スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
3代目 桂 米朝(かつら べいちょう、1925年〈大正14年… 3代目 桂 米朝(かつら べいちょう、1925年〈大正14年〉11月6日 - 2015年〈平成27年〉3月19日)は、落語家。本名∶中川 清。出囃子∶『三下り鞨鼓』→『都囃子』。俳号は「八十八」。所属は米朝事務所。 現代の落語界を代表する落語家の一人で、第二次世界大戦後滅びかけていた上方落語の継承、復興に大きく貢献した。その功績から、1996年(平成8年)に落語界から2人目の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定され、2009年(平成21年)には演芸界初の文化勲章受章者となった。位階は従三位。 旧関東州(満州)大連市生まれ、兵庫県姫路市出身。1979年(昭和54年)に帝塚山学院大学の非常勤講師を務めた。
上杉 年一(うえすぎ としかず、1922年1月6日 - 20… 上杉 年一(うえすぎ としかず、1922年1月6日 - 2002年3月8日)は、日本の経営者、工学博士。山陽特殊製鋼社長を務めた。兵庫県姫路市仁豊野出身。父は上杉源蔵(元 福徳相互銀行)。 桃李小学校(現 姫路市立砥堀小学校)、旧制姫路中学(現:兵庫県立姫路西高校)卒業。1945年に東京帝国大学工学部冶金工学科を卒業し、1949年5月に山陽特殊製鋼に入社。1959年5月に取締役に就任し、1961年5月に常務、1974年12月に専務を経て、1981年2月に副社長に就任し、1986年6月には社長に昇格。1989年6月に取締役相談役に就任し、1992年6月に相談役に就任。 常務時代に、山陽特殊製鋼倒産事件が起こる。
戸谷 松司(とたに まつじ、1921年 <大正10年> 6月… 戸谷 松司(とたに まつじ、1921年 <大正10年> 6月30日 - 1999年 <平成11年> 6月26日)は、日本の政治家。姫路市長を務めた。位階は従四位。勲三等旭日中綬章。 印南郡米田町(現・加古川市)に6人きょうだいの3男として生まれる。実家は宝殿駅前の料亭「荒熊」で、父は大阪相撲の元関脇だった。姫路中学校(旧制)、姫路高等学校(旧制)を経て1944年(昭和19年)京都帝国大学工学部土木工学科卒業。建設省に入り、九州電力嘱託、島根県土木砂防電気課長補佐、徳島県土木部河川課長、広島県土木建築部河川課長を歴任。島根時代には竹下登の知遇を得た。 1966年(昭和41年)、兵庫県庁に入り土木部河川部長、企画部長、土木部長を経て1976年(昭和51年)から1983年(昭和58年)まで兵庫県副知事を務めた。
山下 勝(やました まさる、1920年 - 2010年)は、… 山下 勝(やました まさる、1920年 - 2010年)は、日本の実業家、起業家、野球選手。山下ゴム株式会社元代表取締役社長。 1938年(昭和13年)3月、兵庫県立旧制姫路中学校(現・兵庫県立姫路西高等学校)卒業。 中学卒業前に立教大学野球部のセレクションを受けるが、この時、同じく野球部のセレクションを受け立教大学を受験する同志に、内野手の西本幸雄(和歌山中学)、中林正道(立教中学)、2塁手の辻勉(愛知商業)、捕手の伊藤治夫(亨栄商業)、外野手の高橋進(一宮中学)、後にマネージャーとして活躍する中島正明(関西学院中学)らがいた。このセレクション受ける中学生で1チームを構成し、大学予科のチームを相手に3試合したが、全て中学生のチームが勝利した。
小西 俊造(こにし しゅんぞう、1918年11月3日 - 2… 小西 俊造(こにし しゅんぞう、1918年11月3日 - 2012年10月27日)は、日本の教育者。医学者。山口大学第6代目学長。医学博士(1950年、京都大学にて取得)。 兵庫県出身。1942年9月に京都大学医学部卒業。1950年「麻疹予防に関する研究」で同大学にて医学博士。1963年10月、山口県立医科大学教授に就任。1969年4月山口大学医学部附属病院長、1978年3月同大学学長となる。1984年2月同大学任期満了にて退官。同大学名誉教授となる。2012年10月、故郷の相生市にて多臓器不全のため93歳にて他界。
釣 常雄(つり つねお、1917年9月9日 - 1996年7… 釣 常雄(つり つねお、1917年9月9日 - 1996年7月25日)は、兵庫県姫路市出身の元プロ野球選手。 飾磨小学校在学中から、周囲では名が知られた存在だった。そこに目をつけた姫路中学が、野球部強化のため、釣を含む飾磨小学校の選手複数人に入学を働きかける。しかし、当時の姫路中学は進学校として知られており、全員が不合格となってしまう。困り果てた姫路中学側は、その中で最も点数が高かった釣だけを強引に入学させたという。 姫路中学時代は1936年の選抜にチームを導く。初出場ということもあり姫路市民からの期待は大きく、当時姫路の連隊に所属していた賀陽宮恒憲王からも激励の言葉を受けたという。同大会は、初戦で平安中学に惜敗した。
