神保 光太郎(じんぼ こうたろう、1905年〈明治38年〉1… 神保 光太郎(じんぼ こうたろう、1905年〈明治38年〉11月29日 - 1990年〈平成2年〉10月24日)は、昭和期の日本の詩人・ドイツ文学者。本名は光太郎(みつたろう)(姓の読みを「じんぼう」とする文献もある)。 山形県山形市生まれ。山形県立山形中学校から山形高校を経て、京都帝国大学文学部独文科を卒業。在学中から同人誌に詩や短歌を発表して新散文詩運動の一翼を担った。 1934年、埼玉県浦和市(現:さいたま市)の別所沼のほとりに家を新築し、生涯にわたって活動拠点とした。この別所沼の家に、神保を兄と慕う立原道造の来訪をしばしば受けている。1935年、保田與重郎や亀井勝一郎らと『日本浪曼派』に参加し、詩誌『四季』などに作品を発表した。
神部 健(かんべ けん、1905年11月29日 - 1982… 神部 健(かんべ けん、1905年11月29日 - 1982年5月27日)は、日本の経営者である。オリンパス光学工業(のちのオリンパス)社長・会長を務めた。神奈川県出身。 1930年に東京帝国大学経済学部商業学科を卒業し、同年に日本生命保険に入社。1963年に専務を経て、1964年から1970年までに監査役を務めた。1964年にオリンパス光学工業に就任し、1967年に副社長を経て、1971年に社長に就任。その後は、1973年12月に会長を経て、1976年1月に相談役に就任。 1982年5月27日、心不全のために死去。76歳没。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
川崎 巳三郎(かわさき みさぶろう、1905年11月29日 … 川崎 巳三郎(かわさき みさぶろう、1905年11月29日 - 1982年12月2日)は、日本の評論家。ペンネームは河本 勝男。 千葉県東金市出身。1931年東京商科大学(現一橋大学)卒業。マルクス経済学者大塚金之助の門下。 大学卒業後は、企画院嘱託を経て、満鉄調査部員となり、満鉄調査部事件で石堂清倫、中西功、野々村一雄らとともに検挙された。 日本共産党自治体部副部長や、プロレタリア科学研究所常任中央委員も務め、左翼の理論家として知られた。 この項目は、経済学者(経済評論家を含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ウィキポータル 経済学、ウィキプロジェクト 経済)。
勝木 保次(かつき やすじ、1905年11月28日 - 19… 勝木 保次(かつき やすじ、1905年11月28日 - 1994年3月6日)は、生理学者、文化勲章受章者。聴覚の研究に大きく貢献した。 石川県小松生まれ。第三高等学校、東京帝国大学医学部卒業。当初は耳鼻科を専攻していたが、橋田邦彦の生理学教室に移る。1949年東京医科歯科大学教授、1971年に定年退職後に鶴見大学歯学部教授。1974年に東京医科歯科大学学長に就任し、1977年まで務める。1972年日本学士院会員。1977年生物科学総合研究機構長に就任し、1981年まで務めた。 1948年 東京大学 医学博士。論文は「日本語母音の構成と口腔及び附属管腔の研究」。 母音解析や魚類、哺乳類等の聴覚の研究から脳の聴覚機構を研究する。
櫛田 良洪(くしだ りょうこう、1905年11月28日 – … 櫛田 良洪(くしだ りょうこう、1905年11月28日 – 1980年11月4日 )は、日本の僧侶、日本仏教史研究者。 愛知県出身。大正13年旧制豊山中学校卒業、1929年大正大学文学部史学科卒業。1934年大正大学講師、1944年同助教授、1947年同教授。1966年には大正大学学長となり、1974年に名誉教授。日本仏教史、特に浄土真宗史の研究を専門とし、1960年に「東密の史的展開に関する研究」により大正大学から文学博士の学位を授与された。松戸市教育委員長なども務めた。1977年に勲三等瑞宝章を受章。
群司 次郎正(ぐんじ じろうまさ、1905年11月27日 -… 群司 次郎正(ぐんじ じろうまさ、1905年11月27日 - 1973年1月10日)は、日本の小説家、作詞家である。郡司 次郎正(ぐんじ じろまさ)とも表記する。代表作として1931年(昭和6年)に発表された『侍ニッポン』があり、同作は多数映画化・リメイクされた。同作の主題歌(作詞:西條八十、作曲:松平信博)もヒットしたが、同作を除く、自らの「小説主題歌」を作詞した。本名:郡司 次郎(ぐんじ じろう)。 1905年(明治38年)11月27日、群馬県佐波郡伊勢崎町(現在の伊勢崎市)に生まれる。やがて茨城県東茨城郡大貫町舟渡(現在の大洗町大貫町舟渡)に移り育つ。旧制・茨城県立水戸中学校(現在の茨城県立水戸第一高等学校)を卒業する。
