城野 節子(じょうの せつこ、1914年10月21日 - 2… 城野 節子(じょうの せつこ、1914年10月21日 - 2002年1月22日)は、日本のフランス文学者。 中国・瀋陽市生まれ。九州帝国大学法文学部仏文科卒。九州大学教養部助教授、教授を務め、1978年定年退官、名誉教授。スタール夫人を専門とした。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、文学に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJライトノベル)。 項目が小説家・作家の場合には {{Writer-stub}} を、文学作品以外の本・雑誌の場合には {{Book-stub}} を貼り付けてください。
野村 義一(のむら ぎいち、1914年10月20日 - 20… 野村 義一(のむら ぎいち、1914年10月20日 - 2008年12月28日)は、北海道ウタリ協会理事長。 1914年、胆振の白老村に生まれる。幼少期から父親はおらず、母の野村ミツの元で育つ。母方の野村家は、白老の『コタンコロクル』(首長)の家系である。 1935年(昭和10年)、日本軍の第7師団月寒歩兵第25連隊に入隊する。1936年、白老漁協会に就職する。1939年、再び日本軍に徴兵されたが、1940年、除隊となった。1943年(昭和18年)、3度目の徴兵を受けた。1945年、樺太にてソ連軍に抑留されたが、1948年、引き揚げた。1949年に、白老漁業協同組合の専務理事となる。 1955年に、白老町議会議員に当選する。
曽野 明(その あきら、1914年10月19日 - 1995… 曽野 明(その あきら、1914年10月19日 - 1995年9月22日)は、日本の外交官、外交評論家。位階は正三位。 兵庫県芦屋市出身。1937年東京帝国大学法学部政治学科中退。同年外務省に入り、調査局第二課長、情報文化局第一課長、ソ連課長、在ドイツ大使館参事官、在シカゴ、在ベルリン総領事を歴任し、1961年情報文化局長、1966年駐ユーゴスラビア大使、1969年駐パキスタン大使を経て、1972年駐西ドイツ大使に就任。1975年退官し、評論家となる。1995年叙正三位。
西条 凡児(さいじょう ぼんじ、1914年〈大正3年〉10月… 西条 凡児(さいじょう ぼんじ、1914年〈大正3年〉10月17日 - 1993年〈平成5年〉5月31日)は、日本の漫才師、漫談師、放送タレント。本名:河内 弘明。 毒舌と鋭い社会風刺を売り物にした漫談で知られ、戦後の民間放送誕生初期に人気を博した。 大阪府大阪市生まれ。旧制浪華商業学校卒業、関西大学専門部中退。最初、五代目笑福亭松鶴に弟子入りするが芸人を志し、来阪した古川ロッパや初代大辻司郎に弟子入り志願をしたが断られ、知人の紹介で当時「漫談屋」と称していた花月亭九里丸の内弟子となる。「西条」の亭号は九里丸のペンネーム「西条ちかし」および西条八十から、「凡児」は麻生豊の漫画『只野凡児』から取ったとされる。
森谷 良平(もりや りょうへい、1914年10月16日 - … 森谷 良平(もりや りょうへい、1914年10月16日 - 1992年10月2日)は、静岡県出身のプロ野球選手。ポジションは一塁手。
志村 敏夫(しむら としお、1914年10月13日 - 19… 志村 敏夫(しむら としお、1914年10月13日 - 1980年7月7日)は、日本の脚本家、映画監督である。 1914年(大正3年)10月13日、静岡県志太郡島田町(現在の同県島田市)に生まれる。 1936年(昭和11年)、22歳になるころ、高田稔の高田プロダクションと新興キネマが共同製作した牛原虚彦監督の『五々の春』に脚本参加する。1940年(昭和15年)には、東宝映画に所属し、斎藤寅次郎監督作の脚本を書いた。 第二次世界大戦後、1947年(昭和22年)、新東宝設立に参加、萩原遼監督『大江戸の鬼』でチーフ助監督を務める。1948年(昭和23年)、同社と竹井プロダクションの共同製作作品『群狼』で監督としてデビューする。
