小野田 一雄(おのだ かずお、1900年11月28日 - 1… 小野田 一雄(おのだ かずお、1900年11月28日 - 1983年2月21日)は、大正期の日本の水泳選手。静岡県磐田郡今井村(現袋井市)出身。拓殖大学卒業。 浜松第一中学校(現静岡県立浜松北高等学校)卒業。1924年パリオリンピックには日本水泳チーム主将として出場。男子4×200m自由形リレーにおいて宮畑虎彦、野田一雄、高石勝男とともに4位の成績を収めた。 この項目は、水泳選手(飛込競技選手・アーティスティックスイミング選手・水球選手を含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:スポーツ/PJスポーツ人物伝)。
中崎 敏(なかざき / なかさき とし、1900年(明治33… 中崎 敏(なかざき / なかさき とし、1900年(明治33年)11月27日 - 1963年(昭和38年)5月17日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 島根県那賀郡都野津村(現江津市都野津町)で、中崎熊太郎の長男として生まれる。1924年11月、高等試験行政科試験に合格。1926年、東京商科大学を卒業。 卒業後、三井銀行本店に勤務。以後、東邦化学工業代表取締役、日本切削油製造社長、日本防火資材 (有) 社長、新理研映画社社長などを務めた。 1946年4月、第22回衆議院議員総選挙に島根県選挙区から日本社会党公認で立候補し当選。以後、第28回総選挙まで連続7回の当選を果たした。この間、日本社会党中央執行委員、同日中国交回復特別委員長、同財務委員会事業部長、中小企業国会議員協議会長を歴任。
矢川 徳光(やがわ とくみつ、1900年11月26日 - 1… 矢川 徳光(やがわ とくみつ、1900年11月26日 - 1982年2月23日)は、日本の教育学者。ソビエト教育学研究会会長。 1900年、長崎県長崎市に生まれた。1919年、旧制山口高等学校に入学。1926年、京都帝国大学文学部英文学科を卒業。戦前は日本大学工学部予科教授などを務めた。英語教育に携わる傍ら、科学読物の英和注釈本などの出版を通して、科学教育の実践を試みた。独学でロシア語を習得し、ソビエト教育理論や実践を紹介した。 太平洋戦争後は、教育学者として民間教育運動の理論的指導者として活躍した。学界では1960年以降、ソビエト教育学研究会会長を務めた。1982年に死去。 これらの他にロシア共和国教育科学アカデミー編『ソビエト教育科学アカデミヤ版ソビエト教育科学辞典』明治図書出版、1963をソビエト教育学研究会が編訳。
林 文雄(はやし ふみお、1900年11月26日 - 194… 林 文雄(はやし ふみお、1900年11月26日 - 1947年7月18日)は、日本の医師。全生病院(国立療養所多磨全生園)、国立療養所長島愛生園、国立療養所星塚敬愛園(園長)に勤務し、国立療養所大島青松園で、病気療養をした。特に光田健輔を助け、光田反応を完成させた。クリスチャン、ヒューマニストであり、南九州、とくに奄美、沖縄のハンセン病患者救済に取り組み、理想の療養所建設に力を注いだが、志半ばで病に倒れた。 1900年11月26日、画家林竹治郎の息子として北海道札幌市に生まれる。1926年に北海道帝国大学医学部を卒業し、同年5月から全生病院に勤務。1930年、タイのバンコクで光田反応を名前をつけず発表。
嘉納 履正(かのう りせい、1900年〈明治33年〉11月2… 嘉納 履正(かのう りせい、1900年〈明治33年〉11月25日 - 1986年〈昭和61年〉1月13日)は、講道館第3代館長(1946年 - 1980年)・全日本柔道連盟初代会長(1949年 - 1980年)。嘉納治五郎の次男。第二次世界大戦後の日本の柔道の存続・再編組織化・発展に尽力するとともに、国際柔道連盟の会長も務めるなど、国際的な普及に貢献した。 東京都出身。嘉納治五郎の次男として生まれた。國學院大學卒業。宮内省図書寮御用掛を務めたのち、講道館理事となる。 1946年11月、講道館2代目館長の南郷次郎が病気により辞職すると、第3代館長に就任(1980年まで)。文部省や柔道界が学校での柔道教育の復活をめざして占領当局とおこなった折衝の一環を担った。
谷口 成之(たにぐち しげゆき、1900年11月25日 - … 谷口 成之(たにぐち しげゆき、1900年11月25日 - 1984年)は、東海大学工学部教授などを歴任した日本の都市計画家。 愛知県尾張旭市生まれ。旧制明倫中学校から第八高等学校をへて1925年に東京帝国大学工学部土木工学科を卒業し、都市計画地方委員会の愛知地方委員会に奉職。1931年には長崎地方委員会に転任。1939年北海道地方委員会に転任。1942年には東京地方委員会に転任するが、戦時中のため仕事は護国寺の大防空壕掘削だったという。そのまま東京都発足で職員となり、戦後は戦災復興都市計画の責任者である都建設局区画整理課長や、区画整理部長を歴任していく。1950年からは都市計画担当教員として中央大学で教鞭を執る。
