後藤 脩(ごとう しゅう、1879年(明治12年)8月11日… 後藤 脩(ごとう しゅう、1879年(明治12年)8月11日 - 1957年(昭和32年)1月15日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(当選1回、三重県第二区選出)。三重県松阪市長。日本出版社長。 鳥取県会見郡彦名村(現在の米子市)出身。後藤綾の弟。学歴等は不明。 1903年(明治36年)より三重県津市で出版業を始める。1906年(明治39年)、組織を改めて「合資会社三重出版社」とする。1924年(大正13年)に組織を「三重出版社株式会社」に改め、社長に就任した。そのかたわら南勢新聞社常務取締役、松阪信用組合理事などに就任した。さらに松阪町会議員、同市会議員、三重県会議員、同参事会員に選出された。
田島 勝太郎(たじま かつたろう、1879年(明治12年)8… 田島 勝太郎(たじま かつたろう、1879年(明治12年)8月10日 - 1939年(昭和14年)1月28日)は、日本の商工官僚。衆議院議員(立憲民政党)、逓信政務次官。 大分県日田郡中津江村(現在の日田市)出身。田島儀市の二男。1906年、東京帝国大学法科大学法律学科卒業。大学院に進学後、高等文官試験に合格し、農商務省に入省した。水産講習所教授兼水産局書記官、製鉄所事務官、製鉄所参事、農商務書記官兼製鉄所理事などを歴任し、外務書記官に転じた。また製鉄所在任中には八幡市の市会議長に推された。 1923年6月、東京市助役に招かれ、関東大震災の対応に尽力した。その後、東京鉱山監督局長、福岡鉱山監督局長を経て、1930年に商工次官に就任した。
寺内 寿一(てらうち ひさいち、旧字体: 寺內壽一、1879… 寺内 寿一(てらうち ひさいち、旧字体: 寺內壽一、1879年(明治12年)8月8日 - 1946年(昭和21年)6月12日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は元帥陸軍大将。勲等は勲一等。爵位は伯爵。山口県出身。
日高善一(ひだか ぜんいち、1879年8月5日 - 1956… 日高善一(ひだか ぜんいち、1879年8月5日 - 1956年6月10日)は日本の牧師、聖書学者で「新約聖書全巻註解」を独力で執筆出版した。号は柿軒(しけん)。 1879年(明治12年)宮崎県児湯郡美々津町に日高新一の子として生まれる。1885年(明治18年)頃、6歳の頃より教会学校に通い、延岡藩校亮文社、鹿児島簿約義塾で学ぶ。1899年(明治32年)に鹿児島日本基督教会の牧師宗像慶二郎より洗礼を受ける。 1899年長崎の東山学院の3年に編入学する。その時の同級生に益富政助、都留仙次がいた。宣教師のヘンリー・スタウト、A・ピータースよりオランダ改革派のカルビニズム(カルヴァン主義神学)を学ぶ。 1903年(明治36年)に上京して植村正久の一番町教会(現・日本基督教団富士見町教会)の会員になる。
高武藏 源太郎(たかむさし げんたろう、1879年(明治12… 高武藏 源太郎(たかむさし げんたろう、1879年(明治12年)8月4日 - 1948年(昭和23年)4月30日)は、明治から大正期にかけての大相撲力士。本名は高橋源次郎、のち野地に改姓。 現在の埼玉県所沢市出身。元々行司として入門したらしく、1893年1月から1895年1月まで番付行司欄に見える木村源二郎と思われる[要出典]。その後力士となり、1896年5月に高武蔵源太郎で序ノ口、1897年5月序二段に上がる。1898年5月に一度三段目に昇進し、一旦序二段陥落の後1900年5月に三段目に再昇進してからは定着した。1903年5月には幕下に昇進し、1908年1月幕下9枚目まで昇進するが幕下が長く、1917年1月三段目に陥落するまで13年幕下にいた。
岩崎 小弥太(いわさき こやた、1879年(明治12年)8月… 岩崎 小弥太(いわさき こやた、1879年(明治12年)8月3日 - 1945年(昭和20年)12月2日)は、日本の実業家で、三菱財閥の4代目総帥。男爵。 2代目岩崎弥之助(岩崎弥太郎の弟)の長男として東京府(現・東京都)に生まれた。母は後藤象二郎の長女早苗である。 1891年(明治24年)に高師附属小(現・筑波大附小)、1896年(明治29年)に高師附属中(現・筑波大附中・高)を卒業。旧制第一高等学校入学。一高の寮同室には馬場鍈一がいた。一高を経て明治32年に東京帝国大学法科大学に入学するが翌年の明治33年に中退。 1905年(明治38年)ケンブリッジ大学を卒業し、翌年の明治39年に帰国して三菱合資会社の副社長となり、明治41年に父弥之助の死去に伴い男爵を継承して1916年(大正5年)には従兄である3代目岩崎久弥(弥太郎の長男)の後を継いで社長に就任、三菱財閥の4代目となった。
