坂口 昇平(さかぐち しょうへい、1964年10月20日 -… 坂口 昇平(さかぐち しょうへい、1964年10月20日 - )は北海道出身の元スキージャンプ選手。 札幌陵北中学校→北海高等学校→雪印乳業。1994年現役引退。
北海高等学校:130人
坂口 昇平(さかぐち しょうへい、1964年10月20日 -… 坂口 昇平(さかぐち しょうへい、1964年10月20日 - )は北海道出身の元スキージャンプ選手。 札幌陵北中学校→北海高等学校→雪印乳業。1994年現役引退。
田尾 克史(たお かつし、1963年5月1日 - )は、北海… 田尾 克史(たお かつし、1963年5月1日 - )は、北海道出身の元スキージャンプ選手、指導者。血液型はB型。愛称は「じぃじ」 札幌市立山の手小学校3年生の時にジャンプを始め、札幌琴似中学校-北海高校を経て1982年雪印乳業に入社。 1988年のカルガリーオリンピック日本代表。 1990年3月現役引退し一時期社業に専念していたが1992年からコーチに復帰、1998年には同チーム監督に就任。 一方で全日本ジャンプチームのコーチも務め、2003年9月にはチーフコーチに就任。2004年-2005年はヘッドコーチを務める。 これに関連して2004年から雪印チーム監督を富井啓介に交代、自らはアドバイザーに就任。
稲田 博(いなだ ひろし、1960年6月12日 - )は、俳… 稲田 博(いなだ ひろし、1960年6月12日 - )は、俳優、脚本家、演出家。劇団イナダ組代表。「イナダ」名義でも活動する。北海道函館市出身。北海高等学校、北海道東海大学(現・東海大学)芸術学部情報デザイン学科卒業。東海大学(北海道・旭川キャンパス芸術工学部)と北海道浅井学園大学(現・北翔大学)生涯学習システム学部・芸術メディア学科・舞台芸術コース非常勤講師。 大学時代に1学年上の先輩に誘われ、演劇を始める。北海道東海大学時代は演劇部「えびぞった」の部長。1988年からは自身のプロデュース公演を行い、活動。1990年、現在CREATIVE OFFICE CUEの会長である鈴井貴之と意気投合し、鈴井主宰として、劇団「OOPARTS」を立ち上げる。
佐藤 兼伊知(さとう けんいち、本名:佐藤 健一(読み同じ)… 佐藤 兼伊知(さとう けんいち、本名:佐藤 健一(読み同じ)、1959年9月13日 - )は、北海道札幌市白石区出身の元プロ野球選手(内野手)、プロ野球コーチ。 北海高では、エースとして1977年夏の甲子園南北海道予選決勝に進出するが、札幌商に完封を喫し甲子園出場を逸する。 同年のドラフト5位でロッテオリオンズ(現:千葉ロッテマリーンズ)に入団。 1979年に内野手に転向する。 1986年には、水上善雄の欠場もあって遊撃手、三塁手、二塁手を兼ねて活躍、同年は初の規定打席(22位、打率.283)に達する。翌年以降もユーティリティプレイヤーとして起用され、堅実な守備と勝負強いバッティングを見せた。 1989年には、開幕直後に故障欠場を余儀なくされるが、その後は遊撃手に定着し打率.297の好成績をマーク。
岡島 功治(おかじま こうじ、1957年3月23日 - )は… 岡島 功治(おかじま こうじ、1957年3月23日 - )は、日本の元フィギュアスケート選手(ペアスケーティング)。現在はコーチ。元パートナーは竹崎睦、加藤はま江、浅野奈穂子。1979年全日本選手権2位。 北海道出身。北海高等学校、日本大学卒業。 1976-77シーズン、浅野奈穂子とペアを組み全日本選手権に出場し3位に入る。1978-79シーズン、加藤はま江とペアを組み直して挑んだ全日本選手権で再び3位となる。1979-80シーズン、竹崎睦と新たにペアを組み直す。同年の全日本選手権では岡部由紀子/無良隆志組に次いで2位に入る。 選手引退後は指導者となり、千葉県松戸市の新松戸アイスアリーナのコーチを経て現在は新宿区にある明治神宮外苑アイススケート場の専任コーチを務める。
坂井 紀雄(さかい のりお、1957年2月11日 - )は、… 坂井 紀雄(さかい のりお、1957年2月11日 - )は、日本の歌手、ベーシスト、ソングライター、編曲家、音楽プロデューサー。 北海道出身。北海高等学校、北海学園大学出身。札幌を拠点に三国義貴らとともにバンド「ザ・フェアリー」を結成しベース・ボーカルを担当していたが、「マライア」の事務所関係者の紹介により、キーボーディスト・笹路正徳に誘われて上京を決意。 1983年、デビューに先駆けて、稲垣潤一のサポート・バンド「TOPICS」にベーシスト兼コーラスとして参加し、コンサート・ツアー並びにレコーディングでも活躍。 同年、ロック・バンド「ナスカ」(Key.笹路正徳、G.土方隆行、Vo.&B.坂井紀雄、Ds.辻野リューベン)のボーカリスト兼ベーシストとしてアルバム『Words Of Love』でCBS・ソニーからデビュー。