坂田 啓造(さかた けいぞう、1900年(明治33年)11月… 坂田 啓造(さかた けいぞう、1900年(明治33年)11月23日 - 1976年(昭和51年)12月16日)は、静岡県浜名郡可美村東若林(現・浜松市中央区東若林町)出身の政治家。第11代浜松市長(1947年4月16日-1951年4月15日)。 1900年(明治33年)11月23日、静岡県浜名郡可美村東若林(現・浜松市中央区東若林町)に生まれた。父の坂田喜三郎は浜名郡会議員や磐田郡浅羽村長を務める地域の名士だった。 1923年(大正12年)、高等試験行政科に合格し、翌年に東京帝国大学法学部政治科を卒業した。三井物産に勤務した後、岡山県警視・保安課長、北海道庁警視・外事課長、栃木県特高課長、広島県事務官・学務課長、富山県書記官・学務部長、長崎県学務部長、新潟県学務部長、大分県内政部長を歴任した。
加藤 精三(かとう せいぞう、1900年(明治33年)11月… 加藤 精三(かとう せいぞう、1900年(明治33年)11月20日 - 1965年(昭和40年)5月3日)は、日本の政治家、旧鶴岡市第6代市長、衆議院議員(5期)、致道博物館顧問。山形県西田川郡鶴岡町(現・鶴岡市)出身。防衛庁長官・内閣官房長官・自民党幹事長を歴任した加藤紘一の父。
藤林 誠(ふじばやし まこと、1900年(明治33年)11月… 藤林 誠(ふじばやし まこと、1900年(明治33年)11月20日 - 1958年(昭和33年)1月10日)は、日本の林学者である。 東京の生まれ。1925年(大正14年)に東京帝国大学農学部(現在の東京大学大学院農学生命科学研究科・農学部)林学科を卒業後は、大学院を経て母校で講師として教鞭を執る。1937年(昭和12年)には農林省に入省し、同省の林業試験場の技師として活動した。 1944年(昭和19年)には再度東京大学に助教授として活動し、第二次世界大戦後の1946年(昭和21年)には教授に昇格する。同年には林業試験作業研究室の室長を兼任し、林業労働や森林機械等多くの研究に携わった。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
下八川 圭祐(しもやかわ けいすけ、1900年(明治33年)… 下八川 圭祐(しもやかわ けいすけ、1900年(明治33年)11月18日 - 1980年(昭和55年)3月18日)は、日本の声楽家(バス、バリトン)、音楽教育者。藤原歌劇団創設メンバーの一人、二代目総監督。現・学校法人東成学園(昭和音楽大学、昭和音楽大学短期大学部)の創立者。 高知県高岡郡佐川町出身。 1926年(大正15年)東洋音楽学校(現・東京音楽大学)本科声楽科卒業。矢田部勁吉、ベレッティに師事。 1930年(昭和5年)下八川圭祐声楽研究所を創立。ヴォーカル・フォアに参加。1934年(昭和9年)藤原義江とともに藤原歌劇団を創設。同団創設後はその中心メンバーとして『カルメン』の闘牛士役など多くのオペラに出演している。
岡 一男(おか かずお、1900年〈明治33年〉11月17日… 岡 一男(おか かずお、1900年〈明治33年〉11月17日 - 1981年〈昭和56年〉5月17日)は、日本の国文学者。専門は平安朝文学。学位は、文学博士(1953年)(学位論文「紫式部の研究」)。早稲田大学名誉教授。 福井県生まれ。早稲田大学国文科卒業、早稲田大学教授。五十嵐力に学ぶ。1953年、「紫式部の研究」で文学博士の学位を取得。1971年、定年退任、二松学舎大学教授。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
畝 美与吉(うね みよきち、1900年11月15日 - 19… 畝 美与吉(うね みよきち、1900年11月15日 - 1971年9月7日)は、将棋棋士。七段。神田辰之助九段門下。広島県呉市出身。 1931年、神田辰之助に入門。翌1932年に四段昇段。 戦後は戦災のために第1期順位戦は不参加。1947年の第2期順位戦からC級に参加。1954年11月2日、第9期順位戦(C級2組)で当時14歳の加藤一二三と対戦したが、敗れている。1956年の第11期順位戦でC級2組から降格し、翌1957年は56歳にして予備クラス(現在の三段リーグに相当)で対局することになったが、1957年前期の予備クラスでも1勝11敗と大きく負け越し、1957年前期限りで引退した。 1954年の第9期順位戦(C級2組・西組)では当時14歳の加藤一二三と2局対局しいずれも敗れている。
池上 鎌三(いけがみ けんぞう、1900年11月12日 - … 池上 鎌三(いけがみ けんぞう、1900年11月12日 - 1956年1月29日)は、日本の哲学者、元東京大学文学部教授。新カント派の哲学を学び、文化哲学、現象学、生の哲学を研究、紹介した。 1900年、長野県東筑摩郡松本町(現松本市)で生まれた。1918年、旧制松本中学(現長野県松本深志高等学校)を卒業し、第二高等学校に進学。1921年に同校を卒業し、東京帝国大学哲学科で学んだ。1925年に卒業。 卒業後は、東京外国語学校などで教鞭をとった後、1936年、母校の東京帝国大学助教授に就いた。1945年に同教授昇格。1941年、学位論文『文化哲学基礎論』を東京大学に提出して文学博士号を取得。56歳で在職中に死去。
