篠田 英雄(しのだ ひでお、1897年6月27日 - 198… 篠田 英雄(しのだ ひでお、1897年6月27日 - 1989年12月26日)は、日本の哲学者、翻訳家。 1897年、千葉県で生まれた。東京帝国大学哲学科で学び、卒業。1934年、在日中のブルーノ・タウトと相識り、以降交流を続けた。1938年のタウト没後にエリカ・タウト夫人から日本に関する著書、日記の原稿を託され、その整理と翻訳に当たった。 また岩波文庫版のカントの主著、クラウゼヴィッツ『戦争論』など、重版し読み継がれる訳業を行った。『岩波西洋人名辞典』(岩波書店 1956、新版1981)のいくつかの項目も執筆している。
畠田 昌福(はたけだ まさとみ、1897年(明治30年)6月… 畠田 昌福(はたけだ まさとみ、1897年(明治30年)6月26日 - 1976年(昭和51年)7月14日)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事、陸軍司政長官。 兵庫県津名郡来馬村久留麻で畠田勝平の三男として生まれる。第六高等学校を卒業。1921年11月、高等試験行政科試験に合格。1922年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省に入省し福井県属となる。 以後、群馬県理事官、愛知県庶務課長、同地方課長、東京府庶務課長、同地方課長、秋田県書記官・警察部長、福島県書記官・警察部長、福岡県書記官・警察部長、神奈川県書記官・警察部長、内務省警保局警務課長、大阪府書記官・警察部長、内務省地方局監査課長、内務省監査官などを歴任。
末永 雅雄(すえなが まさお、1897年(明治30年)6月2… 末永 雅雄(すえなが まさお、1897年(明治30年)6月23日 - 1991年(平成3年)5月7日)は、日本の考古学者。橿原考古学研究所初代所長。関西大学名誉教授。文学博士(龍谷大学・論文博士・1948年)。大阪府南河内郡狭山村(現:大阪狭山市)生まれる。日本学士院会員。文化勲章受章者。大阪狭山市名誉市民。奈良県明日香村名誉村民。 河内狭山の旧家の一人っ子として生まれた。1904年に狭山尋常小学校入学、父親の勧めで狭山池周辺の土器片集めに熱中する。隣家の陸軍大将植田謙吉に憧れて陸軍幼年学校入学を希望するも母親に反対され進学を断念、土器石器集めや、祖父が集めた古武器を眺めて暮らすうち、水戸学の学統をひく感化院院長高瀬真卿の日本刀の新聞連載を読み、高瀬と文通を始める。
金 七星(キム・チルソン、朝鮮語: 김칠성、1897年6月2… 金 七星(キム・チルソン、朝鮮語: 김칠성、1897年6月22日または6月24日 - 1984年5月21日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、大韓民国の実業家、政治家。第2代韓国国会議員。本貫は清道金氏(朝鮮語版)。 慶尚南道釜山(現・釜山広域市)出身。日本大学経済学部卒。1950年の第2代総選挙に釜山市丙選挙区から無所属で立候補して当選し、国会議員を1期務めた。そのほか、経済研究所長、ハンソン株式会社経営者、米軍政期の慶尚南道顧問などを務め、大韓独立促成全国労働総同盟にも関係があった。1950年9月19日正午ごろ、ソウルにいた際に北朝鮮に拉致された。1956年7月から在北平和統一促進協議会の常務委員を務め、その後の詳細は不明だが、87歳で死去したとされる。
桜井 徳太郎(さくらい とくたろう、1897年6月21日 -… 桜井 徳太郎(さくらい とくたろう、1897年6月21日 - 1980年12月28日)は、日本の陸軍軍人、僧侶。最終階級は陸軍少将。法名、全覚。
松井三雄(まつい みつお、1897年6月21日 - 1983… 松井三雄(まつい みつお、1897年6月21日 - 1983年3月19日)は、日本の教育心理学者。東京大学名誉教授。 山口県美祢郡出身。1923年東京帝国大学文学部心理学科卒。体育研究所、東京文理科大学教授、東京大学教授、1961年定年退官、名誉教授、日本大学教授、鶴川女子短期大学学長。1983年退任。日本学術会議会員。 体育心理学、スポーツ心理学のほか、音楽教育についても研究した。
井上 康文(いのうえ やすぶみ、1897年6月20日 - 1… 井上 康文(いのうえ やすぶみ、1897年6月20日 - 1973年4月18日)は、日本の詩人、作家、新聞記者。本名・康治。日高駿一の筆名も用いた。 生涯で3回結婚した。最後の妻、井上淑子(きよこ)もまた詩人であった。 神奈川県小田原市出身。東京薬学校(現東京薬科大学)を卒業後、東京市役所の技師や雑誌『新小説』の記者などを務めた。1918年、同郷の福田正夫や白鳥省吾らと共に雑誌『民衆』を創刊して注目を集める。大正デモクラシーの時流の中で、民衆の生活を口語体で平易に表現する「民衆詩派」の一翼を担った。『民衆』は毎回300部程度、17号まで発行された。 さらに井上は詩人団体「詩話会」に入会。詩壇での地位を確立する一方、北原白秋らは「詩ではなく散文的である」として民衆詩派に反発した。