植村 光雄(うえむら みつお、1914年1月1日- 2006… 植村 光雄(うえむら みつお、1914年1月1日- 2006年1月21日)は、日本の経営者。住友商事社長、会長を務めた。 兵庫県出身。旧制姫路中学、旧制姫路高等学校文科乙類を経て、1936年京都帝国大学法学部を卒業。住友合資入社、住友商事に転じ、1961年5月に取締役に就任。常務、専務を経て、1971年11月に副社長に就任し、1977年6月に社長に昇格し、1983年6月に会長に就任し、1987年6月から相談役を務めた。。 1978年11月に藍綬褒章を受章し、1984年6月には貿易功労者に選ばれ、1989年11月に勲二等旭日重光章を受章した。 2006年1月21日、肺炎のために死去。92歳没。
椎名 麟三(しいな りんぞう、1911年10月1日 - 19… 椎名 麟三(しいな りんぞう、1911年10月1日 - 1973年3月28日)は、日本の小説家である。本名は大坪 昇(おおつぼ のぼる)。
竹田 助一(たけだ すけかず、1911年9月2日 - 没年不… 竹田 助一(たけだ すけかず、1911年9月2日 - 没年不明)は、兵庫県出身のプロ野球選手。 旧制姫路中学、同志社大学を経て1936年に阪急軍へ入団。同年秋季リーグ終了後退団。
門脇 政夫(かどわき まさお、1911年(明治44年)8月7… 門脇 政夫(かどわき まさお、1911年(明治44年)8月7日 - 2010年(平成22年)2月19日)は、兵庫県出身の政治家。位階は正五位。「敬老の日」の提唱者として知られる。 多可郡野間谷村(後の八千代町を経て現在の多可町)で染色業を営み、1942年5月、30歳で野間谷村会議員に当選。同村収入役を経て、戦後の1947年4月、野間谷村の村長に35歳で当選した。同年9月15日、村主催の敬老会を初めて開催した。55歳以上の住民を公会堂に招いて食事と余興(播州歌舞伎)でもてなした。「長い間社会に貢献してきたお年寄りに敬意を表すとともに、その知識や人生経験を次の世代に伝授してもらう場を設ける」という趣旨であった。
吉田 豊信(よしだ とよのぶ、1911年(明治44年)4月3… 吉田 豊信(よしだ とよのぶ、1911年(明治44年)4月30日 - 1984年(昭和59年)7月21日)は、日本の政治家。兵庫県姫路市長(4期)。位階は従四位。勲二等瑞宝章。 兵庫県飾磨郡白浜村(現・姫路市)生まれ。旧制姫路中学校卒業後、東京帝国大学法学部に進み、高等試験並びに内務省幹部採用試験に合格した。1934年(昭和9年)、内務省に入省、大阪府、岩手県で勤務ののち、1938年(昭和13年)、陸軍に召集され姫路の第10師団歩兵第39連隊に入隊した。その後、甲種幹部候補生採用試験に合格、東京の陸軍経理学校への入校を経て、陸軍主計少尉に任官し、第10師団経理部で物資統制主任将校を務めた。1942年(昭和17年)2月、召集解除により内務省に復帰し、福岡県、愛知県で勤務、終戦後は厚生省佐世保引揚援護局総務部長、愛知県教育部長を務める。
大塚 徹(おおつか とおる、1908年(明治41年)12月8… 大塚 徹(おおつか とおる、1908年(明治41年)12月8日 - 1976年(昭和51年)12月2日)は、日本の詩人。 脊椎カリエスを患いながらも、叙情詩の発表を続け、播磨地域を中心とする多くの文学人に影響を与えた。また、ハーモニカ演奏や民謡、歌謡、学校歌の作詞等に多芸に活躍した。 兵庫県姫路市堺町で質屋を営む大塚捨次の三男として生まれる。母・まさは芸に秀で、若い頃の桂米朝、坂東大蔵らが出入りしていた。長兄が出奔し、次兄が早逝したため、時計古物商を営んで父母を養ったという。 旧制姫路中学3年在学時、飾磨港で水泳中に飛び込みをし、脊髄を損傷、3年間闘病する。その後脊髄カリエスも患い、一生疼痛と闘うこととなる。
佐伯 喜三郎(さえき きさぶろう 1908年 - 1939年… 佐伯 喜三郎(さえき きさぶろう 1908年 - 1939年8月1日)は、日本の元アマチュア野球選手。兵庫県出身。 姫路中学(現・兵庫県立姫路西高等学校)から1927年に早稲田大学専門部に進み、野球をプレーした。ポジションは三塁手だった。大学野球で俊足の打者として頭角を現し、1931年には日米野球の全日本選抜メンバーに選出された。1932年度のリーグ戦では2番打者として活躍し、1番打者だった三原脩と並んで早大野球部史上最高の快脚コンビと謳われた。 早大卒業後応召され中国へ従軍。1939年8月1日に北支大名県竜王廟鎮で戦死した。享年30。 東京ドーム内の野球殿堂博物館にある戦没野球人モニュメントに、彼の名が刻まれている。
