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野中 国男(のなか くにお、1913年(大正2年)5月15日… 野中 国男(のなか くにお、1913年(大正2年)5月15日 - 1947年(昭和22年)4月28日)は、日本の陸軍軍人である。最終階級は陸軍少佐。正六位。インパール作戦に参謀として従軍、終戦後の復員前に不可解な自決を遂げた。 佐賀県神埼郡神埼町において生まれる。野中は幼少の頃より秀才であったが、生家は貧しかったので、町内の素封家の学資援助で、神埼町立神埼小学校へ入学、納富健次郎と生涯にわたる親友となり共に首席を争うが納富にはかなわなかった。納富は海軍兵学校第62期として皇族2名を除いて14番/123名で卒業している。空母「瑞鶴」飛行隊長(海軍大尉)として、1943年(昭和18年)11月8日の第2次ブーゲンビル島沖航空戦で戦死、海軍中佐に二階級特進している。
石井 利雄(いしい としお、1912年(明治45年)4月10… 石井 利雄(いしい としお、1912年(明治45年)4月10日 - 2001年(平成13年)1月12日)は、日本の造船技師(専門は舶用内燃機関、造船の生産技術・品質管理などの生産管理全般)、海軍軍人(予備将校)、実業家である。最終階級は海軍中尉。従七位。とくに、戦時急造された海防艦の専門家であり、戦時中、御蔵型など40隻の海防艦を竣工させた。戦後は、南極観測船の建造にも関わった。ブロック工法(ブロック建造方式)による艦船建造の先駆者の一人。 佐賀県神埼市出身。生家は佐賀藩主鍋島家の藩祖以来の外戚家門石井家。初代藩主鍋島勝茂の従兄石井茂成の8代目の子孫という。 神埼市立神埼小学校を経て、佐賀県立佐賀中学校(現・佐賀西高等学校)に進学。
新郷 英城(しんごう ひでき、1911年(明治44年)10月… 新郷 英城(しんごう ひでき、1911年(明治44年)10月10日 - 1982年(昭和57年)11月27日)は、日本の海軍軍人、警察官、航空自衛官。海兵59期。最終階級は海軍で中佐、警察で警部補、空自で空将。 1911年10月10日佐賀県に生まれる。佐賀中学校を経て、1928年4月、海軍兵学校に59期生として入校。1931年11月7日兵学校を卒業、少尉候補生として「磐手」乗組、練習航海に出発。1932年7月20日、巡洋艦「羽黒」乗組。1933年2月25日、巡洋艦「愛宕」乗組。4月1日、少尉任官。10月1日、第25期飛行学生拝命。1934年7月2日、館山空付。11月11日、中尉。1935年10月15日、空母「龍驤」乗組。
古賀 清志(こが きよし、1908年〈明治41年〉4月10日… 古賀 清志(こが きよし、1908年〈明治41年〉4月10日 - 1997年〈平成9年〉11月23日)は、日本の海軍軍人。五・一五事件に連座し、反乱罪で有罪となった海軍中尉である。戦後、不二人と改名し、不二流体術を創始。 長崎県佐世保市で生まれ、佐賀県佐賀市で育つ。佐賀中学を経て、1928年、海軍兵学校56期卒。王師会会員となる。 1931年(昭和6年)12月、霞ケ浦海軍飛行学生、海軍中尉となる。 1932年(昭和7年)五・一五事件では牧野伸顕邸や警視庁を襲撃。 事件後、横須賀鎮守府軍法会議で反乱幇助罪に問われ、禁錮15年の刑を受け失官。小菅刑務所に服役する。これにより従七位を失位、大礼記念章(昭和)を褫奪された。
三上 卓(みかみ たく/たかし、1905年〈明治38年〉3月… 三上 卓(みかみ たく/たかし、1905年〈明治38年〉3月22日 - 1971年〈昭和46年〉10月25日)は、日本の海軍軍人、政治活動家、国家主義者。最終階級は海軍中尉。号は大夢。 佐賀県出身。第二次世界大戦以前の五・一五事件、および戦後の三無事件の双方に参加した人物として知られる。『青年日本の歌』(昭和維新の歌)の作詞者。著名な弟子に野村秋介がいる。 佐賀県佐賀郡本庄村(現・佐賀市本庄町)出身。父は北鮮日日新聞社長の三上新。佐賀中学校在学中は野球部に所属しており、チームメートには伊丹安広(のち早大監督、野球殿堂入り)や山口猛彦(画家)、小林竜二郎(東京製綱社長)などがいた。1926年(大正15年)3月に海軍兵学校を卒業(54期)。
