つくだ、1899年〈明治32年〉12月1… 片山 佃(かたやま つくだ、1899年〈明治32年〉12月1日 - 1994年〈平成6年〉)は日本の農学者。 熊本県立玉名中学校(1918年卒業)、第七高等学校造士館を経て、東京帝国大学農学部を卒業した。 農林省農事試験場鴻巣試験地勤務から、1936年に九州帝国大学農学部助教授となり、1939年に教授に昇任した。太平洋戦争中の1943年12月から翌年7月まで、南方軍総監部付を兼務して、占領地域の農業指導にも当たった。1963年に定年退官し、名誉教授となった。 イネ科植物の分蘖(ぶんけつ)した茎と主茎の間で、縦に並んだ葉(同伸葉)が同時に規則的に生じることを1951年に報告し、「同伸葉理論」と名付けられた。
棚橋 影草(たなはし えいそう、1899年12月1日 - 1… 棚橋 影草(たなはし えいそう、1899年12月1日 - 1970年9月9日)は、日本の俳人、医学者。福岡県福岡市出身。本名は棚橋陽吉。 1918年福岡県立中学修猷館を経て、九州帝国大学医学部を卒業し、同大医学部教授に就任。貝の血液研究でも知られる。 昭和の初めから、吉岡禅寺洞に師事し、俳誌「天の川」幹部同人となり、新興俳句の隆盛期に評論などで活躍した。一時横山白虹の後を継ぎ「天の川」を編集している。1938年以後目を病み、句作から離れた。
松好 貞夫(まつよし さだお、1899年12月1日 - 19… 松好 貞夫(まつよし さだお、1899年12月1日 - 1982年10月19日)は、日本の経済史学者。専門は日本経済史。経済学博士(同志社大学)。東京都立大学名誉教授、流通経済大学名誉教授。 滋賀県生まれ。1925年同志社大学法学部経済学科卒。本庄栄治郎の下で日本経済史研究に従事。大阪市職員として#明治経済市史の編纂にあたり、次いで大蔵省に於いて#明治財政史の編纂員を務める。1947年同志社大学教授。1949年「新田の研究」で同志社大学経済学博士。1952年東京都立大学教授、1957年初代法経学部長、1963年定年退官、名誉教授。1965年開学の流通経済大学に招かれ経済史を教授、のち名誉教授。大学歌のひとつである「登竜の門」の作詞を手掛けた。
中谷 博(なかたに ひろし、1899年12月1日-1971年… 中谷 博(なかたに ひろし、1899年12月1日-1971年10月25日)は、ドイツ文学者、大衆文学研究家。 和歌山県出身。旧姓は高石。早稲田大学文学部独文科卒。第一早稲田高等学院、早大の講師、1949年早大教授。70年定年退職、名誉教授。1934年「大衆文学本質論」を発表、大衆文学論でも活躍した。1935年早稲田大学明治文学研究会の結成に参加。息子は大衆文学研究家の中谷治夫。
池谷 信一(いけがや のぶいち、1899年(明治32年)11… 池谷 信一(いけがや のぶいち、1899年(明治32年)11月29日 - 1983年(昭和58年)2月9日)は、昭和期の弁護士、政治家。衆議院議員(1期)。位階は従五位。勲等は勲三等瑞宝章。元静岡県弁護士会長。元日本弁護士会常務理事。元日本弁護士連合会副会長。 静岡県出身。1927年(昭和2年)京都帝国大学法学部法律学科を卒業した。 弁護士を開業。静岡地方裁判所各種調停委員、静岡県地方労働委員会長、静岡県弁護士会長、日本弁護士会常務理事、日本弁護士連合会副会長などを務めた。 1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙で静岡県第1区から日本社会党公認で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
三浦 懋(みうら つとむ、1899年11月26日 - 199… 三浦 懋(みうら つとむ、1899年11月26日 - 1993年5月1日)は、日本の経営者。島津製作所社長、会長を務めた。奈良県出身。 1923年に東京商科大学を卒業し、三菱銀行に入行。京都支店長、大阪支店長、取締役を経て、1956年5月に常務に就任した。 1959年11月に島津製作所に移り、専務に就任。副社長を経て、1965年5月から1971年5月までに社長を務め、1971年5月から会長に就任し、1981年6月から相談役に就任した。 京都商工会議所顧問も務めた。 1970年に勲三等旭日中綬章を受章し、1976年に勲二等瑞宝章を受章した。 1993年5月1日肺炎のために死去。93歳没。