竹口 幸紀(たけぐち ゆきのり、1955年6月16日 - )… 竹口 幸紀(たけぐち ゆきのり、1955年6月16日 - )は、北海道出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 北海高等学校では、上手から投げおろす本格派。落差の大きなドロップやシュートが武器で、1試合平均10奪三振をマークしていた。2年秋の全道大会では準決勝で先発したが降板後にチームは延長15回の末に惜敗。翌春の全道大会では先発の機会はなかったが決勝ではエース・佐藤博正を擁する兄弟校の札幌商と対戦、救援登板して優勝に貢献。同年夏の大会はチームの不祥事で1年間の活動停止により出場辞退。 1973年のドラフトで日本ハムファイターズから6位で指名され入団。日本ハムを1975年に自由契約となり、ヤクルトスワローズに入団したが、一軍公式戦に出場することはなく、1976年引退した。
結城 真一(ゆうき しんいち、1954年5月11日 - )は… 結城 真一(ゆうき しんいち、1954年5月11日 - )は、日本の元俳優、モデル。別名、新保 有一(しんぽ ゆういち)。 北海道出身。SOSモデルエージェンシーに所属していた。 高校時代(北海高校)に甲子園に2回出場、南海ホークス(現:福岡ソフトバンクホークス)からも誘いを受けた腕前だったという。デパートの企画室に勤務していたが、モデルの仕事に駆り出されたのを機に転身し、俳優に転向後の1980年、テレビドラマ『電子戦隊デンジマン』にて赤城一平 / デンジレッド 役としてテレビドラマ初出演・初主演を務めた。 『デンジマン』放送終了後もテレビドラマや舞台などに出演するが、芸能界を引退。引退後は、フィリピンに在住し、プロモーター業に従事している。
伊藤 高男(いとう たかお、1952年11月5日 - 202… 伊藤 高男(いとう たかお、1952年11月5日 - 2021年7月29日)は、日本の元スキージャンプ選手。 北海高校-専修大学-国土計画-水戸スキークラブ 1976年のインスブルックオリンピックに出場し70m級24位、90m級22位の成績を残した。 ノルディックスキー世界選手権には2回出場。1974年のファルン大会では90m級で51位に終わる。1978年のラハティ大会では70m級37位、90m級42位だった。 1973年のスキーフライング世界選手権では転倒して非公認ながら当時の世界記録に相当する176mを飛んだ経験もある。同大会で転倒し、鎖骨を骨折した。 1978年には大倉山で4連勝(ただし間に70m級の試合を挟んでいる)を記録した。
大谷 喜一(おおたに きいち、1951年(昭和26年)7月1… 大谷 喜一(おおたに きいち、1951年(昭和26年)7月19日- )は、日本の薬剤師、実業家、株式会社アインホールディングス代表取締役社長。北海高等学校、日本大学理工学部薬学科卒。日本大学校友会会長。
高橋 勝成(たかはし かつなり、1950年8月5日 - )は… 高橋 勝成(たかはし かつなり、1950年8月5日 - )は、北海道旭川市出身のプロゴルファー。SINACOVA所属。 旭川で日本人の母の元に産まれ、北海高校卒業後は日本大学経済学部に進学し、ゴルフ部では主将を務めるなど腕を磨く。 大学卒業後は父の勧めにより1年間のサラリーマン生活を経験し、1975年5月1日にプロテスト合格。 練習熱心さと技術、用具などに関する研究心の旺盛なことに定評があり、プロ2年目の1976年にアジアサーキットの韓国オープンで初優勝 。 韓国オープンは3日目の雷雨のため54ホールに短縮された大会で、通算2アンダー214で並んだミヤ・アエ( ビルマ)と3ホールずつのプレーオフを戦い、2回目に高橋がアエを1ストロークリードして優勝 。
村井 英司(むらい ひでし、1950年1月9日 - )は、北… 村井 英司(むらい ひでし、1950年1月9日 - )は、北海道札幌市出身の元プロ野球選手(捕手、外野手)・コーチ。 札幌市立南小学校および札幌市立柏中学校を経て、1965年に進学した北海高校では主将兼外野手を務める。3年次の1967年には夏の甲子園南北海道予選決勝で苫小牧東高を降して甲子園に進むが、村井は予選で骨折したため本大会出場はならなかった。同年のドラフトで南海ホークスから15位指名を受けるも拒否し、卒業後の1968年には電電北海道へ入社。捕手として1971年から1973年まで3年連続で都市対抗に出場。ヤクルトの若松勉は2歳年上で、北海高校、電電北海道で一緒にプレーした。 1973年のドラフト4位で日本ハムファイターズに入団。