桔梗 利一(ききょう りいち、1907年〈明治40年〉9月2… 桔梗 利一(ききょう りいち、1907年〈明治40年〉9月2日 - 1975年〈昭和50年〉9月23日)は、文藝春秋社編集者(1929年〈昭和4年〉7月 - 1943年〈昭和18年〉9月、1953年〈昭和28年〉12月21日 - 1972年〈昭和47年〉9月2日)。
尾上 壽作(おのえ じゅさく、1903年〈明治36年〉11月… 尾上 壽作(おのえ じゅさく、1903年〈明治36年〉11月28日 - 1998年〈平成10年〉11月6日)は、日本の実業家。グローリー工業社長。国栄機械製作所(現グローリー)創業者尾上作兵衛の三男。グローリー名誉会長尾上壽男の父。 兵庫県姫路市出身。尾上作兵衛の三男。尾上家は姫路の商家だった。後分家した。 姫路中学校(現姫路西高校)を卒業した。1949年、株式会社国栄機械製作所の取締役社長に就任した。1963年、姫路商工会議所副会頭に就任した。1971年、取締役会長に就任した。趣味は乗馬、弓術。宗教は、浄土宗。住所は兵庫県姫路市俵町・同市南畝町。 1964年藍綬褒章、1974年勲三等瑞宝章受章。
原 泰良(はら やすよし、1903年(明治38年)11月5日… 原 泰良(はら やすよし、1903年(明治38年)11月5日 - ?)は、日本の実業家。 神戸電気鉄道社長、大阪神鉄交通社長、有馬土地開発社長、神鉄交通社長、有馬興業社長、神鉄観光社長、有馬温泉掘鑿社長などを務めた人物。神戸電気鉄道企業集団(現:神戸電鉄グループ)の発展に大きく貢献した。 兵庫県姫路市別所町別所で生まれた。1922年(大正11年)兵庫県立姫路中学校を卒業した春、地元姫路の第三十八国立銀行(のちに神戸岡崎・五十六・高砂・灘商業・西宮・姫路と合併して神戸銀行〈現:三井住友銀行〉)に入行、網干支店長、検査部長、姫路支店長、取締役を歴任した。 倒産寸前で神戸市への身売りやバス転換を検討していた神戸電気鉄道(現:神戸電鉄)の経営再建を図るべく、1959年(昭和34年)11月24日に同電鉄の副社長に転身、小林秀雄社長が退任した1960年(昭和35年)5月25日からは第10代代表取締役社長に就任した。
芥田 武夫(あくた たけお、1903年10月20日 - 19… 芥田 武夫(あくた たけお、1903年10月20日 - 1987年9月5日)は、日本のアマチュア野球選手・プロ野球監督・プロ野球球団経営者、スポーツ記者、野球解説者。兵庫県加東市出身(姫路市野里町とする資料もあり)。旧姓:氷室(ひむろ)。 兵庫県立姫路中学校卒業後、1922年に早稲田大学へ入学。早大野球部では飛田忠順監督の「精神野球」に鍛練され、外野手として活躍。1925年秋季には東京六大学リーグ最初の首位打者を獲得した(当時は「氷室武夫」)。1926年には主将を務めた。大学時代の通算成績は65試合出場、240打数63安打、打率.263、2本塁打(六大学リーグ以前も含む)。卒業後、満洲国へ渡り南満洲鉄道に入社し満洲倶楽部(大連市)の選手として活動。
阿部 知二(あべ ともじ、1903年〈明治36年〉6月26日… 阿部 知二(あべ ともじ、1903年〈明治36年〉6月26日 - 1973年〈昭和48年〉4月23日)は、日本の小説家・英文学者・翻訳家。 1903年(明治36年)6月26日、岡山県勝田郡湯郷村大字中山(現・美作市中山)にて阿部良平、もりよ夫婦の次男として生まれる。中学教師であった父の赴任により、生後2ヶ月で島根県大社町に移り、さらに9歳のとき姫路市坊主町(ぼうずまち)に移る。父が教鞭を執っていた旧制姫路中学(現・姫路西高校)を5年制のところを4年で修了し、旧制第八高等学校(現・名古屋大学)文科甲類(英文学科)、東京帝国大学(現・東京大学)英文学科を卒業。兄・公平の影響で文学に近づき、短歌を学んで島木赤彦に接し、またトルストイやチェーホフを愛読する。
神吉 晴夫(かんき はるお、1901年〈明治34年〉2月15… 神吉 晴夫(かんき はるお、1901年〈明治34年〉2月15日 - 1977年〈昭和52年〉1月24日)は、日本の編集者、出版事業家。カッパ・ブックスの創始者。光文社二代目社長。かんき出版創業者。「戦後最大の出版プロデューサー」と呼ばれる[要出典]。 兵庫県加古川市西神吉町出身。1922年、東京外国語学校仏語部貿易科卒業。1927年、東京帝国大学文学部仏文科を中退し、講談社に入社。自ら8か国語に堪能と称し、野間清治社長から破格の給与で遇された。キングレコード時代は童謡プロデューサーとして「かもめの水兵さん」「赤い帽子白い帽子」「ふたァつ、ふたァつ、何でしょね」などのヒット曲を飛ばす。 1945年10月光文社創立に参加し、編集局長となり、1965から1970年社長を務めた。
