スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
白方 勝(しらかた まさる、1932年(昭和7年)8月19日… 白方 勝(しらかた まさる、1932年(昭和7年)8月19日 - )は、国文学者、愛媛大学名誉教授。愛媛県松山市生まれ。1955年愛媛大学教育学部中等教育国語科卒業、愛媛県立松山東高等学校教諭、1962年新居浜工業高等専門学校講師、1974年愛媛大学教育学部助教授、78年教授。1997年定年退官、名誉教授、松山東雲女子大学教授。2003年退職。第26回河竹賞受賞。愛媛出版文化賞受賞。2012年4月瑞宝中綬章受章。
露口 茂(つゆぐち しげる、1932年〈昭和7年〉4月8日 … 露口 茂(つゆぐち しげる、1932年〈昭和7年〉4月8日 - 2025年〈令和7年〉4月28日)は、日本の俳優。東京府東京市生まれ、愛媛県松山市育ち。 現在の東京都で生まれるが、太平洋戦争の影響で両親の故郷である愛媛県松山市に疎開し、同所で育つ。愛媛県立松山東高等学校卒業。一学年下には俳優・映画監督の伊丹十三や作家の大江健三郎がいる。高校時代は水泳、陸上やラグビー(ポジションはウイング)もやり、バスケットボール部で国体代表候補になるほどの腕前であった。愛媛大学文理学部人文学科甲(文学課程英語・英文学専攻)に通いながら、NHK松山放送劇団の劇団員として主にラジオドラマ(オーディオドラマ)などで活動した。
金井 満盛(かない みつもり、1931年5月6日 - )は、… 金井 満盛(かない みつもり、1931年5月6日 - )は、愛媛県出身の元プロ野球選手。 松山中学校から1950年に大映スターズへ入団。1951年に退団。
石川 喬司(いしかわ たかし、1930年9月17日 - 20… 石川 喬司(いしかわ たかし、1930年9月17日 - 2023年7月9日)は日本の作家、評論家。愛媛県出身。 愛媛県伊予三島市(現・四国中央市)出身。曾祖父は松山藩主の剣道御指南番。幼稚園から中学時代までを新居浜市で過ごす。戦時中は、住友の化学工場に学徒動員していた。旧制愛媛県立松山中学校(現・愛媛県立松山東高等学校)を経て旧制第六高等学校に進み、旧制高校時代は織田作之助や太宰治に傾倒し、詩やエッセイを発表。東京大学文学部仏文学科に進み、渡辺一夫や鈴木信太郎に師事し、飯島耕一や東野芳明、村松剛、栗田勇らと同人誌『カイエ』を作る。 1953年大学を卒業し、同年、毎日新聞社に入社。新聞記者・『サンデー毎日』編集者の傍ら文筆生活に入る。
早坂 暁(はやさか あきら、1929年〈昭和4年〉8月11日… 早坂 暁(はやさか あきら、1929年〈昭和4年〉8月11日 - 2017年〈平成29年〉12月16日)は、日本の脚本家、小説家。 本名、富田 祥資(とみた よしすけ)。 愛媛県温泉郡北条町(現松山市)生まれ。日本大学芸術学部演劇学科卒業。 戦後の日本を代表する脚本家のひとりである。 愛媛県温泉郡北条町(後の愛媛県北条市、現在の松山市北条)で、遍路道の大商家に生まれ育ち、幼少の頃からお遍路さんに接した。 旧制松山中学校(現在の愛媛県立松山東高等学校)を経て、海軍兵学校在学中に終戦。海軍兵学校からの復員途中に広島で一夜を明かし、被爆直後の広島の惨状を目撃した。旧制松山高等学校(現在の愛媛大学文理学部の構成母体)卒業後、東京大学医学部に合格するも、医業に疑問を持ち入学せず[信頼性要検証]、日本大学芸術学部演劇学科に進学し同校卒業。
伊達 宗克(だて むねかつ、1928年(昭和3年)8月18日… 伊達 宗克(だて むねかつ、1928年(昭和3年)8月18日 - 1988年(昭和63年)1月15日)は日本のジャーナリスト。 旧宇和島藩主伊達宗城の七男(八男とも)伊達宗倫を祖とする伊達男爵家の伊達宗光の長男として愛媛県に生まれる。宗光が昭和3年11月に隠居した後に男爵位を継承。旧制松山中学校、日本大学芸術科を経て同大法学部新聞学科を卒業。1954年8月、東京日日新聞社会部からNHKに移り放送記者となる。 1970年(昭和45年)11月25日に、交流のあった三島由紀夫から徳岡孝夫(当時:サンデー毎日の記者)と共に、遺書と檄文を受け取り、三島事件の目撃者となった。事件裁判を傍聴し、編著『裁判記録「三島由紀夫事件」』を刊行。
堀内 雄之(ほりうち ゆうし、1928年〈昭和3年〉 - 1… 堀内 雄之(ほりうち ゆうし、1928年〈昭和3年〉 - 1992年〈平成4年〉)は日本の俳人。妻は俳人の堀内律子。愛媛県松山市出身。 愛媛県松山市にて生まれる。愛媛県立松山中学校(現在の愛媛県立松山東高等学校)卒業。 愛媛県庁の職員として勤務。1953年には、俳人の堀内律子と結婚。 1984年(昭和59年)、松山市を本拠地とする俳句の結社・俳誌 初花を創設。初代主宰に就任。 1992年(平成4年)、死去。 「子規堂の 小窓開けあり 葉鶏頭」の句碑が愛媛県松山市に建立されている。 妻は俳人の堀内律子。律子は2002年に、俳誌 初花の4代目主宰へ就任した。俳人の大本あきらの娘は、律子の生家へ嫁いでいる。
