細谷 貞雄(ほそや さだお、1920年1月22日 - 199… 細谷 貞雄(ほそや さだお、1920年1月22日 - 1995年12月8日)は、日本の哲学者である。東北大学・岡山大学名誉教授。 東京府出身。1942年東京帝国大学文学部哲学科卒。北海道大学助教授、1960年東北大学助教授、1968年東北大学教授、1977年東北大学名誉教授、岡山大学教授、1984年岡山大学定年退官、岡山大学名誉教授。
1920年代生まれ:8,552人
細谷 貞雄(ほそや さだお、1920年1月22日 - 199… 細谷 貞雄(ほそや さだお、1920年1月22日 - 1995年12月8日)は、日本の哲学者である。東北大学・岡山大学名誉教授。 東京府出身。1942年東京帝国大学文学部哲学科卒。北海道大学助教授、1960年東北大学助教授、1968年東北大学教授、1977年東北大学名誉教授、岡山大学教授、1984年岡山大学定年退官、岡山大学名誉教授。
松田 岩男(まつだ いわお、1920年1月22日 - 199… 松田 岩男(まつだ いわお、1920年1月22日 - 1992年2月18日)は、日本の体育心理学者。 島根県浜田市生まれ。1945年東京文理科大学心理学科卒。1947年東京高等師範学校助教授、50年教授、1951年東京教育大学助教授、70年教授、1973年筑波大学教授、1981年上越教育大学副学長。85年退官、名誉教授。中京大学教授となり、1988年4月学長に就任。第14ー15期日本学術会議会員。1985年国際スポーツ心理学会功労賞。1992年2月18日、後述の事件にて客死する。享年72。 1992年2月18日、中京大学とマサチューセッツ大学ボストン校との交流協定締結のため、中垣昇経済学部教授らと共にボストン市内ウエスティンホテルに宿泊し、同日午後夕方より打ち合わせの予定があったところ襲撃される。
前田 正昭(まえだ まさあき、1920年(大正9年)1月22… 前田 正昭(まえだ まさあき、1920年(大正9年)1月22日 - 2008年(平成20年)9月8日)は、昭和期の華族(男爵)。別名直昭。 前田土佐守家第12代当主前田政雄の子として生まれる。1943年5月1日、祖父の死去に伴い男爵を襲爵した。 日本大学旧工学部機械科を卒業し日本曹達に入った。その後、前田土佐守家が所蔵する文化財を金沢市に寄付し前田土佐守家資料館設立に寄与した。また、2002年から2006年まで同館初代館長を務めた。
古森 敬造(こもり けいぞう、1920年(大正9年)1月21… 古森 敬造(こもり けいぞう、1920年(大正9年)1月21日 - 不明)は、日本の銀行員、実業家。ガダルカナル島の戦いにおける川口支隊の生還者の一人。三和銀行参与、象印マホービン常務取締役。 福岡県福岡市出身。松次郎、ツルの三男。1937年(昭和12年)に福岡商業学校(現・福岡市立福翔高等学校)を卒業後、三和銀行に入社。1940年に応召し、第18師団隷下の歩兵第124連隊に配属。連隊は川口支隊隷下として南方に向かい、ボルネオ島、ミンダナオ島、フィジー諸島攻略を経て、1942年(昭和17年)9月3日よりガダルカナル島の戦いに連隊本部附書記(上等兵、のち伍長)として参加。支隊本部とは別途舟艇で上陸したが、その直後より敵戦闘機の機銃掃射に遭い、連隊主力とともにアウステン山(英語版)で包囲孤立し、以後3か月にわたる籠城を耐えた。
照屋 寛善(てるや かんぜん、てるや ひろよし、1920年1… 照屋 寛善(てるや かんぜん、てるや ひろよし、1920年1月21日 - 2004年7月31日)は、日本の医師である。戦後の沖縄の医療界の発展に尽し、沖縄の古典芸能を研究した。琉球大学名誉教授。 1920年1月沖縄県首里に生まれる。1942年九州医専(現久留米大学)卒業。内科の軍医になり南洋のナンボン島などに駐留。1946年復員、九州医専で勉強、後沖縄に帰る。宜野座の松田診療所勤務。沖縄には医師が少なく過労気味であったので1950年にそのことを訴えた。この反響は大きかった。既に始まっていた医学部留学制度は、50年には2回も募集があり、また、本土で勉強している沖縄出身の医師も帰還した人もいる。真和志診療所勤務。
藤平 光一(とうへい こういち、1920年1月20日 - 2… 藤平 光一(とうへい こういち、1920年1月20日 - 2011年5月19日)は、東京生まれ栃木県出身の日本の武道(合気道)家。心身統一合氣道の創始者。1969年(昭和44年)合氣道10段。現一般社団法人心身統一合氣道会会長の藤平信一は息子。 幼少の頃は体が弱く、父親から柔道を教わった。慶應義塾大学に入学後、肋膜炎を発症し山岡鉄舟の高弟小倉鉄樹などから禅や呼吸法を学び修行した結果、肋膜炎が完治した。19歳のときに合気道の開祖植芝盛平に入門する。慶應義塾大学経済学部卒業後、陸軍に入隊。中国へ派遣されたときの体験が「氣の原理」に大きく影響を与えた。 帰国後、中村天風に師事し、心身統一道を学ぶ。その後ハワイを始め、アメリカ各地で合気道を指導した。
