小川 莚喜(おがわ のぶき、1895年(明治28年)11月1… 小川 莚喜(おがわ のぶき、1895年(明治28年)11月12日 - 1944年(昭和19年)2月24日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍少将。 1895年(明治28年)、高知県高岡郡高石村用石(現土佐市)で生まれた。1915年(大正4年)高知県立第一中学校(現:高知県立高知追手前高等学校)を卒業後、1918年(大正7年)11月、海軍兵学校(46期)を卒業。 海軍水雷学校高等科を経て、駆逐艦「灘風」、重巡洋艦「高雄」「五十鈴」「衣笠」、戦艦「霧島」などの水雷長兼務分隊長、駆逐艦「水無月」「夕霧」「白雪」「白雲」などの艦長、巡洋艦「天龍」「筑摩」の副長、第5駆逐隊司令などを歴任。 太平洋戦争開戦当時は、第12駆逐隊司令としてマレー上陸作戦、ジャワ島上陸作戦、ジャカルタ沖海戦などに参加。
中村 四郎(なかむら しろう、1895年(明治28年)11月… 中村 四郎(なかむら しろう、1895年(明治28年)11月12日 - 1989年(平成元年)2月3日)は、日本の内務・警察官僚。官選徳島県知事。 鹿児島県肝属郡新城村(現在の垂水市)新城で、中村思無邪の四男として生まれた。鹿児島県立第一鹿児島中学校を経て、1918年7月、第七高等学校造士館第一部甲類(英法)を卒業。1920年10月、文官高等試験行政科試験に合格。1921年4月、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。同年8月、内務省に入省し三重県属、内務部地方課勤務となる。同年12月、休職し一年志願兵として歩兵第23連隊に入隊。1922年11月に満期除隊。 1923年4月、三重県内務部学務課兼社寺兵事課兼農商課勤務となる。
本多 市郎(ほんだ いちろう、1895年(明治28年)11月… 本多 市郎(ほんだ いちろう、1895年(明治28年)11月11日 - 1959年(昭和34年)4月5日)は、日本の政治家。衆議院議員、参議院議員、行政管理庁長官(第4・10代)、地方自治庁長官(第2代)、自治庁長官(第2代)。位階は正三位、勲等は勲二等。 長崎県南高来郡南有馬町(現南島原市)に、農業・本多福四郎の長男として生まれる。長じて上京し、両国税務署員として働きながら、1925年中央大学法科を卒業する。上京時の下宿先では小澤佐重喜と起居を共にしていた。 関東大震災が起きると、復興局に勤務する傍ら、深川区(現在の江東区北西部)の自宅に法律無料相談所を開いて罹災者の相談に乗り、地元住民の信望を集めていった。
柳井 恒夫(やない ひさお、1895年(明治28年)11月6… 柳井 恒夫(やない ひさお、1895年(明治28年)11月6日 - 1981年(昭和56年)7月21日)は、大正・昭和期の外交官、弁護士。 東京 で医師・柳井貴三の二男として生まれる。1913年に東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)卒業、第一高等学校を経て、1919年7月、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業した。 1919年7月、外務省に入省し外務属として電信課に配属された。同年10月、高等試験外交科試験に合格。以後、シャム、フランス、ベルギー、ブラジル、外務省アジア局第一課などで勤務した。1931年1月、領事に任じられ奉天在勤となり満州事変に遭遇した。以後、アジア局第三課長、東亜局第三課長、兼東亜局第二課長、ドイツ大使館一等書記官、同参事官、ジュネーヴ総領事兼国際会議帝国事務局次長、興亜院経済部長などを歴任。
江辺 清夫(えべ きよお、1895年(明治28年)11月5日… 江辺 清夫(えべ きよお、1895年(明治28年)11月5日 - 1950年(昭和25年)1月11日)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事、川崎市長。 山形県南置賜郡南原村猪苗代町(現米沢市)出身。旧米沢藩士・江辺信次(小学校長、郡視学、南原村長)、いよ夫妻の長男として生まれる。1914年3月、山形県立米沢中学校を卒業。第二高等学校を経て、1920年7月、東京帝国大学法学部法律学科を卒業。同年10月、高等試験行政科試験に合格し逓信省に入省。1921年、内務省に転じ山梨県属・地方課兼学兵課勤務となる。 以後、山梨県西山梨郡長、山梨県警視・警察部警務課長兼巡査教習所長、同保安課長、山口県地方事務官・産業課長、同商工水産課長、同学務課長、富山県書記官・学務部長、山形県書記官・警察部長、三重県書記官・警察部長、熊本県書記官・警察部長、神奈川県経済部長などを経て、1939年4月、兵庫県総務部長に就任。