嵯峨根 遼吉(さがね りょうきち、1905年11月27日 -… 嵯峨根 遼吉(さがね りょうきち、1905年11月27日 - 1969年4月16日)は、日本の物理学者。専門は実験物理学。東京府(現・東京都)出身。
三代 義勝(みよ よしかつ、1905年(明治38年)11月2… 三代 義勝(みよ よしかつ、1905年(明治38年)11月25日 - 1967年(昭和42年)11月3日)は、福島県磐城市(現・いわき市)長。位階は正六位。勲五等双光旭日章。 現在の茨城県日立市の漁師の子に生まれる。23歳で魚の行商を始め、小名浜に来てその後、水産加工場を建てる。精力的な努力の末、規模を拡大し、イワシ漁の船を持ち、漁業に乗り出し、マグロ、サバ用などの漁船を多く持ち、全国屈指の漁家となる。小名浜漁業組合長など多くの漁業関連団体の役員を務めた。ほか、1938年2月に東日本漁業取締役となり、同年3月に小名浜町議に当選した。 1956年の磐城市長選挙に立候補し、対立候補を251票差で破った。
竹内 弘(たけうち ひろし、1905年11月24日 - 19… 竹内 弘(たけうち ひろし、1905年11月24日 - 1998年11月20日)は、日本の実業家。株式会社有楽土地会長、株式会社大成建設副社長。 1930年に慶應義塾大学経済学部卒業、大成建設入社。1957年に監査役、1961年に常務取締役、1963年に専務取締役、1967年に取締役副社長、1977年に社友。また、1967年に有楽土地代表取締役社長、1973年に取締役会長。その他、茨交大洗ホテル会長、デーリーストア、日立電鉄、袋田温泉ホテル、茨城オート、茨交タクシー各取締役、銀座パーキングセンター常勤監査役などを歴任した。享年92歳。墓所は多磨霊園(3-1-15) この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
江口 見登留(えぐち みとる、1905年11月20日 - 1… 江口 見登留(えぐち みとる、1905年11月20日 - 1993年6月13日)は、日本の官僚。海軍司政官。第62代警視総監。 実父が早くに亡くなったため、男児のなかった叔父・江口菅太郎の長男として養子となる。大分県宇佐郡高並村(現・宇佐市)出身。旅順中学校、三高、京都帝国大学法学部卒業後、内務省入省(兵庫県警部補)。内務官僚を経て内閣官房副長官、警視総監等を歴任。正四位勲一等瑞宝章。 防衛省・自衛隊の前身(草創期)に当たる警察予備隊で本部長官(認証官)に次ぐ本部次長を、その後わずか2週間ながら防衛研究所の前身に当たる保安研修所の初代所長を務めた。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
能勢一男(のせ かずお、1905年11月18日 - 没年不明… 能勢一男(のせ かずお、1905年11月18日 - 没年不明)は、大日本帝国のボート競技選手(ローイング競技選手)。1928年アムステルダムオリンピックに日本代表として出場した。 1905年11月18日、現在の東京都豊島区目白に生まれる。旧制栃木県立宇都宮中学校(現在の栃木県立宇都宮高等学校)を卒業後、1923年に明治大学商科に入学した。1924年に端艇部に入部し、四番手として活躍した。その技量を買われ、1928年に主将に就任する。同年に開催されたアムステルダムオリンピックに主将・二番手として出場し、整調手も務めた。海や大きな川がない宇都宮出身の人物がボート競技で活躍するのは当時珍しいことであった。
田部井 和(たべい かのう、1905年(明治38年)11月1… 田部井 和(たべい かのう、1905年(明治38年)11月18日 - 1976年(昭和51年)10月17日)は、日本の微生物学者、教育者、京都大学名誉教授。 東京出身。1931年、京都帝国大学医学部卒業後、京大助教授となる。軍部から多額の資金援助を得て微生物学の研究を進め、関東軍防疫給水部本部(いわゆる731部隊)が発足すると部隊に加わり、第一課課長としてチフス菌を用いた生物兵器を含む研究を指揮することとなった。 戦後は日本に引き揚げ、神戸医科大学教授などを経て、1956年には京大に戻り医学部微生物学教室で教授を務めた。1966年に定年退官した。1976年10月17日、気管支炎のため京都市左京区の自宅にて死去。
柳瀬 良幹(やなせ よしもと、1905年(明治38年)11月… 柳瀬 良幹(やなせ よしもと、1905年(明治38年)11月17日 - 1985年(昭和60年)2月18日)は、日本の行政法学者。学位は、法学博士(1952年)。日本学士院会員。東北大学名誉教授。行政法学から憲法の諸問題を研究する。その理詰めの論述は、ハンス・ケルゼンに通ずる。和歌山県生まれ。美濃部達吉門下。 参考文献:藤田宙靖『行政法学の思考形式〔増補版〕』(木鐸社・2002年)