三隅 正(みすみ ただし、1879年(明治12年)8月3日 … 三隅 正(みすみ ただし、1879年(明治12年)8月3日 - 1935年(昭和10年)2月24日)は日本の弁護士、政治家。元東京府会議長。 1879年(明治12年)8月、島根県に生まれる。1907年(明治40年)、和仏法律学校(現・法政大学)を卒業する。 1909年(明治42年)に判事検事登用試験に合格し、司法官試補を経て、弁護士を開業する。その後、東京府会議員、麹町区会議長を経て、1933年(昭和8年)に東京府会議長に就任する。 1935年(昭和10年)2月24日に死去、57歳。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
和田 性海(わだ しょうかい、1879年8月2日 - 196… 和田 性海(わだ しょうかい、1879年8月2日 - 1962年3月9日)は日本の僧。歌人。元高野山真言宗管長、金剛峯寺座主。高野山大学学長。歌人としては正岡子規直門の弟子である。 明治12年(1879年)8月2日、兵庫県佐用郡幕山村大垣内1番地に和田桂次の9人兄弟の6男として生まれる。母親は作東中嶋の安藤氏の出である。生家は宍粟郡安志藩下の地方庄屋として栄えたが、桂次の代に事業に失敗し倒産するに至り、両親も病死した。 明治23年(1890年)2月17日に、12歳で檀那寺の正覚寺にて加賀美隆賀の許へ入寺するも隆賀が退寺する事となり、同26年(1893年)に佐用郡久崎村の清林寺の伊藤義禅の許へ転籍し出家した。
米沢 与三七(よねざわ よそしち、1879年(明治12年)8… 米沢 与三七(よねざわ よそしち、1879年(明治12年)8月1日 - 1966年(昭和41年)5月9日)は、大正から昭和時代の電気工学者、通信技術者。子に電電公社総裁を務めた米沢滋がいる。 富山県に生まれる。1906年(明治39年)東京帝国大学電気工学科卒業後、逓信省に入り、通信技手、同技師、名古屋郵便局電話課長、鹿児島郵便局工務課長などを経て、1920年(大正9年)逓信省臨時電話局第3課長、工務局電話課長、工務局長となる。この間欧米留学、1932年(昭和7年)にはマドリードの万国無線会議に政府代表委員として出席した。1934年(昭和9年)退官すると、日本放送協会理事、技術局長、電波技術協会会長などを歴任した。
碇潟 夘三郎(いかりがた うさぶろう、1879年8月 - 1… 碇潟 夘三郎(いかりがた うさぶろう、1879年8月 - 1928年3月18日)は、大阪府大阪市中央区出身で草風部屋(京都相撲)、出羽海部屋に所属した力士。本名は山口 卯太郎(やまぐち うさぶろう)(旧姓的場)。7代山響、9代佐ノ山。身長166cm、体重88kg。最高位は東前頭筆頭。得意手は掻っ撥き、下手投げ、叩き。 大工の長男で家業を継ぐべく修業していたが相撲好きで遊び回り、不義理もあり進退が窮まっていると、1896年に名古屋相撲の大関だった常陸山が大阪に来た際入門を願ったが、小兵で非力だったので断られた。そこで、同じ名古屋力士の相見山にも入門を願ったが雑用係代わりに使われたので逃げ、京都相撲の草風部屋に入門、糸柳で幕下上位へ進んだ。
西山 茂(にしやま しげる、1879年(明治12年)7月31… 西山 茂(にしやま しげる、1879年(明治12年)7月31日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。佐賀県唐津市長。 福岡県三池郡銀水村(現在の大牟田市)出身。京都帝国大学法科大学選科に在学中の1910年(明治43年)、高等文官試験に合格。さらに高等学校卒業学力検定試験に合格して本科に移り、翌年に卒業した。関東都督府属、同警視、同事務官・旅順民政署長、関東庁事務官・奉天警察署長、同警務課長などを歴任。1930年(昭和5年)、北海道庁土木部長に就任し、さらに内務部長に転じた。 退官後の1936年(昭和11年)に唐津市長に選出された。
赤木 格堂(あかき かくどう、1879年(明治12年)7月2… 赤木 格堂(あかき かくどう、1879年(明治12年)7月27日 - 1948年(昭和23年)12月1日)は、衆議院議員。ジャーナリスト。俳人。本名は亀一。 岡山県児島郡小串村(現在の岡山市南区)出身。東京専門学校(現在の早稲田大学)に在学中、正岡子規に俳句を師事し、『日本附録週報』の代選を任せられた。1902年(明治35年)に卒業した後は、『九州日報』の主筆を務めた。その後、フランスに3年間留学し、植民政策学を専攻した。さらに雑誌『青年日本』を経営し、『国民新聞』『大阪朝日新聞』に寄稿した。 1917年(大正6年)、衆議院議員補欠選挙に立候補し、当選を果たした。 その後、『山陽新報』主筆に就任し、小串村長も務めた。
畑 俊六(はた しゅんろく、1879年(明治12年)7月26… 畑 俊六(はた しゅんろく、1879年(明治12年)7月26日 - 1962年(昭和37年)5月10日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は元帥陸軍大将。偕行社会長。位階勲等は従二位勲一等功一級。