清水 逸平(しみず いっぺい / いつへい、1895年(明治… 清水 逸平(しみず いっぺい / いつへい、1895年(明治28年)11月5日 - 1983年(昭和58年)2月16日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、狭山市名誉市民。入間川ゴム創業者。 1895年(明治28年)、長野県小県郡上田町(現:上田市)で生まれた。日本大学専門部法律科で学んだ。 東北銀行倉庫部支配人、大和ゴム製作所第二工場長、日本工業工場長、入間川ゴム取締役社長、新潟ゴム取締役社長、同会長、扶桑商事取締役会長、日本東部ゴム工業組合理事、日本ゴム工業組合連合会医療用品部長、東京鑑識化学研究所顧問、全国商工会連合会副会長などを務めた。 1949年(昭和24年)1月、第24回衆議院議員総選挙で埼玉県第二区に民主自由党所属で出馬して当選。
菊池 武範(きくち たけのり、1895年11月5日 - 19… 菊池 武範(きくち たけのり、1895年11月5日 - 1975年5月14日)は、日本の実業家。タイガー魔法瓶創業者。同社会長を務める菊池嘉人は長男、同社長を務める菊池嘉聡は孫に当たる。 愛媛県西宇和郡三島村皆江(のちに三瓶町、現・西予市)に生まれる。生家は皆江で村長を務めた庄屋であった。12歳の時に父が事業に失敗、さらに脳内出血で病臥するに至り、小学校高等科を中退することを余儀なくされた。 その後、従姉妹の夫が経営するメリヤス製造所(大阪市西区)の店員見習いとなり、この時期に簿記学校に通学した。また、大阪に出て間もない1910年、伊藤喜商店が輸入した魔法瓶を船場で目撃し、以来その商品としての可能性に着目した。
畠山 重勇(はたけやま じゅうゆう、1895年(明治28年)… 畠山 重勇(はたけやま じゅうゆう、1895年(明治28年)11月3日 - 1978年(昭和53年)10月8日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、秋田県北秋田郡比内町長、同町名誉町民。位階は従五位。 秋田県南秋田郡扇田村(扇田町、比内町を経て現大館市比内町扇田)で生まれる。1914年(大正3年)秋田県立大館中学校(現秋田県立大館鳳鳴高等学校)を卒業。 大葛産業取締役社長、同会長、北秋田郡木炭同業組合長、炭谷鉱山経営、扇田通運取締役社長、秋田県木炭取締役、北秋通運取締役、秋田県木材取締役、秋田県燃料商業組合理事長、東北木材興業専務取締役、同社長などを務めた。 政界では、扇田町会議員を務め、1939年(昭和14年)から1949年(昭和24年)まで秋田県議会(県会)議員に3期在任し、同参事会員も務めた。
大森 尚則(おおもり しょうそく、1895年11月3日 - … 大森 尚則(おおもり しょうそく、1895年11月3日 - 1973年2月17日)は、日本の経営者。川崎製鉄会長を務めた。二女の夫は三菱レイヨン社長を務めた永井弥太郎。 岡山県岡山市出身。1920年に京都帝国大学法学部法律学科を卒業し、同年に第一銀行に入行。1947年に取締役を経て、翌年には常務に就任した。 1953年に川崎製鉄会長に就任。当時川崎製鉄は千葉製鉄所の建設中だったが、当時の日本銀行総裁・一万田尚登がこの方針に懐疑的で、メインバンクの第一銀行に対し人員の派遣を含むバックアップ体制の確立を求めていたため、第一銀行が大森を会長に送り込んだ背景がある(この際大森は岡田貢助を伴うことを求めたため、岡田も同社財務部長として出向した)。
久 琢磨(ひさ たくま、1895年11月3日 - 1980年… 久 琢磨(ひさ たくま、1895年11月3日 - 1980年10月31日)は、日本の武道家。大東流合気柔術の継承者である。 1895年、高知県安芸郡佐喜浜村(現・室戸市)出身。大阪の成器商業学校(現在の大阪学芸高等学校・附属中学校)を卒業後、神戸高等商業学校に入学(第13回生)。神戸高商では相撲部のキャプテンを務め、関西学生相撲大会で優勝するなどした。 1919年(大正8年)に神戸高商を卒業し、鈴木商店に入社。鈴木商店と深い関係がある高知商業学校(現在の高知商業高等学校)の校友となり、職務の間に同校をたびたび訪れて相撲部のコーチを務めた。鈴木商店内には「高商派」(神戸高商出身者)と「土佐派」(高知県出身者、とくに高知商業出身者)の派閥があり、久はその双方に属し得る立場であったが、金子直吉の側近を自負した久は土佐派の中核となって行動し、台湾銀行からの金子退陣要求に対して強い抵抗を示した。
中尾 幸雄(なかお さちお、1895年11月3日 - 199… 中尾 幸雄(なかお さちお、1895年11月3日 - 1998年10月4日)は、日本の経営者。ゼネラル石油社長を務めた。愛媛県南宇和郡愛南町出身。 1920年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に三井物産に入社。1947年7月にゼネラル物産(のちのゼネラル石油)に転じ、1948年4月に取締役に就任し、1953年4月に副社長を経て、同年11月から1967年11月までに社長を務めた。1961年5月から1963年5月までに石油連盟会長を務めた。 1961年に藍綬褒章を受章し、1965年に勲三等瑞宝章を受章した。 1998年10月4日心不全のために死去。102歳没。
