スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
佐々木 謙次(ささき けんじ、1939年〈昭和14年〉1月2… 佐々木 謙次(ささき けんじ、1939年〈昭和14年〉1月2日 - 2024年〈令和6年〉12月24日)は、日本の政治家。宮城県古川市(現・大崎市)長(2期)。旭日小綬章。 宮城県大崎市志田郡古川町(旧・古川市→現・大崎市古川)出身。大崎市立古川中学校、宮城県古川高等学校を経て、1961年に東北学院大学文経学部卒。古川商工会議所に入り、中小企業相談所次長などを経て、1983年、古川市議会議員に当選。4期務め、議長も務めた。1999年に古川市議を退任し、翌2000年に古川市長に当選した。古川市長を2期務め、在任中に古川市は近隣の町村との合併に向け、協議会が結成され、古川市長の佐々木が合併協議会会長となった。
大森 英樹(おおもり ひでき、1938年 - )は、日本の数… 大森 英樹(おおもり ひでき、1938年 - )は、日本の数学者、東京理科大学名誉教授。
鈴木 徹(すずき とおる、1936年4月4日 - 2004年… 鈴木 徹(すずき とおる、1936年4月4日 - 2004年12月22日)は、宮城県大崎市古川(旧・古川市)出身のプロ野球選手・審判員。 宮城県大崎市古川(旧・古川市)の古川高校を卒業後、1955年に内野手として大洋ホエールズに入団。同期に伊藤春男がいる。一軍出場のないまま引退し、1963年にセ・リーグ審判員に転じる。1963年~1993年まで31年間審判員を務め、2539試合に出場したのち、1993年シーズン終了後引退。また、1992年から1993年までは審判部主任を務めた。審判員袖番号は17。 日本シリーズの出場はないが、オールスターは4回出場、1992年第2戦(7月19日・千葉マリンスタジアム、ヤクルトの古田敦也がオールスター史上初のサイクルヒットを達成した試合)では右翼線審、出身地(宮城球場)での開催となった第3戦では球審を務めた。
加藤 孝義(かとう たかよし、1936年 - )は、日本の心… 加藤 孝義(かとう たかよし、1936年 - )は、日本の心理学者、岩手大学・東北大学名誉教授。 宮城県大崎市に生まれる。大崎市立鳴子小学校、大崎市立鳴子中学校、宮城県古川高等学校卒業、1967年東北大学大学院文学研究科博士課程(心理学専攻)中退。東北大学文学部助手、宮城県技術吏員、岩手大学教養部・人文社会科学部教授、同名誉教授、東北大学情報科学研究科教授、2000年定年退官、名誉教授、宮城学院女子大学教授、尚絅学院大学教授を務めた。1992年「認知の体制化に関する研究」で東北大学博士(文学)。2015年11月瑞宝中綬章受章。
中川 裕雄(なかがわ やすお、1935年〈昭和10年〉1月2… 中川 裕雄(なかがわ やすお、1935年〈昭和10年〉1月2日 - 2024年〈令和6年〉10月1日)は、日本の実業家。電子機器メーカー・アンリツの元社長。宮城県大崎市古川(旧・古川市)出身。 宮城県古川高等学校卒業。1958年に山形大学工学部電気工学科を卒業し、安立電気(現・アンリツ)に入社。1991年に取締役、1995年6月に専務に就任。 翌年6月、菅居紳至のあとを受けて61歳で社長に昇格。海外部門の再編成に注力し、1国に複数のグループ企業が所在していた状態を1国1社に整理した。 2000年6月に退任して会長。社長の後任には塩見昭が就いた。2001年4月に藍綬褒章を受章。 2024年10月1日に死去。
曽根 敏夫(そね としお、1935年 - )は、日本の音響学… 曽根 敏夫(そね としお、1935年 - )は、日本の音響学者、東北大学名誉教授、秋田県立大学名誉教授。専攻は音響学、環境工学、情報通信工学。 曽根が生まれた1935年(昭和10年)は世界恐慌の余波が残る中で日本が戦時体制へと向かっていた時期であった。その後、太平洋戦争が勃発し、日本は敗戦をむかえる。戦後、日本はGHQによる占領政策のもとで復興を進め、1950年代には高度経済成長の兆しが見え始める。この時期、科学技術の発展が日本の産業復興を支える重要な要素となり、特に電気、通信、音響といった分野での研究が加速していった。 1935年(昭和10年)宮城県に生まれる。1953年(昭和28年)に宮城県古川高等学校卒業。