富樫 凱一(とがし がいいち、1905年11月17日 - 1… 富樫 凱一(とがし がいいち、1905年11月17日 - 1993年4月21日)は、日本の土木工学者、建設官僚。東名高速道路の全線開通、本州四国連絡橋の完成などに尽力。文化功労者。 北海道旭川市生まれ。北海道帝国大学卒業。内務省に入り、関門国道改良事務所長、建設省道路局長、技監などを歴任し、1960年退任。1966年日本道路公団総裁、1967年土木学会会長、1970年本州四国連絡橋公団総裁。1978年海洋架橋調査会会長。 技術者として、関門トンネルの設計・建設や東名高速道路建設に一貫して尽力した他、本州四国連絡橋の児島・坂出ルート(瀬戸大橋)の建設に関しては、開発公団初代総裁として長大吊り橋を始めとする新技術の導入・開発に当たった。
矢橋 六郎(やばし ろくろう、1905年11月16日 - 1… 矢橋 六郎(やばし ろくろう、1905年11月16日 - 1988年7月4日)は、日本の洋画家・実業家。「先祖は嵯峨天皇の第12皇子で光源氏の実在モデルの有力候補とされる源融(みなもとのとおる)にまで遡る(アーカイブ)」矢橋家・本家の出身。矢橋大理石商店代表取締役副社長。モザイクによる壁画、作品を制作。代表作にJR・名古屋駅新幹線口の「日月と東海の四季」。岐阜県・教育委員長をつとめ郷里の振興に寄与。 1905年11月16日、岐阜県不破郡美濃赤坂に生まれる。県立岐阜中学校を経て、1924年、川端画学校に通いはじめる。1926年、東京美術学校(現・東京芸術大学)西洋画科に入学し、1930年に同校を卒業。
伊藤 鈴三郎(いとう すずさぶろう、1905年(明治38年)… 伊藤 鈴三郎(いとう すずさぶろう、1905年(明治38年)11月16日 - 1986年(昭和61年)2月12日 )は、日本の実業家。松坂屋社長、日本百貨店協会会長を務めた。 15代目・伊藤次郎左衞門祐民の3男として愛知県名古屋市に生まれる。16代目・伊藤次郎左衞門祐茲は兄。 1929年に慶應義塾大学経済学部を経て、1933年にロンドン大学経済学部を卒業。同年9月に松坂屋監査役に就任し、1950年4月に取締役、1957年に副社長に昇進する。 1967年10月、16代目は65歳で社長を退き、会長に就任した。長男の洋太郎(伊藤次郎左衞門祐洋)はまだ35歳と若く、会社を任せるには時期尚早だったので、副社長の鈴三郎を社長に登用した。
豊口 克平(とよぐち かつへい、1905年(明治38年)11… 豊口 克平(とよぐち かつへい、1905年(明治38年)11月16日 - 1991年(平成3年)7月18日)は、日本のインダストリアルデイナーである。秋田県秋田市出身。 東京高等工芸学校(現在の千葉大学)卒業後、デザイナー活動を初める。当初は森谷延雄に師事していたが、後に急逝したため蔵田周忠に師事した。1928年(昭和3年)に蔵田と共に「形而工房」を結成する。1933年(昭和8年)には商工省(現在の経済産業省)工芸指導所に入省し、主に家具の制作計画や研究に携わった。 第二次世界大戦後は家具のみならず、航空機のインテリアデザインやカメラ、顕微鏡等の精密機械のデザインに携わり、数多く受賞した。特に豊口が開発した椅子は「スポークチェア」と呼ばれ、楕円形の椅子といった斬新な椅子であり、「トヨさんの椅子」と称された。
内田 憲民(うちだ けんみん、1905年11月16日 - 1… 内田 憲民(うちだ けんみん、1905年11月16日 - 1966年4月22日)は、日本の経営者。石川県金沢市出身。 1924年に市岡商業学校を卒業し、同年に内田洋行に入社。1938年6月には社長に就任。 1942年に藍綬褒章を受章。 1966年4月22日肝硬変のために死去。60歳没。
原 民喜(はら たみき、1905年〈明治38年〉11月15日… 原 民喜(はら たみき、1905年〈明治38年〉11月15日 - 1951年〈昭和26年〉3月13日)は、日本の詩人、小説家。広島で被爆した体験を、詩『原爆小景』(1950年)や小説『夏の花』(1947年)等の作品に残した。 縫製業を営む裕福な家庭の五男に生まれた。慶大英文科に進み、ダダイズムの影響を受けた詩を発表する一方、左翼運動にも一時近づく。卒業後の翌年、掌編小説集『焔』(1935年)を自費出版。「三田文学」などに短編小説を発表するなど創作盛んであった。妻が病死した悲しみも創作への原動力となる。 郷里広島に疎開中に被爆。以降体調すぐれない中、「このことを書きのこさねばならない」という強い信念のもと、被爆体験を綴った。