守屋 精爾(もりや せいじ、1895年(明治28年)11月2… 守屋 精爾(もりや せいじ、1895年(明治28年)11月2日 - 1943年(昭和18年)5月20日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。旧姓・梶田。 岡山県出身。梶田寿平の五男として生まれ、守屋弁之助の養子となる。岡山第一中学校(現岡山県立岡山朝日高等学校)、広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1917年(大正6年)5月、陸軍士官学校(29期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し野砲兵第11連隊付となる。1920年(大正9年)11月、陸軍砲工学校高等科(26期)を卒業。陸士生徒隊付、山砲兵第11連隊付などを経て、1929年(昭和4年)11月、陸軍大学校(41期)を卒業した。 1931年(昭和6年)3月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員を務め、1932年(昭和7年)8月、砲兵少佐に進級。
中松 澗之助(なかまつ かんのすけ、1895年(明治28年)… 中松 澗之助(なかまつ かんのすけ、1895年(明治28年)11月1日 - 1973年(昭和48年)3月20日)は、日本の弁護士、弁理士。日本弁護士連合会会長、日本弁理士会会長、国際工業所有権保護協会日本部会(現日本国際知的財産保護協会)会長。 1895年(明治28年)11月出生。中松盛雄の長男。1921年(大正10年)3月、京都帝国大学法学部英法科を卒業し東京帝国大学大学院に入り産業法を専攻。弁護士・弁理士資格を取得し、1946年(昭和21年)には、父・盛雄が開設した中松特許法律事務所の代表となる。 1963年(昭和38年)に、国際工業所有権保護協会日本部会の第2代会長に就任。日本国際知的財産保護協会では、その功績を記念して1996年(平成8年)にAIPPI中松記念スカラーシップ(中松澗之助スカラーシップ)を設けている。
池田 遙邨(いけだ ようそん、1895年(明治28年)11月… 池田 遙邨(いけだ ようそん、1895年(明治28年)11月1日 - 1988年(昭和63年)9月26日)は、倉敷市出身の日本画家。本名は池田 昇一。長男は同じく画家の池田道夫。 岡山県浅口郡乙島村(現・倉敷市玉島乙島)に生まれる。紡績会社の技師であった父親の転勤に伴い大阪市に転居。幼少より画才があり、1910年(明治43年)大阪の松原三五郎が主宰する天彩画塾に入門し洋画を学ぶ。1914年(大正3年)第8回文展に水彩画「みなとの曇り日」が入選する。わずか18歳での入選が話題となり天才少年画家として名声を得る。 1919年(大正8年)京都市に移り竹内栖鳳の画塾・竹杖会に入門し日本画に転向する。同年に第1回帝展に「南郷の八月」が入選。
岡本 謹平(おかもと きんぺい、1895年(明治18年)11… 岡本 謹平(おかもと きんぺい、1895年(明治18年)11月1日 - 1973年(昭和48年)10月12日)は、昭和期の政治家・薬剤師。愛知県碧海郡刈谷町長(1948年~1950年)、刈谷市長(1950年~1955年)。 1895年(明治18年)11月1日、愛知県碧海郡刈谷町(現・刈谷市広小路)に生まれた。旧制千葉医学専門学校薬学科(千葉大学の前身)を卒業して薬剤師となり、大日本帝国陸軍薬剤官少尉を経て、1914年(大正3年)に刈谷町に岡本薬局を開業した。1941年(昭和16年)から1948年(昭和23年)まで区長を務めた。 1947年(昭和22年)に学制改革が行われると、碧海郡刈谷町では学校建設の資金が問題となり、1948年(昭和23年)9月には石原平一郎町長が辞任する騒動となった。
北澤 國男 (きたざわ くにお、1895年10月31日 - … 北澤 國男 (きたざわ くにお、1895年10月31日 - 没年不明) は、日本の実業家。東洋バルヴの創業者。 長野県諏訪郡上諏訪村(現諏訪市)生まれ。小学校卒業後、1916年に北沢製作所を設立、1943年に株式会社北沢工業に改組し代表取締役社長に就任。1946年諏訪商工会議所初代会頭。1970年勲三等珠宝章受勲。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
西田 正雄(にしだ まさお、1895年(明治28年)10月2… 西田 正雄(にしだ まさお、1895年(明治28年)10月26日 - 1974年(昭和49年)3月19日)は、日本の海軍軍人。海兵44期恩賜・海大26期恩賜。最終階級は海軍大佐。 1895年(明治28年)10月26日、兵庫県揖保郡神岡村東嘴崎(現たつの市神岡町)に生まれる。小学校のころより抜群の成績を誇った。旧制龍野中学校でも成績はトップであり、龍野中学校のクラスメートであった哲学者の三木清でさえも次席でついに西田を抜くことができなかった。また『陸の田中、海の西田』(田中とは、終戦時の第12方面軍司令官 兼 東部軍管区司令官であった田中静壱陸軍大将〈陸士19期恩賜・陸大28期恩賜〉)と並び評された。