高橋 勇悦(たかはし ゆうえつ、1935年 - )は、日本の… 高橋 勇悦(たかはし ゆうえつ、1935年 - )は、日本の社会学者、旧・東京都立大学名誉教授。専攻は都市社会学。 宮城県に生まれる。宮城県古川高等学校卒業。1958年東北大学文学部社会学科卒。63年同大学院博士課程満期退学。立正大学講師、明治学院大学助教授、東京学芸大学助教授、東京都立大学教授、99年定年退官、名誉教授、大妻女子大学教授。2006年退職。94年日本都市学会賞受賞。
大友 篤(おおとも あつし、1934年 - )は、日本の社会… 大友 篤(おおとも あつし、1934年 - )は、日本の社会学者、統計学者、人口地理学。宇都宮大学教授、日本女子大学人間社会学部教授。 1934年(昭和9年)宮城県古川市に生まれる。1952年(昭和27年)に宮城県古川高等学校卒業、1956年東北大学理学部卒業、1976年理学博士。現在一般財団法人日本統計協会の研究員を務める。過去には総理府統計局、国際連合アジア経済研究所、総理府統計研究所や宇都宮大学、日本女子大学人間社会学部・人間社会工学部で教授を歴任。社会の変化をデータから読み解く研究に取り組んでいる。 21世紀に入り、少子高齢化や都市化、女性の社会進出など、日本社会は急速に変化している。こうした変化を正しく理解し、政策に生かすためには、統計データを活用した科学的な分析が不可欠となっている。
角田 啓輔(つのだ けいすけ、1933年1月19日 - 20… 角田 啓輔(つのだ けいすけ、1933年1月19日 - 2024年9月1日)は、日本の卓球選手。荻村伊智朗、田中利明らと共に日本卓球界に黄金時代を築き、「史上最速の強打者」と言われた選手。 宮城県志田郡古川町(現在の大崎市古川)出身。旧制宮城県古川中学校時代に卓球を始め、宮城県古川高等学校卒業と同時に大学入学の費用を稼ぐため、東京・日暮里の卓球ラケットメーカー・アームストロング (卓球)に就職。3年間の社会人生活を送る。アームストロングが建設した東京卓球会館の2階の6畳一間に住み込みで働き、仕事終了後は東京卓球会館で腕を磨いた。当時、東京卓球会館には荻村伊知郎、富田芳雄、大川とみなど、錚々たる顔ぶれが練習にきており現在では「伝説の卓球場」と呼ばれている。
佐藤 進(さとう すすむ、1932年10月14日 - 201… 佐藤 進(さとう すすむ、1932年10月14日 - 2017年2月10日)は、東急レクリエーション元社長。
及川 馥(おいかわ かおる、1932年10月10日 - )は… 及川 馥(おいかわ かおる、1932年10月10日 - )は、日本のフランス文学者。茨城大学名誉教授、弘前大学教授、愛国学園大学教授。専門はフランス文学(近代詩、文芸批評)。 宮城県生まれ。宮城県古川高等学校卒業。1961年、東北大学大学院文学研究科博士課程単位取得満期退学。弘前大学、茨城大学を経て、愛国学園大学教授。日本フランス語フランス文学会会員、H.Boco研究会会員。みずから詩も書く。トドロフ、セール、バシュラールなどフランス思想書の数々の翻訳でも知られる。 2011年、瑞宝中綬章受章。
フランク 永井(フランク ながい、1932年〈昭和7年〉3月… フランク 永井(フランク ながい、1932年〈昭和7年〉3月18日 - 2008年〈平成20年〉10月27日)は日本のムード歌謡歌手である。 本名は永井 清人(ながい きよと)。「魅惑の低音」と称された独特の豊かな低音を武器に、師である作曲家の吉田正(吉メロ)とともに都会的でジャズテイスト溢れるムード歌謡のジャンルを切り開き、数多くのヒット曲を世に送った。 宮城県大崎市出身。幼少時に父を亡くし、芝居小屋を経営する母に育てられる。幼少時から歌手に強い憧れがあり、旧制宮城県古川中学校(現・宮城県古川高等学校)卒業後の昭和26年ごろに東京へ出て就職していた兄を頼り上京し、進駐軍のキャンプ地でのトレーラー運転手、アルバイト生活を送る。
袖井 林二郎(そでい りんじろう、1932年3月9日 - 2… 袖井 林二郎(そでい りんじろう、1932年3月9日 - 2025年2月10日)は、日本の国際政治学者、評論家。法政大学名誉教授。専門は、戦後日米関係史、国際政治史、アメリカ政治論。 宮城県遠田郡小牛田町(現・美里町)出身。占領期研究の第一人者。戦後史関係資料を広範に探索してきたことで知られている。妻は社会学者の袖井孝子。