小早川 常雄(こばやかわ ときお、1879年(明治12年)7… 小早川 常雄(こばやかわ ときお、1879年(明治12年)7月21日 - 1970年(昭和45年)2月)は、日本の実業家。京三製作所創業者。 広島県賀茂郡出身。1906年(明治39年)東京帝国大学工科大学電気工学科卒業後、川越電気鉄道技師長を経て、1907年(明治40年)芝浦製作所(現・東芝)入社。技術部・商務部各副部長を務めた後、1918年(大正7年)独立し、東京電機工業を創業。会社事務所を当時の東京市京橋区の三十間掘に置いたことから、"京橋"と"三十間掘"から一字ずつとって「京三商会」(現・京三製作所)と名付けた。 当初は水力・火力発電所や電気鉄道の計画・設計・工事の請負や出願書類の作成、これらに関わる機械器具類の製造販売を手掛けていたが、その後鉄道信号機の製造を始めた。
山川登美子(やまかわ とみこ、1879年(明治12年)7月1… 山川登美子(やまかわ とみこ、1879年(明治12年)7月19日 - 1909年(明治42年)4月15日)は、滋賀県遠敷郡竹原村(現福井県小浜市)出身の歌人。本名・とみ。弟は小説家の山川亮。 1879年(明治12年)7月19日、滋賀県遠敷郡竹原村(現福井県小浜市)に山川貞蔵、ゑいの4女として生まれる。生家は小浜藩の上級藩士の旧家筋であった。1895年(明治28年)、大阪のミッションスクール梅花女学校に入学、1897年(明治30年)同校を卒業。同年12月、『新声』に短歌を初めて投稿し入選する。 1900年(明治33年)4月、母校の研究生となり英語を専修。同年6月、与謝野鉄幹が創った東京新詩社『明星』の社友となり、8月には鉄幹と与謝野晶子(旧姓・鳳)に出会う。
覚心 平十郎(覺心 平十郎、かくしん へいじゅうろう、前名・… 覚心 平十郎(覺心 平十郎、かくしん へいじゅうろう、前名・政造、1879年〈明治12年〉7月17日 - 没年不明)は、日本の酒造家、資産家、兵庫県多額納税者、会社役員。族籍は兵庫県平民 兵庫県武庫郡西宮町(現・西宮市)の人、先代平十郎の長男。先代は1代にして巨万の富を積んだ。 1913年、家督を相続し、前名・政造を改める。酒造業を営む。また加島屋取締役、恵美酒銀行監査役などをつとめる。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。精力は絶倫で、頭脳明晰、統理経営の才に長じる。趣味は囲碁。宗教は真宗。住所は西宮市本町。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
曽我 鍛(そが きたう/きとう、1879年(明治12年)7月… 曽我 鍛(そが きたう/きとう、1879年(明治12年)7月15日 - 1959年(昭和34年)12月28日)は、日本の編集者、作家、記者。通称はきたえ。号は正堂、黄塔、鬼塔、青銅散士など。 1879年7月15日、愛媛県西宇和郡布喜川村(現在の西予市三瓶町鴫山)に生まれる。1901年旧制松山中学校卒業、1905年7月早稲田大学文学部卒業。同年9月に帝国大学史料編纂係となる。1906年帝国大学編纂係を依願退職、同年3月に三井家史料編纂の嘱託となる。1911年、病気療養のため三井家史料編纂嘱託を依願退職、帰郷する。帰郷後、療養中に双岩村の委嘱により村誌編集にあたる。 1913年4月、伊予日々新聞(柳原極堂経営)の主筆となる。
古武 弥四郎(こたけ やしろう、1879年7月12日 - 1… 古武 弥四郎(こたけ やしろう、1879年7月12日 - 1968年5月30日)は、岡山県出身の生化学、医化学者。 旧大阪府立高等医学校卒業後、京都帝国大学荒木寅三郎の門下となる。のち大阪帝国大学医学部教授。退官後県立和歌山県立医科大学の設立に参画、同学長。帝国学士院賞。文化功労者。勲二等旭日重光章。アミノ酸、特にトリプトファンの中間代謝の研究で知られる。和歌山県立理科短期大学(1955年廃止)の学長にも就任した。 以下の記述は古武弥四郎が昭和37-38年に邑久町医師会誌「この道」に発表した記事が基になっている。 古武弥四郎の研究経歴を見ると1910年(明治43年)から2年間のドイツ留学が一大転機となったことが分かる。
河野 正義(こうの まさよし、1879年(明治12年)7月1… 河野 正義(こうの まさよし、1879年(明治12年)7月12日 - 1944年(昭和19年)11月18日)は、明治から昭和前期の著述家、実業家、政治家。衆議院議員、大日本国民中学会創立者。 茨城県行方郡、のちの武田村(北浦村、北浦町を経て現行方市)で、農業・河野清次の二男として生れた。小学校卒業後、家庭の事情で進学できず独学で学んだが、当時は適当な講義録がなかったため相当な困難を覚えていた。 1900(明治33年)に上京して出版社に勤務。商用で長野県から東北地方に向かい、秋田県のある寒村で一夜を酒屋で過ごした際に、隣の部屋で高等小学校卒の少年たちが中学講義録で独習をしていたが「此の講義録は非常に六ケ敷くて到底自分等には解しかねる。
