徳重 種彦(とくしげ たねひこ、1892年(明治25年)2月… 徳重 種彦(とくしげ たねひこ、1892年(明治25年)2月4日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の台湾総督府官僚。 鹿児島県鹿児島市常磐町に生まれる。1912年(明治45年)鹿児島市立商業学校を卒業し、1916年(大正5年)渡台する。 内務局地理課勤務を皮切りに、高雄州属、交通局書記を経て、1939年(昭和14年)地方理事官に進み、高雄州東港郡守に就任。ついで1942年(昭和17年)新竹州新竹郡守に転じた。
岩切 秀(いわきり ひで、1892年(明治25年)2月4日 … 岩切 秀(いわきり ひで、1892年(明治25年)2月4日 - 1971年(昭和46年)2月7日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功三級。旧姓は前原。 鹿児島県薩摩郡永利村(川内市を経て現薩摩川内市)出身。陸軍士官学校第26期卒業。1938年(昭和13年)に陸軍歩兵大佐に進級し、1939年(昭和14年)に歩兵第80連隊長に就任。1939年(昭和15年)に第7師団参謀長、1941年(昭和16年)陸軍歩兵学校教導連隊長を歴任し、1942年(昭和17年)に陸軍少将に進級し、仙台陸軍教導学校長に着任。 1943年(昭和18年)に歩兵第69旅団長に転じ、中国戦線に出動。揚州の警備に当たり、1944年(昭和19年)には支那派遣軍歩兵教育隊長に転じた。
松川 昌藏(まつかわ しょうぞう、1892年(明治25年)2… 松川 昌藏(まつかわ しょうぞう、1892年(明治25年)2月3日 - 1973年(昭和48年)4月23日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、一関市長、弁護士。位階は正五位。勲三等旭日中綬章。 岩手県東磐井郡松川村(のち東山町、現在の一関市)出身。1918年、京都帝国大学法科大学独法科を卒業。司法官試補から岐阜、水戸各地裁検事、福島地裁若松支部判事を歴任した後、1923年に退官して弁護士になる。一関町議、岩手県議、一関町長などを務め、1936年の第19回衆議院議員総選挙で立憲政友会公認で立候補して当選し、以来3期務める。戦後の1946年の総選挙で日本自由党公認で立候補して当選。自由党では政調会行政機構改革部長を務めた。
上田 辰之助(うえだ たつのすけ、1892年2月2日 - 1… 上田 辰之助(うえだ たつのすけ、1892年2月2日 - 1956年10月13日)は、日本の経済学者、思想史家。一橋大学名誉教授。日本学士院会員。ペンシルベニア大学博士。正三位勲一等瑞宝章、イタリア王国コンメンダトーリ・コローナ・イタリヤ受章。 東京市日本橋小網町出身。実家は上田回漕店。東京府立第一中学校(現東京都立日比谷高等学校)を経て、1914年に東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業。1916年、同校専攻部貿易科を卒業し同校講師に就任。1917年には教授に昇格。1918年からペンシルベニア大学に留学して海運論を研究。1920年、ペンシルベニア大学博士(Ph.D.)。一橋では上田貞次郎教授に師事した。
佐藤 カツ(さとう カツ、1892年(明治25年)2月2日 … 佐藤 カツ(さとう カツ、1892年(明治25年)2月2日 - 1969年(昭和44年)8月23日)は、日本の教育者。徳島県徳島市出身。佐香裁縫女学校、神戸シンガー女学院卒業。藍綬褒章、勲四等瑞宝章、従五位。 佐藤与三郎の娘として徳島市仲之町に生まれた。神戸シンガー女学院卒業。 1918年(大正7年)、女性の自立を唱え、徳島市内に徳島裁縫学院を創設、1925年(大正14年)に徳島洋服学院と改め、1943年(昭和18年)に徳島服装学院と改称、1951年(昭和26年)、学校法人四国文化服装学院を経営し、これを基盤として1961年(昭和36年)に四国女子短期大学を設立し、1966年(昭和41年)に四国女子大学(現在の四国大学)を創立、理事長となる。
子母澤 寛 (しもざわ かん、1892年2月1日 - 196… 子母澤 寛 (しもざわ かん、1892年2月1日 - 1968年7月19日)は、日本の小説家。本名:梅谷 松太郎(うめや まつたろう)。異父弟は洋画家の三岸好太郎。第10回菊池寛賞受賞。 祖父の梅谷十次郎(通称:斉藤鉄太郎または鉄五郎)は、江戸幕府から切り米20俵の家禄を受けていた御家人で彰義隊に参加し、箱館戦争に敗れ捕虜となった。釈放された後、札幌へ移り開墾に従事するが成功せず、札幌から10里ほど離れた石狩国の漁村・厚田村で漁場を持った。この祖父は網元で、旅館と料理屋を兼ねた「角鉄」も経営していた村の顔役であった。御家人崩れのヤクザ風な人柄であったという。 子母澤も厚田村に生まれ、早くに実母と別れ、祖父に溺愛されて育った。