三塚 武男(みつか たけお、1932年 - 2011年3月1… 三塚 武男(みつか たけお、1932年 - 2011年3月12日)は、日本の社会福祉学者。同志社大学名誉教授、熊本学園大学教授。社会福祉学の分野においての研究で地域社会における福祉制度の在り方を問い地域住民が積極的に参加し自治を促進する方法を探る研究をしてきた。 1932年(昭和7年)宮城県に生まれる。1950年(昭和25年)に宮城県古川高等学校卒業後、同志社大学に進学、大学では社会福祉学を学び、地域社会の福祉制度に関する専門的な知識を学んだ。同志社大学文学研究科の教授として、社会福祉学を専門に教育活動を行い、地域福祉や住民自治に関する研究を重ねた。福祉学の理論だけではなく、実践的な問題解決にも重点を置いて研究を進め、地域社会での実践的な福祉制度の改善に貢献してきた。
鈴木 大吉(すずき だいきち、1930年〈昭和5年〉9月5日… 鈴木 大吉(すずき だいきち、1930年〈昭和5年〉9月5日 - 2023年〈令和5年〉3月29日)は、日本の実業家、ITコンサルタント。日本団体生命(現、アクサ生命保険)の副社長等を歴任した。 宮城県遠田郡小牛田町(現:美里町)出身。旧制中学校の宮城県古川中学校(現:宮城県古川高等学校)、旧制山形高等学校を経て、1953年(昭和28年)に東京大学法学部を卒業。同年に日本団体生命へ入社した。 同社では本店第二営業部長、営業推進部長を経て1974年(昭和49年)5月に取締役に就任した。その後、常務取締役、専務取締役を経て1994年(平成6年)7月6日に副社長に就任し、翌年に副社長を退任した。 副社長退任後の1995年(平成7年)9月、「ビジネス情報ネット」を設立。
三浦 澄能(みうら すみよし)(1930年〈昭和5年〉3月3… 三浦 澄能(みうら すみよし)(1930年〈昭和5年〉3月31日-)は、日本の実業家。1993年から1996年まで住友電設で社長として在任していた。
京極 昭(きょうごく あきら、1930年2月5日 - 202… 京極 昭(きょうごく あきら、1930年2月5日 - 2021年5月22日)は、ベガルタ仙台社長。 古川高等学校、東北大学英文学科を卒業後、河北新報社にて報道部長、編集局長、専務取締役を歴任。報道部長時代には連載企画「植物人間」で1973年度日本新聞協会賞(編集部門)を受賞した。1999年にベガルタ仙台の運営会社「東北ハンドレッド」の代表取締役社長に就任。2003年12月、チームのJ2降格を受けて引責辞任。
白鳥 三郎(しらとり さぶろう、1930年 - 2018年1… 白鳥 三郎(しらとり さぶろう、1930年 - 2018年10月22日)は、日本生まれの画家であり、独立美術協会の審査員を務めた経歴を持つ。宮城県古川市(現:大崎市古川)出身。戦後の日本美術界において独自の画風を確立し、数々の展覧会で評価された。 宮城県大崎市古川(旧・古川市)の出身、宮城県古川高等学校を卒業後東京芸術大学(旧東京美術学校)に進学。大学では日本画と洋画の基礎を学びながら、美術史に関心を深めた。在学中に樋口加六、海老原喜之助ら日本の美術界の著名な画家に師事。これにより白鳥は、フランスの巨匠アンリ・ルソーや藤田嗣治(レオナール・フジタ)の影響を受けた芸術潮流を間接的に受け継ぐこととなった。
松本 慶蔵(まつもと けいぞう、1929年1月15日 - 2… 松本 慶蔵(まつもと けいぞう、1929年1月15日 - 2023年10月2日)は、日本の医学者であり、感染症学・熱帯医学の専門家。長崎大学熱帯医学研究所名誉教授であり、長崎大学医学部附属病院の熱研内科科長も務めた。特に呼吸器感染症や結核の研究において多大な貢献を果たし、日本の熱帯医学発展に寄与した。1991年に紫綬褒章を受章。 1929年(昭和4年)、宮城県大崎市に生まれる。戦時中は海軍兵学校に入り、長崎県佐世保の針尾島にいた。戦後、1947年(昭和22年)に旧制古川中学校(宮城県古川高等学校)卒業。第二高等学校を経て東北大学医学部に進学し、東北大学医学部大学院内科系を修了した。その後は同大学第一内科学教室で研究を開始した。
佐々木 欽三(ささき きんぞう、1928年 - )は、NHK… 佐々木 欽三(ささき きんぞう、1928年 - )は、NHKプロデューサー、広報事業局長。 宮城県大崎市生まれ。宮城県古川高等学校、東北大学文学部哲学科卒業。NHKに入局。 「新日本紀行」、「日本の素顔」など多くのドキュメンタリーを制作。とりわけ志賀直哉、三島由紀夫、荒木貞夫、スカルノなど、昭和史の人びととの接点が多かった。人事本部主幹、広報事業局長を務めた。