小林 友一(こばやし ゆういち、1914年(大正3年)10月… 小林 友一(こばやし ゆういち、1914年(大正3年)10月12日 - 1984年(昭和59年)3月12日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は少佐。 1914年(大正3年)10月に千葉県君津郡周南村に大古範蔵の末子(5男1女)として生まれる。 1927年(昭和2年)4月に東京府立第六中学校入校(同級生に千葉県知事を務めた友納武人がいる)、同年5月に小林信一(14期)の養子となる。養父・信一は、1919年(大正8年)当時に歩兵第57聯隊副官(歩兵大尉)として、聯隊長林銑十郎歩兵大佐(8期)に仕えた。のちに林銑十郎の三男・礪三(終戦時は第316師団参謀、少佐、46期)は近衛歩兵第1聯隊附として、小林と同聯隊で勤務している。
猪 初男(いの はつお、1914年〈大正3年〉10月9日 -… 猪 初男(いの はつお、1914年〈大正3年〉10月9日 - 1999年〈平成11年〉9月11日)は、日本の耳鼻咽喉科学者、耳鼻咽喉科医。医学博士。第8代新潟大学学長。新潟大学名誉教授。 新潟県東蒲原郡上条村大字両郷(現 阿賀町両郷)出身。 新潟師範学校附属小学校を経て、1931年(昭和6年)3月に新潟中学校を4年で修了(四修)、1934年(昭和9年)3月に新潟高等学校を卒業、1938年(昭和13年)3月に新潟医科大学を卒業。 1939年(昭和14年)7月に海軍軍医中尉に任官、海軍軍医学校の教官として全国各地出身の軍医の養成に努め、海軍省に勤務していた時に太平洋戦争が終戦、最終階級は海軍軍医少佐、戦後、復員省に勤務。
高野 フミ(たかの フミ、女性、1914年10月8日 - 2… 高野 フミ(たかの フミ、女性、1914年10月8日 - 2013年12月7日)は、日本の英文学者。 兵庫県生まれ。旧姓・河瀬。1936年津田英学塾卒業。37年同校教諭、47年津田塾大学助教授、1954年ラドクリフ大学大学院修士課程修了。56年津田塾大教授、83年定年退任、名誉教授、津田塾会理事長。1980 - 83年国際大学婦人連盟(IFUW)会長。1985年勲三等瑞宝章受勲。専門はアメリカ文学だが、女性解放、女子教育などに関心が深かった。
岩崎 勝太郎(いわさき かつたろう、1914年10月8日 -… 岩崎 勝太郎(いわさき かつたろう、1914年10月8日 - 1991年5月10日)は、日本の実業家・経営コンサルタントで、元岩崎勝商事社長。三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎の孫として東京都に生まれた。学歴は東京帝国大学法学部政治学科卒業。称号(現学位)は法学士(東京大学)。岩崎勝太郎の父・岩崎豊弥は郷純造の四男として生まれ、数え2歳で弥太郎の養子となった。 祖父の弥太郎に似て事業旺盛な人物として知られ、勝太郎が社長を務めた岩崎勝商事(のちに岩崎商事と改称)は三菱商事の契約の代行をする企業として隆盛をきわめた。だが資金難に陥ったため1979年に岩崎商事を清算し、勝太郎は経営コンサルタントに転身した。
長谷部 慶治(はせべ けいじ、1914年10月8日 - 没年… 長谷部 慶治(はせべ けいじ、1914年10月8日 - 没年不詳)は、山形県酒田市出身の脚本家、映画監督。 別名義に長谷部慶次がある。ただし、録音技師の「長谷部 慶治」は当記事人物ではない、同姓同名の別人である。 1914年10月8日、山形県酒田市に生まれる。 1945年製作の『娘道成寺』で脚本を担当したが、本作は劇場未公開となった。 次作となった1953年7月28日公開の『明日はどっちだ』では監督を担当し、以後監督と脚本で映画やテレビ作品の多くを手掛けた。 1963年11月16日公開で今村昌平と共同脚本を担当した『にっぽん昆虫記』が1963年度第14回ブルーリボン賞を受賞するなど、受賞歴も数多い。
ピストン堀口(ピストンほりぐち、1914年(大正3年)10月… ピストン堀口(ピストンほりぐち、1914年(大正3年)10月7日 - 1950年(昭和25年)10月24日)は、日本のプロボクサー。本名:堀口 恒男(ほりぐち つねお)。栃木県真岡市出身。昭和初期における日本ボクシング界の象徴的存在で「拳聖」と呼ばれた。元日本フェザー級・東洋フェザー級および日本ミドル級王者。次兄から順に、基治、宏(元日本バンタム級チャンピオンの堀口宏)、喬久という堀口4兄弟(いずれもプロボクサー)の長兄。孫は元ボクサーの堀口昌彰で、日本ライト級2位に格付けされていた。現在はピストン堀口道場の指導者を務める。 「ピストン堀口」の呼称は正式なリングネームではなく、あくまで本名の堀口恒男が正式なリングネームなのだが、いつの頃からか「ピストン・堀口恒男」との異名が新聞記事などで使われるようになり、一般に「ピストン堀口」の呼称が定着してしまった。