岸田 蓁(きしだ しげる、1892年2月1日 - 1964年… 岸田 蓁(きしだ しげる、1892年2月1日 - 1964年10月12日)は、日本の茶人、画家。岸田劉生の妻として知られる。 旧姓は小林。1892年に学習院の漢学教授であった小林良四郎、シンの三女として生まれる。東京府立第二高等女学校(現・東京都立竹早高等学校)に在学中から鏑木清方について日本画を学んでいる。1913年に第2回フュウザン会展を見に行ったことが縁で同年7月に洋画家岸田劉生と結婚をする。しばらくは府下の西大久保にあった蓁の実家の2階に住んだ。翌1914年4月10日に長女の麗子が誕生する。1926年、長男鶴之助を産む。蓁自身は夫の劉生の絵のモデルを務めており、胸に手をおいた恰好で「画家の妻」や「南瓜を持てる像」に描かれている。
井口 竹次郎(いぐち たけじろう、1892年2月1日 - 1… 井口 竹次郎(いぐち たけじろう、1892年2月1日 - 1971年3月22日)は日本の実業家。大阪ガス元社長・会長。 京都府愛宕郡修学院村(現・京都市左京区)出身。京都府立第一中学校、三高を経て、1916年 京都帝国大学工学部卒業後、三井物産へ入社。1930年に大阪瓦斯へ中途入社。その後は専務取締役を経て、1949年3月24日より片岡直方の逝去に伴い、代表取締役社長に就任。1960年より代表取締役会長に就任。 その他には日本ガス協会会長、大阪工業会会長、朝日放送取締役などを歴任し、大阪高等技術研修所設立の推進も行った。1958年に藍綬褒章、1965年に勲二等旭日重光章を受章。1971年3月22日、79歳で死去。
宮城 タマヨ(みやぎ タマヨ、1892年〈明治25年〉2月1… 宮城 タマヨ(みやぎ タマヨ、1892年〈明治25年〉2月1日 - 1960年〈昭和35年〉11月19日)は、日本の社会事業家、政治家。参議院議員。旧姓・植田。 山口県吉敷郡山口町(現山口市)で、植田久之丞の二女として生まれる。1914年3月、奈良女子高等師範学校博物家事部を卒業し、母校の助教諭となる。 1920年から1923年まで大原社会問題研究所で児童保護問題などを研究。1922年、旧少年法が制定されたことに伴い、同年、文部省・司法省嘱託としてアメリカ合衆国に渡り少年保護事業などを研究した。帰国後、東京少年審判所で日本初の婦人保護司に就任した。1927年、大審院検事・宮城長五郎と結婚したが、1942年に死別した。
相馬 英二(そうま えいじ、1892年(明治25年)2月 -… 相馬 英二(そうま えいじ、1892年(明治25年)2月 - 没年不明)は、日本の実業家。弁天倉庫監査役。相馬合名出資社員。旧姓・小栗。 愛知県・小栗次郎の二男。小栗卓衛の弟。相馬市作の養子となる。横浜市立商業学校卒業。 宗教は曹洞宗。趣味は読書、旅行、囲碁。北海道在籍で、住所は函館市富岡町、東京市淀橋区百人町。
香山 小鳥(かやま ことり、1892年(明治25年)2月 -… 香山 小鳥(かやま ことり、1892年(明治25年)2月 - 1913年(大正2年)6月)は、長野県下伊那郡飯田町(現・飯田市)出身の版画家、詩人。本名は香山 藤禄(かやま ふじろく)。 長野県下伊那郡飯田町(現・飯田市)生まれ。1911年(明治44年)に長野県飯田中学校を卒業し、一家で東京の深川に移り住んだ。1912年(明治45年)には竹久夢二と出会い、そのつてで恩地孝四郎(小鳥より1年早い1891年生)や田中恭吉(小鳥と同じ1892年生)と出会った。同年4月には東京美術学校予備科に入学し、本科の彫刻科塑像部を志望するが、選抜に落第して7月には東京美術学校を退学し、木版彫師の伊上凡骨の下で木版画の勉強に励んだ。
尾崎 喜八(おざき きはち、1892年1月31日 - 197… 尾崎 喜八(おざき きはち、1892年1月31日 - 1974年2月4日)は、日本の詩人、随筆家、翻訳家。
今村 安(いまむら やすし、1892年(明治25年)1月30… 今村 安(いまむら やすし、1892年(明治25年)1月30日 - 1966年(昭和43年)10月23日)は、日本の陸軍軍人、馬術家。陸士25期、最終階級は陸軍大佐。 陸軍騎兵学校の教官として西竹一など騎兵の教育にあたったほか、イタリア留学中に欧州で行われる馬術競技会での日本人初の優勝者となる。帰国後はイタリアの自然馬術を日本に広め、戦後も関西を中心に馬術家の育成に努めた。 1892年(明治15年)1月30日、山梨県甲府市に父・虎尾と母・きよみの三男として生まれる。長男は振。次男は後に陸軍大将となる均。 1906年(明治39年)に仙台陸軍幼年学校に入学後、陸軍将校の娘だった母・きよみの勧めにより、均らほかの兄弟と同じく陸軍将校を志すことになる。
