塩野 孝太郎(しおの こうたろう、1910年 <明治43年>… 塩野 孝太郎(しおの こうたろう、1910年 <明治43年> 11月13日 - 1989年 <平成元年> 11月20日)は、日本の経営者。塩野義製薬社長、会長を務めた。位階は正四位。 大阪府出身。1934年に神戸商業大学を卒業し、同年に塩野義製薬に入社。 1937年に取締役に就任し、1941年に専務を経て、1953年10月には社長に就任した。1982年6月から会長を務めた。 1971年11月に藍綬褒章を受章し、1981年4月に勲二等瑞宝章を受章。 1989年11月20日呼吸不全のために死去。79歳没。死没日付をもって正四位に叙された。
花岡 堅而(はなおか けんじ、1910年11月12日 - 1… 花岡 堅而(はなおか けんじ、1910年11月12日 - 1997年4月22日)は、日本の医師。日本医師会会長、長野大学理事長、長野五輪招致委員会の自然保護専門委員長などを務めた。 長野県南安曇郡穂高町(現・安曇野市)生まれ。旧制松本中学校(現・長野県松本深志高等学校)、旧制松本高等学校理科甲類を経て、1936年に新潟医科大学(現・新潟大学医学部)を卒業し、同大学の生化学教室や産婦人科教室で勤務した。1941年、岡谷市立岡谷病院の産婦人科医長に就任し、1943年から軍医として中国北部で従軍。終戦後の1946年に復員して新潟大学の産婦人科教室に戻り、翌1947年に岡谷病院の産婦人科医長に復職している。
喜多野 徳俊(きたの のりたか、1910年〈明治43年〉11… 喜多野 徳俊(きたの のりたか、1910年〈明治43年〉11月12日 - 2005年〈平成17年〉7月30日)は、昭和〜平成期に活躍した医師、郷土史家。奈良地方の郷土史を記録する多くの著作や中世地誌の現代語訳を残した。京都府京都市出身。 1910年(明治43年)11月12日、父・竹澤徳蔵、母うめの五男、竹澤徳俊として生まれる。 1935年(昭和10年)、名古屋医科大学を外科学専攻にて卒業し、同年名古屋大学医学部助手としての勤務を始める。同年末、奈良市中筋町で病院を経営する喜多野義夫との養子縁組およびその長女、文子との縁談が持ち込まれる。医学者としての研究継続を望んでいた徳俊は逡巡したが、学位論文完成までは研究を続けること、その後は奈良で喜多野病院を継ぐが、家業の耳鼻咽喉科だけでなく、徳俊の専門であった外科の診療も行うことなどを条件に、縁談は進められることとなった。
野原 覚(野原 覺、のはら かく、1910年11月12日 -… 野原 覚(野原 覺、のはら かく、1910年11月12日 - 1999年4月6日)は、日本の政治家。日本社会党所属の衆議院議員(4期)。 長崎県出身。1938年(昭和13年)、立命館大学専門部法律科卒業。 大阪府にて教職に就き、大阪教職員組合執行委員長、大阪府労組連合協議会議長、日本教職員組合近畿地区協議会委員長などを歴任。 1953年の第26回衆議院議員総選挙において、左派社会党より旧大阪府第1区から立候補し初当選、以後当選4回。社会党左派に属し、党中央委員、遊説部長、国会対策副委員長、書記長などを経て、大阪府連合第一地区協議長、日本農民組合大阪府連顧問、党本部近畿圏整備副委員長に就任したほか、議院運営委員会理事、公職選挙法に関する調査特別委員会理事等も務めた。
藤沢 武夫(藤澤 武夫、ふじさわ たけお、1910年11月1… 藤沢 武夫(藤澤 武夫、ふじさわ たけお、1910年11月10日 - 1988年12月30日)は、日本の実業家。自動車メーカーの本田技研工業(ホンダ)に代表される工業系の企業で経営面を務めることが多かった。 本田宗一郎と共にホンダを世界的な大企業に育て上げた。本田宗一郎の名参謀と言われ、本田は藤沢に実印と会社経営の全権を委ね、自らは技術者に徹していた。 劇作家で舞台演出家の藤沢文翁は孫にあたる。 1910年(明治43年)、東京府東京市小石川区中富坂町(現・東京都文京区小石川)で父秀四郎、母ゆきの間に生まれる。藤沢家は現在の茨城県結城市で代々漢方医を務める名家だったが、藤沢の祖父の代で廃業となり、秀四郎は上京した。
西村 幸生(にしむら ゆきお、1910年11月10日 - 1… 西村 幸生(にしむら ゆきお、1910年11月10日 - 1945年4月3日)は、1930年代の日本を代表する職業野球選手(投手)。三重県宇治山田市大世古町(現:伊勢市大世古二丁目)出身。 主戦投手として、大学野球の関西大学、職業野球の大阪タイガース(現在の阪神タイガース)といった名門チームの黄金時代を築き、初代巨人キラーとしても知られる。現在では、「酒仙投手」と呼ばれることも多い。甥の西村隆明 は、伊勢市内で鰻料理店を営んでいる。 1917年に入学した宇治山田市第七尋常小学校(現在の伊勢市立厚生小学校)で野球を始め、1923年に三重県立宇治山田中学校(現在の三重県立宇治山田高等学校)に進学して野球部に入部するとたちまちエースになり、その後主将を任された。
