万波 誠(まんなみ まこと、1940年10月19日 - 2… 万波 誠(まんなみ まこと、1940年10月19日 - 2022年10月14日)は、日本の医師。元宇和島徳洲会病院泌尿器科部長。岡山県備前市出身。 1940年、岡山県の生まれ。岡山県立閑谷高等学校卒業。1969年に山口大学医学部卒業。1970年、愛媛県宇和島市立病院に勤務。1975年、アメリカ・ウィスコンシン大学留学、インドネシア出身のオランダ人外科医ベルツァー(Folkert O. Belzer)の元で腎臓移植を学ぶ。日本に帰国後の1977年、宇和島市立病院で初めて腎臓移植手術を行った。その後、これまでに約1,000件の腎臓移植手術を行ったと言われている。2004年、新規開院した宇和島徳洲会病院に転職し現職となる。
松澤 隆司(まつざわ たかし、1940年10月19日 - 2… 松澤 隆司(まつざわ たかし、1940年10月19日 - 2017年8月11日)は、鹿児島県鹿児島市出身のサッカー指導者。鹿児島実業高等学校サッカー部総監督。鹿児島県サッカー協会副理事長、九州サッカー協会常任理事、全日本ユース選手権大会実施委員。 市立甲南中学校時代にサッカーを始める。鹿児島市立鹿児島商業高等学校2年次の1958年に高校選手権に出場したが、2回戦で静岡県立藤枝東高等学校に敗れた。卒業後は一般企業に就職するが、知人の勧めもあり無線通信士を目指す様になった。上級資格試験まであと一歩の時に、鹿児島実業高校の教員に採用。当初は国家試験までの半年間の約束であったが、サッカー部の顧問も同時に引き受け、九州大会予選で優勝したことから本格的にサッカー指導者の道へ進む事になった。
伊藤 竜彦(いとう たつひこ、1940年10月19日 - )… 伊藤 竜彦(いとう たつひこ、1940年10月19日 - )は、愛知県出身の元プロ野球選手(内野手・外野手)。
宮島 喬(みやじま たかし、1940年10月19日 - )は… 宮島 喬(みやじま たかし、1940年10月19日 - )は、日本の社会学者。お茶の水女子大学名誉教授。専門は社会学。とくにエミール・デュルケームやピエール・ブルデューなどフランス社会学の研究で知られる。 東京府生まれ。横浜国立大学学芸学部附属横浜中学校、東京教育大学附属高等学校、東京大学文学部社会学科卒業。東京大学大学院社会学研究科博士課程中退。1973年よりお茶の水女子大学文教育学部助教授、1985年同教授、1995年より立教大学社会学部教授、2006年より法政大学大学院社会学研究科教授。日本学術会議連携会員。 父は哲学者の宮島肇。弟に経済学者の宮島洋、政治学者の宮島泉がいる。また、折り紙作家の宮島登は次男。
峰 国安(みね くにやす、1940年10月18日 - )は、… 峰 国安(みね くにやす、1940年10月18日 - )は、長崎県西彼杵郡野母崎町出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ。 幼少期の1945年8月9日、たまたま塀に登って眺めていた「夕日のような景色」は、長崎市内に投下された原子爆弾であった。 戦後は海に沈む鉄クズを拾っては換金し、軍艦島にも上り、コンクリートだらけの廃墟で草木が一つもない異様な光景を目の当たりにした。 実家は漁師で、船乗りであった父を手伝いながら野球に没頭し、中学時代は駐留軍の米兵と草野球をしたこともあった。 海星高校では無敵のエースに成長し、2年次の1957年夏の県大会で優勝するが、西九州大会1回戦で敗れる。3年次の1958年は準決勝へ進出するが、西海学園に延長11回サヨナラ負けで甲子園出場を逃す。
藤原 秀次郎(ふじわら ひでじろう、1940年10月18日-… 藤原 秀次郎(ふじわら ひでじろう、1940年10月18日- )は、日本の経営者。しまむら社長、会長を務めた。神奈川県横須賀市出身。 1963年に慶應義塾大学商学部を卒業し、同年にフジワラストアーに入社した。1970年9月に島村呉服店(現在のしまむら)に転じ、1976年に取締役、1982年に専務を経て、1990年5月には社長に就任した。社長在任時には、流通業界では屈指の低オペレーションを確立させ、小さな衣料品店であった同社を日本有数の衣料チェーン店に育て上げたので、「中興の祖」と呼ばれている。2005年5月には会長に就任。 2009年6月から2011年6月までに埼玉経済同友会代表幹事を務めた。