伊井 弥四郎(いい やしろう、1905年(明治38年)11月… 伊井 弥四郎(いい やしろう、1905年(明治38年)11月14日 - 1971年(昭和46年)12月12日)は、日本の労働運動家。日本共産党中央委員、全官公庁共闘会議議長。 1905年(明治38年)11月14日、富山県富山市水橋町に生まれる。1926年(大正15年)に岩倉鉄道学校を卒業し、日本国有鉄道(国鉄・当時は鉄道省が管轄)に入る。その後、働きながら、1932年(昭和7年)に法政大学経済学部を卒業する。平塚駅、鶴見駅、東京駅の助役などを務める。第二次世界大戦後、国鉄労働組合の結成に参加、中央執行委員に就任する。 1946年(昭和21年)11月に全官公庁労組拡大共同闘争委員会(全官公庁共闘)が結成されると議長に就任し、産別会議議長・聴濤克巳とともに二・一ゼネストの最高責任者となる。
長沢 美津(長澤 美津、ながさわ みつ、女性、1905年11… 長沢 美津(長澤 美津、ながさわ みつ、女性、1905年11月14日 - 2005年4月26日)は、日本の歌人、国文学者。「女人短歌会」主宰。 石川県金沢市出身。旧姓:津田。津田全吉・フクの長女として生まれる。近祖に加賀藩の漢学者津田鳳卿がいる。県立第一高等女学校(現石川県立金沢二水高等学校)在学中に、和歌を江戸さい子に学ぶ。1922年、日本女子大学校国文科入学、短歌グループに入る。折口信夫の万葉講義を聴きに飯田橋の国学院へしばしば出かける。在学中に『目白文学』創刊に参加。恩師・久松潜一に文学史を学び、1926年卒業。久松の紹介状を持って古泉千樫を訪ね、その後帰郷し古泉に自作を送る。同年同郷の長沢雄次と結婚、上京し荻窪に住む。
川島 清(かわしま きよし、1905年11月14日 - 没年… 川島 清(かわしま きよし、1905年11月14日 - 没年不詳)は、日本の俳優、殺陣師である。川島 淸と表記されることもある。本名は河島 淸三郎(かわしま せいざぶろう)。旧芸名は鵜沼 三四郎(うぬま さんしろう)。マキノ・プロダクションの主要人物の一人である。 1905年(明治38年)11月14日、岡山県苫田郡奥津村(現在の同郡鏡野町)に生まれる。 旧制大阪府立高津中学校(現在の大阪府立高津高等学校)を卒業後、現在の大阪府富田林市にあった天地キネマに入社。ただし、同社での出演作品は不明である。2004年(平成16年)10月15日に発行された『日本映画人改名・改称事典』(国書刊行会)によれば、同社在籍当時は「鵜沼 三四郎」という芸名で活動していたという。
大河内 一郎(おおこうち いちろう、1905年11月14日 … 大河内 一郎(おおこうち いちろう、1905年11月14日 - 1985年5月22日)日本の医師、医学博士、開業医、社会事業家。茨城県鹿島町(現・鹿嶋市)出身。日本医科大学卒。 私財を投じ、福島県平市(現・いわき市)に、東北・北海道で最初の肢体不自由児施設・福島整肢療護園を開設。 医療と教育を通して、障害者の自立のためにつくした。 1905年茨城県鹿島町(現・鹿嶋市)生まれ。 父・大河内友蔵は、鹿嶋市で剣道・柔道を教えていた。不二心流の大河内縫殿三郎・門人 藤城吉高、及び大河内正道に同流剣法を学ぶが、その後、正道の養子となり、不二心流五代目免状を受領し、大河内友蔵と名を改める。 鹿島神傳直心陰流・榊原健吉、一刀正傳無刀流・山岡鉄舟のもとでも修行して取立免状を受領する。
朽木 綱博(くつき つなひろ、1905年(明治38年)11月… 朽木 綱博(くつき つなひろ、1905年(明治38年)11月13日 - 1963年(昭和38年)6月13日)は、昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。旧姓・池田、旧名・博久。 陸軍将校・池田仲博の三男として生まれ、陸軍少将・朽木綱貞の養子となる。養父の死去に伴い、1930年4月1日、子爵を襲爵した。 1931年、東京帝国大学文学部を卒業。松竹興業社長秘書、東京宝塚劇場嘱託、参謀本部嘱託などを務めた。 1946年(昭和21年)8月22日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
矢田貝 顕造(やたがい けんぞう、1905年〈明治38年〉1… 矢田貝 顕造(やたがい けんぞう、1905年〈明治38年〉11月13日 - 1992年〈平成4年〉)は、日本の政治家。鳥取県西伯郡岸本町長。矢田貝家4代目。 鳥取県西伯郡大幡村大字上細見(のち西伯郡岸本町大字上細見、現・西伯郡伯耆町大字上細見)出身。矢田貝猶治の長男。1926年、松江高等学校文科乙類卒業。京都帝国大学法科に入学、1年在学し、中退する。 農業を営む。1967年に岸本町長に就任し、1976年に退任する。岸本町議会議員・同議長、教育委員会委員長、民生委員会会長、西部議長会会長などをつとめる。1985年に5代目淑朗の住む東京に転居する。 趣味は旅行、読書。座右の銘は、「禁酒禁煙」。処世観は、「誠実、断行、冷静、公平」。
