三上 英雄(みかみ ひでお、1893年(明治26年)3月29… 三上 英雄(みかみ ひでお、1893年(明治26年)3月29日 - 1983年(昭和58年)8月17日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員。 広島県恵蘇郡口北村字宮内(現庄原市)で、三上瀧蔵、シカ夫妻の長男として生まれたが、母は産後に死去した。口北尋常小学校、口北高等小学校を経て、1906年、格致学院に入学。1909年、親類を頼って大阪市に移り関西商工学校に入学し、風呂屋を経営して学費を稼ごうとするも失敗。1910年に上京して日本大学に入学し、1913年、同大法律科を卒業。1914年11月、会計検査院嘱官となる。 1917年、弁護士試験に合格。1918年1月、弁護士登録を行い東京弁護士会に加入。
塩川 政巳(しおかわ まさみ、1893年〈明治26年〉3月2… 塩川 政巳(しおかわ まさみ、1893年〈明治26年〉3月29日 - 没年不明)は、日本の実業家、政治家。佐久銀行頭取。浅間山観光、塩久各社長。長野県会議員。曹洞宗玄江院総代会長。 長野県・塩川幸太の長男。塩川三四郎の甥。1917年、慶應義塾大学部政治学科を卒業。第一銀行に入行。1923年、佐久銀行に転じる。1936年、家督を相続する。 佐久銀行常務を経て頭取に就任。長野貯蓄銀行、千曲自動車各監査役、東京美術館取締役、浅間山観光、塩久各社長、県選管委員長などをつとめる。 宗教は曹洞宗、禅宗。趣味はスポーツ、美術品愛好、運動、俳諧。長野県小諸市在籍で、住所は長野県北佐久郡三岡村森山(現・小諸市森山)、東京宅は赤坂区丹後町。
三浦 三郎(みうら さぶろう、1893年3月26日 - 19… 三浦 三郎(みうら さぶろう、1893年3月26日 - 1974年10月17日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。関東憲兵隊司令官。
佐々部 晩穂(ささべ くれお、1893年3月26日 - 19… 佐々部 晩穂(ささべ くれお、1893年3月26日 - 1979年1月23日)は、日本の実業家。中部日本放送初代社長。元名古屋商工会議所会頭。元大同大学理事。 福岡県山門郡塩塚村で医者だった父・田尻常太郎(福岡県士族)の息子に生まれる。1914年(大正3年)旧制一高を卒業して、京都帝国大学(現京都大学)に進学、同期の卒業生には汐見三郎、高山義三、岸要、酒井忠正、森本寛三郎がいた。京都帝国大学を首席(恩賜の銀時計組)で卒業後、1918年(大正7年)に日本銀行へ入行する。日銀の同期には一万田尚登がいた。営業局を経て、のちに日銀総裁となる結城豊太郎が支店長を務める大阪支店、ロンドン支店などで勤務する。
福田 正夫(ふくだ まさお、1893年3月26日 - 195… 福田 正夫(ふくだ まさお、1893年3月26日 - 1952年6月26日) は、神奈川県足柄下郡小田原町(現・小田原市)出身の詩人。「民衆詩人」と呼ばれる一派の中心的詩人であった。広く歌われた国民歌謡「愛国の花」(1937年、古関裕而作曲)の作詞者である。 小田原藩士族の堀川家の五男として生まれる。1910年、17歳の時に福田家の養子となる。1913年神奈川師範学校(現・横浜国立大学)卒業。東京高等師範学校(現・筑波大学)体操科中退。1915年、川崎市の小学校教員となる。同年12月、処女詩集『農民の言葉』を自費出版し、民衆詩人として注目される。 1918年、富田砕花・井上康文・白鳥省吾・川崎長太郎らと同人誌『民衆』を創刊。
森田 親三(もりた ちかぞう、1893年(明治26年)3月2… 森田 親三(もりた ちかぞう、1893年(明治26年)3月25日 - 1985年(昭和60年)4月25日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍主計中将。 埼玉県出身。森田弥之治の二男として生まれる。熊谷中学校(現埼玉県立熊谷高等学校)卒業を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍経理学校(9期)を優等で卒業し見習主計となる。同年12月、三等主計に任官し歩兵第3連隊付となる。1918年(大正7年)2月、第1師団経理部員に就任し、1919年(大正8年)4月、二等主計に昇進。1920年(大正9年)6月から1921年(大正10年)5月まで、経理学校高等科で学び、さらに、1921年5月から1922年(大正11年)5月まで員外学生として学んだ。