桶谷 繁雄(おけたに しげお、1910年11月10日 - 1… 桶谷 繁雄(おけたに しげお、1910年11月10日 - 1983年2月12日)は、日本の金属学者、科学・社会評論家。 東京工業大学名誉教授。専攻は金属結晶学。 桶谷清吉の長男として東京・浅草に生まれ、花柳界の中心地で育った。 暁星中学校で吉田健一と同級生。東京高校理科乙類で級長。このとき、同学年の理科甲類の級長が糸川英夫だったが、糸川の首席は「余力のあるトップ」で桶谷より遥かに優秀だったという。 東京帝国大学工学部冶金学科卒業後、フランス政府招聘留学生として1935年にブザンソン大学物理研究所に留学し、2年の滞在後、東大工学部副手を経て、1942年に東京工業大学助教授となる。 1949年にパリのフランス国立中央科学研究所研究員として再度留学。
梶木 隆一(かじき りゅういち、1910年11月10日 - … 梶木 隆一(かじき りゅういち、1910年11月10日 - 2012年5月6日)は、日本の英語学者。東京外国語大学名誉教授。 東京生まれ。東京帝国大学卒業。1955年東京外国語大学教授、1973年定年、名誉教授となり明星大学教授、駿台予備学校でも英語を教えた。語学教育研究所理事長(1980年4月~1986年3月)、大学英語教育学会会長などを歴任。大学、高校入試の英語教科書を数多く著し、受験英語に活躍、また英語の辞書も編纂した。 2012年5月6日に心不全で死去。101歳没。 この項目は、言語学に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ウィキポータル 言語学)。
高岩 肇(たかいわ はじめ、1910年11月9日 - 200… 高岩 肇(たかいわ はじめ、1910年11月9日 - 2000年1月28日)は、日本の脚本家。 東京生まれ。慶應義塾大学卒。在学中から小説『季節の展望』『素質』『新三田派』を発表した。1939年の映画『若き日の感激』で脚本を担当。以後シナリオ作家として活動し、1951年から東映や大映を中心に映画脚本を執筆した。 2000年1月28日、腎不全のため死去。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
大後 美保(だいご よしやす、1910年(明治43年)11月… 大後 美保(だいご よしやす、1910年(明治43年)11月8日 - 2000年(平成12年)7月25日)は、日本の農学者、気象学者である。東京府(現在の東京都)出身。 牛込中里(新宿区)にて生まれ、東京帝国大学(現在の東京大学)に入学する。大学時代は農学部に在籍し、1935年(昭和10年)に卒業した。卒業後は中央気象台(現在の気象庁)に入庁し、産業気象の要員や後に技手として活動した。大学で学んだ農学と気象について学び、主に気候による農作物への影響を研究する。その後は気象台に所属する技術官の養成所や気象技師、古巣の東京大学農学部の講師を務めた。1946年(昭和21年)に同課長に就任し、同時に農学博士の称号を得た。
桑沢 洋子(くわさわ ようこ、1910年11月7日 - 19… 桑沢 洋子(くわさわ ようこ、1910年11月7日 - 1977年4月12日)は、20世紀の昭和時代に活動した日本のファッションデザイナー。桑沢デザイン研究所および東京造形大学の創立者で、服飾から生活全般にわたる分野において「産業デザイン」を提唱した。桑澤洋子と表記されることもある。 東京市神田区東紺屋町(現在の東京都千代田区)に出生。神田高等女学校(現在の神田女学園高等学校)卒業後、1928年に女子美術学校(現在の女子美術大学)師範科西洋部へ入学、1932年に卒業。卒業後は東京社に就職するが、1933年に新建築工芸学院へ入学しバウハウスの思想に触れた。写真家の田村茂と1934年に結婚するも、1951年に離婚。
安本 和夫(やすもと かすお、1910年 <明治43年> 1… 安本 和夫(やすもと かすお、1910年 <明治43年> 11月7日 - 1989年 <平成元年> 7月7日)は、日本の経営者。トーメン社長、会長を務めた。山口県出身。位階は従四位。 1935年に大阪商科大学を卒業し、同年に東洋綿花(のちのトーメン)に入社。1961年5月に取締役に就任し、1963年11月に常務、1965年6月に専務を経て、1969年11月に副社長に就任し、1971年6月には社長に昇格。1977年6月から1978年6月までに会長を務めた。 1972年4月に藍綬褒章を受章し、1982年4月に勲二等瑞宝章を受章。 1989年7月7日肺炎のために死去。78歳没。死没日付をもって従四位に叙された。