住谷 一彦(すみや かずひこ、1925年〈大正14年〉1月1… 住谷 一彦(すみや かずひこ、1925年〈大正14年〉1月1日 - 2022年〈令和4年〉8月15日)は、日本の経済社会学者、立教大学名誉教授。 経済学者・住谷悦治の子として京都市に生まれる。弟は住谷磬。松山中学校、旧制松山高等学校を経て、1949年東京大学文学部心理学科卒業。名古屋大学法経学部助手、東京都立大学 (1949-2011)人文学部助手、1957年立教大学経済学部講師。助教授を経て、1965年立教大学教授。この間、1958-1960年ウィーン大学民族研究所に留学し、アレクサンダー・スラヴィク教授の指導を受ける。 1969年「共同体の史的構造論」で早稲田大学文学博士。1969-1970年ケルン大学客員教授、1976年ウィーン大学客員教授、1990年立教大学を定年退任、名誉教授、帝京大学教授、東京国際大学教授を務めた。
大石 慎三郎(おおいし しんざぶろう、1923年9月6日 -… 大石 慎三郎(おおいし しんざぶろう、1923年9月6日 - 2004年5月10日)は、日本の歴史学者。専門は近世日本史。学習院大学名誉教授。 近世農村史の研究から歴史研究に入り、その後享保の改革を生涯の研究テーマとした。また、江戸時代が舞台となったNHK大河ドラマの時代考証を数多く担当した。 愛媛県温泉郡正岡村(現松山市)出身で、1949年東京大学文学部国史学科を卒業。東京大学より文学博士の学位を取得。 文部省史料館(現国文学研究資料館)、 高崎短期大学、神奈川大学を経て、1963年学習院大学経済学部教授となり、1975年から1984年まで学習院大学史料館長を兼ね、1983年から1987年まで学習院大学経済学部学部長を2期務めた。
森 雅功(もり まさのり、1922年9月9日 - 没年不明)… 森 雅功(もり まさのり、1922年9月9日 - 没年不明)は、愛媛県出身のプロ野球選手。
浅田 孝(あさだ たかし、1921年3月19日 - 1990… 浅田 孝(あさだ たかし、1921年3月19日 - 1990年12月4日)は、日本の都市計画家・建築家。 香川県出身。戦後活躍する丹下健三の右腕として、丹下の数々の建築作品に関与。他、後に大阪万博を主導することになる建築家・デザイナーグループ「メタボリズム」を結成するなど、多方面で活躍。 南極大陸昭和基地プレファブユニットの設計、横浜市六大事業(みなとみらい21地区の開発、横浜ベイブリッジ構想、港北ニュータウン等)横浜市における都市計画の骨格つくりから、横浜こどもの国、世界デザイン会議、香川県の五色台開発や坂出人工土地、美濃部亮吉東京都知事時代の「広場と青空の東京構想」、大阪万博と沖縄海洋博プロデュース、国レベルの政策研究機関である総合研究開発機構(NIRA)設立、さらに本四連絡橋(瀬戸大橋)を架ける提案をした人物として知られている。
馬野 周二(うまの しゅうじ、1921年- )は、日本の技術… 馬野 周二(うまの しゅうじ、1921年- )は、日本の技術者、著作家。工学博士、技術士。 専門分野(化学)の論文、報告書の他、国際政治や国際経済についての著書を多数執筆した。 父親は内務省官僚であり、朝鮮総督府の高官であった。 山口県に生まれる。1931年、小学校4年生の時に父親の退官に伴い、朝鮮半島より内地(愛媛県松山)に戻る。旧制松山中学校(現・愛媛県立松山東高等学校)を経て、1946年、慶應義塾大学工学部応用化学科卒業。慶應義塾大学大学院工学研究科在学兼東京大学第一工学部付属試験所嘱託。1949年、通商産業省に技官として入省。1961年、通商産業省(課長)を退任後、創立間もないニューヨーク工科大学教授に就任。
川端 佳夫(かわばた よしお、1918年6月8日 - 196… 川端 佳夫(かわばた よしお、1918年6月8日 - 1968年1月14日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 愛媛県出身。1940年青山学院文学部卒。卒業後は読売新聞記者となり、厚生省嘱託、農相秘書官となる。岩崎澱粉化学工業、内外自動車各(株)取締役、東海養魚(株)社長を務める。 1949年の第24回衆議院議員総選挙では愛媛1区から民主自由党公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務めた。この間、民主自由党情報部副部長、自由党人事、遊説の各副部長となった。1952年の第25回衆議院議員総選挙では自由党公認で立候補して落選。1953年の第26回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。 このほか東京馬主協会会長にもなった。