石井正己(いしい まさみ、1893年(明治26年)3月25日… 石井正己(いしい まさみ、1893年(明治26年)3月25日 - 不詳)は、日本の陸軍軍医。最終階級は陸軍軍医少将。第二次世界大戦における第14軍の生物兵器実験・人体実験に関与した。 広島県で出生。1920年(大正9年)12月25日、陸軍二等軍医。1923年(大正12年)、九州帝国大学大学院への入学が認可され外科学を学んだ。 1930年代から1940年にかけて、満州国の山西省の北支那方面軍第一軍軍医部におり、太原臨時衛生調査班の調査に参与した。 1943年(昭和18年)、第14軍の軍医部長としてフィリピンに駐屯した。同年7月に配属されてきた第16師団防疫給水部に対し、第14軍軍医部長として「予防内服の効果については自信ある成績を要望す」、「濃厚汚染部隊に於ては部隊内感染防止に各班の努力を傾注するを要す」と指示していた。
渡部 義雄(わたなべ よしお、1893年3月25日 - 19… 渡部 義雄(わたなべ よしお、1893年3月25日 - 1964年12月17日)は、日本の会計学者。 東京府東京市麻布区(現:東京都港区)生まれ。麻布中学校より大倉高等商業学校(現:東京経済大学)予科、本科を経て、1913年神戸高等商業学校(現:神戸大学)卒。東会計人事務所に入所。各務鎌吉の援助で、1920-1922年英国に留学し、英国勅許会計士の会計事務所において訓練を受けた。のち立教大学講師を務めた。
鈴木 登(すずき みのる、1893年(明治26年)3月25日… 鈴木 登(すずき みのる、1893年(明治26年)3月25日 - 没年不明)は、日本の内務官僚。 静岡県小笠郡佐束村(現掛川市)出身。1917年東京帝国大学独法科卒業、内務省に入省。長野県北安曇郡長、北佐久郡長、内務部農商課長を務めた後、長崎県理事官、千葉県書記官・学務部長、大阪府内務部長、高知県書記官・警察部長、岡山県書記官・警察部長、宮城県書記官・警察部長、香川県書記官・内務部長、京都府書記官・経済部長、内務省警保局警察講習所長を歴任後、1939年に青森県知事、1940年に長野県知事に就任。その後は広島県呉市長などを務めた。 長野県知事としては戦時下での食糧の増産、満蒙開拓移民の送出、信濃銀行の再生、治山治水事業の財源基礎の確立などに実績を上げた。
挟間 茂(はざま しげる、1893年3月24日 - 1987… 挟間 茂(はざま しげる、1893年3月24日 - 1987年12月3日)は、日本の内務官僚、内務次官。 日本住宅公団総裁。広島県福山市出身。旧姓・三谷。「梜間茂」表記の文献もあり。戸籍上は旧字体の挾間。 海軍大佐挾間光太の養子。福山中学(現福山誠之館高校)~第六高等学校を経て1919年、東京帝国大学法学部法律学科卒業。内務省に入省、衛生局長、茨城県知事、土木局長、地方局長などを歴任。1937年衛生局長として保健所法制定に尽力、現在の保健所制度の基礎を作った。茨城県知事時代の大洪水に対する災害復旧政策は今日でも評価が高い。1940年第2次近衛内閣の内務次官に就任。大政翼賛会の結成をすすめ、翌1941年大政翼賛会組織局長として国民を戦時体制に動員した。
時國 益夫(ときくに ますお、1893年(明治26年)3月2… 時國 益夫(ときくに ますお、1893年(明治26年)3月23日 - 1989年(平成元年)9月1日)は、日本の実業家、技術者。キリンビール代表取締役社長や、同社代表取締役会長を務めた。 第四高等学校を経て、1917年東京帝国大学工学部応用化学科卒業、キリンビール入社。1933年仙台工場長。1940年取締役。1942年取締役横浜工場長。1943年監査役。1946年監査役兼企業部長。1951年取締役。1953年常務取締役。1956年常務取締役製造部長。1958年専務取締役。1966年から代表取締役社長を務め、創業家として長年君臨した磯野長蔵亡きあとの経営を担い、ラガービールの品質本位路線などを進めた。
李家 弘(りのいえ ひろし、1893年(明治26年)3月23… 李家 弘(りのいえ ひろし、1893年(明治26年)3月23日 - 没年不明)は、日本の弁護士。大阪特殊製鋼取締役。 李家隆介の長男として生まれ、後に家督を相続する。1917年(大正6年)、東京帝国大学獨法科を卒業後、三井銀行に入行する。入行後は、本店本部外国課に勤務する。その後上海支店を経て、1924年(大正13年)大連主席出張員となり、1930年(昭和5年)3月外国営業部輸出係長に転じ、1932年(昭和7年)計算係長に就任した。 退行後は、大阪特殊製鋼取締役、日華製紙監査役を務めた。 趣味はゴルフ。宗教は真宗。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