三笑亭 夢之助(さんしょうてい ゆめのすけ、1949年〈昭和… 三笑亭 夢之助(さんしょうてい ゆめのすけ、1949年〈昭和24年〉6月5日 - )は、元落語家、元タレント。北海道札幌市出身(南富良野町生まれ)。本名∶佐藤 信夫。出囃子∶『奴の行列』。 1968年に三笑亭夢楽に入門、前座名「夢九」。 1972年、二ツ目昇進し「夢之助」に改名。 1983年に四代目春雨や雷蔵、二代目柳亭小痴楽、古今亭寿輔、桂京丸、五代目春風亭柳條、三遊亭春馬と共に真打昇進。 タレントとしてはアートプロモーションに所属し、2015年頃までは落語芸術協会の理事も務めていたが、2019年頃に同協会を退会して引退した。若手時代から親交のあった桂米助と三遊亭小遊三がYouTubeの対談で明かしたところによると、夢之助は肺気腫を患って次第に寄席へ出演しなくなり、講演程度の活動は続けるとしていたものの、最終的に同協会へ名跡返上の手紙を出し、完全に廃業したという。
小堀 雅浩(こぼり まさひろ、1949年- )は、日本の経営… 小堀 雅浩(こぼり まさひろ、1949年- )は、日本の経営学者・流通マーケティング研究者。特に、ネットスーパーの発展とビジネスシステムを研究する。北海商科大学名誉教授。 北海高等学校卒業。早稲田大学商学部卒業。1982年、早稲田大学大学院商学研究科博士課程修了、1982年、北海学園北見大学商学部専任講師。後に同商学部助教授、教授を経て、勤務校の校名変更にともない2005年に北海商科大学商学部教授。2020年同定年退職。同名誉教授。
金剛 正裕(こんごう まさひろ、1948年11月18日 - … 金剛 正裕(こんごう まさひろ、1948年11月18日 - 2014年8月12日)は、北海道雨竜郡一已村(現・深川市)出身で二所ノ関部屋に所属した大相撲力士。本名は北村 正裕(きたむら まさひろ、旧姓:吉沢)。得意技は右前褌、寄り。最高位は東関脇。 1948年に北海道で生まれる。兄弟と同じく運動神経が抜群で、特に音江中学校時代は野球で剛速球投手・4番打者として活躍し、北海高等学校から勧誘されるほどだった。しかし勉強が嫌いで進学意識が全く無かったことと、1963年の夏の巡業で訪れた大鵬幸喜に憧れて力士を志すようになり、兄弟の反対を押し切って深川ハイヤーの社長の協力で二所ノ関部屋に入門した。1964年5月場所で「大吉沢」の四股名で初土俵を踏んだ。
富山 睦浩(とみやま むつひろ、1947年10月3日 - )… 富山 睦浩(とみやま むつひろ、1947年10月3日 - )は、日本の実業家。サツドラホールディングス株式会社創業者・代表取締役会長。 北海道根室市の漁師の家に6人兄弟の末子として生まれる。北海高等学校を経て、昭和医科大学薬学部卒業後、薬剤師となり、一の山形薬業やウロコ薬局に勤務。1972年に手稲山口のスーパーのテナントとしてサッポロドラッグストアーを創業。1983年サッポロドラッグストアー設立、同社代表取締役社長に就任。2014年には東京証券取引所市場第一部上場を果たした。2015年サッポロドラッグストアー代表取締役会長。2016年サツドラホールディングス代表取締役会長。札幌商工会議所常議員。
古川 年正 (ふるかわ としまさ、1947年5月11日 - … 古川 年正 (ふるかわ としまさ、1947年5月11日 - )は、日本のアルペンスキーヤー 。 北海道枝幸郡出身。北海高等学校を経て、芝浦工業大学へ進む。1972年札幌オリンピックで男子回転に出場したが、骨折による途中棄権で終わった。のち日本オリンピック委員会の理事や選手強化副本部長、全日本スキー連盟常務理事を歴任し、2014年ソチオリンピックでは日本代表選手団の副団長を務めた。2017年(平成29年)第一線から退いた。2018年(平成30年)現在、長野県上高井郡野沢温泉村に在住し、ペンション・シュネーを経営している。
若松 勉(わかまつ つとむ、1947年4月17日 - )は、… 若松 勉(わかまつ つとむ、1947年4月17日 - )は、北海道留萌市出身の元プロ野球選手(外野手)、野球指導者、野球解説者。 現役時代はヤクルトアトムズ・スワローズで長きにわたって活躍し、引退後はヤクルトで打撃コーチ・二軍監督・監督を務めた「ミスター・スワローズ」。広角に打ち分ける巧みなバッティングで高打率を残し、公称168cmと小柄な体格ながらも通算220本塁打、2173安打を放つなど、数々の記録を打ち立てたことから「小さな大打者」、「小さな巨人」などの異名を持つ。 2020年終了時点で、NPBで通算6000打席以上の中で打率1位(4000打席以上では3位、日米通算では4位)。年間打率3割12回は川上哲治と並んで歴代3位。