大原 謙一郎(おおはら けんいちろう、1940年(昭和15年… 大原 謙一郎(おおはら けんいちろう、1940年(昭和15年)10月18日 - )は、日本の実業家。大原総一郎の長男で、大原孫三郎、野津鎮之助の孫に当たる。大原家9代目当主。長女・大原あかねは(公財)大原美術館代表理事。 (公財)大原美術館評議員(現在は大原芸術財団)、(公財)大原記念倉敷中央医療機構理事会長、(公財)倉敷民芸館理事長兼館長、(一社)人文知応援フォーラム代表理事会長。 これまでに(株)クラレ副社長、(株)中国銀行副頭取、岡山経済同友会代表幹事、倉敷商工会議所会頭、日本商工会議所政策副委員長、(公社)岡山県文化連盟会長などを歴任。 東京大学経済学部卒業後、イエール大学大学院経済学博士課程に学び単位取得退学。
冨沢 宏(とみさわ ひろし、1940年10月18日 - )は… 冨沢 宏(とみさわ ひろし、1940年10月18日 - )は、日本の大蔵官僚。血液型はA型。大阪国税局長、国税庁次長、JTサービス代表取締役、国立印刷局理事長(初代)などを務めた。 東京府武蔵野町出身。東京都立西高等学校から東京大学に入学。東京大学法学部第2類(公法コース)卒業。1963年 大蔵省入省(大臣官房秘書課)。大臣官房秘書課調査係長心得、総理府内閣総理大臣官房審議室調査企画担当主査などを経て、1969年7月 枚方税務署長。 大蔵大臣秘書官(事務担当)などを務め、1978年7月 大臣官房企画官兼主税局総務課。1979年7月 大臣官房文書課広報室長。1980年6月 東京国税局査察部長。 1986年6月10日に関税局企画課長となり、1987年6月25日から関税局総務課長。
佐藤 征一郎(さとう せいいちろう、1940年(昭和15年)… 佐藤 征一郎(さとう せいいちろう、1940年(昭和15年)10月15日 - )は、日本の声楽家(バス、バスバリトン)、オペラ歌手、音楽教育者、合唱指揮者。 宮城県仙台市生まれ。神奈川県立川崎高等学校 卒業。1967年(昭和42年)東京芸術大学音楽学部声楽科卒業。1970年(昭和45年)同大学院修士課程修了。大学院在学中に第132回芸大オーケストラ定期公演(指揮:山田一雄)ベートーヴェン『第九』バス独唱で音楽界にデビュー。1969年(昭和44年)二期会(指揮:若杉弘)ワーグナー『ラインの黄金』ファフナーでオペラデビュー。その後、読売日本交響楽団第58回定期演奏会(指揮:若杉弘)ベルリオーズ『ファウストの劫罰』ブランデルや、同年帰国した小澤征爾指揮による日本フィルハーモニー交響楽団第180回東京定期演奏会 モーツァルト『コジ・ファン・トゥッテ』(演奏会形式)に出演 したほか、二期会を中心に1971年(昭和46年)2月までの約2年間に計14本 ものプロダクションに出演している。
表 三郎(おもて さぶろう、1940年10月15日 - 20… 表 三郎(おもて さぶろう、1940年10月15日 - 2024年11月9日[要出典])は、日本の経済学者、思想家、予備校講師(英語科)。元大阪市立大学全学共闘会議議長、元桃山学院大学講師、元駿台予備学校英語科講師。 1940年、広島県に生まれ、大阪府で育った。1961年、2浪の末、甲南大学経済学部に入学。1970年、大阪市立大学大学院経済学研究科博士課程修了。 最初革命的共産主義者同盟に所属するも、中核派・革マル派の分裂に際してはそのどちらにも加わらず、その後大阪市立大学の全共闘議長に就任するなど学生運動に傾倒した。大学院修了後は桃山学院大学の講師を務める傍ら論文執筆に励み、「現代の理論」等に多数掲載。
岡山 紀男(おかやま のりお、1940年10月15日 - 2… 岡山 紀男(おかやま のりお、1940年10月15日 - 2010年11月14日)は、日本の実業家。住友電気工業代表取締役社長や、同社代表取締役会長、日本電線工業会会長、大阪大学産業科学研究協会理事長等を務めた。 石川県出身。1963年東京大学文学部社会学科卒業、住友電気工業入社。人事組織部次長、人事部次長を経て、1985年人事部長に就任。1991年取締役中部支社長に昇格。1995年常務取締役。1999年から代表取締役社長を務め、イギリスのルーカスSEI・ワイヤリング・システムの買収などを行った。2004年住友電気工業代表取締役会長。2007年同社取締役会長。2008年同社特別顧問。大阪大学産業科学研究協会理事長等も務めた。