佐藤 親弘(さとう ちかひろ、1893年(明治26年)3月2… 佐藤 親弘(さとう ちかひろ、1893年(明治26年)3月23日 - 1961年(昭和36年)8月15日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)・弁護士。 栃木県出身。1923年日本大学専門部法律科卒。弁護士となり、宇都宮市議、栃木県地方労働委員会会長、宇都宮弁護士会会長となる。 1947年の第23回衆議院議員総選挙において栃木2区から日本自由党公認で立候補して落選。1949年の第24回衆議院議員総選挙では民主自由党公認で立候補して初当選。1952年の第25回衆議院議員総選挙では自由党公認で立候補して落選。1953年の第26回衆議院議員総選挙で復帰した。1955年の第27回衆議院議員総選挙で落選し、以後立候補しなかった。
小林 謙五(こばやし けんご、1893年3月22日 - 19… 小林 謙五(こばやし けんご、1893年3月22日 - 1948年4月23日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。
白鳥 清(白鳥 淸、しらとり きよし、1893年3月21日 … 白鳥 清(白鳥 淸、しらとり きよし、1893年3月21日 - 1972年8月9日)は、日本の歴史学者。学習院教授、立教大学文学部教授、聖心女子大学教授。専門は東洋史学。 1893年(明治26年)、千葉県市原郡戸田村(現・市原市)生まれ。旧姓は鈴木。 1916年(大正5年)、第六高等学校一部英法科卒業。1917年(大正6年)、叔父の八代国治の媒酌により、白鳥庫吉(東洋史学者、邪馬台国九州説の代表的論者)の長女と結婚し、その嗣子となる。1920年(大正9年)、東京帝国大学文学部史学科(東洋史専攻)卒業。 1925年(大正14年)4月に、立教大学文学部に史学科が創設され、最初の教授陣の一人として東洋史を講じた。
山浦 貫一(やまうら かんいち、1893年(明治26年)3月… 山浦 貫一(やまうら かんいち、1893年(明治26年)3月20日 - 1967年(昭和42年)9月26日)は新聞記者、政治評論家。 長野県小県郡川辺村(上田市)出身。旧制上田中学(長野県上田高等学校)から早稲田大学政治経済学部卒業。1919年時事新報記者となり、1924年東京日日新聞に転じ、1927年新愛知東京支社、ついで国民新聞、読売新聞各論説委員を務め、1948年読売新聞を定年退社。1946年には憲法普及会理事を務めた。 その後、東京新聞編集顧問、NHK中央番組審議委員、中央選挙管理委員会委員などを務めた。晩年は東京新聞のコラム「放射線」に池上五六のペンネームで反共評論を書いた。森恪、鳩山一郎らと親交があった。
松延 弥三郎(まつのぶ やさぶろう、1893年3月19日 -… 松延 弥三郎(まつのぶ やさぶろう、1893年3月19日 - 1956年11月6日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 福岡県出身。1918年東京帝国大学政治科卒。三井物産(株)に入り、東京市主事となる。その後帰郷し、松延製粉(株)取締役、福岡県議、同参事会員、鉄道大臣官房事務嘱託、福岡バス(株)代表取締役、福島町(現・八女市)外十二町村土木組合長、県藁工品卸商業組合理事長、八女郡翼賛壮年団長となる。 1942年の第21回衆議院議員総選挙では福岡3区(当時)から翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選する。戦後は日本進歩党に入ったが、推薦議員のため公職追放となった。1951年追放解除。1956年死去。
長野 高一(ながの たかいち、1893年(明治26年)3月1… 長野 高一(ながの たかいち、1893年(明治26年)3月19日 - 1974年(昭和49年)3月1日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 愛媛県越智郡清水村(現今治市)で長野市太郎の五男として生まれる。私立大成中学校(現大成高等学校)で学んだが1911年(明治44年)に中退し、以後独学した。 1915年(大正4年)自転車製造業を営む。1922年(大正11年)東京自転車同業組合を創立して組合長に就任し、自転車税撤廃運動を推進した。1925年(大正14年)下谷区会議員に選出され、1928年(昭和3年)東京府会議員、1932年(昭和7年)東京市会議員にそれぞれ就任し、中小企業の発展に尽力した。
橘 孝三郎(たちばな こうざぶろう、1893年〈明治26年〉… 橘 孝三郎(たちばな こうざぶろう、1893年〈明治26年〉3月18日 ‐ 1974年〈昭和49年〉3月30日)は、日本の政治活動家、農本主義思想家。農本ファシストであり、超国家主義者でもあった。 茨城県東茨城郡常磐村(現水戸市)生。茨城県立水戸中学校(現水戸第一高等学校)を経て第一高等学校に進むが中退。大杉栄や石川三四郎の著作を通じてエドワード・カーペンター、クロポトキンなどのアナキズムに影響を受けている。アンリ・ベルグソン、特に「エランビタル」に強い影響を受けた他、トルストイ、白樺派、柳宗悦、康有為などからも影響を受ける。 郷里で農業に従事する傍ら、講演活動を行い、1929年(昭和4年)11月に愛郷会を結成。