篠崎 勝(しのざき まさる、1917年(大正6年)9月14日… 篠崎 勝(しのざき まさる、1917年(大正6年)9月14日 - 1999年(平成11年)3月14日)は日本の歴史学者。京都大学卒業。愛媛大学教授、愛媛大学学生部長、近代史文庫代表者、愛媛県歴史教育者協議会委員長、愛媛民主教育研究所所長等歴任。専攻は日本史。 愛媛県伊予郡北伊予村大字横田(現在の伊予郡松前町)で、篠崎昌宜・幸枝の長男として生まれた。父は松山に移り質屋業を営むことになるが、高浜虚子の弟子・富安風生に俳句を習い、自宅で俳句会を開いていた。勝は父に頼まれて俳句を選び、句評もしていた。 1930年愛媛県立松山中学校(現・愛媛県立松山東高等学校)、1934年松山高等学校(文科乙類)へ進学した。
塩崎 潤(しおざき じゅん、1917年5月31日 - 201… 塩崎 潤(しおざき じゅん、1917年5月31日 - 2011年5月27日)は、日本の政治家(衆議院議員)、大蔵官僚、翻訳家。位階は正三位。 長男は衆議院議員の塩崎恭久。長女は法学者の山根裕子。次女は外交官角崎利夫の妻でアジア防災センター主任研究員の角崎悦子。 愛媛県松山市出身。松山中学、旧制松山高校を経て、東京帝国大学(現・東京大学)法学部政治学科を卒業。東京帝大法学部政治学科在学中の1940年10月に高等試験行政科を合格。1941年 大蔵省に入省する。主計局に配属。1942年10月、神田橋税務署長。1943年1月、宇都宮税務署長。同年8月、東京財務局経理部長。1952年8月1日、主税局調査課長。
澤田 允茂(さわだ のぶしげ、1916年9月26日 - 20… 澤田 允茂(さわだ のぶしげ、1916年9月26日 - 2006年4月14日)は、日本の哲学者、慶應義塾大学名誉教授。日本哲学会会長、日本科学哲学会会長を歴任。ヘーゲル批判を行ったことでも知られる。 1916年、東京府生まれ。愛媛県立松山中学校を経て、1934年3月、久留米市の福岡県立中学明善校を卒業。同年4月、慶應義塾大学に入学し、日吉の予科1期生となった。1940年3月、慶應義塾大学文学部西洋哲学科を卒業し、高等部の助手となった。 同年12月に陸軍に応召し麻布第3連隊に入隊。中国北部へ送られ、1941年1月、河南省の首都開封近隣に駐屯する第35師団の機関銃中隊に配属された。夏頃、保定に設けられた予備士官学校に入ったが、病気入院で卒業できず、乙種幹部候補生として原隊復帰し、軍曹となった。
松友 孟(まつとも つとむ、1914年12月5日 - 200… 松友 孟(まつとも つとむ、1914年12月5日 - 2003年9月23日)は、元愛媛県副知事。 愛媛県松山市出身。旧制松山中学卒業、旧制松山高校卒業、1937年 京都帝国大学法学部卒業、内務省に入る。山形県勤務、広島県、熊本県、兵庫県の各課長を経て、1947年 奈良県教育民生部長、1948年 奈良県教育長、1949年 奈良県総務部長、1951年 愛媛県民生部長に転じ、1955年 総務部長、1963年 出納長を経て、1969年から1974年まで副知事を務めた。戦時中は一時陸軍司政官として転出した。推されて松山市長選挙に出馬するが落選した。1975年から愛媛県人事委員会委員長、1976年から1999年まで愛媛県社会経済研究財団専務理事。
佐伯 清(さえき きよし、1914年9月19日 - 2002… 佐伯 清(さえき きよし、1914年9月19日 - 2002年7月16日)は、愛媛県松山市生まれの映画監督である。代表作は昭和残侠伝シリーズ。 愛媛県立松山中学校卒業後に、同郷の伊丹万作を頼り、片岡千恵蔵の片岡千恵蔵プロダクションに入る。1935年(昭和10年)、『戦国奇譚 気まぐれ冠者』で初めて助監督のクレジットが入る。同期に助監督として活躍した市川崑とは兄弟分の関係で弟のように可愛がっていたという。日活太秦撮影所、新興キネマを経て東宝映画へ移籍した。 1945年(昭和20年)1月、榎本健一 の『天晴れ一心太助』で監督デビュー。東宝争議をきっかけに新東宝へ、1952年(昭和27年)に東映へ。主に東映京都撮影所で時代劇を撮るが、1958年(昭和33年)以降は東映東京撮影所での現代劇が中心となる。
