松尾 三郎(まつお さぶろう、1913年(大正2年)11月1… 松尾 三郎(まつお さぶろう、1913年(大正2年)11月19日 - 1998年(平成10年)9月1日)は、日本の工学者・実業家・学校経営者。工学博士(京都大学)。電子開発学園初代理事長。兵庫県出身。 郵政省電波技術審議会委員やソフトウェア産業振興協会副会長も務めた。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。 この項目は、工学・技術に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(Portal:技術と産業)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
保田 清(やすだ きよし、1913年 <大正2年> 11月1… 保田 清(やすだ きよし、1913年 <大正2年> 11月19日 - 1999年 <平成11年> 3月23日)は、日本の倫理学者。京都大学名誉教授。位階は正四位。 兵庫県神戸市生まれ。1937年京都帝国大学文学部卒業、大学院に進む。1943年大学院特別研究生。1950年京大教養部専任講師、1951年助教授、1962年教授、1977年定年退官、名誉教授。 1987年、勲三等旭日中綬章を受章。1993年「道徳哲学の基本」で、80歳にして文学博士。1999年死去。死没日付をもって正四位に叙された。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
鈴木 敬三(すずき けいぞう、1913年(大正2年)11月1… 鈴木 敬三(すずき けいぞう、1913年(大正2年)11月19日 -1992年(平成4年)7月28日)は、日本の歴史学者。國學院大學名誉教授。専門は風俗史・有職故実学。 東京市浅草区神吉町(現在の台東区東上野)出身。本姓は加賀で、誕生とともに父の生家の養子となる。1938年に國學院大學国史学科を卒業し、1942年から宮内庁図書寮勤務。1946年に退官。國學院高等学校教諭を経て、1951年から國學院大學文学部講師、1960年同助教授、1965年同教授。1984年に定年退職して名誉教授となるまでに、國學院高等学校副校長などを務める。78歳で没し、墓は谷中霊園にある。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
数江 教一(かずえ きょういち、1913年11月18日 - … 数江 教一(かずえ きょういち、1913年11月18日 - 2003年5月28日)は、日本の倫理学者、茶道研究家。茶号は瓢鮎子(ひょうねんし)。 長野県茅野市出身。旧制飯田中学(長野県飯田高等学校)、旧制松本高等学校を経て東京帝国大学文学部倫理学科卒。和辻哲郎に師事。1962年「日本の末法思想」で東京大学より文学博士の学位を取得。1952年中央大学文学部非常勤講師、1953年専任講師、1955年助教授、1960年教授、1984年定年、名誉教授となる。東大在学中に茶の湯同好会を作り茶道を研究する。 日本倫理学会、日本思想史学会、日本哲学会に所属した。
李 炳夏(イ・ビョンハ、朝鮮語: 이병하、1913年11月1… 李 炳夏(イ・ビョンハ、朝鮮語: 이병하、1913年11月18日 - 2000年11月2日)は、大韓民国の政治家、裁判官、弁護士、公証人。第12代法務部長官、第4・5代韓国国会議員。 本貫は真城李氏(朝鮮語版)。号は暁汀、日本名は李家炳夏。 日本統治時代の慶尚北道聞慶郡出身。地元で普通学校を卒業後、1928年に京城に上京し雑貨店の店員を務めたが、1931年9月に内地に密航し、同年11月に大阪の日刊新聞の従業員に就職した。1933年4月には甲種中学校である大阪北洋商業学校の夜間部3年に編入し、1935年3月に卒業。同年4月に明治大学専門部法科夜間部に入学し、1938年に卒業した。卒業後はしばらく京城の三中井百貨店で経理・人事管理・商品購入担当職員を務め、1940年には三中井百貨店の東京支社に転職した。
掛川 源一郎(かけがわ げんいちろう、1913年〈大正2年〉… 掛川 源一郎(かけがわ げんいちろう、1913年〈大正2年〉11月17日 - 2007年〈平成19年〉12月26日)は、日本の写真家。北海道室蘭町(現・室蘭市)生まれ。 中学在学中にカメラを始める。室蘭中学校(現北海道室蘭栄高等学校)、千葉高等園芸学校(現千葉大学園芸学部)卒業。誠文堂新光社『実際園芸』編集所に勤務。編集記者兼カメラマンとして活躍。 1950年代に土門拳が提唱したリアリズム写真(絶対非演出の絶対スナップ)の影響を受ける。戦後は伊達高校に教員として勤務するかたわら、北海道における社会派カメラマンとして、貧しい漁村や開拓農家の暮らし、アイヌ民族、伊達発電所建設反対運動、ポリオ(小児マヒ)の子どもたち、有珠山噴火などを長期にわたって撮影。