今井 つる女(いまい つるじょ、1897年6月16日 - 1… 今井 つる女(いまい つるじょ、1897年6月16日 - 1992年8月19日)は、俳人。本名は今井鶴(旧姓・池内)。父は高浜虚子の兄池内政夫で、つる女は虚子の姪にあたる。 愛媛県松山市生まれ。生後間もなく一家で上京するも4歳で父と死別し、池内政忠(虚子の長兄)の養女となる。1904年、尋常第一小学校(現 番町小学校)へ入学後、尋常第四小学校(現 東雲小学校)へ編入する。1914年、愛媛県立松山高等女学校(現 愛媛県立松山南高等学校)卒業。今井五郎との結婚を機に上京する。1920年頃から句作をはじめ、1928年『ホトトギス』夫人句会に参加する。1930年、星野立子の『玉藻』創刊に参加。1940年「ホトトギス」同人となる。
石森 延男(いしもり のぶお、1897年6月16日 - 19… 石森 延男(いしもり のぶお、1897年6月16日 - 1987年8月14日)は、日本の児童文学者、国語教育学者、教科書編集者。第二次世界大戦前1939年の『咲きだす少年群』で第3回新潮社文芸賞、大戦後は1957年刊行のベストセラー『コタンの口笛』(全2部)で第1回未明文学賞および第5回産経児童出版文化賞を、1962年の『バンのみやげ話』で第1回野間児童文芸賞を受賞。『石森延男児童文学全集』全15巻がある。 1897年(明治30年)、歌人で「われらが愛する北海道」の作詞者でもある石森和男の長男として北海道札幌市に生まれる。中央区南6条西9丁目に生誕地の碑がある。 東京高等師範学校第二部国語国文科に入学、在学中より詩作や口演童話にたずさわる[要出典]。
小清水 卓二(こしみず たくじ、1897年(明治30年)6月… 小清水 卓二(こしみず たくじ、1897年(明治30年)6月15日 - 1980年(昭和55年)10月24日)は、日本の植物生理生態学者。理学博士。 神奈川県足柄生まれ。父良造は大蔵省官吏。1923年東京高等師範学校理科卒後、秋田県立本荘中学校で教諭となる。教職を勤める傍ら東北帝国大学にてハンス・モーリッシュ教授から植物学の指導を受ける。その後京都帝国大学理学部(植物)に入学。1927年卒後、同大大学院にて植物生理生態学者郡場寛に師事。1930年京都府女子師範学校教授に就任。1932年奈良女子高等師範学校教授、1949年より奈良女子大学教授(植物学教室、理学部学部長)。1964年より帝塚山大学教授(教養学部学部長、学長代理)。
藤井 兼誼(ふじい かねよし、1897年(明治30年)6月1… 藤井 兼誼(ふじい かねよし、1897年(明治30年)6月15日 - 1986年(昭和61年)10月30日)は、日本の政治家、華族。貴族院子爵議員。 京都市で子爵・藤井行徳の二男として生まれる。父の隠居に伴い、1930年(昭和5年)10月15日、子爵を襲爵した。 1926年(大正15年)京都帝国大学文学部を卒業。同年、私立京都薬学専門学校教授に就任。1937年(昭和12年)殿掌となり、大喪使祭官を務めた。 1942年(昭和17年)3月31日、補欠選挙で貴族院子爵議員に選出され、研究会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
森村 酉三(もりむら とりぞう、1897年〈明治30年〉6月… 森村 酉三(もりむら とりぞう、1897年〈明治30年〉6月12日 - 1949年〈昭和24年〉7月9日)は、日本の鋳金工芸家、彫刻家。高崎白衣大観音像の原型制作者として知られる。群馬県出身。 1897年(明治30年)、群馬県佐波郡宮郷村上連取(現・伊勢崎市連取町)に、森村連太の三男として生まれる。酉三の名は酉年生まれであることにちなむ。森村家は江戸時代には旗本・駒井氏の地方代官を勤めた旧家で、兄・鍋太は佐波郡会議員や宮郷村長を務め、分家の堯太(父の又従兄弟)は群馬県会議員を務めた。酉三の生家は「旧森村家住宅」として伊勢崎市指定重要文化財となっている。 酉三は幼い頃から絵画や粘土細工を得意としていたという。
潮 みどり(うしお みどり、1897年6月12日 - 192… 潮 みどり(うしお みどり、1897年6月12日 - 1927年10月13日)は日本の歌人。本名は長谷川桐子。旧姓は太田。姉の若山喜志子も歌人。 長野県東筑摩郡広丘村(現塩尻市)生まれ。大正4年(1915年)三浦半島に療養中の姉・喜志子を見舞い、翌年まで滞在した。大正4年から歌作を始め、義兄の若山牧水に師事し、詩歌雑誌「創作」に作品を発表する。同7年(1918年)に上京し、翌年、喜志子・牧水夫妻の仲人により、牧水の弟子である長谷川銀作と結婚したが、同10年(1921年)ころから結核に罹患し、療養を続けながらも創作を続けたが、31歳で夭逝した。遺歌集に「潮みどり歌集」が刊行された。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