大内 弘(おおうち ひろし、1914年3月15日 - 没年不… 大内 弘(おおうち ひろし、1914年3月15日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名大内 一郎(おおうち いちろう)。 1914年(大正3年)3月15日、愛媛県松山市に生まれる。4歳下の妹に女優の大内照子(本名・大内幸香)がいる。 旧制・愛媛縣松山中學校(現在の愛媛県立松山東高等学校)を卒業、東京に移って、旧制・早稲田大学附属早稲田高等学院(大学予科、現在の早稲田大学高等学院)に進学するが、2年次で中途退学する。京都に移り、1933年(昭和8年)9月、満19歳のときに松竹下加茂撮影所に入社した。 記録に残る最初の出演作品は、同年2月22日に公開された二川文太郎監督の『仁義は耀く』である。同年5月9日に公開された笠井輝二監督の『やくざ無敵』、同年7月18日に公開された同じく『第二新選組』ではすでに主演している。
松本 新八郎(まつもと しんぱちろう、1913年11月24日… 松本 新八郎(まつもと しんぱちろう、1913年11月24日 - 2005年12月10日)は、日本の歴史学者、専修大学教授。 愛媛県で生まれる。1931年愛媛県立松山中学校を卒業、1934年に松山高等学校を卒業し、同年、東京帝国大学文学部国史学科に入学。同期入学に、家永三郎、石母田正らがいた。1937年、東京帝国大学を卒業。 1937年から東京帝国大学史料編纂所に勤務する傍ら、1940年からは早稲田実業学校第二本科で講師も勤めた。戦後の1945年、松山経済専門学校(現・松山大学)教授となった(1948年まで)。 1947年4月20日に行われた第1回参議院議員選挙に愛媛県選挙区から立候補するが落選。
石田 波郷(いしだ はきょう、1913年(大正2年)3月18… 石田 波郷(いしだ はきょう、1913年(大正2年)3月18日 - 1969年(昭和44年)11月21日)は、愛媛県出身の日本の俳人。本名は哲大(てつお)。水原秋桜子に師事、『馬酔木』に拠ったのち、『鶴』を創刊・主宰。初期の青春性のあふれる叙情句から始まり、自己の生活を見つめる、人間性に深く根ざした作風を追求。加藤楸邨、中村草田男らとともに「人間探求派」と呼ばれた。昭和の第二次世界大戦前に流行した新興俳句運動を批判し、韻文精神の尊重を説き、切れ字を重視。戦中には結核を発病し、戦後は病と対峙する自身の生活を題材とする境涯俳句を詠み続けた。 愛媛県温泉郡垣生村大字西垣生に、父惣五郎、母ユウの次男として生まれる。
福岡 正信(ふくおか まさのぶ、1913年2月2日 - 20… 福岡 正信(ふくおか まさのぶ、1913年2月2日 - 2008年8月16日)は愛媛県出身の農学者。自然農法を提唱した。世界各地で粘土団子による砂漠緑化にも取り組んだ。 愛媛県伊予郡南山崎村(現・伊予市大平)に生まれる。旧制松山中学校、岐阜高等農林学校(現・岐阜大学応用生物科学部)卒。 若い頃は横浜税関の植物検査課に所属していたが、急性肺炎にかかり死に直面すると、「この世には何もない」と悟り、仕事をやめて地元に戻り農業を始めた。「やらなくてもいい」ことを探しながら、自然農法を確立した。 著作『無Ⅲ 自然農法』の口絵の説明では、不耕起(耕さない)、無肥料、無農薬、無除草を四大原則とする自然農法を行うとしているが、著作中には肥料と農薬(除草剤、除虫剤)の使用について記述がある。
星田 三平(ほしだ さんぺい、1913年2月2日 - 196… 星田 三平(ほしだ さんぺい、1913年2月2日 - 1963年5月31日)は日本の探偵小説家。『新青年』などの雑誌に短編を発表した。代表作に「せんとらる地球市建設記録」「エル・ベチョオ」など。本名は飯尾 傳(いいお つとう)。 1930年(昭和5年)に『新青年』の懸賞小説に3等入選した「せんとらる地球市建設記録」を、改稿の後に『新青年』夏期増刊号で発表しデビュー。以後、短編を散発的に発表するが、1933年(昭和8年)発表の「もだん・しんごう」を最後に沈黙。その後、太平洋戦争時の空襲で蔵書や草稿を失ったこともあり、小説界からは完全に離れた生活を送った。 1963年(昭和38年)5月31日に死去。
洲之内 徹(すのうち とおる、1913年1月17日 - 19… 洲之内 徹(すのうち とおる、1913年1月17日 - 1987年10月28日)は、日本の美術エッセイスト、小説家、画廊主・画商。美術エッセイ「気まぐれ美術館」の筆者として名高い。愛媛県出身。 松山生まれ。松山中学(現愛媛県立松山東高等学校)を経て、1930年に東京美術学校建築科に入学。在学中にプロレタリア運動に参加、1932年に検挙され、学校は退校処分となって帰郷した。そして松山でも運動をつづけ、1933年、徴兵検査後に検挙・収監されたが、後に「転向」して釈放された。その後1938年に軍の宣撫班員となって中国大陸へ渡り、対共工作と情報収集に携わった。そして終戦を迎え、1946年春に帰国した。 戦後、郷里松山に引き揚げて古本屋を開業。