秋田 伸一(あきた しんいち、1899年11月25日 - 1… 秋田 伸一(あきた しんいち、1899年11月25日 - 1941年10月4日)は、日本の元俳優である。本名同じ。サイレント映画の時代に、松竹蒲田撮影所、阪妻・立花・ユニヴァーサル聯合映画、マキノ・プロダクション等が製作した現代劇に主演した、線の細い二枚目スターとして知られる。 1899年(明治32年)11月25日、東京府東京市京橋区南新堀(現在の東京都中央区新川)に生まれる。実家は酒問屋であったとも、醤油問屋であったともされる。生年月日については、初期の資料である『日本映画年鑑 大正十三・四年』には「明治三十二年十月二十日」(1899年10月20日)と記されている。 育った町内にあった旧制・中央商業学校(のちの中央商科短期大学、2001年廃校)に進学、同学を卒業した後、1920年(大正9年)に小林喜三郎が代表を務める帝国興行に入社した。
北野 弥一郎(きたの やいちろう、1899年〈明治32年〉1… 北野 弥一郎(きたの やいちろう、1899年〈明治32年〉11月23日 - 没年不明)は、日本の政治家。大阪府貝塚市長(2代 - 5代)。紀泉鉄道取締役。 大阪府泉南郡麻生郷村(現・貝塚市)出身。北野弥太郎の長男。泉南郡麻生郷村島村組合役場に勤務する。麻生郷村組合書記同収入役代理を経て1935年に貝塚町戸籍課長となる。また財務課長、戸籍兵事課長を歴任する。 1946年3月、第2代貝塚市長に就任する。1947年4月、改めて第1回市長選挙に出馬、当選を果たして初代公選市長となる。同年7月に市役所分課条例を制定し、総務・教育・経済・民生・戸籍・衛生・税務・水道・土木の9課と市内の東・西・南・北・木島・葛城に市の出張所を置く。
三木 瀧蔵(滝藏、みき たきぞう、1899年〈明治32年〉1… 三木 瀧蔵(滝藏、みき たきぞう、1899年〈明治32年〉11月22日 - 1981年〈昭和56年〉4月10日)は、日本の実業家。三共生興株式会社創業者で、神戸生絲取引所理事長など歴任した経済人。また、公益財団法人三木瀧蔵奨学財団(旧:財団法人三木記念会)を設立した、独自の「推譲の心」を持つ社会貢献者。 位階は正四位。 生家は兵庫県城崎郡港村津居山(現在の豊岡市)で代々栄えた主に生糸、絹織物を扱う廻船問屋。鉄道による代替で家業が傾き、学校で首席を通したにもかかわらず旧制中学校への進学かなわず、1913年(大正2年)高島屋飯田に入社、働きながら大倉商業学校(現東京経済大学)の夜間部に通い、1920年(大正9年)に独立して横浜で輸出織物商三木商店を創業、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災ですべてを失うが、同年9月30日神戸で匿名組合三共商会として再起、繊維製品を取り扱い、1938年(昭和13年)には株式会社に改組、1944年(昭和19年)には三共生興株式会社と改称、1981年(昭和56年)4月10日病身を厭うことなく自民党蚕糸絹業対策特別委員会に神戸生絲取引所理事長として出席し、国際情勢に後れをとる蚕糸行政に対し「経済原則に反する政策は必ずつぶれる、今や破壊の時になった。
本田 親男(ほんだ ちかお、1899年11月21日 - 19… 本田 親男(ほんだ ちかお、1899年11月21日 - 1980年7月30日)は、鹿児島県出身のジャーナリスト、実業家。毎日新聞社社長、会長、最高顧問、毎日放送会長、相談役を歴任した他、日本新聞協会会長を2期務めた。 本田の祖先は、武蔵国本田郷の領主・本田左衛門尉貞親で、島津忠久夫人の父。 1899年11月21日、鹿児島市下荒田町生まれ。鹿児島師範学校附属幼稚園を経て、1906年に鹿児島市立八幡小学校へ入学。このころ本田の人間形成に与えた訓育がある。旧薩摩藩独自の教育制度・郷中制度の精神を受け継いだ学舎「研明舎」での教育がそれで、本田は5歳ごろより小学校の放課後にここへ通い、先輩舎生の監督下で諸学科の復習や予習をした。