新海 竹蔵(しんかい たけぞう、1897年(明治30年)6月… 新海 竹蔵(しんかい たけぞう、1897年(明治30年)6月12日 - 1968年(昭和43年)6月13日)は、日本の彫刻家である。 新海竹太郎の甥として山形県山形市に生まれる。家系は仏師であり、竹蔵の曾祖父母は同業に従事していた。1912年(大正元年)に上京し、その後は伯父の竹次郎から塑像を学び、1915年(大正4年)に自身の作品が第9回文展に初入選される。後には多くの作品が文展および帝展に出品され、1924年(大正13年)には自身の作品が再興された院展にも出品された。これによって翌1925年(大正14年)には日本美術院の院友となり、1927年(昭和2年)には日本美術院の同人に推薦され院展彫塑部に所属する。
小岩井 浄(こいわい きよし、1897年〈明治30年〉6月9… 小岩井 浄(こいわい きよし、1897年〈明治30年〉6月9日 ‐ 1959年〈昭和34年〉2月19日)は、日本の社会運動家、教育者、弁護士、政治家。愛知大学第3代学長。 長野県東筑摩郡島立村(現在の松本市)に小岩井宗十の長男として生まれる。父・宗十は松本での分県移庁運動で検挙(のちに無罪)された経験のある社会運動家で、1902年に妻子を残して単身渡米し、カリフォルニアで農園経営者として成功したとも、消息を絶ったとも伝えられる。 1911年、旧制長野県立松本中学校(現在の長野県松本深志高等学校)に入学。1915年、同校を本荘太一郎校長との衝突を理由に中退。その後旧制諏訪中学校(現在の長野県諏訪清陵高等学校)に入学する[要出典]。
松本 俊一(まつもと しゅんいち、1897年〈明治30年〉6… 松本 俊一(まつもと しゅんいち、1897年〈明治30年〉6月7日–1987年〈昭和62年〉1月25日)は、昭和期の外交官・政治家。 台湾台北で、実業家・松本勝太郎の長男として生まれ、広島県呉市広育ち。広島県立呉中学校(呉三津田高校)、一高を経て経て、1921年(大正10年)東京帝国法学部卒業し外務省入省。 在ベルギー外交官補、アントワープ領事官補、条約局、在フランス大使館を経て、条約局第二課長、条約局第一課長、人事課長、在中華民国大使館参事官、文化事業部長、条約局長を歴任。 1942年(昭和17年)、重光葵外務大臣下で外務次官。フランス領インドシナ特派大使を経て1945年に東郷茂徳外務大臣下で再び外務次官となり内閣書記官長の迫水久常らと終戦処理にあたった。
中川 留雄(なかがわ とめお、1897年(明治30年)6月7… 中川 留雄(なかがわ とめお、1897年(明治30年)6月7日 - 1956年(昭和31年)12月19日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。旧姓は松永。 1897年(明治30年)に広島県で生まれた。陸軍士官学校第31期、陸軍大学校第39期、東京帝国大学政治学科卒業。1938年(昭和13年)7月に陸軍省人事局補任課高級課員に就任し、1939年(昭和14年)8月1日に陸軍歩兵大佐進級と同時に教育総監部庶務課長に着任し、12月1日には参謀本部庶務課長に転じた。1940年(昭和15年)5月に広島陸軍幼年学校長に就任し、1941年(昭和16年)4月に企画院調査官、1942年(昭和17年)1月に陸軍予科士官学校幹事を歴任した。
早川 種三(はやかわ たねぞう、1897年(明治30年)6月… 早川 種三(はやかわ たねぞう、1897年(明治30年)6月6日 - 1991年(平成3年)11月10日)は、日本の実業家。戦後数々の大型倒産において管財人として企業再建に取り組み、「会社再建の神様」と呼ばれている。 宮城県宮城郡七郷村南小泉(現仙台市)に早川智寛・長子夫妻の子として生まれる。父智寛は土建業で財を成したが、すでに第一線を退き、仙台商業会議所会頭や米穀取引所理事長などの名誉職にあった。後に仙台市長にも就任した。 慶應義塾大学在学中は茶屋遊びをはじめとする放蕩生活で遺産を蕩尽した。慶大を5回落第し、卒業するのに10年もかかった。20歳の時に父が財産分けしてくれた30万円(今だと2、3億円になる)を10年間にほぼ使い果たした。
島津 保次郎(しまづ やすじろう、1897年〈明治30年〉6… 島津 保次郎(しまづ やすじろう、1897年〈明治30年〉6月3日 - 1945年〈昭和20年〉9月18日)は、大正・昭和期の映画監督。松竹蒲田撮影所で蒲田調と呼ばれる小市民映画を多数製作し、松竹の代表的監督となった。 東京市日本橋区(現・東京都中央区日本橋)三越日本橋本店の真正面に老舗の海苔商「甲州屋」を営む父・音次郎の次男として生まれる。 正則英語学校(現・正則学園高等学校)に入学するが、幼いころから極度の映画好きであった島津は学校をさぼって近くにあった映画館・錦輝館へ行って映画を見ていた。当時から映画監督への道を志しており、逓信省の宣伝映画のシナリオ公募に入選した経験もある。卒業後、実家の手伝いで、福島で下駄用桐材の切り出しに携わる。