保科 光正(ほしな みつまさ、1914年(大正3年)10月7… 保科 光正(ほしな みつまさ、1914年(大正3年)10月7日 - 1945年(昭和20年)4月1日)は、昭和期戦前の外交官、華族。幼名・正虎。 子爵・保科正昭の長男として生まれる。幼名は正虎であったが、1934年(昭和9年)12月6日に光正に改名した。 東京高等学校を経て、1937年(昭和12年)東京帝国大学法学部を卒業。同年10月、高等試験外交科試験に合格し、外務省に入省して英国書記生に発令されて渡英した。 以後、外交官補、外交事務官を歴任。1942年(昭和17年)11月、大東亜省が設置され同事務官に転じた。支那事務局総務課在勤となり在支渉外事務を担当。大臣秘書官事務取扱、兼大臣秘書官も務めた。
今井 功(いまい いさお、1914年(大正3年)10月7日 … 今井 功(いまい いさお、1914年(大正3年)10月7日 - 2004年(平成16年)10月24日)は、日本の物理学者(流体力学)。理学博士(論文博士・1943年)。文化勲章受章者。航空機の飛行に関係した空気力学の基礎理論において大きな業績を上げた。 1914年に関東州大連に生まれ、神戸市で育った。幼少時より学業に秀で、跳び級制度により小学校5年修了で第一神戸中学校に入学した。1年の飛び級で卒業し、旧制第一高等学校を経て東京帝国大学理学部物理学科で寺沢寛一教授に師事、1936年に卒業。 卒業してからは、しばらく大阪帝国大学理学部の友近晋教授のもとで助手を務め、2年半のちに東大へ講師として戻り、1942年に助教授、1950年に教授に昇進した。
安達 英三朗(あだち えいざぶろう、1914年10月6日 -… 安達 英三朗(あだち えいざぶろう、1914年10月6日 - 1992年4月3日)は日本映画のプロデューサー。神奈川県横浜市出身。 1937年に東宝映画配給に入社、その後東宝発足と同時に会計課長となる。1947年に新東宝設立と同時に監査役となる。1949年に取締役企画部長となる。1952年よりプロデューサーとして活躍。 この項目は、映画関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ映画)。
大津 慶吾(おおつ けいご、1914年(大正3年)10月4日… 大津 慶吾(おおつ けいご、1914年(大正3年)10月4日 - 1990年(平成2年)1月15日)は、日本の実業家。元北海道放送会長。 1914年(大正3年)10月4日、北海道函館市に生まれる。 1949年(昭和24年)、法政大学を卒業。 1951年(昭和26年)、北海道新聞東京総局長の野口小太郎の推薦により、北海道放送に入社。1961年(昭和36年)、取締役に就任。1964年(昭和39年)常務に就任。1975年(昭和50年)、副社長に就任。1979年(昭和54年)、社長に就任。1984年(昭和59年)、会長に就任。 1990年(平成2年)1月15日、死去、75歳没。 1988年(昭和63年)に第26回衣笠賞を受賞している。
兼清 正徳(かねきよ まさのり、1914年10月3日 - 2… 兼清 正徳(かねきよ まさのり、1914年10月3日 - 2018年4月22日)は、日本の国文学者。 山口県生まれ。1939年九州帝国大学法文学部国史学科卒。山口県立岩国高等学校教諭などののち、1966年山口県立文書館長、1983年徳島文理大学教授を務め、1990年退任。桂園派の歌人を研究した。
大上 司(おおかみ つかさ、1914年10月2日 - 199… 大上 司(おおかみ つかさ、1914年10月2日 - 1993年5月)は、日本の政治家。衆議院議員(5期)。兵庫県上郡町出身。 1932年兵庫県上郡農学校(現・兵庫県立上郡高等学校)卒業、1935年関西大学経済学部卒業、1942年立命館大学法経学部経済学科卒業。 1937年に大蔵省官吏(阪神地区税務署近畿財務局)となった後、1941年産経新聞社入社。内外財務研究所理事長などを経て、1947年の第23回衆議院議員総選挙にて、民主党公認で兵庫県第4区(姫路市、相生市、飾磨郡、神崎郡、揖保郡、赤穂郡、佐用郡、宍粟郡)より出馬し初当選。 以後、民主自由党、自由党、自由民主党と変遷し、通算当選5回。その間、1958年の第28回衆議院議員総選挙では当選したものの、公職選挙法違反を問われた。