目加田 栄蔵(めかた えいぞう、1913年11月17日 - … 目加田 栄蔵(めかた えいぞう、1913年11月17日 - 1997年9月25日)は、日本の実業家。総合商社の三井物産の代表取締役常務取締役・顧問、豪州三井物産の社長、大洋州監督などを務めた。 1934年、彦根高等商業学校(現:滋賀大学経済学部)を卒業し、同年三井物産に入社した。 入社後は海外勤務を多く経験し、1939年から1941年までニューヨーク支店に勤務した。日米開戦直前のニューヨークでは、鉄鋼、銅、鉛、ニッケル、亜鉛、アルミニウム、マンガン鉱などの対日輸出制限が強まる状況を経験した。1941年9月にアルゼンチンへ転勤し、1942年から1946年までブエノスアイレスに在勤した。1947年に帰国し、1953年から1954年には新三井物産ニューヨーク駐在を務めた。
山口 良忠(やまぐち よしただ、1913年(大正2年)11月… 山口 良忠(やまぐち よしただ、1913年(大正2年)11月16日 - 1947年(昭和22年)10月11日)とは、日本の裁判官。佐賀県杵島郡白石町出身。太平洋戦争の終戦後の食糧難の時代に、闇市の闇米を拒否して食糧管理法に沿った配給食糧のみを口にし、栄養失調で亡くなったことで知られる。 1913年(大正2年)、佐賀県杵島郡福治村(現在の白石町)に、小学校教師の長男として生まれる(→白石町ホームページ)。鹿島中学校(旧制)・佐賀高等学校(旧制)・京都帝国大学法学部を卒業。大学院に進み宮本英脩・佐伯千仭に師事、高等文官試験司法科試験に合格、判事となる。1942年(昭和17年)に東京民事地方裁判所に転任後、1946年(昭和21年)10月に東京区裁判所の経済事犯専任判事となる。
小牧 治(こまき おさむ、1913年11月16日 - 200… 小牧 治(こまき おさむ、1913年11月16日 - 2000年5月21日)は、日本の倫理学者。東京教育大学名誉教授。専門は西洋哲学、特にイマヌエル・カントの哲学や実存主義、カント倫理学の研究で知られる。 京都府生まれ。東京文理科大学哲学科卒。フランクフルト大学に留学。1961年、「社会と倫理 カント倫理思想の社会史的考察」で東京教育大学文学博士。東京教育大学教授。1977年、退任、名誉教授。 2000年5月21日、急性心不全のため死去。
近衛 八郎(このえ はちろう、1913年〈大正2年〉11月1… 近衛 八郎(このえ はちろう、1913年〈大正2年〉11月16日 - 1995年〈平成7年〉)は昭和期の歌手、作曲家。本名は、釜田 俊雄。妻は、戦前キングレコードで活躍したミッキー松山こと松山映子(1912年‐2006年)。 新潟県佐渡郡沢根町(佐和田町を経て現在の佐渡市)出身。佐渡中学校、武蔵野音楽学校卒業。1936年(昭和11年)キングレコードから「あの夢この夢」でデビュー。「ああ我が戦友」や「男なら (軍歌)」などがヒット。その後応召により出征する。 戦後は作曲に転向し、鎌多俊与の名で作曲家として活躍。1956年(昭和31年)、三橋美智也の「哀愁列車」が大ヒットとなった。その他、若原一郎「風の吹きよで」、春日八郎「玄海船乗り」、「居酒屋」、三橋美智也「俺ら炭鉱夫」などを作曲した。
宮口 精二(みやぐち せいじ、1913年〈大正2年〉11月1… 宮口 精二(みやぐち せいじ、1913年〈大正2年〉11月15日 - 1985年〈昭和60年〉4月12日)は、日本の俳優。本名は宮口 精次。身長159 cm。 築地座を経て文学座に参加し幹部座員として多くの舞台に立ち、文学座退団後は東宝演劇部に所属し商業演劇に出演した。戦後から映画にも多く出演、巨匠監督の作品に立て続けに起用され脇役として活躍した。主な出演映画に『七人の侍』『張込み』『日本のいちばん長い日』など。亡くなるまで約15年間、編集兼発行人として季刊『俳優館』を出し続けた。 1913年(大正2年)11月15日、東京府東京市本所区緑町(現:墨田区緑)に、大工の父・周市と母・もとの6人兄弟の次男として生まれる。
江戸川 蘭子(えどがわ らんこ、1913年(大正2年)11月… 江戸川 蘭子(えどがわ らんこ、1913年(大正2年)11月13日 - 1990年(平成2年)11月5日)は、昭和期の歌手、女優。本名は大宮 まつ、竹澤 まち子。 東京市出身。1930年(昭和5年)日劇音楽舞踊学校卒業。多摩川京王閣を経て、1932年(昭和7年)10月、松竹歌劇団(SKD)に入団。歌劇「ロザリア姫」等で人気を得る。1936年(昭和11年)退団。 1933年(昭和8年)コロムビアからデビュー。タンゴを多く唄い、「タンゴ・ローザ」、「ラ・クンパルシータ」などを吹き込む。戦争に突入するにつれ、戦時歌謡を多く吹き込んだ。「たそがれの湖」や「ロッパのガラマサどん」、「船出は楽し」など東宝映画に出演する。