石見 元秀(いわみ もとひで、1900年(明治33年)8月2… 石見 元秀(いわみ もとひで、1900年(明治33年)8月2日 - 1976年(昭和51年)1月15日)は、日本の政治家。兵庫県姫路市長(5期)。位階は従四位。 子に元姫路市長の石見利勝。 兵庫県飾磨郡余部村(現・姫路市)生まれ。旧制姫路中学校卒業後、城陽尋常高等小学校代用教員を務め、富山県立山の土木工事現場で働いたのち、26歳のときに東京で建設業の会社を設立し、ダム・鉄道工事を請け負った。1933年(昭和8年)、満州に渡り砂利会社の経営を始めるも1936年(昭和11年)に撤退、1938年(昭和13年)に再度満州で森林伐採事業を展開するも戦況の悪化により1943年(昭和18年)に引き揚げを余儀なくされる。
川石 酒造之助(かわいし みきのすけ、1899年8月13日 … 川石 酒造之助(かわいし みきのすけ、1899年8月13日 - 1969年1月30日)は日本の柔道家。講道館柔道七段。兵庫県飾磨郡手柄村(のちの姫路市)出身。フランス柔道の父と称され、日本よりも日本以外で著名な柔道家である。 「川石メソッド」 (Méthode de Judo Kawaishi) 、「メトードK」と呼ばれる。パリの道場に迎えられた川石は柔道の技の系統的分類を、従来の講道館五教の技よりも多い147の技数でまとめた。川石は技の分類の上で、技毎に番号をつけ記号化したものを教えることで外国人に教授することに奏功した。ボルドー大学教授ミッシェル・ブルースの研究によると川石メソッドは科学者でありヨーロッパで最初の黒帯取得者と言われているモーシェ・フェルデンクライスの影響を受けていることが言及されている。
五十嵐 播水(いがらし ばんすい、1899年1月10日 - … 五十嵐 播水(いがらし ばんすい、1899年1月10日 - 2000年4月23日)は、日本の俳人、内科医。本名は久雄(ひさお)。兵庫県出身。 姫路市鍛冶町に生まれる。野里尋常小学校、姫路中学校、第三高等学校を経て、1923年京都帝国大学医学部卒業。卒業後に松尾内科勤務を経て、神戸市立中央市民病院に勤務。同病院の副院長・院長を1959年まで務める。1961年に神戸市生田区で五十嵐内科を開業、1993年まで医師として務めた。 大学在学中の1920年より句作をはじめ、京大三高俳句会で高浜虚子と出会い師事する。1922年、「京鹿子」同人。1930年、山本梅史の跡を継いで「九年母」選者。1932年、「ホトトギス」同人。
栗原 民雄(くりはら たみお、1896年5月21日 - 19… 栗原 民雄(くりはら たみお、1896年5月21日 - 1979年10月8日)は、日本の柔道家(講道館10段、大日本武徳会範士)。 選手として1929年の御大礼記念天覧武道大会で優勝するなどし、指導者としては武道専門学校主任教授や京都府警察柔道教師を務めた。のちに講道館柔道殿堂にも選ばれている。 兵庫県姫路市生まれ。姫路中学校を経て、1915年(大正4年)大日本武徳会武術専門学校に5期生として入学。同期には兼元藤兵衛や山口孫作(のち隆三)らがいた。1917年1月に講道館に入学。1918年(大正7年)3月卒業後、同校研究科に進む。1919年4月、神宮皇學館助教授に就任。 1920年(大正9年)4月、武道専門学校助教授に就任し、翌年教授となる。
野田 誠三(のだ せいぞう、1895年(明治28年)2月11… 野田 誠三(のだ せいぞう、1895年(明治28年)2月11日 - 1978年(昭和53年)3月28日)は、日本の実業家。阪神電気鉄道社長・会長、阪神百貨店社長、阪神不動産社長、阪神タイガースオーナーなどを歴任。阪神甲子園球場の設計者でもある。大阪北ロータリークラブ初代会長。朝日放送元取締役。勲二等瑞宝章受章。1974年野球殿堂入り。 現在の兵庫県加西市出身。旧制姫路中学(現兵庫県立姫路西高等学校)を経て、旧制第八高等学校、京都帝国大学工学部卒業後、1922年に阪神電鉄へ入社。1924年から甲子園球場建設の設計主任として携わり、1941年に取締役、1951年に社長に就任。1967年から5年間、会長を務めた。
赤藤 庄次(しゃくどう しょうじ、1893年(明治26年)9… 赤藤 庄次(しゃくどう しょうじ、1893年(明治26年)9月10日 - 1969年(昭和44年)6月18日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 兵庫県出身。農業・赤藤多一郎の二男として生まれる。姫路中学校(現兵庫県立姫路西高等学校)、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第21連隊付となる。 1919年(大正8年)5月、台湾歩兵第2連隊付となる。1913年(大正10年)3月、陸軍委託学生として東京外国語学校独逸語委託専科を修了した。同年6月、ベルリンに留学。1914年(大正11年)3月、仙台陸軍地方幼年学校教官に就任し、陸士教官、歩兵第21連隊中隊長を経て、1926年(大正15年)9月から1927年(昭和2年)6月まで、憲兵練習所に派遣された。