宮島 新三郎(みやじま しんざぶろう、1892年1月28日 … 宮島 新三郎(みやじま しんざぶろう、1892年1月28日 - 1934年2月27日)は、日本の文芸評論家、英文学者。 埼玉県出身。早稲田大学英文科卒。大学の同じクラスには植村宗一(直木三十五)、青野季吉、田中純、西条八十、細田民樹、細田源吉、木村毅らがいた。島村抱月に師事し、各国文学の翻訳を行うほか現代日本文学の評論も行い、1927年早大教授。 1934年2月27日、死去。42歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作詞家・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ:作家)。
細田 民樹(ほそだ たみき、1892年1月27日 - 197… 細田 民樹(ほそだ たみき、1892年1月27日 - 1972年10月5日)は、日本の小説家。 東京府生まれ。早稲田大学英文科卒。大学の同じクラスには宮島新三郎、植村宗一(直木三十五)、青野季吉、田中純、西条八十、細田源吉、木村毅など、後に文壇などで活躍する錚々たるメンバーが居た。1924年に軍隊生活を素材にした『或兵卒の記録』で反響を呼び、プロレタリア文学の作家として活躍した。弾圧以後は通俗小説に転ずるが、戦後は民主主義作家として活動した。 1972年10月5日、死去。80歳没。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
高木 武雄(たかぎ たけお、1892年(明治25年)1月25… 高木 武雄(たかぎ たけお、1892年(明治25年)1月25日 - 1944年(昭和19年)7月6日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。福島県石城郡大野村(現・いわき市)出身 。磐城中学校(現・福島県立磐城高等学校)卒。海軍兵学校(39期)、海軍大学校(23期)卒業。幼少のころから頭脳明晰で、同期中最年少の少尉任官であった。海軍兵学校同期に伊藤整一、山縣正郷、遠藤喜一、阿部弘毅、岡敬純、角田覚治、原忠一などがいる。 1911年(明治44年)7月、海軍兵学校(39期)を、148人中17位で卒業。 1912年(大正元年)12月、海軍少尉。 1914年(大正3年)12月、海軍中尉。 1917年(大正6年)12月、海軍大尉。
生田 龍作(いくた りゅうさく、1892年〈明治25年〉1月… 生田 龍作(いくた りゅうさく、1892年〈明治25年〉1月25日 - 没年不明)は、日本の政治家。全日本金属鉱山労働組合連合会中央執行委員長・栃木県県議会議員(後に副議長)。
小池 正朝(こいけ まさとき、明治25年(1892年)1月2… 小池 正朝(こいけ まさとき、明治25年(1892年)1月25日 - 昭和47年(1972年)5月29日)は、日本の泌尿器科学者、医学博士(東北帝国大学)。順天堂大学教授、江東病院初代院長。男爵・小池正直の四男。東京市小石川(現・東京都文京区小石川)出身。
小川 一清(おがわ かずきよ、1892年(明治25年)1月2… 小川 一清(おがわ かずきよ、1892年(明治25年)1月25日 - 1958年(昭和33年)12月11日)は、日本の電気工学者。電気学の権威。神奈川大学教授、同大理事を兼任した。京都帝国大学工科教授工学博士小川梅三郎・志摩(共に同墓)の長男であり、妻の香代(香代子)の家系も科学者の家系であり父は地質学者小川琢治、母小雪(小川駒橘の娘)であり、その小川琢治の三男にノーベル賞物理学者湯川秀樹がいる。一清と香代の長男の小川岩雄も核物理学者。享年66歳。墓所は多磨霊園。 東京出身。東京帝国大学卒業。逓信省電気試験所第二部長、東北帝国大学教授、富士通信機製造取締役部長、古河電工通信機部長などを歴任。1949年(昭和24年)新制神奈川大学発足時に神奈川大学教授。
五十嵐 勇(いがらし いさむ、1892年(明治25年)1月1… 五十嵐 勇(いがらし いさむ、1892年(明治25年)1月18日 - 1986年(昭和61年)3月7日)は、日本の金属工学者。 1892年(明治25年)に熊本県に生まれる。1909年(明治42年)に熊本県立玉名中学校を卒業後、広島高等師範学校を経て、京都帝国大学理学部を卒業した。 住友金属工業伸銅所に勤務中の1938年(昭和13年)に航空機に使う超々ジュラルミンを開発した。戦後は1946年(昭和21年)から東北大学教授。その他、秋田大学や岩手大学の教授も務めた。退官後は熊本県熊本市に居住した。1986年(昭和61年)死去。