磯崎 千利(いそざき ちとし、1913年(大正2年)1月12… 磯崎 千利(いそざき ちとし、1913年(大正2年)1月12日 - 1993年(平成5年)6月20日)は、大日本帝国海軍の軍人、戦闘機搭乗員。 操練19期。最終階級は大尉。 愛媛県松山市出身。松山中学卒業後、海兵団を経て1932年(昭和7年)10月、操縦練習生となる。同期生に半田亘理。1933年(昭和8年)3月、同課程を修了し、龍驤飛行機隊に配属される。そこでのちに撃墜王となる赤松貞明と知り合い、親交を深める。のち内地に転属し、霞ヶ浦海軍航空隊友部分遣隊附教官。この時の教え子の一人に、岩本徹三(操練34期)がいる。 日中戦争(支那事変)勃発後の1937年(昭和12年)10月、加賀飛行機隊を経て1939年(昭和14年)末より第十二航空隊に配属され桂林攻撃に参加するが、この時よりすでに撃墜王として武名をはせていた赤松や岩本とは異なり、戦線を通じて大きな空戦に恵まれることはなかった。
高橋 定(たかはし さだむ、1912年(大正元年)12月19… 高橋 定(たかはし さだむ、1912年(大正元年)12月19日 - 2015年(平成27年)12月25日)は、日本の海軍軍人、海上自衛官。航空参謀、艦上爆撃機操縦士。全日空顧問。海兵61期。階級は海将(海上自衛隊)、海軍少佐(大日本帝国海軍)。 1912年(大正元年)12月19日、愛媛県松山市生まれ。6人兄弟の3男。旧制松山中では剣道は初段、サッカーでは主将を務め四国大会で優勝した。医者志望であったが、兄の勧めで1930年(昭和5年)4月、海軍兵学校入学(61期)。同期に野中五郎、板倉光馬、大野博、吉川猛夫など。1933年(昭和8年)11月、卒業。 「磐手」で遠洋航海を行った後、「加古」、「多摩」乗組みを経て、1935年(昭和10年)10月、飛行学生として霞ヶ浦海軍航空隊、1936年(昭和11年)12月には艦爆の延長教育課程を大村海軍航空隊で受け、1937年(昭和12年)4月、佐伯海軍航空隊に配属された。
大犮 柳太朗(おおとも りゅうたろう、1912年〈明治45年… 大犮 柳太朗(おおとも りゅうたろう、1912年〈明治45年〉6月5日 - 1985年〈昭和60年〉9月27日)は、山口県出身の俳優。本名:中富 正三。 新国劇出身。戦後の東映時代劇映画で数多く主演を務めた剣劇スター。晩年はテレビの現代劇でも活躍した。 父親は山口県柱島(現岩国市)出身、母親は広島県能美島(現江田島市)の出身で、大犮は母親の実家に近い広島市中の棚(現在の同市中区立町付近)で生まれ、父親は出生届を柱島で出した。生後間もなく柱島で育ち、小学校3年から5年までは山口県屋代島(周防大島)(現同県大島郡)で育った。1935年(昭和10年)、松山中学(現・愛媛県立松山東高等学校)卒業後、大阪へ出て新国劇に入り、辰巳柳太郎に師事。
吉川 猛夫(よしかわ たけお、1912年(明治45年)3月7… 吉川 猛夫(よしかわ たけお、1912年(明治45年)3月7日 - 1993年(平成5年)2月20日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少尉。
和田 茂樹(わだ しげき、1911年4月12日 - 2008… 和田 茂樹(わだ しげき、1911年4月12日 - 2008年4月29日)は、愛媛県松山市出身の国文学者。愛媛大学名誉教授。
弘津 三男(ひろつ かずお、1910年7月8日 - )は日本… 弘津 三男(ひろつ かずお、1910年7月8日 - )は日本の映画監督。愛媛県松山市生まれ。県立松山中学を卒業後、1937年新興キネマ京都撮影所に助監督として入社。溝口健二監督の下でチーフ助監督を務める。 以下に日本映画データベースに従い公開日、作品名、監督名を記載。製作会社はすべて大映京都撮影所。
篠原 梵(しのはら ぼん、1910年4月15日 - 1975… 篠原 梵(しのはら ぼん、1910年4月15日 - 1975年10月17日)は、愛媛県出身の俳人、編集者・出版者。伊予郡南伊予村(現・伊予市)生。本名・敏之(としゆき)。俳号「梵」は郷里の松山で男の子のことを「ボン」と呼んだことによるという。 旧制松山高等学校を経て、1934年、東京大学文学部国文学科を卒業。1938年、中央公論社に入社。戦中の1944年、退職して郷里の愛媛青年師範学校で教師をしていたが、1948年に中央公論社に復職、「中央公論」編集長、同社出版部長、取締役を経て中央公論事業出版専務に就任。その後同社の社長に就任し、丸の内出版社の社長も兼任した。出版人として毎日出版文化賞、広告電通賞などを受賞している。