中田 邦造(なかた くにぞう、1897年6月1日 - 195… 中田 邦造(なかた くにぞう、1897年6月1日 - 1956年11月15日)は、昭和期の司書。石川県立図書館や東京都立日比谷図書館の館長を歴任し、近代日本の図書館発展に大きな影響を与えた。号は自邦居士あるいは空人生。 滋賀県甲賀郡柏木村(後水口町を経て、現在は甲賀市)宇田の出身。事情により学業が思うように任せず、膳所中学校を卒業したのは20歳になってからで、以後第八高等学校 を経て、1920年に京都帝国大学哲学科に入り、西田幾多郎の門下となる。また、高校時代より飯田攩隠と親交を持ち、彼の元で度々座禅を組んだという。その後、大学院に進んだが、1923年に一年志願兵に志願したのを機に中退、除隊後は28歳で石川県主事となった。
長船 克巳(おさふね かつみ、1897年(明治30年)6月 … 長船 克巳(おさふね かつみ、1897年(明治30年)6月 - 1974年(昭和49年))は、日本の内務・警察官僚。官選県知事。「克己」と表記される場合がある。 岡山県邑久郡行幸村長船(現在の瀬戸内市)出身。長船春太郎の長男として生まれる。第六高等学校(現・岡山大学)を卒業。1921年11月、高等試験行政科試験に合格。1922年、東京帝国大学法学部(現・東京大学)政治学科を卒業。内務省に入省し北海道庁属となる。 以後、北海道庁理事官(商工課長兼工場課長)、石川県庶務課長、兵庫県農務課長、鹿児島県学務部長、長野県学務部長、和歌山県書記官・警察部長、熊本県書記官・警察部長、愛媛県総務部長、静岡県書記官・総務部長などを歴任。
徳川 宗敬(とくがわ むねよし、旧字体:德川 宗敬、1897… 徳川 宗敬(とくがわ むねよし、旧字体:德川 宗敬、1897年(明治30年)5月31日 - 1989年(平成元年)5月1日)は、日本の林学者、陸軍軍人、政治家、教育者、神職。階級は陸軍少尉。位階は従三位。勲等は勲一等。爵位は伯爵。最終学歴は東京帝国大学農学部林学科卒業。学位は農学博士(東京帝国大学)。
森村 勇(もりむら いさむ、1897年5月30日 - 19… 森村 勇(もりむら いさむ、1897年5月30日 - 1980年3月23日)は、日本の実業家。日本特殊陶業社長や、全日本空輸社長、日本航空常務取締役、日本陶器取締役、東洋陶器取締役、日本碍子取締役などを歴任した。 1918年高千穂高等商業学校(現高千穂大学)卒業。1936年日本特殊陶業取締役。1944年日本特殊陶業取締役社長。1950年大日本製糖監査役。1951年日本特殊陶業取締役会長。1953年日本航空常務取締役。1955年日本航空監査役、日本特殊陶業取締役社長。1961年日本陶器取締役、東洋陶器取締役、日本碍子取締役、日本特殊陶業取締役会長。1962年全日本空輸取締役、日東石膏取締役。1963年東洋サーモコントロール監査役。
田中 誠二(たなか せいじ、1897年5月30日 - 199… 田中 誠二(たなか せいじ、1897年5月30日 - 1994年12月23日)は、日本の法学者。専門は商法。学位は、法学博士(東京帝国大学・論文博士・1939年)。一橋大学名誉教授。初代一橋大学法学部学部長を歴任。1981年12月12日より日本学士院会員。授勲勲二等瑞宝章。 指導学生等に堀口亘(一橋大学名誉教授)、好美清光(一橋大学名誉教授)、吉永榮助(一橋大学名誉教授)、加美和照(中央大学名誉教授)などがいる。 田中ゼミ出身者に堀口亘(一橋大学名誉教授)、好美清光(一橋大学名誉教授)、並木俊守(元日本大学教授、人気弁護士)、加美和照(中央大学名誉教授)、原茂太一(元青山学院大学教授)、佐藤節子(元青山学院大学教授)、柿沼幸一郎(元公正取引委員会委員)、岡村勲(元日本弁護士連合会副会長)、倉島研二(元法務省法務総合研究所教官)など。
黒田 茂子(くろだ しげこ、1897年〈明治30年〉5月29… 黒田 茂子(くろだ しげこ、1897年〈明治30年〉5月29日 - 1991年〈平成3年〉6月26日)は、日本の元皇族。黒田長礼侯爵夫人。閑院宮載仁親王の第2女子。母は、三条実美公爵令嬢・智恵子。旧名は、茂子女王(しげこじょおう)。皇籍離脱前の身位は女王で、皇室典範における敬称は殿下。 1897年(明治30年)5月29日、閑院宮載仁親王と同妃智恵子の第2女子(第3子)として誕生。1914年(大正3年)1月21日、黒田長礼(黑田長禮、黒田長成侯爵の嫡男)に降嫁した。1978年(昭和53年)4月16日に夫・長礼が没した後、茂子は「黒田家什宝は美術工芸品であっても、郷土福岡との関連において役立てるべき歴史的文化財である」ため、それらを故郷に帰すという亡夫の遺志を継ぎ、同年9月19日に国宝・漢委奴国王印をはじめ黒田家に伝来した文化財や歴史資料を『黒田資料』として一括して福岡市へ寄贈した。