小花波 平六(こばなわ へいろく、1920年〈大正9年〉1月… 小花波 平六(こばなわ へいろく、1920年〈大正9年〉1月20日 - 2007年〈平成19年〉6月4日)は、日本の教師、民俗学者。 群馬県に生まれる。群馬師範学校に学び、同校で担任であった千々和実の歴史の授業に「大きな感化を受けた」という。1931年に出征し、1946年に復員すると、東京・板橋で小学校教員になる。1956年に立正大学を卒業。卒業論文は「北魏王朝の経済政策」。1974年から1977年まで板橋区立の小学校校長を務める。教材研究として地域の石造物調査に取り組み、特に庚申塔の調査に焦点を当て、1959年に庚申懇話会を創立した。その後も庚申信仰の第一人者として研究を続けた。教員を退職した後には、板橋区立郷土資料館館長などを務めた。
土田 喜代一(つちだ きよかず、1920年1月20日 - 2… 土田 喜代一(つちだ きよかず、1920年1月20日 - 2018年10月15日)はペリリュー島から生還した日本兵。ペリリューの戦いでは海軍上等水兵、最終階級は海軍二等兵曹。 福岡県八女郡水田村(現・筑後市)生まれ。1935年(昭和10年)八女工業学校卒業。1943年(昭和18年)1月、佐世保第2海兵団に入団。同年4月、博多海軍航空隊(実習部隊)に配属された後、横須賀航海学校見張り科に入校。同年10月の鹿屋航空隊への配属を経て、第1航空艦隊第761海軍航空隊(主力・一式陸上攻撃隊)に配属。1944年(昭和19年)2月、マリアナ諸島テニアン島へ向かう。同年6月マリアナ沖海戦により、パラオ諸島ペリリュー島へ転進(撤退)し、第1航空艦隊西カロリン方面航空隊に移るり見張りの任務に就く。
高田 久成(たかだ ひさなり、1920年1月19日 - 20… 高田 久成(たかだ ひさなり、1920年1月19日 - 2007年10月7日)は、日本の実業家、馬主。台湾出身。 名馬テンポイント等の馬主として知られ、京都馬主協会の役員を務めた。元中外炉工業株式会社取締役。 日本中央競馬会(JRA)の馬主としても知られた。勝負服の柄は桃、黄銭形散、白袖で、冠名は特に用いなかった。 所有馬は大半が地元である関西の小川佐助、戸山為夫、鹿戸幸治、鹿戸明厩舎に所属していたが、プリテイキャストのように関東の石栗龍雄厩舎に所属した馬もいた。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
竹下 一記(たけした かずき、1920年 <大正9年> 1月… 竹下 一記(たけした かずき、1920年 <大正9年> 1月19日 - 2003年 <平成15年> 12月22日)は、日本の郵政官僚、経営者。郵政事務次官、熊本県民テレビ社長を歴任。位階は従三位。 熊本県出身。1941年に東京帝国大学法学部を卒業し、同年に高文行政科にも合格し、逓信省に入省。1962年5月に広島郵便局長、1964年6月に東京郵便局長、1966年7月に大臣官房長、1967年7月に簡易郵便局長、1969年11月に郵務局長を経て、1971年7月から1973年7月までに郵政事務次官を務めた。 1974年4月に簡易保険福祉事業団理事長を経て、1981年11月から1995年5月までに熊本県民テレビ社長を務めた。
岡崎 哲夫(おかざき てつお、1920年(大正9年)1月18… 岡崎 哲夫(おかざき てつお、1920年(大正9年)1月18日 - 2000年(平成12年)12月15日)は、昭和後期から平成にかけての社会運動家。森永ミルク中毒資料館館長。 1920年(大正9年)岡山県に生まれる。早稲田大学在籍中の1941年(昭和16年)には、軍事教練を拒否したため、大学を中退している。1943年(昭和18年)臨時召集により、関東軍満洲第409部隊(歩兵第10連隊、佳期斯)に入隊。1945年(昭和20年)関東軍満洲第15国境守備隊(旧満洲国東安省虎頭要塞)に転属。この年、ソ連軍との激戦に生還している。その後、シベリアに抑留され、1948年(昭和23年)、帰国する。 1955年(昭和30年)に発生した森永ヒ素ミルク中毒事件の被災時の父親の一人として、森永ミルク被災者同盟の初代委員長に就任。