古賀 さと子(こが さとこ、1940年10月14日 - 19… 古賀 さと子(こが さとこ、1940年10月14日 - 1996年5月25日)は、日本の歌手、女優。本名は古賀 達子。 東京市(現在の東京都)板橋区出身。上野学園高等学校音楽科を卒業した。1950年代には童謡歌手や子役として人気を博していた。 代表曲は、『子鹿のバンビ』『ピーコポン』など。 父はピアノ調律師の古賀良三。四人姉妹の三女。次姉は田原総一朗の妻でエッセイストの田原節子である。 さと子が小学校2年生のとき、父のピアノ調律師仲間の紹介で作曲家、保田正の組織する「さくら子供会」という合唱団に入る。1948年、ビクターから保田作曲の『動物あそび』で童謡歌手としてデビュー。大きなリボンがトレードマークの愛くるしい姿でたちまち人気者となり、1951年5月「ひばりと麦笛」、1951年10月「ママのおひざ」、1952年3月ディズニーアニメ「バンビ」をモチーフとした「子鹿のバンビ」など大ヒットを次々飛ばす。
栗坪 良樹(くりつぼ よしき、1940年10月13日 - 2… 栗坪 良樹(くりつぼ よしき、1940年10月13日 - 2021年3月30日)は、日本近代文学研究者。青山学院女子短期大学名誉教授。 満洲国奉天市生まれ。北海道月形高等学校、早稲田大学教育学部卒。同大学院修士課程修了、麻布中学校・高等学校教師の後、青山学院女子短期大学教授、1990-1998年学長を務める。2011年定年、名誉教授。河出書房新社『定本横光利一全集』、岩波講座『日本文学史』、岩波書店『阿部昭集』等の編集に携わる。 2021年3月30日、心臓病のため死去。80歳没。
野口 雅昭(のぐち まさあき、1940年10月13日 - )… 野口 雅昭(のぐち まさあき、1940年10月13日 - )は、日本の元外交官。アラビスト。元京都文教大学人間学部長、現代社会学科教授。龍谷大学客員教授。京都聖母女学院短期大学非常勤講師。福島県会津若松市出身。父は旧帝国陸軍で参謀などを務めた野口省己。登山家の野口健は次男。野口絵子は孫(健の長女)。 外交官時代は、アラビア語の専門教育を受けたアラビストであった。1991年1月31日、イエメン大使在任時に、大使公邸に手榴弾が投げ込まれた。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
田野井 一雄(たのい かずお、1940年10月12日 - )… 田野井 一雄(たのい かずお、1940年10月12日 - )は、日本の政治家。自由民主党所属の横浜市会議員(10期)。第37代横浜市会議長。 神奈川県横浜市港南区生まれ。横浜市立桜岡小学校、関東学院六浦中学校・高等学校、明治大学文学部を卒業。 青年会議所に所属しており、1983年には横浜青年会議所理事長に就任している。政界入りを考えはじめたのは、横浜市会議員の松村千賀雄に市議選への出馬を打診されたことがきっかけだが、青年会議所の活動に専念するために一度は辞退をしている。その後1983年に、横浜市会議員選挙に港南区から立候補し、定数6のうち5番目の得票数(8642票)で初当選。1999年には横浜市会議長に就任し、2002 FIFAワールドカップの誘致に尽力した。
羽鳥 兼市(はとり けんいち、1940年10月12日 - )… 羽鳥 兼市(はとり けんいち、1940年10月12日 - )は実業家、ガリバーインターナショナルの創業者、取締役会長。
竹田 恒正(たけだ つねただ、1940年〈昭和15年〉10月… 竹田 恒正(たけだ つねただ、1940年〈昭和15年〉10月11日 - )は、日本の旧皇族。竹田宮第3代当主。竹田宮恒徳王第1王子。皇籍離脱前の身位は王(恒正王)。明仁(上皇)のはとこにあたる。 1940年(昭和15年)10月11日午後1時55分、竹田宮恒徳王の第1王男子として東京府東京市芝区高輪南町17番地(現在の東京都港区高輪)の竹田宮邸で生まれる。母は恒徳王妃光子。同年10月17日に恒正と命名される。皇紀二千六百年を祝う大観艦式の日に生まれたため、「観艦式の日のご誕生だから、将来はぜひ海軍に」と海軍関係者から望まれた。日本国憲法施行後の1947年(昭和22年)10月14日、父や家族とともに皇籍離脱となる。
古川隆久(ふるかわ たかひさ、1940年(昭和15年)10月… 古川隆久(ふるかわ たかひさ、1940年(昭和15年)10月11日 - )は、栃木県芳賀郡益子町の陶芸家であった。 後に妻・俊子と共に、茨城県八郷町に、そして長野県軽井沢町へと移住し、油彩画を手掛けるようになった。 1940年(昭和15年)10月11日、東京都板橋区に生まれる。生家は喫茶店を営業していたという。 隆久が東京芸術大学3年生で視覚デザイン専攻生となっていた時に、加藤土師萌が東京芸大に陶芸講座を開いた。陶芸講座で開設された授業で、隆久は初めて陶芸を体験し、その面白さを知った。そして1963年(昭和38年)、隆久が4年生になった時から陶芸講座に入り、加藤土師萌に招聘された藤本能道の直弟子となった。