柴田 栄(しばた さかえ、1900年11月12日 - 198… 柴田 栄(しばた さかえ、1900年11月12日 - 1982年9月23日)は、日本の政治家、農林官僚。参議院議員(3期)、林野庁長官(第3代)。 愛知県川中村大字福徳(現名古屋市北区福徳町)に生まれる。第八高等学校を経て、1928年に東京帝国大学農学部林学科を卒業。 大学卒業後、白沢営林署長、真室川営林署長、青森営林署長、秋田営林局長などを歴任した。真室川営林署長時代にはスキー大会を発案及び主催。真室川町秋山スキー大会の始まりだった。 1952年9月3日、林野庁長官に就任。1954年12月11日にインドで開催された第4回世界林業会議に日本代表として出席した。1955年11月19日、同長官を退任。
三浦 辰雄(みうら たつお、1900年〈明治33年〉11月1… 三浦 辰雄(みうら たつお、1900年〈明治33年〉11月12日 - 1989年〈平成元年〉3月17日)は、昭和期の農林技官及び官僚、政治家。参議院議員(1期)、林野庁長官。 福島県出身。1925年(大正14年)東京帝国大学農学部林学科を卒業した。 農商省に入省し、営林局技師、農林技師を務めた。1947年(昭和22年)12月、林野局長官に就任し、1949年(昭和24年)6月、林野局が林野庁に改称され引き続き長官に在任し、1950年(昭和25年)3月に退任した。 1950年(昭和25年)6月の第2回参議院議員通常選挙に全国区から無所属で出馬して当選し、参議院議員に1期在任した。この間、緑風会建設部会長、同風水害対策特別委員長などを務めた。
中平 昌(なかひら さかん、1900年(明治33年)11月1… 中平 昌(なかひら さかん、1900年(明治33年)11月12日 - 1985年(昭和60年)3月8日[要出典])は、昭和時代前期の台湾総督府官僚。 中平藤吉の長男として高知県安芸郡川北村(現・安芸市川北)に生まれる。1920年(大正9年)1月、高知税務署に奉職するが、のち職を辞し明治大学法科専門部に入り、1925年(大正14年)3月に卒業し、同年11月に高等試験行政科に合格する。 翌年渡台し、台湾総督府財務局税務課勤務を皮切りに台南州税務課長、新竹郡守、台南州内務部地方課長、台北州内務部地方課長を経て、1936年(昭和11年)10月に台中州警務部長に就任。ついで台湾総督府事務官財務局税務課長、専売局参事庶務課長、同局総務課長を経て、1943年(昭和18年)3月に台湾総督府食糧局長に就任した。
安藤 常次郎(あんどう つねじろう、1900年(明治33年)… 安藤 常次郎(あんどう つねじろう、1900年(明治33年)11月11日 - 1994年(平成6年)9月28日)は、日本の国文学者。 福岡県生まれ。俳号・安藤のりを。福岡県立中学修猷館を経て、1926年早稲田大学文学部国文科卒業。 早稲田大学教育学部教授、71年定年退職、名誉教授。武蔵野女子大学教授。能狂言を専門とした。
出原 信造(いずはら のぶぞう、1900年11月11日 - … 出原 信造(いずはら のぶぞう、1900年11月11日 - 1991年12月27日)は、日本の経営者。大同生命保険社長を務めた。 大阪府出身。1925年に神戸高等商業学校を卒業し、同年に大同生命保険に入社。1947年7月に取締役に就任し、1950年6月に常務、1961年1月に専務を経て、1963年1月に社長に就任。1973年1月に会長に就任し、1978年4月に取締役相談役を経て、1986年7月には相談役に就任。 1991年12月27日老衰のために死去。91歳没。
横関 英一(よこぜき ひでいち、1900年(明治33年)11… 横関 英一(よこぜき ひでいち、1900年(明治33年)11月11日 - 1976年(昭和51年)1月16日)は日本の地図考証家。江戸、東京の名のある坂道について研究し、『江戸の坂 東京の坂』を著した。 1900年(明治33年)11月11日、埼玉県入間郡川越町(現・川越市)で肥料商の家に生まれた。1924年(大正13年)早稲田大学商学部卒業、同年東京府立第五中学校(現・東京都立小石川中等教育学校)に事務職として勤務した。大学時代から文学に凝り、私小説を著した。1929年(昭和4年)に結婚した時にはすでに坂に熱中しており、江戸地誌、切絵図、陸軍参謀本部地図を持って坂を渡り歩いた。1937年(昭和12年)、真山青果の研究助手となり、演劇の時代考証を手伝う傍ら、『浮世絵界』誌上に江戸の坂等について記事を発表した。