田中 新一(たなか しんいち、1893年(明治26年)3月1… 田中 新一(たなか しんいち、1893年(明治26年)3月18日 - 1976年(昭和51年)9月24日)は、大正・昭和時代の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 本籍新潟県。村松藩士・農業、田中寅五郎の長男として北海道釧路で生まれる。 仙台陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1913年(大正2年)5月陸軍士官学校(25期)を卒業。同期に武藤章・富永恭次・佐藤幸徳・山内正文・山崎保代。同年12月、陸軍少尉任官、歩兵第52連隊付となる。 1923年(大正12年)11月、陸軍大学校(35期)卒業。李王垠、栗林忠道、洪思翊、富永恭次、林義秀、那須弓雄、影佐禎昭、住吉正が同期。 1928年(昭和3年)から3年間に亘りソ連、ポーランドに駐在。
西元 坂一(にしもと さかいち、1893年(明治26年)3月… 西元 坂一(にしもと さかいち、1893年(明治26年)3月18日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の台湾総督府官僚。 山口県大島郡和田村(東和町を経て現周防大島町)に生まれる。1915年(大正4年)8月、府殖産局林業講習を修了後、同局営林所に奉職し、1919年(大正8年)8月、嘉義庁林務手に転じ、澎湖庁技手となった。ついで高雄州技手を経て、1925年(大正14年)1月、地方理事官に進み、高雄州恒春郡守に就任し、のち台中州豊原郡守に転じた。
岡崎 清三郎(おかざき せいざぶろう、1893年〈明治26年… 岡崎 清三郎(おかざき せいざぶろう、1893年〈明治26年〉3月17日 - 1979年〈昭和54年〉5月27日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 島根県出身。松江市で岡崎竜次郎の三男として生まれる。松江中学校を経て、1914年5月、陸軍士官学校(26期)を卒業し、同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第63連隊付となる。1921年11月、陸軍大学校(33期)を卒業した。 参謀本部付勤務、参謀本部員などを経て、1925年5月、皇族(秩父宮雍仁親王)付武官となり、秩父宮の外遊(オックスフォード大学)に随行した。参謀本部員(編制班)、ジュネーヴ出張、陸軍省整備局課員(統制課)、兼参謀本部員、上原勇作元帥副官(近衛歩兵第3連隊付、歩兵第59連隊付)、留守第4師団参謀長などを経て、日中戦争に支那駐屯歩兵第2連隊長として出動。
小畑 忠良(おばた ただよし、1893年(明治26年)3月1… 小畑 忠良(おばた ただよし、1893年(明治26年)3月16日 - 1977年(昭和52年)10月11日)は、日本の実業家、企画院・内務官僚、弁護士。企画院次長、大日本産業報国会理事長、大政翼賛会事務総長、官選愛知県知事、東海北陸地方総監。 漢学者、小畑万治郎の六男として大阪府で生まれる。茨木中学校、第一高等学校を経て、1917年(大正6年)3月、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を優等で卒業し、銀時計を授与された。住友合資会社に入り総本店経理部に配属された。1923年(大正12年)2月から1925年(大正14年)3月まで欧米に商工業研究のため留学した。 1925年(大正14年)10月、住友総本店経理部第三課長となる。
野本 品吉(のもと しなきち、1893年〈明治26年〉3月1… 野本 品吉(のもと しなきち、1893年〈明治26年〉3月15日 - 1968年〈昭和43年〉1月28日)は、日本の教員、政治家。衆議院議員(2期)、参議院議員(2期)。日本退職公務員連盟会長。国民党、国民協同党、自由民主党を渡り歩いた。協同組合主義者。旧姓・正田。 群馬県新田郡尾島町押切(現・太田市押切町)に、正田豊吉、そうの四男として生まれる。旧制太田中学校(現・群馬県立太田高等学校)を経て、1913年(大正2年)群馬県師範学校本科二部を卒業。 世良田尋常高等小学校を皮切りに、群馬県内の小学校で教師として勤務。1922年(大正11年)に野本家に婿入りした。生品小学校、矢場川小学校、広沢小学校、伊勢崎小学校、太田小学校で校長を歴任。
