スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
石城 謙吉(いしがき けんきち、1934年6月16日 - )… 石城 謙吉(いしがき けんきち、1934年6月16日 - )は、日本の動物生態学者、北海道大学名誉教授。 長野県諏訪市生まれ。長野県諏訪清陵高等学校を経て、1961年北海道大学農学部卒業。1969年同大学院博士課程修了、「北海道産イワナ属魚類の形態並びに生態に関する研究」で農学博士。1970年北海道大学農学部苫小牧演習林助手、1972年助教授を経て、農学部教授、1999年定年退官、名誉教授となる。
牛山 積(うしやま つもる、1934年2月9日 - )は、日… 牛山 積(うしやま つもる、1934年2月9日 - )は、日本の法学者。専門は、民法・環境法。学位は、法学博士(早稲田大学・論文博士・1978年)。早稲田大学名誉教授。 長野県諏訪郡湖東村(現茅野市)出身。長野県諏訪清陵高等学校卒業、1958年早稲田大学法学部卒業、1963年同大学院博士課程満期退学、78年「公害裁判の展開と法理論」で法学博士。1962年早大法学部助手、65年講師、67年助教授、72年教授。2004年定年退職、名誉教授、大宮法科大学院大学教授。専門は、民法・環境法。
高橋 健治(たかはし けんじ、1934年 - )は、日本の生… 高橋 健治(たかはし けんじ、1934年 - )は、日本の生化学者。リボヌクレアーゼT1(英語版)の精製、一次構造、活性部位に関する研究で知られる。 長野県諏訪郡下諏訪町出身。長野県諏訪清陵高等学校を経て、1957年に東京大学理学部化学科を卒業した。1962年、東京大学大学院理学系研究科生物化学専門課程博士課程を修了し、理学博士の学位を取得した。赤堀四郎、江上不二夫のもとで研究を行い、同年に日本学術振興会奨励研究生となった。 1963年に東京大学理学部生物化学科助手となり、1965年から1968年までロックフェラー大学博士研究員を務めた。1973年に東京大学理学部生物化学科講師、1974年に京都大学霊長類研究所生化学研究部門教授、1984年に東京大学理学部生物化学科教授となった。
林 尚孝(はやし なおたか、1933年6月12日 - 202… 林 尚孝(はやし なおたか、1933年6月12日 - 2020年11月27日)は、日本の農学者。 関東州大連市(現・中華人民共和国大連市)出身。宇都宮市立戸祭国民学校(現・宇都宮市立戸祭小学校)入学。岡谷市立国民学校(現・岡谷市立岡谷田中小学校、岡谷市立神明小学校)卒業。長野県諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)入学、長野県諏訪清陵高等学校卒業。1954年東京大学農学部農業工学科卒業。農林省(現・農林水産省)関東東山農業試験場技官、東京大学農学部助手、山形大学農学部助教授を経て、1968年茨城大学助教授、1984年同大学教授、東京農工大学大学院教授併任。茨城大学評議員、同大学農学部附属農場長、同大学農学部長、同大学大学院農学研究科長を歴任。
立石 友男(たていし ともお、1933年6月4日 - 201… 立石 友男(たていし ともお、1933年6月4日 - 2017年7月11日)は、日本の地理学者。日本大学名誉教授。 1933年、長野県に生まれた。1952年に長野県諏訪清陵高等学校を卒業し、日本大学文学部人文地理学科に入学。1956年に同大学を卒業し、翌1957年に同大学大学院に進んだ。 1959年に日本大学文理学部副手に採用。1960年に助手、1970年に専任講師、1973年に助教授、1981年に教授へと昇任した。1982年、学位論文『庄内砂丘における海岸砂丘林に関する研究』を日本大学に提出して理学博士号を取得した。学界では、1999年から2002年まで歴史地理学会会長を務めた。2003年に日本大学を定年退職し、名誉教授となった。
山田 卓三(やまだ たくぞう、1933年3月29日 - )は… 山田 卓三(やまだ たくぞう、1933年3月29日 - )は、日本の植物学者・教育学者、兵庫教育大学・名古屋芸術大学名誉教授。 長野県茅野市生まれ。長野県諏訪清陵高等学校を経て、1956年東京学芸大学学芸学部農学科卒業。国際基督教大学講師、1971年東京都立大学 (1949-2011)理学博士。東京都立アイソトープ研究所遺伝研究室長、東京学芸大学講師、1981年兵庫教育大学教授。1997年定年退官、名誉教授、名古屋自由学院短期大学教授、名古屋芸術大学(校名変更)教授。2004年同名誉教授。兵庫県立南但馬自然学校校長(2011年〜2018年)原体験教育研究会主宰(1989年〜)。 日本科学教育学会理事、日本環境教育学会理事、日本科学協会理事、文部省学術審議会専門委員をはじめ、「青少年のための科学の祭典」(日本科学振興財団)全国委員長など、学会および社会での活動は多岐にわたる。