小野 留嘉(おの とめよし、1900年11月10日 - 19… 小野 留嘉(おの とめよし、1900年11月10日 - 1987年5月31日)は、国営競馬ならびに日本中央競馬会 (JRA) の騎手で、京都競馬場→栗東トレーニングセンターに所属していた調教師。 北海道・小樽市出身、1928年に相羽仙一厩舎の騎手見習となり、1930年に騎手となるが、1938年にいったん騎手を廃業している。 戦後、繋駕速歩競走の復活に備え、1954年に助手として鈴木甚吉厩舎に復帰し、翌1955年3月1日に速歩競走の騎手免許を再取得した。当時54歳であった。 その後は、大久保亀治厩舎の所属となり、中央競馬で速歩競走が廃止される1968年まで騎手を務め、1969年より調教師へ転向した。
高木 翔之助(たかぎ しょうのすけ、1900年〈明治33年〉… 高木 翔之助(たかぎ しょうのすけ、1900年〈明治33年〉11月9日 – 1980年〈昭和55年〉)は、昭和のジャーナリスト・文筆家・出版業者。満洲・華北でジャーナリストとして活動し、日本による満洲国・冀東防共自治政府の樹立などを擁護した。その一方で、関東軍による出版弾圧にも激しく抵抗したことで知られる。戦後は地元・群馬県の地方ジャーナリストとして活動した。 群馬県佐波郡采女村(現・伊勢崎市)に生まれる。1923年(大正12年)、早稲田大学専門部政治経済科を中退。1925年(大正14年)5月、横浜市で週刊新聞『日本実業新報』を創刊・主宰した。1927年(昭和2年)9月に同紙を廃刊すると満洲に渡り、雑誌『海外之日本』大連支局主任となる。
境 一雄(さかい かずお、1900年(明治33年)11月8日… 境 一雄(さかい かずお、1900年(明治33年)11月8日 - 1983年(昭和58年)9月17日)は、大正・昭和期の労働運動家、実業家、政治家。衆議院議員。 北海道小樽区(現小樽市)で生まれる。1920年(大正9年)小樽中学校(現北海道小樽潮陵高等学校)を卒業。その後、早稲田大学政経科で学んだが中退した。割箸製造販売業を営む。その後、岸鉄工所庶務課長、小樽物産取締役、北海道配電小樽支店経営協議会委員などを務めた。 1926年(大正15年)日本労働組合評議会北海道地方評議会議長に就任。同年5月1日、北海道初のメーデー実行委員長を務めた。 1947年(昭和22年)4月、第23回衆議院議員総選挙で北海道第1区から日本社会党公認で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
塚越 賢爾(つかこし けんじ、1900年11月8日 - 19… 塚越 賢爾(つかこし けんじ、1900年11月8日 - 1943年7月7日以降)は日英ハーフの飛行家、航空機関士。1937年に朝日新聞社主催の神風号訪欧飛行により、同僚の飯沼正明操縦士とともに一躍日本の空の英雄となったが、太平洋戦争で軍務中に消息を絶った。 賢爾は群馬県碓氷郡烏淵村(後の高崎市)出身の弁護士・検事、塚越金次郎と英国人のエミリー・セイラ・ボールドウィンの長男。1900年(明治33年)11月3日、東京市麹町区で生まれた。父は倉渕村から上京し、明治法律学校卒業を経て弁護士資格を取得。1898年からイギリスに留学し、その最中に看護婦をしていたエミリーと知り合い結婚した。 2人は帰国後、賢爾が産まれる直前に婚姻届を提出。
藤林 敬三(ふじばやし けいぞう、1900年11月8日 - … 藤林 敬三(ふじばやし けいぞう、1900年11月8日 - 1962年9月15日)は、日本の経済学者。専門は労働経済論。 大阪市南区出身。1926年慶應義塾大学経済学部を卒業、経済学部助手に就任。1929年11月~32年2月の間に慶應義塾派遣留学生としてドイツ(ベルリン大学・ライプツィヒ大学)・フランス・イギリス・アメリカに留学し、心理学・産業心理学を学ぶ。1932年慶大経済学部助教授、1934年教授。1937年11月~39年8月の期間、看護兵として中支各地の病院に勤務した。1945年「労働者政策ト労働科学ニ就イテ」で慶大経済学博士を取得。その後も労働経済論・経済心理学を研究し、1959年には慶應義塾大学産業研究所初代所長に就任する。
杉田 勇次郎(すぎた ゆうじろう、1900年11月6日 - … 杉田 勇次郎(すぎた ゆうじろう、1900年11月6日 - 1984年8月31日)は、京都市出身の日本画家。号は遊子。おもに水彩画や油彩画を手がけ、洋画の技法を取り入れた作品が多い。 京都市下京区に生まれた杉田は、長じて京都市立絵画専門学校(京都市立美術大学の前身)に学び、在学中の1920年に「海近く」で国画創作協会展に初入選した。1922年に卒業した後も、入江波光に師事しながら。その後も国画創作協会展などに出品し、1926年には国画創作協会会員に推されたが、同会日本画部は1928年に解散してしまう。そこで、新樹社に参加するが、1931年には脱退する。 1934年に満州へ渡って美術教師となり、旅順高等公学校や大連の芙蓉高等学校で教鞭を執った。