尹 宅重(ユン・テクチュン、朝鮮語: 윤택중、1913年11… 尹 宅重(ユン・テクチュン、朝鮮語: 윤택중、1913年11月12日または12月16日 - 2002年1月26日)は、大韓民国の教育者、政治家。第2・4・5代韓国国会議員、全州明倫大学学長、檀国大学学長、文教部長官を歴任した。 本貫は坡平尹氏。号は嗚川または鳴川。 全羅北道益山郡出身。1936年中央高等普通学校卒、1939年普成専門学校法科卒、1943年中央大学法学部卒。中央中学校・普成専門学校・京城帝国大学勤務を経て、光復後は中央高等学校教師を務め、1945年9月に高麗青年党委員、1946年4月に西北学生援護会監査役を務めた。その後は金性洙の推薦で全羅北道文社局長・学務局長・教育局長などを務め、1948年の初代総選挙では全羅北道選挙委員会委員を務めた。
榎 一雄(えのき かずお、1913年(大正2年)11月11日… 榎 一雄(えのき かずお、1913年(大正2年)11月11日 - 1989年(平成元年)11月5日)は、日本の東洋史学者、東京大学名誉教授。正四位勲二等瑞宝章。 1913年、兵庫県明石郡垂水村(現・神戸市)で生まれた。神奈川県立横浜第三中学校を卒業。第一高等学校を1934年に卒業し、東京帝国大学文学部東洋史学科に入学。大学では白鳥庫吉の指導を受けた。 1943年9月より東京帝国大学文学部講師、1947年4月に東洋文庫研究員、1948年に東京大学文学部東洋史学科助教授に就任。1955年に教授昇進。1962年、学位論文『エフタル勃興前後の中央アジア』を東京大学に提出して文学博士号を取得。1974年に東京大学を定年退官。
金 溶植(キム ヨンシク、1913年11月11日 - 199… 金 溶植(キム ヨンシク、1913年11月11日 - 1995年3月31日)は、大韓民国の政治家、外交官。本貫は金海金氏。 1913年、慶尚南道龍南郡にて誕生。1937年、日本の中央大学を卒業。1949年1月、外務部に入省。駐香港領事、駐ホノルル総領事、駐日本公使、駐フランス公使、駐ジュネーブ公使、駐フィリピン大使、駐国連大使、駐イギリス大使、駐アメリカ大使、外務部長官、国土統一院長官、無任所長官、大統領外交担当特別補佐官、大韓赤十字社総裁を歴任した。 1988年ソウルオリンピックの剰余金で創設された平和賞基金の委員長職を最後に公職を退いた。朝鮮戦争当時は釜山に避難し、慶尚南道知事官舎を利用した大統領官邸に寄宿した。
岩崎 武雄(いわさき たけお、1913年11月10日 - 1… 岩崎 武雄(いわさき たけお、1913年11月10日 - 1976年10月20日)は、日本の哲学者、元東京大学文学部名誉教授。専門は、ドイツ観念論。
佐藤 太清(さとう たいせい、1913年〈大正2年〉11月1… 佐藤 太清(さとう たいせい、1913年〈大正2年〉11月10日 - 2004年〈平成16年〉11月6日)は、京都府福知山市出身の日本画家。本名は佐藤 實(さとう みのる)。 花鳥画と風景画を融合させた独自の花鳥風景画(かちょうふうけいが)を確立したことで知られる。日本画壇の重鎮として戦後の日展を支えたほか、晩年は福知山市佐藤太清賞公募美術展を福知山市と創設し、後進の育成に尽力した。 日展初入選は30歳と大変遅咲きだったが、1966年(昭和41年)第9回新日展に出品した「風騒」は、全く新しい画期的な日本画として絶賛され、文部大臣賞、日本芸術院賞をダブルで受賞し注目を浴びた。1980年(昭和55年)日本芸術院会員、1988年(昭和63年)文化功労者顕彰、1992年(平成4年)には文化勲章を受章。
團藤 重光(だんどう しげみつ、1913年〈大正2年〉11月… 團藤 重光(だんどう しげみつ、1913年〈大正2年〉11月8日 - 2012年〈平成24年〉6月25日)は、日本の法学者。専門は、刑法・刑事訴訟法。裁判官。学位は、法学博士(東京大学・論文博士 1962年)。東京大学名誉教授。日本学士院会員、文化功労者。文化勲章受章。位階は正三位。勲等は勲一等。団藤 重光とも表記される。 東京帝国大学法学部助教授、東京大学法学部教授、東京大学法学部学部長、慶應義塾大学法学部教授、最高裁判所判事、社団法人学士会理事長などを歴任した。 山口県生まれ、岡山県育ちの法学者である。専門は刑事法全般に及び、戦後の日本刑事法学の第一人者である。東京帝国大学、東京大学、慶應義塾大学で教鞭を執ったのち、最高裁判所判事に就任した。