永澤 邦男(ながさわ くにお、1899年(明治32年)11月… 永澤 邦男(ながさわ くにお、1899年(明治32年)11月21日 - 1972年(昭和47年)4月9日)は、慶應義塾長、慶應義塾大学法学部長兼大学院法学研究科委員長、法学博士、名誉教授。日本私立大学連盟会長、私立大学振興政策委員会委員長、私立大学設置審議会会長、日本私学振興財団初代理事長を歴任。 従三位瑞宝大綬章[要出典]。家紋は丸に橘紋[要出典]。 東京都生まれ。1924年(大正13年)慶應義塾大学法学部法律学科卒業。法学部助手、助教授を経て1933年(昭和8年)に教授。刑事法を担当。1947年(昭和22年)1月神崎丈二と共に慶應義塾常任理事に就任。1956年(昭和31年)7月常任理事を退任し、1963年から法学部長。
大友 純(おおとも じゅん、明治32年(1899年)11月2… 大友 純(おおとも じゅん、明治32年(1899年)11月21日 - 昭和53年(1978年)12月28日)は、日本の俳優である。綜芸プロ、テアトロ脚光、ハナブサプロ、東京俳優生活協同組合に所属していた。 1899年(明治32年)11月21日、宮城県仙台市に生まれる。 旧制・東京音楽学校(現在の東京芸術大学)乙種師範科卒業。1923年(大正12年)から1929年(昭和4年)まで、旧制・大阪市立難波高等小学校(現在の大阪市立難波元町小学校)と同じく旧制の群馬県師範学校(のちの群馬師範学校、現在の群馬大学学芸学部)に音楽教師として勤務した。1929年、田谷力三、淡谷のり子らと松竹座チェーンのアトラクションに出演し、以後は歌手兼俳優としてカジノ・フォーリーやムーランルージュ新宿座、榎本健一一座などで活躍した。
麻生 武治(あそう たけはる、1899年11月21日 - 1… 麻生 武治(あそう たけはる、1899年11月21日 - 1993年5月30日)は、日本のスキー選手、陸上競技選手、登山家。父親は日本銀行の理事、母親はピアニストであった。 東京市麻布区(現在の東京都港区)に生まれる。 旧制暁星中学校を経て、早稲田大学へ進学した。早稲田大学時代には第1回の箱根駅伝より出場し1年目は9区、2年目、3年目は5区で山登り5区を走り、3回とも区間賞を獲得した。その後はベルリン体育大学(ドイツ語版)に留学し、1923年には日本人として初めてマッターホルンに登頂し、翌年にはスキーで冬の槍ヶ岳の登頂に成功している。 1928年にはスイスで開催された1928年サンモリッツオリンピックに日本人として冬季オリンピック初出場を果たす。
鈴木 弼美(すずき すけよし、1899年〈明治32年〉11月… 鈴木 弼美(すずき すけよし、1899年〈明治32年〉11月21日 - 1990年〈平成2年〉5月26日)は、日本の教育者。内村鑑三の弟子で、基督教独立学園高等学校の創設者。初代校長。 山梨県北都留郡七保村大字葛野(現・大月市)で、800年続いた甲斐絹問屋・鈴木商店の店主鈴木治作の次男として生まれる。 1920年、東京帝国大学理学部物理学科に入学。1924年1月27日、東京府柏木の内村鑑三邸内にある今井館で行われた聖書研究会に出席。6月頃、内村が柏木集会に参加していた青年に山形県小国郷と岩手県の北上山地への伝道を呼びかける。この2ヵ所は、内村がアメリカに留学していた頃に日本地図を広げて、将来伝道すべき所として選んだ、人跡稀な34ヵ所の場所の一つであった。