和田 四三四(わだ しさし、1910年(明治43年)4月12… 和田 四三四(わだ しさし、1910年(明治43年)4月12日 - 1942年(昭和17年)8月13日)は、昭和時代前期の社会運動家。 出自はもと伊予松山藩主・久松松平家の一族。父松平定安、母マツの六男として愛媛県松山市に生まれ、のち温泉郡道後湯之町の和田家の養子となる。愛媛県立松山中学校(現:愛媛県立松山東高等学校)を経て、1931年(昭和6年)3月に松山高等商業学校(現:松山大学)を卒業する。卒業後は、同校図書館にて勤めた後、大阪市港区の法律事務所で労働運動について研究した。1932年(昭和7年)全国労働組合同盟(日本労働組合同盟の後身)大阪金属港南支部連合会書記となり、消費組合運動を進める。
平田 陽一郎(ひらた よういちろう、1908年11月1日 -… 平田 陽一郎(ひらた よういちろう、1908年11月1日 - 1988年10月10日)は、日本のジャーナリスト、実業家。 愛媛県八幡浜市生まれ。松山中学校 (旧制)に入学。松山高等学校 (旧制)在学時、のちの日本共産党議長宮本顕治や憲法学者大野盛直らと同人雑誌『白堊紀』を発行するなどの親交があった。 京都帝国大学卒業。大阪毎日新聞記者を経て、1942年愛媛合同新聞社(現愛媛新聞社)編集局長。1946年愛媛新聞社社長。1947年日本で初めて新聞週間行事を実施した。1953年南海放送開局、社長に就任。 1963年1月の第5回愛媛県知事選挙に「県政刷新県民の会」より出馬、自由民主党公認の現職知事久松定武に接戦の末惜敗した。
日野 開三郎(ひの かいざぶろう、1908年 <明治41年>… 日野 開三郎(ひの かいざぶろう、1908年 <明治41年> 5月11日 - 1989年 <平成元年> 9月29日)は、昭和期の東洋史学者。文学博士(学位論文『小高句麗国の研究』、1958年)。位階は正四位。 1909年、愛媛県伊予郡(現在の伊予市)で生まれた。愛媛県立松山中学校、官立松山高等学校を経て、1928年に東京帝国大学文学部東洋史学科に入学。池内宏・和田清・加藤繁らのもとで学んだ。1931年に卒業。 その後は府立第九中学教諭を経て、1935年に九州帝国大学法文学部で勤務。昭和10年代より社会経済史的方法を東洋史分野に導入して、中世中国の社会史・経済史の研究で知られるようになった。 1946年に九州帝国大学(1947年九州大学に改称)教授に昇格。
猪野 俊平(いの しゅんぺい、1907年(明治40年) - … 猪野 俊平(いの しゅんぺい、1907年(明治40年) - 1981年(昭和56年)7月4日)は、日本の植物形態学者。愛媛県生まれ。松山中学校(現・愛媛県立松山東高等学校)、松山高等学校卒、東京帝国大学理学部生物学科卒。1946年「ネジモクの胚発生について」で東北帝国大学理学博士。北海道帝国大学理学部講師、岡山大学助教授、教授。1970年定年退官、名誉教授。
山本 勝巳(やまもとかつみ、1905年12月9日 - 199… 山本 勝巳(やまもとかつみ、1905年12月9日 - 1991年9月23日)は、日本の建築家。
山本 勝巳(やまもとかつみ、1905年12月9日 - 199… 山本 勝巳(やまもとかつみ、1905年12月9日 - 1991年9月23日)は、日本の建築家。 東京府出身。旧制愛媛県立松山中学校(現・愛媛県立松山東高等学校)を卒業。1930年に東京美術学校を卒業後、岡田建築事務所(岡田信一郎の事務所)、大林組を経て1940年に独立し、山本建築事務所を開設。1949年、海老原一郎と共同で、信建築設計事務所を設立(海老原は間もなく独立)。 映画監督の山本薩夫は実弟。子息の山本學、山本圭、山本亘はいずれも俳優である。 この項目は、建築・土木に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:建築/Portal:建築)。
茂木 史朗(しげき しろう、1905年〈明治38年〉11月1… 茂木 史朗(しげき しろう、1905年〈明治38年〉11月1日 - 1945年〈昭和20年〉4月7日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大佐。戦艦「大和」 航海長。愛媛県出身。海軍兵学校53期。重巡「鳥海」や戦艦「榛名」などで航海長を歴任し、巧みな操艦技術で知られた。沖縄水上特攻作戦直前に戦艦「大和」の航海長に着任。最期は艦橋で主羅針儀に身を括り、艦と運命を共にした。 1905年(明治38年)、松山市河原町に父・木和村利平、母・ツネヨの四男として生まれた。版画家の木和村正次郎(創爾郎)は次兄である。幼くして両親と死別し、1914年(大正3年)3月24日にツネヨの実弟である茂木氏男・トヨ夫妻の養子となる。