飯島 藤十郎(いいじま とうじゅうろう、1910年〈明治43… 飯島 藤十郎(いいじま とうじゅうろう、1910年〈明治43年〉11月7日 - 1989年〈平成元年〉12月4日)は、日本の実業家。山崎製パンの創業者である。 東京府北多摩郡三鷹村に生まれる。16歳で父親を亡くし、旧制中学を中退して新宿中村屋へ勤める。1931年に中村屋を辞して、現在の東京学芸大学にあたる東京府豊島師範学校二部に入学する。後に、中村屋の店主相馬愛蔵の影響でクリスチャンになり、2人の弟とともにキリスト教の洗礼を受ける。 豊島師範学校卒業後、東京市内の第一寺島小学校に赴任。赤坂中之町小学校の体育主任であった際、同僚の女性に結婚を申し込むも、小学校教師である事を理由に女性の家族から反対された事から、中等教員検定試験に合格し、東京府立航空工業学校体操教師になる。
佐伯 富(さえき とみ、1910年11月6日 - 2006年… 佐伯 富(さえき とみ、1910年11月6日 - 2006年7月5日)は、日本の東洋史学者。専門は、宋代より清代に至る中国近世史。学位は、文学博士。京都大学名誉教授。 1910年、香川県三豊郡萩原村(現:観音寺市大野原町)で生まれた。旧制香川県立三豊中学校を経て、旧制第六高等学校に入学。第六高等学校で、生涯にわたって薫陶を受ける宮崎市定と出会った。1931年、京都帝国大学文学部に入学、東洋史を専攻する。六高から転任していた宮崎の指導を再び受けることになった。1935年、京都帝国大学文学部史学科を卒業し、同大学大学院に進学。同時に、東方文化学院京都研究所研究嘱託となった。 1940年、京都帝国大学人文科学研究所助手に採用。
向井 長年(むかい ながとし、1910年11月6日 - 19… 向井 長年(むかい ながとし、1910年11月6日 - 1980年6月23日)は、日本の労働運動家、政治家、参議院議員(4期)。 1910年、奈良県宇陀郡室生村に生まれる。1932年日本大学法律学科卒業。はじめ東邦電力に入社、奈良支店に配属、戦後は関西電力に属す。日本電気産業労働組合(初代書記長は佐々木良作)が結成されると関西地方本部委員長に就任するが、後に電産執行部の路線を批判して脱退。関西電力労働組合を結成して初代委員長となる。 奈良総評議長4期を経験し、1959年7月の参院選全国区に日本社会党から立候補し初当選(連続4回)。 1960年1月前年に社会党から離党した旧右派系(西尾派、河上派の一部)による民主社会党結成に参加。
大滝 重直(おおたき しげなお、1910年11月5日 - 1… 大滝 重直(おおたき しげなお、1910年11月5日 - 1990年7月4日)は、日本の小説家。 秋田県生まれ。1929年秋田県立本荘中学校卒。秋田魁新報記者を務めたのち、島木健作に師事。1937年から満洲に渡り現地農村を調査。1942年「解氷期」で大陸開拓文学賞受賞。1990年、前立腺癌のため死去。
麻田 満洲野(あさだ ますの、1910年11月5日 - 没年… 麻田 満洲野(あさだ ますの、1910年11月5日 - 没年不明)は、東京都出身(北海道生まれ)の日本舞踊家、著述家。藤蔭流の名取で、芸名は藤蔭 満洲野(ふじかげ ますの)。 1910年(明治43年)、駒井徳三の次女として北海道に出生。三輪田高等女学校を経て、明治大学女子部法科を卒業。幼少時より舞踊に馴染み、初期は西洋舞踊を学んだが、途中より日本舞踊に傾倒し、舞踊界で重きをなした。また、舞踊関連などの著書を残している。
佐藤 謙三(さとう けんぞう、1910年11月5日 - 19… 佐藤 謙三(さとう けんぞう、1910年11月5日 - 1975年1月25日)は、国文学者。國學院大學元学長。 1910年、神奈川県横浜市で生まれた。横浜第二中学校在学時に、関東大震災が発生し、自宅で被災した。國學院大學予科を経て、國學院大學国文科で学んだ。1933年に卒業し、同大学国文研究室助手に採用された。1935年に予科講師、1945年に予科教授に昇格。 戦後、1946年に文学部教授となった。1961年、学位論文『平安時代文学の研究』を國學院大學に提出して文学博士号を取得。1964年から文学部長を務め、1970年には國學院大學学長に就任した。1973年より病のため入院治療にあたったが、1975年、学長在職中に死去。
山田 克郎(やまだ かつろう、1910年11月5日 - 19… 山田 克郎(やまだ かつろう、1910年11月5日 - 1983年4月26日)は、日本の小説家。 朝鮮・釜山生まれ(石川県金沢市とするものもある)。本名・克朗。 旧制中学3年のときに父の故郷である香川県香川郡香西町(現・高松市香西南町)に移り、高松中学校に転入する。 1936年、早稲田大学商学部卒。 1937年、処女作「燈台視察船」を『オール讀物』に発表。 1941年、最初の単行本『翼の饗宴』を上梓、以後、旺盛な作家活動を戦中、戦後と続ける。 海洋もの作家として活躍し、戦後、1949年に「海の廃園」(『文藝読物』発表)で直木賞受賞。 日本テレビ放送網でテレビドラマ化された『快傑ハリマオ(原作名『魔の城』)』の原作者として知られる。