藤井 斉(ふじい ひとし、1904年〈明治37年〉8月3日 … 藤井 斉(ふじい ひとし、1904年〈明治37年〉8月3日 - 1932年〈昭和7年〉2月5日)は、日本の海軍軍人。海兵53期卒。五・一五事件を起こした海軍青年士官の指導者で革命児と称された人物であり、また、日本海軍搭乗員最初の戦死者の一人である。戦死による一階級昇進で最終階級は海軍少佐。 1904年〈明治37年〉8月3日、長崎県平戸に生れる。本籍は佐賀県。 父は炭鉱主であったが事業に失敗し、藤井は祖父、次いで親族の山口半六に引き取られ養育を受けた。山口は孫文の革命運動に協力した人物であり、藤井は大きく影響を受けたといわれる。 佐賀中学を卒業するにあたり、山口は藤井に外交官を勧めたが、海軍士官の道を選ぶ。
実松 譲(さねまつ ゆずる、1902年(明治35年)11月2… 実松 譲(さねまつ ゆずる、1902年(明治35年)11月20日 - 1996年(平成8年)12月20日)は、日本の海軍軍人、著作家。 米内光政海相時代の大臣秘書官や、駐米大使館附武官補佐官を務め、太平洋戦争においては情報解析に実績を残す。海軍大佐で終戦を迎え11年半の巣鴨プリズン生活をおくった後は主として海軍関係の書を著し、刊行数は100点近くにおよんだ。 小学校校長の長男として佐賀県武雄市に生まれ 海軍兵学校に進んだ。母校の佐賀中学は佐賀藩の藩校弘道館の流れをくみ、当時の最難関校の一つであった海軍兵学校に多くの合格者を送り出した中学である。実松は海兵51期生として中位の席次で卒業後、「浅間」乗組みとして実務訓練を受ける。
西久保 豊成(にしくぼ とよなり、明治33年〈1900年〉7… 西久保 豊成(にしくぼ とよなり、明治33年〈1900年〉7月8日 - 昭和2年〈1927年〉12月4日)は、日本の陸軍軍人、内務官僚。陸軍歩兵少尉となるが病の為依願退職し内務省に勤める。官位は陸軍歩兵少尉従七位。 父は樺太攻略戦において戦死した歩兵第50連隊第1大隊長の西久保豊一郎陸軍少佐で、豊成が6歳の時に父と死別する。母は佐賀県士族石井忠男の長女秀。明治33年7月に生まれ、明治35年3月には妹の千代子(後に島内源一郎の子、島内砲兵大尉に嫁ぐ)が生まれる。 佐賀市勧興小学校(現・佐賀市立勧興小学校)、佐賀県立佐賀中学校(現・佐賀県立佐賀西高等学校)を夫々首席となり、熊本陸軍地方幼年学校に進む。
福地 春男(ふくち はるお、1899年(明治32年)3月30… 福地 春男(ふくち はるお、1899年(明治32年)3月30日 - 1953年(昭和28年)12月9日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 佐賀県出身。陸軍少佐・福地守太郎の長男として生まれる。佐賀中学校(現佐賀県立佐賀西高等学校)、熊本陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1920年(大正9年)5月、陸軍士官学校(32期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し近衛野砲兵連隊付となる。1923年(大正12年)12月、陸軍砲工学校高等科(29期)を卒業した。1924年(大正13年)3月から7月まで陸軍戸山学校学生となる。陸軍野戦砲兵学校付などを経て、1930年(昭和5年)11月、陸軍大学校(42期)を卒業した。
