井上 達雄(いのうえ たつお、1907年11月22日-199… 井上 達雄(いのうえ たつお、1907年11月22日-1995年4月24日)は、日本の会計学者・商学者。公認会計士。専門は簿記・会計学。学位は、商学博士(中央大学・1961年)(学位論文「原価会計論」) 。恩師は、黒澤清・太田哲三。元中央大学学長。大分県津久見市出身。 1932年中央大学商学部卒業。1934年中央大学大学院商学研究科(旧制)修了。中央大学商学部専任講師。1944年海軍省経理局主計官。1945年復員。中央大学商学部教授。1949年公認会計士試験合格。1958年中央大学評議員。1959年中央大学商学部長(~1968年)。1961年中央大学大学院商学研究科長(~1965年)。1963年中央大学経理研究所所長(~1977年)。
前田 陳爾(まえだ のぶあき、1907年〈明治40年〉11月… 前田 陳爾(まえだ のぶあき、1907年〈明治40年〉11月22日 - 1975年〈昭和50年〉7月3日)は、囲碁の棋士。兵庫県出身、日本棋院所属、九段、本因坊秀哉門下。詰碁創作の大家として知られ、「詰碁の神様」と称される。1947年囲碁新社結成。棋風は接近戦を得意とする力戦型で「攻めの前田」とも言われる。第1期王座戦準優勝、第1期最高位戦リーグ3位など。随筆での毒舌でも知られた。 兵庫県揖保郡新宮町(現たつの市)に生まれる。10歳頃に囲碁を始め、1920年に神戸に在住していた鳥居鍋次郎三段に師事、続いて久保松勝喜代五段に入門。1922年に久保松の推薦により、上京して本因坊秀哉の内弟子となる。中央棋院及び若手棋士の研究会である六華会に所属。
田中 三男(たなか みつお、1907年11月21日 - 19… 田中 三男(たなか みつお、1907年11月21日 - 1974年7月11日)は、日本の外交官。位階は正三位。 兵庫県相生市生まれ。1932年外交官試験合格、33年東京帝大法学部卒業後、外務省入省。ニューヨーク、通商局1課、同3課、上海、北京、天津勤務、神戸連絡調整事務局局長を経て、前後は46年管理局経済部総務課長、47年調査局5課長、同1課長を務める。1950年8月管理国入国管理部長、翌年入国管理庁研修所長の後、52年2月サンフランシスコ在外事務所所長を経て同年4月サンフランシスコ総領事。1951年密出入国に関する治安行政機関監察の件で衆議院行政監察特別委員会に証人喚問された。 同年12月情報文化局長、翌53年吉田茂首相の秘書官を務めた後、情報文化局長を再び務める。
二反長 半(にたんおさ なかば、1907年11月20日 - … 二反長 半(にたんおさ なかば、1907年11月20日 - 1977年7月5日)は、日本の小説家・児童文学作家。 大阪府茨木市出身。本名は二反長半二郎(にたんちょう はんじろう)で、父の音蔵は「日本のアヘン王」と呼ばれた製薬業者だった。 府立茨木中卒業。1932年、法政大学高等師範部国漢科卒業。高等女学校の教師となるが、中学時代の同窓だった川端康成と大宅壮一への憧れから文筆業に転じる。 その後、寄稿していた少年雑誌の編集者の薦めで児童文学を手がけるようになり、1939年に川端・大宅・井伏鱒二・宇野浩二・小川未明・坪田譲治・豊島与志雄・村野四郎と少年文芸懇話会を結成。『少年文学』を発行し、戦時中の厳しい世相の下で児童文学の創作を続けた。
浪花 千栄子(なにわ ちえこ、本名:南口 キクノ(なんこう … 浪花 千栄子(なにわ ちえこ、本名:南口 キクノ(なんこう きくの)、1907年〈明治40年〉11月19日 - 1973年〈昭和48年〉12月22日)は、日本の女優。昭和初期から中期(1920年代後半 - 1970年代前半)に活動した。 大阪府南河内郡大伴村大字板持(現在:富田林市東板持町)に、養鶏業を営む家に生まれる。8歳の時に道頓堀の仕出し弁当屋に女中奉公に出される。その後、京都で女給として働いていたが、18歳のとき、知人の紹介で村田栄子一座に入る。間もなく舞台にも立つようになるが、不入りが続き、東亜キネマ等持院撮影所に移る。香住 千栄子の芸名で端役出演を続け、1926年(大正15年)に山上伊太郎の初シナリオによる大作『帰って来た英雄』の準主役に大抜擢され、それ以来順調に役をこなしていく。
成田 成寿(成田 成壽、なりた しげひさ、1907年11月1… 成田 成寿(成田 成壽、なりた しげひさ、1907年11月18日 - 1986年9月24日)は、日本の英文学者、東京教育大学名誉教授。文学博士。 新潟県出身。1932年東京文理科大学国文科卒業、福原麟太郎に師事。東京高等師範学校教授、東京文理科大教授、東京教育大学教授、定年退官し名誉教授、大妻女子大学教授。批評文学を提唱し、新しい英米文学を紹介した。