中村 喜四郎(なかむら きしろう、1910年〈明治43年〉1… 中村 喜四郎(なかむら きしろう、1910年〈明治43年〉11月5日 - 1971年〈昭和46年〉12月21日)は、日本の教育者、政治家。位階は正五位。勲等は勲三等。 参議院議員(2期)、茨城県議会議員(5期)。 1910年(明治43年)、茨城県生まれ。 茨城県師範学校、東京高等師範学校卒業。郷里の小学校訓導、島根県師範学校教諭を務める。 1940年(昭和15年)、東京文理科大学卒業。中国に渡り、北京日本中学校教諭、北京工業大学教授を務める。 1945年(昭和20年)、帰国。その後、茨城県立境高等学校教諭を務める。戦前戦後を通じ、教育一筋の道を歩んだ。 1947年(昭和22年)、茨城県議会議員選挙に当選。
大賀 小四郎(おおが こしろう、1910年(明治43年)11… 大賀 小四郎(おおが こしろう、1910年(明治43年)11月3日 - 1991年(平成3年)2月24日)はドイツ文学者、外交官。兵庫県西宮市の甲陽中学校出身(七回卒)。妻はヴァイオリニストの諏訪根自子。 1934年京都帝国大学文学部独文科卒。1937年からドイツのライプツィヒ大学に学ぶ。1939年に、帰国し外務省に入り、結婚するも、その後、外交官補としてベルリンに赴任。ドイツ留学中は朝永振一郎とも交流があった。 1945年、ドイツの敗戦とともに、アメリカ軍に捕らえられて、アメリカに拘留。この一連の出来事では、前田陽一、諏訪根自子が一緒だった。 帰国後、1949年、一高教授を経て、東京大学教養学部助教授、教授を1969年まで歴任した。
曽根 嘉年(そね よしとし、1910年11月3日 - 200… 曽根 嘉年(そね よしとし、1910年11月3日 - 2003年10月22日)は、日本の経営者、技術者。三菱自動車工業社長を務めた。 愛媛県出身。1933年に東京帝国大学工学部機械工学科を卒業し、同年に三菱航空機名古屋製作所に入社。堀越二郎率いる軍用機設計チームで堀越の補佐を務め、九六艦戦や零戦、烈風などの機体設計に従事した。 1967年5月に三菱重工業取締役に就任し、1970年5月には常務に就任。1974年1月に三菱自動車工業副社長に就任し、1979年6月に社長に昇格。1981年6月から相談役を務めた。三菱重工業相談役も務めた。 1977年4月に藍綬褒章を受章し、1982年11月に勲二等瑞宝章を受章。
三益 愛子(みます あいこ、1910年(明治43年)11月2… 三益 愛子(みます あいこ、1910年(明治43年)11月2日 - 1982年(昭和57年)1月18日)は、日本の女優。戦後、母物映画で一世を風靡し、「母物映画女優」と呼ばれた。 本名:川口 愛子(かわぐち あいこ)、旧姓:乾(いぬい)。大阪府大阪市南区南炭屋町(現・中央区)の生まれ。夫は直木賞作家の川口松太郎。川口との間には三男一女があり、俳優の川口浩は長男にあたる。宝塚歌劇団24期生の紀川瑠璃子は実妹にあたる。 1927年(昭和2年)に大阪府立阿倍野高等女学校を中退し、大阪の劇団『新潮劇』に加入。水町晴子の芸名で初舞台を踏んだ。曾我廼家五九郎一座などへの出演を経て1929年(昭和4年)に上京。
村田 恒(むらた ひさし 1910年11月2日 - 1998… 村田 恒(むらた ひさし 1910年11月2日 - 1998年11月14日)は、日本の通産官僚。元日本貿易振興会(ジェトロ)理事長。東京市(現 千代田区)出身。1984年 勲二等旭日重光章。 府立四中、一高を経て、1936年 東京帝国大学法学部を卒業し、同年 商工省入省、商務局属。入省同期に、小室恒夫(通商局長)、大堀弘、皆川良三、東澄夫(共に札幌通産局長)、秋山武夫(軽工業局長)など。戦後、経済安定本部部員、通商局通商政策課長などを経て、石炭局長(1957年6月15日 - 1958年8月1日)にて退官。同年 ジェトロ理事、木下産商経営企画部長、常務、専務を経て、1965年 三井物産取締役、1969年 常務、1973年 副社長。
秋 玲二(あき れいじ、1910年(明治43年)11月1日 … 秋 玲二(あき れいじ、1910年(明治43年)11月1日 - 2006年(平成18年)2月24日)は、日本の漫画家、画家。佐賀県唐津市出身。本名古川 善男(ふるかわ よしお)。 生涯、数多くの学習漫画を手がけた。主な作品に『よっちゃんの勉強漫画』『クラブくんの冒険』など。日本漫画家協会名誉会員。また、石川滋彦の弟子として洋画家としても知られる。 1910年、佐賀県唐津市にて生誕。 1930年、東京市教員講習所養成科を卒業し、1946年まで東京の小学校の教員を務めていた。 1933年頃から漫画を描き始め、1939年4月から『東日小学生新聞』にて『よっちゃんの勉強漫画』の連載を開始し2000年に終了するまで60年以上連載されていた。