黒田 成勝(くろだ しげかつ、1905年11月11日 - 1… 黒田 成勝(くろだ しげかつ、1905年11月11日 - 1972年11月3日)は日本の数学者。 東京都出身。数学者高木貞治の娘婿で、息子の黒田成俊、黒田成信は数学者、黒田成幸は言語学者。 東京帝国大学卒業。東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)教授、名古屋帝国大学教授、メリーランド大学教授などを歴任した。 1945年 東京帝国大学 理学博士。論文の題は「Uber den Dirichletschen Korper (ジリクレ体に就て)」。 この項目は、数学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
佐藤 孝一(さとう こういち、1905年 <明治38年> 1… 佐藤 孝一(さとう こういち、1905年 <明治38年> 11月11日 - 1975年 <昭和50年> 10月18日)は、日本の会計学者。 東京府東京市下谷区二長町(現・東京都台東区台東)出身。1930年早稲田大学商学部卒、1932年同講師、1938年助教授、1942年教授。1951年「剰余金の研究」で早稲田大学より商学博士の学位を取得。長谷川安兵衛に師事。1975年死去。死没日付をもって正五位に叙され勲三等旭日中綬章を追贈された。 門下生に新井清光、染谷恭次郎、加古宜士等がいる。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
藤田 圭雄(ふじた たまお、1905年11月11日 - 19… 藤田 圭雄(ふじた たまお、1905年11月11日 - 1999年11月7日)は、日本の編集者・児童文学作家・評論家。 孫は俳優・劇作家・脚本家・プロデューサーの岩瀬顕子。 東京牛込生まれ。父は歴史家(東大史料編纂所編纂官)の藤田明(1877 - 1915)。伯父に正木直彦。11歳で父を亡くす。 開成中学校卒、1930年早稲田大学独文科卒。 平凡社に勤務、滝沢修らと演劇運動に関わる。1933年中央公論社に入社、児童文化関係の出版に携わる。戦後、サトウ・ハチローと協力して童謡運動を展開、実業之日本社で『赤とんぼ』を編集、1948年同誌休刊により中央公論社に復帰。1950年理事、取締役、婦人公論編集部長、1953年中央公論編集部長、1960年定年。
山崎 小五郎(やまざき こごろう、1905年〈明治38年〉1… 山崎 小五郎(やまざき こごろう、1905年〈明治38年〉11月10日 - 1976年〈昭和51年〉8月2日)は、日本の海上自衛官、逓信・運輸通信・運輸官僚。第24代運輸事務次官、海上保安庁次長、初代海上幕僚長。最終階級は海将。 Y委員会の一員として海上自衛隊の創設に尽力し、MSA協定に基づく日米艦船貸与協定を締結、護衛艦の国産を開始。コーストガードからネイビーへの橋渡しを終えて運輸省へ戻り事務方の頂点に就任する。 福岡県出身。山崎迂太郎の五男として生まれる。東筑中学、第七高等学校造士館を経て、1931年(昭和6年)3月、東京帝国大学法学部法律学科を卒業。1929年(昭和4年)12月に高等試験司法科試験、1930年(昭和5年)10月、高等試験行政科試験にそれぞれ合格。
岡村 博(おかむら ひろし、1905年11月10日 - 19… 岡村 博(おかむら ひろし、1905年11月10日 - 1948年9月3日)は、日本の数学者。京都帝国大学教授。解析学や微分方程式の理論に貢献した。 1929年京都帝国大学理学部を卒業し、同学の教授を務めた。 主な業績として、常微分方程式の初期値問題を研究し、解の一意性のための必要十分条件を導いた。これにより、20世紀前半の微分方程式論で最も重要な問題の一つに終止符が打たれた。その他の業績としては、積分法の平均値の定理の改良がある。 第二次世界大戦中は航空力学の研究にも携わったが、戦後の食糧難による栄養失調で、42歳の若さで亡くなった。 父は法学者・弁護士の岡村司。教え子に溝畑茂・山口昌哉がいる。
加藤 義成(かとう よしなり、1905年11月10日 - 1… 加藤 義成(かとう よしなり、1905年11月10日 - 1983年3月23日)は、日本の郷土史家。 島根県加茂町出身。1928年、島根県師範学校専攻科卒業。小学校訓導となり、試験認定により中等学校国語漢文科、および高等学校国語科教員免許を取得。 三刀屋中学校、益田農林学校、島根師範学校教諭をつとめた。1946年、病気退職。1951年より、島根県嘱託、島根大学非常勤講師、大社国学館講師、島根県文化財保護審議会委員、島根県立博物館専門員歴任。 古代出雲の研究に生涯をささげ、数多くの論文を発表した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