辰巳 栄一(たつみ えいいち、1895年(明治28年)1月1… 辰巳 栄一(たつみ えいいち、1895年(明治28年)1月19日 - 1988年(昭和63年)2月17日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。公職追放中にもかかわらず、吉田茂とGHQの橋渡しを務めた。そのとき、吉田にウィロビーを引き合わせた。戦後の連合軍占領中にウィロビーの発案で河辺機関が組織された。 佐賀県出身。商業・辰巳兵三郎の二男として生まれる。佐賀中学校を経て1915年5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第21連隊付となる。独立守備隊第4大隊付、陸軍歩兵学校付などを経て1925年11月、陸軍大学校(37期)を優等で卒業し歩兵第21連隊中隊長に就任した。
辻 演武(つじ えんぶ、1892年(明治25年)2月26日 … 辻 演武(つじ えんぶ、1892年(明治25年)2月26日 - 1969年(昭和44年)8月10日)は、大正・昭和初期の軍人。佐賀郡東与賀町(現佐賀市東与賀町)出身。祖父は佐賀の干拓の父とも言われる辻演年。弟は後に参議院議員となる福岡日出麿。最終階級は陸軍中将。栄典は従四位勲二等。 1892年、東与賀村長辻武一郎の長男として東与賀村住吉に生まれる。佐賀中学校を卒業後軍人を志し熊本陸軍幼年学校に進学。さらに陸軍士官学校に進んだ(陸士25期)。砲兵畑を進み、久留米野砲24連隊、朝鮮龍山砲兵隊などに所属。1938年(昭和13年)には野砲兵23連隊長として上海に入り江南の治安確保に当たった。さらに南京政府軍事顧問、第20砲兵団長、中部軍兵器部長などを経て1945年(昭和20年)陸軍兵器学校長となり中将に昇進した。
高柳 儀八(たかやなぎ のりはち、または たかやなぎ ぎはち… 高柳 儀八(たかやなぎ のりはち、または たかやなぎ ぎはち、1891年(明治24年)4月17日 - 1973年(昭和48年)12月29日)は、日本の海軍軍人。戦艦「大和」第2代艦長。最終階級は海軍中将。 佐賀県出身。高柳米吉の息子として生れる。旧制佐賀中学卒を経て、海軍兵学校および陸軍士官学校(第25期)を受験し、双方に合格している。1913年(大正2年)12月、海軍兵学校(41期)を卒業。翌年12月、海軍少尉に任官。1920年(大正9年)11月、海軍砲術学校高等科を卒業。戦艦「鹿島」分隊長、駆逐艦「海風」砲術長、砲術学校教官などを経て、1927年(昭和2年)11月、海軍大学校(甲種25期)を卒業した。
城島 高次(じょうじま たかつぐ、1890年(明治23年)6… 城島 高次(じょうじま たかつぐ、1890年(明治23年)6月20日 - 1967年(昭和42年)10月9日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍少将。 佐賀県出身。佐賀中学校を経て、海軍兵学校および陸軍士官学校(第24期)を受験し、双方に合格している。1912年(明治45年)7月、 海軍兵学校(40期)を卒業し、海軍大学校航海科で学んだ。 「満州」分隊長、運送艦「高崎」・敷設艦「勝力」・「若宮」・給油艦「尻矢」・「龍田」の各航海長、第1遣外艦隊付、「名取」「阿武隈」「羽黒」「加賀」の各航海長などを歴任。 さらに、「能登呂」「長良」「青葉」「霧島」の各副長、給油艦「鶴見」・「鳳翔」の各艦長、呉海軍航空隊司令、「翔鶴」艤装員長・初代艦長として真珠湾攻撃、ラバウル攻略、インド洋作戦、珊瑚海海戦に参加。
中野 英光(なかの ひでみつ、1890年(明治23年)4月1… 中野 英光(なかの ひでみつ、1890年(明治23年)4月18日 - 1982年(昭和57年)3月19日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 旧佐賀藩士・中野竹九郎の長男として生まれる。佐賀中学を卒業。1912年(明治45年)5月、陸軍士官学校(24期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第23連隊付となる。1920年(大正9年)11月、陸軍大学校(32期)を卒業し、参謀本部支那班に配属された。 1926年(大正15年)5月、関東軍司令部付としてハルビン特務機関に配属。その後、歩兵第63連隊大隊長、参謀本部員、吉林特務機関長、満州国軍政部顧問などを歴任。 1936年(昭和11年)8月、歩兵大佐に昇進。