北原 経太(きたはら けいだ、1910年10月31日 - 没… 北原 経太(きたはら けいだ、1910年10月31日 - 没年月日不詳)は、日本の医学者。専門は公衆衛生学。 熊本県に生まれる。熊本県立玉名中学校(1927年卒業)、旧制静岡高等学校を経て、九州帝国大学医学部を卒業した。九大卒業後、当時の旧制鹿児島県立医科大学の教授(公衆衛生学)となる。 1946年に九州帝国大学から医学博士号を取得した。その後、鹿児島大学医学部の教授となる。1974年に開催された日本人類遺伝学会の大会会長を務めた。多くの衛生学に関する論文を残し、1983年には日本人類遺伝学会の名誉会員となる。鹿児島大学を退官後は名誉教授となった。
村上 至孝(むらかみ しこう、1910年10月31日 - 1… 村上 至孝(むらかみ しこう、1910年10月31日 - 1987年4月17日)は、日本の英文学者、翻訳家。 1933年京都帝国大学文学部英文科卒、第三高等学校教授、1949年京都大学教養部教授、1959年大阪大学文学部英文科教授、1974年定年退官、名誉教授、龍谷大学教授、大手前女子大学教授。1983年勲二等瑞宝章受章。 17-19世紀英国文学を専攻し、サッカレーなどの長篇小説、ヘンリー・フィールディングの悪漢小説の翻訳を行い、ロマン主義詩人の研究を行った。
白井 常(しらい つね、女性、1910年10月31日 - 1… 白井 常(しらい つね、女性、1910年10月31日 - 1999年7月27日)は、日本の心理学者、東京女子大学名誉教授。動物や幼児の認知発達を中心に研究。筆名は白井常子。 東京生まれ。東京女子大学卒、東京文理科大学卒、1949年東京女子大学助教授、同年 トロント大学に学び、1954年 Ph.D. を取得、同年東京女子大学教授、1976年定年 (名誉教授)、聖心女子大学教授。 1961年 東京教育大学文学博士、1983年 日本心理学会名誉会員、1983年 勲四等瑞宝章を受章。
梅沢 治雄(うめさわ はるお、旧字体:梅澤 治雄、1910年… 梅沢 治雄(うめさわ はるお、旧字体:梅澤 治雄、1910年(明治44年)10月30日 - 2003年(平成15年)6月23日)は、日本の元陸軍軍人および陸上自衛官。陸士44期卒(歩兵)、陸大51期(恩賜)。最終階級は中佐、陸将。 山形県米沢市出身。梅沢力助少将(11期)の長男。東京府立第六中学校(3回生)より陸軍幼年学校(29期)に転じ、陸軍士官学校を卒業。原隊は近衛歩兵第1連隊。少尉任官後、第51代連隊旗手を拝命。幹部候補生専任教官や歩兵学校教官を経て、陸軍大学校卒業後は第6師団参謀として中支に出征。参謀本部部員、陸大教官、大本営参謀を経て、陸軍省人事局で終戦を迎える。 戦後は第一復員局総裁秘書官を経て、保安隊に入隊。
関口 勇(せきぐち いさむ、1910年10月28日 - 未詳… 関口 勇(せきぐち いさむ、1910年10月28日 - 未詳)は、北海道小樽市出身の元スキージャンプ、ノルディック複合、アルペンスキー選手。 旧制北海商業学校 → 札幌鉄道管理局 → 北海道帝国大学若労会 中学時代からジャンプの選手として知られ、卒業後はノルウェースキー連盟副会長のオラフ・ヘルセット中尉の指導を受けた。飛型の美しさには定評があり、日本で初めて本場北欧のジャンプを身につけた選手と言われる。1930年の第8回全日本スキー選手権大会ジャンプ競技で優勝。1932年レークプラシッドオリンピックの日本代表に選出されるが、大会直前に病気で途中帰国した。 その後ノルディック複合に転向し、1935年の全日本スキー選手権大会ノルディック複合で優勝、翌1936年ガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピックの代表に選出される。
志田 周子(しだ ちかこ、1910年(明治43年)10月28… 志田 周子(しだ ちかこ、1910年(明治43年)10月28日 - 1962年(昭和37年)7月18日)は山形県出身の女医、歌人。「仙境のナイチンゲール」と称された。 1910年(明治43年)小学校教員で後に大井沢村村長となる父・荘次郎、母・せいの長女として、西村山郡左沢町(現大江町)に生まれる。西村山郡大井沢村(現西川町)の大井沢尋常小学校を経て、山形県立山形第一高等女学校(現山形県立山形西高等学校)に進学。村で初めての女学校生と話題になる。1928年(昭和3年)東京女子医学専門学校(現東京女子医科大学)に進学。1933年同卒業。1935年(昭和10年)「3年でいいから」という父・荘次郎の懇請で、当時無医村だった大井沢村に戻り、唯一の村医となる。