宮坂 貞(みやさか ただし、1933年 - 2024年)は、… 宮坂 貞(みやさか ただし、1933年 - 2024年)は、日本の薬学者(薬品製造化学)。勲等は瑞宝小綬章。学位は薬学博士(東京大学・1965年)。公益財団法人諏訪郷友会顧問、昭和大学名誉教授。 東京医科歯科大学歯科材料研究所助手、昭和大学薬学部教授、昭和大学薬学部学部長、学校法人昭和大学理事、学校法人昭和大学監事、財団法人諏訪郷友会理事長、公益財団法人諏訪郷友会理事長などを歴任した。 長野県岡谷市生まれ。長野県諏訪清陵高等学校を経て1958年東京大学医学部薬学科卒業。同大大学院化学系研究科の薬学専門課程を、1960年3月に修了した。なお、1965年3月には、東京大学より薬学博士の学位を授与されている。
米倉 巌(よねくら いわお、1933年(昭和8年) - )は… 米倉 巌(よねくら いわお、1933年(昭和8年) - )は、日本の詩人、日本近代文学研究者、日本大学名誉教授。 長野県諏訪市生まれ。長野県諏訪清陵高等学校を経て、旧東京都立大学大学院修士課程修了、帝塚山学院大学文学部助教授、教授、1987年、日本大学芸術学部教授、2004年に定年、名誉教授。
内藤 昌(ないとう あきら、1932年10月8日 - 201… 内藤 昌(ないとう あきら、1932年10月8日 - 2012年10月23日)は、日本の建築史家。名古屋工業大学名誉教授、元日本建築学会副会長。専門は、建築史、都市史。 長野県諏訪市出身。長野県諏訪清陵高等学校を経て、1955年、東京工業大学理工学部建築学科卒業。1960年、同大学院理工学研究科建築学専攻博士課程修了。工学博士(東京工業大学)。論文の題は「書院造に於ける「間」の研究」。 1961年東京工業大学助手、1963年名古屋工業大学助教授、1972年同大学教授、1990年東京工業大学(現・東京科学大学)教授兼任、1993年愛知産業大学学長を歴任。元日本建築学会副会長。 2012年10月23日に老衰で死去。
鮎沢 成男(あゆざわ しげお、1932年10月4日 - 20… 鮎沢 成男(あゆざわ しげお、1932年10月4日 - 2004年2月11日)は、日本の経営学者。 長野県諏訪市出身。長野県諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)を経て、一橋大学大学院経済学研究科を修了した[要出典]。中央大学商学部教授を務め、1988年に同大学企業研究所所長となった。
佐々木享(ささき すすむ、1932年5月31日 - 2015… 佐々木享(ささき すすむ、1932年5月31日 - 2015年5月14日)は、日本の職業教育学者。 東京出身。戦争中に長野県岡谷市に疎開。長野県諏訪清陵高等学校を経て、1956年東京都立大学 (1949-2011)工業化学科卒、1962年同歴史学科卒。高校技術科教師、専修大学経営学部助教授、1976年名古屋大学教育学部助教授を経て、教授。1995年定年退官、名誉教授、愛知大学短期大学部教授を務めた。技術科教育・職業教育が専門。
藤枝 省人(ふじえだ しょうと、1932年 - )は、日本の… 藤枝 省人(ふじえだ しょうと、1932年 - )は、日本の経営学者。 千葉県出身。戦争中に長野県諏訪郡米沢村(現・茅野市)に疎開。長野県諏訪清陵高等学校を経て、1959年慶應義塾大学大学院経済学研究科修士課程修了。1963年ハーバード大学経営大学院International Teacher's Program修了。1965年慶應義塾大学大学院経済学研究科博士課程修了。1979年同大学大学院経営管理研究科教授兼同ビジネススクール教授。1985年フランスエセック・ビジネススクール客員教授。1997年フィリピンM IT客員教授。1999年ハワイ大学訪問教授。慶應義塾大学名誉教授。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
中村 平治(なかむら へいじ、1931年8月21日 - 20… 中村 平治(なかむら へいじ、1931年8月21日 - 2021年3月17日)は、日本のインド史学者、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所名誉教授。長野県諏訪郡ちの町(現茅野市)生まれ。本名・平次。 長野県諏訪清陵高等学校を経て、1951年、東京外国語大学東京外事専門学校英語科卒。1955年、東京外国語大学インド語科卒。1957年、東京大学社会科学研究科国際関係論修士課程修了、東京大学東洋文化研究所助手(1963年まで)。1958年から1960年にかけて、デリー大学に学ぶ。1965年、東京外国語大学専任講師。1967年に助教授、1973年に教授へ昇任。1994年、定年退官、名誉教授。専修大学文学部教授。