安保 正敏(あぼ まさとし、1907年11月18日 - 19… 安保 正敏(あぼ まさとし、1907年11月18日 - 1971年3月20日)は、日本の実業家。三重交通社長と東海テレビ放送社長を務めた。三重県松阪市出身。赤福餅で有名な赤福代表取締役社母兼社長である濵田勝子は三女、その夫は同社元会長である濵田益嗣。 1929年に、同志社専門学校高等商業部を卒業。 1942年に、松阪電気鉄道社長に就任し、1944年に統合により、三重交通専務に就任し、1954年に社長に昇格した。1957年に近畿東海放送社長に就任し、1959年にラジオ東海との合併により1971年に東海ラジオ放送社長にも就任した。1957年に東海テレビ放送副社長にも就任し、1967年には社長に昇格した。
實吉 純一(さねよし じゅんいち、1907年(明治40年)1… 實吉 純一(さねよし じゅんいち、1907年(明治40年)11月18日 - 2003年(平成15年)3月16日)は、日本の工学者。 電気工学、音響学を専門とした。音響学については、父祖の海軍経験を意識したものであり、戦前には海軍技術研究所音響研究員を大学教授と兼任していた。戦後は、東京工業大学学長や千葉工業大学、玉川大学、東北帝国大学の教授、日本音響学会会長などを務めた。 水中での気泡の挙動と気泡群による水中超音波の減衰、などの研究を行なった。またキリスト教徒でもあった。 松本清張は『砂の器』の執筆に際し、實吉の著書『電気音響工学』(1957年)を参考にし、實吉が当時勤務していた東京工大を取材で訪問している。
執行 海秀(しぎょう かいしゅう、1907年11月18日 -… 執行 海秀(しぎょう かいしゅう、1907年11月18日 - 1968年12月4日)は、日蓮宗僧侶・仏教学者。 佐賀県生まれ。1936年立正大学文学部仏教学科卒。1969年「日蓮教学史」で立正大学より文学博士の学位を取得。立正大学文学部教授。市川市浄然寺住職。
服部 正一郎(はっとり しょういちろう、1907年11月17… 服部 正一郎(はっとり しょういちろう、1907年11月17日 - 1995年3月20日)は、日本画家、日本芸術院会員。茨城県出身。 茨城県稲敷郡龍ケ崎町(現龍ケ崎市)出身。旧制龍ヶ崎中学(現茨城県立竜ヶ崎第一高等学校)在籍中は弓道部で活躍したという。1929年(昭和4年)の第16回二科展で「庭」が初入選。 1967年(昭和42年)の第52回二科展に出品した「水郷」によって翌年に日本芸術院賞を受賞。 1987年(昭和42年)に日本芸術院会員となる。1992年、勲三等瑞宝章受章。 1995年(平成7年)3月20日に茨城県取手市の取手協同病院で死去。
西村 孝次(にしむら こうじ、1907年11月17日 - 2… 西村 孝次(にしむら こうじ、1907年11月17日 - 2004年6月29日)は、日本の英文学者、文芸評論家、翻訳家。元明治大学教授。 小林秀雄の従弟。弟の西村貞二は西洋史学者で東北大学教授を務めた。孫は元プロサッカー選手の西村卓朗。 京都市で約400年続いた仏書店で西村重右衛門(第十三代)の長男に生まれる。家業を継ぐはずだったが1923年に店が破産。進路に迷っていた時、京都へ来た小林秀雄から文学の道を勧められる。1925年京都府立第一商業学校卒、1929年関西学院英文科卒、学費のため一年半ゼネラルモーターズに勤め、1934年東北帝国大学法文学部英文科卒、創元社の原稿閲読者などを務める。1939年夏に、中村光夫、吉田健一、山本健吉、伊藤信吉らと同人誌『批評』(を創刊、英文学の翻訳、文芸評論などを寄稿。
小川 太郎(おがわ たろう、1907年(明治40年)11月1… 小川 太郎(おがわ たろう、1907年(明治40年)11月16日 - 1974年(昭和49年)1月31日)は、日本の教育学者。 1907年、台湾生まれ。言語学者である父の小川尚義は、台湾総督府に勤務し、台湾語ならびに台湾原住民諸語について研究していた。東京帝国大学を卒業。卒業後は台北第一師範学校、愛媛師範学校に勤務した。 戦後、愛媛県教育研究所長。神戸大学教授となった。1971年に定年退官し、その後は日本福祉大学教授として教鞭をとった。大学外では、全国部落問題研究協議会長をつとめ、作文教育、同和教育に尽力した。1974年1月31日、肝臓がんのため神戸大学医学部附属病院で死去。66歳。