倉永 辰治(くらなが ときはる、1888年(明治21年)7月… 倉永 辰治(くらなが ときはる、1888年(明治21年)7月13日 - 1937年(昭和12年)8月29日)は、大正・昭和初期の軍人。佐賀郡東与賀町(現佐賀市東与賀町)出身。最終階級は陸軍少将(戦死特進)。 1888年、東与賀村立野で、元佐賀藩士の袋武辰の次男として生まれる。兄は戦後酪農の振興や旧佐賀競馬場の開設に尽力した袋正美。与賀高等小学校から佐賀中学校、さらに陸軍士官学校(陸士23期)、陸軍大学校(陸大34期)に進んだ。なお陸軍中尉時代に父の実家である藩の元馬術指南倉永勝太郎の跡を継いで倉永姓となっている。 陸大卒業後、第59連隊中隊長、第20師団、第11師団参謀、陸軍歩兵学校教官を経て、1935年(昭和10年)歩兵大佐に昇任。
岸川 健一(きしかわ けんいち、1888年(明治21年)3月… 岸川 健一(きしかわ けんいち、1888年(明治21年)3月29日 - 1954年(昭和29年)6月10日)は、大正・昭和初期の軍人。佐賀郡兵庫村(現佐賀市)出身。最終階級は陸軍中将。 1888年生まれ。佐賀中学校から陸軍士官学校(陸士23期)に進み卒業後歩兵少尉に任官。麻布連隊区司令官、第6守備隊長(大佐)から少将に昇進し歩兵第29旅団長、第29歩兵団長、独立混成第17旅団長を歴任。1945年(昭和20年)3月中将に昇進し第63師団長として終戦を迎えた。 その後はシベリアに抑留され、さらに中国に引き渡され撫順戦犯管理所に収容された。1948年(昭和23年)1月31日、公職追放仮指定を受けた。所謂中国抑留者で4人いた師団長の一人(ほかは第39師団長・佐々真之助中将、第59師団長・藤田茂中将、第117師団長・鈴木啓久中将)で、抑留中の1954年収容所にて病死。
大島 駿(おおしま はやし、1887年(明治20年)12月1… 大島 駿(おおしま はやし、1887年(明治20年)12月19日 - 1970年(昭和45年)9月6日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。毒ガス兵器の研究者。 佐賀県出身。農業・大島幸三郎の三男として生まれる。佐賀中学校(現佐賀県立佐賀西高等学校)、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1910年(明治43年)5月、陸軍士官学校(22期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し近衛野砲兵連隊付となる。1913年(大正2年)11月、陸軍砲工学校高等科(19期)を優等で卒業した。陸軍派遣学生として東京帝国大学工科大学応用科学科で学び、1917年(大正6年)7月に卒業した。 1917年12月、近衛野砲兵連隊大隊副官に就任。
古賀 峯一(こが みねいち、1885年(明治18年)9月25… 古賀 峯一(こが みねいち、1885年(明治18年)9月25日 - 1944年(昭和19年)3月31日)は、日本の海軍軍人。最終階級は元帥海軍大将。海兵34期・海大15期。連合艦隊司令長官在職中に海軍乙事件にて殉職。 1885年(明治18年)9月25日、佐賀県西松浦郡有田村(現・有田町泉山)に生まれる。生家は現存し(2020年現在)、生家前には2002年に記念碑が建立されている。佐賀中学校在学時には、誠友団と名づけた交友団体に属していた。会員には吉田善吾(海兵32期)や小説家の下村湖人がおり、下村の『次郎物語』に登場する新賀峯雄は古賀である。 1903年(明治36年)12月17日、海軍兵学校(34期)に、席次195名中29番で入校。