郷隆(ごう たかし、1895年10月26日 - 1944年4… 郷隆(ごう たかし、1895年10月26日 - 1944年4月18日)は、日本の教育者、ボート選手。
鳥山 四男(とりやま よつお、1895年10月25日 - 1… 鳥山 四男(とりやま よつお、1895年10月25日 - 1981年12月7日)は、日本の電気工学者。武蔵工業大学名誉教授。専門は高電圧工学。 長野県東筑摩郡笹賀村(現松本市)出身。旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)を経て、東北帝国大学専門部修了後、同工学部電気工学科卒業。1922年理化学研究所助手、1924年文部省在外研究員となり、アーヘン工科大学に留学。1926年北海道帝国大学工学部教授。1930年工学博士(東北帝国大学)。1944年日立製作所中央研究所に転じ、1946年同所長。1951年東北大学教授となり、1958年武蔵工業大学教授、1971年退職。1979年日本学士院会員選出。 放電現象の解析分布手段として沿面放電図形法を開発し、破壊事故の原因を発見し、且つ真空、気体、液体、固体の全てにわたって一貫性のある破壊機構があることを発見した。
奥 むめお(おく むめお、1895年10月24日 - 199… 奥 むめお(おく むめお、1895年10月24日 - 1997年7月7日)は、日本の婦人運動家、政治家。参議院議員を計3期務め、1961年(昭和36年)に勲二等宝冠章を受章し、没後に正四位を追賜された。1989年(平成元年)に福井市名誉市民の称号を贈られた。本名は奥 梅尾(読み同じ)。 福井県福井市の鍛冶屋、父・和田甚三郎、母・はまの長女として出生した。年少時から婦人労働問題に強い関心を示し、福井高等女学校(現在の福井県立藤島高等学校)を経て、1916年(大正5年)日本女子大学校卒業後、労働組合期成会の機関紙『労働世界』の記者になり、身分を偽り富士瓦斯紡績に一女工として潜入取材したレポートが反響を呼んだ。
木下 友敬(きのした ゆうけい、1895年10月24日 - … 木下 友敬(きのした ゆうけい、1895年10月24日 - 1968年11月14日)は、日本の政治家。参議院議員(1期)。下関市長(1期)。医学博士。旧姓は平川。 山口県出身。1921年九州帝国大学医学部卒。九州歯科医専教授を経て、1927年下関市で内科を開業する。1956年の第4回参議院議員通常選挙で山口県から日本社会党公認で立候補して当選した。参議院議員を1期務めた後は、1963年下関市長に当選した。1966年秋の叙勲で勲三等旭日中綬章受章。1967年まで市長を務め、1968年11月14日死去、73歳。死没日をもって従四位に叙され、銀杯一組を賜った。 山口県医師会会長、下関山岳会会長、山口県山岳連盟会長も歴任した。
浅井 清(あさい きよし、1895年(明治28年)10月24… 浅井 清(あさい きよし、1895年(明治28年)10月24日 - 1979年(昭和54年)8月14日)は、日本の法学者。専門は行政法。学位は、法学博士。人事院初代総裁、貴族院勅選議員。正三位勲一等瑞宝章、銀杯一組(菊紋)。 兵庫県神戸市生まれ。1919年(大正8年)、慶應義塾大学部法律科を卒業。1925年(大正14年)から1928年(昭和3年)までヨーロッパに留学、1929年(昭和4年)法学部教授に就任。憲法・行政法を専攻し、ハンス・ケルゼンの影響を受け天皇機関説を主張した。 1946年(昭和21年)7月19日に貴族院議員に勅選され、交友倶楽部に所属し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
甘粕 二郎(あまかす じろう、1895年10月24日 - 1… 甘粕 二郎(あまかす じろう、1895年10月24日 - 1987年9月13日)は、日本の経営者、銀行家。山形県出身。甘粕正彦の弟。 1919年に東京帝国大学法学部英法科を卒業。三菱商事、三菱銀行での勤務を経て、1927年に三菱信託銀行に転じ、取締役、常務、副社長を歴任し、1959年6月に社長に就任。1965年5月には会長に就任。 1962年に藍綬褒章を受章し、1975年11月に勲二等瑞宝章を受章。 1987年9月13日老衰のために死去。91歳没。墓所は多磨霊園。