都築 正男(つづき まさお、英語:Masao Tsuzuki… 都築 正男(つづき まさお、英語:Masao Tsuzuki、1892年(明治25年)10月20日 - 1961年(昭和36年)4月5日)は、日本の医学者、海軍軍医。最終階級は海軍軍医少将。「原爆症研究の父」と呼ばれる。 兵庫県姫路市に開業医の長男として生まれた。兵庫県立姫路中学校を経て、1910年(明治43年)に旧制第一高等学校に入学。一高では芥川龍之介や矢内原忠雄らと同期だった。1917年(大正6年)に東京帝国大学医科大学医学科を卒業、海軍に進んだ。海軍軍医学校選科学生として東大に再度入学し、塩田広重のもとで外科学を学んだ。1926年(大正15年) 東京大学 医学博士 論文の題は 「硬レントゲン線の生物学的作用に関する実験的研究」。
赤柴 八重蔵(あかしば やえぞう、1892年(明治25年)6… 赤柴 八重蔵(あかしば やえぞう、1892年(明治25年)6月18日 - 1977年(昭和52年)1月9日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。旧姓・寺田。 本籍新潟県。寺田弥蔵の二男として生まれ、赤柴幾太郎陸軍大佐の養子となる。姫路中学校(現兵庫県立姫路西高等学校)、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1912年(明治45年)5月、陸軍士官学校(24期)を卒業。同年12月、歩兵少尉任官、歩兵第40連隊付となる。朝鮮臨時派遣歩兵第2大隊付などを経て、1925年(大正14年)11月、陸軍大学校(37期)を卒業。 歩兵第80連隊中隊長、陸士教官、第1師団参謀、陸軍省人事局付、人事局課員、欧州出張などを経て、1936年(昭和11年)8月、陸軍大佐に昇進し陸士付となる。
川西 竜三(かわにし りょうぞう、1892年(明治25年)2… 川西 竜三(かわにし りょうぞう、1892年(明治25年)2月20日 - 1955年(昭和30年)1月24日)は、日本の実業家。阪神財閥系譜・川西財閥2代目総帥。位階勲等は従五位勲六等。大日本帝国海軍用航空機開発者、川西航空機・川西機械製作所社長、新明和工業創業者を務めたため、戦後は公職追放指定を受けた。 兵庫県神戸市須磨生まれ。川西清兵衛の次男で、川西清司の弟。 旧制姫路中学校(姫中)を経て上京し、慶應義塾大学部理財科を卒業。合資会社日本飛行機製作所(後の中島飛行機)で勤務し、飛行機の設計・製作を学ぶ。慶應義塾大学時代の学友に、坂東舜一が居る。1920年(大正9年)に父が神戸に創業した川西倉庫に川西機械製造所を設立すると、29歳で所長に就任。
土方 成美(ひじかた せいび、明治23年(1890年)7月1… 土方 成美(ひじかた せいび、明治23年(1890年)7月10日 - 昭和50年(1975年)2月15日)は、日本の経済学者。東京帝国大学教授、経済学部長。統制経済の第一人者。専攻は理論経済学、財政学。結婚前の旧姓は、「町田 成美」(まちだ せいび)。 1890年、兵庫県姫路市に生まれる。父は姫路市会議長を経て1903年に衆議院議員となった町田猛郎(たけし)。祖先は代々酒井家に仕える武士であったという。兵庫県立姫路中学校を卒業後、父の意向で旧制高等学校の中では姫路に一番近い岡山の第六高等学校に進学する。東京帝国大学法科大学経済学科を首席で卒業。 在学中に高等文官試験に合格していたが、大学に残る。
横山 勇(よこやま いさみ、1889年(明治22年)3月1日… 横山 勇(よこやま いさみ、1889年(明治22年)3月1日 - 1952年(昭和27年)4月21日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 歩兵第51連隊長を務めた陸軍大佐横山新治の長男として東京市牛込区で生まれる。母ヨシは山路一善の妹。祖父は会津藩士の横山直助であるため、福島県若松市出身という説もある。 姫路中学校、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1909年(明治42年)5月、陸軍士官学校(21期)を卒業。卒業成績は8番/418名。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第3連隊付となる。1915年(大正4年)12月、陸軍大学校(27期)を卒業した。 1919年(大正8年)4月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員(鉄道班)、陸軍省軍務局課員を経て、1924年(大正13年)8月、歩兵少佐に昇進し陸軍兵器本廠付となる。