大木 彝雄(おおき つねお、1879年(明治12年)7月4日… 大木 彝雄(おおき つねお、1879年(明治12年)7月4日 - 没年不詳)は、日本の宮内官僚。宮中顧問官。 富山県。1906年(明治39年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業。宮内省会計審査局勤務、大臣官房総務課勤務、宮内書記官・文書課長、宮内事務官兼式部官・用度課長、同大膳課長を歴任。1933年(昭和8年)、宮中顧問官に任命された。
岩田 衛(いわた まもる、1879年(明治12年)7月2日 … 岩田 衛(いわた まもる、1879年(明治12年)7月2日 - 1942年(昭和17年)6月9日)は、日本の内務官僚。官選県知事、長岡市長。 熊本県出身。岩田春耕の長男として生まれる。第五高等学校を卒業。1905年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。内務省に入省し静岡県属となる。1906年11月、文官高等試験行政科試験に合格。 以後、茨城県事務官、岩手県事務官・警察部長、愛知県警察部長、奈良県内務部長、東京府内務部長などを歴任。 1920年9月、鳥取県知事に就任。災害復旧、結核予防、衛生思想普及などに尽力。1922年10月、福島県知事に転任。1923年10月に休職。1924年4月29日に退官した。
岩元 禧(いわもと き、1879年(明治12年)7月2日 -… 岩元 禧(いわもと き、1879年(明治12年)7月2日 - 1944年(昭和19年)9月14日)は、日本の内務官僚。官選沖縄県知事、鹿児島市長。 鹿児島県鹿児島市出身。士族の四男として生まれる。第七高等学校の第1回卒業生。1908年(明治41年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、同年に高等文官試験に合格した。内務省に入り、千葉県属、秋田県事務官、神奈川県理事官・視学官、香川県警察部長、島根県内務部長、茨城県内務部長を歴任。1923年(大正12年)から翌年まで沖縄県知事を務めた。1926年(大正15年)6月23日、休職満期となり退官した。 國學院大學・皇典講究所専務理事を経て、1933年(昭和8年)から1936年(昭和11年)まで第10代鹿児島市長を務めた。
左近司 政三(さこんじ せいぞう、1879年(明治12年)6… 左近司 政三(さこんじ せいぞう、1879年(明治12年)6月27日 - 1969年(昭和44年)8月30日)は、日本の海軍軍人。政治家。最終階級は海軍中将。第3次近衛文麿内閣の商工大臣。鈴木貫太郎内閣の国務大臣。
本野 亨(もとの とおる、1879年(明治12年)6月27日… 本野 亨(もとの とおる、1879年(明治12年)6月27日 - 1951年(昭和26年)2月8日)は、明治から昭和初期の電気工学者。神奈川県出身。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
田辺 淳吉(たなべ じゅんきち、1879年6月26日 - 1… 田辺 淳吉(たなべ じゅんきち、1879年6月26日 - 1926年7月13日)は主に大正期に活躍した日本の建築家。清水組(現清水建設)の技師として銀行、学校、邸宅等を設計し、後に独立。
藤塚 鄰(ふじつか ちかし、1879年〈明治12年〉6月26… 藤塚 鄰(ふじつか ちかし、1879年〈明治12年〉6月26日 - 1948年〈昭和23年〉12月24日)は、明治-昭和期の日本の漢学者・昭和天皇進講者・帝国大学教授・斯文会理事長・大東文化学院(大東文化大学)総長・位階は従二位・勲等は勲二等。号は素軒。旧姓佐々木、鄰は隣の旧字。 1879年(明治12年)、岩手県前沢村(江戸期の仙台領前沢城下、旧岩手県胆沢郡前沢町、現:奥州市前沢)の佐々木家に生まれる。 1908年(明治41年)、東京帝国大学支那哲学科卒業後、旧制第八高等学校(現:名古屋大学)教授に就任。1923年(大正10年)より中国留学。1928年(大正15年)日本領朝鮮の京城(ソウル)帝国大学新設開校と同時に教授、1931年(昭和6年)に法文学部長となり1940年(昭和15年)、京城帝国大学退職し帰国する。
椙山 正弌(すぎやま まさかず、明治12年(1879年)6月… 椙山 正弌(すぎやま まさかず、明治12年(1879年)6月26日 - 昭和39年(1964年)2月18日)は、岐阜県生まれの尾張藩士族であり、愛知県名古屋市の教育者。椙山女学園初代学園長・理事長。藍綬褒章の受章2回。 尾張藩士・椙山正明の長男として生まれる。椙山家は代々尾張徳川家に仕えた名家であり、士族であった。現在の名古屋の中心、広小路通に面した島田町(現、中区錦2丁目)に屋敷を構えていた。明治2年(1869年)の版籍奉還で父・椙山正明は土地、屋敷などを返上して岐阜県武儀郡高野村に移り、洲原神社神主の職を経て、武儀郡乾村官選戸長を数期務めた。 椙山正弌は明治28年(1895年)3月、岐阜県師範学校(現・岐阜大学教育学部)乙種講習科修了。