合田 佐和子(ごうだ さわこ、1940年10月11日 - 2… 合田 佐和子(ごうだ さわこ、1940年10月11日 - 2016年2月19日)は、日本の女性画家。 前夫との間に一女あり。三木富雄は2人目の夫で、その間に生まれたのが合田ノブヨである。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
田辺 清(たなべ きよし、1940年10月10日 - )は、… 田辺 清(たなべ きよし、1940年10月10日 - )は、日本の元プロボクサー。青森県青森市出身。1960年ローマオリンピックのフライ級銅メダリスト。不運な判定により五輪金メダルを懸けた決勝進出を妨げられ、プロ転向後は技術とパワーのバランスの取れた逸材として世界王座を嘱望されたが、世界挑戦を前に網膜剥離を発症し無敗のまま引退。 1958年、青森工業高校でボクシングを始め、高校日本一となった。 中央大学に進学。大学でアルバイトをしながら競技に打ち込み、国内タイトルを総なめにする。2年後輩に1964年東京オリンピック・バンタム級金メダリストとなった桜井孝雄がおり、公式戦では2度戦い、いずれも田辺が勝利。
久保田 博南(くぼた ひろなみ、1940年〈昭和10年〉10… 久保田 博南(くぼた ひろなみ、1940年〈昭和10年〉10月10日 - )は、群馬県太田市出身の医療機器開発コンサルタント、サイエンスライターである。生体情報モニタの創始を手始めとして、心電図モニタ、パルスオキシメーターなどのワイヤレス化、小型・省エネ化、ポータブル化などによる関連機器群の普及活動に尽力している。 1963年、群馬大学工学部電気工学科を卒業後、日本光電工業株式会社に入社し医療機器の研究開発に従事した。1965年に生体情報モニタ、1975年にワイヤレス式の生体情報モニタを商品化し、ともに世界初の開発だったことから「ミスタモニタ」や「生体モニタの父」と呼ばれる。このとき開発された初号機「MBM-40」は現在麻酔博物館に展示されている。
渡邊 紀征(わたなべ のりゆき、1940年(昭和15年)10… 渡邊 紀征(わたなべ のりゆき、1940年(昭和15年)10月10日 - )は、日本の実業家。ファミリーマート副社長や西友の社長・会長を務め、セゾングループ成長の牽引役の一人として知られた。日本チェーンストア協会会長、スギホールディングス取締役、エステー取締役等も歴任。 東京都出身。東京都立立川高等学校を経て、1963年に一橋大学社会学部を卒業した。野村證券に入社するも、自分に合わないと考え退社、客の喜びが直接伝わってくる小売業への就職を希望し、1968年に西友ストアーに入社、営業畑を歩む。営業企画部長、小売事業本部長を経て、1982年に取締役、1986年に常務、1992年代表取締役専務に就く。
新関 公子(にいぜき きみこ、1940年10月10日 - )… 新関 公子(にいぜき きみこ、1940年10月10日 - )は、日本の美術史学者、東京藝術大学名誉教授。 1940年新潟県長岡市生まれ。1959年新潟県立柏崎高等学校卒業。1963年東京芸術大学美術学部芸術学科卒業。1965年同大学院修士課程修了、東京芸大付属芸術資料館(現東京芸術大学美術館)に勤務(-1974年)。 1968年フランス政府給費留学生としてエコール・デュ・ルーヴルで博物館学研修を受ける。1982-1987年横浜市美術館開設準備室勤務。2002年東京芸大美術館教授、2008年退任、名誉教授。2012年『ゴッホ 契約の兄弟』で吉田秀和賞受賞。
早田 卓次(はやた たくじ、1940年10月10日 - )は… 早田 卓次(はやた たくじ、1940年10月10日 - )は、和歌山県田辺市出身のオリンピック体操金メダリスト。日本大学名誉教授。元日本大学文理学部体育学科教授。1964年東京オリンピック体操男子つり輪、男子団体の金メダリストで、現在は日本オリンピック委員会理事、日本オリンピアンズ協会の理事長を務める。 1959年 - 和歌山県立田辺高等学校卒業。1963年 - 日本大学文理学部卒業。 1964年 - 東京オリンピック男子団体総合、つり輪で金メダルを獲得した。 1970年 - リュブリャナ世界選手権(ユーゴスラビア)男子団体総合で金メダル、鉄棒で銅メダルを獲得した。 1989年 - 日本大学文理学部教授となった。