熊田 誠(くまだ まこと、1920年1月17日 - 2007… 熊田 誠(くまだ まこと、1920年1月17日 - 2007年6月28日)は、日本の化学者。専門は、有機ケイ素化学・有機金属化学・有機合成化学など。京都大学名誉教授。1993年勲三等旭日中綬章受章。1994年恩賜賞・日本学士院賞受賞。2007年正四位。福井県小浜市出身。 有機金属化学、特に有機ケイ素化学、遷移金属触媒反応の分野において先駆的な研究をしこの分野の発展に指導的役割を果たした。また多くの門下生を輩出した。 専門は有機ケイ素化学、有機合成化学、有機金属化学を中心とする有機化学。 特に有機ケイ素化合物その他有機金属を用いる有機合成、構造有機化学で先駆的研究成果を多数。現在、シリコーン接着剤や化粧品などの原材料として幅広く使われる有機ケイ素化合物の新しい合成法や物性の研究開発を行った。
北原 文雄(きたはら あやお、1920年1月17日 - )は… 北原 文雄(きたはら あやお、1920年1月17日 - )は、日本の化学者。専門は、コロイド・界面化学とその化学史。 長野県上伊那郡藤沢村(現・伊那市)出身。旧制諏訪中学(現・長野県諏訪清陵高等学校)、第一高等学校理科乙類を経て、1942年東京帝国大学理学部化学科卒業。理学博士。 東京電気(現・東芝)入社。1949年佐賀県小城石炭研究所入所。1952年東邦大学理学部助教授。1959年同大学教授。1961年ペンシルベニア州立大学研究員。1963年東京理科大学工学部工業化学科教授。同大学工学部長を経て、1995年同大学名誉教授。 2020年には『化学者ウィリアムソンと日本人留学生たち』という本を出版した。
金 達寿(キム・タルス/キムダルス、김달수、1920年〈大正… 金 達寿(キム・タルス/キムダルス、김달수、1920年〈大正9年〉1月17日(陰暦1919年11月27日) - 1997年〈平成9年〉5月24日)は、在日朝鮮人小説家・古代史研究家。朝鮮民主主義人民共和国・朝鮮総連を強く支持していたものの、実態を知り、1981年に韓国訪問以降は第三者の立場を取った。 日本統治下朝鮮の慶尚南道昌原郡内西面虎渓里(現・大韓民国慶尚南道昌原市馬山会原区)に、中農の地主の三男として生まれる。父・金柄奎、母・孫福南、長兄・金声寿、次兄・金良寿、妹・金ミョンスがいた。 父柄奎が遊蕩に耽り、破産。1925年(大正14年)、金達寿が5歳の時、両親は長男声寿と妹ミョンスを連れて、内地に渡る。
野中 英二(のなか えいじ、1920年1月16日 - 201… 野中 英二(のなか えいじ、1920年1月16日 - 2015年2月25日)は、日本の政治家。勲章は勲一等瑞宝章。 国土庁長官(第18代)、衆議院議員(6期)、埼玉県議会議員(3期)等を歴任した。 衆議院議員の野中厚は孫。 埼玉県加須市生まれ。旧制粕壁中学校、慶應義塾大学法学部卒業。 大越村議会議員、埼玉県議会議員を経て、1967年の第31回衆議院議員総選挙に旧埼玉4区(定数3)から無所属で出馬したが、次点で落選した。1969年、第32回衆議院議員総選挙に旧埼玉4区から再び無所属で出馬し、得票数2位で当選した(野中に代わり、日本社会党の板川正吾が落選し、保守系で3議席を独占した)。当選後、自由民主党に入党。
甲田 和衛(こうだ かずえ、1920年1月16日 - 199… 甲田 和衛(こうだ かずえ、1920年1月16日 - 1993年9月23日)は、日本の人文学者。大阪大学名誉教授。放送大学元学長。 大阪府出身。旧制東京高等学校を経て、東京帝国大学文学部に入学。社会学科で社会学を専攻し、1942年9月に卒業。1944年、蒙古聯合自治政府領張家口で西北研究所が設立されると所員となった。 1951年6月、大阪大学文学部助教授に就いた。1966年4月、大阪大学文学部教授に昇格。1972年5月からは大阪大学人間科学部教授。1976年5月からは大阪大学人間科学部長もつとめた。1983年、大阪大学を定年退職し、名誉教授となった。同1983年4月からは放送大学教授として教鞭をとった。
乾 崇夫(いぬい たかお、1920年1月16日 - 2012… 乾 崇夫(いぬい たかお、1920年1月16日 - 2012年9月13日)は、日本の工学者(造船学・船型学)。学位は工学博士(東京大学・1958年)。東京大学名誉教授、日本学士院会員、文化功労者。 東京府出身。旧制第一高等学校、東京帝国大学工学部船舶工学科卒業。船体の造波抵抗、流れの可視化、数値解析、球状船首の研究などを行い、1958年東京大学から工学博士号取得。論文は「船体の造波抵抗に関する研究」。 1958年東京大学工学部教授、1980年定年退官、玉川大学教授、1988年文化功労者となる。日本学士院会員。2012年9月13日、肺炎により東京都内の病院で死去した。92歳没。 造船学や船型学を専門としており、波の重要性に着目し波紋解析的船型試験法を開発した。