谷木 恭平(たにき きょうへい、1945年11月12日 - … 谷木 恭平(たにき きょうへい、1945年11月12日 - )は、北海道札幌市中央区出身の元プロ野球選手(外野手)・コーチ。 北海高では2年次の1962年、中堅手として甲子園に春夏連続で出場。春の選抜では1回戦で御所工に敗退するが、夏の選手権では準々決勝に進み、伊藤久敏投手を擁する久留米商と対戦。先発した3年生エース松谷栄司が5回に負傷退場し、同期の吉沢秀和が急遽リリーフするが、9回に3点を取られ逆転負け。他のチームメートに1年上の中村之保遊撃手がいた。 3年次の1963年には春の選抜で吉沢の好投もあって準決勝に進み、優勝候補の早実にサヨナラ勝ち。決勝では下関商の池永正明に抑えられ0-10で大敗するが、初めて準優勝旗が津軽海峡を越えることとなった。
田岡 克介(たおか かつすけ、1945年10月11日 - )… 田岡 克介(たおか かつすけ、1945年10月11日 - )は、日本の政治家。北海道石狩市元市長(5期)。 北海道石狩郡石狩町(現石狩市)出身。北海高等学校卒業。1968年(昭和43年)3月、國學院大學文学部卒業。同年4月、石狩町役場に就職。1978年(昭和53年)4月、同町民生部課長。1980年(昭和55年)6月、同町総務部参事。途中、石狩湾新港管理組合課長に出向し、1995年(平成7年)に同町企画調整部長を経て、1996年(平成8年)3月、石狩町助役就任。1996年市制に移行後も、石狩市助役として斉藤英二市長を支えた。 斉藤市長が急病で倒れ辞職。1999年(平成11年)6月27日に行われた石狩市長選挙に出馬し、初当選。
吉沢 秀和(よしざわ ひでかず、1945年5月13日 - 2… 吉沢 秀和(よしざわ ひでかず、1945年5月13日 - 2025年1月2日)は、長野県出身のプロ野球選手(投手)。1967年までの登録名は吉沢 勝。 実家は長野県で農家を営んでおり、親族がいたことから下宿して進んだ北海高等学校では2年生の時、控え投手として1962年の春夏の甲子園に出場。春の選抜では1回戦で御所工に敗退、吉沢の登板はなかった。夏の選手権では準々決勝に進み、伊藤久敏投手を擁する久留米商と対戦。先発した3年生エース松谷栄司が5回に負傷退場し、吉沢は急遽リリーフに立つが、9回に3点を取られ逆転負け。苦い甲子園デビューとなった。同年の岡山国体では1回戦で先発。作新学院の八木沢荘六、加藤斌に投げ勝ち完封勝利を飾る。
宮田 雪(みやた きよし、1945年3月3日 - 2011年… 宮田 雪(みやた きよし、1945年3月3日 - 2011年2月14日)は日本の脚本家、漫画原作者、社会活動家。秋田県出身。早稲田大学文学部中退。 農林省林野庁官僚の父と母の次男として秋田県大曲市(現・大仙市)に生まれる。父の転勤にともない函館市・前橋市などを経て、現在の札幌市豊平区平岸に移り、高校時代まで過ごす。父は短歌の私家集を発行するなど文人としての面も持つが、「文学では飯は食えない」と常に厳しく接していた。雪は厳格な父に反感をおぼえるが、その才を受け継ぎ、密かに脚本家を志すようになる。北海高等学校から早稲田大学文学部へ進学し、「ワセダミステリクラブ」に所属。曽根忠穂(のち「奇想天外」編集長)や石上三登志(のち、CM作家、評論家)らと、映画・漫画などを論じる同人誌『OFF』を上梓。
中村 之保(なかむら ゆきやす、1944年9月11日 - )… 中村 之保(なかむら ゆきやす、1944年9月11日 - )は、元プロ野球選手である。ポジションは内野手(主に二塁手を守った)。北海道出身(ただし、森岡浩著『プロ野球人名事典』では、1990年版から2003年版まで一貫して神奈川県出身とされており、同書を出典にしたと見られるその他の資料でも神奈川県出身とするものが多い。なお、著者の森岡はこの記述に関しての出典を全く示していない) 札幌市立啓明中学校から北海高校(北海道)に進み、甲子園に3回出場。1961年の第33回選抜高等学校野球大会では、1回戦で御坊商工に延長10回サヨナラ勝ち。2回戦は同期の今井義則投手が先発するが、この大会に優勝した法政二高の柴田勲に抑えられ敗退。
金野 昭次(こんの あきつぐ、1944年9月1日 - 201… 金野 昭次(こんの あきつぐ、1944年9月1日 - 2019年9月5日)は、北海道札幌市西区出身の元スキージャンプ選手。母方の血縁に大倉山ジャンプ競技場初代バッケンレコード保持者の浜謙二がいる。 小学3年生の時にスキージャンプを始める。北海高校から日本大学に進学し、同大スキー部監督の八木祐四郎の指導を受ける。卒業後は北海道拓殖銀行に入行。 1968年グルノーブルオリンピックで五輪初出場。しかし、70m級で24位、90m級で20位に終わる(4年後に札幌オリンピックの開催が決まっていた日本は、この大会に過去最高の62選手を送り込んだが、メダルはおろか6位入賞すら果たせなかった)。 1972年の札幌オリンピックで2度目の五輪出場を果たし、70m級で銀メダルを獲得。