関谷 勝利(せきや かつとし、1904年〈明治37年〉10月… 関谷 勝利(せきや かつとし、1904年〈明治37年〉10月20日 - 1987年〈昭和62年〉7月6日)は、日本の実業家、政治家。自由民主党・衆議院議員(11期)。元参議院議員関谷勝嗣の父。 1922年(大正11年)松山中学校卒業。海運業、土木建築請負業に従事。 伊予運送、松山商興、伊予造船各取締役。柳瀬座興行、松山港湾荷役作業、松山港運、勝山土建各社長。愛媛機帆船海運組合理事長。三津浜町会議員、愛媛県会議員、日本進歩党幹事を歴任。 1946年(昭和21年)初当選以来11期30年間衆議院議員を務め1976年(昭和51年)引退。党交通部会長、衆院内閣委員長などを歴任。運輸族として活躍、「陰の運輸大臣」といわれた。
菅 太郎(かん たろう、1904年(明治37年)5月30日 … 菅 太郎(かん たろう、1904年(明治37年)5月30日 - 1980年(昭和55年)1月11日)は、日本の内務官僚、政治家。衆議院議員(5期)。 愛媛県松山市出身、東京帝国大学法学部卒業。戦前は内務省の革新官僚の一人で、内務事務官や企画院調査官を務めた他、1936年12月より一時期は満洲国総務庁に配属されている。また1941年に発足した大日本翼賛壮年団の訓練部長や理事に就任した(1943年まで)。 戦後、公職追放となり、1952年に追放解除。同年の第25回衆議院議員総選挙で改進党から愛媛県第1区より初当選。1953年の第26回衆議院議員総選挙では落選した。その後も当選と落選を繰り返し、1955年の第27回衆議院議員総選挙で日本民主党から2度目の当選を果たし、同年の保守合同(自由民主党結党)に参加。
伊勢野 重任(いせの しげたか、1903年(明治36年)11… 伊勢野 重任(いせの しげたか、1903年(明治36年)11月11日 - 1982年(昭和57年)4月7日)は、日本の脚本家である。名の読みは「しげとう」とも。映画で2度リメイクされたオリジナル脚本『國士無双』の作者として知られる。 1903年(明治36年)11月11日、鳥取県に生まれる。 愛媛県松山市に移り、1922年(大正11年)3月、旧制・愛媛縣松山中學校(現在の愛媛県立松山東高等学校)を卒業し、東京に移って、東京府東京市麹町区有楽町(現在の東京都千代田区有楽町)にあった東京市役所に務める。中学校の同級生に重松鶴之助(1903年 - 1938年)がおり、先輩には伊藤大輔(1898年 - 1981年)、伊丹万作(1900年 - 1946年)、中村草田男(1901年 - 1983年)がおり、伊藤・伊丹を頼り、映画界に入る。
玉柳 実(實、たまやなぎ みのる、1903年(明治36年)1… 玉柳 実(實、たまやなぎ みのる、1903年(明治36年)10月27日 - 1960年(昭和35年)3月15日)は、昭和期の内務官僚、厚生官僚、政治家、弁護士。参議院議員。現在の愛媛県松山市生まれ。 愛媛県温泉郡味生村南斎院(現:松山市)で玉柳政吉の長男として生まれる。松山中学校(現愛媛県立松山東高等学校)を経て、1923年(大正12年)に大阪高等商業学校(現大阪市立大学)中退。1929年(昭和4年)10月に高等試験行政科合格。1930年(昭和5年)に高等試験司法科に合格。同年、内務省に入省し岩手県属に任官。1943年(昭和18年)に厚生省保険局船員労災課長、1946年(昭和21年)に愛媛県農地部長、1948年(昭和23年)に愛媛県経済部長。
佐伯 勇(さえき いさむ、1903年〈明治36年〉3月25日… 佐伯 勇(さえき いさむ、1903年〈明治36年〉3月25日 - 1989年〈平成元年〉10月5日)は、日本の実業家。近畿日本鉄道(近鉄)の元社長、会長、名誉会長で、近鉄グループの総帥。プロ野球・近鉄バファローズのオーナーでもあった。アメリカの大陸横断鉄道の2階建てドームカーを参考にした、世界で初めての2階建電車による特急車のビスタカーの生みの親でもある。位階は正三位。 愛媛県周桑郡丹原町(現・西条市)で、佐伯源三郎の三男として生まれる。丹原小学校、松山中学(現・愛媛県立松山東高等学校)と進むが、父親の方針で京都一中(現・京都府立洛北高等学校・附属中学校)へ転校、さらに第三高等学校(旧制・三高)を経て東京帝国大学法学部を卒業した。
重松 鶴之助(しげまつ つるのすけ、1903年 - 1938… 重松 鶴之助(しげまつ つるのすけ、1903年 - 1938年11月30日)は、日本の画家で、左翼運動家。愛媛県松山市生まれ。 旧制松山中学校に入学。松山時代、雑誌『白樺』の影響を受けて芸術家志望の若者らと文芸や絵画の回覧雑誌『楽天』を発行。伊丹万作、伊藤大輔、中村草田男らと同志であった。また、後に映画監督となる山本薩夫の実兄でのちの建築家・山本勝巳もメンバーで、大学中退後の山本を伊藤に推薦し松竹に入れたのは重松であった。 松山中を中退して上京。岸田劉生に心酔、影響を受け、春陽会、国画会に入選。1926年、東京府美術館での同館開館記念「第1回聖徳太子奉賛美術展」に、代表作となる「閑々亭肖像」を招待出品するなど活躍した。