荒井 源太郎(あらい げんたろう、1895年〈明治28年〉1… 荒井 源太郎(あらい げんたろう、1895年〈明治28年〉10月22日 - 1975年〈昭和50年〉8月6日)は、愛媛県新居浜市の第5代市長(任期:1947年4月5日 - 1951年4月4日)。公選での初代市長となった。位階は従六位。 別子山村(現:新居浜市)の生まれで、目出度町(めったまち)と言われる鉱山町山方に生家があった。住友私立の小足谷小学校で学んだ。住友に勤務。1937年、第1回新居浜市会議員選挙に当選し2期務めた。1947年4月5日の市長選挙で市議会議長だった黒川雄之進と助役だった白石喜八を破り当選した。市長在任中は、戦後復興に尽力したが、任期中の1950年3月17日には新居浜市への昭和天皇巡幸があり、宮西小学校、日新化学(後の住友化学)、四国機械(後の住友重機械工業)などへの視察を先導している。
箕作 秋吉(みつくり しゅうきち、1895年10月21日 -… 箕作 秋吉(みつくり しゅうきち、1895年10月21日 - 1971年5月10日)は、日本のクラシック音楽の作曲家である。箕作元八の長男として東京都に生まれた。箕作阮甫の曾孫にあたる。東洋音楽大学教授。
吉永 義信(よしなが よしのぶ、1895年10月21日 - … 吉永 義信(よしなが よしのぶ、1895年10月21日 - 1985年4月3日)は、日本の庭園史家。文化財保護に通算54年の長きにわたって名勝、特に庭園の保存に携わった。広島県出身。 1919年(大正8年)第六高等学校(旧制)卒業。1922年(大正11年)東京帝国大学農学部農学科卒業。卒業論文は「大都市における公園墓地」。同年、大学院に進学。原煕に師事。内務省発行名勝調査報告第一集の庭園実測図をすべて担当。同大学農学大学院は1927年(昭和2年)3月まで在籍。かたわら、内務省から史蹟名勝調査のための委嘱をうけ、調査はその後文部省、文化庁と所轄がわたるが、引き続いて担当、1976年まで、古庭園の調査と指定にあたった。
初代納富 寿童(のうとみ じゅどう、1895年(明治28年)… 初代納富 寿童(のうとみ じゅどう、1895年(明治28年)10月20日 - 1976年(昭和51年)2月24日)は、日本の尺八演奏家、作曲家。流派は琴古流荒木派。本名は納富安治(のうとみ やすじ)。後に芸名を納富寿翁(のうとみ じゅおう)に改名。 1895年10月20日、佐賀県三養基郡土井内(当時南茂安村、後に三根町、現みやき町)で納富孫三郎の次男として生まれる。海軍中将・松永貞市(旧姓・納富)とその妻・イツヨとは親戚。イツヨは女学校生時代に中学生の寿童と叔母の家で一緒に過ごし、寿童について「尺八は中学生のころから吹いていました。上手か下手かはわかりませんでしたが、割合におとなしいほうで、私にも親切にしてくれました。
芳川 赳(よしかわ たけし、1895年10月20日 - 19… 芳川 赳(よしかわ たけし、1895年10月20日 - 1951年7月9日)は、美術評論家、作家。 長崎県島原市生まれ。長崎県立島原中学校(現長崎県立島原高等学校)、明治大学卒業、出版界に入り小説、評論などを書く。美術春秋社を興し、『美術春秋』『日本画傑作年鑑』等の編輯発行者となる。戦後は「美術鑑賞」を発行した。
瀬川 清子(せがわ きよこ、1895年(明治28年)10月2… 瀬川 清子(せがわ きよこ、1895年(明治28年)10月20日 - 1984年(昭和59年)2月20日)は日本の民俗学者。元大妻女子大学教授。秋田県出身。日本の女性民俗学者の草分けのひとり。 1895年(明治28年)に秋田県鹿角郡毛馬内町(現鹿角市)で岩船源太郎、スケ夫妻の長女として誕生する。本名はキヨ。母は、産後の肥立ちが悪く、キヨが1歳になる前に亡くなった。里子に出されたが、父が後妻を迎え、実家に戻った。その後は、同居している叔母や祖父がキヨの教育を行い、1909年(明治42年)、14歳の時に毛馬内尋常高等小学校を卒業。準教員検定準備場を経て、母校の小学校などに勤務したのち、1915年に尋常小学校本科正教員の免許を取得し,毛馬内小学校はじめ、いくつかの学校で訓導として働きながら、1917年(大正6年)には、同じく教師として働いていた瀬川三郎と結婚した。
佐藤 武雄(さとう たけお、1895年10月17日 - 19… 佐藤 武雄(さとう たけお、1895年10月17日 - 1958年7月1日)は、日本の法医学者。医学博士(1928年、東京帝国大学)。 長野県小県郡大門村(現長和町)出身。旧制上田中学(長野県上田高等学校)、旧制第一高等学校を経て、1922年東京帝国大学医学部卒業。1926年東京医学専門学校教授、1929年京城帝国大学教授、1944年に東京で行われた法医学会出席のため帰国し、そのまま郷里で終戦を迎えた。1948年旧制松本医学専門学校教授、同法医学教室主任教授、1950年校長兼信州大学医学部長、1954年学長を歴任した。 俳人としては「眉峰」と号し、高浜虚子に師事し、「ホトトギス」同人。京城時代に俳句結社「水砧」を主宰した。
川田 芳子(かわだ よしこ、1895年10月17日 - 19… 川田 芳子(かわだ よしこ、1895年10月17日 - 1970年3月23日)は、大正・昭和期の女優である。日本映画草創期の人気女優であった。 1895年(明治28年)10月17日、新潟市の花街・古町に踊りの市山流四代目 市山七十世師匠と、父原良一の娘として生まれた。11歳のとき、一家で上京し、長唄を五代目杵屋勘五郎に、舞踊を二代目藤間勘右衛門に師事した。新橋から芸妓になった後、川上貞奴に預けられ、「川上芳子」の芸名で貞奴一座の『八犬伝墨田の高楼』(帝国劇場)で初舞台を踏んだ。以降、貞奴と行動を共にし、新派の舞台で活躍した。 松竹の新派などを経て、1920年(大正9年)、その美貌をかわれて創立早々の松竹蒲田撮影所にスターとして迎えられる。