石田 乙五郎(いしだ おとごろう、1892年(明治25年)1… 石田 乙五郎(いしだ おとごろう、1892年(明治25年)1月18日 - 1977年(昭和52年)3月7日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は中将。憲兵司令部本部長。戦後、A級戦犯として逮捕された。 広島県に生まれ、東京帝国大学政治学科を卒業。 1913年、陸軍士官学校(25期)を卒業して陸軍少尉となる。 1930年、牛込憲兵分隊長、1935年、羅南憲兵隊長 となる。 1938年、陸軍大佐となり、支那駐屯憲兵隊警務部長に就任。 1941年、台湾憲兵隊長、1942年、陸軍少将・台湾憲兵隊司令官となる。1944年、陸軍憲兵学校長、憲兵司令部本部長となる。1945年4月30日、陸軍中将となる。 1945年8月15日、終戦の日に大阪憲兵隊に留置されていた米軍捕虜搭乗員5人が真田山墓地で2人が斬首、3人が銃殺され、埋められる。
西條 八十(さいじょう やそ、新字体:西条、1892年1月1… 西條 八十(さいじょう やそ、新字体:西条、1892年1月15日 - 1970年8月12日)は、日本の詩人、作詞家、仏文学者、小説家。早稲田大学文学部文学科元教授であった。 長男の西條八束は陸水学者。長女の三井ふたばこ(西條嫩子)も詩人。孫の西條八兄はエレキギター製作者。 自費出版した処女詩集『砂金』(1919年)が好評を博し、抒情性に富んだ清新な詩風で、象徴詩人としての地位を確立。童謡、歌謡曲の作詞も多く手がけた。作品に詩集『一握の玻璃』(1951年)など。 東京府東京市牛込区牛込払方町(現:東京都新宿区払方町)出身。石鹸の製造販売業で財を成したが、父親の死後、家庭は没落した。1898年、桜井尋常小学校に入学。
山下 徳治(やました とくじ、1892年1月15日 - 19… 山下 徳治(やました とくじ、1892年1月15日 - 1965年7月10日、正字では「德治」)は、日本の教育学者。改姓後は「森 徳治」と称した。戦前の新自由教育運動の中で、欧州、ソビエト連邦への留学、視察を通じて獲得した労働教育を中心にした教育理論の移入を図った。また、生前のヴィゴツキーに会った唯一の日本人として知られている。筆名は「村上 純」。 1892年、鹿児島県徳之島生まれ。西南戦争敗戦後一家で徳之島に移住し、父は砂糖製造、販売業に従事。山下3歳のとき一家は鹿児島市に転居し、西田町に住む。西田小学校、鹿児島高等小学校を卒業。鹿児島第一中学校(旧制)入学後から教師を志し、同校2年生のとき鹿児島師範学校に転入学し、同校を1913年卒業。
三鬼 隆(みき たかし、1892年1月14日 - 1952年… 三鬼 隆(みき たかし、1892年1月14日 - 1952年4月9日)は、日本の実業家。第二次世界大戦後に日本製鐵(現・日本製鉄)社長を務め、日鐵解体後は八幡製鐵の初代社長となった。日本経営者団体連盟(旧日経連)の第2代会長(代表常任幹事)を務めるなど財界に重きをなしたが、航空機事故で遭難死した。父は実業家・政治家の三鬼鑑太郎。長男は元新日本製鐵会長の三鬼彰。 1892年(明治25年)、岩手県盛岡市に生まれる。父の三鬼鑑太郎は当時岩手県庁の官吏であったが、のちに実業界(花巻軽便鉄道社長)から衆議院議員(1936年当選)に転身する人物である。五男四女の二男であるが、兄が夭折しているために、実質的には長男として育っている。
秦 豊吉(はた とよきち、1892年1月14日 - 1956… 秦 豊吉(はた とよきち、1892年1月14日 - 1956年7月5日)は、日本の実業家、演出家、翻訳家、随筆家、興行師。
小林 光政(こばやし みつまさ、1892年(明治25年)1月… 小林 光政(こばやし みつまさ、1892年(明治25年)1月13日 - 1962年(昭和37年)7月9日)は、日本の内務・警察官僚、実業家。官選県知事、読売新聞社専務取締役。 栃木県下都賀郡絹村延島(現小山市)出身。小林長蔵の長男として生まれた。第一高等学校を卒業。1916年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1917年3月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。内務省に入省し警視庁警部となる。 以後、警視庁警視、同特別高等課長、兼警察講習所教授、朝鮮総督府事務官、台湾総督府事務官・警務局保安課長、警視庁書記官・官房主事、内務省警保局勤務、福岡県内務部長、埼玉県書記官・内務部長などを歴任。
池田 林儀(いけだ しげのり、1892年〈明治25年〉1月1… 池田 林儀(いけだ しげのり、1892年〈明治25年〉1月11日 - 1966年〈昭和41年〉7月15日)は大正・昭和時代のジャーナリスト。 秋田県由利郡仁賀保町出身。旧制本荘中、東京外国語学校(現東京外語大学)シャム語科卒。大日本雄弁会講談社社員を経て報知新聞社にうつる。大隈重信の番記者をへてベルリン特派員。『優生運動』(1926-1930)を刊行し、日本の優生学の普及を図った。ワンダーフォーゲル運動を日本に紹介し、足の会を優生運動の一環として行った。 1933年(昭和8年)京城日報に招聘され副社長に就任。昭和14年(1939年)報知新聞に復社し編集局長就任。戦後「秋田魁新報」に随筆「話の耳袋」を長期連載した。