吉田 善吾(よしだ ぜんご、1885年〈明治18年〉2月14… 吉田 善吾(よしだ ぜんご、1885年〈明治18年〉2月14日 - 1966年〈昭和41年〉11月14日)は、日本の海軍軍人。海軍大将。海軍大臣、連合艦隊司令長官を歴任した。 佐賀県出身。士族・峰與八の四男。米屋、吉田祐次郎の養子となる。旧制佐賀中学校に進み、「誠友団」と名づけた交友団体に加入。古賀峯一はこの時以来の友人であり、同会には下村湖人もいた。1923年(大正12年)、分家した。 海兵32期を192名中12番で卒業。すでに日露戦争は開戦しており、「韓崎丸」で訓練を受けた後、「春日」艦長(加藤定吉)附として日本海海戦に参戦した。 吉田が選んだ海軍兵科将校としての専門は水雷で、第一水雷戦隊参謀などを務めている。
眞崎 勝次(まさき かつじ、1884年12月22日 - 19… 眞崎 勝次(まさき かつじ、1884年12月22日 - 1966年10月15日)は、日本海軍の軍人、政治家。最終階級は海軍少将。衆議院議員。
百武 源吾(ひゃくたけ げんご、1882年(明治15年)1月… 百武 源吾(ひゃくたけ げんご、1882年(明治15年)1月28日 - 1976年(昭和51年)1月15日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。第7代九州帝国大学総長。佐賀県出身。兄・三郎と源吾は海軍兵学校を首席卒業し、ともに海軍大将となった日本海軍史上唯一の兄弟である(陸軍大将兄弟は皇族軍人などで数例が、陸海軍を跨いだ大将兄弟は、西郷隆盛・従道兄弟、鈴木貫太郎・孝雄兄弟の2例がある)。 佐賀藩の足軽・百武庭蔵の五男として生まれた。百武三郎は三男、陸軍中将の弟・晴吉は六男である。少年時代の源吾は農学を志していたが、海軍兵学校を目指していた兄(四男)幸治が志半ばで病死したことを機に、幸治の遺志を継いで海軍を目指すことにした。
香月 清司(かつき きよし、1881年〈明治14年〉10月6… 香月 清司(かつき きよし、1881年〈明治14年〉10月6日 - 1950年〈昭和25年〉1月29日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。功二級。 佐賀県出身。陸士14期、陸大24期。 佐賀藩士・香月雄次の長男として生まれる。佐賀中学校、陸軍幼年学校を経て、陸軍士官学校・陸軍大学校を卒業した。 第12師団長、近衛師団長を歴任、1937年(昭和12年)7月11日には重篤となった田代皖一郎中将に代わって、盧溝橋事件渦中の支那駐屯軍司令官に、同年8月の北支那方面軍創設で第1軍司令官となり、河北省での作戦を指揮した。盧溝橋事件の停戦協定を結ぶ際に宋哲元と和平しようとしたものの、蒋介石が宋に妥協を禁じたために失敗した。
石川 三郎(いしかわ さぶろう、1881年(明治14年)5月… 石川 三郎(いしかわ さぶろう、1881年(明治14年)5月19日 - 1940年(昭和15年)12月10日)は、明治後期から昭和前期の陸軍軍人、政治家。貴族院多額納税者議員、衆議院議員(立憲政友会)、佐賀県砥川村長。 佐賀県小城郡砥川村柳鶴(現在の江北町)出身。大地主・石川源蔵の三男として生まれる。砥川小学校、佐賀県立佐賀中学校を卒業。1900年(明治33年)、陸軍士官学校に入学し、1901年(明治34年)11月22日に卒業(13期)し、1902年(明治35年)6日23日に砲兵少尉に任じられた。日露戦争に従軍し、砲兵中尉に昇進。1906年(明治39年)陸軍砲工学校に入学し、1908年(明治41年)に同校高等科を卒業して砲兵大尉に任ぜられた。
持永 浅治(淺治、もちなが あさじ、1880年(明治13年)… 持永 浅治(淺治、もちなが あさじ、1880年(明治13年)5月8日 - 1956年(昭和31年)3月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 佐賀県出身。持永房種の三男として生まれる。佐賀中学校(現佐賀県立佐賀西高等学校)を経て、1904年(明治37年)10月、陸軍士官学校(16期)を卒業し、同年11月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第46連隊付となる。 1907年(明治40年)12月、歩兵中尉に昇進し、1913年(大正2年)7月、兵科を憲兵科へ転科し憲兵中尉となる。1914年(大正3年)4月、憲兵大尉、1920年(大正9年)8月、憲兵少佐に進み東京憲兵分隊長に就任。1922年(大正11年)8月、弘前憲兵隊長に就任。