蝋山 芳郎(ろうやま よしろう、1907年〈明治40年〉11… 蝋山 芳郎(ろうやま よしろう、1907年〈明治40年〉11月15日 - 1999年〈平成11年〉9月30日)は、日本のジャーナリスト、国際問題評論家。 筆名は高山五郎。蠟山政道、山田勝次郎、小山長四郎の弟。息子は高岡短期大学学長などを務めた蝋山昌一。 群馬県高崎市歌川町に生まれる。1925年(大正14年)に旧制高崎中学校(現・群馬県立高崎高等学校)を卒業し、旧制第一高等学校理科乙類へ進学するが1929年(昭和4年)に中退。1936年(昭和11年)同盟通信社に入社し、特派員としてインド、ビルマに滞在。1946年(昭和21年)に帰国し、共同通信社東亜部長を務める。1960年(昭和35年)に同社を退職し独立。
松平 一郎(まつだいら いちろう、1907年(明治40年)1… 松平 一郎(まつだいら いちろう、1907年(明治40年)11月15日 - 1992年(平成4年)12月24日)は、日本の銀行家。会津松平家の分家当主で、東京銀行、カリフォルニアファーストバンクの各会長。 秩父宮雍仁親王妃勢津子は妹、徳川宗家第18代当主の徳川恒孝は次男。 松平容保の六男松平恆雄、鍋島直大の四女信子の長男としてイギリスのロンドンで生まれる。成蹊中学、水戸高を経て、1932年(昭和7年)に東京帝国大学文学部支那哲学科を卒業。さらに同大学経済学部にも学ぶ。この間の1928年(昭和3年)に勢津子(節子)が秩父宮雍仁親王に嫁いだ。1934年(昭和9年)、横浜正金銀行に入行し本店勤務となるが、近衛歩兵第1連隊で兵役に就き、陸軍少尉に任官している。
飛田 多喜雄(ひだ たきお、1907年11月15日 - 19… 飛田 多喜雄(ひだ たきお、1907年11月15日 - 1991年2月8日)は、日本の国語教育学者。成蹊大学文学部教授を歴任。 千葉県山武郡豊成村(現・東金市)生まれ。1928年千葉県師範学校卒、市川尋常高等小学校訓導となる。1939年成蹊小学校教諭、1947年成蹊中学校教諭。1949年『実践国語』編集長となる。1963年成蹊高等学校教諭。1970年成蹊大学文学部教授、1978年定年退任。1965年『国語教育方法論史』で垣内松三賞、1974年博報賞、1985年著作集『国語科教育方法論大系』全10巻で石井賞(全国大学国語教育学会賞)受賞。
姫岡 勤(ひめおか つとむ、1907年11月14日 - 19… 姫岡 勤(ひめおか つとむ、1907年11月14日 - 1970年10月19日)は、日本の社会学者・文化人類学者。 大阪生まれ。1933年京都帝国大学文学部哲学科社会学専攻卒。天理大学助教授、1949年京都大学教育学部教授。1962年、「封建的社会意識の社会学的考察」で、京都大学より文学博士の学位を取得。 1970年1月から京都大学教育学部長を務めていたが、在任中の同年10月19日、心筋梗塞により京都市内の自宅にて死去。
上野 喜一郎(うえの きいちろう、1907年11月13日- … 上野 喜一郎(うえの きいちろう、1907年11月13日- )は、日本の船舶工学者、歴史家。 1928年旧制第七高等学校造士館理科甲類卒業。1931年東京帝国大学工学部船舶工学科卒業。逓信局管船局に入る。東京高等商船学校教授(兼)、海務院船舶部、海軍艦政本部(商船班)、運輸省船舶局(検査制度課長)、東京大学工学部(船舶工学科)講師、川崎重工業株式会社技術顧問、日本船舶振興会及び日本海事科学振興財団(船の科学館)勤務。1977年度交通文化賞受賞。
柏熊 達生(かしわぐま たつお、1907年11月13日 - … 柏熊 達生(かしわぐま たつお、1907年11月13日 - 1956年5月27日)は、日本のイタリア文学者、東京外国語大学教授。 1907年(明治40年)、千葉県生まれ。本名は柏熊宜三。1928年(昭和3年)、東京外国語学校イタリア語科卒。翌年、外務省留学生としてローマへ渡り大使館に勤務する。1940年(昭和15年)に帰国して東京外国語大学の講師、翌年教授となる。著書として『伊太利案内』(1940年)、翻訳としてボッカッチョ『デカメロン』、コッローディ『ピノッキオ』、デ・アミーチス『クオレ』など。1956年5月27日死去。48歳没。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
平良 良松(たいら りょうしょう、1907年(明治40年)1… 平良 良松(たいら りょうしょう、1907年(明治40年)11月12日 - 1990年(平成2年)3月19日)は、日本の政治家。沖縄県那覇市長(4期)などを務めた。 那覇市出身。沖縄県立第一中学校(現・沖縄県立首里高等学校)を卒業後上京し、近衛師団兵器部にて働きながら法政大学専門部法律科に通っていたが、赤色救援会の活動への関与が発覚したことや病気療養により、一旦帰郷する。 だが、警察の監視つきで就職さえままならなかったため、1934年、ペルー・リマ市に渡り現地の日本人学校で8年間教鞭を執る。終戦後の1946年に沖縄へ戻り、村会議員や農協会長などを経て、1954年から4期にわたり立法院議員となる。