國島 文彦(くにしま ふみひこ、1920年〈大正9年〉1月1… 國島 文彦(くにしま ふみひこ、1920年〈大正9年〉1月15日 - 2006年〈平成18年〉7月26日)は、日本の警察官僚。第71代警視総監。勲二等旭日重光章。 東京府、現在の豊島区出身。旧制一高を経て、1944年東京帝国大学法学部政治学科を卒業。1945年、内務省に入省し警保局に配属。 1946年、終戦連絡事務局に転じた。以後、岡山県警察部経済防犯課長、国家地方警察岡山県本部警務部警務課長、警視庁本富士警察署長、警視庁刑事部鑑識課長、同警備第二部公安第一課長、同警務部人事課長、佐賀県警察本部長、九州管区警察局公安部長、池田勇人内閣総理大臣秘書官、警察庁警備局資料課長、警視庁交通部長、警察庁警務局人事課長、京都府警察本部長、警視庁警務部長、警察庁長官官房長、同庁警務局長などを歴任。
大熊 宗清(おおくま むねきよ、1920年1月15日 - 1… 大熊 宗清(おおくま むねきよ、1920年1月15日 - 1991年2月11日)は、広島県大竹市元町出身で熊ヶ谷部屋に所属した大相撲力士。本名は和田 宗清(わだ むねきよ)。現役時代の体格は182cm、100kg。最高位は西前頭6枚目(1947年11月場所)。 実家は農家で、地元に住んでいた大相撲の世話人に勧められて、16歳の時に熊ヶ谷部屋へ入門。1937年1月場所で、初土俵を踏んだ。 幕下時代は、神風正一や輝昇勝彦とともに「幕下三羽烏」と呼ばれた。番付に初めて付いて以来1度も負け越しなしで、1941年1月場所にて十両に昇進した。 この地位でも勝ち越しを続け、1942年5月場所にて、22歳で新入幕を果たした。
菊地 吾郎(きくち ごろう、1920年1月14日 - 201… 菊地 吾郎(きくち ごろう、1920年1月14日 - 2014年7月24日)は、日本の医学者。日本医科大学学長、東北大学名誉教授。 1920年、山形県生まれ。1931年、旧制京華中学校に進学。1937年、旧制日本医科大学予科入学。1944年、同大学卒業。東北大学教授を定年退官後、同大学名誉教授となる。のち、母校に招かれて、日本医科大学学長を務める。 2014年7月24日、急性呼吸不全のため東京都荒川区の病院で死去。94歳没。
広尾 彰(ひろお あきら、1920年(大正9年)1月14日 … 広尾 彰(ひろお あきら、1920年(大正9年)1月14日 - 1941年(昭和16年)12月8日)は、日本の海軍軍人。特殊潜航艇「甲標的」艇長として真珠湾攻撃に参加し、戦死した九軍神の一人。二階級特進により最終階級は海軍大尉。 佐賀県三養基郡旭村(現在の鳥栖市)出身。父は小学校の校長を勤める教育者であった。佐賀県立三養基中学校(現在の佐賀県立三養基高等学校)を経て、 海軍兵学校入校。広尾は海兵68期で豊田穣、酒巻和男、鴛淵孝らが同期生で、松永市郎は中学同窓であった。 1940年(昭和15年)8月卒業。特殊潜航艇(以下「特潜」 )搭乗員に選抜され訓練を受ける中、真珠湾攻撃に「特潜」の参加が決定し、広尾は5人の艇長の一人として選抜された。
稲川 豪一(いながわ ごういち、1920年1月11日 - 没… 稲川 豪一(いながわ ごういち、1920年1月11日 - 没年不明)は、群馬県桐生市出身のプロ野球選手。稲川東一郎は実兄。 桐生中学校から全桐生を経て、1950年に東急フライヤーズへ入団。同年で退団し、その後は大昭和でプレーした。
阪谷 芳直(さかたに よしなお、1920年1月10日 - 2… 阪谷 芳直(さかたに よしなお、1920年1月10日 - 2001年9月3日)は、日本の銀行家・エコノミスト・思想史家・翻訳家。 愛知県生まれ。第一高等学校を経て、1943年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、大蔵省に入省する。短期現役海軍主計科士官(10期)を志願し、同年9月、海軍経理学校に入学し、1944年(昭和19年)3月に卒業して海軍主計中尉に任官。海軍運輸本部付となり、徴用船の配船業務に従事。1945年(昭和20年)3月、海軍主計大尉に昇進して終戦を迎えた。 戦後は日本銀行に移り、調査局、広島支店、国庫局に在勤。その後日本輸出入銀行・アジア開発銀行に転じた。 2001年9月3日、肺腺癌のため死去。
池永 次郎(いけなが じろう、1920年1月9日 - 201… 池永 次郎(いけなが じろう、1920年1月9日 - 2016年1月16日)は、日本の実業家。日魯漁業(現・マルハニチロ食品)の元社長。 東京府出身。東京府立第一中学(現・日比谷高校)四修卒を経て、水産講習所(現・東京海洋大学)卒業。一中ではのちにNHK経営委員長となる竹見淳一らと同期。日魯漁業入社。取締役を経て、1973年に常務、翌年に専務に就任するが、1975年に常務に降格。子会社の日魯工業社長を経て、1981年に日魯漁業に社長として復帰。1986年2月に会長、以後は相談役。