玉井 浅一(たまい あさいち、1902年12月25日 - 1… 玉井 浅一(たまい あさいち、1902年12月25日 - 1964年12月10日)は、日本の海軍軍人。海兵52期。最終階級は海軍大佐。 1902年12月25日愛媛県で玉井熊太郎の息子として生まれる。松山中学卒業後、1921年海軍兵学校52期に入学、1924年(大正13年)7月24日、海軍兵学校卒業、少尉候補生。1925年(大正14年)12月、海軍少尉任官。1927年12月中尉。1929年(昭和4年)11月飛行学生第19期生卒業、大村航空隊付。 1930年11月空母「赤城」乗組。1930年12月海軍大尉。1931年10月空母「加賀」乗組。1932年11月横須賀航空隊付。1934年2月空母赤城分隊長。
白川 晴一(しらかわ せいいち、1902年 - 1952年7… 白川 晴一(しらかわ せいいち、1902年 - 1952年7月28日)は、昭和時代の労働運動家。日本共産党中央委員。 愛媛県温泉郡和気村(現松山市)生まれ。愛媛県立松山中学校(現愛媛県立松山東高校)在学時に重松鶴之助(画家)、伊丹万作(映画監督)、伊藤大輔(映画監督)、中村草田男(俳人)らと同人雑誌『楽天』を発行。5年生のとき中退し、重松と京都・東京を放浪後、東京の感化院で働く。1923年の関東大震災直前に結核のため帰郷、左翼運動に関わる。回復後に再び上京するが、1926年に画業に行き詰った伊丹を援けるため、重松と3人で松山市三番町におでん屋・瓢太郎を開業。この時期に同郷の岩田義道と出会い、その影響で労働運動の世界に入る。
中村 草田男(なかむら くさたお、1901年〈明治34年〉7… 中村 草田男(なかむら くさたお、1901年〈明治34年〉7月24日 - 1983年〈昭和58年〉8月5日)は、日本の俳人・国文学者。成蹊大学名誉教授。本名は中村 清一郎(なかむら せいいちろう)。 中国廈門出身。東京帝国大学国文科卒。高浜虚子に師事、「ホトトギス」で客観写生を学びつつ、ニーチェなどの西洋思想から影響を受け、生活や人間性に根ざした句を模索。石田波郷、加藤楸邨らとともに人間探求派と呼ばれた。「萬緑」を創刊・主宰。戦後は第二芸術論争をはじめとして様々な俳句論争で主導的な役割をもった。次世代の金子兜太などに多大な影響を与えた。忌日は「草田男忌」として、季語になっている。 清(現中国)福建省廈門にて清国領事中村修の長男として生まれる。
伊丹 万作(いたみ まんさく、1900年(明治33年)1月2… 伊丹 万作(いたみ まんさく、1900年(明治33年)1月2日 - 1946年(昭和21年)9月21日)は、日本の映画監督、脚本家、俳優、エッセイスト、挿絵画家。本名:池内 義豊(いけうち よしとよ)。 「日本のルネ・クレール」と呼ばれた知性派の監督で、挿絵画家として活躍後、同窓の伊藤大輔の勧めで映画界に入り、片岡千恵蔵プロダクションへ入社。作風は風刺と諧謔、人間味に富み、これまでの立ち回り主体の時代劇とは一線を画す現代的な時代劇 で稲垣浩とともに新生面を開いた。その後は闘病生活を余儀なくされるが、シナリオ執筆や映画論、社会批評など著述に専心した。主な監督作に『國士無双』『赤西蠣太』、シナリオに『無法松の一生』『手をつなぐ子等』など。
上原 専禄(旧字体:上原 專祿、うえはら せんろく、1899… 上原 専禄(旧字体:上原 專祿、うえはら せんろく、1899年5月21日 - 1975年10月28日)は、日本の歴史学者。専門は中世ヨーロッパ史。東京商科大学学長(就任時は東京産業大学:現一橋大学)であり、戦後の一橋大学新制大学化にあたり指導的役割を果たした。このため一橋大学の新制大学構想は別名を「上原構想」とも呼ばれている。学長退任後は構想の核となった初代一橋大学社会学部長を務めた。 1899年、京都市西陣にあった日蓮宗檀家の商家に生まれた。小学校3年から松山市大街道商店街の薬種商であった叔父の家に住む。旧制愛媛県立松山中学校(現愛媛県立松山東高等学校)を経て、1915年、東京高等商業学校(現・一橋大学)に入学した。
伊藤 大輔(いとう だいすけ、1898年〈明治31年〉10月… 伊藤 大輔(いとう だいすけ、1898年〈明治31年〉10月13日 - 1981年〈昭和56年〉7月19日)は、日本の映画監督、脚本家である。時代劇映画の基礎を作った名監督の一人であり、「時代劇の父」とも呼ばれる。 1898年(明治31年)10月13日、愛媛県宇和島市に中学校教師の父・朔七郎と母・寿栄の息子として生まれる。 1911年(明治44年)、旧制松山中学(現・愛媛県立松山東高等学校)に入学。この時に雑誌『白樺』の影響を受けて、同窓の伊丹万作、中村草田男、重松鶴之助らと回覧雑誌『楽天』を発行。文才のある伊藤が文章を書き、画才のあった伊丹が挿絵を描き、中村、重松らと文筆を競った。中学卒業後、父逝去のため進学を諦め、呉海軍工廠に製図工として勤務する。