宮坂 広作(みやさか こうさく、1931年7月20日 - 2… 宮坂 広作(みやさか こうさく、1931年7月20日 - 2010年10月19日)は、日本の教育学者。 長野県諏訪市出身。長野県諏訪清陵高等学校を経て、1954年東京大学教養学部教養学科卒業。同大学大学院教育行政学専門課程修了。教育学博士(1968年、東京大学)。 お茶の水女子大学助教授を経て、1979年東京大学教育学部教授。退官後、同大学名誉教授。山梨学院大学教授を歴任した。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
柳澤 嘉一郎(やなぎさわ かいちろう、1931年4月3日- … 柳澤 嘉一郎(やなぎさわ かいちろう、1931年4月3日- )は、日本の生命科学者、筑波大学名誉教授。妻は柳澤桂子。 長野県諏訪市出身。長野県諏訪清陵高等学校を経て、1954年東北大学理学部生物学科卒業、1963年コロンビア大学大学院修了、1970年東北大学理学博士。ブランダイス大学、スローン・ケタリング癌研究所、東京都立アイソトープ研究所遺伝研究室、1975年東京教育大学教授、1976年筑波大学教授、1995年定年退官、名誉教授。柳澤研究室出身者に相賀裕美子国立遺伝学研究所名誉教授など。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
宮坂 義彦(みやさか よしひこ、1931年 - 2020年8… 宮坂 義彦(みやさか よしひこ、1931年 - 2020年8月30日)は、日本の教育学者。専門は、教育方法学(授業研究)。 長野県諏訪郡下諏訪町出身。長野県諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)を経て、東京大学教育学部学校教育学科卒業。春日部市立春日部中学校、埼玉県立大宮商業高等学校、東京大学勤務を経て、岡山大学教育学部助教授。三重大学教育学部教授。定年退官後、聖路加看護大学(現・聖路加国際大学)教授。2000年ノートルダム清心女子大学教授。この間、日本教育心理学会、全国大学国語教育学会、日本教育学会、日本教育方法学会所属。1973年斎藤喜博と共に教授学研究の会設立、世話人。1990年授業研究の会を設立、1997年より公開研究集会を開催。
清水 睦(しみず むつみ、1930年〈昭和5年〉11月3日 … 清水 睦(しみず むつみ、1930年〈昭和5年〉11月3日 - )は、日本の法学者(憲法)。中央大学名誉教授。法学博士(中央大学・論文博士・1980年)。 長野県諏訪郡原村出身。旧制諏訪中学(長野県諏訪清陵高等学校)、中央大学予科を経て、1953年中央大学法学部(旧制)卒業。TBSアナウンサーの清水大輔の父にあたる。三木義一青山学院大学学長は清水ゼミ出身。 『現代国家の憲法的考察 清水睦先生古稀記念論文集』植野妙実子編 信山社出版 2000
御子柴 宣夫(みこしば のぶお、1930年10月3日 - 2… 御子柴 宣夫(みこしば のぶお、1930年10月3日 - 2020年1月12日)は、日本の物理学者。 長野県諏訪市出身。長野県諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)、旧制松本高等学校を経て、名古屋大学理学部物理学科卒業。名古屋大学大学院理学研究科修了。1957年通商産業省工業技術院電気試験所(現・産業技術総合研究所)入所。1961年シカゴ大学金属研究所勤務。1970年電子技術総合研究所(現・産業技術総合研究所)基礎部固体物性研究室長。1974年東北大学電気通信研究所教授。1984年同大学電気通信研究所附属超微細電子回路実験施設初代施設長。1990年同大学定年退官後、同大学名誉教授。
高尾 利数(たかお としかず、1930年4月23日 - 20… 高尾 利数(たかお としかず、1930年4月23日 - 2018年5月6日)は、日本の神学者、宗教学者、法政大学名誉教授。 山梨県都留市生まれ。長野県諏訪清陵高等学校を経て、1949年昭和大学医学部中退、1951年茨城キリスト教短期大学卒業、1953年アブリン・キリスト教大学文学部(アメリカテキサス州)卒業、1959年東京神学大学大学院組織神学専攻修士課程修了。茨城キリスト教短期大学専任講師、名古屋学院大学助教授、関東学院大学神学部助教授、法政大学第二教養部教授、法政大学社会学部教授、2001年3月定年退職、名誉教授。
小口 高(おぐち たかし、1930年3月31日 - 2010… 小口 高(おぐち たかし、1930年3月31日 - 2010年12月27日)は、日本の地球物理学者。元東京大学教授。地磁気、オーロラなどの研究が専門で、第1次から第3次の南極観測隊に参加し、第12次の南極観測隊では隊長兼越冬隊長を務めた。 長野県岡谷市出身。長野師範学校附属小学校、旧制諏訪中学(長野県諏訪清陵高等学校の前身)、旧制第一高等学校を経て、東京大学理学部に進む。 1955年、東京大学の大学院生であった小口は、教授であった永田武に呼び出され、第1次南極観測隊の隊長に自分がなりそうだが、そうなれば一緒に来るかと尋ねられ、即座に同行を願い出た。小口は、1956年の第1次南極観測隊員に加わり、続いて第2次、第3次の南極観測隊員にも参加した。