千坂 侃雄(ちさか ただお、1927年(昭和2年)2月10日… 千坂 侃雄(ちさか ただお、1927年(昭和2年)2月10日 - 2017年(平成29年) 2月28日)は、日本の政治家。元宮城県古川市(現・大崎市)長(1期)。位階は正六位。旭日双光章。 宮城県大崎市志田郡古川町(のち古川市→大崎市古川)出身。旧制古川中学校(現・宮城県古川高等学校)卒。国民学校教諭を務め、1946年、古川町役場に入る。財政、秘書、商工、都市計画課長のほか、古川青年会議所理事長、古川市体育協会理事などを歴任した。その後、古川市収入役となり、1988年の古川市長選挙に立候補し、元市議会議長の中川俊一を破って当選した。4年後の市長選挙で再選を目指したが、再び立候補した中川俊一に敗れた。
遠山 仁一(とおやま じんいち、1927年(昭和2年) - … 遠山 仁一(とおやま じんいち、1927年(昭和2年) - )は、宮城県大崎市出身の経営者、実業家。宮地エンジニアリンググループ代表取締役社長。社団法人日本橋梁建設協会第5代会長。 宮城県大崎市出身。1950年(昭和25年)に宮城県古川高等学校を卒業。のちに宮地エンジニアリンググループ入社。同社において要職を歴任し、代表取締役に就任。社長在任中の1993年(平成5年)6月には、業界団体である日本橋梁建設協会(橋建協)の第5代会長に就任し、1997年(平成9年)6月までの4年間にわたり日本の橋梁建設協会の発展と技術向上を牽引した 。また同協会において飯田庸太郎氏(三菱重工業社長)らと共に副会長を務めるなど、業界の首脳として長年貢献した。
早坂 啓(はやさか けい、1925年(大正14年)9月8日 … 早坂 啓(はやさか けい、1925年(大正14年)9月8日 - 没年不明)は、日本の銀行家。德陽シティ銀行社長を務めた。 早坂順一郎・ともよの長男として、現在の大崎市古川(旧・古川市)で生まれる。 古川高等学校、東海科学専門学校を卒業。1950年に三徳無尽に入社。翌年の相互銀行法の施行に伴い、三徳無尽は「德陽相互銀行」に改称した。入行後、経理、業務各課長、業務部次長を歴任し、1962年4月取締役に選任される。その後、常務、専務、副社長を経て、1980年1月社長に就任した。このほか、東北放送、仙台空港ビル、宮城県開発の各取締役、仙台商工会議所副会頭、仙台経済同友会副代表幹事も務めている。 啓が社長に就任した頃の德陽相互銀行は、東北の相互銀行界ではトップに位置し、全国でも資金量(1986年3月末現在6187億円)では18位で上位グループに属した。
伊藤 宗一郎(いとう そういちろう、1924年〈大正13年〉… 伊藤 宗一郎(いとう そういちろう、1924年〈大正13年〉3月21日 - 2001年〈平成13年〉9月4日)は、日本の政治家。位階は従二位、勲等は勲一等。勲章は旭日桐花大綬章。衆議院議員を13期務め、在任中には科学技術庁長官、防衛庁長官や第69代衆議院議長などを歴任した。宮城県名誉県民。 宮城県加美郡中新田町(現加美町)で呉服屋を営む父・宗太郎と、母・ときの長男として生まれた。少年時代には陸軍歩兵第4連隊の一日連隊長を務める機会があった。宮城県古川中学校(現・宮城県古川高等学校)、旧制第二高等学校文科甲類を経て、1947年に東北大学法学部を卒業。高校在学中に太平洋戦争が勃発、大学在学中には1年間軍務に就いて陸軍少尉に任官されていた。
今野 栄喜(こんの えいき、1924年3月15日 - 201… 今野 栄喜(こんの えいき、1924年3月15日 - 2015年11月11日)は、旭化成副社長、蝶理社長。2015年、肺炎により91歳で死去。第69第衆議院議長の伊藤宗一郎とは旧制古川中学校(現・宮城県古川高等学校)の同級生。
佐藤 利三郎(さとう りさぶろう、1921年9月23日 - … 佐藤 利三郎(さとう りさぶろう、1921年9月23日 - 2011年4月12日)は、日本の工学者、工学博士。東北大学名誉教授。東北学院大学名誉教授。宮城県古川市(現大崎市古川)に生まれる。東京タワー(日本電波塔)の放送アンテナや、新幹線の通信システムの設計、開発に従事。通信工学の権威。 専門は通信工学、電気回路学、情報伝送工学、環境電磁工学で著書も多い。主な業績として次のものが挙げられる。
多藤 省徳(たとう せいとく、1916年 - )は、日本の実… 多藤 省徳(たとう せいとく、1916年 - )は、日本の実業家。生涯を捕鯨の発展に捧げた。鯨類研究所の大村秀雄は多藤を「捕鯨の大家」と賞賛した。 宮城県古川市(現大崎市古川)出身。旧制古川中学(宮城県古川高等学校)、1939年に函館高等水産学校(北海道大学の前身校の一つ)を卒業し極洋捕鯨に入社。小笠原捕鯨、北洋捕鯨、南氷洋捕鯨などに尽力。1961年の国際捕鯨オリンピックでは船団長として船団を率いた。その後、同社取締役、常務取締役、専務取締役、1976年には取締役副社長を歴任した。