塩田 正太郎(しおた しょうたろう、1879年〈明治12年〉… 塩田 正太郎(しおた しょうたろう、1879年〈明治12年〉6月22日 - 没年不明)は、日本の政治家、実業家。香川県三豊郡仁尾町長(初代)。香川県会議員。仁尾塩田(現・仁尾興産)取締役。 香川県三野郡仁尾村(現・三豊市)生まれ。塩田廣太郎の長男。1899年、慶應義塾高等科卒業。1918年、父退隠により家督を相続した。1921年1月から1924年3月まで仁尾村長をつとめた。1924年4月から1925年2月まで仁尾町長をつとめた。 仁尾塩田会社の重役で、三豊紡績会社の重役を兼ねた。また香川県参事会員であった。 1923年頃の社会不安(農民党と地主との対立)について、塩田が出てその間の調停をうまくやり、その手腕は社会から認められた。
児玉 孝顕(こだま のりあき・こうけん、1879年(明治12… 児玉 孝顕(こだま のりあき・こうけん、1879年(明治12年)6月21日 - 1961年(昭和36年)1月10日)は、日本の内務官僚。検事。 東京府に貴族院議員児玉淳一郎の長男として生まれた。1904年(明治37年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業。司法官試補、東京区裁判所検事、千葉区裁判所検事を務め、1912年(明治45年)に茨城県事務官に転じた。茨城県警察部長、徳島県警察部長、特許局審査官・事務官、埼玉県警察部長、青森県内務部長、大阪府産業部長、営林局事務官・大阪営林局長を歴任。 退官後は大阪市助役に就任し、その他に大阪府工芸会会長、大阪能率研究会会長、大阪商工会議所顧問、産業協会理事、日本能率聯合会副会長、大阪府方面委員銓衡委員などを務めた。
國枝 博(くにえだ ひろし、1879年6月20日 - 194… 國枝 博(くにえだ ひろし、1879年6月20日 - 1943年8月6日)は、岐阜県出身の建築家。朝鮮総督府に在任中には主任技師として朝鮮総督府庁舎の設計に携わった。その後は大阪市を拠点に活躍した。 1879年(明治12年)6月20日に岐阜県に生まれ、1905年(明治38年)7月に東京帝国大学工科大学建築科を卒業した。1907年(明治40年)8月には韓国統監府技師に任ぜられ、朝鮮総督府工事の主任技師を務めた。1912年(明治45年)4月には欧米各国へ出張している。 1918年(大正7年)9月に高等官3等に昇叙すると、同月には願により退職し、10月には正五位に叙せられた。1919年(大正8年)10月、大阪市に國枝工務所を開設した。
金成 通(かねなり とおる、1879年(明治12年)6月20… 金成 通(かねなり とおる、1879年(明治12年)6月20日 - 1951年(昭和26年)8月10日)は、明治時代末期から昭和時代前期の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。旧姓・蛭田。 茨城県多賀郡、のちの南中郷村(現北茨城市中郷町)で農業・蛭田源三郎の二男として生まれる。上京して商業を学んだ。福島県石城郡錦村(錦町、勿来市を経て現いわき市錦町)の農業・金成竹太郎の養嗣子となる。再度上京して経済学などを学んだ。 1905年(明治38年)に帰郷して磐東銀行(現東邦銀行)の創立に尽力した。1911年(明治44年)福島県会議員に当選したのを皮切りに、同参事会員、錦村長を歴任する。ほか、鮫南中堅農民学校長、東部電力顧問、植田水力電気社長、磐東銀行、福島県農工銀行各取締役などを務める。
宜保 成晴(ぎぼ せいせい、1879年(明治12年)6月20… 宜保 成晴(ぎぼ せいせい、1879年(明治12年)6月20日 - 1953年(昭和28年)9月30日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→政友本党→立憲民政党)、医師。 沖縄県島尻郡豊見城村(現在の豊見城市)出身。沖縄県病院医生教習所を卒業後、1902年(明治35年)に済生学舎を卒業した。翌年、医術開業試験に合格し、郷里に医院を開業した。1919年(大正8年)には沖縄県会議員に選ばれた。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第15回衆議院議員総選挙でも再選を果たした。 その他に沖縄産業銀行監査役を務めた。