田嶋 一雄(たしま かずお、1899年11月20日 - 19… 田嶋 一雄(たしま かずお、1899年11月20日 - 1985年11月19日)は、日本の実業家。ミノルタカメラ(現:コニカミノルタ)創業者。和歌山県海南市出身。 座右の銘は「難有り有難し」。 1899年11月20日、和歌山県海草郡日方町(現:海南市日方)で父・田嶋常吉と母・きくえの長男として生まれた。田嶋家は鎌倉時代に大野荘を管理していた大野十番頭を務めた家柄で、祖父・長三郎の代から漆器製造卸業の田嶋長三郎商店を営んでいた。父親は神戸で貿易会社を経営していた。 日方尋常高等小学校、和歌山商業学校を経て、神戸高商を受験したが受からず、親戚が慶應義塾長の鎌田栄吉と知り合いであったことから同大経済学部に進学し、1923年に卒業。
小野 謙次郎(おの けんじろう、1899年11月20日 - … 小野 謙次郎(おの けんじろう、1899年11月20日 - 1983年10月5日)は、日本の元裁判官。名古屋高等裁判所長官、札幌高等裁判所長官などを務めた。 佐賀県に生まれる。1917年福岡県立中学修猷館を経て、1923年東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。 1925年判事に任官され、福岡地方裁判所判事、長崎控訴院判事部長を経て、1946年2月山形地方裁判所所長に進み、鹿児島地方裁判所所長、福岡高等裁判所判事、福岡地方裁判所所長を歴任の後、1960年11月札幌高等裁判所長官、1963年6月名古屋高等裁判所長官に就任。1964年11月停年退官。
江上 トミ(えがみ とみ、1899年11月19日 - 198… 江上 トミ(えがみ とみ、1899年11月19日 - 1980年7月21日)は、日本の料理研究家。テレビ放送草創期より活躍した料理番組講師の草分けであり、日本の「料理研究家」の元祖。 NHK『きょうの料理』や日本テレビ『キユーピー3分クッキング』などに出演して、暖かいおふくろさんの笑顔と熊本弁で人気を博した。 「ご家庭の幸せは愛情をこめた料理から」をモットーとし、家庭料理の普及に尽くして江上料理学院を創設。同学院は現在、トミの長男の嫁の江上栄子と孫の江上佳奈美に引き継がれている。 出身地の地元テレビ局であるテレビ熊本 (TKU) が、ドキュメンタリードラマ「郷土の偉人シリーズ」でトミの生涯を描いた「日本の食卓を変えた火の國の女江上トミ」(演:細川ふみえ)を制作し、2006年11月5日に九州7県のフジネットワーク系列局で放送した。
辻 直四郎(つじ なおしろう、1899年11月18日 - 1… 辻 直四郎(つじ なおしろう、1899年11月18日 - 1979年9月24日)は、日本の古代インド学者・言語学者で、日本におけるインド古典学研究を開拓し、業績は海外の学会でも高く評価された。 ヤジュル・ヴェーダ サーマ・ヴェーダ アタルヴァ・ヴェーダ (アーラニヤカ) (ウパニシャッド)
石山 脩平(いしやま しゅうへい、旧姓:小林、1899年11… 石山 脩平(いしやま しゅうへい、旧姓:小林、1899年11月18日 - 1960年6月18日)は、日本の教育学者。東京教育大学初代教育学部長。専門はギリシア教育史。梅根悟とともに教育課程「コア・カリキュラム」を推進した。伝統的な三読法(通読・精読・味読)を提唱した。 静岡県出身。静岡県浜松師範学校、東京高等師範学校を経て、1929年に京都帝国大学文学部哲学科を卒業。東京文理科大学教授、1949年、東京教育大学初代教育学部長。1952年、「ポリス教育の成立と性格」で広島文理科大学より文学博士の学位を取得。1955年6月、小、中学校における教科書関係事件に関し衆議院行政監察特別委員会に証人喚問された。
塩見 俊雄(しおみ としお、1899年(明治32年)11月1… 塩見 俊雄(しおみ としお、1899年(明治32年)11月18日 - 1988年(昭和63年)2月27日)は、日本の地方政治家。土佐市長。位階は正六位。 塩見熊吉の長男として高知県高岡郡戸波村(現・土佐市)に生まれる。農業のかたわら青年団に入り戸波青年団会長、高岡青年団会長(5ケ町村連合)などを歴任。1922年(大正11年)戸波村産業組合の職員に採用され、翌年には専務理事に抜擢される。1926年(大正15年)には高知県産業組合中央高知市会の職員となる。 その後高知県農業会高岡支部経理課長、農業会金融課長(昭和20年)となるが、翼賛壮年団長をしていたため、GHQによる公職追放を受ける。サンフランシスコ講和条約の締結により、日本が主権を回復したことに伴い、1953年(昭和28年)追放解除。