星子 敏雄(ほしこ としお、1905年(明治38年)11月9… 星子 敏雄(ほしこ としお、1905年(明治38年)11月9日 - 1995年(平成7年)7月13日)は、日本の政治家。熊本市長(4期)。位階は正五位。 熊本県鹿本郡稲田村(鹿本町を経て現山鹿市)出身。旧制五高を経て1928年東京帝国大学法学部政治学科卒。同年満洲に渡り、関東庁に勤務する。その後奉天省、満州国総務庁で勤務し、1945年満州国警務総局長に就任した。同年、ソ連軍が満州に侵入し、星子はソ連軍に拘束され、シベリアに抑留される。1956年帰国。1963年熊本市助役に就任。1970年熊本市長選挙に立候補して当選、4期16年務めた。1986年に引退。1987年、勲二等瑞宝章受章。1995年死去。
仲原 善一(なかはら ぜんいち、1905年〈明治38年〉11… 仲原 善一(なかはら ぜんいち、1905年〈明治38年〉11月6日 - 1980年〈昭和55年〉4月4日)は、日本の農林技官、政治家。参議院議員(2期)。 鳥取県東伯郡旭村湯谷(現・三朝町湯谷)出身。農業・仲原勝治の長男。1932年(昭和7年)京都帝国大学農学部農林経済学科を卒業した。 農林省小作官、農林技師、海軍技師、鳥取県農地部長、同農林部長、同経済部長などを歴任。太平洋戦争初頭に海軍民政府要員として南方に派遣された。 1956年(昭和31年)7月の第4回参議院議員通常選挙に鳥取地方区から自由民主党所属で出馬して当選。第6回通常選挙でも当選し、参議院議員を2期務めた。この間、自民党鳥取県連会長、同党政務調査会農林部会副部会長、参議院自民党副幹事長、同国会対策副委員長、第1次池田内閣北海道開発政務次官、参議院農林水産委員長、同地方行政委員長などを務めた。
中川 千代治(なかがわ ちよじ、1905年(明治38年)11… 中川 千代治(なかがわ ちよじ、1905年(明治38年)11月6日 - 1972年(昭和47年)2月25日)は、日本の政治家。愛媛県宇和島市長を務めた。 また、太平洋戦争でビルマの戦いに従軍した体験から平和運動に身を投じ、1954年にニューヨークの国際連合本部ビルに世界の硬貨を鋳込んだ「平和の鐘」を寄贈した事績でも知られる。 愛媛県八幡浜町の魚本家に生まれる。1924年、19歳の時に宇和島市の中川家の養子となる。 1928年に早稲田大学政治経済学部を卒業した。 1930年に伊予銀行に就職し、1934年には吉田支店長となる。1937年に日中戦争に出征した。 1938年に明治製菓三津浜工場長に就任するとともに、愛媛県缶詰工業理事長ともなる。
玉川 一郎(たまがわ いちろう、1905年11月5日 - 1… 玉川 一郎(たまがわ いちろう、1905年11月5日 - 1978年10月15日)は、日本の作家。 東京府生まれ。父親が警察官だった関係上、朝鮮と東京を数年ごとに行き来して育つ。東京外国語学校仏語部卒。 フランス語の能力を買われ、翻訳補助者として白水社に入社するも昭和恐慌のあおりを受け、人員整理の対象となり半年で解雇され、博文館へ転職。『新青年』などの編集に携わる。さらに、文具販売の伊東屋および、コロムビア・レコードの宣伝部員も兼務。コラムや広告コピーの執筆を手掛けながら、ユーモア小説の執筆やフランスの小噺、コントの編訳を行う作家として活動し、1940年発表の『人情サキソフォン』、1950年『川田二等少尉』で2回直木賞候補となった。
具島 兼三郎(ぐしま かねさぶろう、1905年11月5日 -… 具島 兼三郎(ぐしま かねさぶろう、1905年11月5日 - 2004年11月12日)は、日本の国際政治学者。 1905年福岡生まれ。1928年に九州帝国大学法文学部を卒業後、1935年に『ファシズム論』を唯物論全書の一冊として共著で刊行した。 その後、南満州鉄道に入り、調査部で各種調査に従事。独ソ戦序盤、ナチスドイツが圧倒する戦局の中、石油供給量の緻密な分析を通して、ドイツ不利の予測を立てた。そこでの研究内容は軍部に批判的とされ、満鉄調査部事件で逮捕された。 戦後は九州大学教授や長崎大学学長、長崎総合科学大学長崎平和文化研究所所長などをつとめた。
海鋒 義美(かいほこ よしみ、1905年11月4日 - 19… 海鋒 義美(かいほこ よしみ、1905年11月4日 - 1997年6月18日)は日本の作曲家、教育者である。宮城県において音楽教育に尽力した。また、東北地方の多くの学校の校歌や、戦後のラジオ番組において多数の童謡の作曲を手掛けた。三男の海鋒正毅はクラリネット奏者である。 海鋒は山形県北村山郡山口村(現在の天童市)で生まれた。東京音楽学校(後の東京芸術大学)臨時教員養成所を卒業し、熊本県立山鹿高等女学校勤務を経て、1933年(昭和8年)から宮城県仙台市の音楽指導員となった。この時、尋常小学校、高等小学校、計22校で月に最低一回は指導する決まりだった。この頃、児童唱歌コンクール(後のNHK全国学校音楽コンクール)において市内の東二番丁尋常小学校や南材木町尋常小学校が優勝しており、仙台で合唱の流行があった。