鮎沢 啓夫(あいざわ けいお、1928年2月13日 - 20… 鮎沢 啓夫(あいざわ けいお、1928年2月13日 - 2011年1月10日)は、日本の農学者。農林官僚。専門は、昆虫病理学。 長野県諏訪郡川岸村(現・岡谷市)出身。長野県諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)、旧制松本高校を経て、東京大学農学部を卒業。1950年に農林省に入省し、蚕糸試験場(杉並区)に勤務、1964年から九州大学農学部教授を務めた。定年退官後、同大学名誉教授。
伊藤 礼吉(いとう れいきち、1927年4月10日 - 19… 伊藤 礼吉(いとう れいきち、1927年4月10日 - 1995年7月16日)は、日本の化学者。専門は、量子化学。旧姓は、宮坂。 長野県岡谷市出身。長野県諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)を経て、1953年名古屋大学理学部物理科卒業。同大学大学院、小林理学研究所勤務を経て、1957年東京農工大学助手。1961年理学博士学位取得。1962年同大学助教授。1966年早稲田大学理工学部(現・早稲田大学先進理工学部)助教授、化学科設立要員として赴任し同学科設立へ向けて尽力。1970年同大学理工学部教授。チューリッヒ工科大学留学を経て、1973年早稲田大学理工学部化学科(現・早稲田大学先進理工学部化学・生命化学科)設立し、以後の教育・研究に尽力。
岩尾 秀嶺(いわお しゅうれい、1926年8月15日 - 2… 岩尾 秀嶺(いわお しゅうれい、1926年8月15日 - 2010年12月20日)は、日本の理論物理学者。 長野県上水内郡[要出典]出身。長野県諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)を経て、名古屋大学理学部物理学科を卒業した。その後、大阪市立大学(現・大阪公立大学)大学院理学研究科、およびロチェスター大学大学院博物学をそれぞれ修了した。[要出典] シラキュース大学、ジェノヴァ大学、ベルン大学、東京教育大学(現・筑波大学)勤務を経て、金沢大学理学部助教授に就任、のち同大学理学部教授に昇進した[要出典]。定年退官後、同大学名誉教授。 名古屋自由学院短期大学(のちの名古屋芸術大学短期大学部)教授も務めた[要出典]。
翠川 修(みどりかわ おさむ、1926年3月25日 - 20… 翠川 修(みどりかわ おさむ、1926年3月25日 - 2017年11月6日)は、日本の医学者。京都大学名誉教授。専門は病理学。 長野県小県郡出身。父は、京城帝国大学助教授の翠川磐。旧制長野県諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)、旧制静岡高等学校を経て、1949年京都大学医学部卒業。1958年同大学医学部助教授。1959年ルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン医学部に留学。1962年岐阜県立医科大学(現・岐阜大学医学部)教授。1963年京都大学医学部教授。1978年フィリップ・フランツ・フォン・ジーボルト賞選考委員。1983年ドイツ病理学会名誉会員。1989年京都大学退官、同大学名誉教授。
丸茂 隆三(まるも りゅうぞう、1922年12月1日 - 2… 丸茂 隆三(まるも りゅうぞう、1922年12月1日 - 2001年5月29日)は、日本の生物学者。専門は、海洋生態学、水圏生物学。 長野県諏訪郡玉川村(現・茅野市)出身。長野県諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)を経て、1945年東京大学農学部水産学科卒業。東京大学海洋研究所(現・東京大学大気海洋研究所)教授。1976年 - 1980年同研究所所長。退官後、同大学名誉教授。1987年東京農業大学総合研究所教授。日本プランクトン学会会長。第13期・14期日本学術会議会員。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
飯島 宗一(いいじま そういち、1922年11月28日 - … 飯島 宗一(いいじま そういち、1922年11月28日 - 2004年3月1日)は、日本の医学者(病理学者)である。医学博士。広島大学第4代学長、名古屋大学第8代総長。 長野県諏訪郡平野村(現岡谷市)生まれ。旧制諏訪中学(現長野県諏訪清陵高等学校)、旧制松本高校理科乙類を経て、1946年名古屋帝国大学医学部卒業。1955年西ドイツのフライブルク大学に留学。1958年名古屋大助教授を経て、1961年から広島大学医学部で原爆症を研究。同大学教授を歴任、大学紛争の中、46歳で広島大学学長となり、紛争収束後の大学再建を指揮した。広大学長を辞した後、1978年に母校の名古屋大学に移り、同大学医学部病理学科教授、同大学学長を歴任した。