大林 良一(おおばやし りょういち、1899年11月17日 … 大林 良一(おおばやし りょういち、1899年11月17日 -1988年10月18日 )は、日本の経済学者である。専門は、社会保障学、保険学。一橋大学名誉教授、第9代成城大学学長。
養老 静江(ようろう しずえ、1899年〈明治32年〉11月… 養老 静江(ようろう しずえ、1899年〈明治32年〉11月16日 - 1995年〈平成7年〉3月22日)は、日本の医師。次男は解剖学者で東京大学名誉教授の養老孟司。 神奈川県津久井郡(現在の相模原市)出身。 神奈川県立横浜第一高等女学校を経て、東京女子医学専門学校卒業。 1936年、鎌倉市で小児科を開業。94歳まで診療を続けた。 はじめに弁護士と結婚して二児をもうけるが、10歳年下の男性と恋愛をして、離婚、再婚をした。 1994年、荻野吟子賞を受賞。 1997年、田嶋陽子は養老静江にインタビューをした内容をもとに『女の大老境』という書籍を著す。 2020年、堀越英美によって著された『スゴ母列伝』に養老静江のことが取り上げられている。
友近 美晴(ともちか よしはる、1899年(明治32年)11… 友近 美晴(ともちか よしはる、1899年(明治32年)11月16日 - 1980年(昭和55年)3月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 愛媛県出身。呉服卸商・友近彦次郎の三男として生まれる。広島高等師範学校附属中学校(現広島大学附属中学校・高等学校)、広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1920年(大正9年)5月、陸軍士官学校(32期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し野戦重砲兵第4連隊付となる。1923年(大正12年)12月、陸軍砲工学校高等科(29期)を卒業した。陸軍野戦砲兵学校付などを経て、1928年(昭和4年)11月、陸軍大学校(41期)を卒業し野戦重砲兵第4連隊中隊長に就任。
松尾 邦之助(まつお くにのすけ、1899年(明治32年)1… 松尾 邦之助(まつお くにのすけ、1899年(明治32年)11月15日 - 1975年(昭和50年)4月3日)は、日本の新聞記者、評論家、翻訳家。 反権力・個人主義的志向を持つ人物であった。1940年のナチス・ドイツの占領まで長くパリに住み、日仏の文化交流に貢献した。 松尾嘉平・きみの次男として、静岡県引佐郡引佐町金指(現・浜松市北区引佐町金指)に生まれた。家は裕福な呉服商で、嘉平ときみの間には邦之助を含めて三男三女がいた。金崎の小学校、気賀(現・浜松市北区細江町気賀)の高等小学校を経て静岡県立浜松中学校(現・静岡県立浜松北高等学校)を了え、親の希望の旧制高等学校でなく、東京外国語学校フランス語文科に学び、1922年、逓信省の嘱託となり、その秋、嘉平の渋々の承諾を得て渡仏し、パリに住んだ。
呉 三連(ご さんれん、1899年11月15日 - 1988… 呉 三連(ご さんれん、1899年11月15日 - 1988年12月29日)は、中華民国の政治家、日本のジャーナリスト。初代民選台北市長。 日本統治時代の台湾の嘉義県の寒村頭港仔出身。1919年台湾総督府国語学校国語部を卒業し、東京高等商業学校(現一橋大学)予科に進学。留学中日本統治下の台湾における台湾人政治運動に加わり、1920年新民会、東京台湾青年会に参加。同年下村宏台湾総督府総務長官と面会し日本の植民地政策を批判し、その後台湾議会設置運動に参加した。 1925年東京商科大学(現一橋大学)卒業。陸上競技部出身。卒業後大阪毎日新聞記者となる。1932年台湾新民報が創刊されると編集者として台湾に戻り、論説委員、整理部長、政治部長を兼任した。