四代目豊島 半七(よんだいめとよしま はんしち、1900年〈… 四代目豊島 半七(よんだいめとよしま はんしち、1900年〈明治33年〉11月6日 - 1962年〈昭和37年〉1月21日)は、愛知県中島郡一宮町(現・一宮市)出身の実業家。出生名は鈴木 孝三(すずき こうぞう)であり、1921年に豊島家の養嗣子となると、1937年4月に四代目豊島半七を襲名した。株式会社山一商店代表取締役、豊島株式会社社長、東海紡績株式会社社長。一宮市名誉市民。 天保12年(1841年)、初代豊島半七は尾張国の中島郡一宮村で綿花の仲買人の商売をはじめ、「綿屋半七」の商号を掲げた。農家から糸を購入して問屋に売っていたが、幕末には自身が問屋を構えるまでに成長した。1868年(明治元年)には長男の善七が家督を継いで、二代目豊島半七を名乗った。
柿崎 守忠(かきざき もりただ、1900年(明治33年)11… 柿崎 守忠(かきざき もりただ、1900年(明治33年)11月5日 - 1977年(昭和52年)8月)は日本の政治家。青森県青森市長。 青森県青森市出身。青森県立青森中学校(現・青森県立青森高等学校)を経て、1933年、東京高等師範学校を卒業する。卒業後は青森中学、青森県女子師範学校各教諭、県視学官、青森市立高等女学校(現・青森県立青森中央高等学校)、青森中学、青森青年師範学校各校長などを歴任した。 1945年7月28日、青森市長に就任。市長就任当日に青森空襲が起こり、市内は焦土と化した。翌月に終戦を迎え、青森市に米軍が進駐、柿崎は進駐軍との折衝に当たらなければならなかった。市役所は空襲で焼失し、市公会堂を庁舎と使用していたが、進駐軍に接収された。
吉川 潔(きっかわ きよし、1900年〈明治33年〉11月3… 吉川 潔(きっかわ きよし、1900年〈明治33年〉11月3日 - 1943年〈昭和18年〉11月25日)は、日本海軍の軍人。戦死後、二階級特進して海軍少将。広島県広島市段原町出身。海兵50期。 父は漢学者。七男四女のうち、四男。旧制広陵中学(現・広陵高等学校)を卒業後、海軍兵学校を受験するが身長と胸囲不足で不合格。口惜しさから器械体操と陸軍被服廠での積荷作業で体を鍛え上げた。翌1919年(大正8年)兵学校(海兵50期)に合格。兵学校時代は成績も下の方で「寡黙の吉川」といわれるほど目立たなかった。「量も大切だが最後を決するのは質と精神だ」を口癖としていたという。 1922年(大正11年)6月1日、海軍兵学校を卒業し、同日附で少尉候補生。
山脇 義勇(やまわき よしとし、1900年11月3日 - 1… 山脇 義勇(やまわき よしとし、1900年11月3日 - 1987年7月14日)は、日本の経営者。ダイセル化学工業社長、会長を務めた。高知県出身。位階は正四位。 1922年に山口高等商業学校を卒業し、同年に岩井商店に入社。1940年5月にダイセル化学工業に転じ、1946年12月に取締役に就任し、1949年1月に常務、1955年1月に専務を経て、1961年1月に副社長に就任し、1964年1月には社長に昇格。1971年1月に会長に就任し、1972年2月には相談役に就任。 1967年に藍綬褒章を受章し、1972年11月に勲二等瑞宝章を受章。 1987年7月14日肝臓癌のために死去。86歳没。死没日付をもって正四位に叙された。
大谷 贇雄(おおたに よしお、1900年11月2日 - 19… 大谷 贇雄(おおたに よしお、1900年11月2日 - 1970年12月23日)は、日本の政治家。名古屋市会議員(2期)、参議院議員(3期)。愛知県教育委員長(初代)、農林政務次官、参議院懲罰委員会委員長などを歴任した。位階勲等は従三位勲二等。 明治33年(1900年)11月2日、学校法人桜花学園の創立者である大渓専の長男として、鹿児島県に生まれる。鹿児島市出身。2歳になるまでを鹿児島、姫路にて過ごした後に、父の郷里である愛知県幡豆郡横須賀村(後の吉良町、西尾市)で育つ。大正8年(1919年)3月に旧制尾張中学校(現・名古屋大谷高等学校)を卒業した。 大正14年(1925年)3月に慶應義塾大学文学部を卒業すると、桜花高等女学校(現・桜花学園高等学校)で教鞭をとった。
石井 秋穂(いしい あきほ、1900年(明治33年)11月2… 石井 秋穂(いしい あきほ、1900年(明治33年)11月2日 - 1996年(平成8年)8月25日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大佐。 第16師団参謀、北支那方面軍参謀などを経て、陸軍省軍務局軍務課高級課員となり、日米開戦前の政策立案などにあたる。陸軍きっての理性派として避戦を望んだが、日米交渉の失敗で戦争政策を進めることになる。 1900年(明治33年)、山口県豊浦郡豊西村(現下関市)で石井友三郎の五男として生まれる。広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校本科を経て、1922年(大正11年)7月、陸軍士官学校(34期)を秩父宮を除き4番の成績で卒業。なお石井は、陸幼と陸士卒業時の2度に亘り恩賜の銀時計を拝受している。