渡邊 はま子(わたなべ はまこ、1910年(明治43年)10… 渡邊 はま子(わたなべ はまこ、1910年(明治43年)10月27日 - 1999年(平成11年)12月31日)は戦前から戦後の日本の歌謡界で活躍した女性流行歌手。神奈川県横浜市平沼出身。本名 加藤 濱子。生涯横浜で過ごした。愛称は「おはまさん」。 横浜生まれで、文字通りハマっ子の渡邊は、美貌で知られた歌手であった。女子師範学校の英語教師、渡辺近蔵(?- 1941年9月19日)と鞠(?- 1955年5月15日)の次女として生まれた。兄と姉がいた。マリの祖父が日系アメリカ人だった。1929年(昭和4)捜真女学校普通科卒業。後に川崎市に転居し、御幸尋常小学校(現在の川崎市立御幸小学校)に入学したが、3年生のときに父の勤務する横浜の女子師範学校の付属小学校に転校する。
石原 道博(いしはら みちひろ、1910年10月27日 - … 石原 道博(いしはら みちひろ、1910年10月27日 - 2010年5月30日)は、日本の東洋史学者、茨城大学名誉教授。 1910年、生まれ。東京帝国大学で学び、卒業。 戦後、茨城大学助教授となり、後に教授昇格。1958年、学位論文『日明交渉史の新研究』を東京教育大学に提出して文学博士号を取得。1976年に茨城大学を定年退職した。 2010年5月30日、老衰のため死去。従六位から正四位に進階。 専門は中国近世史。日本と大陸の交流史に主眼を置いた著作が多い。『魏志倭人伝』など中国で書かれた日本に関する歴史書の翻訳・注釈で知られている。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
相原 正一郎(あいはら しょういちろう、1910年 <明治4… 相原 正一郎(あいはら しょういちろう、1910年 <明治43年> 10月25日 - 1994年 <平成6年> 6月7日)は、日本の経営者。日本勧業角丸証券社長、平和不動産社長を務めた。京都府出身。位階は正五位。 1933年に京都帝国大学経済学部を卒業し、同年に日本勧業銀行に入行。1962年11月に日本勧業証券副社長に就任し、1964年11月には社長に昇格し、1967年10月に発足した日本勧業角丸証券でも社長を務めた。1970年11月から1975年11月までに東京証券取引所副理事長を務め、1977年6月から1987年6月までに平和不動産社長を務めた。 1976年9月に藍綬褒章を受章し、1982年4月に勲三等瑞宝章を受章。
阿部 秋生(あべ あきお、1910年 <明治43年> 10月… 阿部 秋生(あべ あきお、1910年 <明治43年> 10月24日 - 1999年 <平成11年> 5月24日)は、日本の国文学者。中古文学専攻。文学博士(論文博士・1959年)(学位論文『源氏物語研究序説』)。東京大学名誉教授。1983年勲二等瑞宝章受章。位階は正四位。妻は国文学者の阿部俊子。 秋田県秋田市生まれ。旧姓青柳。樺太で育つ。第一高等学校、東京帝国大学国文科卒、同大学院を1937年に退学、国民精神文化研究所助手を務める。 1943年、一高教授、1950年、東京大学教養学部助教授、1959年、東京大学教養学部教授。『源氏物語研究序説』で同年、文学博士の学位を取得。1966年、東京大学教養学部長。
長戸 寛美(ながと ひろみ、1910年〈明治43年〉10月2… 長戸 寛美(ながと ひろみ、1910年〈明治43年〉10月24日 - 2002年〈平成14年〉4月2日)は日本の法曹。元最高検察庁次長検事。のち弁護士。東京都出身。 父は寺の住職。漢学者の母方の家を継いだ。祖父が検事であった。1923年(大正12年)、静岡市立城内尋常高等小学校卒業。静岡県立静岡中学校入学。静岡中学時代の親しい友人に三宅静雄。1927年(昭和2年)、中学4年1学期を終了し、広島の中学に転校した。旧制広島高等学校を経て、東京帝国大学法学部卒業。1935年(昭和10年)12月、検事任官。 東京地方検察庁検事、法務省刑事・総務課長などを経て、甲府地方検察庁・長野地方検察庁検事正、法務総合研究所長となり、高松高等検察庁・広島高等検察庁検事長を歴任、最高検察庁次長検事を最後に1973年(昭和48年)10月定年退官した。
小沢 三千雄(おざわ みちお、1910年10月23日 - 2… 小沢 三千雄(おざわ みちお、1910年10月23日 - 2006年2月6日)は、日本の元松川事件特別弁護人、元松川事件対策協議会事務局長。 秋田県平鹿郡雄物川町(現・横手市)の医師の次男。妻、尊子との間に二男一女を儲ける。長男は元千葉県松戸市議会議員の小沢暁民。 横手中学時代に文学サークル「幌馬車」を通じて社会主義に目ざめ、戦前は小作争議の指導者として知られた。 第二次世界大戦前から農民運動や社会運動などに関わり、戦後は秋田県の日本共産党幹部として労働運動に関わった。1949年(昭和24年)8月に福島県の東北本線松川駅付近で発生した列車転覆事故、いわゆる松川事件では、国鉄労働組合や東芝労組組合員の日本共産党員20名が逮捕。