由布 喜久雄(ゆふ きくお、1897年〈明治30年〉5月29… 由布 喜久雄(ゆふ きくお、1897年〈明治30年〉5月29日 - 1973年〈昭和48年〉2月6日)は、大日本帝国海軍軍人。最終階級は海軍法務少将。海軍省廃止時の海軍省法務局長。旧姓、岡村。 熊本県立玉名中学校(現・熊本県立玉名高等学校・附属中学校)、旧制第五高等学校、東京帝国大学法学部を卒業し、1922年に海軍法務官に任官する。海軍兵学校教官、海軍省法務局局員、東京高等軍法会議法務官、海軍司法事務官、大本営報道部附、海軍大学校教官などを歴任した。 1943年に連合艦隊法務長に就任した。1945年に海軍法務少将に昇進した。戦後は海軍省(のち、改組により第二復員省)法務局長となる。 第二復員省退官後は公職追放を経て、郷里である福岡県柳川市で弁護士業を営んだ。
周 仏海(しゅう ふつかい、1897年5月29日〈光緒23年… 周 仏海(しゅう ふつかい、1897年5月29日〈光緒23年4月28日〉 - 1948年〈民国37年〉2月28日)は、中華民国の財政家・政治家。本名周 福海。汪兆銘政権の有力者。 湖南省生まれ。日本に留学し第七高等学校造士館 (旧制)・京都帝国大学に学ぶ。この頃から共産主義に触れるようになり中国共産党とも接触を持つ。1921年に開催された中共一大会議には日本への留学生を代表する形で参加した。しかし、1924年に帰国すると中国国民党宣伝部秘書になり、共産党と関係を絶つ。 その後、北伐に参加し一時汪兆銘の武漢国民政府に参画するが、その後は戴季陶の庇護を受け、蔣介石の下で三民主義のイデオローグとして活躍、国民党中央執行委員・党中央宣伝部副部長などを歴任。
西 酉乙(にし とりおと、1897年(明治30年)5月27日… 西 酉乙(にし とりおと、1897年(明治30年)5月27日 - 1989年(平成元年)10月8日)は、大正から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。旧姓・赤松。 海軍士官・赤松則良の七男として生まれ、1899年(明治32年)に海軍士官・西紳六郎の養子となる。養父の死去に伴い、1933年(昭和8年)11月15日、男爵を襲爵した。 1922年(大正11年)3月、京都帝国大学経済学部を卒業。同年、第一銀行に入行し書記に就任。その後、南洋拓殖参事、南洋バルブ取締役、太洋真珠監査役、南洋水産監査役などを務めた。 1939年(昭和14年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され、公正会に所属して1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで1期在任した。
鍋島 紀雄(なべしま ただお、1897年5月26日 - 19… 鍋島 紀雄(なべしま ただお、1897年5月26日 - 1968年2月19日)は、日本画家。 大阪市北区福島番外413番地に生まれる。父熊太郎(1865年(慶応元年)生まれ)、母ミチ(旧姓牧、1876年(明治9年)生まれ)の長男。鍋島熊太郎は旧佐賀蓮池藩連枝。 1915年(大正4年)東北学院中等部卒業。4月、東京美術学校日本画科に入学。4月から7月まで予備科、8月から本科に進む。川合玉堂、結城素明、松岡映丘の指導を受ける。 1921年(大正10年)東京美術学校(現:東京芸術大学)卒業。卒業制作は、東京芸術大学収蔵品として保管されているが、一般公開はされていない。[要出典] 恩師・川合玉堂の言葉「塵汚の渦中に巻込まれる勿れ、一意我が道に精進せよ」を受けて中央画壇に背を向け、大阪南部の羽曳野市に住み、人知れず「己が魂」を描き続けた。
瀧川 政次郎(たきかわ まさじろう、1897年5月26日 -… 瀧川 政次郎(たきかわ まさじろう、1897年5月26日 - 1992年1月29日)は、日本の法学者。専門は法制史。大阪府大阪市西区出身。法律学の立場から法制史の体系化に尽力する。学位は法学博士。國學院大學名誉教授。
今西 洋(いまにし ひろし、1897年5月25日 - 195… 今西 洋(いまにし ひろし、1897年5月25日 - 1957年1月9日)は日本の陶芸家。国画会会員。本名:今西末太郎 1897年、奈良県丹波市町(現在の天理市)の茶貿易商今西安太郎の次男として生まれる。 1915年、奈良県立旧制郡山中学(現在の郡山高校)を卒業。在学中より親交のあった大和・安堵村の富本憲吉のもとで教えを受け作陶をはじめる。 その後、長崎県波佐見中尾山に仕事場を構え、九州伊万里ほか全国地名の窯場を遍歴し古陶磁器文様の研究を行い、更に、朝鮮・満州・中国各地の窯場を視察し、独自の作風を打ち立てる。特に古窯からの「くらはんか」系の破片研究に努め、柳宗悦に”今の所今西君ほど實物を澤山見てゐる人は他にないと思ふ。