川島 つゆ(かわしま つゆ、1892年1月10日 - 197… 川島 つゆ(かわしま つゆ、1892年1月10日 - 1972年7月24日)は、国文学者、俳人。 埼玉県出身。本名は以志。俳号は露石。三輪田高等女学校(現・三輪田学園中学校・高等学校)卒。沼波瓊音に俳句を学ぶ。別府大学教授、梅花女子大学教授。一茶、芭蕉、女流俳人などを研究。
石橋 五郎(いしばし ごろう、1892年 <明治25年> 1… 石橋 五郎(いしばし ごろう、1892年 <明治25年> 1月10日 - 1971年 <昭和46年> 1月10日)は、日本の経営者。藤倉電線(現在のフジクラ)社長を務めた。位階は正五位。 佐賀県出身。1913年に山口高等商業学校を卒業し、1922年に藤倉電線に入社。 取締役、常務を経て、1948年5月には社長に就任。1961年7月には会長に就任。 1960年に藍綬褒章を受章し、1965年に勲三等瑞宝章を受章。 1971年1月10日、肺機能障害のために死去。79歳没。死没日付をもって正五位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
大矢 半次郎(おおや はんじろう、1892年〈明治25年〉1… 大矢 半次郎(おおや はんじろう、1892年〈明治25年〉1月9日 – 1977年〈昭和52年〉12月7日)は、大正から昭和期の大蔵官僚、弁護士、政治家。参議院議員、農林中央金庫副理事長。旧姓は佐々木。 岩手県紫波郡、のちの都南村(現盛岡市)で、佐々木定吉の三男として生まれ、政治家大矢馬太郎の養子となり1918年(大正7年)に分家した。盛岡中学校(現岩手県立盛岡第一高等学校)を経て、第一高等学校を卒業し、1917年(大正6年)10月、文官高等試験行政科試験に合格。1918年、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業した。同年、大蔵省に入省し参事官室属となる。 以後、富山税務署長、品川税務署長、永代税務署長、仙台税務監督局直税部長、大阪税務監督局直税部長、銀行検査官、大蔵省主税局国税課長兼主税局臨時土地調査課長、東京税務監督局長、日本銀行監理官、大蔵省主税局長などを歴任。
篠原 義政(しのはら よしまさ、1892年(明治25年)1月… 篠原 義政(しのはら よしまさ、1892年(明治25年)1月9日 – 1943年(昭和18年)7月16日)は、衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。旧名は文治。 群馬県碓氷郡八幡村(現在の高崎市)出身。旧制高崎中学卒業。1916年(大正5年)に高等文官試験に合格し、翌年に東京帝国大学法科大学法律科を卒業した。内務省に入り、長野県属、東京府属、内務属を歴任した。1919年(大正8年)に内閣軍需局事務官となり、翌年には国勢院事務官に任命された。1922年(大正11年)に退官した後は弁護士・弁理士事務所を開業した。 1932年(昭和7年)、第18回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。4回連続当選を果たした。
田嶋 隆純(たじま りゅうじゅん、1892年〈明治25年〉1… 田嶋 隆純(たじま りゅうじゅん、1892年〈明治25年〉1月9日 - 1957年〈昭和32年〉7月24日)は、日本の仏教学者。大正大学教授。真言宗豊山派大僧正。 チベット語に訳された仏教文献の精査解読とそれに基づくチベット訳と漢訳の仏典対照研究の先駆けとなった。 大正末期、日本におけるチベット語の先駆者河口慧海に師事しチベット語を修得。昭和初期にフランスに渡りソルボンヌ大学に留学。チベット訳の『大日経』や曼荼羅の研究に学績を残した。また大戦後、花山信勝の後を受けて巣鴨拘置所の教誨師となり、刑場に臨む戦犯に寄り添い処刑に立ち会うとともにBC級戦犯の助命減刑嘆願にも奔走した。その「代受苦」(地蔵菩薩の身代りの徳)の活動が多くの戦犯から感謝され、「巣鴨の父」と慕われた。
土井 藤右衛門(どい とうえもん、旧姓・木村、前名・卓爾、1… 土井 藤右衛門(どい とうえもん、旧姓・木村、前名・卓爾、1892年(明治25年)1月9日 - 没年不明)は、日本の会社役員。族籍は三重県平民。 三重県員弁郡東員村(現東員町)出身。木村誓太郎の七男。木村秀興の弟。先代藤右衛門の養子となり、1910年に家督を相続し、卓爾を改め襲名する。 1912年、第三高等学校を卒業。1916年、東京帝国大学法科大学独法科を卒業する。東京練炭製造所、北山索道、草津電鉄、日化燃料、佐藤衡器各会社の重役である。 紀勢東線相賀尾鷲間の工事開始等は土井が帝都にあって尽くすところが多かった。 住所は三重県北牟婁郡尾鷲町大字南浦(現・尾鷲市)、東京市芝区白金三光町、赤坂区青山南町二丁目。