美濃部 洋次(みのべ ようじ、1900年11月1日 - 19… 美濃部 洋次(みのべ ようじ、1900年11月1日 - 1953年2月28日 52歳)は、日本の商工官僚。
内田 敏雄(うちだ としお、1900年〈明治33年〉11月1… 内田 敏雄(うちだ としお、1900年〈明治33年〉11月1日 - 没年不詳)は、昭和期の政治家、華族。貴族院男爵議員。位階は正四位。 海軍士官・内田正敏の養子・栄(矢部善作の二男)の長男として生まれる。養曽父・正敏の死去に伴い、1922年(大正11年)6月2日、男爵を襲爵した。 1926年(大正15年)4月、京都帝国大学法学部政治経済学科を卒業。1927年(昭和2年)東京市社会局嘱託となる。その後、南洋拓殖人事課長、同参事などを務めた。 1946年(昭和21年)5月11日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属して1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。 1977年(昭和52年)時点でのインタビューが残っている。
杉村 勇造(すぎむら ゆうぞう、1900年11月1日 - 1… 杉村 勇造(すぎむら ゆうぞう、1900年11月1日 - 1978年9月29日)は、中国美術学者。号は「丁父」。大東文化大学名誉教授。 1900年、東京市深川区亀住町(現・東京都江東区深川)で生まれた。1919年、無窮会漢学研究生として中華民国・北京に留学。1924年、無窮会会長・平沼騏一郎の斡旋により3年間北京に留学。金石学を馬衡(中国語版)に、書誌学を徐鴻宝(中国語版)の下で学んだ。 1927年、北京東方文化事業総委員会の図書籌備員となり、人文科学研究所図書館の設立にあたった。 1932年、満州国立図書館、国立奉天博物館の開設準備に携わった。1933年10月に満日文化協会が発足すると、常務理事、満州芸文協会理事となった。
土井 直作(どい なおさく、1900年(明治33年)11月1… 土井 直作(どい なおさく、1900年(明治33年)11月1日 - 1967年(昭和42年)6月26日)は、大正・昭和期の労働運動家、政治家。衆議院議員。 石川県鳳至郡剱地村(門前町剱地を経て現輪島市門前町剱地)で、土井太郎、ユウ夫妻の三男として生まれる。1915年(大正4年)小学校を卒業し足尾銅山で働く。1919年(大正8年)に上京して芝浦製作所(現東芝)に入社し電気工として務め、友愛会芝浦支部に加わり、1920年の芝浦争議に参加して解雇された。1922年(大正11年)日本労働学校を卒業した。 1925年(大正14年)日本労働総同盟(総同盟)調査部員、1928年(昭和3年)から総同盟調査委員に就任し、1940年(昭和15年)の組織解散まで各地の労働争議を指導した。
小林 千秋(こばやし ちあき、1900年(明治33年)11月… 小林 千秋(こばやし ちあき、1900年(明治33年)11月 - 1949年(昭和24年)7月)は、日本の内務官僚。官選県知事。 東京府出身。小林龍三郎の長男として生まれる。第一高等学校を卒業。1925年11月、高等試験行政科試験に合格。1926年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省に入省し土木局属となる。 以後、内務省復興局勤務、福島県地方事務官、兵庫県地方事務官、内務省社会局事務官、同省地方局事務官、同局監督課長、同局財政課長、大臣官房会計課長などを歴任。 1944年8月、和歌山県知事に就任。県立医学専門学校の設立、東南海地震・和歌山大空襲の救援活動に尽力。1945年10月、三重県知事に転任。
政池仁(まさいけ じん / めぐむ、1900年11月-198… 政池仁(まさいけ じん / めぐむ、1900年11月-1985年4月3日)は、無教会主義のキリスト教伝道者。 愛知県宝飯郡赤坂町(現・豊川市)出身。東京帝国大学理科に入学し在学中、内村鑑三に師事して無教会キリスト教に入る。東大理学部卒業後、(旧制)静岡高等学校(現・静岡大学)教授。満洲事変に際し非戦論を唱えて静岡高を辞職。以後約50年間、独立伝道活動を続けた。キリスト教非戦平和団体「日本友和会」の理事長を務めた。
高野 弘正(たかの ひろまさ、1900年〈明治33年〉10月… 高野 弘正(たかの ひろまさ、1900年〈明治33年〉10月31日 - 1987年〈昭和62年〉5月27日)は、日本の剣道家。称号は剣道範士、一刀流中西派(または小野派一刀流中西派)宗家。 小野派一刀流の剣道家高野佐三郎の次男として東京に生まれる。6歳より父の道場明信館で剣術を修行し、後に小野派一刀流を継承する。小野派一刀流の中西子定から数えて8代目にあたる。 1918年(大正7年)、旧制日本大学中学校(現在の日本大学第一中学校・日本大学第一高等学校)を卒業。1923年(大正12年)、東京高等師範学校体育科を卒業。1926年(大正15年)、大日本武徳会から精錬証を授与される。 昭和に入り、早稲田大学に奉職する一方、修道学院を運営、さらに劇団を作って主演もした。