小林 隆(こばやし たかし、1907年 <明治40年> 11… 小林 隆(こばやし たかし、1907年 <明治40年> 11月12日 - 1980年 <昭和55年> 11月17日)は、日本の経営者。日鉄鉱業社長を務めた。 東京都出身。1931年に東京帝国大学経済学部経済科し、1939年に日鉄鉱業に入社。 1954年に取締役に就任し、1961年11月に常務、1965年11月に専務を経て、1967年11月には社長に就任。1971年11月には相談役に就任した。 1980年11月17日、心不全のために死去。73歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
鄭 寅笑(チョン・インソ、朝鮮語: 정인소、1907年11月… 鄭 寅笑(チョン・インソ、朝鮮語: 정인소、1907年11月11日または1908年 - 1977年8月21日または8月27日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、大韓民国の大学教員、政治家。第5代韓国国会議員。本貫は東萊鄭氏(朝鮮語版)。キリスト教徒。 ソウルまたは忠北陰城出身。大阪府立中学校、北京外国語専門学校世界語科、九州帝国大学(現・九州大学)法文学部政経科、ピープル大学大学院博士課程修了(文学博士)。若い頃は民族解放運動をしたため、当局の特別高等要視察人とされ、128回も検束投獄に遭った。特に世界語普及および禁酒・禁煙・阿片・公娼・蓄接などの廃止運動で活躍し、私財で愛の世界社、国際禁酒同盟、韓国世界語総連盟を設立し総裁を務めた。
康 慶玉(カン・ギョンオク、朝鮮語: 강경옥、1907年11… 康 慶玉(カン・ギョンオク、朝鮮語: 강경옥、1907年11月11日 - 1999年3月10日)は、大韓民国の実業家、政治家。第2・3代大韓民国国会議員、第5代大韓民国参議院議員。本貫は信川康氏。 法制室長を務めた康明玉(朝鮮語版)、弁護士、商工部官僚の康龍玉(朝鮮語版)は弟。 この項目は、朝鮮に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:朝鮮)。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
野田 理一(のだ りいち、1907年11月10日 - 198… 野田 理一(のだ りいち、1907年11月10日 - 1987年2月22日)は、日本の詩人、美術評論家、随筆家。三重県津市出身。 戦前より詩作、また海外美術の鑑識眼も醸成していた。荒地同人。大正時代生まれがほとんどの同人の内で年長であった。自らの人生は語らず、作品のみを残す。美術評論では早くからジョン・ケージ、フンデルトヴァッサー、ルーチョ・フォンタナなどを紹介する。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
有光 教一(ありみつ きょういち、1907年11月10日 -… 有光 教一(ありみつ きょういち、1907年11月10日 - 2011年5月11日)は、日本の考古学者。専攻は朝鮮考古学。京都大学名誉教授、高麗美術館研究所所長。朝鮮考古学の先駆者とされる。 山口県豊浦郡長府村(現下関市)に生まれる。1931年、京都帝国大学文学部史学科考古学専攻卒業。濱田耕作と梅原末治の指導を受ける。同年4月、京都帝国大学大学院に入学すると同時に、副手として勤務する。同年8月、朝鮮古蹟研究会助手として朝鮮半島に赴き、9月には朝鮮総督府古蹟調査事務嘱託となり、その後2年ほど調査整理に携わる。1937年10月、朝鮮総督府学務局技手嘱任、1941年6月、藤田亮策の後任として、朝鮮総督府学務局社会教育課古蹟係主任および朝鮮総督府博物館主任兼務となり、実質的な総督府博物館長を務める。