増澤 譲太郎(ますざわ じょうたろう、1922年9月15日 … 増澤 譲太郎(ますざわ じょうたろう、1922年9月15日 - 2000年8月29日)は、日本の気象学者。 長野県諏訪郡平野村(現・岡谷市)出身。長野県立諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)、第八高等学校を経て、1945年東京帝国大学理学部地理学科卒業。1957年論文「黒潮流域の海流と水塊」で理学博士。1946年中央気象台(現気象庁)入庁。同庁予報部長を経て、1980年気象庁長官。1983年東海大学海洋学部教授。1976年日本海洋学会賞受賞。1987年日本海洋学会会長( - 1988年)。1992年11月、勲二等瑞宝章受章。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
宮坂 宥勝(みやさか ゆうしょう、1921年5月20日 - … 宮坂 宥勝(みやさか ゆうしょう、1921年5月20日 - 2011年1月11日)は、日本の仏教学者・インド哲学研究者。名古屋大学名誉教授。真言宗智山派管長、総本山智積院化主。 1921年、長野県岡谷市で生まれた。長野県立諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)、旧制智山専門学校(現・大正大学)を経て、東北大学法文学部印度科に進学。1948年に卒業し、同大学大学院に進んだ。1954年、博士課程を中退。 1954年、高野山大学助教授に就いた。1957年、学位論文『インド仏教の認識論:とくにPramanavarttika(英語版)を中心として』を東北大学に提出して文学博士の学位を取得。1965年、高野山大学教授に昇格。
北原 文雄(きたはら あやお、1920年1月17日 - )は… 北原 文雄(きたはら あやお、1920年1月17日 - )は、日本の化学者。専門は、コロイド・界面化学とその化学史。 長野県上伊那郡藤沢村(現・伊那市)出身。旧制諏訪中学(現・長野県諏訪清陵高等学校)、第一高等学校理科乙類を経て、1942年東京帝国大学理学部化学科卒業。理学博士。 東京電気(現・東芝)入社。1949年佐賀県小城石炭研究所入所。1952年東邦大学理学部助教授。1959年同大学教授。1961年ペンシルベニア州立大学研究員。1963年東京理科大学工学部工業化学科教授。同大学工学部長を経て、1995年同大学名誉教授。 2020年には『化学者ウィリアムソンと日本人留学生たち』という本を出版した。
諏訪 彰(すわ あきら、1919年11月18日 - 1999… 諏訪 彰(すわ あきら、1919年11月18日 - 1999年3月12日)は、日本の地震学者・火山学者。長く気象庁に勤務し、地震観測所長などを務めた。 長野県諏訪郡上諏訪町(現諏訪市)に、諏訪藩主・諏訪氏の分家筋に生まれる。旧制諏訪中学校(長野県諏訪清陵高等学校の前身)で三澤勝衛の教えを受け、三澤が顧問であった理科クラブの部長を務めた。松本高等学校理科甲類を経て、東京帝国大学理学部地質学科に学ぶ。1944年に卒業して兵役に就き、戦時中は技術将校として日本海沿岸の石油探査にあたった。 戦後、1945年12月に中央気象台(気象庁の前身)に採用されて藤原咲平の薫陶を受け、松代大本営跡に地震観測施設を設けた中央気象台松代分室の開設などに関わった。
木川 達爾(きがわ たつじ、1919年1月20日 - 200… 木川 達爾(きがわ たつじ、1919年1月20日 - 2008年10月5日)は、日本の教育者・教育学者。文教大学名誉教授。 長野県諏訪郡豊平村(現・茅野市)出身。長野県諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)を経て、1940年東京府師範学校卒、同附属小学校、1949年東京学芸大学附属豊島小学校教諭、1957年東京都教育委員会指導主事、東京都立教育研究所研究教育部長など、1975年文教大学付属中学校・高等学校、小学校校長、文教大学教授、1990年定年、名誉教授。文教大学学園理事。木川達郎住友大阪セメント取締役常務執行役員の父。
小口 正七(おぐち しょうしち、1918年10月7日 - 2… 小口 正七(おぐち しょうしち、1918年10月7日 - 2006年10月16日)は、日本の化学者。 長野県諏訪郡上諏訪町(現・諏訪市)出身。長野県諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)を経て、1943年東京文理科大学(現・筑波大学)化学科卒業。東京学芸大学教授。同大学名誉教授。文教大学教授。1977年東京学芸大学附属大泉中学校(現・東京学芸大学附属国際中等教育学校)校長。1992年勲三等旭日中綬章受勲。
小口 忠彦(おぐち ただひこ、1917年 - )は、日本の心… 小口 忠彦(おぐち ただひこ、1917年 - )は、日本の心理学者。お茶の水女子大学名誉教授。 長野県諏訪郡下諏訪町生まれ。旧制長野県諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)、旧制第三高等学校を経て、1945年に東京帝国大学文学部心理学科を卒業。東京学芸大学助教授、お茶の水女子大学文教育学部助教授、教授。1981年、定年退官、名誉教授。受験指南書を多く書いた。