宮田 重雄(みやた しげお、1900年10月31日 - 19… 宮田 重雄(みやた しげお、1900年10月31日 - 1971年4月28日)は、日本の画家、医師。 愛知県名古屋市出身。重陽の節句(9月9日)に生まれたので 重雄と名付けられた。愛知県立第一中学校(現・愛知県立旭丘高等学校)に進学後、慶應義塾大学医学部入学。上京後は勉学と並行して学内に絵画部ジュヌ・パントル[仏語で若い画家の意]を創立、1923年には第1回春陽会に出品、見事入選を果たし、医師と画家、両立の道へと進んでいく。1925年同大学卒業。1928年 - 1930年パリ・パスツール研究所に留学し、医療に従事するかわたら洋画家梅原龍三郎に師事。春陽会、国画会に所属。1934年慶應義塾大学医学博士。
中村 一策(なかむら いっさく、1900年(明治33年)10… 中村 一策(なかむら いっさく、1900年(明治33年)10月30日 - 1966年(昭和41年)12月22日)は、日本の銀行家。日本勧業銀行頭取、第21代全国銀行協会会長。 長野県東筑摩郡朝日村に中村愛治の長男として生まれる。 旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)、慶應義塾大学経済学部を卒業。1925年日本勧業銀行入行。 1955年監査役に就任。常務、副頭取を経て、1961年に頭取に就任する。 頭取時代は、特殊銀行から普通銀行に転換する多難な時期にあたり、積極的な経営を展開、特に預金の吸収に力を入れて業績を伸ばし、「預金の神様」と言われた。また、金融界に対しては利子課税、融資ルールなどの問題に対処して功績があった。
9代 岡村 利右衛門(利右衞門、おかむら りえもん、1900… 9代 岡村 利右衛門(利右衞門、おかむら りえもん、1900年(明治33年)10月29日 - 1965年(昭和40年)12月28日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(3期)。幼名は良守。 岐阜県吉城郡国府村広瀬町(国府町広瀬町を経て現高山市国府町広瀬町)で、8代利右衛門の息子として生まれる。斐太中学校(現岐阜県立斐太高等学校)を経て、1928年(大正14年)早稲田大学政治経済科を卒業。その後、アメリカ合衆国に留学し、ベイツ大学、コロンビア大学を経て、ニューヨーク大学大学院を修了しマスター・オブ・ビジネス・アドミニストレーションの学位を受けた。 逓信省嘱託、牧野良三逓信政務次官秘書官、電気協会(現日本電気協会)弁理課長を経て、1938年(昭和13年)北支那開発に転じたが、終戦により解散となり帰国。
初井 しづ枝(はつい しずえ、1900年(明治33年)10月… 初井 しづ枝(はつい しずえ、1900年(明治33年)10月29日 - 1976年(昭和51年)2月15日)は、日本の歌人。兵庫県姫路市出身。 兵庫県姫路市大黒町(現・大国壱丁町)に、薬種商井上又次・たねの三女として生まれる。本名・しづ江。姫路高等女学校(現・兵庫県立姫路東高等学校)を卒業し、大阪道修薬学校(現・大阪薬科大学)に入学。薬剤師の検定試験を受けて合格。姫路に帰郷し、親戚の病院へ調剤の見習いに通う。 その後、姫路高女時代から交際していた初井佐一と結婚(当時20歳)。佐一の生家・初井家は姫路を代表する大地主で素封家であった。歌誌『アララギ』の会員で短歌を作っていた夫に勧められて作歌を始め、1926年に「日光」に入社、北原白秋に師事。
宮下 孝吉 (みやした こうきち、1900年10月27日 -… 宮下 孝吉 (みやした こうきち、1900年10月27日 - 1971年6月5日)は、日本の西洋経済史学者。神戸大学名誉教授。元日本学術会議会員。 静岡県細江町(現浜松市)生まれ。浜松商業学校(現静岡県立浜松商業高等学校)を経て、1922年神戸高等商業学校(現神戸大学)第二学年修了。1925年東京商科大学(現一橋大学)卒業。神戸で坂西由蔵に師事し、東京では坂西の師である福田徳三に師事した。また在学中三浦新七からも文明史の指導を受けた。 失明した坂西の後任候補として1925年に母校神戸高等商業学校講師となる。一年志願兵(歩兵第6連隊)、大日本帝国陸軍一等計手を経て、1927年神戸高等商業学校教授。
信原 聖(のぶはら さとる、1900年〈明治33年〉10月2… 信原 聖(のぶはら さとる、1900年〈明治33年〉10月26日 - 没年不明)は、昭和時代前期の朝鮮総督府官僚。平安北道知事。慶尚南道知事。 信原岩虎の長男として岡山県に生まれる。1924年(大正13年)東京帝国大学法学部独法科を卒業し、朝鮮総督府に奉職する。専売局事業課長、全羅南道、全羅北道各内務部長、総督官房文書国勢調査各課長、国民総力課長兼殖産局勤務を経て、1943年(昭和18年)7月、平安北道知事に就任した。1945年(昭和20年)3月、慶尚南道知事に転じた。 戦後は家庭調停委員を務めた。