梁井 淳二(やない じゅんじ、1897年(明治30年)5月2… 梁井 淳二(やない じゅんじ、1897年(明治30年)5月25日 - 1988年(昭和63年)1月20日)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚。台北州知事。衆議院議員。 梁井幾太郎の二男として佐賀県三養基郡基山村大字長野(現・基山町大字長野)に生まれる。旧制佐賀中学校、第一高等学校を経て、1920年(大正9年)10月、高等試験に合格し、1921年(大正10年)4月に東京帝国大学法学部政治学科を卒業する。 卒業後、内務省に出仕し土木局属となり、熊本県葦北郡長、新潟県警察部保安課長、同県内務部商工課長、広島県内務部農務課長、徳島県学務部長、大分県警察部長、滋賀県警察部長、長崎県経済部長、拓務局総務課長を経て、1939年(昭和14年)11月に台湾総督府文教局長、ついで1942年(昭和17年)7月に台北州知事に就任した。
吉松 喬(よしまつ たかし、1897年(明治30年)5月25… 吉松 喬(よしまつ たかし、1897年(明治30年)5月25日 - 1987年(昭和62年)9月17日)は、大正から昭和期の鉄道官僚、政治家。参議院議員、陸軍司政長官。 福岡県出身。吉松民次郎、友子の長男として生まれる。第三高等学校を経て、1922年(大正11年)東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業し、鉄道省に入省して直方駅助役に就任。同年11月、高等試験行政科試験に合格した。 以後、大臣官房文書課勤務、大鉄運輸課旅客掛長、大阪運輸事務所長、広鉄庶務課長、運輸局配車課長、鉄道調査部第一課長、札幌鉄道局長、東京鉄道局長などを務め、1943年(昭和18年)2月、陸軍司政長官に発令された。1945年(昭和20年)に退官した。
田口 省吾(たぐち せいご、1897年5月25日 - 194… 田口 省吾(たぐち せいご、1897年5月25日 - 1943年8月14日)は、日本の画家。 田口掬汀の三男として秋田県角館町に生まれる。麻布中学校、東京美術学校洋画科卒業。在学中は藤島武二に、1923年からは石井柏亭に師事。第2回中央美術社展に「薔薇」が初入選。第10回二科展に「漁夫の娘」が入選。1929年から1932年までフランス留学。 1932年、二科会会員に推挙。 1943年8月14日、胸部疾患のため死去。46歳没。 息子は作家の高井有一。高井の『夢の碑』に、河西珊吾として登場する。 歌手の淡谷のり子の学費を捻出するなどサポートなどをしていた。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。
小野 三千麿(おの みちまろ、1897年(明治30年)5月2… 小野 三千麿(おの みちまろ、1897年(明治30年)5月22日 - 1956年(昭和31年)2月2日)は、日本の野球選手(投手)、新聞記者。都市対抗野球大会の「小野賞」にその名を残している。谷口五郎、湯浅禎夫とともに「大正三大投手」の一人に挙げられる。 神奈川県出身。神奈川師範学校(のちの横浜国立大学)から慶應義塾大学に進み、その後慶大OBを中心としたクラブチームである「三田倶楽部」に所属。「至妙なコントロールを持つ剛球と、懸河の如きドロップ」と評された投球でエースとなる。 1919年(大正8年)秋の四大学リーグの慶法1回戦(10月15日)と慶明2回戦(10月18日)で2試合連続ノーヒットノーランの偉業を達成した。
藤山 愛一郎(ふじやま あいいちろう、1897年〈明治30年… 藤山 愛一郎(ふじやま あいいちろう、1897年〈明治30年〉5月22日 - 1985年〈昭和60年〉2月22日)は、日本の政治家、実業家。 外務大臣、経済企画庁長官、衆議院議員(6期)、日本商工会議所会頭、経済同友会代表幹事、初代日本航空会長、自民党総務会長などを歴任した。 藤山コンツェルン二代目。位階は従二位。勲等は勲一等。 東京王子に王子製紙専務取締役藤山雷太(佐賀県士族)の長男として生まれる。慶應幼稚舎時代、当時の官公立崇拝の強い風潮の中、父が福澤諭吉門下直系であるにも拘わらず第一高等学校(現東京大学教養学部)合格者数第一位を誇った府立一中(現東京都立日比谷高等学校)を受験するも失敗、慶應義塾普通部に進学した。
高橋 長治(たかはし ちょうじ、1897年(明治30年)5月… 高橋 長治(たかはし ちょうじ、1897年(明治30年)5月21日 - 1981年(昭和56年)12月11日)は、日本の政治家。衆議院議員、神奈川県会議長。 神奈川県、現在の横浜市南区で生まれる。1918年(大正9年)慶應義塾大学部理財科を卒業した。 1928年(昭和3年)神奈川県会議員に選出され(5期在任)、さらに、同議長(2期)、同行政監査委員長、同公安委員会長、同観光審議会副会長、横浜市観光協会(現横浜観光コンベンション・ビューロー)副会長などを務めた。 1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙に神奈川県第1区から民主党公認で立候補して当選。第25回総選挙では改進党から立候補して当選し、衆議院議員を通算2期務めた。