早石 修(はやいし おさむ、1920年1月8日 - 2015… 早石 修(はやいし おさむ、1920年1月8日 - 2015年12月17日)は、日本の医師、医学者。専門は生化学、医化学。京都大学名誉教授、大阪バイオサイエンス研究所理事長。医学博士(1949年、大阪大学)。アメリカ合衆国カリフォルニア州生まれ。京都大学医学部医化学教室の主任教授として、多くの研究者を育てたことで知られる。
森嶋 東三(もりしま とうぞう、1920年1月8日 - 19… 森嶋 東三(もりしま とうぞう、1920年1月8日 - 1984年6月7日)は、日本の経営者、銀行家。東ソー社長を務めた。山梨県出身。 1941年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、1942年に日本興業銀行に入行。1962年5月に取締役に就任し、1972年11月に常務を経て、1975年5月に副頭取に就任。1978年6月に東洋曹達工業(現在の東ソー)顧問と副社長に就任し、1979年6月には社長に昇格。 1984年6月7日胆管癌のために死去。64歳没。
原 茂(はら しげる、1920年1月8日 - 2007年12… 原 茂(はら しげる、1920年1月8日 - 2007年12月23日)は、昭和から平成時代の労働運動家。日本炭鉱労働組合(炭労)委員長。 北海道夕張市生まれ。1935年夕張市鹿の谷高等小学校卒業。北海道の中小炭鉱に入り、兵役を経て、1944年北海道炭礦汽船平和鉱業所に入社。1946年平和炭鉱労組書記長、1947年同労組委員長。1950年北海道炭鉱汽船労働組合連合会(北炭労連)副委員長。1951年日本炭鉱労働組合(炭労)副委員長。1952年の破防法をめぐる炭労の左右対立では左派を代表する立場にたち、同年の炭労スト、1953年の三井炭鉱労連の「英雄なき113日の闘い」などを指導。1956年炭労委員長となり、1959年から1960年の三井三池闘争を指導したが、最終的に中労委の藤林斡旋案(会社は指名解雇を撤回し、該当者は自発的に退職する)を受諾して、炭労は敗北した。
渡辺 正雄(わたなべ まさお、1920年1月7日 -2005… 渡辺 正雄(わたなべ まさお、1920年1月7日 -2005年5月4日)は、日本の科学史家、東京大学名誉教授。 専門は科学文化史、日英科学交流史、キリスト教と科学など。弟子に榎本恵美子や小川真里子。 東京出身。私立武蔵高校卒。東京帝国大学卒。1961年「一七八〇-一八五〇年期の英国に於ける熱理論の発展」で東京教育大学文学博士。1962年「熱運動論発展の過程」で東京大学理学博士。東京女子大学助教授、中央大学教授、1968年東京大学教養学部教授、1980年定年退官、名誉教授、新潟大学教授、東京電機大学教授、国際基督教大学教授。1993年、勲三等旭日中綬章受章。 『科学史フォーラム』第8号、2005年10月5日
本田 済(本田 濟、ほんだ わたる、1920年1月7日 - … 本田 済(本田 濟、ほんだ わたる、1920年1月7日 - 2009年9月21日)は、中国哲学者。 三重県生まれ、京都府宇治市出身。1942年京都帝国大学文学部哲学科卒。1964年「易経の思想史的研究」で京都大学文学博士。1949年高槻高等学校教諭、1952年大阪市立大学文学部助教授、1965年教授、1980年定年退官、名誉教授、梅花女子大学教授、1983年学長。号は鬳斎(けんさい)。 この項目は、哲学に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(Portal:哲学)。
多岐川 恭(たきがわ きょう、1920年1月7日 - 199… 多岐川 恭(たきがわ きょう、1920年1月7日 - 1994年12月31日)は、日本の小説家・推理作家。本名、松尾 舜吉。 本格推理からSF、時代ミステリーまで、多数の作品を発表した。また「ゆっくり雨太郎捕物控」などの時代小説もある。 また、代表となって若手探偵作家の親睦団体の「他殺クラブ」を結成した。メンバーには河野典生、樹下太郎、佐野洋、竹村直伸、星新一、水上勉、結城昌治らがいた。のちに、笹沢左保、大藪春彦、新章文子、都筑道夫、高橋泰邦、三好徹、生島治郎、梶山季之、戸川昌子、佐賀潜らが参加した。 推理作家や推理小説の挿絵を描いていた画家によるゴルフ同好会「蟻這会」(アリバイかい)を主宰していた。