高木 常七(たかぎ つねしち、1893年〈明治26年〉3月1… 高木 常七(たかぎ つねしち、1893年〈明治26年〉3月15日 - 1975年〈昭和50年〉8月15日)は、日本の裁判官。最高裁判所判事。富山県出身。 富山中学校を経て、1916年(大正7年)に早稲田大学法科を卒業。1917年(大正8年)7月にいったん検事となるが、1923年(大正12年)6月に弁護士に転身した。 1946年(昭和21年)2月に法曹一元制度のため、岩田宙造司法大臣に口説かれ、静岡地裁所長となる。その後、横浜地裁所長、東京家裁初代所長、札幌高裁長官、広島高裁長官、名古屋高裁長官を歴任。 1958年(昭和33年)6月に最高裁判所裁判官となる。八海事件の第二次上告審では有罪説を取る破棄差戻しの多数意見に反対し、無罪説の上告棄却の少数意見を述べた。
佐伯 顕(さえき あきら、1893年(明治26年)3月15日… 佐伯 顕(さえき あきら、1893年(明治26年)3月15日 - 1944年(昭和19年)5月8日)は、朝鮮総督府官僚。 広島県出身。1916年(大正5年)、中央大学法律科在学中に高等文官試験に合格した。警視庁警部、刑事課鑑識課長、警視を歴任し、1921年(大正10年)、樺太庁地方課長となり、福井県警察部保安課長・工場課長を経て、1923年(大正12年)に総督府警察官講習所教授・警務局事務官として朝鮮に渡った。朝鮮では忠清北道警察部長、忠清南道警察部長、咸鏡南道警察部長を歴任し、1929年(昭和4年)に欧米を視察した。帰国後、警察官講習所長、平安北道警察部長、同内務部長、平安南道警察部長、京畿道警察部長、同内務部長を経て、1937年(昭和12年)に京城府尹に就任。
青木 重誠(あおき しげまさ、1893年〈明治26年〉3月1… 青木 重誠(あおき しげまさ、1893年〈明治26年〉3月15日 - 1943年〈昭和18年〉6月29日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。陸士25期首席・陸大32期優等。 石川県金沢市本多町出身。金沢城内に駐屯する歩兵第7聯隊・青木織之助歩兵中尉の長男として生れる。父は旧加賀藩士で、略歴に神奈川県平民、足柄下郡真鶴町出身とあるがこれは誤りである。織之助は日清戦争に従軍し、1895年1月11日陣中にて没した。享年28。妻は「いと」で、1947年7月5日没。 石川県師範学校附属小学校、金沢第二中学校、名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)741名中を首席で卒業。
藤縄 清治(ふじなわ せいじ、1893年3月12日 - 19… 藤縄 清治(ふじなわ せいじ、1893年3月12日 - 1967年4月22日)は、明治から昭和にかけての政治家。 1893年3月12日、新潟県中頸城郡潟町村大字土底浜(現・上越市大潟区土底浜)に、酒造家の藤縄正朔、妻ミカの次男として生まれる。女6人男3人の9人兄弟である。姉には、女子裁縫学校を創設し初代校長となった藤縄ヒサ、改称し、高田実科女学校(共に学校法人古川学園上越高等学校)二代校長となった古川フジなどがいる。藤縄家は代々土底浜の漁師であったが、正朔の代から酒造業を始めた。正朔は、晩酌のかたわらに藤縄たちを呼び、「人間、生を受けたからには、自ら働き、自らの手で業を興せ。決して人に頼ってはならない。
岩田 藤七(いわた とうしち、1893年3月12日 - 19… 岩田 藤七(いわた とうしち、1893年3月12日 - 1980年8月23日)は、ガラス工芸家。東京・日本橋生まれ。岩田久利は子。岩田糸子は久利の妻、イワタルリは孫。
矢野 峰人(やの ほうじん、1893年3月11日 - 198… 矢野 峰人(やの ほうじん、1893年3月11日 - 1988年5月21日)は、日本の詩人、英文学者。本名は矢野禾積(かづみ)。 1893年、岡山県津山市で生まれた。久米北条郡大倭村(現・津山市西部)出身。幼時に父母と死別し、母方の祖母、叔父に育てられた。津山中学校(現・岡山県立津山中学校・高等学校)在学中、文学雑誌『文章世界』『秀才文壇』などに盛んに投稿。同級生に片岡鉄兵、中山巍、上級生に出隆らがいて親交があった。第三高等学校を経て、京都帝国大学文学部に進学。英文科で上田敏、厨川白村の教えを受けた。 卒業後は、第三高等学校教授に就いた。1935年、学位論文『アーノルドの文学論』を京都帝国大学に提出して文学博士号を取得。
鷹部屋 福平(たかべや ふくへい、1893年(明治26年)3… 鷹部屋 福平(たかべや ふくへい、1893年(明治26年)3月9日 - 1975年(昭和50年)4月24日)は、日本の工学者、アイヌ文化研究者。著書には橋梁や構造力学など力学関係のものが多い。北海道帝国大学、九州大学、防衛大学校などで教授を務めた。 愛知県額田郡岡崎町大字康生(現・岡崎市)に生まれる。父は岡崎藩士で画家の鷹部屋荘一郎。1899年(明治32年)4月4日、岡崎町立連尺尋常小学校(現・岡崎市立連尺小学校)に入学。1903年(明治36年)、額田郡岡崎高等小学校(現・岡崎市立梅園小学校)に入学。愛知県立第二中学校(現・愛知県立岡崎高等学校)に入学すると、毎日のように暗くなるまでテニスの練習を行ったという。