森川 仙太(もりかわ せんた、1895年(明治28年)10月… 森川 仙太(もりかわ せんた、1895年(明治28年)10月16日 - 1981年(昭和56年)12月27日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、和歌山県有田市長。位階は従五位。 和歌山県有田郡宮崎村(箕島町、有田町を経て現有田市新堂)で、森川仙太郎の二男として生まれる。1914年(大正3年)和歌山県立和歌山中学校(現和歌山県立桐蔭中学校・高等学校)を卒業した。 柿本銀行に入行。簑島信用組合理事、日本除虫菊輸出組合理事、和歌山県除虫菊製品工業組合専務理事、帝国除虫菊取締役社長、北海道除虫菊工業取締役社長、紀ノ川製粉取締役社長、キング除虫菊取締役社長、北王製油取締役社長などを務めた。 1918年(大正7年)紀勢西線鉄道敷設期成同盟会幹事長に就任。
林 好次(はやし こうじ、1895年(明治28年)10月15… 林 好次(はやし こうじ、1895年(明治28年)10月15日 - 1959年(昭和34年)12月4日)は、昭和期の漁業経営者、政治家。衆議院議員、網走市名誉市民。 滋賀県 坂田郡春照村(伊吹村、伊吹町を経て現米原市)で生まれる。1918年(大正7年)網走に移住して雑貨店(林屋商店前身)を経営。1935年(昭和10年)ごろに水産不況に対応するため北洋出漁組合を結成して、鮭鱒漁で成果を収めた。網走漁業会長、北海道水産業会理事、林屋商会取締役、北見綜合木材取締役、藤林商会取締役社長、網走水産冷蔵取締役社長などを務めた。 網走町会議員、北海道会議員、網走市議会議長に在任。1949年(昭和24年)1月の第24回衆議院議員総選挙で北海道第5区から民主党所属で出馬して当選。
9代九鬼 紋七(くき もんしち、1895年(明治28年)10… 9代九鬼 紋七(くき もんしち、1895年(明治28年)10月13日 - 1990年(平成2年)11月17日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員(1期)を務めた。旧名・徳三、号・寿園。 三重県出身。四日市で代々肥料商を営む大地主の長男として生まれる。家業を継いだ父親の先代紋七は三重県の多額納税者であり、九鬼産業の重役を務めた。1921年慶應義塾大学部理財科卒業。1927年に父親が死去し、家督を相続。英国留学、欧米視察の後、東洋紡績監査役、東洋電線監査役、日本無線電信取締役、三重銀行頭取などを務め、1942年の総選挙(いわゆる翼賛選挙)で翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選する。戦後、日本進歩党に加入するが、推薦議員のため公職追放となる。
深瀬 基寛(ふかせ もとひろ、1895年10月12日 - 1… 深瀬 基寛(ふかせ もとひろ、1895年10月12日 - 1966年8月21日)は、日本の英文学者、翻訳家。京都大学名誉教授。 高知県吾川郡春野町(現高知市)生まれ。1916年第三高等学校卒、1919年東京帝国大学卒。1920年京都帝国大学大学院入学、中学校教諭ののち、1922年松江高等学校教授、1925年三高講師、1927年教授、49年京大教養部教授、1958年10月定年退官、名誉教授、南山大学教授。1966年大手前女子大学教授。没後従三位贈位勲三等瑞宝章受勲。 マシュー・アーノルドやT・S・エリオットの紹介、研究に努めた。1955年、『エリオット』で第6回読売文学賞受賞。若いころ湯浅芳子に恋していたことが瀬戸内寂聴『孤高の人』に書かれている。
小出 廉二(こいで れんじ、1895年10月11日 - 19… 小出 廉二(こいで れんじ、1895年10月11日 - 1994年12月14日)は、日本の法学者で、教育者。明治大学法学部の部長を務めた後、明治大学学長を勤めた。岡山県新見市出身。 生誕地は新見市中心部より約4km北に離れた地で、幼少期は中心部にある小学校まで毎日徒歩で通学したという。また農閑期に演じられる備中神楽を愛好し、自身も演じるに至った。 旧制岡山県立高梁中学校(現:岡山県立高梁高等学校)に進み、縁戚の者の家に下宿して通学した。中学卒業後は旧制第一高等学校に進学した。一高進学の理由について、小出自身は小学校OBで進学した先輩からの影響と語っているほか、教え子の一人は小出の入学前に一高校長を務めていた新渡戸稲造への憧れがあったと記している。