柏 祐賢(かしわ すけかた、1907年〈明治40年〉11月1… 柏 祐賢(かしわ すけかた、1907年〈明治40年〉11月10日 - 2007年〈平成19年〉3月12日)は、日本の農学者、農業経済学者。京都大学名誉教授、第2代京都産業大学学長。李登輝(第4代中華民国総統)の京大農学部在籍時の恩師として知られる。 1907年、富山県立山町生まれ。京都帝国大学農学部農林経済学科で学び、1933年に卒業。 卒業後は同1933年に農林省入省。1936年、京都帝国大学農学部助手に任じられる。1939年、同大学農学部講師に昇進。11月、京都帝国大学人文科学研究所助教授となる。 1945年、太平洋戦争が終結。1947年4月、京都帝国大学人文科学研究所教授に昇進。1948年8月に学位論文『経済秩序個性論:中国経済の理論的研究』を京都大学に提出して農学博士を提出。
高師 康(たかもろ こう、1907年11月9日 ‐ 1995… 高師 康(たかもろ こう、1907年11月9日 ‐ 1995年3月26日)は、日本のサッカー選手、サッカー指導者、新聞記者。埼玉県北足立郡浦和町(後のさいたま市浦和区)出身。選手時代のポジションはフォワード、ハーフバック。高師康夫とも表記される。 1914年、埼玉師範学校附属小学校に入学し、6年時の1919年に同校で初めて開催された校内試合に出場し優勝した。高師は自著の中で「埼玉県の小学生でサッカーらしいサッカーをやったのは、私たちが最初であろう」と記している。 1920年に旧制埼玉県立浦和中学(現、埼玉県立浦和高等学校)へ進学し、4年時の1923年にア式蹴球部を創部。5年時の1924年に東京高等師範学校主催の全国中等学校蹴球大会に出場した。
赤堀 全子(あかほり まさこ、本名:赤堀房江、1907年11… 赤堀 全子(あかほり まさこ、本名:赤堀房江、1907年11月8日 - 1988年3月4日)は、日本の料理研究家。放送開始の最初期からNHK『きょうの料理』に関わり、赤堀栄養専門学校校長なども歴任した。赤堀割烹教場(現・赤堀料理学園)4代目。 赤堀割烹教場(赤堀料理学園の前身)を1882(明治 15)年に創設した赤堀峯吉(初代)の孫である赤堀峯吉(3代) の長女として、東京に生まれる。初代峯吉は、親が営んでいた掛川宿の料理屋が1832(天保 3)年の大火で焼失したため、江戸に出て修業したのち、1860(万延元)年に45歳で日本橋元大工町(現・中央区八重洲一丁目4、日本橋二丁目1・2)に割烹店を開業、67歳で赤堀割烹教場を開設した。
福島 幸夫(ふくしま さちお、1907年11月8日 - 19… 福島 幸夫(ふくしま さちお、1907年11月8日 - 1983年2月13日)は、日本の検察官、弁護士。東京地検特捜部初代部長、検事正(佐賀地検、新潟地検)、最高検検事等を歴任した。 鹿児島県日置郡串木野村(後の串木野市、いちき串木野市)出身。1928年に第七高等学校造士館文科を卒業。1930年11月、高等試験司法科合格。1931年3月に東京帝国大学法学部を卒業し、同年6月に司法官試補となる。1933年9月、東京地方裁判所予備検事に任官され、11月より横浜地方裁判所予備検事。1934年4月、前橋区裁判所検事に任官され、1936年4月より千葉区裁判所検事、1937年7月より東京区裁判所検事。1939年10月、司法省刑事局事務官となる。
池見 猛(いけみ たけし、1907年11月7日 - 2016… 池見 猛(いけみ たけし、1907年11月7日 - 2016年1月3日[要出典])は、日本の精神医学者、池見学園理事長・校長、文筆家。 妻は嵯峨実勝の次女池見啓子(あきこ)。大分県北海部郡丹生村(現大分市)出身。 大分県立三重農学校(現・大分県立三重農業高等学校)卒、東京医学専門学校(現・東京医科大学)卒、中央大学法学部卒、名古屋帝国大学附属医学専門部卒。 1939年「精神的傾向の遺伝学的研究」で名古屋帝国大学医学博士。1959年「精神障碍性犯罪の刑事学的研究」で中央大学法学博士。 民族科学研究所を主宰、『民族科学』を刊行。1952年東京品川簿記学校を開校、1956年池見経理学校、1968年学校法人池見学園を設立し、校長、理事長を務める。
仲 威雄(なか たけお、1907年11月7日 - 2008年… 仲 威雄(なか たけお、1907年11月7日 - 2008年11月2日)は、日本の建築工学者。東京大学名誉教授。東京生まれ。専門は建築構造と溶接で溶接技術の指導的役割を果たした他に溶接学会会長(1958-1960年)、日本圧接協会会長(1963-1965年)、摩擦接合技術協会会長(1964-1994年)、溶接研究所理事長(1964-2000年)、日本鋼構造協会副会長(1965-1988年)ほか要職を歴任。日本建築学会 名誉会員。 1932年、東京帝国大学工学部建築学科卒業。1941から1945年、東京帝国大学講師。1942年に「電気溶接に関する研究」で日本建築学会学術賞。1945年に東京帝国大学教授就任。