松沢 竜雄(まつざわ たつお、1893年(明治26年)3月9… 松沢 竜雄(まつざわ たつお、1893年(明治26年)3月9日 - 1970年(昭和45年)1月25日)は、日本の内務官僚、朝鮮総督府官僚、弁護士。 山形県飽海郡北平田村(現在の酒田市)出身。第四高等学校を経て、1919年(大正8年)に東京帝国大学法学部独法科を卒業した。三井物産に入社するが、1923年(大正12年)に高等試験行政科に合格し、内務属となる。島根県美濃郡長、同八束郡長、島根県事務官、岡山県事務官、千葉県書記官・学務部長、福井県書記官・警察部長、群馬県書記官・経済部長を歴任。1936年(昭和11年)、朝鮮総督府に転じ、農林局農務課長、総督官房外事部長を経て、1940年(昭和15年)に専売局に就任。
安藤 狂四郎(あんどう きょうしろう、1893年〈明治26年… 安藤 狂四郎(あんどう きょうしろう、1893年〈明治26年〉3月8日 - 1982年〈昭和57年〉2月14日)は、日本の内務官僚。官選府県知事。 大分県大分郡松岡村出身。地主・安藤勝市の四男として生まれる。大分中学、第五高等学校を経て、1918年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年10月、高等試験行政科試験に合格。同年11月、内務省に入り、新潟県属として内務部学務課に配属された。 1919年4月、新潟県警部・警察部警務課長に就任。以後、内務省衛生局保険課勤務、鹿児島県出水郡長、栃木県内務部農商課長、同庶務課長兼地方課長、東京府内務部庶務課長、岩手県書記官・警察部長、内務書記官・警保局高等課長、東京府書記官・学務部長、静岡県書記官・内務部長、東京府書記官・内務部長などを歴任。
小倉 強(おぐら つよし、1893年3月7日 - 1980年… 小倉 強(おぐら つよし、1893年3月7日 - 1980年2月23日)は、日本の建築家、建築史家。東北大学名誉教授。東北地方の民家についての調査を精力的に行ったことで知られ、仙台の歴史的建造物の保存にも影響を与えた。 1893年(明治26年)、宮城県仙台市で実業家・歌人の小倉長太郎(小倉茗園)の八男として生まれる。1916年(大正5年)、東京帝国大学工科大学建築学科を卒業。大学では、高橋貞太郎、小林政一らと同期であった。 1921年、東京府営繕技師となる。平和記念東京博覧会(1922年)の設計を担当。1922年、東北帝国大学技師に採用される。1929年、仙台高等工業学校教授に着任準備のため文部省在外研究員としてドイツ留学。
影佐 禎昭(かげさ さだあき、1893年(明治26年)3月7… 影佐 禎昭(かげさ さだあき、1893年(明治26年)3月7日 - 1948年(昭和23年)9月10日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 広島県沼隈郡柳津村(後の松永市柳津町、現・福山市柳津町)に生まれる。幼名は亨(陸大学生時代に禎昭に改名)。影佐家は代々、広島浅野藩士の家系。 小学校を卒業後、姉の住んでいた大阪に出て、大阪府立市岡中学校を経て1914年、陸軍士官学校を優等卒業(26期)。1917年、陸軍砲工学校高等科第23期を優等で卒業。1923年、陸軍大学校優等卒業(35期)。大尉時代の1925年4月から1928年3月まで東京帝国大学政治科で学んだ学究肌。その後、参謀本部付として中国と深く関わり、陸軍部内でも中国通として一際目立つ存在となった。
土屋 伝作(つちや でんさく、1893年〈明治26年〉3月7… 土屋 伝作(つちや でんさく、1893年〈明治26年〉3月7日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。税理士。 山梨県出身。1914年(大正3年)、東京帝国大学農科大学獣医学実科を卒業。朝鮮に渡って逓信書記となり、1921年(大正10年)に高等試験行政科に合格した。黄海道内務部学務課長、咸鏡南道内務部学務課長、同地方課長、平安南道地方課長、全羅北道財務部長、黄海道警察部長、全羅南道警察部長を歴任した。1932年、総督官房外事課勤務となり、新京、奉天に駐在した。咸鏡北道内務部長を経て、1934年に釜山府尹に就任し、さらに大邱税務監督局長に転じた。 退官後、朝鮮金融組合連合会理事・事業部長を務めた。戦後は、税理士を開業し土屋税理会計事務所長を務めた。
山本 勇(やまもと いさむ、1893年(明治26年)3月6日… 山本 勇(やまもと いさむ、1893年(明治26年)3月6日 - 1964年(昭和39年)4月23日)は、日本の電気工学者。東京工業大学教授、明治大学教授、電気通信大学学長、千葉工業大学顧問などを歴任。