常田 健(つねだ けん、1910年10月21日 - 2000… 常田 健(つねだ けん、1910年10月21日 - 2000年4月26日)は、日本の画家。 青森県生まれ。1928年、川端画学校入学。1930年からプロレタリア美術家同盟研究所で学ぶ。1933年、青森県に帰郷。農民運動の関係者として検挙、拘留される。1936年、第26回二科展に≪ひるね≫≪飲む男≫を出品し、前者は入選。1944年、出征。1950年、青森県美術会の創立に参加。1955年、日本美術会会員。1991年、第12回青森県文芸協会賞受賞。1997年、第39回青森県文化賞受賞。 青森市浪岡北中野には「常田健 土蔵のアトリエ美術館」がある。しかし、新型コロナウイルス禍の影響を受け、2022年5月23日から休館となる(再開時期未定)。
山木戸 克己(やまきど こっき / こくき、1910年(明治… 山木戸 克己(やまきど こっき / こくき、1910年(明治43年)10月21日 - 2003年(平成15年)4月16日)は、日本の法学者。専門は、民事訴訟法・民事執行法・民事保全法・破産法・人事訴訟法・家事審判法・非訟事件手続法。学位は、法学博士(京都大学・論文博士・1962年)。神戸大学名誉教授。日本民事訴訟法学会名誉会員。日本学術会議会員、日本民事訴訟法学会理事長を歴任。 専門は、民事訴訟法・民事執行法・民事保全法・破産法・人事訴訟法・家事審判法・非訟事件手続法等。神戸大学名誉教授。元日本民事訴訟法学会理事長。元日本民事訴訟法学会名誉会員。元日本学術会議会員(第八期・第九期)。 訴訟法の領域だけではなく実体法にも造詣の深い訴訟法学者であり、訴訟法と実体法の架橋を常に念頭に置いた上で独自の訴訟法体系の樹立を試みていた。
羽生田 進(はにゅうだ/はにうだ すすむ、1910年〈明治4… 羽生田 進(はにゅうだ/はにうだ すすむ、1910年〈明治43年〉10月19日 - 1999年〈平成11年〉7月27日)は日本の政治家(衆議院議員、科学技術庁政務次官)、眼科医(医学博士、羽生田眼科医院院長、群馬県医師会名誉会長、日本眼科医会会長)。勲二等瑞宝章、藍綬褒章受章。陸軍軍医少尉。元参議院議員・羽生田俊の父。 羽生田家の先祖は長野県上高井郡豊丘村(現・須坂市大字豊丘)の旧家で、祖父・仁作が分家して群馬県勢多郡富士見村箕輪(現・前橋市富士見町赤城山)で牧場を経営した。進の父・俊次は長野県北安曇郡美麻村(現・大町市)の農家・田中常太郎・みす夫婦の次男として生まれ、医術開業試験に合格して眼科医となった。
浜田 駿吉(はまだ しゅんきち、1910年(明治43年)10… 浜田 駿吉(はまだ しゅんきち、1910年(明治43年)10月19日 - 2009年(平成21年)12月7日)は、兵庫県神戸市生まれのフィールドホッケー選手、実業家。出身は同県の西淡町(現南あわじ市)。オーエム製作所の会長や大和紡績(現在のダイワボウホールディングス)の常務などを務めた。1933年慶應義塾大学経済学部卒業。。 中学校3年時より慶應義塾普通部へと転入、その後ホッケーを始め慶應義塾大学在籍時には日本代表へと選出された。1932年にはロサンゼルスオリンピックに代表選出されゴールキーパーとして出場、出場した3チーム中2位で銀メダルを獲得した。社会人となった1936年ベルリンオリンピックにも出場したが、予選リーグで敗退している。
甲斐 弦(かい ゆずる、1910年 <明治43年> 10月1… 甲斐 弦(かい ゆずる、1910年 <明治43年> 10月18日 - 2000年 <平成12年> 8月21日)は、英文学者、作家、熊本学園大学名誉教授。位階は従五位。 東京帝国大学文学部卒。占領期にGHQで、検閲官を務める。熊本短期大学助教授、熊本商科大学(1994年に熊本学園大学に改称)教授、1981年定年退任。1983年勲四等瑞宝章受章。2000年8月21日、心不全のため死去。死没日付をもって従五位に叙された。 森川譲の筆名でも小説作品がある。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作詞家・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
杉山 吉良(すぎやま きら、本名すぎやま よしろう(漢字同じ… 杉山 吉良(すぎやま きら、本名すぎやま よしろう(漢字同じ)、1910年10月17日-1988年12月12日)は、日本の写真家。報道写真およびヌード写真に長ける。 1923年、早稲田中学在学中に関東大震災にあい、その後中学を中退。 映画のカメラマンとして出発し、1934年に写真家に転身。 1934年に創刊された雑誌『NIPPON (グラフ誌)』にも作品が掲載された(日本工房に所属していたわけではない)。 1938年7月に、土門拳、藤本四八、濱谷浩、田村茂、林忠彦、光墨弘、加藤恭平 (写真家)、梅本忠男らとともに青年報道写真研究会を設立し、活躍した。例えば、1939年4月30日から10月31日まで開催されたニューヨーク万国博覧会(前期)の国際館カヴァードスペース日本部に展示された写真壁画4つのうちの1つ「躍進日本」には、同会の土門拳、若松不二夫、山川益男、溝口宗博とともに杉山吉良の写真作品も使用された。