丹羽 洋介(にわ ようすけ、1940年10月10日 - )は… 丹羽 洋介(にわ ようすけ、1940年10月10日 - )は、中国上海市生まれ、広島県広島市出身の元サッカー日本代表選手・指導者。 3人兄弟の末っ子。父親は上水道技師で、上海で、のち広島で水道事業に関わっている。そのため上海で生まれ、1944年4歳の時から広島で生活し、太平洋戦争末期に愛知県江南市に疎開していた。そのため広島市への原子爆弾投下からは逃れている。ただ父親は当時広島で働いており、被爆者となってしまった。 広島に戻り広島大学附属小学校へ進学するとサッカーを始める。小学校の1学年上が鬼武健二、1学年下が桑田隆幸と野村尊敬、2学年下が小城得達になる。その後広島大学附属中学校・高等学校と上がる。
石井 郁子(いしい いくこ、1940年10月10日 - )は… 石井 郁子(いしい いくこ、1940年10月10日 - )は、日本の政治家・教育学者。日本共産党名誉役員。元衆議院議員(5期)、党中央委員会幹部会副委員長、常任幹部会委員、北京オリンピックを支援する議員の会メンバー。
長倉 久子(ながくら ひさこ、1940年10月10日 - 2… 長倉 久子(ながくら ひさこ、1940年10月10日 - 2008年1月11日)は、日本の宗教哲学者、キリスト教神学者。専門は西洋中世哲学史、特にトマス・アクィナスとボナヴェントゥラ。南山大学名誉教授。 1940年に静岡市に生まれる。1959年、静岡県立静岡高等学校卒業。京都大学大学院文学研究科博士課程修了。南山大学人文学部キリスト教学科教授。ストラスブール大学宗教学博士・神学博士。 2008年1月11日、膵臓がんにより死去。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
平田 翼(ひらた よく、1940年10月9日 - 2012年… 平田 翼(ひらた よく、1940年10月9日 - 2012年12月30日)は、日本のスポーツジャーナリスト(スポーツライター)。企画つばさ社長。東京都港区出身。 主に日本プロ野球の読売ジャイアンツ(巨人)専門に活動。 学習院高等科三年、夏の甲子園の東京都予選大会で早稲田実業のエースピッチャー王貞治に3打数3三振に抑えられ野球を断念。 その後、巨人へ入団した王を取材しようと、1963年に学習院大学を卒業後、報知新聞社へ入社。報知新聞(現:スポーツ報知)の記者となり、巨人の番記者として活躍した後、月刊ジャイアンツ編集長を務め、フリーとなる。1980年代前半頃から2004年頃まで、ラジオ日本ジャイアンツナイターの解説者をはじめ、テレビやラジオの放送メディアにおいても活動した。
秋山 賢三(あきやま けんぞう、1940年10月9日 - 2… 秋山 賢三(あきやま けんぞう、1940年10月9日 - 2025年9月?日 )は日本の元裁判官、弁護士。東京大学法学部卒。冤罪問題の研究者として知られる。 本人が「下級審で死刑の判決を下された被告人が最高裁判所の審理で無罪となった松川事件に感銘を受け、裁判官に憧れるようになった」と述べているとおり、誤判・冤罪の防止を信念として抱いており、弁護士を始めてからは刑事の分野で多くの否認事件の弁護に携わっている。また、裁判官であった時代から、「疑わしきは被告人の利益に」の原則を忠実に守るように努めてきたと自負している。実際に、徳島ラジオ商殺し事件に関して被告人の遺族からの再審の請求を認め、雪冤の一端を担った。
菅原 鬨也(すがわら ときや、1940年10月8日- )は、… 菅原 鬨也(すがわら ときや、1940年10月8日- )は、俳人。 宮城県仙台市生まれ。東北学院大学卒。俳誌「滝」主宰。1974年、藤田湘子の「鷹」入会、76年「鷹」同人。91年「槐」創刊同人。92年「滝」創刊主宰。93年「鷹」同人辞退。1981年、宮城県芸術選奨新人賞、1980年、角川俳句賞。現代俳句協会員。宮城地区現代俳句協会副会長。
高木隆司(たかきりゅうじ、1940年10月7日- )は、日本… 高木隆司(たかきりゅうじ、1940年10月7日- )は、日本の幾何学工学者、東京農工大学名誉教授。 広島県生まれ。1969年東京大学大学院理学系研究科博士課程修了、「鉛直な壁に沿って流れ落ちる液体層におこる波動現象」で理学博士。1969年東京農工大学工学部専任講師となる。1970年同助教授。1983年同教授、のち同名誉教授。神戸芸術工科大学特任教授を経て、2008年に同大学特別教授。所属学会は、形の科学会、形の文化会、日本応用数理学会。2021年、瑞宝中綬章受章。