鈴木 芳太郎(すずき よしたろう、1913年11月8日 - … 鈴木 芳太郎(すずき よしたろう、1913年11月8日 - 1978年5月10日)は、静岡県出身の元プロ野球選手(投手)。
団藤 重光(だんどう しげみつ、正字体:團藤、1913年(大… 団藤 重光(だんどう しげみつ、正字体:團藤、1913年(大正2年)11月8日 - 2012年(平成24年)6月25日)は、日本の法学者。岡山県出身(ただし生まれは山口県)。東京大学名誉教授。1974–83年(昭和49–58年)最高裁判所判事。1981年(昭和56年)日本学士院会員。1987年(昭和62年)勲一等旭日大綬章。1995年(平成7年)文化勲章。
市原 正雄(いちはら まさお、1913年11月7日 - 19… 市原 正雄(いちはら まさお、1913年11月7日 - 1977年)は、日本の陸上競技(短距離走)選手。 1913年(大正2年)11月7日、京都府南桑田郡篠村(現在の京都府亀岡市篠町)に生まれる。亀岡尋常小学校(現在の亀岡市立亀岡小学校)卒業後、京都府立亀岡農学校(現在の京都府立亀岡高等学校)に進学。1931年(昭和6年)、立命館大学専門部2部法学部に入学。 農学校時代から陸上競技を行っていたが、大学専門部入学後に本格的に400mハードルを始める。日本学生対校選手権、日本陸上競技選手権大会、明治神宮体育大会など各種大会で400mハードル種目に出場。また、京都学生駅伝にも出場して活躍した。 1934年(昭和9年)5月16日、初の国際大会出場となる極東選手権大会(マニラ)で400mハードルを走り、3位ながらも 当時の日本学生記録(55秒1)をマークした。
山岡 大二(やまおか だいじ、1913年(大正2年)11月6… 山岡 大二(やまおか だいじ、1913年(大正2年)11月6日 - 1991年(平成3年)11月1日)は、東京都出身の日本の海軍軍人、海上自衛官。最終階級は、海軍少佐、海将補。 内務官僚・山岡国利の二男として東京で生れる。鹿児島一中を経て、1936年(昭和11年)3月、海軍兵学校(第63期)を卒業、遠洋航海終了後、戦艦「霧島」乗組となる。翌年4月、海軍少尉に任官し1937年(昭和12年)8月、新造の駆逐艦「涼風」乗組となり、以後、「伊号第五十七潜水艦」、「呂号第三十四潜水艦」乗組み、1938年(昭和13年)8月、呉鎮守府第四特別陸戦隊付となる。同年12月、重巡洋艦「三隈」乗組となり、重巡洋艦「筑摩」、水雷艇「鳩」乗組を経て、1940年(昭和15年)10月、駆逐艦「霞」砲術長となり太平洋戦争を迎えた。
三上 富三郎(みかみ とみさぶろう、1913年11月6日 -… 三上 富三郎(みかみ とみさぶろう、1913年11月6日 - 1995年7月2日)は、日本の経営学者。 1937年神戸商業大学を卒業し、同年松下電器産業に入社する。松下電器で経理部長・総務部長を務めた後、1949年に日本ゴム商業改善協会に勤務した。 1955年、明治大学商学部講師となる。助教授(1957年)を経て1961年に教授に就任。1963年「卸売および卸売業経営の研究」で明治大学より商学博士の学位を取得。1984年に定年を迎え、名誉教授となる。学者としては平井泰太郎に師事した。 恵泉裏道路対策協議会会長を務め、後年は道路行政に関して世田谷区を相手とした訴訟をおこなった。
渡辺 喜恵子(渡邊 喜惠子、わたなべ きえこ、1913年(大… 渡辺 喜恵子(渡邊 喜惠子、わたなべ きえこ、1913年(大正2年)11月6日 - 1997年(平成9年)8月8日)は日本の小説家。本名は木下喜惠子。秋田県出身者として初めて、直木賞を受賞した。 秋田県仙北郡檜木内村(後の西木村、現:仙北市)生まれ。2歳の時、父・栗生沢米太郎が鷹巣町(現:北秋田市)に木材工場を創業し転居する。能代高等女学校(現:秋田県立能代北高等学校)卒業後の1931年(昭和6年)に上京。1935年(昭和10年)、画学生・渡辺茂との結婚のため広島へ転地する。しかし、1939年(昭和14年)、25歳のときに夫が病死。1942年(昭和17年)、亡き夫のことを綴った短編小説集『いのちのあとさき』を刊行し創作活動に入る。
初村 滝一郎(はつむら たきいちろう、1913年〈大正2年〉… 初村 滝一郎(はつむら たきいちろう、1913年〈大正2年〉11月5日 - 2005年〈平成17年〉7月30日)は、日本の政治家。自由民主党に所属し、参議院議員を4期務めた。従三位。勲一等旭日大綬章受章(1992年)。 1913年(大正2年)11月5日長崎県生まれ。五島中学校、長崎県立五島高等学校卒業。 長崎県議会議長を経て1970年(昭和45年)、参議院議員補選に長崎県選挙区から立候補し、初当選。1992年(平成4年)に引退するまで4期22年務めた。1981年(昭和56年)11月から1982年(昭和57年)11月まで鈴木善幸改造内閣で労働大臣を務めた。 2005年(平成17年)7月30日、急性心不全のため長崎県諫早市内の病院で死去。