和辻 哲郎(わつじ てつろう、1889年〈明治22年〉3月1… 和辻 哲郎(わつじ てつろう、1889年〈明治22年〉3月1日 - 1960年〈昭和35年〉12月26日)は、日本の哲学者・倫理学者・文化史家・日本思想史家。『古寺巡礼』『風土』などの著作で知られ、その倫理学の体系は和辻倫理学と呼ばれる。法政大学教授・京都帝国大学教授・東京帝国大学教授を歴任。日本倫理学会会員。文化勲章受章。 兵庫県出身。東大哲学科卒。ニーチェなど西洋哲学を研究。奈良の寺院建築や仏像の美を再発見し、『古寺巡礼』(1919年)も人気を博す。『人間の学としての倫理学』(1934年)で新しい倫理学の体系を構築。『風土』(1935年)、『面とペルソナ』(1937年)も名高い。 日本的な思想と西洋哲学の融合、あるいは止揚とでもいうべき境地を目指した稀有な哲学者と評価される。
三木 良英(みき よしひで、1887年(明治20年)3月31… 三木 良英(みき よしひで、1887年(明治20年)3月31日 - 1970年(昭和45年)2月18日)は、日本の陸軍軍人、内科医。最終階級は陸軍軍医中将。 兵庫県出身。三木駿三の長男として生まれる。姫路中学校(現兵庫県立姫路西高等学校)、第三高等学校を経て、1912年(明治45年)6月に東京帝国大学医科大学を卒業し、二等軍医に任官し歩兵第20連隊付となる。1913年(大正2年)8月、東京第二陸軍病院(現国立成育医療研究センター)付となる。1914年(大正3年)8月、東京帝大大学院に入学。1915年(大正4年)8月、一等軍医に昇進し、歩兵第71連隊付、青島病院付、スイス駐在を務め、1921年(大正10年)3月、三等軍医正に進級しドイツ駐在となる。
駒井 卓(こまい たく、1886年5月9日 - 1972年7… 駒井 卓(こまい たく、1886年5月9日 - 1972年7月9日)は、動物学者。日本学士院会員。動物遺伝学、動物系統学、進化論を研究。 三毛猫にオスが少ないことを発見したことで知られる。 1886年、兵庫県姫路市に生まれる。旧姓・福田。東京高等師範学校卒業後、大阪府立富田林中学校で教諭を務めた。その後、東京帝国大学で動物学を学び、1917年(大正6年)に選科修了。コロンビア大学留学ののち、1925年(大正14年)京都帝国大学、東京帝大兼任教授、1947年(昭和22年)東大定年退官、1948年(昭和23年)学士院会員、1949年(昭和24年)国立遺伝学研究所部長。 1924年(大正13年)2月 東京大学 理学博士「Studies on two aberrant ctenophores, Coeloplana and Gastrodes(二種の異状なる櫛水母シロープラナ及びガストロデスの研究)」。
清瀬 一郎(きよせ いちろう、1884年〈明治17年〉7月5… 清瀬 一郎(きよせ いちろう、1884年〈明治17年〉7月5日 - 1967年〈昭和42年〉6月27日)は、大正、昭和時代の日本の弁護士、法学者、政治家。学位は法学博士。東京弁護士会会長。従二位勲一等旭日桐花大綬章。 弁護士としては極東国際軍事裁判で東條英機の弁護人などを務め、また政治家としては文部大臣、衆議院議長を歴任。 兵庫県飾磨郡夢前町(現・姫路市)出身。弁護士としては小作争議裁判や思想事件等の他、特許事件を多く手掛けて著作物も多く、工業所有権法(知的財産法)の分野においては実務・学問の両面において草分け的な存在であった。 政界入りしてからは普通選挙運動の推進や台湾議会設置運動への支援、治安維持法への反対などリベラルな政治家として知られてきた。
魚住 折蘆(うおずみ せつろ、1883年〈明治16年〉1月2… 魚住 折蘆(うおずみ せつろ、1883年〈明治16年〉1月27日 - 1910年〈明治43年〉12月9日)は、明治時代の日本の文芸評論家。 本名は影雄(かげお)。 兵庫県加古郡母里村(現・稲美町母里)出身。兵庫県姫路尋常中学校(現・兵庫県立姫路西高等学校)入学後、内村鑑三の『東京独立雑誌』に影響を受ける。1901年(明治34年)受洗。1903年(明治36年)5月、友人の藤村操が日光華厳滝で投身自殺し、衝撃を受ける。同年9月、第一高等学校に入学。翌年『一高校友会雑誌』に「自殺論」を寄稿し、今日の人間にとって、国是国策の君でも家でもなく、自我こそが問題なのだと論じて話題になる。 1906年(明治39年)9月、東京帝国大学文科大学独文科に入学するが、同年10月哲学科に転科した。
岡上 彦三(おかがみ ひこぞう、1880年(明治13年)8月… 岡上 彦三(おかがみ ひこぞう、1880年(明治13年)8月3日 - 没年不明)は、日本の政治家。兵庫県飾磨市(現・姫路市)長(1期)。 兵庫県飾東郡飾万津(のち飾磨津→飾磨町→飾磨市、現・姫路市)大浜に生まれる。旧制兵庫県立姫路中学校(現・兵庫県立姫路西高等学校)卒業。陸軍に入り、中尉で退役した。 1912年(明治45年)飾磨郡会議員に当選。飾磨町会議員を経て、1931年(昭和6年)飾磨町長に就任。1940年(昭和15年)4月飾磨市の市制施行により、初代市長となったが、4ヶ月で退任した。 このほか、飾磨運輸株式会社社長を務めた。