永沢 幸七(ながさわ こうしち、1913年3月24日 - 2… 永沢 幸七(ながさわ こうしち、1913年3月24日 - 2010年9月17日 )は、日本の心理学者、東京家政学院大学名誉教授。 宮城県古川市(現・大崎市古川)生まれ。宮城県古川高等学校卒業。東京文理科大学心理学科卒。(筑波大学卒。)同研究科修了。同大助手、非常勤講師をへて東京家政学院大学教授。1984年定年退任、国士舘大学教授。
近藤 鏡ニ郎(こんどう きょうじろう、1913年 - 197… 近藤 鏡ニ郎(こんどう きょうじろう、1913年 - 1975年)は、日本のアイヌ音楽研究家。アイヌ民族の歌謡や文化の記録・研究に尽力した。本名は近藤善兵衛。 宮城県古川市(現・大崎市古川)に生まれる。宮城県立古川中学校(現・宮城県古川高等学校)卒業後、朝日新聞社に入社。戦時中に海軍に応召され、復員後に郷土芸能・アイヌ歌曲の採譜に尽力した。1957年に「ピリカ・ピリカ」の採譜・編曲により芸術祭文部大臣賞、1960年にユーカラ劇「コタンの森」で北海道芸術新賞を受賞。その他、松前神楽の保存活動・研究にも当たった。1969年、北海道文化団体協議会事務局長に就任。 近藤がアイヌ音楽研究家として活動した時期、日本は高度経済成長期にあり、伝統文化や少数民族の文化保存の重要性が再認識されていた。
本間 俊一(ほんま しゅんいち、1912年11月18日 - … 本間 俊一(ほんま しゅんいち、1912年11月18日 - 1958年8月20日)は、日本の政治家。自由民主党衆議院議員。中新田町長、宮城県知事を務めた本間俊太郎は長男。 宮城県加美郡中新田町(現・加美町)出身。古川中学校(現・宮城県古川高等学校)、早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。大学卒業後、1935年に中外商業新報社、1939年に読売新聞社に入社し社会部記者となる。その後、郷里に戻り、1945年8月に中新田町(現在の加美町)長となる。 1946年(昭和21年)第22回衆議院議員総選挙に日本進歩党から立候補し当選する。当選回数通算6回。第1次吉田内閣の農林参与官、第2次吉田内閣の通産政務次官、自由党副幹事長、衆議院決算委員長などを歴任した。
祇園寺 信彦(ぎおんじ のぶひこ、1911年8月27日 - … 祇園寺 信彦(ぎおんじ のぶひこ、1911年8月27日 - 1998年11月23日)は日本の西洋史学者。 宮城県大崎市古川(旧・古川市)生まれ。宮城県古川中学校(現:宮城県古川高等学校)卒業、第二高等学校(独法)卒業、東北帝国大学法文学部西洋史学科卒業。1962年「古ローマの社会と政治」で東北大学文学博士。東北大学文学部助教授、教授。1975年定年退官、名誉教授、東京国際大学教授。 専門は西洋古代史で、主としたのは、古代ローマにおける政治権力のあり方とその歴史的変遷、さらにその過程において個人が織り成した役割の問題の解明であった。研究は大類伸、原随園の学問的伝統を継承しつつ、マックス・ヴェーバーの歴史学方法論をよりどころとし、西洋古代史の研究と後進の指導に当たり、古代ローマ史研究において開拓者的な役割を果たした。
大衡 照夫(おおひら てるお、1911年〈明治44年〉6月2… 大衡 照夫(おおひら てるお、1911年〈明治44年〉6月22日 - 1997年〈平成9年〉11月22日)は、日本の政治家。元宮城県古川市(現・大崎市)長(2期)。位階は正五位。 宮城県志田郡古川町(旧・古川市→大崎市古川)出身。旧制古川中学校(現・宮城県古川高等学校)を経て、1948年、宇都宮高等農林学校(現・宇都宮大学農学部)卒。卒業後は全国購買組合連合会に入り、同連合会東京支所肥料部肥料飼料統制課属、同肥料課長、同肥料飼料統制課長となり、退職、帰郷し、1950年、保護司となる。1951年から古川市議会議員に当選し、7期務め、副議長、議長を歴任し、この間、宮城県社会教育委員を務めた。1976年の古川市長選挙に立候補し、現職の三上馨一を破って初当選した。
伊達 篤郎(だて とくろう、1911年 - 2007年)は、… 伊達 篤郎(だて とくろう、1911年 - 2007年)は、日本山岳協会最高顧問、仙台藩士会会長、瑞鳳殿顧問。伊達政宗の末裔(藩主一門分家の岩出山伊達家出身)。 宮城県大崎市に生まれる。大崎市立岩出山中学校、宮城県古川高等学校、東京高等工学校(現・芝浦工業大学)卒業。宮城県庁、仙台市役所勤務を経て、1968年仙台市博物館館長となる。1974年から瑞鳳殿再建期成会事務局長を務め、第二代・第三代の霊廟再建に当たる。1986年より財団法人瑞鳳殿顧問を務めた。 1972年藍綬褒章受章。