岩本 博行(いわもと ひろゆき、1913年(大正2年)11月… 岩本 博行(いわもと ひろゆき、1913年(大正2年)11月4日 - 1991年(平成3年)10月29日)は、日本の建築家。竹中工務店常務。 大阪府に生まれる(出身地は岡山県勝田郡奈義町)。 1932年(昭和7年)、大阪市立都島工業学校建築科を卒業し、竹中工務店に入る。 竹中入社後に小林三造に指導を受ける。日本建築素材の色彩を用いて統一感を与えることを持論とし、職人(大工・棟梁)の伝統を受け継ぐ人物と目された。 九州支店設計部長(1959年)、大阪本店設計部長(1962年)、取締役技師長(1968年)を経て、1972年に常務取締役に就任した。 竹中工務店の創立80周年記念事業の「竹中大工道具館」創設(1984年)にも関与した。
黒坂 周平(くろさか しゅうへい、1913年11月3日 - … 黒坂 周平(くろさか しゅうへい、1913年11月3日 - 2003年2月7日)は日本の地方史研究家、郷土史家、教師。 長野県小県郡西塩田村(現上田市)に生まれる。旧制上田中学(長野県上田高等学校)を経て長野師範学校を卒業し、学校教師になる。1950年、『上田小県誌』史料編纂委員となる。1972年、上田市立第三中学校を退職し、郷土史研究に専念する。 1973年、東信史学会を創立し会長に就任、雑誌『千曲』を刊行。1979年、塩田平文化財研究所を設立し所長に就任。1990年喜寿を記念し論文選集(献呈論文集含む)『信濃の歴史と文化の研究』を刊行した。また平凡社の『日本歴史地名大系 20 長野県の地名』の監修を務めた。
菅谷 正貫(すがや まさみち、1913年11月3日 - 19… 菅谷 正貫(すがや まさみち、1913年11月3日 - 1983年9月23日)は、日本の哲学者。 水戸市に島六郎として生まれる。正貫と改名、1937年立正大学文学部哲学科卒、菅谷敏子と結婚し菅谷姓となる。1942年立正大学文学部副手、1944年文部省教学錬成所錬成官補、1950年立正大学文学部講師、52年助教授、58年教授、59-66年文学部長、68年学監、71年学長。73-76年立正大学短期大学部学長兼任。83年立正大学退任。
加藤 守雄(かとう もりお、1913年11月2日 - 198… 加藤 守雄(かとう もりお、1913年11月2日 - 1989年12月26日)は、日本の国文学者。旧姓は土井(どい)。号は杜壮。通称「馬さん」「もり」。 同性愛者である折口から「森蘭丸は織田信長に愛されたということで、歴史に名が残った。君だって、折口信夫に愛された男として、名前が残ればいいではないか」と迫られ、同衾を要求されたため名古屋の実家に帰郷。
松本 達郎(まつもと たつろう、1913年11月2日 - 2… 松本 達郎(まつもと たつろう、1913年11月2日 - 2009年2月7日)は、日本の地質学者。 1913年、東京府東京市小石川区で心理学者・松本亦太郎の三男として生まれた。旧制静岡高等学校に入学し、在学中に地学を今野円蔵から学んだ。1933年、高等学校を卒業して東京帝国大学理科大学地質学科に進んだ。大学では小林貞一に師事。1936年に卒業論文『九州大野川盆地の地史学的研究』を提出して卒業し、同大学大学院に進んだ。大学院在学中は小林貞一のアメリカ留学と重なったため、その間併任となっていた東北帝国大学の矢部長克の指導を受けた。 1936年、九州帝国大学理学部助教授に就いた。1944年、英文執筆した学位論文『日本白亜系層序の基礎的研究』を東京帝国大学に提出し、理学博士号を取得。
後藤 陽一(ごとう よういち、1913年11月2日 - 20… 後藤 陽一(ごとう よういち、1913年11月2日 - 2002年3月17日)は、日本の歴史学者。専門は日本近世史。広島大学名誉教授、広島修道大学名誉教授。 大正2年(1913年)、熊本県に生まれる。昭和12年(1937年)、広島文理科大学を卒業。昭和15年(1940年)から1年間は旧制崇徳中学校歴史科嘱託教員。昭和18年(1943年)からは広島県立広島女子専門学校教授。昭和23年(1948年)から広島文理科大学助教授を務めた。昭和29年(1954年)から新制広島大学教養部教授。昭和49年(1974年)から昭和52年(1977年)まで広島大学大学総合科学部教授を務める。その後は、平成元年(1989年)まで広島修道大学教授を務める。