清水 正男(しみず まさお、1914年(大正3年)5月1日 … 清水 正男(しみず まさお、1914年(大正3年)5月1日 - 2014年(平成26年)8月29日)は、日本の教育学者、信州大学名誉教授、松商学園短期大学第6代学長。専門は、教育学、特に学校図書館の研究や、教育工学的な視聴覚教育の研究などであった。 長野県諏訪郡原村出身。長野県諏訪中学校、長野師範学校から、東京高等師範学校に進み、1944年に東京文理科大学教育学科を卒業した。同年、下諏訪小学校訓導、東京高等師範学校教諭、1946年に北海道第一師範学校助教授を務めた後、東京学芸大学講師を経て、1951年に信州大学教育学部助教授となり、1968年に教授に昇任した。1970年に文部省在外研究員としてコロンビア大学、オハイオ州立大学に留学。
宝月 欣二(ほうげつ きんじ、寳月 欣二、1913年 <大正… 宝月 欣二(ほうげつ きんじ、寳月 欣二、1913年 <大正2年> 7月10日 - 1999年 <平成11年> 12月19日)は、日本の植物学者。理学博士。東京都立大学名誉教授。専門は植物生態学。栄典は勲三等旭日中綬章。位階は正四位。 長野県長野市出身。長野県諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)、松本高等学校理科を経て、1938年東京帝国大学理学部植物学科卒業。同大学大学院修了(理学博士)。1944年東京大学副手を経て、1952年東京都立大学助教授、1954年同大学教授。退官後、同大学名誉教授。玉川大学教授。 日本植物学会会長、日本生態学会会長、旧環境庁自然環境保全審議会委員などを歴任し、勲三等旭日中綬章受勲。
矢沢 大二(やざわ だいじ、1913年5月1日 - 1994… 矢沢 大二(やざわ だいじ、1913年5月1日 - 1994年5月29日)は、日本の地理学者である。(旧)東京都立大学教授、日本地理学会会長。紫綬褒章、勲三等旭日中綬章受章。 1913年、長野県諏訪郡上諏訪町(現諏訪市)で生まれた。旧制諏訪中学(現長野県諏訪清陵高等学校)時代に三沢勝衛の教えを受け、地理学を志した。旧制新潟高等学校理科乙類を経て、東京帝国大学理学部地理学科に進学。同大学を1936年に卒業した。 戦時中は陸軍参謀本部気象班長として勤務。 1950年、(旧)東京都立大学理学部助教授に就いた。1953年、学位論文『気候景観の地理学的研究』を東京大学に提出して理学博士号を取得。1959年に教授昇格。
新田 次郎(にった じろう、本名:藤原 寛人(ふじわら ひろ… 新田 次郎(にった じろう、本名:藤原 寛人(ふじわら ひろと)、1912年6月6日 - 1980年2月15日)は、日本の小説家、気象学者。無線電信講習所(現在の電気通信大学)卒業。 中央気象台に勤めるかたわら執筆。山を舞台に自然対人間をテーマとする、山岳小説の分野を開拓した。『強力伝』(1955年)で直木賞受賞。作品に『孤高の人』(1969年)、『八甲田山死の彷徨』(1971年)などがある。 長野県諏訪郡上諏訪町角間新田(かくましんでん)(現在の諏訪市上諏訪角間新田)に藤原彦、りゑの次男として生まれる。ペンネームは“新田の次男坊”から(「しんでん」を「にった」と読み替え)。旧制諏訪中学校(現在の長野県諏訪清陵高等学校)・無線電信講習所本科(現在の電気通信大学の母体)・神田電機学校(現在の東京電機大学の母体)卒業。
西沢 一俊(にしざわ かずとし、1912年2月3日 - 20… 西沢 一俊(にしざわ かずとし、1912年2月3日 - 2012年10月10日)は、日本の化学者、東京教育大学名誉教授。 長野県更級郡布施村(現・長野市)出身。長野県諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)を経て、1933年東京高等師範学校三年修了、1936年東京文理科大学生物学科植物学専攻卒、1948年「Studien uber die enzymatische Spaltung von Galaktosiden (ガラクトシドの酵素分解に関する研究) 」」で理学博士。 1936年東京文理科大学副手、1945年上田繊維専門学校講師、1949年信州大学繊維学部助教授、1957年から1959年まで州立アラバマ大学に留学し糖質化学を学ぶ。