佐藤 進(さとう すすむ、1942年11月26日 - )は、… 佐藤 進(さとう すすむ、1942年11月26日 - )は、北海道札幌郡豊平町豊羽鉱山(現札幌市南区)出身の元プロ野球選手(投手)。 中学時代は卓球の選手。北海高校ではエース、四番打者として1960年に春夏連続で甲子園に出場。春の選抜では準決勝まで勝ち上がるが、高松商の左腕エース松下利夫(明大-四国電力)に抑えられ0-2で完封負け。高松商には山口富士雄がおり、この大会で優勝している。夏の選手権は準々決勝で静岡高に惜敗。しかし秋の熊本国体では、決勝で米子東高の宮本洋二郎に3-0で投げ勝ち初優勝を飾る。高校の1年上には荻野一雄、茅野智行がいた。 高校卒業後は、社会人野球の富士製鐵室蘭に入団。1963年の都市対抗に出場。
三井 辨雄(みつい わきお、1942年〈昭和17年〉11月2… 三井 辨雄(みつい わきお、1942年〈昭和17年〉11月24日 ‐ 2021年〈令和3年〉4月2日)は、日本の政治家、実業家、薬剤師。 衆議院議員(4期)、国土交通副大臣(菅直人第1次改造内閣・菅直人第2次改造内閣)、厚生労働大臣(第15代)などを歴任し、青山会(樽床伸二グループ)代表世話人を務めた。報道等では新字体で三井 弁雄(みつい わきお)の表記も用いられる。 北海道札幌市生まれ。札幌市立柏中学校、北海高等学校、昭和薬科大学薬学部卒業。薬剤師免許を取得し、1967年登録。1975年、三井薬品株式会社を設立し、同社代表取締役に就任。その後医療法人交雄会の理事長に就任し、北海道内に3病院・2介護福祉施設を開設。
茅野 智行(ちの ともゆき、1941年10月24日 - )は… 茅野 智行(ちの ともゆき、1941年10月24日 - )は、北海道函館市出身の元プロ野球選手(内野手)。 北海高等学校では1959年にエース荻野一雄を擁し、夏の甲子園南北海道予選決勝に進出するが、苫小牧東高に10回裏サヨナラ負け。卒業後は芝浦工業大学へ入学。東都大学リーグでは1961年秋季にリーグ初優勝を経験。同季の最高殊勲選手であった岩下光一が卒業した後の正遊撃手となり、1963年秋季リーグでは打率.389で首位打者を獲得、全試合連続安打や無失策も記録した。ベストナイン(遊撃手)2回選出。 1964年に西鉄ライオンズに入団。同年はトニー・ロイの控えながら、遊撃手として13試合に先発出場する。
荻野 一雄(おぎの かずお、1941年6月22日 - )は、… 荻野 一雄(おぎの かずお、1941年6月22日 - )は、北海道紋別郡西興部村出身の元プロ野球選手(投手)。 西興部中時代から速球派投手として知られ、北海高校では2年からエース。2年生時の1958年秋季北海道大会札幌地区予選決勝では、千歳高に対して北海道高校野球史上初の完全試合を達成。秋季北海道大会準々決勝に進むが函館工に敗退。1959年春季北海道大会の対歌志内高戦では、初回先頭打者から13連続三振を記録。同年夏の甲子園南北海道予選決勝に進出するが、苫小牧東高に10回裏サヨナラ負け、甲子園出場を果たすことはできなかった。同期には茅野智行(芝浦工大 → 西鉄)・八木沼陽一(立教大 → 河合楽器)、1期下には佐藤進(富士鐵室蘭 → 国鉄・産経 → 中日)などのメンバーを擁していた。
笹岡 征雄(ささおか まさお、1941年 - )は、日本のス… 笹岡 征雄(ささおか まさお、1941年 - )は、日本のスポーツ研究者。札幌学院大学名誉教授。専門分野はスポーツ、運動処方論、日本スポーツ史、北海道スポーツ史。 出典:(笹岡征雄教授略歴・主要業績目録)による。 1975年7月26日、笹岡指導の下、当時の札幌短期大学の女子学生ら6人が、日本陸上競技連盟公認コースとして網走市役所から大空町までの区間を42195キロ完走し、女子初のフルマラソンとして記録された。
工藤 正明(くどう まさあき、1936年7月21日 - 20… 工藤 正明(くどう まさあき、1936年7月21日 - 2011年5月13日)は、北海道出身のプロ野球選手。 北海高校では1953年選抜高校野球大会から4季連続で甲子園に出場した。 1955年に読売ジャイアンツへ入団。1959年に退団し、その後は地元の電電北海道でプレーした。
田原 藤太郎(たはら とうたろう、1936年3月30日 - … 田原 藤太郎(たはら とうたろう、1936年3月30日 - 2018年12月30日)は、北海道札幌市出身のプロ野球選手(投手)。兄は、元プロ野球選手の田原基稔。 兄の影響で野球を始め、北海高では、1年夏の甲子園に控え投手としてベンチ入りするなど将来を嘱望された。2年次からエースとなるが、1952年夏の北海道大会では、1回戦で太田侃(元近鉄)・橋本力(元毎日)・渡部久仁男(元巨人)らを擁する函館西高に0対10と7回コールド負けを喫する。以後は当時の監督であった筧智の指示で、1日800球の投げ込みや走り込み、100本ノックなどの猛練習でスタミナをつける。同年の秋季大会では、決勝で再び函館西高と顔を合わせるが、8対1で快勝して雪辱を果たし、翌1953年の選抜出場を果たす。