水口 隆三(みずぐち りゅうぞう、1879年(明治12年)6… 水口 隆三(みずぐち りゅうぞう、1879年(明治12年)6月14日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。 愛媛県温泉郡道後村(現在の松山市)出身。1907年(明治40年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、大蔵属となる。翌年、高等文官試験に合格。1909年(明治42年)より統監府書記官、大韓帝国度支部事務官・大邱財務監督局勤務、平壌財務監督局勤務、朝鮮総督府事務官・平安南道財務部長、同第二部長、度支部関税課長、同税務課長、財務局税務課長、同理財課長・監察官、専売局事務官、営林廠長などを歴任。1925年(大正14年)、専売局長に就任し、1928年(昭和3年)に慶尚南道知事に転じた。
櫻井 忠温(さくらい ただよし、1879年(明治12年)6月… 櫻井 忠温(さくらい ただよし、1879年(明治12年)6月11日 - 1965年(昭和40年)9月17日)は、日本陸軍軍人、作家。最終階級は陸軍少将。翻訳家、教育者の櫻井鴎村は実兄。木村駿吉の娘婿で海軍中将の櫻井忠武は実弟。 1879年(明治12年)6月11日、愛媛県松山城下の小唐人町(現・松山市大街道1丁目)に士族の3男として生まれる。1899年(明治32年)、松山中学校を卒業し、神戸税関に勤務。1901年(明治34年)11月、陸軍士官学校卒業(13期)。 松山の歩兵第22連隊旗手として日露戦争に出征。乃木将軍配下、旅順攻囲戦で体に8発の弾丸と無数の刀傷を受け(全身蜂巣銃創)、右手首を吹き飛ばされる重傷を負う。
実吉 純郎(旧字体: 實吉 純郞、さねよし すみお、1879… 実吉 純郎(旧字体: 實吉 純郞、さねよし すみお、1879年(明治12年)6月9日 - 1948年(昭和23年)11月8日)は、明治から昭和期の医学者、政治家、華族。貴族院子爵議員、医学博士。 海軍軍医・実吉安純の長男として生まれる。父の死去に伴い、1932年(昭和7年)4月15日、子爵を襲爵した。 1907年(明治40年)7月、東京帝国大学医科大学を卒業。1910年(明治43年)ドイツ帝国に留学した。 1907年(明治40年)東京帝国大学医科大学副手となる。以後、同助手、私立高輪病院長、東京慈恵会医科大学教授、同会医院次長、同内科部長、鉄道嘱託医、医薬制度調査会委員などを務めた。 1933年(昭和8年)6月24日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで2期在任した。
片山 三郎(かたやま さぶろう、1879年(明治12年)6月… 片山 三郎(かたやま さぶろう、1879年(明治12年)6月9日 - 没年不詳)は、台湾総督府官僚。大日本水産会理事。 京都府出身。1901年(明治34年)、東京専門学校(現在の早稲田大学)を卒業し、同年に判事検事登用試験に合格。司法官試補、大阪区裁判所検事、大阪地方裁判所検事を務めた。1907年(明治40年)、山林事務官に転じ、高知大林区署長、水産講習所教授、農商務書記官・事務官、水産局魚政課長、台湾総督府殖産局長、台南州知事、台北州知事を歴任した。 1931年(昭和6年)に退官し、弁護士・弁理士を開業した。その他、大日本水産会理事、共立水産工業株式会社取締役、帝国水産会顧問、林兼商店(のち大洋捕鯨株式会社、現在のマルハニチロ)顧問などを務めた。
水越 幸一(みずこし こういち、1879年(明治12年)6月… 水越 幸一(みずこし こういち、1879年(明治12年)6月6日 - 没年不詳)は、台湾総督府官僚。 山梨県出身。1909年(明治42年)、東京帝国大学法科大学政治科選科を卒業し、東京市主事となった。1912年(大正元年)、高等学校卒業検定試験に合格し、東京帝国大学法科大学政治家を卒業。高等文官試験に合格し、台湾総督府事務官、内務局地方課長、総督官房審議室勤務、交通局理事を歴任。1929年(昭和4年)、台中州知事となり、1931年(昭和6年)に退官した。 その後は台北市会議員、台北商業会議所理事を務めた。
海野 幸徳(うんの ゆきのり、1879年6月2日 - 195… 海野 幸徳(うんの ゆきのり、1879年6月2日 - 1955年1月25日)は、日本の社会事業理論家、優生学者。 東京・九段に、数学者・海野幸明の子として生まれる。東京若松専門学校政治経済科卒業。1903年、ドイツ系の貿易会社・横浜セールに入社。1907年、古屋寿会に移り、1910年『日本人種改造論』を著す。同書は日本で初めて本格的に優生学を導入した書とされる。以後、『中央公論』、『太陽』、『日本及日本人』などを含む雑誌に大量の文章を発表する。1912年にアメリカ合衆国に1年間留学し、スタンフォード大学・シカゴ大学で社会学、社会事業について研究する。1917年に古屋寿会を退職。1919年に「優生学の界限に就いて」を記した後、優生学と距離をおく一方、社会事業理論家としての活動を開始。