木野 二郎(きの じろう、1910年10月17日 - 197… 木野 二郎(きの じろう、1910年10月17日 - 1976年12月19日)は、日本の経営者、工学博士。藤倉電線(現在のフジクラ)社長を務めた。 福島県会津若松市出身。1933年に東京帝国大学工学部電気工学科を卒業し、同年に藤倉電線に入社。 1957年11月に取締役に就任し、1962年に常務、1965年11月に副社長を経て、1973年11月に社長に就任。 1976年12月19日、くも膜下出血のために死去。66歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
作江 伊之助(さくえ いのすけ、1910年〈明治43年〉10… 作江 伊之助(さくえ いのすけ、1910年〈明治43年〉10月17日 - 1932年〈昭和7年〉2月22日)は、大日本帝国陸軍の軍人で爆弾三勇士の一人。最終階級は工兵伍長。勲八等功六級。長崎県北松浦郡平戸村大字平戸田助浦183番地(現・平戸市田助町)出身。 家族は父・音次郎と、兄が大工をしながら生計をたてていた。運送業に従事していたが、間もなく徴兵され、久留米独立工兵第十八大隊に配属される。1932年(昭和7年)1月18日、第1次上海事変が勃発。2月2日、独立工兵第十八大隊は上海派遣混成第二十四旅団(下元熊弥少将)の工兵部隊に抽出され、5日、佐世保港を出発。7日上海に上陸、ただちに第九師団植田謙吉中将の隷下となった。
永岡 茂之(ながおか しげゆき、1910年(明治43年)10… 永岡 茂之(ながおか しげゆき、1910年(明治43年)10月16日 - 1992年(平成4年)9月28日)は、日本の政治家。三重県名張市長(4期) 。位階は正五位。 三重県那賀郡国津村(現・名張市)出身。1929年、三重県立名賀農学校(のち三重県立名張高等学校、三重県立上野農業高等学校を経て、現・三重県立伊賀白鳳高等学校)卒。1950年、国津村議会議員となり、2期務め、1954年、合併による名張市発足により、名張市議会議員となる。名張市議を5期務め、議長も務めた。1970年、名張市助役となり、1974年、名張市長に就任した。市長を4期務め、1990年に退任。翌1991年、勲三等瑞宝章を受章。1992年に死去。
倉 信雄(くら のぶお、1910年10月14日 - 1945… 倉 信雄(くら のぶお、1910年10月14日 - 1945年)は、昭和時代前期に活躍したプロ野球選手。
榊原 仟(さかきばら しげる、1910年(明治43年)10月… 榊原 仟(さかきばら しげる、1910年(明治43年)10月13日 - 1979年(昭和54年)9月28日)は、日本の医学者。心臓外科の世界的権威として知られた。 福井県福井市宝永上町に開業医の四男として生まれ、兄に榊原亨がいる。幕臣・榊原職直の後裔である。 旧制福井中学(現福井県立藤島高等学校)を経て、第六高等学校時代の1930年(昭和5年)、帝大生であった次兄・周と上京中の母が和田倉門辺りでタクシー乗車中に交通事故に遭い、母は頸髄損傷が元で、周も間もなく亡くなった。その後東京帝国大学に進み医学部を卒業。都築正男教授の医学部第二外科講座に入局。大学同期に、若月俊一、津川武一、近藤宏二など。 第二次世界大戦中は軍医としてフィリピン戦線に従軍し、1943年(昭和18年)には東京帝大医学部の支援で同仁会が設立した上海同仁大学の教授として赴任するが、日本の降伏後に同大は接収されたため、46年に帰国し東京帝大医学部第二外科講座で医局長を担う。
岸井 明(きしい あきら、1910年10月13日 - 196… 岸井 明(きしい あきら、1910年10月13日 - 1965年7月3日)は日本のコメディアン、俳優、歌手。
大西 正男(おおにし まさお、1910年〈明治43年〉10月… 大西 正男(おおにし まさお、1910年〈明治43年〉10月12日 - 1987年〈昭和62年〉9月18日)は、日本の政治家。郵政大臣(第40代)、衆議院議員(9期)。 高知県高知市升形出身。弁護士、衆議院議員の大西正幹の長男。旧制高知高等学校、東京帝国大学法学部卒業後、検事を経て弁護士となる。1949年の総選挙に高知県全県区から立候補し、初当選。1952年の総選挙では公職追放から解除されたばかりの宇田耕一に地盤を譲り、同年の参院選に高知県地方区から出馬するが、落選。 政界から一旦は退いていたが、1963年の総選挙で宇田の後継だった浜田正信の地盤を引き継ぐ格好で、11年振りに出馬して当選し、国政に返り咲く。