高橋 元吉(たかはし もときち、1893年〈明治26年〉3月… 高橋 元吉(たかはし もときち、1893年〈明治26年〉3月6日 - 1965年〈昭和40年〉1月28日)は、大正から昭和にかけて活動した日本の詩人である。書店・煥乎堂社長。 1893年(明治26年)3月6日、書籍商を営む高橋常蔵、志づの次男として群馬県前橋市曲輪町に生まれる。3歳の時母を喪う。桃井尋常小学校を卒業後、前橋中学校(現在の群馬県立前橋高等学校)に入学。1910年(明治43年)前橋中学校を卒業後上京し神田の三省堂機械標本部へ入社。この頃尾崎喜八との交流が始まる。前橋へ帰郷後、父の書店煥乎堂で店員として働きながらメーテルリンクの翻訳などを行う。 1915年(大正4年)頃、武者小路実篤との交遊が始まり、のちに柳宗悦、千家元麿、岸田劉生、長与善郎らと交わる。
山口 茂(やまぐち しげる、1893年(明治26年)3月5日… 山口 茂(やまぐち しげる、1893年(明治26年)3月5日 - 1974年(昭和49年)8月21日)は、日本の経済学者。金融論、経済学史等を専攻した。一橋大学名誉教授。 神奈川県高座郡大和村(現・大和市)の地主の家に生まれる。暁星中学校を経て、1917年東京高等商業学校(現・一橋大学)本科卒業。1919年同校専攻部卒業。1921年から東京商科大学(現・一橋大学)附属商学部専門部助教授を務め、三浦新七、上田貞次郎のプロゼミに参加。1922年から銀行論の講義を担当し、佐野善作、高垣寅次郎の指導を受けた。1925年からイギリス、ドイツ帝国、フランス共和国、アメリカ合衆国に留学し、1927年に帰国すると東京商科大学助教授を兼任。
佐藤 幸徳(さとう こうとく、1893年(明治26年)3月5… 佐藤 幸徳(さとう こうとく、1893年(明治26年)3月5日 - 1959年(昭和34年)2月26日)は、日本の大日本帝国陸軍軍人。最終階級は中将。 山形県出身。陸士25期、陸大33期。インパール作戦において、軍司令官の牟田口廉也中将と対立し、作戦途中に師団長による独断退却を行ったことで知られる。 山形県に生まれた佐藤は、鶴岡中学校(現山形県立鶴岡南高等学校)から仙台陸軍幼年学校を経て、陸軍士官学校卒業。さらに1921年(大正10年)に陸軍大学校を卒業。陸軍参謀本部勤務や部隊勤務などを経る。 1930年(昭和5年)から2年間を陸軍参謀本部の戦史課で過ごす。この戦史課勤務時代に、小磯國昭や東條英機などの「統制派」に属する人物と多く交際し、橋本欣五郎とともに桜会の規約作成にも関与した。
佐藤 保太郎(さとう やすたろう、1893年3月5日 - 1… 佐藤 保太郎(さとう やすたろう、1893年3月5日 - 1977年3月7日)は、日本の地理学者、教育者、教育学者。第二次世界大戦直後の学習指導要領改訂などに携わり教育界の発展に寄与した。奥州大学(現富士大学)教授を歴任。
黒川 武雄(くろかわ たけお、1893年3月5日 - 197… 黒川 武雄(くろかわ たけお、1893年3月5日 - 1975年3月8日)は、日本の実業家、政治家。位階は正三位。虎屋15代当主、参議院議員(3期)、厚生大臣(第19代)。旧姓は福田。 熊本県出身。製菓業、虎屋・黒川家の養子となる。第一高等学校を経て、1917年(大正6年)、東京帝国大学法学部英法科を卒業し、第一銀行に入社。1919年(大正8年)、家業に専念し虎屋店主、さらに同会長を務め、東京和生菓子商工業協同組合理事長、全国生菓子協会会長となる。 1947年(昭和22年)4月、第1回参議院議員通常選挙に東京地方区で日本自由党から出馬し当選。のち自由党、自由民主党に所属。第3回、第5回参議院議員通常選挙で再選され3期務め、1965年(昭和40年)7月、第7回参議院議員通常選挙には出馬せず引退した。
大岬 伝左衛門(おおみさき でんざえもん、1893年3月5日… 大岬 伝左衛門(おおみさき でんざえもん、1893年3月5日 - 1926年12月23日)は、大正時代の力士。二十山部屋所属。本名は川浪 伝左衛門。青森県北津軽郡三好村(現五所川原市)出身。最高位は西十両筆頭。 1910年元横綱小錦の二十山部屋一行が五所川原で巡業を行った際、同郷の十三ノ浦の勧めで入門。翌1911年2月場所「清水川」の四股名で初土俵を踏む。順調に出世し、1914年1月場所から「大岬」に改名した。1917年1月場所新十両。この場所は1勝しかできず翌場所幕下に落ちたが、4勝1敗と勝ち越し十両復帰を果たした。1919年1月場所西十両4枚目まで躍進。この場所勝ち越して千秋楽に勝って星を増やせば入幕確実だったが、対戦相手の綾川と引き分けた。