飯島 祐之(いいじま すけゆき、1900年〈明治33年〉10… 飯島 祐之(いいじま すけゆき、1900年〈明治33年〉10月25日 - 1970年〈昭和45年〉8月29日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)、群馬県邑楽郡多々良村長。 群馬県邑楽郡多々良村大字木戸(現・館林市)で、飯島忠四郎の二男として生まれる。1920年(大正9年)旧制太田中学校(現・群馬県立太田高等学校)を卒業。 その後は農業に従事して1933年(昭和8年)多々良村助役、1939年(昭和14年)同村長に就任した。群馬県町村会副会長、邑楽郡農会議員、多々良村産業組合長、同農業会長、群馬県購買販売利用組合連合会理事、同製粉精米加工組合理事長、同食糧営団理事、邑楽郡煙草耕作連合組合長となる。
草鹿 浅之介(くさか あさのすけ、1900年10月25日 -… 草鹿 浅之介(くさか あさのすけ、1900年10月25日 - 1993年8月11日)は、日本の裁判官、検察官。最高裁判所判事。大阪府出身。父は元第四高等学校ドイツ語講師、住友本社理事(住友倉庫総支配人)の草鹿丁卯次郎、長兄は連合艦隊参謀長を務めた海軍軍人の草鹿龍之介。義父(妻雪子の父)は枢密院顧問官の二上兵治。また、従兄には龍之介が兄と慕った海軍軍人(南東方面艦隊司令長官、海軍兵学校校長)の草鹿任一、伯父には任一の父で丁卯次郎の兄である草鹿甲子太郎(衆議院議員、弁護士、神戸日華実業協会理事長)がいる。 1900年(明治33年)大阪にて草鹿丁卯次郎の三男として誕生。丁卯次郎には息子が4人(その他女子が4人)おり、それぞれ龍之介 (元連合艦隊参謀長)、犀之介(北海道紋別/草鹿牧場経営)、浅之介、卯之介(インドネシア/草鹿商会社長)と名付けた。
岡野 敏成(おかの としなり、1900年〈明治33年〉10月… 岡野 敏成(おかの としなり、1900年〈明治33年〉10月25日 - 1974年〈昭和49年〉9月6日)はよみうりテレビ代表取締役最高顧問。東京都出身。 1924年3月、慶応義塾大学を卒業と同時に大阪毎日新聞に入社。その後、時事新報、国民新聞と転々し、1934年に読売新聞に移籍。1949年、同社の取締役審議室長を務める。1963年5月によみうりテレビに移籍し専務取締役となる。1970年7月に同社の代表取締役社長に就任。1972年5月に最高顧問に退く。 1974年9月6日午後0時半、消化管出血のため、兵庫県芦屋市大原町11-5の伊藤外科病院で死亡(享年73歳)。
神田 俊二(かんだ しゅんじ、1900年10月25日 - 1… 神田 俊二(かんだ しゅんじ、1900年10月25日 - 1940年代)は、日本の俳優、元実業家である。本名同じ。短期間ではあるが、日活太秦撮影所に所属していた二枚目俳優である。 1900年(明治33年)10月25日、東京府東京市京橋区木挽町(現在の東京都中央区)に神田鐳蔵の庶子として生まれる。鐳蔵は紅葉屋商会、神田銀行(1927年倒産)を経営していた財界の大物であった。 暁星小学校を経て慶応義塾大学に入学するが、1923年(大正12年)に中退し、父が経営する紅葉屋商会の社員となる。1926年(大正15年)、特作映画社が製作した映画『我は海の子』(『吾は海の子』)で主演に抜擢されていたが、資金難で小笠原プロダクションに引き継がれ、主演も原田龍次(後の原田譲治、1904年 - 没年不詳)に変更された為、念願だった俳優になれずじまいであった。
浅野 竹二(あさの たけじ、1900年(明治33年)10月2… 浅野 竹二(あさの たけじ、1900年(明治33年)10月24日-1998年(平成10年)2月10日)は、京都の日本画家、版画家。 土田麦僊の門人。1900年(明治33年)、父、浅野眞三郎、母、もとの子として京都市に生まれた。大正4年(1915年)から作画を始めており、1919年(大正8年)に京都市美術工芸学校絵画科(日本画)を卒業、1921年(大正10年)、京都市立絵画専門学校本科1年に入学して日本画を専攻したが、本科2年の頃から油絵を独学している。1923年(大正12年)に絵画専門学校を卒業し、1926年(昭和元年)頃、再び日本画に復帰、翌1927年(昭和2年)に麦僊の画塾「山南塾」に入り、第6回国画創作協会展に「風景」を出品、翌1928年(昭和3年)、第7回国画創作協会展に「白帆遥暎」を出品、ともに入選するなど日本画家として活躍した。
石川道雄(いしかわ みちお、1900年10月23日 - 19… 石川道雄(いしかわ みちお、1900年10月23日 - 1959年2月25日)は、日本のドイツ文学者、詩人。 大阪府生まれ。東京帝国大学独文科卒業。山宮允の主宰する文芸誌『鈴蘭』に詩を発表。上京して日夏耿之介に師事し、1924年詩誌『東邦芸術』(のち「奢灞都」)を編集。その他、日夏の個人誌『パンテオン』『游牧記』『半仙戯』『豊葦原』などの雑誌に関わる。1929年東京府立高等学校教授。戦後國學院大學教授、山梨大学教授、1957年北海道大学教授。 ホフマンを研究、翻訳した。中央大学の校歌の作詞も担当した。墓所は多磨霊園。