保柳 睦美(ほやなぎ むつみ、1905年11月3日 - 19… 保柳 睦美(ほやなぎ むつみ、1905年11月3日 - 1987年8月16日)は、日本の地理学者。理学博士(東京帝国大学)。防衛大学校教授、東京都立大学 (1949-2011)教授、立教大学教授などを歴任。 長野県更級郡稲荷山町(現千曲市)生まれ。旧制東京府立第一中学、旧制第一高等学校を経て、1930年東京帝国大学理学部地理学科卒業。1947年「亜細亜乾燥地域における最近の気候変化・土地の砂漠化問題」で、理学博士(東京帝国大学)。 京城帝国大学助教授、文部省視学官、防衛大学校教授を経て、1960年東京都立大学 (1949-2011)教授、1967年立教大学教授。
平館 利雄(ひらだて としお、1905年11月2日 - 19… 平館 利雄(ひらだて としお、1905年11月2日 - 1991年4月26日)は、日本の経済学者。専修大学・青森大学・横浜国立大学で教授を務めた。 福島県西白河郡白河町(現在の白河市)に生まれる。家業の不振により白河から平に転居する。1919年平商業学校に入学し、3年修了で福島商業学校4年に編入し、1924年に同校を卒業、横浜高等商業学校に入学する。1927年に同校を卒業し、東京商科大学本科に入学する。大学では大塚金之助教授のゼミに参加し、また、ロシア語を学ぶ。1930年に東京商科大学を卒業し、東京社会科学研究所に入り、小椋広勝の紹介で「プロ科」に参加し、プロ科では、経済批判会に属して主に翻訳活動に従事する。
井口 秋子(いぐち あきこ、1905年11月1日 - 198… 井口 秋子(いぐち あきこ、1905年11月1日 - 1984年10月2日)は、日本のピアニスト、ピアノ教育家。東京芸術大学名誉教授。夫は同じくピアニスト・ピアノ教育家の井口基成。結婚前の姓は澤嵜(さわざき)。 訳書に「現代ピアノ演奏法」(ライマー・ギーゼキング著)がある。 息子の井口家成は物理学者で東京工業大学教授。
茂木 史朗(しげき しろう、1905年〈明治38年〉11月1… 茂木 史朗(しげき しろう、1905年〈明治38年〉11月1日 - 1945年〈昭和20年〉4月7日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大佐。戦艦「大和」 航海長。愛媛県出身。海軍兵学校53期。重巡「鳥海」や戦艦「榛名」などで航海長を歴任し、巧みな操艦技術で知られた。沖縄水上特攻作戦直前に戦艦「大和」の航海長に着任。最期は艦橋で主羅針儀に身を括り、艦と運命を共にした。 1905年(明治38年)、松山市河原町に父・木和村利平、母・ツネヨの四男として生まれた。版画家の木和村正次郎(創爾郎)は次兄である。幼くして両親と死別し、1914年(大正3年)3月24日にツネヨの実弟である茂木氏男・トヨ夫妻の養子となる。
木元 規矩男(きもと きくお、1905年11月1日 -199… 木元 規矩男(きもと きくお、1905年11月1日 -1992年11月19日)は、日本の実業家、ラグビー選手。 鹿児島県出身。旧制川内中学卒業後、明治大学に入学。 明治大学ラグビー部では(当初、柔道部だったが転部)、当初フッカーだったが北島忠治に譲り、知葉友雄とセカンドロー(ロック)を組み活躍した(5シーズン26試合出場、3トライ)。 1924年(大正13年)、明治大学在学中に秋田県のラグビーを振興するメンバーとして尽力した。 1929年(昭和4年)、毎日新聞社東京本社に入社し、東京本社総務局長、西部本社営業局長を歴任。1958年(昭和33年)、RKB毎日放送代表取締役専務、副社長を歴任した。 1974年(昭和49年)2月から1986年3月まで、九州ラグビーフットボール協会会長を務めた。
佐藤 朔(さとう さく、1905年(明治38年)11月1日 … 佐藤 朔(さとう さく、1905年(明治38年)11月1日 - 1996年(平成8年)3月25日)は、日本のフランス文学者、第13代慶應義塾塾長、日本芸術院会員。位階勲等は従三位勲一等。
若林 つや(わかばやし つや、1905年11月 - 1998… 若林 つや(わかばやし つや、1905年11月 - 1998年9月)は、日本のプロレタリア作家。本名、杉山 みつゑ。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