千葉 衛(ちば まもる、1911年 - 1973年)は、日本… 千葉 衛(ちば まもる、1911年 - 1973年)は、日本の画家、美術教育者。現在の宮城県大崎市出身。 宮城県大崎市に生まれる。幼少期から絵画に興味を持ち、地元の小学校・中学校で才能を発揮した。旧制古川中学校(現在の宮城県古川高等学校)を卒業後東京美術学校(現在の東京芸術大学)に進学し、洋画を学ぶ。在学中から光風会や東光会に作品を出品し、頭角を現した。1930年代には帝展(帝国美術展覧会)に初入選し、画家としての将来が期待されるようになる。しかし、当時の日本は戦争の時代に突入し、画家としての活動が制限される状況となる。 東京美術学校研究科に進学したものの、戦時下の影響もあり研究科を中退した。その後台湾に渡り、現地で美術教育に携わる。
三春 重雄(みはる しげお、1910年3月17日 - 199… 三春 重雄(みはる しげお、1910年3月17日 - 1996年1月8日)は、宮城県志田郡古川町(現・大崎市古川)生まれ、旧制古川中学校(宮城県古川高等学校)、法政大学出身、日本の政治家。元・宮城県議会議員、日本社会党宮城県本部委員長、日ソ協会(現・日本ユーラシア協会)宮城連合会長、河北新報社厚生部部長などを歴任。第46代内閣総理大臣の片山哲は義理の叔父にあたる。 仙台市博物館にある「魯迅の碑」設置にも尽力をした。
北村 勝衛(きたむら かつえい、1901年8月20日 - 1… 北村 勝衛(きたむら かつえい、1901年8月20日 - 1987年10月27日)は、日本の歯科医師、歯科教育者。松本歯科大学の初代学長を務めた。日本の歯科医療と教育の発展に尽力した。 宮城県に生まれる。1921年(大正10年)に旧制古川中学校(現・宮城県古川高等学校)を卒業後、日本歯科大学に進学し、歯科医学を修めた。大学卒業後、歯科医療に従事しながら教育者としての道を歩み、日本歯科大学で教授として教鞭を執る。特に歯科補綴学の分野で指導を行った。その後、松本歯科大学の初代学長に就任し、大学の発展に寄与した。松本歯科大学では、歯科補綴学第二講座を開設し、補綴治療(入れ歯や被せ物などの治療)の教育と研究に尽力した。
早坂 順一郎(はやさか じゅんいちろう、1900年(明治33… 早坂 順一郎(はやさか じゅんいちろう、1900年(明治33年)4月4日 - 1981年(昭和56年)1月22日)は、日本の実業家。徳陽相互銀行、東北放送社長などを務めた。 1917年旧制古川中学校(宮城県古川高等学校)を卒業。建築業に従事し、古川町、古川市議会議員、同議会議長を務め、その傍ら太洋無尽の外交員にもなり、1940年3月には古川出張所長に就いた。1942年4月、太洋無尽、東北無尽、宮城無尽が戦時統合で「三徳無尽」として発足すると、古川支店長、副社長を経て、1950年に社長となった。1951年10月、相互銀行法の施行に伴い、三徳無尽は「徳陽相互銀行」に商号を改めている。 宮城県内企業の首都圏との結びつきに早くから着目し、県外への出店を積極的に進めた。
寺坂 源雄(てらさか もとお、1898年10月12日 - 1… 寺坂 源雄(てらさか もとお、1898年10月12日 - 1991年11月5日)は、日本の医学者、日本薬理学会会長。東北大学医学部名誉教授。朝鮮総督府京城医学専門学校教授。 宮城県古川市(現・大崎市古川)に生まれる。宮城県古川高等学校卒業。東北大学医学部卒業。
斎藤 正久(さいとう まさひさ、1897年7月20日 - 1… 斎藤 正久(さいとう まさひさ、1897年7月20日 - 1996年6月5日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大佐。 宮城県大崎市出身。商業・斎藤庄吉の息子として生まれる。旧制古川中学校(現:宮城県古川高等学校)を経て、1919年(大正8年)10月、海軍兵学校(47期)卒業。1920年(大正9年)8月、海軍少尉任官。1923年(大正12年)11月、第8期航空術学生卒。 1925年(大正14年)12月、海軍大尉に昇進し空母「鳳翔」乗組となる。この補職は、当時特別に技量優秀でなければ難しいとされた空母への着艦が努力次第で可能であることを証明するためであり、相婿である、山本五十六の推薦であった。斎藤は同時に推薦された三和義勇とともに任務を成功させた。