平塚 明(ひらつか あきら、1940年(昭和15年)10月5… 平塚 明(ひらつか あきら、1940年(昭和15年)10月5日 - )は、日本の政治家。元茨城県結城市長(3期)。結城市議会議員(9期)。 茨城県立結城第一高等学校卒。1979年結城市議会議員に初当選する。その後、市議会副議長となる。その傍ら結城市内でコンビニエンスストアを経営する。 1991年と1995年の結城市長選挙に立候補するが、いずれも落選。落選後に行われた市議選に立候補し、2回とも当選した。1997年結城市長の荒井秀吉が死去。これに伴う市長選挙に立候補し、6人による激戦を制し、初当選した。2001年の市長選挙は無投票で再選。 2003年7月市が発注した公共工事に関し、業者から100万円を受け取った収賄の容疑で逮捕され、市長を辞職。
西舘 代志子(にしだて よしこ、1940年(昭和15年)10… 西舘 代志子(にしだて よしこ、1940年(昭和15年)10月5日 - )は日本の評論家、緑化運動家。旧名は西舘好子、井上好子。近年は再び西舘 好子名義で活動している。NPO法人「日本ららばい協会」理事長。 旧姓名内山好子として、東京市浅草区鳥越のかもじ職人の次女に生まれ、文学に親しんで育つ。 大妻中学校・高等学校卒業後は電通に勤めていたが、1961年12月、井上ひさしと結婚。1963年に長女、1965年に次女、1967年に三女を出産。長女は元こまつ座主宰の井上都。三女は株式会社こまつ座社長の石川麻矢。 1983年1月、こまつ座の発足に伴い、その運営に参加。1984年4月、こまつ座旗揚げ公演『頭痛肩こり樋口一葉』の台本が遅れたことから井上と不和になり、こまつ座舞台監督の西舘督夫と親しくなる。
稲沢 潤子(いなざわ じゅんこ、1940年10月5日 - )… 稲沢 潤子(いなざわ じゅんこ、1940年10月5日 - )は、日本の小説家。本名・岩田淳子。 静岡県出身。静岡県立沼津東高等学校からお茶の水女子大学を経て名古屋大学卒業後、出版社に勤務しながら小説を書き始める。1969年2月号の『民主文学』に「二足めの靴」が掲載され、作家としてのキャリアがはじまる。1972年には「紀子の場合」を発表。その後、『群像』『民主文学』を中心に多くの作品を発表する。 ルポルタージュの著作も多く、1981年の北炭夕張新炭鉱ガス突出事故を契機に夕張を取材し、『夕張のこころ』(大月書店)を刊行する。また、障碍者問題や千葉県立小金高等学校の卒業式問題に取材した著作もある。 1987年、夕張を舞台にした小説『地熱』で多喜二・百合子賞を受賞する。
島倉 二千六(しまくら ふちむ、1940年〈昭和15年〉10… 島倉 二千六(しまくら ふちむ、1940年〈昭和15年〉10月5日 - )は、日本の特撮映画の背景専門の絵描き。雲の表現に定評があり、雲の神様と称される。立花隆の住居「猫ビル」に黒猫を描いた人物としても知られる。別名・島倉仁。新潟県水原町出身。 幼少期より絵が得意で、中学のときに新潟県の展覧会に入選、以後、文部大臣賞、郵政大臣賞受賞。中学校卒業後に看板屋で務めた後、兄の誘いで1957年に上京し独立プロへ入社。1958年の映画『怒りの孤島』から背景美術に携わる。1959年に映画『日本誕生』の現場を見学した際に特撮技術課長の末安昌美から誘いを受け、1960年に東宝の契約社員となった。当初は合成作画を担当し、『宇宙大戦争』(1959年)より鈴木福太郎の助手として背景美術を手掛ける。
大崎 文明(おおざき ふみあき、1940年10月4日 - )… 大崎 文明(おおざき ふみあき、1940年10月4日 - )は、日本の経営者。西武百貨店社長を務めた。 東京都出身。1963年に成城大学経済学部を卒業し、同年に西武百貨店に入社。取締役、常務を経て、1998年6月に専務に就任し、2003年5月には社長に昇格し、2008年3月までに務めた。
藤田 信之(ふじた のぶゆき、1940年10月4日 - )は… 藤田 信之(ふじた のぶゆき、1940年10月4日 - )は、京都府出身の陸上競技指導者。「F・R・A 藤田ランニングアカデミー」の監督。 1956年(昭和31年)、京都府立洛北高等学校に入学。同高校在学中に陸上競技部に入部し、当時の同部顧問だった塩尻安吉の指導の下、専ら中距離選手として活躍していた。その一方で、同高校に於ける冬の風物詩とされた校内耐寒マラソンに於いては驚異的な走りっぷりを見せていたという。 洛北高校を卒業後、一度は京都市職員として就職するも陸上競技指導者を目指すべく退職。トレーニングと勉学に励む日々を送る中、日本レイヨン(現ユニチカ)の陸上競技部から声がかかり、急遽同社チームの一走者として第4回全日本実業団駅伝に出場、同社チームは第5位の成績を残す。