古賀 伝太郎(こが でんたろう、1880年3月1日 - 19… 古賀 伝太郎(こが でんたろう、1880年3月1日 - 1932年1月9日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍大佐。しばしば「古賀聯隊長」とよばれる。旧姓、野方。 佐賀県佐賀郡生まれ。野方房次の五男として生まれ、古賀家の養子となる。佐賀中学校卒を経て、1901年(明治34年)12月、士官候補生(15期)として騎兵第3連隊に入隊。1903年(明治36年)11月、陸軍士官学校を卒業。1904年(明治37年)3月、騎兵少尉に任官、騎兵第3連隊付としてただちに日露戦争に出征し、随所で戦って戦功あり。奥保鞏軍司令官から個人感状を授与された。 以後、1910年(明治43年)9月、騎兵第3連隊副官となり、同中隊長、騎兵第22連隊中隊長、同連隊副官、騎兵第2旅団副官などを歴任し、累進して1927年(昭和2年)7月、騎兵中佐に任じ、翌年8月、騎兵第27連隊長に補せられた。
高柳 直夫(たかやなぎ ただお、1878年(明治11年)5月… 高柳 直夫(たかやなぎ ただお、1878年(明治11年)5月4日 - 1904年(明治37年)5月3日)は、日本の海軍軍人。第三回旅順港閉塞作戦で「江戸丸」指揮官を務め戦死した海軍少佐である。従六位勲五等功五級。 佐賀県出身。佐賀中学で2年間学び、知新館を経て、海軍兵学校26期を59名中11番で卒業した。同期に小林躋造、野村吉三郎、水野広徳などがいる。1900年(明治33年)少尉任官。日露戦争開戦を迎え、防護巡洋艦「秋津洲」砲術長として出征した。 高柳は第3回閉塞作戦に「江戸丸」 指揮官として参加する。「江戸丸」は「遠江丸」(本田親民少佐)、「釜山丸」 (大角岑生大尉)とともに第二小隊を構成し、中央左側に沈没させる予定であった。
鳥巣 玉樹(とす たまき、1877年〈明治10年〉12月1日… 鳥巣 玉樹(とす たまき、1877年〈明治10年〉12月1日 - 1949年〈昭和24年〉5月21日)は、大日本帝国海軍の軍人。最終階級は海軍中将。佐賀県佐賀市出身。 佐賀県佐賀中学校、福岡県立尋常中学修猷館を経て、海軍兵学校第25期入校。入校時成績順位は36名中第4位、卒業時成績順位は32名中第3位。 鳥巣の経歴の特徴は教育部門勤務とイギリス派遣が目立ち、駐在武官2回、艦船回航委員2回の計4回の在英経験は当時としても多い方である。1924年(大正13年)から1925年(大正14年)には、東宮御用掛として海軍軍事学を進講した。 艦隊司令官在勤2年未満を理由に大将昇格は見送られ予備役に編入された。
真崎 甚三郎(まさき じんざぶろう、旧字体: 眞崎 甚三郞、… 真崎 甚三郎(まさき じんざぶろう、旧字体: 眞崎 甚三郞、1876年〈明治9年〉11月27日 - 1956年〈昭和31年〉8月31日)は、日本の陸軍軍人。陸軍士官学校9期、陸軍大学校19期。最終階級は陸軍大将。栄典は正三位勲一等功四級。 荒木貞夫と共に皇道派の頭目の一人として、青年将校の衆望を集める。青年将校が起こした二・二六事件においては、犯人らの主張に沿って収束を図ったが、昭和天皇の強い反発を招き失敗した。 弟に海軍少将、衆議院議員の真崎勝次。長男に外務省、宮内庁の官僚で昭和天皇の通訳を長く務めた真崎秀樹。 1876年(明治9年)11月27日、中農の真崎要七の長男として佐賀県に生まれた。 佐賀中学(現佐賀県立佐賀西高等学校)を1895年(明治28年)12月に卒業後、士官候補生を経て1896年(明治29年)9月に陸軍士官学校に入学した。