山名 義芳(やまな ぎほう、1895年10月11日 - 19… 山名 義芳(やまな ぎほう、1895年10月11日 - 1960年3月26日)は、真宗大谷派僧侶、衆議院議員(1期)。 兵庫県出身。1920年大谷大学を卒業。僧侶となり少年保護司などとして活動。岐阜教務所、高岡教務所、神戸教務所、富山教務所の所長を歴任し、大谷派教学顧問に就任を経て鹿児島教務所長になった。 政治家としては第23回衆議院議員総選挙に民主自由党から兵庫県第4選挙区で立候補し当選。国会では花まつりを祝日にするよう求める請願を行なった。
井口 良二(いぐち りょうじ、1895年〈明治28年〉10月… 井口 良二(いぐち りょうじ、1895年〈明治28年〉10月11日 - 1991年〈平成3年〉12月14日)は、日本の実業家。日東製粉社長。三菱商事常務取締役。衆議院議員岸田文武の義父。衆議院議員で第27代自由民主党総裁かつ第100代内閣総理大臣岸田文雄の母方の祖父。 佐賀県唐津市に生まれる。井口兆之助の二男。1919年、東京高等商業学校(現・一橋大学)本科卒業。三菱商事に入社。本店、倫敦、スラバヤ、神戸、大阪各支店に勤務。同社常務、旭交易、日東製粉各社長などをつとめた。 1991年12月14日に死去。享年96歳。墓所は青山霊園。 趣味は園芸、音楽、屋外運動。宗教は仏教。住所は東京都渋谷区神宮前六丁目穏田マンション内、世田谷区羽根木。
小川 とわ(1895年10月10日 - 1964年5月25日… 小川 とわ(1895年10月10日 - 1964年5月25日)は、日本の実業家。位階は従六位。勲等は勲五等。元トンボ鉛筆会長。 創業者である小川春之助の妻。 1895年(明治28年)10月10日、旧東京市芝区に生まれる。1912年(明治45年)、17歳で小川春之助と結婚。夫の父小川作太郎は鉛筆を作る職人で自前の鉛筆工場を持っていた時期もあり、親族にも鉛筆業者が多かった。 1913年(大正2年)夫、春之助が浅草瓦町(現東京都台東区柳橋)に「小川春之助商店」を開業。当初は文房具類一式を扱っていたが、次第に鉛筆の製造販売に注力した。 とわは会社創業期には経理を手伝う傍ら宣伝広告などを担当した。1935年にはとわの人脈を通じて日本劇場(日劇)に緞帳をトンボ鉛筆が寄納して世間の注目を集めた。
桑原 支那吉(くわばら しなきち、1895年(明治28年)1… 桑原 支那吉(くわばら しなきち、1895年(明治28年)10月7日 - 1945年(昭和20年)4月1日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。広島県出身。
源 豊宗(みなもと とよむね、1895年10月7日 - 20… 源 豊宗(みなもと とよむね、1895年10月7日 - 2001年1月17日)は、日本を代表する日本美術史家、文学博士。専門は仏教美術史。 関西学院大学教授、帝塚山学院大学教授などを歴任。1952年から1976年まで文化財保護審議会専門委員を務めた。著書に「日本美術史論究」、「日本美術史図録」、「大徳寺」などがある。元大阪芸術大学教授で文芸評論家の源高根は息子。 福井県武生市(現:越前市)に生まれる。1918年、曹洞宗大学(のちの駒澤大学)卒業。その後、京都帝国大学に進み、1925年京都帝国大学文学部美学美術史科卒業。在学中から仏教美術に関心を持っていた。源 豊秋の筆名で論文「気比神社の桃太郎彫刻」(1923年)を発表。
加藤 弘造(かとう こうぞう、1895年(明治28年)10月… 加藤 弘造(かとう こうぞう、1895年(明治28年)10月7日 - 1982年(昭和57年)7月28日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、静岡県志太郡島田町長。 静岡県志太郡島田町本通り(現島田市)で、木材業、加藤商事会社・加藤友吉の四男として生まれる。1916年(大正5年)早稲田大学予科 を卒業した。 家業の加藤商事会社社員となる。1920年代に、廓潰運動、部落解放運動、無政府運動に係わり、静岡県水平社などに資金援助を行った。1931年(昭和6年)静岡県会議員に選出され3期在任し、参事会員も務めた。1934年(昭和9年)島田町長に就任し3期在任した。日中戦争に出征し陸軍中尉となる。
中山 栄一(中山 榮一、なかやま えいいち、1895年10月… 中山 栄一(中山 榮一、なかやま えいいち、1895年10月7日 - 1976年8月21日)は、日本の政治家。衆議院議員。 群馬県出身。早稲田大学商学部卒業。龍ケ崎町会議員、茨城県会議員、同参事会員などを歴任。 1946年、戦後初の衆院選に茨城県選挙区から無所属で立候補し当選。その後、公職追放となり、追放解除後は旧茨城県第1区において第25回・第27回・第29回・第30回・第31回総選挙で当選し、衆議院議員を通算6期務めた。1969年12月の第32回総選挙には立候補せず引退。 その後、石橋内閣・第1次岸内閣の北海道開発政務次官、第1次佐藤内閣の行政管理政務次官、衆議院災害対策特別委員会理事、衆議院農林水産委員会委員などを歴任した。