熊本 信夫(くまもと のぶを、1935年12月16日 - 2… 熊本 信夫(くまもと のぶを、1935年12月16日 - 2022年10月6日)は、日本の法学者。専門は、行政法・アメリカ合衆国憲法、特に政教分離・行政手続法・環境法。学位は、法学博士(北海道大学・1973年)(学位論文「アメリカにおける政教分離の原則」)。北海学園大学名誉教授。弁護士(熊本信夫法律事務所所長)。藍綬褒章、瑞宝中綬章受章。北海道出身。
多田 修(ただ おさむ、1935年5月16日 - )は、北海… 多田 修(ただ おさむ、1935年5月16日 - )は、北海道出身の元アルペンスキー選手。 北海高 → 早稲田大学 → 伊勢丹 1955年の第28回全日本学生スキー選手権大会の回転で優勝。荒削りながら、コースの選定には独特の勘があったと言われる。1959年のスコーバレーのプレオリンピックでは、欧米の強豪を相手に、滑降・回転・大回転の3種目総合で4位に入る健闘を見せた。同年の第37回全日本スキー選手権大会アルペンスキー競技では、回転で猪谷千春・見谷昌禧に次いで3位に入り、翌1960年のスコーバレーオリンピックの代表に選出される。同オリンピックでは、アルペンスキーの滑降で46位、回転で26位、大回転で35位だった。
名塩良一郎(なしお りょういちろう、1932年12月7日 -… 名塩良一郎(なしお りょういちろう、1932年12月7日 - 2021年11月12日)は、株式会社ナシオの三代目で同社代表取締役会長。 スペイン文民功労勲章オフィシャル十字型勲章(2009年)
浅田 肇(あさだ はじめ、1930年9月21日 - )は、北… 浅田 肇(あさだ はじめ、1930年9月21日 - )は、北海道岩見沢市出身の元プロ野球選手(投手)。 北海高校から立教大学へ進学し、1951年に中退して国鉄スワローズへ入団 1953年に退団し、1956年から1962年まで電電北海道でプレーした。
岩本 政光(いわもと まさみつ、1929年(昭和4年)4月1… 岩本 政光(いわもと まさみつ、1929年(昭和4年)4月15日 - 2014年(平成26年)7月5日)は、日本の実業家、政治家。参議院議員(自民党)。 北海道札幌郡豊平町石山(現札幌市南区石山)生まれ。北海中学校を経て北海道大学工学部土木科を卒業した。学生時代からスキーの製作を手がけ、そのまま実業界へと入る。1960年(昭和35年)にタクシー業の東洋交通を設立した。父・政一の選挙活動を手伝ううちに、政界を志すようになる。北海道議会議員を2期務めたのち、1980年(昭和55年)の第12回参議院議員通常選挙で自民党から立候補、初当選を果たし参議院議員を2期務めた。 1990年(平成2年)にクモ膜下出血で倒れた。
田原 基稔(たはら もととし、1929年1月1日 - 199… 田原 基稔(たはら もととし、1929年1月1日 - 1996年)は、北海道出身のプロ野球選手(投手)。 弟は元中日ドラゴンズ投手の田原藤太郎。 北海中から社会人野球の札幌鉄道局を経て、1950年に新たに創立された国鉄スワローズに参加。 1年目は56試合に登板し、負けは22敗と多かったものの勝ち星は4完封を含める13勝を挙げ、チーム投手陣の中で1番の成績だった。1951年は31試合に登板するが4勝12敗と成績は振るわなかった。1952年は完封勝利の1勝しか挙げられず、1953年は1軍での登板がなかった。 1954年は中日ドラゴンズでプレーするが1軍登板は1試合に終わり、同年限りで現役を引退した。
田下 和男(たしも かずお、1929年 - )は、日本の工学… 田下 和男(たしも かずお、1929年 - )は、日本の工学者・教育者。専門は機械工学。北海学園北見大学名誉教授。 1946年北海中学校卒業。1949年室蘭工業専門学校機械工学科卒業。1949年北海高等学校教諭(~1950年)。1953年秋田大学鉱山学部卒業。1955年京都大学大学院工学研究科修了。 北海高等学校教諭(~1961年)。山陰短期大学商科非常勤講師(~1961年)。1961年室蘭工業大学短期大学部機械科講師。1963年奈良学芸大学学芸学部講師。1966年奈良教育大学教育学部助教授。1969年室蘭工業大学工学部工業教員養成課程教授。1975年北海学園大学工学部教授。1977年北海学園北見大学商学部教授。
石栗 龍雄(いしくり たつお、1928年12月15日 - )… 石栗 龍雄(いしくり たつお、1928年12月15日 - )は、日本の騎手、調教師。 1951年に国営競馬(のち日本中央競馬会)で騎手デビュー。1959年に引退し、1965年より調教師。主な管理馬には1980年天皇賞(秋)に優勝した牝馬プリテイキャストなどがいる。また横山典弘は門下生である。2000年に定年引退。日本中央競馬会調教師の石栗龍彦は長男。 1928年、北海道札幌市の商家に生まれる。取り立てて競馬に興味をもってはいなかったものの、騎手見習いとなった友人に誘われて競馬場に出入りをはじめ、馬に惹かれていった。太平洋戦争中には援農作業で農耕馬を扱っていた。 1945年に旧制北海中学を卒業し、1947年秋に稗田虎伊のもとへ騎手見習いとして入門。