鈴木 知太郎(すずき ともたろう、1905年10月30日 -… 鈴木 知太郎(すずき ともたろう、1905年10月30日 - 1977年12月5日)は、日本の国文学者。学位は、文学博士(日本大学・論文博士・1960年)。日本大学名誉教授。 愛知県渥美郡高松村(現・田原市)出身。1930年(昭和5年)、日本大学国文科卒業。1939年(昭和14年)成城高等学校教授、1943年(昭和18年)日本大学助教授を経て、1949年(昭和24年)日本大学教授に就任。1960年(昭和35年)、論文「土佐日記の研究」で日本大学より文学博士の学位を取得。1965年(昭和40年)から1970年(昭和45年)までは日本大学櫻丘高等学校校長を兼任。 1976年(昭和51年)、日本大学教授を定年で退職した。
渡邊 良夫(わたなべ よしお、1905年10月29日 - 1… 渡邊 良夫(わたなべ よしお、1905年10月29日 - 1964年11月4日)は、日本の政治家。位階は正三位。 自由民主党所属衆議院議員(9期)。厚生大臣(第33代)。次男は元自民党衆議院議員の渡辺肇。三男も同じく元自民党衆議院議員の渡辺紘三。 新潟県生まれ。1931年大阪商科大学高等商業部(のちの大阪市立大学)卒業。国民新聞社記者等を経て、戦後、吉田茂内閣総理大臣秘書官を務める。1947年の第23回衆議院議員総選挙に旧新潟2区から日本自由党公認で立候補し初当選(当選同期に田中角栄・鈴木善幸・中曽根康弘など)。民主自由党副幹事長、第3次吉田第2次改造内閣の建設政務次官などを務めた後、1955年の保守合同による自由民主党結党に参加。
梅谷 勝(うめたに まさる、1905年 <明治38年> 10… 梅谷 勝(うめたに まさる、1905年 <明治38年> 10月29日 - 1987年 <昭和62年> 8月17日)は、日本の経営者。位階は従五位。 兵庫県出身。1927年に神戸高等商業学校を卒業し、同年に日動火災海上保険に入社。1954年に取締役に就任し、常務、副社長を経て、1961年には社長に就任。1964年から1968年までに会長を務めた。 1977年11月に勲四等旭日小綬章を受章。 1987年8月17日肺炎のために死去。81歳没。死没日付をもって従五位に叙された。
柳生 亮三(やぎゅう りょうぞう、1905年(明治38年)1… 柳生 亮三(やぎゅう りょうぞう、1905年(明治38年)10月26日 - 2013年(平成25年)3月31日)は、日本の動物学者。専門は原生動物学。位階は従四位。 1905年10月26日、現在の岐阜県揖斐郡揖斐川町出身。父親が税関職員であった為、日本国内やその当時の日本の領土であった朝鮮を転々とする幼年時代を過ごした。旧制岐阜中学校、旧制福井中学校、鎮南浦公立中学校(朝鮮)と転校を繰り返す。 1924年、教育者を志して高等師範学校の受験を決意し、東京高等師範学校と広島高等師範学校で悩んだ結果、広島高師に決め、第一志望の物理化学は外れたが第二志望の生物で広島高等師範学校理科第三部に合格した。 1928年、広島高等師範学校を卒業後、徳島女子師範学校、徳島県立徳島高等女学校、関東州公立高等女学校(大連市)で教師を務めた後に、旧制広島文理科大学生物学科で生物学を学び、天津日本高等女学校、天津日本商業学校教諭を経て、旧制広島文理科大学助手、広島高等師範学校教授などを歴任した。
稲川 東一郎(いながわ とういちろう、1905年〈明治38年… 稲川 東一郎(いながわ とういちろう、1905年〈明治38年〉10月25日 - 1967年〈昭和42年〉4月18日)は、福島県生まれの高校野球指導者。旧制群馬県立桐生中学校(現・群馬県立桐生高等学校)卒業。愛称は「桐生のとうちゃん」。 1905年(明治38年)、福島県棚倉町に生まれる。1915年(大正4年)に群馬県桐生市へ移り住む。父・藤吉は桐生市会議員、群馬県会議員、桐生中央信用金庫初代理事長などを務めた。 1921年(大正10年)、旧制桐生中学4年生の時に硬式野球部を創設した。1923年(大正12年)に卒業したのち、同校野球部の指導に当たる。自宅を野球道場に改築し、テニスボールによる打撃練習、先進的なウエイトトレーニングの導入、バント・盗塁を駆使する戦術を導入。
山本 正信(やまもと まさのぶ、1905年10月25日 - … 山本 正信(やまもと まさのぶ、1905年10月25日 - 1984年6月4日)は、日本の柔道家(講道館9段、大日本武徳会教士)。 選手として戦前の全日本選士権大会で連覇を達成したほか昭和天覧試合や明治神宮大会等でも活躍し、指導者としては出身地の兵庫県にて各学校や警察の柔道師範を務めるなど、昭和時代の柔道界を牽引した柔道家の1人であった。 兵庫県神戸市に生まれ、小学校5年次より大日本武徳会兵庫支部にて田辺又右衛門(不遷流)や小角弥三次(天神真楊流)らの元で柔道を始めた。小角の訓えである「稽古中は絶対に休むな」「どんなに強い相手でも全力を傾倒して倒しにいけ」を子供ながら忠実に守り、これを実行したという。