高嶋 雅明(たかしま まさあき、1940年10月4日 - )… 高嶋 雅明(たかしま まさあき、1940年10月4日 - )は、日本の経済史学者、和歌山大学名誉教授。 大阪市生まれ。1964年和歌山大学経済学部卒、1970年大阪大学大学院経済学研究科博士課程満期退学。1980年「朝鮮における植民地金融史の研究」で経済学博士。1967年九州産業大学講師、1970年和歌山大学経済学部講師、1972年助教授、1981年教授、1997年-1999年経済学部長、2006年定年退官、名誉教授、広島経済大学教授。2011年退職。
西村 忠禧(にしむら ただよし、1940年10月4日 - … 西村 忠禧(にしむら ただよし、1940年10月4日 - )は、日本の経営者。みなと銀行頭取を務めた。 兵庫県出身。1963年に神戸大学法学部を卒業。三井住友銀行での勤務を経て、2001年6月にみなと銀行顧問に就任し、同年6月には頭取に就任。2006年6月に特別顧問に就任。
石崎 晴己(いしざき はるみ、1940年10月4日 - 20… 石崎 晴己(いしざき はるみ、1940年10月4日 - 2023年10月22日)は、日本のフランス文学者、翻訳家。青山学院大学名誉教授。 ジャン=ポール・サルトルを専門とする。ブルデューやエマニュエル・トッドの翻訳書も数多く刊行した。 早稲田大学仏文科卒、同大学院博士課程単位取得満期退学。ナンシー大学博士課程に留学ののち、立正女子大学助教授、青山学院大学文学部教授、同学部長、青山学院大学総合文化政策学部教授、同学部長等を経て、青山学院大学名誉教授。 2023年10月22日、がんのため死去。83歳没。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
小寺 弘之(こでら ひろゆき、1940年〈昭和15年〉10月… 小寺 弘之(こでら ひろゆき、1940年〈昭和15年〉10月3日 - 2010年〈平成22年〉12月21日)は、日本の政治家。元群馬県知事(民選第13・14・15・16代)。東京府生まれ。 父は佐賀県、母は茨城県の出身。父の仕事の都合で誕生して間もなく台湾(日本統治下)に移住し、再び東京に戻る。戦時中は母の故郷である茨城に疎開するが、終戦後に東京に戻り小学校に入学する。しかし、小学1年の1学期までで東京を去り、函館、熊本、広島、名古屋と転居を繰り返し5つの小学校の転校を経験する。中学校も名古屋から芦屋に移り、高校は兵庫県立芦屋高等学校に入学するが高校2年の2学期に東京へ転居し、東京都立新宿高等学校に入学した。
山田 嘉彦(やまだ よしひこ、1940年〈昭和15年〉10月… 山田 嘉彦(やまだ よしひこ、1940年〈昭和15年〉10月3日 - )は、日本の洋画家。東京学芸大学名誉教授、立軌会同人。東京都江戸川区出身。 日本橋芳町より京都市右京区御室へ移転。東京都中野区東中野へ移転。 東京都立武蔵丘高等学校、東京藝術大学美術学部絵画科油絵専攻卒(林武教室)。東京藝術大学大学院修了(牛島憲之教室)。 中学校の美術部で初めて油彩画を描き、高校の美術部に所属し石膏デッサンに夢中になる。東京藝術大学の大学院修了後、同大学に勤務し、その間に牛島憲之に風景画の指導を受ける。 1969年にフランス政府給付留学生として渡仏。マルセーユ芸術建築学校(ビュッス教室)に学ぶ。グループ十騎会(髙島屋東京日本橋店、~2015年)に参加。
鈴木 史楼(すずき しろう、1940年10月3日 - 199… 鈴木 史楼(すずき しろう、1940年10月3日 - 1997年8月15日)は、「書」の評論家。 東京出身。早稲田大学英文科専攻卒。独学で書道史を学び、28歳頃から書の評論を始めた。 1982年から書の個人批評誌「紅糸」を年3回発行した。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作詞家・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ:作家)。