山本 麟一(やまもと りんいち、1927年〈昭和2年〉1月1… 山本 麟一(やまもと りんいち、1927年〈昭和2年〉1月16日 - 1980年〈昭和55年〉10月16日)は、日本の俳優。愛称は山麟(ヤマリン)。北海道旭川市出身。 札幌市の北海中学出身。明治大学時代はラグビー部に所属し、1946年12月8日に神宮競技場で行われた明早戦にロック(4番)のポジションで出場。 卒業後の1953年、第1期東映ニューフェイスとして東映へ入社。翌年『学生五人男』に主演デビュー。以後『警視庁物語シリーズ』(全24作)の刑事役、『網走番外地シリーズ』の囚人役・看守役など、主にアクション映画の脇役・悪役として活躍。特に1960年代後半以降のヤクザ映画では悪役として活動し、『日本侠客伝シリーズ』、『昭和残侠伝シリーズ』における強面のヤクザ役を演じた。
斎藤 尞(さいとう りょう、1926年10月30日 - 20… 斎藤 尞(さいとう りょう、1926年10月30日 - 2015年10月30日)は、日本の元ラグビー選手及び同監督。 北海中学を経て明治大学へと進んだ。 第二次世界大戦後初めて行われた1946年を手始めに、明早戦に5シーズン連続で出場。1949年度シーズンには主将として、東西学生ラグビーフットボール対抗王座決定戦制覇など、11戦全勝の記録をもたらした。その後、大映に進み、ここでもプレーした。 また、1952年のオックスフォード大学戦(2試合)、1953年のケンブリッジ大学戦(2試合)に日本代表選手として出場し、キャップ4を獲得。 現役から退いた後は、長らく監督の北島忠治を補佐するヘッドコーチとして母校・明治大学の指導にあたる傍ら、1974年に日本代表監督に就任。
岡 英雄(おか ひでお、1926年3月5日 - 2009年2… 岡 英雄(おか ひでお、1926年3月5日 - 2009年2月22日)は、日本の政治家。江別市長(1983年 - 1995年)。北海道江別市出身。 北海中学校卒業後、1943年志願兵として海軍土佐航空隊で飛行兵となり、復員後江別町役場に入庁。1952年に結婚し3児をもうける。同市の総務課長、財政課長、経済建設部長を経て、1970年から1982年まで助役の後1983年に江別市市長選にて江別市長に初当選。以後連続3期を務める。1995年に4期目を目指すも新人候補者小川公人に敗れ、落選。1996年には江別市から市政功労者に選ばれた。2009年2月22日、急性呼吸不全のため死去、82歳。死没日をもって従五位に叙される。
小柄 義信(こづか よしのぶ、1926年 - )は、日本の政… 小柄 義信(こづか よしのぶ、1926年 - )は、日本の政治家。北海道余市郡余市町出身。北海中学校卒。北海道余市町町長(1971年-1986年)。 1946年余市町役場に入る。同町財務課長補佐を経て、1971年無所属で余市町長選挙に立候補、初当選。以後連続4期16年を町政を担い、北海道町村会副会長や後志町村会会長も務めた。1987年に落選。間もなく、町内の病院の入院患者などの票を現金買収した容疑(公職選挙法違反)で同年8月19日に逮捕された。 なお、町政では、1982年に余市町総合計画を掲げ、テーマは『豊かなる海と緑、経済と生活が調和した活力にあふれる北後志の拠点都市』とする計画を打ち立てた。
萩原 哲晶(はぎわら ひろあき、本名:南沢 哲晶、1925年… 萩原 哲晶(はぎわら ひろあき、本名:南沢 哲晶、1925年(大正14年)5月26日 - 1984年(昭和59年)1月13日)は、日本の作曲家。 北海道岩見沢市で病院長の家庭に生まれる。弟の萩原秀樹はジャズピアニスト。旧制北海中学を経て、1942年(昭和17年)、東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽学部)器楽科に入学(クラリネット専攻)。同級に岩井直溥や早川博二がいた。戦時中は團伊玖磨、芥川也寸志、斎藤高順、梶原完たちと陸軍戸山学校軍楽隊に入隊。素人の養成機関の軍楽隊に音楽学校の生徒が入る背景には、乗杉嘉壽から山口常光(戸山軍楽隊)、山口から阿南惟幾へ話の持ち込みがあり、全く便宜を計る必要がない音楽学校の生徒である彼等は特例中の特例で、いわゆる徴兵から逃げた。