有賀 槐三(ありが かいぞう、1911年2月12日 - 20… 有賀 槐三(ありが かいぞう、1911年2月12日 - 2009年4月15日)は、日本の医学者。医学博士(1946年、東京帝国大学)。 長野県諏訪郡上諏訪町(現諏訪市)生まれ。旧制諏訪中学(長野県諏訪清陵高等学校)を経て、昭和9年(1934年)日本大学専門部医科修了。日本大学内科及生化学教室での研修後、駿河台日本大学病院内科助手、昭和13年(1938年)同病院医局長、昭和15年(1940年)医学部講師、昭和21年(1946年)助教授、昭和26年(1951年)教授。昭和29年(1954年)内科学第三講座開設に伴い主任教授に就任。昭和43年(1968年)駿河台日本大学病院長。昭和45年(1970年)医学部総合企画委員長、昭和49年(1974年)医学部長。
三村 二(みむら たすく、1910年5月14日 - 1980… 三村 二(みむら たすく、1910年5月14日 - 1980年9月29日)は、日本の歯学者。専門は、生体硬組織再生学。 長野県諏訪郡落合村(現・富士見町)出身。長野県諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)卒業後、1933年に東京高等歯科医学校を卒業した。その後、東京高等歯科医学校の助教授を務め、東京医学歯学専門学校医学科を卒業した。 1950年には東京医科歯科大学歯学部の教授となり、歯学部歯科薬物学講座(現・東京科学大学大学院医歯学総合研究科硬組織薬理学分野)を開設した。1965年から1968年まで東京医科歯科大学の歯学部長を務め、1969年から1973年まで新潟大学歯学部の教授を務めた。
山田 坂仁(やまだ さかじ、1908年12月20日 - 19… 山田 坂仁(やまだ さかじ、1908年12月20日 - 1987年6月3日)は、日本の哲学者。 長野県諏訪郡豊田村(現・諏訪市)出身。旧制長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)、旧制松本高等学校を経て、1929年東京帝国大学文学部哲学科卒業、報知新聞社入社。プロレタリア科学研究所、唯物論研究会に所属し、「哲学のレーニン的段階」に関する論争に参加、山岸辰蔵・薬袋俊二・鵜飼隆夫などの筆名で機関誌『唯物論研究』などを執筆。1937年東京府立第九中学校(現・東京都立北園高等学校)英語教師。1940年読売新聞社外報部嘱託。1943年北隆館出版部長。1946年千葉工業大学予科教授。1957年明治大学経営学部教授。
小松 摂郎(こまつ せつろう、1908年2月14日 - 19… 小松 摂郎(こまつ せつろう、1908年2月14日 - 1975年5月9日)は、日本の哲学者。大阪府出身。東海大学短期大学部元教授。 長野県育ち。長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)卒、東京帝国大学卒。1935年、山形高等学校教授。弁証法的唯物論を研究。戦後、民主主義科学者協会に参加、主体性論争で梅本克己を批判した。 1949年、神戸経済大学予科教授から、新制神戸大学文理学部教授へ切り替わる見込みであった小松は、日本共産党の党員や同調者を強権的に排除するレッドパージの対象となり、小松の新制大学教授への切り替えを認めないことを決し、さらに免官とした大学評議会など上層部と、文科教授会などとの間に対立が起こった。
長坂 端午(ながさか たんご、1907年5月5日 - 197… 長坂 端午(ながさか たんご、1907年5月5日 - 1977年4月9日)は、日本の教育学者、文部官僚。東京教育大学名誉教授。 長野県諏訪郡上諏訪町(現・諏訪市)出身。長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)を経て、第一高等学校卒業。 1928年下諏訪尋常高等小学校(現・下諏訪町立下諏訪南小学校)代用教員。東京文理科大学(現・筑波大学)教育科卒業。1932年山梨県女子師範学校教諭。1936年和歌山師範学校教諭。1941年静岡師範学校教諭、同附属国民学校(現・静岡大学教育学部附属静岡小学校)主事。1945年応召により中国へ出征。 1947年文部省(現・文部科学省)教科書局に入省、同局小学校社会科主任、文部事務官 。
矢島 羊吉(やじま ようきち、1907年〈明治40年〉2月5… 矢島 羊吉(やじま ようきち、1907年〈明治40年〉2月5日 - 1986年〈昭和61年〉11月26日)は、日本の倫理学者。文学博士(東北大学)。東北大学名誉教授。 長野県諏訪郡中洲村(現・諏訪市)出身。1923年旧制長野県諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)四年修了。1926年旧制第一高等学校文科甲類卒業、東京帝国大学法学部入学。1930年東京帝国大学文学部倫理学科卒業。1948年東北大学文学部教授。1962年「カントにおける自由の概念」で、文学博士(東北大学)。1971年定年退官、名誉教授、東北福祉大学教授。西洋、東洋、仏教倫理学の融合を目指した。1977年勲三等旭日中綬章受章。1983年日本学士院会員。