原口 亮平(はらぐち りょうへい、1878年(明治11年)4… 原口 亮平(はらぐち りょうへい、1878年(明治11年)4月14日 - 1951年(昭和26年)1月29日)は、日本の会計学者。神戸大学名誉教授。元兵庫県立神戸高等商業学校校長、元神戸商業大学学長事務代理。 兵庫県三原郡榎列村(現南あわじ市)で原口家八代目として生まれる。旧制姫路中学校(現兵庫県立姫路西高等学校)を経て、1900年高等商業学校(現一橋大学)卒業。神戸商業大学(現神戸大学)教授となり、同大学学長事務代理も務めた。1938年に名誉教授の称号を受け、普通試験委員長も退任し、従三位に叙された。同年兵庫県立神戸高等商業学校校長に就任。1941年依願退官。また、勲二等瑞宝章も受章した。
浅井 虎夫(あさい とらお、1877年〈明治10年〉8月23… 浅井 虎夫(あさい とらお、1877年〈明治10年〉8月23日 - 1928年〈昭和3年〉12月1日)は、日本の歴史学者。専門は中国法制史、日中関係史。 1877年(明治10年)、兵庫県神戸に生まれた。1896年、兵庫県尋常中学校を卒業し、熊本の第五高等学校に入学。1899年、東京帝国大学文科大学漢学科史部に入学。大学では東洋史の市村瓚次郎、国史の星野恒、経済史の内田銀蔵、法制史の宮崎道三郎らから学び、1902年(明治35年)に卒業。同大学大学院に進学した。 1905年、台湾総督府に設置された臨時台湾旧慣調査会の嘱託となり、『清国行政法』の編纂に従事。1915年(大正4年)、『清国行政法』完成と同時に調査会を辞職し、帰郷した。
辻 善之助(つじ ぜんのすけ、 1877年(明治10年)4月… 辻 善之助(つじ ぜんのすけ、 1877年(明治10年)4月15日 - 1955年(昭和30年)10月13日)は、戦前の日本の歴史学者。東京帝国大学(現・東京大学)名誉教授。文学博士。専門は日本仏教史。仏教史研究から日本人の精神と日本文化の形成を探求し実証主義的研究を貫き、日本史学の発展に寄与し、実証的な日本仏教史を確立。 1877年(明治10年)4月、兵庫県姫路元塩町(現在の兵庫県姫路市元塩町)に生まれる。父は善次郎。母はつね。神童の誉たかく、小学校・中学校と抜群の成績であった。1893年(明治26年)に姫路中学校(現兵庫県立姫路西高等学校)より京都の第三高等中学校予科3年に編入。翌1894年(明治27年)に学制改革で第三高等学校に改組の上、予科が廃止されると、他の高校に転属を余儀なくされたが、第一高等学校に転校することができた。
直木 倫太郎(なおき りんたろう、1876年(明治9年)12… 直木 倫太郎(なおき りんたろう、1876年(明治9年)12月1日 - 1943年(昭和18年)2月11日)は、日本の土木技術者・土木工学者、都市計画家。元帝都復興院技監。大陸科学院初代院長。元大阪市都市計画部長。関西工学専修学校(現:大阪工業大学)の創設時協力者。元大林組取締役。 新聞に投稿して入選した俳句から燕洋と号した。技術者の地位向上分野の先駆をなした「日本工人倶楽部」の活動でも活躍した技術官僚。 1876年、兵庫県で真島顕蔵の長男として生まれ、17歳で実業家・直木政之介(日本燐寸製造創業者)の養子となる。 姫路中学校、第三高等学校、第二高等学校を経て、1899年7月、東京帝国大学工科大学土木工学科卒業。
永田 秀次郎(ながた ひでじろう、1876年(明治9年)7月… 永田 秀次郎(ながた ひでじろう、1876年(明治9年)7月23日 - 1943年(昭和18年)9月17日)は、兵庫県三原郡長田村(現:南あわじ市倭文長田)出身の日本の官僚、政治家、俳人、随筆家。第18代官選三重県知事、第8代・第14代東京市長、第4代拓殖大学学長、貴族院勅選議員。廣田内閣の拓務大臣、阿部内閣の鉄道大臣を歴任。俳名・筆名は永田 青嵐(ながた せいらん)で、多くの著書や句集を残している。 長男は自由民主党衆議院議員の永田亮一。 初代倭文村村長を務めた永田実太郎の次男として出生。弟に京都市土木局長、横浜市電気局長を務めた永田兵三郎がいる。 三原高等小学校卒業後、進学校の1つだった姫路中学校を受験するが不合格となる。
5代 伊藤 長次郎(いとう ちょうじろう、1873年(明治6… 5代 伊藤 長次郎(いとう ちょうじろう、1873年(明治6年)4月11日 - 1959年(昭和34年)6月12日)は、明治から昭和期の大地主、実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。初期の産業組合指導者。幼名・熊蔵。 兵庫県印南郡今市村(伊保村 を経て現高砂市伊保町)で大地主、4代伊藤長次郎の長男として生まれる。兵庫県尋常中学校(のち姫路中学校、現兵庫県立姫路西高等学校)を卒業し、京都の顕道学校、東京の国民英学会、日本法律学校で英語、法律を学んだが、父の病により学業を中断して帰郷した。1895年(明治28年)9月、父の死去に伴い家督を相続し第5代長次郎を襲名した。 1896年(明治29年)以降、加古川銀行頭取、三十八銀行頭取、神栄社長、兵庫県農工銀行取締役、兵庫県農会長、印南郡会議員、同郡参事会員、日英博覧会評議員、茶業組合中央会議特別議員、生産調査会委員などを務めた。