六代目 三遊亭 圓窓(さんゆうてい えんそう、1940年〈昭… 六代目 三遊亭 圓窓(さんゆうてい えんそう、1940年〈昭和15年〉10月3日 - 2022年〈令和4年〉9月15日)は、東京都江東区出身の落語家。落語協会所属。本名∶橋本 八郎。出囃子は『新曲浦島』。 東京都立文京高等学校卒業。 1959年3月、八代目春風亭柳枝に入門。「枝女吉」を名乗るが、同年10月、師匠柳枝が死去。兄弟子枝吉と共に六代目三遊亭圓生門下に移り、「吉生」と改名。 1962年11月、林家こん平と共に二ツ目昇進。 1969年3月、抜擢され真打に昇進し、六代目三遊亭圓窓を襲名。1970年6月21日より笑点の大喜利にレギュラー出演、そこでのキャラは常識派であった。番組500回記念では兄弟子・五代目圓楽とリレー落語を演じた。
高橋 成忠(たかはし しげただ、1940年10月3日 - )… 高橋 成忠(たかはし しげただ、1940年10月3日 - )は、大阪府北河内郡枚方町(現・枚方市)出身の元騎手・元調教師。 JRA調教師の高橋義忠は実子。 父は枚方市議会議員も務めた人物で、その三男であった。少年時代は父と連れられて京都競馬場へよく足を運び、父が「なんとかホウシュウという馬が強かった」といったことに印象を残したという。 中学時代には考古学者を将来に思い描いていたが、高校進学が決まった後、駅の構内に貼られていた騎手候補生募集のポスターを見て「なんとなく馬にひかれた」ほか、募集条件がことごとく自分に合致していたことから受験に至り、馬事公苑騎手養成長期課程に第7期生として入所。主な同期生には池江泰郎、丸目敏栄、野元昭、徳吉一己、福永甲、吉岡八郎がいる。
辻 一幸(つじ かずゆき / いっこう、1940年(昭和15… 辻 一幸(つじ かずゆき / いっこう、1940年(昭和15年)10月2日 - )は日本の政治家。元山梨県早川町長(11期)。 1940年(昭和15年)早川町生まれ。甲府北中学校、甲府第一高等学校を経て、1964年(昭和39年)青山学院大学経済学部を卒業した。早川町で運送業を営む。 1980年(昭和55年)の早川町長選挙で初当選した。 一幸は1980年の町長就任以降、1992年と2012年の2回のみ選挙戦を行っており、他の9回は全て無投票での当選である。退任時点で当選回数と就任年数は全国最多だった。 2023年12月6日、定例の町議会で、「春ごろから体調不良が続いている」と述べ、2024年11月15日の任期満了を以ての退任を表明した。
尾辻 秀久(おつじ ひでひさ、1940年10月2日 - )は… 尾辻 秀久(おつじ ひでひさ、1940年10月2日 - )は、日本の政治家。自由民主党所属の参議院議員(5期)、みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会会長。
上畑 鉄之丞(うえはた てつのじょう、1940年(昭和15年… 上畑 鉄之丞(うえはた てつのじょう、1940年(昭和15年)10月2日 - 2017年(平成29年)11月9日)は、日本の医学者、旧国立公衆衛生院名誉教授。過労死研究の第一人者であり、過労死という言葉の生みの親である。 滋賀県生まれ。1965年岡山大学医学部卒業。同大学大学院修了。1970年「脳卒中の発生要因に関する衛生学的知見」で医学博士。1973年杏林大学医学部衛生学教室助教授。1978年の研究で「過労死」という言葉を初めて使用した。当初は学会では受け入れられなかったという。1985年ストレス疾患労災研究会を設立し、全国規模の過労死研究を推進した。1987年から国立公衆衛生院疫学部成人病室長、栄養生化学部長を経て、1997年国立公衆衛生院次長。
高橋 康雄(たかはし やすお、1940年10月2日 - 20… 高橋 康雄(たかはし やすお、1940年10月2日 - 2000年7月4日)は、日本の評論家、俳人。 旧満州生まれ。1965年早稲田大学商学部卒業後、山形新聞記者、潮出版社編集者、『潮』編集長、論風社取締役、大学非常勤講師、1997年札幌大学文化学部教授、1999年学部長。
東錦 栄三郎(あずまにしき えいざぶろう、1940年10月2… 東錦 栄三郎(あずまにしき えいざぶろう、1940年10月2日 - 1994年11月9日)は、東京都新宿区西新宿出身で高砂部屋に所属した大相撲力士。本名は星野 栄三郎(ほしの えいざぶろう)。現役時代の体格は173cm、132kg。最高位は東前頭15枚目(1962年9月場所)。得意手は左四つ、吊り、寄り。 実家は豚カツ屋で、兄2人は共に明治大学付属中野高校から明治大学に進学し、野球で活躍。三男の栄三郎も、中学校卒業後は兄達と同じ高校に進学するつもりであった。だが、栄三郎の体躯の良さに目を付けた高砂部屋の幕内力士・藤田山が同部屋の横綱・東富士(後、年寄・錦戸)に彼の事を伝え、東富士の再三に亘る勧誘もあって高校進学を諦める事になった。