三浦 淳史(みうら あつし、1913年11月1日 - 199… 三浦 淳史(みうら あつし、1913年11月1日 - 1997年10月13日)は、日本の音楽評論家。秋田市生まれ。イギリス音楽の第一人者として知られた。 父は北海道帝国大学工学部で冶金学の教授を務めていた。札幌第二中学校(現札幌西高等学校)で伊福部昭、佐藤忠良らと知り合う。北大予科在学中の1934年、伊福部らと共に「新音楽連盟」を結成する。当時に映画『慕情』のモデルとなるイアン・モリソン(映画ではマーク・エリオット)に英語のてほどきを受ける。その後“落第”して東北帝国大学に転じる。1940年、同大学法文学部を卒業する。ここでは村岡典嗣による日本思想史の講義を受講したという。北大予科在学中から音楽誌『月刊楽譜』に「札幌楽信」等を寄稿、戦後音楽誌の復活に伴い、音楽ジャーナリズムで活躍するようになった。
戸田 吉蔵(とだ きちぞう、1913年11月1日 - 198… 戸田 吉蔵(とだ きちぞう、1913年11月1日 - 1986年4月17日)は、東京都出身のプロ野球選手。 荏原中学校から1943年に東京巨人軍へ入団。1946年に退団。1947年に国民野球連盟の大塚アスレチックスに入団。翌年退団。
楊 明文(ヤン・ミョンムン、朝鮮語: 양명문、1913年11… 楊 明文(ヤン・ミョンムン、朝鮮語: 양명문、1913年11月1日 - 1985年11月21日)は、大韓民国の詩人、文学者、教授。号は紫門(チャムン、자문)。 日本統治時代の平安南道平壌生まれ。1939年に詩集『華愁園』を発表した。1942年に専修大学法学部を卒業し、1944年までに東京で文学創作をした。 光復後は北朝鮮地域に行ったが、朝鮮戦争の第3次ソウルの戦いの時に越南した。その後は全国文化団体総連合会救国隊員、従軍作家団員として韓国陸軍に従軍した。終戦後はソウル大学校文理科大学・師範大学、国防部戦時連合大学、首都医科大学(現在のソウル友石大学校)、清州大学で詩論と文芸思潮の講義をし、1960年に梨花女子大学校副教授を務め、1966年以降は国際大学(現在の西京大学校)の国語国文学科教授を務めた。
西山 昭(にしやま あきら、1913年〈大正2年〉11月1日… 西山 昭(にしやま あきら、1913年〈大正2年〉11月1日 - 1988年〈昭和63年〉1月23日)は、日本の外交官。駐インドネシア特命全権大使、駐スイス特命全権大使、駐大韓民国特命全権大使、交流協会台北事務所代表、交流協会理事長。 福岡県出身。1933年(昭和8年)福岡高等学校文科甲類卒業。1936年(昭和11年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年10月、高等試験外交科試験に合格して外務省入省。1949年(昭和24年)外務省連絡局地方課長。1950年(昭和25年)在カルカタ日本政府在外事務所所長。1953年(昭和28年)外務省経済局第三課長。1955年(昭和30年)外務省経済局次長。1956年(昭和31年)外務省経済局外務参事官。
木羽 敏泰(きば としやす、1913年11月1日 - 201… 木羽 敏泰(きば としやす、1913年11月1日 - 2017年2月20日)は、日本の化学者、教育者。 1913年(大正2年)大阪市に生まれる。大阪府立浪速高等学校を経て東北帝国大学に進学。1937年(昭和12年)同大理学部化学科卒業。1939年(昭和14年)金沢高等工業学校に勤務。1941年(昭和16年)名古屋帝国大学工学部助教授、1949年(昭和24年)金沢大学教授。金沢大学では理学部分析化学講座を担当した。1969年(昭和44年)同大学理学部長,1979年(昭和54年)同大を定年退職、金沢工業大学教授に就任。1984年(昭和59年)金沢工業大学学長。1988年(平成元年)任期満了により同学長を退職。
横山 康吉(よこやま こうきち、1913年11月 - 没年不… 横山 康吉(よこやま こうきち、1913年11月 - 没年不詳)は、参松工業を設立し、日本で初めて酸糖化法によるブドウ糖生産の事業化に成功した横山長次郎の養嫡子。参松工業の社長職と横山家を継いだ。 田中長兵衛の三男で、母・みなの実家を継ぎ吉田姓となった吉田長三郎(1877年生)の五男として1913年(大正2年)に生まれた。1930年(昭和5年)、親戚筋である横山長次郎(1880年生)とその妻・勝の養子となる。1934年(昭和9年)に慶應義塾高等部を卒業。1936年(昭和11年)8月には、慶應義塾長としてハーバード大学創立300周年記念式典に招かれた伯父の小泉信三と共に横浜港から船で米国に渡り、ボストン・カレッジに入学。