岩瀬 孝(いわせ こう、1920年1月7日- 2002年1月… 岩瀬 孝(いわせ こう、1920年1月7日- 2002年1月26日)は、日本のフランス文学者、演劇評論家、早稲田大学名誉教授。 東京生まれ。父は不二サッシ会長を務めた岩瀬悌。早稲田大学文学部仏文科卒。昭和25年(1950年)フランスのアンジェー・カトリック大学に留学の後、パリ大学文学部博士課程第一年度修了。フランス演劇の翻訳、演劇評論で活躍し、早大文学部助教授、教授、1990年定年退職、名誉教授。長女の夫・安川壮一は安川第五郎の孫。
柴田 平(しばた たいら、1920年1月7日 - 2004年… 柴田 平(しばた たいら、1920年1月7日 - 2004年4月10日)は、日本の経営者。西松建設社長を務めた。 富山県出身。1944年に京城帝国大学理工学部を卒業し、同年に西松組(のちの西松建設)に入社。1973年5月に取締役に就任し、1976年6月に常務、1977年6月に専務を経て、1979年6月に副社長に就任し、1983年6月には社長に昇格。1995年6月に会長を経て、2001年6月には最高顧問に就任。 1983年11月に藍綬褒章を受章。 2004年4月10日に肺炎のために死去。84歳没。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
片山 豊(かたやま ゆたか、1920年1月6日 - 1997… 片山 豊(かたやま ゆたか、1920年1月6日 - 1997年3月18日)は、日本の実業家、起業家。マルマングループ創業者。 岡山県出身。島根県立隠岐水産高等学校卒業。明治大学商学部卒業。 大学卒業後、日本水産入社。気性が強く、入社半年後に、経営方針を重役に手紙で送りつけたエピソードなどがある。工場長などを務めたのち、1950年に独立し、日本ゴールドメタル工業株式会社を設立(1962年に株式会社マルマンに商号変更)。1959年に国産第一号のガスライターを販売開始し、後にゴルフ用品の製造販売も始め、1971年にはゴルフ用品部門を独立させてマルマンゴルフ株式会社を設立。1977年からはゴルフトーナメントの開催を開始。
玉手 統(たまて おさむ、1920年1月6日 - 2010年… 玉手 統(たまて おさむ、1920年1月6日 - 2010年11月13日)は、日本の機械工学者。東北大学名誉教授。第二一代東北大学工学部長を経て、第三代八戸工業高等専門学校校長を務めた。従三位勲二等瑞宝章。 1942年東北帝国大学工学部機械工学科卒業。1954年東北大学工学博士。1977年第二一代東北大学工学部長。1980年第三代八戸工業高等専門学校校長。1990年勲二等瑞宝章受章。1995年初代東北大学機械系同窓会会長。2010年従三位。2010年11月13日、老衰のため死去。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
瓜生 卓造(うりゅう たくぞう、1920年(大正9年)1月6… 瓜生 卓造(うりゅう たくぞう、1920年(大正9年)1月6日 - 1982年(昭和57年)6月1日)は、日本の小説家、随筆家。兵庫県神戸市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。 息子は瓜生中(うりゅう なか)で同じく作家。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
元井 能(もとい ちから、1920年1月5日 - 1989年… 元井 能(もとい ちから、1920年1月5日 - 1989年3月28日)は、服飾史学者。 京都市出身。父は絵更紗の創始者・元井三門里(本名・翠。1885-1956)。1942年大阪外国語学校仏語科卒。1949年京都帝国大学文学部美学美術史卒。同大学院をへて、1957年京都市立美術大学講師、1963年助教授、1969年校名変更で京都市立芸術大学助教授、1970年教授。1985年定年退任、名誉教授。京都女子大学教授、京都市美術館館長。
佐藤 哲郎(さとう てつろう、1920年1月5日 - 200… 佐藤 哲郎(さとう てつろう、1920年1月5日 - 2004年1月23日)は、日本の弁護士。最高裁判所判事。福島県出身。 1941年(昭和16年)東京帝国大学法学部を卒業。この時に高等試験司法科に合格していたが、いったん三菱信託に入社。その後に陸軍に召集され、4年間中国戦線で軍隊生活を送った。 復員した後は同社に戻り、宝くじの街頭販売を経験したこともある。しかし、国民主権の日本国憲法下で新しくスタートした司法制度に魅力を感じて司法研修所に入り、卒業は1949年(昭和24年)で司法修習生の第1期生となった。 修習を終えてすぐに弁護士登録をした。しばらくはイソ弁(居候弁護士)を経験した。その時に手がけた婦女暴行事件の弁護で一、二審は無期懲役判決が出ていたが、判決の事実認定を詳細に点検すると、伝聞証拠、しかもあやふやな内容が多いことを見つけ、そこをついた弁護を行った結果、最高裁で認められて差し戻しとなり、最終的に無罪となった。