芦田 惠之助(あしだ えのすけ、1873年1月8日 - 19… 芦田 惠之助(あしだ えのすけ、1873年1月8日 - 1951年12月9日)は、明治から昭和を生きた教育者。兵庫県出身。 16歳で、故郷の竹田村の竹田簡易小学校の授業生という呼び名の教員になって、教職のスタートを切る。その後1898年、上京して、東京高等師範学校附属小学校(現:筑波大学附属小学校)訓導、樋口勘次郎に学び、綴り方教育を提唱。1902年、郷里に戻り、兵庫県姫路中学校(現・兵庫県立姫路西高等学校)の助教諭となり、ここで国語教育の実践を展開していく。 彼の立場は、今の言い方でいえば「自由作文」、当時は「随意選題」といった。これは同時代、ドイツのハンブルクを中心に展開された芸術教育運動の中の作文教育で提唱されたものとほとんど時を同じくしたものである。
平野 亀之助(ひらの かめのすけ、1869年6月22日(明治… 平野 亀之助(ひらの かめのすけ、1869年6月22日(明治2年5月13日) - 1950年(昭和25年)5月17日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 播磨国飾西郡、のちの兵庫県飾磨郡津田村(飾磨町、飾磨市を経て現姫路市)で生まれた。姫路中学校(現・兵庫県立姫路西高等学校)で学ぶ。酒造業を営み、飾磨郡会議員、同議長、兵庫県会議員、所得税調査委員となる。また、飾磨銀行を創立し、取締役を経て頭取となった。 1912年(明治45年)の第11回衆議院議員総選挙において兵庫県郡部から立憲国民党公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1915年(大正4年)の第12回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。
三上 参次(みかみ さんじ、慶応元年9月10日(1865年1… 三上 参次(みかみ さんじ、慶応元年9月10日(1865年10月29日)- 1939年(昭和14年)6月7日)は、日本の国史学者。貴族院帝国学士院会員議員、文学博士。 播磨国神東郡御立村の漢方医・幸田貞助の三男として生まれ、1875年に砥堀村で寺子屋を開いていた元姫路藩江戸詰藩士(足軽)・三上勝明の養子となる。養父は地元の小学校の校長を務めたのち、姫路市街に移り砂糖・乾物を商う「三上屋」に転じた。 その後旧制姫路中学校に進学するが、本科3年終了後、学校側の対応に不満を持ち自主退学。小学校の代用教員となったが、養父の希望で農学校進学のため上京し、本郷元町にあった進学予備校「進文学舎」を経て1881年に東京大学予備門入学、教師の勧めもあり入学先学部を農学から史学に変更し、1885年東京帝国大学文学部入学。
小泉 又一(こいずみ またいち、慶応元年5月20日(1865… 小泉 又一(こいずみ またいち、慶応元年5月20日(1865年6月13日) - 大正5年(1916年)5月16日)は、日本の文部官僚・教育者。族籍は兵庫県士族。位階および勲等は正四位・勲四等。 兵庫県姫路市出身。姫路藩士で藩校の教官の小泉吉善と母ふさ(同藩士の白倉直記の三女。天保14年12月生)の長男として生まれる。弟に海軍少将の小泉武三がいる。姫路中学校を経て、1887年(明治20年)に東京高等師範学校を卒業。沖縄県尋常師範学校教諭、沖縄県学務課長心得、沖縄県尋常師範学校校長補、徳島尋常中学校教諭、福岡県尋常師範学校教諭、同教頭、同校長、和歌山県第一尋常中学校校長を歴任した。1899年(明治32年)、東京高等師範学校教授・同附属小学校主事に転じ、1905年(明治38年)からは同附属中学校主事も兼ねた。
臼木 秀剛 は、日本の政治家。国民民主党所属の衆議院議員(2… 臼木 秀剛 は、日本の政治家。国民民主党所属の衆議院議員(2期)。
壺阪 敏秀(つぼさか としひで)は、テレビ神奈川(tvk)編… 壺阪 敏秀(つぼさか としひで)は、テレビ神奈川(tvk)編成局長。
高 史明 は、在日朝鮮人二世の小説家。本名は金天三(キム・チ… 高 史明 は、在日朝鮮人二世の小説家。本名は金天三(キム・チョンサム, 朝: 김천삼)。
沖本 竜義 は、日本の経済学者。慶應義塾大学経済学部教授。専… 沖本 竜義 は、日本の経済学者。慶應義塾大学経済学部教授。専門は計量ファイナンス、マクロ計量経済学、エネルギー経済学。カリフォルニア大学サンディエゴ校で経済学博士号(Ph.D.)を取得している。