大野 真弓(おおの まゆみ、男性、1907年11月6日 - … 大野 真弓(おおの まゆみ、男性、1907年11月6日 - 2002年11月27日)は、日本の西洋史学者、横浜市立大学名誉教授。英国史が専門。 東京生まれ。浦和高等学校から1931年東京帝国大学西洋史学科卒業、東京府立第一商業学校(現在の東京都立第一商業高等学校)教諭を経て、1937年に第六高等学校教授。戦後1950年に岡山大学法文学部教授、1953年に横浜市立大学教授。1970年に定年、後にフェリス女学院大学客員教授を務めた。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
増淵 恒吉(ますぶち つねきち、1907年11月5日 - 1… 増淵 恒吉(ますぶち つねきち、1907年11月5日 - 1986年2月12日)は、日本の国語教育者・国文学者。専修大学名誉教授。 栃木県生まれ。旧制山形高等学校を経て、1931年に東京帝国大学文学部国文学科を卒業、岡山県吉備商業学校教諭、1932年横須賀中学校教諭、1938年福井師範学校教授、1946年東京府立第五中学校(のち東京都立小石川高等学校)教諭、1949年東京都立日比谷高等学校教諭。1960年東京都教育庁指導部主査。1968年専修大学文学部教授。1978年定年退職、名誉教授、土浦短期大学教授。
桑原福保(くわばら ふくほ、1907年(明治40年)11月4… 桑原福保(くわばら ふくほ、1907年(明治40年)11月4日 - 1963年(昭和38年)7月18日)は、日本の洋画家。家族や日常風景を題材とした写実的な作品を多く残す。 山梨県東八代郡境川村寺尾(笛吹市)に生まれる。父は神主の腎蔵、母は志ん。桑原家には四男三女があり、福保は長男。幼少期から洋画を志し、油彩画を手がける。 1927年(昭和2年)3月に山梨県師範学校(山梨大学)本科第一部を、翌1928年(昭和3年)3月に山梨県師範学校専攻科を卒業後、同年4月から山梨県中巨摩郡田之岡村(南アルプス市)の八田尋常小学校に美術教師として勤務する傍ら制作活動を行う。同年12月10日には母の志んが死去。 大正期から昭和初期にかけて、中央画壇ではフォービズムの影響を受けた画風や日本的な油彩画、写実などの画風や前衛美術運動が活発化しており、山梨においても赤蓼会が甲府で展覧会を開催し、土屋義郎らが中心となり岸田劉生をはじめとする草土社の画風に影響された写実表現を展開していた。
河合 弘道(かわい ひろみち、1907年(明治40年)11月… 河合 弘道(かわい ひろみち、1907年(明治40年)11月3日 - 1991年(平成3年)12月15日)は日本の政治家。鳥取県米子市長(5期)、金光教米子教会長。位階は従五位。 鳥取県西伯郡米子町(現在の米子市)道笑町に生まれる。 明道校から米子中学校(現在の米子東高校)へ進学する。 1931年(昭和6年)日本大学社会学科卒業。同大学社会学研究室助手となり、やがて講師、次いで1938年(昭和13年)予科の教授となる。 1946年(昭和21年)故郷米子に帰り、金光教米子教会長に就任。 戦後のすさんだ人々の心を導くと共に、社会教育の振興に取り組んだ。中でもボーイスカウトの再建、児童福祉施設わかば園の経営などの活動を通じて、次第に市政の在り方に関心を寄せ、彼を囲む市民の幅広い支持を得て、1963年(昭和38年)市長選に立候補し当選、1983年(昭和58年)4月までの5期20年に亘る長期間在職した。
中村 一雄(なかむら かずお、生年不明〈1907年11月3日… 中村 一雄(なかむら かずお、生年不明〈1907年11月3日~1908年11月2日〉 - 1990年11月2日)は、日本の競馬騎手、調教師、競走馬生産者。
真鍋 信喜(まなべ のぶき(「のぶよし」との記載もあり)、1… 真鍋 信喜(まなべ のぶき(「のぶよし」との記載もあり)、1907年11月3日 - 没年不詳)は、日本のジャーナリスト、新聞編集者。 真鍋盛太郎の二男として福岡市に生まれる。1925年福岡県立中学修猷館を経て、1937年3月九州帝国大学法文学部を卒業(法学士)。 卒業後、満洲国通信社に入社。戦後、1948年信濃毎日新聞に論説委員として入社し、1956年編集副主幹を経て、1962年取締役に選任され、1970年論説主幹に就任する。1976年退社。 その後、長野県教育委員長などを務めた。