奈良岡 末造(ならおか すえぞう、1913年(大正2年)10… 奈良岡 末造(ならおか すえぞう、1913年(大正2年)10月31日 - 1995年(平成7年)12月31日)は日本の政治家。青森県青森市長。 青森市出身。1931年、青森県立青森商業学校(現・青森県立青森商業高等学校)卒。卒業後は生家の米屋を手伝い、その傍ら、青森県信用組合連合会に勤務した。1947年、青森市議会議員に当選、4期16年務め、この間、1957年から4年間議長を務め、東北市議会議長会会長、全国市議会議長会副会長を歴任した。1963年に青森県議会議員に当選、1期務めた。1967年、社会党の推薦を受け、青森市長選挙に立候補し、現職の千葉元江を破った。 1971年4月25日、自民党公認の白鳥大八を破って再選を果たした。
長谷川 吉郎(はせがわ きちろう、1913年(大正2年)10… 長谷川 吉郎(はせがわ きちろう、1913年(大正2年)10月31日 - 1995年(平成7年)5月16日)は、日本の銀行家。元山形銀行頭取、会長。 長谷川吉三郎(吉弥)山形銀行頭取の子として、山形県山形市に生まれる。 慶大卒後、従軍、各社役員を経て、両羽銀行に入行。1972年(昭和47年)には、15年あまり頭取を務めた三浦弥太郎の後任として昇格する。 トップ在任中は経営の近代化に努め、1973年(昭和48年)の東証2部上場(1975年(昭和50年)1部に指定替え)を実現。山形県下の企業としては初の東証上場を成し遂げた。また、第一次オンラインシステムの構築、ファームバンキングシステムの開発、地区センター設置も手がけたほか、いわゆるオイルショックを卓越した経営手腕により無事に乗り切った。
富士 正晴(ふじ まさはる、本名:冨士正明、1913年10月… 富士 正晴(ふじ まさはる、本名:冨士正明、1913年10月30日 - 1987年7月15日)は、日本の小説家、詩人、版画家。多くの有名作家を輩出した『VIKING (同人誌)』の創刊同人であり、3度の芥川賞候補、直木賞候補となり、晩年は竹やぶに囲まれた自宅に引きこもって活動し、「竹林の隠者」と呼ばれた。毎日出版文化賞、大阪芸術賞、関西大賞大詩仙賞受賞。 徳島県三好郡山城谷村(現三好市)出身。両親はともに小学校の訓導をしていた。家族と神戸に転居し、神戸第三中学校卒業。 1931年旧制第三高等学校理科甲類に進学。志賀直哉を訪問したところ、竹内勝太郎を紹介されて師事する。1932年、野間宏(のちに富士の妹と結婚して義弟となる)や桑原静雄とともに、詩の同人誌『三人』を創刊。
加藤 吉郎(かとう よしろう、1913年10月30日 - 1… 加藤 吉郎(かとう よしろう、1913年10月30日 - 1985年3月23日)は、日本の実業家。南海電気鉄道の社長を務めた。岐阜県出身。 1944年、京都帝国大学法学部を卒業し、南海電気鉄道の前身である南海鉄道に入社。1964年に熊野交通に出向し、専務を務め、瀞八丁の観光船にジェット船を採用した。1966年に南海電鉄に戻り、自動車計画部長、取締役、常務、専務を歴任し、1975年12月から副社長を務め、社長の川勝傳を支えた。1983年6月に川勝傳の後任として社長に就任する。しかし体調不良で1985年1月に社長を辞任し、同年3月23日、すい臓がんのために大阪府堺市の自宅で死去。71歳没。なお社長は川勝傳が会長と兼任する形で一時的に社長を務め、1985年6月に吉村茂夫が社長に就任した。
野口 啓祐(のぐち けいすけ、1913年10月30日 - 1… 野口 啓祐(のぐち けいすけ、1913年10月30日 - 1975年4月27日)は、日本の英文学者。 早稲田大学英文専攻卒業、上智大学外国語学部英語学科教授を務めた。 カトリック作家のグレアム・グリーン、またマルティン・ブーバーなどユダヤ系の思想家を研究、翻訳した。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作詞家・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ:作家)。
堀部 正二(ほりべ しょうじ、1913年10月29日 - 1… 堀部 正二(ほりべ しょうじ、1913年10月29日 - 1944年9月7日)は、日本の国文学者、文献学者。中古文学専攻。旧姓・鹿嶋。 大阪府出身。京都帝国大学文学部卒業。大学院生時代、京都帝国大学図書館に寄託されていた近衛家文書の古筆証本「二十巻本類聚歌合」を調査研究。その後、設立された陽明文庫嘱託となる。 1944年(昭和19年)応召、同年9月7日、中国で戦病死。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