木下 文次(きのした ぶんじ、1875年(明治8年)1月3日… 木下 文次(きのした ぶんじ、1875年(明治8年)1月3日 - 1968年(昭和43年))は、明治・大正・昭和初期の軍人。佐賀郡東与賀町(現佐賀市東与賀町)出身。最終階級は陸軍中将。栄典は正二位勲二等。 1875年、元東与賀村助役木下善次の長男として生まれる。与賀高等小学校から佐賀中学校、さらに陸軍士官学校に8期生として入校。成績優秀で所謂「恩賜の銀時計」組であった。日露戦争に従軍し、遼陽会戦にて負傷し前線を離れた。戦後は陸軍大学校に学び(陸大18期)ここでも銀時計組となった。 その後は歩兵第56連隊長、第2師団参謀長、歩兵第29旅団長を経て1925年(大正14年)旅順要塞司令官に着任。軍事に加え遼東半島の軍政を司った。
百武 三郎(ひゃくたけ さぶろう、1872年6月3日(明治5… 百武 三郎(ひゃくたけ さぶろう、1872年6月3日(明治5年4月28日)- 1963年(昭和38年)10月30日)は、日本の海軍軍人、海軍大将、侍従長。二人の弟、百武源吾は海軍大将、百武晴吉は陸軍中将。三郎・源吾は海軍史上唯一組の海軍大将兄弟である。 妻・マチ(旧姓:李家)の父は、陸軍少佐の李家頼蔵で、海軍造兵総監(後の海軍技術中将)の李家政太は叔父に当たる。 佐賀藩士、百武庭蔵の三男として生まれる。佐賀中学、攻玉社を経て、1892年、海軍兵学校(19期)を首席で卒業。少尉候補生として「松島」に乗り組み日清戦争に従軍。1894年に少尉任官。「八島」回航委員としてイギリス出張。1902年、海軍大学校(甲種3期)卒業。
安保 清種(あぼ きよかず、1870年11月8日〈明治3年1… 安保 清種(あぼ きよかず、1870年11月8日〈明治3年10月15日〉- 1948年〈昭和23年〉6月8日)は、明治・大正・昭和期の日本の海軍軍人。海軍大将正三位勲一等功四級男爵。濱口内閣海軍大臣。佐賀県出身。 東京都新宿区にある道路「安保坂」は、安保の邸があったことに由来する。 海軍草創期の中堅幹部・沢野種鉄大佐の三男として生まれる。前名は康三郎。佐賀中学、攻玉社を経て、海軍兵学校(18期)に入学し、1891年(明治24年)に61名中11位で卒業。同期生に加藤寛治がいる。在学中は父が兵学校次長であった。しかし在学中に父が病没する。規定局長林清康少将(のち海軍中将)が長女との縁談を進め、林家の養子となる。
南部 麒次郎(なんぶ きじろう、1869年4月2日(明治2年… 南部 麒次郎(なんぶ きじろう、1869年4月2日(明治2年2月21日) - 1949年(昭和24年)5月1日)は、日本の陸軍軍人、銃器開発者。東京砲兵工廠提理、南部銃製造所創設者。階級勲等は陸軍中将勲二等。工学博士。 明治末期、大正、昭和にかけて銃器開発で活躍した日本陸軍技術将校である。日本の警察が制式採用する拳銃ニューナンブM60や、明治時代の傑作軍用小銃と評価される三八式歩兵銃などにその名を残す。 肥前鍋島藩の士族、砲術家の南部春雍の二男として生まれる。母親は幼少の時に亡くなり、実家も大変貧乏だったため10歳で商家に奉公に出される。苦労を重ねた後、佐賀中学、干城学校を経て、陸軍士官学校合格(2期)。
江頭 安太郎(えがしら やすたろう、1865年3月9日〈元治… 江頭 安太郎(えがしら やすたろう、1865年3月9日〈元治2年2月12日〉- 1913年〈大正2年〉1月23日)は、日本の海軍軍人。海兵12期首席・海大甲号学生5期首席。海軍中将従四位勲二等功三級。皇后雅子の曽祖父、文学者江藤淳の祖父。 現在の佐賀県佐賀市北川副町大字木原に江頭嘉蔵・キノの次男として生まれた。父・嘉蔵は佐賀藩の下級武士であった。嘉蔵の生年は不明だが、安太郎が生まれた頃すでに40代であったとされる。安太郎が学齢期を迎えた頃、嘉蔵は佐賀中学校(現佐賀西高校)に学校用務員として勤務していた。 佐賀中学校に入学後に上京して攻玉社に入り、海兵12期の同期生、さらには後に親族となる山屋他人(海軍大将。
牟田口 廉也 は、日本の陸軍軍人。陸士22期・陸大29期。最… 牟田口 廉也 は、日本の陸軍軍人。陸士22期・陸大29期。最終階級は陸軍中将。盧溝橋事件や、太平洋戦争開戦時のマレー作戦や同戦争中のインパール作戦において部隊を指揮した。