福田 代造(ふくだ だいぞう、1879年6月 - 没年不明)… 福田 代造(ふくだ だいぞう、1879年6月 - 没年不明)は、大正時代の日本の実業家、銀行家。鹿沼銀行取締役、鹿沼産業銀行監査役、鹿沼運輸監査役などを歴任。栃木県多額納税者。 栃木県上都賀郡鹿沼町(現・鹿沼市)出身。先代福田代造の長男で、出生当時の名前は「長造」。1917年(大正6年)家督を相続して「代造」に改名した。1933年(昭和8年)には鹿沼町会議員に当選した。 鹿沼市にある福田家奥座敷は、2011年に国の有形文化財に登録されている。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
三潴 信三(みつま しんぞうまたは みずま しんぞう、187… 三潴 信三(みつま しんぞうまたは みずま しんぞう、1879年(明治12年)5月28日 - 1937年(昭和12年)3月27日)は、日本の法学者。専門はドイツ法、民法。東京帝国大学法学部教授などを務めた。 1879年(明治12年)5月28日、東京湯島に生まれる。獨逸学協会中学校、第一高等学校を経て、東京帝国大学法科大学独逸法兼修に入学、1905年(明治38年)7月に卒業した。 東京帝国大学卒業の前から早稲田大学講師としてドイツ語を教え、卒業後の1907年(明治40年)には早稲田大学の派遣でドイツ、イタリアに留学し、民法や法理学を学んだ。1909年(明治42年)に帰国、早稲田大学教授に就任。この時期には複数のドイツ語文法書を出版している。
木村 尚達(きむら しょうたつ、明治12年(1879年)5月… 木村 尚達(きむら しょうたつ、明治12年(1879年)5月27日 - 昭和22年(1947年)11月1日)は、日本の裁判官、検察官、政治家。検事総長、司法大臣、貴族院議員。 熊本県出身。東秀則の二男として生まれ、木村成苗の養子となる。中学済々黌、第五高等学校を経て、1906年7月、京都帝国大学法科大学を卒業。司法官試補となり奈良地方裁判所詰となる。 1908年4月、検事に任官し東京地方裁判所予備検事に着任。以後、岡崎区裁判所検事、千葉地方裁判所検事を歴任し、1911年4月に退職。翌月、ドイツに留学し、チュービンゲン大学、ミュンヘン大学で学んだ。 1914年に帰国し、同年4月、東京地裁判事に復帰した。
2代 佐々木 嘉太郎(ささき かたろう、前名・嘉造、1879… 2代 佐々木 嘉太郎(ささき かたろう、前名・嘉造、1879年〈明治12年〉5月27日 - 1961年〈昭和36年〉10月21日)は、日本の商人(呉服商)、青森県多額納税者、政治家(貴族院多額納税者議員)、実業家、銀行家。青森銀行頭取。津軽鉄道顧問。「布嘉」佐々木家3代目。 青森県北津軽郡五所川原村(五所川原町を経て現五所川原市)に生まれる。佐々木眞平の長男。初代・佐々木嘉太郎の孫。早逝した2代目の跡を継ぐ。呉服商を営む。1915年(大正4年)、五所川原町会議員に当選。 1918年(大正7年)には青森銀行頭取を兼ねて佐々木銀行を設立した。呉服屋稼業から金融業へと「布嘉」の看板を掛けかえた。ほか、陸奥鉄道社長、津軽鉄道取締役などを歴任した。
木村 鋭市(きむら えいいち、1879年(明治12年)5月2… 木村 鋭市(きむら えいいち、1879年(明治12年)5月26日 - 1947年(昭和22年)7月21日)は、日本の外交官。駐チェコスロバキア公使。 島根県出身。1906年(明治39年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業。1908年(明治41年)、外交官及領事官試験・高等文官試験に合格し、外交官補となった。外務省参事官、ベルギー公使館三等書記官、フランス大使館二等書記官を務めた。1919年(大正8年)、パリ講和会議全権委員随員を務め、帰国後は亜細亜局の課長となった。ワシントン会議でも全権委員随員を務め、1923年(大正12年)からアメリカ合衆国大使館一等書記官、同参事官を歴任した。1925年(大正14年)より亜細亜局長となり、1927年(昭和2年)に駐チェコスロバキア公使に転じた。
竈門 亀千代(かまど かめちよ、1879年(明治12年)5月… 竈門 亀千代(かまど かめちよ、1879年(明治12年)5月24日 - 没年不明)は、日本の医師。竈門眼科医院院長。有田郡医師会評議員、健保査定委員。族籍は和歌山県平民。 和歌山県出身。湯浅町湯浅在籍。1905年(明治38年)8月、岡山医学専門学校(のちの岡山大学医学部)を卒業後、同年香川県高松市市立病院勤務。1906年(明治39年)、神戸市山本眼科病院勤務。なお、勤務中に船医としてハワイ(布哇)移民局トラホーム検査の情態視察に赴き、同地に四か月滞在した。 1907年(明治40年)、和歌山市木下眼科医院に勤務し、同年竈門眼科医院を開業。 趣味は書画と魚釣り。