三浦 義男(みうら よしお、1895年(明治28年)1月8日… 三浦 義男(みうら よしお、1895年(明治28年)1月8日 - 1965年(昭和40年)2月8日)は、日本の政治家。参議院議員、宮城県知事を歴任した。 宮城県の大崎地方(旧古川市域)生まれ。宮城県立古川中学校、第二高等学校を経て、1920年(大正9年)に東京帝国大学工学部土木工学科を卒業、鉄道省に入省した。 1943年(昭和18年)、運輸省(現在の国土交通省)施設局長に就任。1953年(昭和28年)、参議院議員選挙に全国区から無所属で立候補し初当選、参議院議員となった。翌1954年(昭和29年)、日本民主党に入党、国会対策委員長などを務めた。1950年から1951年までは、土木学会の会長職にもあった。
守屋 和郎(もりや わろう、明治26年(1893年)11月2… 守屋 和郎(もりや わろう、明治26年(1893年)11月29日 - 昭和52年(1977年))は、日本の外交官。元駐アフガニスタン公使。 元衆議院議員、元宮城県塩竈市長守屋栄夫の弟。元防衛事務次官守屋武昌の叔父。 宮城県遠田郡富永村(のち古川市、現大崎市古川)出身。守屋徳郎の三男。旧制古川中学(現宮城県古川高等学校)卒業。旧制二高を経て、大正6年(1917年)東京帝大法科を卒業し逓信省に勤務の後関東庁参事官に転じ次いで外務省事務官となる。 英国在勤大使館二等書記官同一等書記官。中華民国在勤公使館一等書記官福州総領事大使館一等書記官大使館参事官満州国在勤を歴任し昭和13年(1938年)特命全権公使に任じアフガニスタン国駐箚被仰付昭和15年(1940年)退官す。
駒泉 徳治郎(こまいずみ とくじろう、1893年4月11日 … 駒泉 徳治郎(こまいずみ とくじろう、1893年4月11日 - 1959年2月24日)は、現在の宮城県大崎市出身で井筒部屋に所属した力士。本名は高橋 徳治郎。10代大嶽。180cm、96kg。最高位は東前頭2枚目。 旧制古川中学(現・宮城県古川高等学校)を中退し、同郷の大関駒ヶ嶽國力を頼って入門。所属は井筒部屋であったが、駒ヶ嶽の内弟子であった。1911年2月初土俵、1915年1月十両昇進。1917年1月新入幕した。四つに組むと勝ちみに乏しい相撲振りであったが、上背を利しての突っ張り・叩き込み・引き落としには威力があった。1919年5月場所には横綱鳳を外掛けから浴びせ倒して現役時代唯一の金星を獲得している。
杉野目 晴貞(すぎのめ はるさだ、1892年10月27日 -… 杉野目 晴貞(すぎのめ はるさだ、1892年10月27日 - 1972年4月14日)は、日本の有機化学者。元北海道大学学長。アルカロイド研究の第一人者として知られた。1967年4月、勲一等瑞宝章。 宮城県大崎市出身。旧制古川中学校(現在の宮城県古川高等学校)。</ref>11期(三浦義男は1期後輩)。旧制二高を経て、東北帝国大学卒業。真島利行に師事。1926年、ロックフェラー財団の国際奨学生としてグレートブリテンおよび北部アイルランド連合王国に留学。その後スイスに移った。1929年秋に北海道帝国大学への転勤含みで北海道札幌市に転居。理学部が新設された1930年に北海道帝国大学教授となり、「花の色の科学」と題して開学記念学術講演を行った。
柳沢 七郎(やなぎさわ しちろう、1890年〈明治23年〉9… 柳沢 七郎(やなぎさわ しちろう、1890年〈明治23年〉9月25日 - 1978年〈昭和53年〉1月25日)は、元住友金属工業社長。 1890年宮城県大崎市の小松家に生まれ、のちに東京都の柳沢家の養子となる。宮城県古川高等学校、東北大学卒業。 1916年 住友製鋼所入社。1921年住友金属工業設立により住友金属工業に移籍。 1945年11月30日に専務取締役に就任し、1946年1月21日に取締役社長に就任、公職追放により1947年4月21日に取締役社長を辞任した。 1967年勲三等瑞宝章を受章。1978年に死去した。
石原 富松(いしはら とみまつ、1889年7月26日 - 没… 石原 富松(いしはら とみまつ、1889年7月26日 - 没年不詳)は、日本の化学者、鉱物工学者。東北大学名誉教授。鉱物の選鉱製錬研究において重要な業績を残した。特に、金属資源の有効利用に関する研究に従事し、戦前・戦中の日本の工業発展に貢献した。 1889年(明治22年)、宮城県に生まれる。旧制古川中学校(現・宮城県古川高等学校)を経て、1915年(大正4年)東北帝国大学理科大学化学科を卒業。東北帝国大学附属興業専門部、理学部を経て、1923年同大学工学部に勤める。1924年、イギリス、フランス、ドイツへ留学。同年、東北大学工学博士の学位を取得、選鉱製錬研究所の第三代所長に就任。当時、日本は自国の鉱物資源に乏しく、戦争遂行のために鉄や銅などの金属資源確保が急務で、石原は鉱石の選鉱技術や製錬技術を発展させ、より効率的に金属を精錬する方法を研究した。