坂 坦道(さか たんどう、1920年(大正9年)11月6日 … 坂 坦道(さか たんどう、1920年(大正9年)11月6日 - 1998年(平成10年))は、日本の彫刻家。本名は青嵐(せいらん)。 北海道女子短期大学名誉教授。 1920年(大正9年)11月6日、石川県珠洲郡内浦町恋路で生まれた。父は油彩画家の坂寛二、祖父は日本画家の坂靄舟という画家一家で、坦道も当初は画家を目指した。しかし、色覚異常であったため彫刻の道に進んだ。1930年(昭和5年)小学校3年の時に父の死亡により、母とともに北海道札幌市に移住した。1938年(昭和13年)北海中学校(現在の北海高等学校)卒業。1939年(昭和14年)東京美術学校彫刻科に入学、在学中の1943年(昭和18年)新文展(のちの日展)に初入選した。
中道昌喜(なかみち まさよし、1918年10月27日 - 2… 中道昌喜(なかみち まさよし、1918年10月27日 - 2007年1月15日)は、日本の実業家。中道機械株式会社および中道リース株式会社の創業者。 北海道函館市出身。後に北海道夕張市に移住し、幼少期を夕張で過ごした。夕張市立夕張第二小学校卒業。北海中学校を卒業する。 1945年機械販売と製作の中道兄弟商店を札幌に設立する。1950年1月19日株式会社に改組し、社名を中道兄弟機械株式会社と改称する。さらに、1963年1月社名を中道機械株式会社と改称。同社代表取締役社長。1963年札幌証券取引所に上場。1972年1月中道リース株式会社を設立し、リース部門に進出。同社代表取締役社長に就任。1985年中道リース代表取締役会長に就任。
有坂 隆祐(ありさか りゅうすけ 「たかひろ」とも、1917… 有坂 隆祐(ありさか りゅうすけ 「たかひろ」とも、1917年9月15日 - 1986年11月27日)は、東京府出身の男性フィギュアスケート選手、指導者。戦前から戦後にかけて全日本選手権を5度優勝した。明治大学卒。 幼時に北海道札幌市に移る。小学校4年の時にスケートを始め、札幌商業学校入学後に、アイスホッケーからフィギュアに転向。その後北海中学に移り、有望選手として注目される。1935年明治大学に入学し、1935-1936年シーズンの全日本フィギュアスケートジュニア選手権で優勝するが、翌年右足首を骨折する。その後再起し、1939-1940年シーズンに全日本選手権で初優勝。以後、戦時中止を挟みながらも、全日本選手権で4連覇し、1950-1951年シーズンの全日本選手権では5度目の優勝を果たした。
千秋 実(、1917年〈大正6年〉4月28日 - 1999年… 千秋 実(、1917年〈大正6年〉4月28日 - 1999年〈平成11年〉11月1日)は、日本の俳優。本名は佐々木勝治()。旧姓は森竹。 妻の女優佐々木踏絵とともに薔薇座を結成して舞台で活動後、映画俳優に転向し、黒澤明監督作品の常連俳優として活躍。テレビドラマでもホームドラマを中心に人気を得た。主な作品に『七人の侍』『隠し砦の三悪人』『花いちもんめ。』など。著書に妻との共著『わが青春の薔薇座』などがある。俳優の佐々木孝丸は岳父にあたる。俳優の佐々木勝彦は息子(次男)。女優の宮本信子の父親とは従兄弟同士であり、従兄弟の娘という関係性を説明するのが面倒との理由で宮本信子を姪と紹介していた。 1917年(大正6年)4月28日(土曜日)、北海道中川郡恩根内村(現在の美深町)に、呉服・洋品雑貨店を営む森竹家の3男として生まれる。
菊地 又男(きくち またお、1916年〈大正5年〉11月22… 菊地 又男(きくち またお、1916年〈大正5年〉11月22日 - 2001年〈平成13年〉7月1日)は、日本の画家。北海道札幌市出身。北海道美術界の重鎮、抽象絵画の牽引者とされ、反骨精神に富んだ姿勢から「反骨の画家」とも呼ばれた。 画家である兄の菊地精二に、絵を教わった。旧制北海中学校(後の北海高等学校)在学中の1933年(昭和8年)、16歳で道展に初入選した。当初は独立展に出展していたが、その後、自由美術展に移った。北海中学を卒業後は北海道庁に勤務したが、戦中の1938年(昭和13年)に兵役につき、中国に渡った。2年後の1940年(昭和15年)に帰国、北海中学の美術教師となり、教職の傍らで美術展への出展を続けた。
北村 暢(きたむら みつる、1915年4月22日 - 199… 北村 暢(きたむら みつる、1915年4月22日 - 1995年2月3日)は、日本の政治家。参議院議員(3期)。 北海道出身。旧制北海中学校を経て、1938年(昭和13年)北海道帝国大学農学部卒。大学卒業後、北海道庁に入庁。林野庁旭川営林局本庁を経て、1951年(昭和26年)全農林労働組合中央執行委員長に就任。1956年(昭和31年)、第4回参議院議員通常選挙全国区に日本社会党から出馬し当選、以後3期務めた。社会党内では左派に属した。1963年(昭和38年)参議院建設委員会委員長、1970年(昭和45年)参議院災害対策特別委員長を歴任した。引退後は、全国高齢者退職者連絡協議会会長などを務める。 1985年(昭和60年)勲二等瑞宝章受章(勲六等からの昇叙)。