堀口 大學(ほりぐち だいがく、新字体:堀口 大学、1892… 堀口 大學(ほりぐち だいがく、新字体:堀口 大学、1892年〈明治25年〉1月8日 - 1981年〈昭和56年〉3月15日)は、明治から昭和にかけての日本の詩人・歌人・フランス文学者。訳詩書は300点を超え、日本の近代詩に多大な影響を与えた。雅号は十三日月。葉山町名誉町民。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 欧米生活を経て、フランス近代詩の訳詩集『月下の一群』(1925年)を発表し反響を呼んだ。象徴派の詩に知性と官能美を加えた優雅な創作詩でも後進に影響を与えた。作品に『月光とピエロ』(1919年)、『砂の枕』(1926年)など。 1892年(明治25年)、帝国大学法科大学在学中であった堀口九萬一(のち外交官)の長男として、東京市本郷区森川町(現:東京都文京区本郷或いは西片辺り)に生まれる。
久保 角太郎(くぼ かくたろう、1892年(明治25年)1月… 久保 角太郎(くぼ かくたろう、1892年(明治25年)1月7日 - 1944年(昭和19年)11月18日)は、昭和初期の宗教家。霊友会の創設者。『法華経』に基づく在家による菩薩行を実践した。 普遍的な菩薩行の実践は、古来より大乗仏教の理想であった。しかし、19世紀の終り頃までは、アジアの伝統的な仏教国においては、人々の識字率は極めて低く、経典を自分で読む事など不可能だった。僧院等で教育を受け訓練された僧侶だけが仏の教えを本格的に行じることが出来た。そのため在家出家を問わない全ての人々による菩薩行の実践という理想は、長い仏教史上において一度も実現される事はなかった。 時代は下り、仏教国の一つである日本において、19世紀の終り頃から始まった全国的教育制度の普及により、人々の識字率は劇的に向上した。
中院 孝圓(なかのいん たかまる、1892年〈明治25年〉1… 中院 孝圓(なかのいん たかまる、1892年〈明治25年〉1月7日 - 1977年〈昭和52年〉1月21日)は、日本の病理学者、内科学者、内科医。医学博士。神戸医科大学第一内科学教室初代教授。 新潟県三島郡与板町大字与板(現 長岡市与板町与板)の浄土真宗本願寺派・明元寺の中院正信の次男として出生。 1910年(明治43年)3月に新潟中学校を卒業、1914年(大正3年)11月に新潟医学専門学校を卒業、新潟医学専門学校病理学教室助手に就任、1916年(大正5年)11月に京都帝国大学医科大学病理学教室助手に就任。 1921年(大正10年)4月に神戸病院病理科副医長に就任、10月に京都帝国大学から医学博士の学位を取得、1922年(大正11年)に神戸病院病理科医長・医化学科医長に就任、1924年(大正13年)に神戸病院病理科医長・胃腸科副医長に就任、1928年(昭和3年)5月にドイツに留学、イギリスとフランスの医学を視察、1929年(昭和4年)6月に帰国、12月に神戸病院内科呼吸器科部長・病理科部長に就任。
伊達 順之助(だて じゅんのすけ、明治25年(1892年)1… 伊達 順之助(だて じゅんのすけ、明治25年(1892年)1月6日 - 昭和23年(1948年)9月9日)は、満蒙独立運動や山東自治聯軍に参加した大陸浪人・馬賊。仙台藩知事であった男爵伊達宗敦の六男で、仙台藩祖伊達政宗の直系子孫、幕末の四賢侯の一人の宇和島藩主伊達宗城の孫にあたる。中国名は張宗援。
大達 茂雄(おおだち しげお、1892年(明治25年)1月5… 大達 茂雄(おおだち しげお、1892年(明治25年)1月5日 - 1955年(昭和30年)9月25日)は、日本の内務官僚、政治家。内務大臣(小磯内閣)、文部大臣(第5次吉田内閣)。参議院議員(1期)。 島根県那賀郡浜田町(現・浜田市)に、酒造業・大達新作の次男として生まれる。浜田中学から一高に進み、1916年(大正5年)に東京帝国大学法科大学政治学科を卒業、内務省に入る。宮城県属。 内務省では地方局財務課長を経て1932年(昭和7年)福井県知事となる。福井師範学校整理問題で県会と衝突し、それに対する内務省の扱いに不満を抱いて辞表を提出した。 1934年に満洲国に招かれて満洲国国務院総務庁法制処長、1936年同国務院総務庁長を歴任。
宮本 武之輔(みやもと たけのすけ、1892年(明治25年)… 宮本 武之輔(みやもと たけのすけ、1892年(明治25年)1月5日 - 1941年(昭和16年)12月24日)は、日本の工学者・土木技術者。内務官僚・企画院次長。 愛媛県松山市興居島出身。1917年(大正6年)、東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業し、内務技手となった。1919年(大正8年)、内務技師となり、東京第一土木出張所、東京土木出張所、新潟土木出張所・土木試験所、内務省土木局に勤務した。1910年代には、当時待遇が文官に比べて冷遇されていた土木官僚たちによる待遇改善をめざした「技術者水平運動」のリーダー的存在であった。その間、1928年(昭和3年)に工学博士号を受けた。1937年(昭和12年)から東京帝国大学工学部教授を兼任。