岡 光夫(おか みつお、1920年1月5日 - 2005年6… 岡 光夫(おか みつお、1920年1月5日 - 2005年6月6日)は、日本の日本農業経済史学者。 北海道出身。北海道大学農学部農業経済学科卒、同大学院中退、1961年「封建村落の経済的研究」で東京大学農学博士。兵庫農科大学講師、助教授、同志社大学経済学部助教授、教授。1990年定年、名誉教授。 2005年6月6日午後6時35分、肺炎のため茨城県水戸市の病院で死去。85歳没。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
多賀谷 真稔(たがや しんねん、多賀谷眞稔、1920年1月5… 多賀谷 真稔(たがや しんねん、多賀谷眞稔、1920年1月5日 - 1995年4月9日)は、日本の政治家。日本社会党の衆議院議員、同党書記長。広島県呉市出身。正三位勲一等旭日大綬章。
岩宮 武二(いわみや たけじ、1920年(大正9年)1月4日… 岩宮 武二(いわみや たけじ、1920年(大正9年)1月4日 - 1989年(平成元年)6月26日)は、日本の写真家。鳥取県米子市出身。 叔父(米子写友会の中心的メンバーであった村上誠三)が写真店を経営していたことから、少年期から写真に興味を持つ。 米子商蚕学校(現・鳥取県立米子南高等学校)卒業。阪急百貨店に就職後、プロ野球・南海(現・福岡ソフトバンクホークス)二軍に入るが、まもなく体を壊し退団。商船会社に勤めるかたわら、入会した丹平写真倶楽部で、安井仲治、上田備山らと知り合う。 第二次世界大戦での出征を経て、戦後に「岩宮フォトス」を開業しフリーカメラマンとなる。1962年『佐渡』(朝日新聞社)。
酒井 新二(さかい しんじ、1920年1月4日 - 2016… 酒井 新二(さかい しんじ、1920年1月4日 - 2016年12月18日)は、日本のジャーナリスト。 東京都千代田区神田須田町に自転車屋を営む家の7人兄弟の次男として生まれる。浦和高等学校を経て東京帝国大学法学部政治学科(南原繁研究室所属)を卒業。短期現役海軍主計科士官(9期)を志願し、1942年9月に海軍経理学校に入校。1943年(昭和18年)1月、海軍主計中尉に任官し経理学校を卒業。太平洋戦争に従軍しラバウルをはじめ南方海域を転戦。1944年5月に海軍主計大尉に進む。1945年8月6日の広島原爆を呉にて、9日の長崎原爆を大村にて体験。松山海軍航空隊主計長兼同地軍需部支部員として終戦を迎えた。
小糸 久弥(こいと きゅうや、1920年1月4日 - 196… 小糸 久弥(こいと きゅうや、1920年1月4日 - 1968年2月15日)は、日本の経営者。小糸製作所元社長。東京都出身。 1942年に東京工業大学電気工学科を卒業し、後に小糸製作所に入社。 1955年5月に取締役に就任し、1962年1月には社長に昇格。 1968年2月15日重症大腸炎のために死去。48歳没。
玉城 俊一(たまき としかず、1920年(大正9年)1月4日… 玉城 俊一(たまき としかず、1920年(大正9年)1月4日 - 1991年(平成3年)7月17日)は、日本の銀行家。荘内銀行頭取を務めた。 東京生まれ。学徒出陣を経て安田銀行(のち富士銀行)入行。安田商店発祥の地である小舟町支店で取締役支店長を務めた。 1970年代、荘銀がメイン先を務める農機具製造の今間製作所(現:コンマ製作所)や、庄内交通等の経営危機が表面化しその不良債権処理に際して、ノウハウの提供と資金的、人的支援を安田銀行以来の親密先である富士銀行に求めることになり、玉城が招聘され第5代頭取に就任した。 頭取時代は、山形相互銀行(現:きらやか銀行)と折半出資により、エスワイコンピューターサービスを設立し、委託方式で共同オンラインを稼動させた。
舘 豊夫(たて とよお、1920年(大正9年)1月3日 - … 舘 豊夫(たて とよお、1920年(大正9年)1月3日 - 1998年(平成10年)4月9日)は、日本の実業家。三菱自動車工業社長。 大日本炭鉱の専務を務めた舘香緑・すえ夫妻の四男として、東京府東京市麹町区(現・東京都千代田区平河町)に生まれる。舘家は、旧伊勢国桑名藩士の家柄で、陸地測量師の館潔彦は祖父。 旧制東京高校、東京帝国大学経済学部を卒業後、1942年に三菱重工業に入社。三菱商事への出向時代には造船の営業を担当。 1970年6月、三菱重工と米・クライスラーとの合弁で発足する三菱自動車工業に移籍。1977年、取締役に選任され、常務を歴任後、1983年に社長となる。トップ時代には1988年に三菱自動車を東証1部に上場させ、「三菱自動車中興の祖」と呼ばれる。