高橋 良麿(たかはし よしまろ、1907年(明治40年)11… 高橋 良麿(たかはし よしまろ、1907年(明治40年)11月3日 - 1991年(平成3年)2月20日)は、日本の内務・警察官僚、実業家。最後の官選和歌山県知事。 大分県出身。高橋兼太郎の二男として生まれる。第五高等学校を卒業。1928年10月、高等試験行政科試験に合格。1929年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省に入省し、熊本県属となる。 1941年、岩手県書記官・経済部長に就任。1942年3月から1943年12月まで南西方面海軍民政府セレベス民政部経済部長を務めた。以後、岡山県部長・警察部長、東京都経済局食糧課長、警視庁刑事部長、京都府警察部長を歴任。 1947年2月、和歌山県知事に就任。
石田 武雄(いしだ たけお、1907年10月31日 - 20… 石田 武雄(いしだ たけお、1907年10月31日 - 2000年11月28日)は、日本の経営学者。 東京出身。1932年東京帝国大学工学部土木工学科卒、1956年「経営組織の実証的研究 国有鉄道の組織を中心として」で拓殖大学商学博士。国鉄勤務を経て、青山学院大学経済学部教授、1978年定年、名誉教授。管理工学が専門。
岡田 實(おかだ みのる、1907年(明治40年)10月31… 岡田 實(おかだ みのる、1907年(明治40年)10月31日 - 1991年(平成3年)1月14日)は、昭和時代の日本の電気工学者。工学博士。 戦前から航空電子工学の研究に取り組み、戦後は日本電信電話公社電気通信研究所次長、工学院大学学長、運輸省航空事故調査委員会委員長を歴任した。 愛知県名古屋市に生まれる。1931年(昭和6年)3月に東京帝国大学工学部電気工学科を卒業し、逓信省の電気試験所に入所。航空無線の研究に従事し、日本の船舶無線航行援助方式の主流となった「反転式回転無線標識」を考案。また、のちに米国で完成され国際標準として全世界で利用されるようになるVORと同一原理の「相差式無線標識」を発明し、無線標識を中心とした航空機無線嚮導方式に関する一連の研究により1941年(昭和16年)8月に東京帝国大学から工学博士号を授与された。
鈴木 秀丸(すずき ひでまる、1907年10月30日 - 1… 鈴木 秀丸(すずき ひでまる、1907年10月30日 - 1984年11月24日)は、日本の元ラグビー選手。 世田谷学園中学から法政大学へと進学。法大では主将を務めた。 卒業後は富士箱根自動車(後の小田急箱根。現・箱根登山バス)に進む。1930年のカナダ戦で日本代表初キャップを獲得。法大初の日本代表選手である。 1949年に法大ラグビー部監督に就任。1964年度の第1回全国大学ラグビー選手権大会で法大を優勝に導いた。
伊藤 俊夫(いとう としお、1907年10月30日 - 19… 伊藤 俊夫(いとう としお、1907年10月30日 - 1998年5月25日)は、日本の農業経済学者。北海道大学名誉教授。元日本学術会議会員。北海道文化賞受賞。 1907年、北海道札幌市で生まれた。1925年、高知県立第一中学校(現高知県立高知追手前高等学校)を卒業。1928年、北海道帝国大学予科修了し、北海道帝国大学農学部農業経済学科に進んだ。1931年に卒業した後、同大学大学院へ進学。1936年に修了し、同大学助手に採用された。1941年、京城帝国大学法文学部助教授に就任。 戦後帰国し、1946年より帯広獣医畜産専門学校教授。翌1947年、北海道帝国大学法文学部助教授となった。1948年、北海道大学に学位論文を提出して農学博士。
古内 広雄(古内 廣雄、ふるうち ひろお、1907年10月2… 古内 広雄(古内 廣雄、ふるうち ひろお、1907年10月24日 - 1972年11月5日)は、日本の外交官、政治家。衆議院議員(2期)。位階は正三位。勲等は勲二等。 宮城県岩沼市生まれ。伊達忠宗の家老職を務めた古内家の末裔である。第二高等学校文科乙類から東京帝国大学法学部に進み、大学在学中に高等試験外交科合格。外務省に入省してからはドイツに赴任して経験を積み1941年に本省に戻る。終戦直後は進駐軍との終戦連絡の折衝にあたるも、いわゆる「Y項パージ」で一時期省外へ出され公正取引委員会事務局総務部長、公正取引委員会事務局長などを務めた。 1953年に外務省に戻るとレバノン、オーストリア、パキスタン、インドネシアの各国大使を歴任し、池田勇人首相の奨めもあって1964年に退官して自由民主党公認で1965年の参院選に宮城県選挙区から立候補するが、地元組織の分裂から次点に終わる。
上田 進(うえだ すすむ、1907年10月24日 - 194… 上田 進(うえだ すすむ、1907年10月24日 - 1947年2月24日)は、ロシア・ソビエト文学者。東京出身。本名は尾崎義一。尾崎宏次の兄。早稲田大学在学中に日本プロレタリア作家同盟に入る。