中川 清(なかがわ きよし、1897年(明治30年)5月21… 中川 清(なかがわ きよし、1897年(明治30年)5月21日 - 1977年(昭和52年)3月11日)は、大正から昭和にかけて活動した日本の彫刻家。 当時の滋賀県坂田郡西黒田村(後の長浜市)八条町に生まれる。若くして美術に才能を発揮し、1915年には17歳で二科展に洋画を出品して初入選を果たした。東京美術学校彫刻科に学んで1923年に卒業し、さらに研究科、別科に在籍して修業した。 1924年、第5回帝展に「腰かけた女」が初入選して以降、帝展への出品を続け、1927年第8回帝展で「立女」が特選となり、1937年からは文展無鑑査となった。 第二次世界大戦後は、日展に出品を続けるとともに、審査員を務め、1958年に評議員、1969年に理事となり、1973年に参与となった。
安田 桑次(やすだ くわじ、1897年(明治30年)5月21… 安田 桑次(やすだ くわじ、1897年(明治30年)5月21日 - 1968年(昭和43年)5月31日)は、大正から昭和期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、岐阜県安八郡和合村長。 岐阜県安八郡和合村大字津(現大垣市)で生まれる。1917年(大正6年)小野補修農業学校研究科を卒業。1925年(大正14年)家督を相続し、農業を営む。 和合村書記に就任。和合村会議員、同村長、岐阜県会議員、同参事会員、同副議長などを務めた。その他、大政翼賛会岐阜県支部常務委員、同安八郡協力会議長、同翼賛壮年団長、岐阜県翼賛壮年団協力委員などを務めた。 実業界では、岐阜県蛍石鉱業会長、同県鉱業会理事、岐阜県種苗社長、東海農事社長、安田商店社長、共栄百貨店社長などを務めた。
乙女川 定吉(おとめがわ さだきち、1897年5月20日 -… 乙女川 定吉(おとめがわ さだきち、1897年5月20日 - 没年不明)は、大正・昭和時代の大相撲力士。浦風部屋所属。本名は宮城 定吉。最高位は十両6枚目。 秋田県秋田市出身。浦風部屋に入門し、1914年1月、初土俵を踏む。1925年1月、「羽後錦」の四股名で十両に昇進したが、2勝4敗と負け越し、幕下に落ちた。「乙女川」に改名後の1928年1月再十両。同年5月、10月と5勝6敗に終わり、再び幕下に落ち、1929年3月に廃業した。
湯河元威(ゆかわ もとたけ、1897年5月18日 - 195… 湯河元威(ゆかわ もとたけ、1897年5月18日 - 1958年8月8日)は、日本の農商務官僚、教育者である。
森谷 秀亮(もりや ひですけ、1897年(明治30年)5月1… 森谷 秀亮(もりや ひですけ、1897年(明治30年)5月17日 - 1986年(昭和61年))は、日本の歴史学者。北海道出身。 北海道庁の官吏であった森谷秀一郎の長男として、北海道空知郡沼貝村(現・美唄市)に生まれる。札幌中学校、第一高等学校、東京帝国大学文学部国史学科を経て、1922年(大正11年)に三上参次の推薦で維新史料編纂官補となり、1929年(昭和4年)には編纂官に昇格した。1942年(昭和17年)には官制廃止により維新史料編纂官を免ぜられ、文部省嘱託として紀元二千六百年記念事業の一つであった日本文化大観の編纂に従事した。 1945年(昭和20年)に福島師範学校教授となり、1949年には福島大学教授、1950年には新潟大学人文学部教授に就任した。
辻山 治平(つじやま じへい、1897年5月16日 - 19… 辻山 治平(つじやま じへい、1897年5月16日 - 1974年7月29日)は、日本の内務官僚。官選県知事、茨城県教育委員長。 岩手県胆沢郡水沢町(現在の奥州市)出身。盛岡中学、第一高等学校を経て、1922年、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1923年、内務省に入り福岡県属となる。 以後、福岡県朝倉郡長、同県糟屋郡長、同県社寺兵事課長、栃木県書記官・経済部長、山形県書記官・警察部長、新潟県書記官・警察部長、神奈川書記官・警察部長などを歴任。 1941年5月、徳島県知事に就任。1942年10月、茨城県知事に転じた。1943年7月、茨城県知事を退任。
山田 文雄(やまだ ふみお、1897年5月14日 - 197… 山田 文雄(やまだ ふみお、1897年5月14日 - 1978年8月16日)は、昭和期の経済学者。東京帝国大学経済学部教授、愛知大学第7代学長。 1897年、東京生まれ。海軍兵学校、第一高等学校を経て、東京帝国大学経済学部を卒業。大学院に進み河合栄治郎に師事した。卒業後は京城帝国大学予科講師となり、同大学法文学部助教授を経て、1930年東京帝国大学経済学部助教授となった。1931年に教授に昇進し、工業政策を担当した。しかし、1939年に平賀粛学により河合栄治郎に殉じて木村健康助手とともに辞職。同年、鶴見祐輔の運営する太平洋協会に入り調査部長となる。 戦後は1947年東京都副知事を経て、1950年より愛知大学法経学部教授となった。