加藤 信幸(かとう のぶゆき、1920年1月2日 - )は日… 加藤 信幸(かとう のぶゆき、1920年1月2日 - )は日本出身の元サッカー選手。ポジションはハーフバック。 東京帝国大学へ進学し運動会ア式蹴球部へ入部。4年次には主将を務めた。戦後の1947年に田辺製薬へ加入。1950年代に全日本実業団サッカー選手権大会で強さを誇った同クラブの中心選手として活躍した。 日本代表としては戦前、戦後を通じて活躍した。1942年8月8日の東亜競技大会で代表デビュー。1951年3月にインドで開催された第1回アジア競技大会に出場するなど国際Aマッチ1試合に出場した。
荒木 修(あらき おさむ、1920年(大正9年)1月2日 -… 荒木 修(あらき おさむ、1920年(大正9年)1月2日 - 2002年(平成14年)12月13日)は、昭和から平成時代の政治家。教育者。熊本県菊池市長。 菊池市出身。1944年(昭和19年)京都帝国大学法学部卒業。 1945年(昭和20年)9月、隈府女子技芸学校(隈府女子専門学校を経て現菊池女子高等学校)校長代理に就任。1963年(昭和38年)7月、学校法人菊池女子学園、菊池女子高等学校を設立し、理事長兼校長に就任した。ほか、熊本県私立学校審議会長を歴任した。 1989年(平成元年)菊池市長に当選し、1期務めた。
猪熊 幸夫(いのくま ゆきお、1920年1月2日 - )は、… 猪熊 幸夫(いのくま ゆきお、1920年1月2日 - )は、日本の射撃競技(ライフル射撃)選手。警察予備隊(のちに陸上自衛隊)所属。1952年ヘルシンキオリンピックに初の日本代表射撃選手として出場、1956年メルボルン・1960年ローマ大会にも連続出場した。またアジア競技大会2大会に出場。スモール・ボア・ライフル伏射種目で、1958年東京アジア大会では金メダルを獲得、1960年ローマオリンピックで6位入賞を果たした。 三重県出身。明治大学卒業。明治大学体育会射撃部は大学射撃部としては最古の歴史を持つとされ、第二次世界大戦後には師尾源蔵(日本ライフル射撃協会創設者)をはじめ平尾真、安齋實、岡田伝三、石崎育造といったOBらの努力によって射撃部の活動が再開されていた。
塩谷 一夫(しおのや かずお、1920年〈大正9年〉1月2日… 塩谷 一夫(しおのや かずお、1920年〈大正9年〉1月2日 - 1989年〈平成元年〉12月28日)は、日本の政治家、元自由民主党所属衆議院議員。 静岡県磐田郡袋井町(現・袋井市)出身。袋井町長、中遠鉄道社長、袋井合同運送取締役を務めた塩谷桑平と、きく(古田庄太郎二女)の七男。1941年に早稲田大学政治経済学部卒業。 1946年、地方建設研究所長。1948年、静岡県教育委員会委員。1951年、同県社会教育協会事務局長、同県総務部秘書課長となり1955年、県民会館長を兼務する。1957年、同県企画調整部秘書課長。 1967年、静岡県教育委員会企画調整部長を経て、第31回衆議院議員総選挙に中選挙区時代の旧静岡3区から立候補し初当選(通算7回当選)。
林 忠明(はやし ただあき、1920年1月2日 - 2017… 林 忠明(はやし ただあき、1920年1月2日 - 2017年8月29日)は、神奈川県秦野市出身の元卓球選手。 12歳のときに卓球を始めた。1940年に汎太平洋卓球大会の日本代表に選ばれて国際試合に出場したが、太平洋戦争の勃発で歩兵部隊の幹部として満州や南方戦線を転戦した。 復員後、1946年に全日本軟式で優勝、1950年には全日本卓球選手権のシングルスで優勝、日本初参加となった1952年にインドのボンベイで行われた世界卓球選手権で藤井則和とのペアで男子ダブルス優勝している。このとき渡航費用として40万円がかかったが半分の20万円は自己負担したという。 晩年は荒川区で卓球用品の会社を経営していた。
志位 正二(しい まさじ、1920年1月1日 - 1973年… 志位 正二(しい まさじ、1920年1月1日 - 1973年3月31日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少佐。 志位正人陸軍中将の息子として生まれる。東京府立六中、東京陸軍幼年学校、陸軍士官学校予科を経て、1939年9月、陸軍士官学校(52期)を卒業。同年11月、歩兵少尉に任官し歩兵第61連隊付となる。1944年12月、陸軍大学校(59期)を卒業し陸軍少佐に昇進。1945年4月、関東軍隷下の第3方面軍情報参謀に発令され、終戦を迎えた。 終戦後シベリア抑留に遭い、1948年4月にソ連諜報員となる誓約を行い、モンゴルのウランバートルにあった「第7006俘虜収容所」において朝枝繁春、瀬島龍三、種村佐孝らとともに諜報員、共産主義革命のための特殊工作員としての訓練を受けたとされる。