土居 真俊(どい まさとし、1907年10月24日 - 19… 土居 真俊(どい まさとし、1907年10月24日 - 1988年12月7日)は、日本の神学者、宗教学者。同志社大学名誉教授。 愛媛県西宇和郡双岩村(現・八幡浜市)生まれ。同志社大学文学部神学科卒、シカゴ神学校(英語版)、ハートフォード神学校(英語版)でPh.D.。1956年同志社大神学部教授。1973年紫綬褒章受章。1978年定年退任、名誉教授。1979年勲三等瑞宝章受章。
神部 俊郎(かんべ としろう、1907年10月23日 - 1… 神部 俊郎(かんべ としろう、1907年10月23日 - 1995年4月14日)は、日本の政治家、実業家、元地方公務員。北海道滝川市長(1期)。 滝川町(現・滝川市)生まれ。滝川市の前身となる8代目滝川町長神部為蔵の孫。1925年北海道庁立滝川中学校卒。1929年早稲田大学専門部法律科卒業後、農業及び土木建築請負業に従事した。その後、1931年6月、札幌土木事務所職員となる。その後、上川郡鷹栖信用購買販売利用組合書記なり、1939年、鷹栖村助役となった。1941年、北海道人造石油に入社した。戦後は滝川化学労働組合執行委員長となった。 1947年4月5日の滝川町長選に出馬し、臨時町長代理を務めた奥山与作らを破って初当選を果たした。
上野照夫(うえの てるお、1907年10月22日 - 197… 上野照夫(うえの てるお、1907年10月22日 - 1976年1月17日)は、日本の美術史学者、京都大学名誉教授。専門はインド美術、ヒンドゥー教美術。 徳島県出身。1932年京都帝国大学文学部美学美術史学科卒。1951年京大文学部美術史学科教授。71年定年退官、名誉教授。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
大伴 麟三(おおとも りんぞう、1907年10月20日 - … 大伴 麟三(おおとも りんぞう、1907年10月20日 - 1944年12月9日)は、日本の映画監督、脚本家である。本名小島 武夫(こじま たけお)、大伴 龍三(おおとも りゅうぞう、新漢字表記大伴 竜三)とも名乗った。 1907年(明治40年)10月20日、佐賀県杵島郡(現在の同県武雄市)に生まれる。 旧制・福岡県立中学明善校(現在の福岡県立明善高等学校)卒業後、帝国キネマ演芸に入社、古海卓二に助監督として師事する。 1927年(昭和2年)、20歳にして、奈良の市川右太衛門プロダクションあやめ池撮影所製作の市川右太衛門主演作『笑ふな金平 後篇』で監督としてデビュー、同作は同年9月15日に公開された。
齋藤 求(さいとう もとむ、1907年〈明治40年〉10月2… 齋藤 求(さいとう もとむ、1907年〈明治40年〉10月20日 - 2003年〈平成15年〉12月24日)は、日本の画家。
桜井 奎夫(櫻井、さくらい けいお、1907年(明治40年)… 桜井 奎夫(櫻井、さくらい けいお、1907年(明治40年)10月20日 - 1991年(平成3年)12月23日)は、昭和期の教育者、労働運動家、政治家。衆議院議員。 長崎県南高来郡、現在の島原市出身。1932年(昭和7年)早稲田大学文学部英文科を卒業。 新潟県立相川高等学校教諭、新潟県立巻高等学校教諭、新潟県立新潟南高等学校教諭などを務めた。労働運動に加わり、新潟県教職員組合執行委員長、新潟県全官公庁労働組合協議会長、日教組北陸協議会会長に就任。 1952年(昭和27年)10月の第25回衆議院議員総選挙で新潟県第1区から左派社会党公認で出馬して落選。1953年(昭和28年)4月の第26回総選挙に出馬して初当選し、以後1958年(昭和33年)5月の第28回総選挙まで再選され、衆議院議員に連続3期在任した。
荒木 克業(あらき かつなり、1907年(明治40年)10月… 荒木 克業(あらき かつなり、1907年(明治40年)10月20日‐1932年12月3日)は、日本陸軍の軍人。 陸士41期。熊本県旧飽託郡内田村(現・熊本市南区)出身。最終階級は工兵中尉、死後大尉。 昭和4年(1929年)7月17日、陸軍士官学校(41期)を卒業、同年10月25日より千葉の鉄道第1連隊第2中隊の所属となる。 1932年9月27日、満州国軍の人事配置に不満を持った旧張学良軍の蘇炳文少将ら満州国軍黒龍江省駐留軍の軍人数千人が『東北民衆救国軍』を名のり満州里で挙兵、満州里領事や特務機関長、国境警察署長、民間人ら在留邦人数百名を人質とし、ホロンバイル独立を宣言した。世にいうホロンバイル事件である。