鴻巣 隼雄(こうのす はやお、1913年(大正2年)10月2… 鴻巣 隼雄(こうのす はやお、1913年(大正2年)10月27日 - 1985年(昭和60年)4月27日)は、日本文学者。聖心女子大学・立正大学名誉教授。文学博士(東京大学・1962年)。 鹿児島県生まれ。父は日本文学者で第四高等学校教授の鴻巣盛広である。隼雄が生まれた時は、第七高等学校造士館教授であった。東京帝国大学を卒業。山口大学、二松學舍大学、聖心女子大学教授を歴任。1972年(昭和47年)立正大学教授に就任した。1984年(昭和59年)、定年退官。 近代文学から始めて古代文学を研究した。1962年、東京大学に於いて「鹿持雅澄と萬葉学」で文学博士となる。
織田 作之助(おだ さくのすけ、1913年(大正2年)10月… 織田 作之助(おだ さくのすけ、1913年(大正2年)10月26日 - 1947年(昭和22年)1月10日)は、日本の小説家。戦後、太宰治、坂口安吾、石川淳らと共に無頼派、新戯作派と呼ばれ「織田作(おださく)」の愛称で親しまれる。『夫婦善哉』で作家としての地位を確立。 1913年(大正2年)、大阪市南区生玉前町(現・天王寺区上汐4丁目、生魂小学校正門前付近)にて、仕出屋(後に『一銭天麩羅屋』に業態変更)「魚春」の織田鶴吉、たかゑの長男として生まれる。仕出屋とは言え、上汐町筋より路地を入った所謂『裏店』(うらだな)であったが、中央区上汐1丁目の一画(『近松門左衛門の墓』のすぐ東側)に当時の家並(表店と路地=長屋)が唯一残っている。
岡崎 耕三(おかざき こうぞう、1913年10月26日 - … 岡崎 耕三(おかざき こうぞう、1913年10月26日 - 1993年8月13日)は、日本の裁判官、弁護士。元日本弁護士連合会副会長。 香川県三豊郡和田村(現 観音寺市豊浜町)出身。旧制香川県立三豊中学校、日本大学専門部法律科卒業。 三豊中学卒業後、同郷の先輩の白川朋吉弁護士事務所に書生として勤務しながら法律の勉学に励み、1931年(昭和6年)普通文官試験合格。更に、1935年(昭和10年)日本大学専門部法律科卒業後、1940年(昭和15年)高等文官試験司法科合格。1942年(昭和17年)判事任官。大阪、神戸、姫路、岡山の各地方裁判所判事を歴任。 1947年(昭和22年)岡山県にて弁護士開業。1968年(昭和44年)4月から1969年(昭和45年)3月まで岡山弁護士会会長、1980年(昭和55年)4月から1981年(昭和56年)3月まで日本弁護士連合会副会長を務めた。
次田 香澄(男性、つぎた かすみ、1913年〈大正2年〉10… 次田 香澄(男性、つぎた かすみ、1913年〈大正2年〉10月26日 - 1997年〈平成9年〉12月12日)は、日本の日本文学者。専門は中世文学。 旧制静岡高等学校を経て、1936年(昭和11年)に東京帝国大学文学部国文学科を卒業。1961年(昭和36年)「玉葉和歌集・風雅和歌集の研究」で東洋大学より文学博士の学位を取得。二松學舍大学教授を経て、大東文化大学教授。中世和歌・女流日記などを研究した。
福井 静夫(ふくい しずお、1913年(大正2年)10月25… 福井 静夫(ふくい しずお、1913年(大正2年)10月25日 - 1993年(平成5年)11月4日)は、大日本帝国海軍の技術科士官(最終階級は少佐)、艦艇研究家。 専攻は造船。三男・威夫は本田技術研究所社長、本田技研工業代表取締役社長などを歴任した。 横浜市で生まれ、東京帝国大学では造船を学び、試験に合格して海軍造船学生となる。1941年(昭和16年)には目黒区三田にあった海軍技術研究所造船研究部に所属しており、静かな環境で学際的な雰囲気の元、海軍のみならず日本の基礎工業に技研が果たした役割を高く評価している。戦時中にはシンガポールに派遣され、英軍によって破壊されたセレター軍港を接収して開設された第101工作部にて施設復旧等に従事、訪独の帰途英軍の敷設した機雷に触れて沈没した伊30の引揚げにも関わっている。
遠藤 ミマン(えんどう ミマン、本名・遠藤滿男、1913年1… 遠藤 ミマン(えんどう ミマン、本名・遠藤滿男、1913年10月25日 - 2004年9月28日)は、日本の画家。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
白上 謙一(しらかみ けんいち、1913年10月23日 - … 白上 謙一(しらかみ けんいち、1913年10月23日 - 1974年9月5日)は、日本の生物学者。 東京府(杉並区)出身。父は白上佑吉。東京帝国大学理學部動物學科卒、同大学院、山梨医学専門学校、山梨県立高校教諭、山梨大学学芸学部助教授、教授、京都大学理学部教授を務め、60歳で在職中に死去した。動物発生学。