小金山 幸一郎(こがねやま こういちろう、1897年5月14… 小金山 幸一郎(こがねやま こういちろう、1897年5月14日 - 没年不明)は、大正・昭和時代の大相撲力士。出羽海部屋所属。本名は山中 幸一郎。最高位は十両8枚目。 栃木県栃木市出身。出羽ノ海部屋に入門し、1918年1月初土俵を踏む。1923年1月十両に昇進。2場所で幕下に落ちる。1925年1月再十両となるも2勝4敗と負け越し、幕下に落ちた。1927年1月、十両に復帰してから6場所連続十両の地位にあった。1931年10月に廃業した。
石黒 武重(いしぐろ たけしげ、1897年〈明治30年〉5月… 石黒 武重(いしぐろ たけしげ、1897年〈明治30年〉5月13日 - 1995年〈平成7年〉1月23日)は、日本の官僚、政治家。山形県知事、法制局長官、民主党初代幹事長などを務めた。 石川県金沢市出身。東京府立四中、第一高等学校、東京帝国大学法律学科卒業。山形県知事、農林次官、枢密院書記官長などを歴任。幣原内閣において、法制局長官(専任)、国務大臣兼法制局長官を務めた。1946年(昭和21年)4月、第22回衆議院議員総選挙に山形県全県区から出馬し初当選。日本進歩党政務調査会長、民主党初代幹事長に就任し、戦後の混乱期の収拾に尽力した。また、日本生活協同組合連合会会長理事、日本生活協同組合名誉顧問、日ソ協会会長などの要職も歴任した。
相田 二郎(あいだ にろう、1897年(明治30年)5月12… 相田 二郎(あいだ にろう、1897年(明治30年)5月12日 - 1945年(昭和20年)6月22日)は、日本の歴史学者。東京帝国大学史料編纂官。専門は日本中世史、日本古文書学で、生涯にわたって古文書学の研究・教育につとめた。 神奈川県足柄下郡早川村(現在の神奈川県小田原市)に生まれる。神奈川県立小田原中学校、第四高等学校を経て、1923年、卒業論文「土地沽却上の支拂品より見たる銭貨の流通状態 王朝時代鎌倉時代」をまとめ、東京帝国大学文学部国史学科を卒業。同大大学院進学とともに、同大学文学部史料編纂掛嘱託となる。1927年に史料編纂官補(同年、有栖川宮奨学金を受ける)、1930年から、東京帝国大学文学部講師として古文書学を講義、1933年に史料編纂官となった。
山口 喜久一郎(やまぐち きくいちろう、1897年 <明治3… 山口 喜久一郎(やまぐち きくいちろう、1897年 <明治30年> 5月11日 - 1981年 <昭和56年> 5月6日)は日本の政治家、第52代衆議院議長(在任期間・1965年12月20日 - 1966年12月3日)。長崎県佐世保市出身(選挙区は和歌山県)。栄典は勲一等旭日大綬章、正三位、佐世保市名誉市民。 1915年旧制鹿島中学(現佐賀県立鹿島高等学校)卒業。1920年早稲田大学専門部中退。株式ブローカー、岡崎邦輔秘書を経て、1930年和歌山県会議員に当選。1937年の第20回衆議院議員総選挙に当時の旧和歌山1区から立憲政友会公認で立候補するが落選。同年より県会議長を2期務めた後、1942年の第21回衆議院議員総選挙(翼賛選挙)に前回と同じく旧和歌山1区から非推薦で立候補し衆議院議員に初当選。
柴山 博(しばやま ひろし、1897年(明治30年)5月9日… 柴山 博(しばやま ひろし、1897年(明治30年)5月9日 - 1991年(平成3年)12月29日)は、日本の鉄道・内務官僚、弁護士。官選鹿児島県知事。 愛知県出身。柴山重幸の長男として生まれる。第八高等学校を卒業。1920年10月、高等試験行政科試験に合格。1921年、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。鉄道省に入り鉄道局副参事となる。1924年、内務省に転じ復興局勤務となる。 以後、宮崎県事務官、埼玉県事務官、新潟県書記官・学務部長、茨城県書記官・経済部長、徳島県書記官・警察部長、山梨県書記官・総務部長、神奈川県書記官・総務部長、内務省勅任監査官などを歴任。 1943年4月、鹿児島県知事に就任。
宮北 敏夫(みやきた としお、1897年5月7日 - 198… 宮北 敏夫(みやきた としお、1897年5月7日 - 1982年12月10日)は、日本の土木工学・衛生工学者。大阪工業大学第3代学長・名誉教授、摂南大学初代学長。工学博士(京都大学)。土木学会関西地区元評議員。大阪市水道部元技術課長。 専門は、土木工学・衛生工学・都市工学(特に上下水道工学)、水理学・環境科学。位階は正五位。 兵庫県出身。1921年京都帝国大学理工科大学土木工学科第三講座卒業。大阪市の技手として水道局に勤務し、1938年大阪市水道部技術課長。1946年に退職して摂南工業専門学校講師となり、1948年より大阪大学工学部講師を兼任、1949年大阪工業大学工学部土木工学科教授。1958年工学博士(京都大学)。