上川 豊(かみかわ ゆたか、1892年1月5日 - 1984… 上川 豊(かみかわ ゆたか、1892年1月5日 - 1984年4月29日)は日本の医師。ハンセン病の治療、研究に従事し、国立療養所菊池恵楓園、台湾総督府楽生院(初代院長)、国立療養所東北新生園(2代目園長)で勤務した。大風子油を研究し、東北新生園時代は社会復帰農園を作った。 1892年広島県生まれ。大正6年(1917年)長崎医学専門学校卒業。皮膚科(青木大勇教授)に入る。第2代笹川教授の示唆で、1919年九州療養所国立療養所菊池恵楓園に入る。大風子油を研究し、1930年4月に京都大学にて医学博士。論文の題は 「大風子油の癩に対する治療的有効作用に就て」。 1930年8月、台湾総督府のらい療養所(楽生院)初代所長に任命された。
熊谷 綾雄(くまがい あやお、1892年(明治25年)1月5… 熊谷 綾雄(くまがい あやお、1892年(明治25年)1月5日 - 1968年(昭和43年)6月19日)は、日本の政治家。室蘭市長(5期)。位階は正五位。 岩手県西磐井郡一関町(現・一関市)出身。鉄道教習所を卒業後、旭川駅電信掛を皮切りに鉄道員の道を歩む。その後、名寄、滝川、岩見沢、室蘭の各駅長、稚内、旭川、室蘭の各運輸事務所長、稚内、室蘭の各管理部長を務めた。 戦後の1946年、室蘭市長松尾孝之が死去。市長選挙(準公選)が行われることになり、市長選挙に立候補して当選した。翌年4月の選挙でも当選した。市長在職中は小中学校の校舎の充実や室蘭工業専門学校の大学昇格、室蘭工業大学短期大学部の設置、図書館の開設、消防力の強化、社会福祉の充実など市の再建に大きく貢献した。
天野 久(あまの ひさし、1892年1月5日 - 1968年… 天野 久(あまの ひさし、1892年1月5日 - 1968年2月15日)は、日本の政治家、実業家。位階は従三位、勲等は勲二等。衆議院議員(3期)。山梨県知事(公選第2-5代)。 山梨県東山梨郡七里村下於曽(のち東山梨郡塩山町→塩山市、現在の甲州市塩山下於曽)の出身。生家は江戸時代には村役人を務める。高等小学校卒業後に上京し、官費の逓信講習所(現在の電気通信大学)入学を望むが果たせずに帰郷し、1911年(明治44年)に下於曽で、政友会代議士でもある田邊七六の経営する田辺酒造店に奉公する。後に北都留郡笹子村(現大月市笹子町)で笹一酒造を創業し、山梨県酒類販売連合会会長などを務める。また、笹子郵便局長を兼ねていた。
宮崎 繁三郎(みやざき しげさぶろう、明治25年(1892年… 宮崎 繁三郎(みやざき しげさぶろう、明治25年(1892年)1月4日 - 昭和40年(1965年)8月30日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。長男は、陸軍士官学校出身で元明治大学総長の宮崎繁樹。 岐阜県出身。岐阜中学(現岐阜県立岐阜高等学校)を卒業後、陸士(26期)を卒業、席次は737人中230番。歩兵第16連隊(新潟県新発田市)に配属された。本来であれば陸大に入学するのに必要な連隊長からの推薦も受けられない成績であったが、二度目の受験で合格し陸大36期を64人中29番で卒業した。 参謀本部支那班などを経てハルビン特務機関補佐官についた。満州の不安定化と日本軍の勢力拡大を目論む甘粕正彦などの工作活動に関与した。
窪井 義道(くぼい よしみち、1892年(明治25年)1月4… 窪井 義道(くぼい よしみち、1892年(明治25年)1月4日 - 1949年(昭和24年)11月13日)は、日本の政治家・弁護士・実業家。立憲政友会→昭和会→政友会革新同盟→日本進歩党所属の衆議院議員で内務政務次官や海軍参与官を務めた。 山口県熊毛郡三丘村(現・周南市)出身。1918年(大正7年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。大倉商事に入社したが、1922年(大正11年)に法律研究のためドイツに留学した。1924年(大正13年)に帰国し、弁護士を開業した。 1924年(大正13年)、衆議院補欠選挙に出馬し当選。さらに第18回衆議院議員総選挙から第21回衆議院議員総選挙まで4期連続当選を果たした。
村上 龍太郎(むらかみ りゅうたろう、1892年(明治25年… 村上 龍太郎(むらかみ りゅうたろう、1892年(明治25年)1月4日 - 1964年(昭和39年)7月31日)は、日本の農林官僚。馬政局長官。 愛媛県出身。1916年(大正5年)、高等文官試験に合格し、翌年に東京帝国大学法科大学政治科を卒業した。山林属、山林事務官・農商務事務官、特許局事務官・農商務参事官、農林書記官・大臣官房文書課長・統計課長、農務局農政課長を歴任。1931年(昭和6年)、畜産局長となり、1933年(昭和8年)には山林局長に転じた。山林局長在任中は関東軍軍令部附・同顧問を務めた。1937年(昭和12年)、馬政局次長、ついで馬政局長官に就任した。 退官後は日本競馬会副理事長となり、1941年(昭和16年)からは農地開発営団理事長となった。