蜂谷 輝雄(はちや てるお 1895年10月4日 - 197… 蜂谷 輝雄(はちや てるお 1895年10月4日 - 1979年7月2日)は、日本の外交官。自由インド仮政府初代公使や内閣総理大臣秘書官を務めた。
杉村 廣藏(すぎむら こうぞう、1895年10月3日 - 1… 杉村 廣藏(すぎむら こうぞう、1895年10月3日 - 1948年1月8日)は、経済哲学者。旧制東京商科大学(一橋大学の前身)助教授や予科教授を務めていたが、白票事件と呼ばれる学内抗争に巻き込まれ大学を退職したのち、三菱商事監査役等を務めたが早世した。師の左右田喜一郎とともに経済哲学の創始者とされる。東京商科大学経済学博士。 北海道函館生まれ。函館商業学校(現北海道函館商業高等学校)本科を経て、1915年東京高等商業学校(一橋大学の前身)予科に進み、同本科や専攻部で左右田喜一郎や三浦新七に師事する。 1921年同校専攻部卒業、商学士。同年旧制東京商科大学(東京高等商業学校から大学に昇格、新制一橋大学の前身)助手、1923年同大学助教授就任。
岩城 秀哉(いわき ひでや、1895年10月2日 - 没年不… 岩城 秀哉(いわき ひでや、1895年10月2日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名は中家 秀一(なかや ひでかず)。旧芸名は岩城 秀雄(いわき ひでお)。 1895年(明治28年)10月2日、兵庫県神戸市山本通(現在の同県同市中央区山本通)に生まれる。関西学院中学部卒業後、早稲田大学英文科に進学する。 早稲田大学2年修了(中退)後、海運業輸出部主任を務めていたが、1917年(大正6年)、岩城秀雄という芸名で新国劇創立と共に同劇団に入団。以降、主に端役・脇役として出演するが、1922年(大正11年)頃からは岩城秀哉と改名して活動している。1924年(大正13年)1月、帝国キネマへ入社。同年2月7日に公開された佐藤紅緑原作の松本英一監督映画『大盗伝』や、同年4月2日に公開された若山治監督映画『肉弾』など、悪役俳優として活躍していたが、出演配役に岩城の名前は見当たらず、岩城自身も少々不平があったようである。
熊谷 憲一(くまがい けんいち、1895年(明治28年)10… 熊谷 憲一(くまがい けんいち、1895年(明治28年)10月2日 - 1956年(昭和31年)10月9日)は、日本の内務官僚、政治家。官選県知事、北海道庁長官、衆議院議員。 福岡県出身。裁判所吏員・熊谷澄の長男として生まれる。小倉中学、第五高等学校を経て、1920年(大正9年)7月、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。1919年(大正8年)10月、高等試験行政科試験に合格し、1920年(大正9年)10月、農商務省に入り農商務属となり工務局労働課兼工務課勤務となる。1922年(大正11年)11月、内務省に転じ内務省社会局属として第二部保険課に配属された。その後、保険部経理課長、社会局庶務課長、大臣官房会計課長、厚生省職業部長などを歴任。
高畠 達四郎(たかばたけ たつしろう、1895年10月1日 … 高畠 達四郎(たかばたけ たつしろう、1895年10月1日 - 1976年6月26日)は、日本の画家。独立美術協会会員。1952年2月に「暮色」で毎日芸術賞を受賞。
緒方 久人(おがた ひさと、1895年10月1日 - 197… 緒方 久人(おがた ひさと、1895年10月1日 - 1970年)は、日本の柔道家(講道館9段)。 広島県呉市にて戦前の海軍はじめ各所で半世紀以上に渡り柔道指導を行い、広島市を中心に活動した倉田太一と共に県下柔道界の大家としてその振興・普及に尽力した。 福岡県の久留米市に生まれた。幼少時より扱心流の柔術を学び、旧制中学校を卒業後に上京して1912年3月に講道館へ入門。返し技(当時は“裏技”と言った)の名手として名高い高橋数良の元で専心修行し、ここで返し技に不可欠な足技を磨き終生の武器として会得した。 1914年2月に初段を許されると、翌1915年に郷里・久留米の憲兵隊柔道教師を拝命し、1918年5月には恩師高橋の斡旋により2段格として呉鎮守府海兵団および江田島海軍学校の柔道教師に着任した。
河野 多麻(こうの たま、1895年10月 - 1985年1… 河野 多麻(こうの たま、1895年10月 - 1985年1月24日)は、日本の国文学者。河野与一の妻。 静岡県浜松市生まれ。旧姓中村。1913年静岡女子師範学校卒、小学校教諭を一年勤めたのち、東京女子高等師範学校に入り、1918年卒業、川越高等女学校教諭、1920年から1923年まで東京帝国大学で初の女子聴講生となり国文学を学び、実践女学校専門部国文科教師、1928年東北帝国大学法文学部に入学、当時助教授であった河野与一と知る。1931年卒業し実践女子専門学校講師。1937年教授となり、河野との結婚を公表する。1943年辞職し、1944年河野のいる宮城県築館町に疎開、戦後1950年に与一が岩波書店顧問となり上京、1962年『宇津保物語』全三巻を岩波古典文学大系として刊行する。