吉野 信次(よしの しんじ、1888年〈明治21年〉9月17… 吉野 信次(よしの しんじ、1888年〈明治21年〉9月17日 - 1971年〈昭和46年〉5月9日)は、日本の農商務・商工官僚、政治家。 商工大臣、運輸大臣、貴族院議員、参議院議員を歴任。大正デモクラシーを主導した政治学者吉野作造の弟。 宮城県志田郡大柿村(現大崎市古川)に綿屋を営む吉野年蔵、こう夫妻の三男として生まれた。吉野作造は長兄である。 旧制古川中学校(現・宮城県古川高等学校)、一高を経て、1913年(大正2年)東京帝国大学法科大学独法科を首席卒業(銀時計受領)し、農商務省に入省する。農商務大臣秘書官、1925年に農商務省が農林省と商工省に分離し、以後は商工省文書課長、工務局長を経て、1931年(昭和6年)商工次官。
梶塚 隆二(かじつか りゅうじ、1888年5月9日 - 19… 梶塚 隆二(かじつか りゅうじ、1888年5月9日 - 1976年5月3日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍軍医中将。医学博士。 宮城県大崎市出身。宮城県立古川中学校(現・宮城県古川高等学校)、第二高等学校を経て、1914年、東京帝国大学医学部卒業。その後陸軍軍医学校を卒業し、東京帝国大学伝染病研究所で細菌学・血清学を学ぶ。1924年3月29日、論文「スパスカヤに於けるパラチフスB型菌性食中毒検索例 : 竝原因食(オムレツ)の菌毒汚染動機に関する実験的研究」で医学博士号取得。1939年、満州関東軍軍医部長。1940年、陸軍軍医総監。 731部隊を統括・監督する立場にあったことから戦後ソビエト連邦軍の捕虜となる。
三浦 篤(みうら あつし、1888年(明治21年)1月 - … 三浦 篤(みうら あつし、1888年(明治21年)1月 - 1973年(昭和48年)5月29日)は、宮内官僚。宮城県古川市長。位階は正三位。 宮城県出身。旧制宮城県立古川中学校(現在の宮城県古川高等学校)を経て、1913年(大正2年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業。帝室林野局事務官、内蔵寮主計課長・財務課長、大臣官房大膳課長、内蔵頭、帝室林野局長官を歴任した。 のち古川市長を務めた。
佐々木 家寿治(ささき かずじ / かじゅじ、1886年12… 佐々木 家寿治(ささき かずじ / かじゅじ、1886年12月7日 - 1954年3月2日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)、宮城県知事(1期)。「百姓知事」と呼ばれた。 宮城県大崎市古川(旧・古川市)出身。宮城県古川高等学校、盛岡高等農林学校農学科(現・岩手大学農学部)で学ぶ。 志田郡志田村(のち古川市、現大崎市)助役、同村長、同村会議員、宮城県会議員、同議長、同参事会員、志田村、志田郡、宮城県各農会長となる。 1930年、仙台市長選挙に立候補したが、市会(市議会)での得票数は4位に終わり、落選した。1932年2月の第18回衆議院議員総選挙に宮城県第1区から出馬して当選。1936年の第19回衆議院議員総選挙の再選時は投票のための買収があり、虚偽の約束手形を手に入れてそれに合わせた証言が行われた偽証証憑偽造偽造証憑使用教唆事件で1937年11月4日、大審院は上告棄却し佐々木は懲役4か月の実刑判決が確定。
鈴木 文治(すずき ぶんじ、男性、1885年(明治18年)9… 鈴木 文治(すずき ぶんじ、男性、1885年(明治18年)9月4日 - 1946年(昭和21年)3月12日)は、大正から昭和期の政治家、労働運動家。友愛会創始者。日本の労働運動の草分け的存在といわれる。 宮城県栗原郡金成村(現・栗原市)の旧家鈴木益治の長男として生まれる。10歳の頃に父親とともにキリスト教に入信。宮城県尋常中学校志田郡立分校(現・宮城県古川高等学校)を卒業後、旧制山口高等学校に入学。中学卒業前後に家業が傾き、高校時代苦学するなかで、在野のキリスト教伝道師本間俊平の影響により、社会問題に目覚めていく。東京帝国大学法科大学政治学科に入学後は、同郷の先輩である吉野作造とともに、海老名弾正率いる組合派の本郷教会に所属する。