阿部 茂夫(あべ しげお、1892年(明治25年)1月3日 … 阿部 茂夫(あべ しげお、1892年(明治25年)1月3日 - 1960年(昭和35年)8月3日)は、大正から昭和期の教育者、政治家。衆議院議員。 徳島県徳島市富田浦町に生まれる。1912年(明治45年)徳島県師範学校を卒業し、徳島県名東郡沖洲尋常高等小学校訓導、津田尋常高等小学校訓導、津田水産補修学校訓導を務めた。1919年(大正8年)早稲田大学政経科を修了。 古河鉱業(現古河機械金属)に入社し、1922年(大正11年)労働事情調査のためアメリカ合衆国へ派遣されイェール大学で学んだ。1927年(昭和2年)に帰国後、社会民衆党に入党した。1930年(昭和5年)全国民民衆党の結成に参画し中央委員に就任。
春日井 新一郎(かすがい しんいちろう、1892年(明治25… 春日井 新一郎(かすがい しんいちろう、1892年(明治25年)1月2日 - 1952年(昭和27年)6月3日)は、日本の肥料学者である。 東京府東京市(現在の東京都区部)に生まれる。1905年に東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)、1909年に東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。第一高等学校を経て、東京帝国大学(現在の東京大学)に入学し、農芸化学を専攻した。1918年(大正7年)の卒業後も大学に残り講師や農商務省の技手等を経て、1923年(大正12年)に助教授として務め、1937年(昭和12年)から1939年(昭和14年)の帰国まで肥料の研究のためドイツに留学する。
柏尾 誠一郎(かしお せいいちろう、1892年〈明治25年〉… 柏尾 誠一郎(かしお せいいちろう、1892年〈明治25年〉1月2日 - 1962年〈昭和37年〉12月16日)は、大阪府出身の男子テニス選手。1920年のアントワープ五輪において、テニスの男子ダブルスで熊谷一弥とペアを組み、日本人のスポーツ選手として史上初のオリンピック・メダルを獲得した選手として知られている。 1892年、大阪府に生まれる。旧制大阪府立北野中学校(現大阪府立北野高等学校)を経て、1913年に東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。後にテニスの国際舞台でも活躍した清水善造は、柏尾と同じ東京高等商業学校庭球部のライバルであった。 大学卒業後三井物産に入社し、上海、ニューヨーク、リヨンの駐在員として働いたのち、横浜支店生糸部総務掛として勤務。
松平 康春(まつだいら やすはる、1892年〈明治25年〉1… 松平 康春(まつだいら やすはる、1892年〈明治25年〉1月2日 - 1972年〈昭和47年〉3月18日)は、大正から昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。旧名・正二郎。 旧津山藩主家当主、子爵・松平康民の二男として生まれる。1917年(大正6年)1月29日、康春と改名。父の死去に伴い、1921年(大正10年)3月22日、子爵を襲爵した。 学習院を経て、1920年(大正9年)に東京帝国大学理学部植物学科を卒業。朝鮮銀行監事を務めた。 1925年(大正14年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され、研究会に所属して活動し、1946年(昭和21年)4月25日に辞任するまで3期在任した。この間、地方制度調査会委員、商工省委員、農商省委員を務めた。
庄司 一郎(しょうじ いちろう、1892年(明治25年)1月… 庄司 一郎(しょうじ いちろう、1892年(明治25年)1月1日 - 1964年(昭和39年)8月15日)は、日本の政治家。衆議院議員(立憲政友会→日本自由党→民主自由党→自由党)。厚生政務次官。宮城県柴田郡大河原町長。 宮城県伊具郡角田町(現角田市)出身。庄司房治の次男。東北学院で学び、中退した。『仙台日日新聞』『東北新聞』記者、『仙南新聞』主幹を務めた。後に仙南日日新聞社、雑誌『新東北』を創刊し、社長に就任した。また大河原町会議員、宮城県会議員、大河原町長などを歴任した。 1937年(昭和12年)の第20回衆議院議員総選挙で立憲政友会公認で立候補して当選した。以来当選6回。1942年(昭和17年)の第21回衆議院議員総選挙(いわゆる「翼賛選挙」)では非推薦で立候補して当選した。