勝 正憲(かつ まさのり、1879年(明治12年)5月21日… 勝 正憲(かつ まさのり、1879年(明治12年)5月21日 - 1957年(昭和32年)11月11日)は、日本の大蔵官僚、政治家。衆議院議員、逓信大臣。 福岡県出身。元小倉藩士・勝平八郎の長男として生まれる。豊津中学、第五高等学校を経て、1905年(明治38年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。塩務局属兼大蔵属となり横浜塩務局兼理財局国債課勤務となる。同年11月、文官高等試験に合格。 1906年(明治39年)12月、税務監督局事務官・大阪税務監督局勤務となり、以後、税務行政を担当する。1907年(明治40年)5月、松江税務監督局長に就任。さらに、兼松江塩務局長、長崎税務監督局長、鹿児島税務監督局長、長野税務監督局長、税務監督官・東京税務監督局、函館税関長、仙台税務監督局長、大蔵書記官・主税局国税課長、兼大蔵省参事官、東京税務監督局長、海外駐箚財務官(米国駐在)、兼米国大使館付などを歴任。
石原 誠(いしはら まこと、1879年(明治12年)5月18… 石原 誠(いしはら まこと、1879年(明治12年)5月18日 - 1938年(昭和13年)12月11日)は日本の生理学者、医学博士。 兵庫県伊丹出身。1901年(明治34年)東京帝国大学医科大学卒。当初、内科医を目指すものの中耳炎のため聴診・打診に支障をきたしたため生理学に転向する。卒業後、欧州留学(マールブルク、ウィーン)を命ぜられ、留学中に京都帝国大学福岡医科大学助教授に任官される。1906年9月同大学教授に就任する。 1911年(明治44年)に日本で初めて心電図を記録するなど心臓の自働性の研究(心臓前房の電流曲線の研究)に業績を上げ、この分野において石原は世界的権威として知られた。コイやフナの血清学的研究などで知られた。
浅田 良逸(あさだ りょういつ、1879年(明治12年)5月… 浅田 良逸(あさだ りょういつ、1879年(明治12年)5月18日 - 1958年(昭和33年)4月8日)は、大日本帝国陸軍軍人、最終階級は陸軍中将。貴族院男爵議員。旧姓・笹森。 青森県弘前で笹森要蔵の五男として生まれ、陸軍大将・男爵浅田信興の養子となり、1927年(昭和2年)6月1日に男爵を襲爵した。 1899年(明治32年)11月21日陸軍士官学校(11期)を卒業後、1900年(明治33年)6月22日に歩兵少尉に任官。日露戦争に従軍し、陸軍大学校(22期、1910年11月卒業)に学び、1929年(昭和4年)8月1日に陸軍中将に至った。その間、近衛歩兵第2旅団副官、近衛歩兵第3連隊中隊長、参謀本部部員、陸軍歩兵学校研究部部員、歩兵第57連隊大隊長、教育総監部部員、陸軍大学校教官、歩兵第7連隊長、第11師団参謀長、歩兵第33旅団長、近衛師団司令部附、東京湾要塞司令官などを歴任した。
古賀 十二郎(こが じゅうじろう、1879年(明治12年)5… 古賀 十二郎(こが じゅうじろう、1879年(明治12年)5月16日 - 1954年(昭和29年)9月6日)は、日本の郷土史家。長崎学の基礎を築いた人物として知られる。 黒田藩長崎屋敷の御用達「万屋」の12代目として生まれる。1895年、長崎市立商業学校を首席卒業。在学中、菅沼貞風『大日本商業史』と呉秀三『シーボルト』を読み、長崎の歴史に興味を持つ。1901年、高商附属外国語学校英語学科(現在の東京外国語大学)を卒業する。東京外国語学校の同級生に永井荷風(中退)がいた。 広島で3年間ほど英語教師を務めた後、長崎に帰郷して家業を継ぐ。1912年に『長崎批評』を創刊し、1913年に第1期長崎史談会を設立するなど、長崎研究を本格化させる。
岡 今朝雄(おか けさお、1879年〈明治12年〉5月15日… 岡 今朝雄(おか けさお、1879年〈明治12年〉5月15日 - 1941年〈昭和16年〉10月15日)は、日本の官僚。会計検査院長。 佐賀県出身。1904年(明治37年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、高等文官試験に合格した。税務属・大蔵属、税務監督局事務官・塩務局事務官、検査官補、副検査官、朝鮮総督府事務官、同営林廠長を歴任。1921年(大正10年)より検査官となり、1924年(大正13年)からは会計検査院部長を務めた。1938年(昭和13年)、会計検査院長に就任した。1941年(昭和16年)10月15日、幽門狭窄症で療養中に東京府東京市大森区雪ヶ谷町(現東京都大田区)の自宅で死去、62歳。
近藤 乾郎(こんどう けんろう、1879年(明治12年)5月… 近藤 乾郎(こんどう けんろう、1879年(明治12年)5月13日) - 1965年(昭和40年)10月17日)は、愛知県碧海郡鷲塚村(現・碧南市)出身の医師(医学博士)。 1879年(明治12年)5月13日、近藤坦平の三男として生まれた。1903年(明治36年)、義兄である近藤次繁の妹としと結婚した。兄ふたりと弟(坦平の長男・二男・四男)は幼くして病没しており、三男である乾郎が近藤家の家督を継いでいる。 1904年(明治37年)に大阪高等医学校(現・大阪大学医学部)を卒業し、京都帝国大学医化学教室などで研究活動を行った後、1908年(明治41年)からドイツとオーストリアのウィーン大学に留学した。