高野 素十(たかの すじゅう、1893年(明治26年)3月3… 高野 素十(たかの すじゅう、1893年(明治26年)3月3日 - 1976年(昭和51年)10月4日)は、茨城県出身の日本の俳人・医師。学位は、医学博士。高浜虚子に師事。虚子の唱えた「客観写生」を忠実に実践、簡潔で即物的な写生句で頭角を現し、山口誓子、阿波野青畝、水原秋桜子とともに「ホトトギスの四S」と称された。「芹」主宰。本名:高野与巳(よしみ)。 1893年、茨城県北相馬郡山王村(現・取手市神住)に生まれる。農家の長男で、小学校卒業まで利根川とその支流小貝川に囲まれた美しい田園地帯で育った。1905年、新潟県長岡市に住む叔父のもとに寄宿し新潟県立長岡中学校に入学。第一高等学校を経て、1913年に東京帝国大学医学部に入学。
松原 至大(まつばら みちとも、1893年3月3日 - 19… 松原 至大(まつばら みちとも、1893年3月3日 - 1971年3月15日)は、日本の童話作家・翻訳家。 千葉県千葉市辰州町出身。別姓・村山。 1910年千葉県立千葉中学校卒。 1915年早稲田大学文学部英文科卒。 1916年頃より少女小説を書く。 1918年東京日日新聞(現・毎日新聞)に入り、「小学生新聞」編集長を務める。 1926年童話作家協会創立に参加した。 1954年に制定された、母校である千葉県立千葉高等学校(旧千葉県立千葉中学校)の校歌を作詞している。
帰山 教正(かえりやま のりまさ、1893年3月1日 - 1… 帰山 教正(かえりやま のりまさ、1893年3月1日 - 1964年11月6日)は、日本の映画理論家、映画監督、脚本家である。 日本映画界に革新をもたらした人物であり、日本最初の映画評論誌『キネマ・レコード』を創刊した後、舞台の模写的作品に過ぎない旧来の日本映画の革新を目指して、純映画劇運動を提唱。理論書『活動写真劇の創作と撮影法』を発表して、女優の起用、活動弁士の廃止、映画技法の使用などを主張。映画藝術協會を設立して自ら映画製作を行ってその理論を実践した。 1893年(明治26年)3月1日、東京市麹町区麹町四番町に、父・信順と母・トキの長男として生まれる。父の信順は東京府立第一中学校の化学教師だった。
大矢 省三(おおや しょうぞう、1893年3月1日 - 19… 大矢 省三(おおや しょうぞう、1893年3月1日 - 1962年1月19日)は、日本の政治家。衆議院議員(8期)。 1893年三重県志摩郡(後の阿児町、現志摩市)生まれ。1912年、大阪府に転居。大阪府立西野田職工学校卒業。 1926年、社会民衆党入党。1929年、大阪市会議員に此花区選挙区から当選。1945年、日本社会党結成に参加 1946年、第22回衆議院議員総選挙大阪府1区初当選。以後連続8期務める。 1948年、芦田内閣労働政務次官。1955年、衆議院地方行政委員長。1960年、民主社会党(後の民社党)結成に参加。1962年1月19日、衆議院議員在任中に大阪府大阪市の大阪市立桃山病院において死去、68歳。
上山 英三(うえやま えいぞう、1893年〈明治26年〉3月… 上山 英三(うえやま えいぞう、1893年〈明治26年〉3月1日 - 1981年〈昭和56年〉11月29日)は、日本の銀行家。台湾銀行頭取、全国相互銀行協会会長などを務めた。日貿信名誉顧問。大日本除虫菊取締役。 和歌山県有田郡保田村山田原(現・有田市山田原)出身。1917年3月、東京帝国大学法科大学政治学科卒業。大蔵省に入り、日本銀行監理官・銀行局検査課長・為替局長などを歴任し1937年、日本興業銀行理事に挙げられた。 日仏銀行取締役、商工組合中央金庫理事に選任された。1942年に台湾銀行副頭取に転じ、1944年に頭取に推され、1945年に退任する。1962年、歌会始の召人を務めた。 上山家は和歌山県有田郡保田村山田原(現・有田市山田原)の蜜柑農家である。
今 純三(こん じゅんぞう、1893年(明治26年)3月1日… 今 純三(こん じゅんぞう、1893年(明治26年)3月1日 - 1944年(昭和19年)9月28日)は、日本の銅版画家。銅版画の技法研究にほぼ独力で取り組み、昭和初期における日本の銅版画の普及に関与した。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
都家 文雄(みやこや ふみお、1893年3月1日 - 197… 都家 文雄(みやこや ふみお、1893年3月1日 - 1971年5月4日)は大正・昭和期の漫才師。本名・苗村 正次。 世相を槍玉に上げては、とんちんかんな難癖を付ける「ぼやき漫才」の創始者。 滋賀県三上山の麓に生まれる。父は興行師だったとされる。落語家を志し、1912年に桂三路(後の2代目三遊亭圓若)門下で桂歌路を名乗る。同年、神戸新開地・千代廼座で初舞台。落語家時代は、端席で出ることが多かった。24歳のときに、のちに相方となる静代と結婚。 大正に入ると、上方落語は凋落期に入った。当時の落語家は所属事務所から漫才師への転身をすすめられる事例が多かった。歌路も例外ではなく、1921年に「都家文雄」に改名し、漫才師に転身。