北原 覚雄(きたはら かくお、1906年1月15日 - 19… 北原 覚雄(きたはら かくお、1906年1月15日 - 1977年1月23日)は、日本の農芸化学者。専門は応用微生物学。 長野県上伊那郡長藤村(現・伊那市)生まれ。1923年旧制長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)卒業、1926年旧制大阪高等工業学校卒業、1929年京都帝国大学農学部農林化学科卒業。同年京都帝大講師、助教授となり、1940年農学博士取得。1947年京都大学食糧科学研究所教授、1953年東京大学応用微生物研究所第1研究部(現・東京大学定量生命科学研究所)主任教授に転じた。1963年同大学同研究所所長。 1966年に退官、東京農業大学教授となり、1976年から同大客員教授となった。
太田 和彦(おおた かずひこ、1905年5月20日 - 19… 太田 和彦(おおた かずひこ、1905年5月20日 - 1984年7月5日)は、日本の文部官僚、図書館情報学者。図書館短期大学(現・筑波大学情報学群知識情報・図書館学類)学長を務めた。 長野県飯田市出身。旧制長野県諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)、旧制第一高等学校を経て、京都帝国大学文学部哲学科卒業。文部省(現・文部科学省)入省。教科書調査官を務めた。 旧制浪速高等学校教授、群馬大学教授、獨協大学文学部教授を歴任し、1969年図書館短期大学(のちの図書館情報大学を経て、現・筑波大学情報学群知識情報・図書館学類)学長に就任。時代に即した文献情報学科の新設、筑波移転に伴う四年制大学昇格(図書館情報大学)の基礎固めに尽力した。
河角 廣(かわすみ ひろし、1904年7月12日- 1972… 河角 廣(かわすみ ひろし、1904年7月12日- 1972年12月12日)は、日本の地震学者。東京帝国大学教授を歴任。 長野県諏訪郡富士見村(現富士見町)出身。長野県立諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)、旧制第一高等学校を経て、1928年東京帝国大学理学部地震学科卒業。同年東京帝国大学地震研究所嘱託となる。1944年教授となり1963年所長に就任。退官後は東京都防災会議地震部会会長などを歴任した。 日本各地の地震危険度と最高震度の期待値を示す「河角マップ」は耐震基準における地震地域係数の根拠となった。また鎌倉や江戸などの古地震を調査し、相模トラフ巨大地震の69年周期説を唱えた(なお当該地震は1923年を最後に発生していない)。
太田 敬三(おおた けいぞう、1902年12月27日 - 1… 太田 敬三(おおた けいぞう、1902年12月27日 - 1996年4月1日)は、日本の医学者、東宮侍医。専門は、小児科学。 長野県諏訪郡上諏訪町(現・諏訪市)出身。旧制長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)、旧制松本高等学校理科を経て、1926年東京帝国大学医学部医学科卒業。 1926年東大医学部薬理学教室に入り、1927年小児科副手となり、外来診察所医長、1934年医学部附属病院小児科医長兼講師、1937年宮内省侍医寮勤務を経て、1945年東京医学歯学専門学校(現・東京医科歯科大学)講師、のち教授。1949年初代東京医学歯学専門学校附属医院国府台分院長。1956年東京医科歯科大学医学部附属病院長。
濱 徳太郎(はま とくたろう、1901年(明治34年)10月… 濱 徳太郎(はま とくたろう、1901年(明治34年)10月13日 - 1975年(昭和50年)5月29日)は、日本の美学者、作曲家。 長野県諏訪郡湊村(現岡谷市)の素封家の出身。長野県諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)を経て、慶應義塾普通部卒業後、松本高等学校 (旧制)理科乙類に入学。在学中にオーケストラを結成、同校初期の寮歌である「春寂寥」「夕暮るる」「血は燃えさかる(雲にうそぶく)」を作曲し、6年間在籍した。東京帝国大学文学部で美学を専攻し、オートバイや自動車に強く惹かれる。1928年に卒業、大学院に進み、建築史を研究する。1931年、帝国美術学校(武蔵野美術大学の前身)教授。1932年5月から1935年11月までヨーロッパ留学。
五味 保義(ごみ やすよし、1901年8月31日 - 198… 五味 保義(ごみ やすよし、1901年8月31日 - 1982年5月27日)は、日本の歌人・万葉学者。末弟は万葉学者の五味智英。長野県下諏訪町出身。 旧制諏訪中学(現・長野県諏訪清陵高等学校)、東京高等師範学校文科を経て、京都帝国大学国文科卒業。中学時代より叔母のアララギ派詩人・五味えい、同郷の島木赤彦の影響を受け、短歌の道を志した。1929年上京後、齋藤茂吉、土屋文明の指導を受けながら、アララギの中興や、歌誌「アララギ」の発行に携わり、特に戦後は、世田谷区奥沢の自宅を「アララギ」発行所として専念した。数多くの学校で教壇に立ち、東京第三師範学校や日本女子大学の教授も勤めた。1953年から1982年まで信濃毎日新聞歌壇撰者。