早川 武夫(はやかわ たけお、1914年10月2日 - 20… 早川 武夫(はやかわ たけお、1914年10月2日 - 2006年3月10日)は、愛知県出身の英米法学者、神戸大学名誉教授。 1944年、東京帝国大学文学部卒。1947年、同法学部卒。1950年 - 1953年、ミシガン大学で在外研修。神戸大学法学部助教授、1962年「司法過程の実証的研究」で法学博士、教授。1978年定年退官、名誉教授、専修大学教授。1985年退職。 1987年、勲三等旭日中綬章を受章。2006年3月10日、肺炎のため死去。
横山 和夫(よこやま かずお、1914年〈大正3年〉10月2… 横山 和夫(よこやま かずお、1914年〈大正3年〉10月2日 - 1999年〈平成11年〉5月13日)は、日本の官僚、政治家。横須賀市長(1973年 - 1993年、5期20年)。位階は従四位。 広島県比婆郡東城町(現・庄原市)出身。1942年(昭和17年)広島文理科大学卒業。翌1943年(昭和18年)高文行政科合格後、消防庁総務課長、自治庁官房調査官、滋賀県教育長を歴任した。1961年(昭和36年)10月20日に横須賀市助役となった。長野正義市長下で3期務め1972年(昭和47年)、米国側から出された空母ミッドウェイの母港化要望に対して、外務省その他関係機関との交渉を担当し、米軍提供水域の返還などを条件に、米軍母港化受け入れ決定の中心的役割を果たした。
坪井 俊映(つぼい しゅんえい、1914年(大正3年)10月… 坪井 俊映(つぼい しゅんえい、1914年(大正3年)10月2日 - 2010年(平成22年)9月6日)は、日本の仏教学者・浄土宗僧侶(浄土門主、大僧正)。浄土三部経に関する著書多数。 1914年、京都府に生まれた。1935年、京都市の長徳寺住職に就任。龍谷大学仏教学科で学び、1941年に修了した。 戦後の1956年、佛教大学教授に就いた。1979年、佛教大学佛教文化研究所長に就任。1980年、学位論文『法然浄土教の研究:伝統と自証について』を佛教大学に提出して文学博士号を取得。1988年、浄土宗勧学。1992年に佛教大学を退職し、名誉教授となった。 2010年(平成22年)9月6日、心不全のために遷化。
梅澤 濱夫(うめざわ はまお、1914年10月1日 - 19… 梅澤 濱夫(うめざわ はまお、1914年10月1日 - 1986年12月25日)は、日本の医学者、細菌学者、文化勲章受章者。 福井県小浜市生まれ。旧制武蔵高等学校を経て、東京帝国大学医学部卒業。卒業後、当時の東京帝国大学医学部細菌学教室、東京帝国大学付属伝染病研究所に勤務。1947年国立予防衛生研究所設立とともに初代抗生物質部長に就任。1954年以降は、東京大学応用微生物研究所教授(兼務)となる。 ペニシリンの国産化に尽力し、1956年、国産初の抗生物質カナマイシンを発見、精製。カナマイシンは、ストレプトマイシンの効きにくい耐性菌にも効果のある抗生物質として世界的に用いられた。当時の厚生大臣橋本龍伍の計らいにより、このカナマイシンの特許料を基金として、1959年財団法人微生物化学研究会を設立、理事長に就任。
佐藤 光夫(さとう みつお、1914年(大正3年)10月1日… 佐藤 光夫(さとう みつお、1914年(大正3年)10月1日 - 1997年(平成9年)7月17日)は、日本の運輸官僚、海上保安官。海上保安庁長官や運輸事務次官等を務めた後に、京成電鉄第6代社長として京成グループを率い、経営危機に陥っていたグループの再建を成功させた。敬虔なクリスチャンとしても知られた。1987年勲二等旭日重光章受章。 長野県諏訪郡上諏訪町(現:諏訪市)出身。旧制諏訪中学(長野県諏訪清陵高等学校)を経て旧制東京商科大学(一橋大学の前身)卒業後、実業に関係のありそうな省庁を希望し、鉄道省入省(大鉄局書記)。同期入省の木村睦男(元参議院議長)は、佐藤を「若いころからまじめを絵にかいたような男だった」と評する。
梅澤 濱夫(うめざわ はまお、1914年10月1日 - 19… 梅澤 濱夫(うめざわ はまお、1914年10月1日 - 1986年12月25日)は、日本の医学者、細菌学者、文化勲章受章者。
八十島 信之助(やそしま しんのすけ、1914年(大正3年)… 八十島 信之助(やそしま しんのすけ、1914年(大正3年)10月1日 - 1990年(平成2年)7月16日)は、日本の法医学者。札幌医科大学名誉教授。 東京府出身。慶應義塾幼稚舎、慶應義塾普通部を経て、1938年に慶應義塾大学医学部を卒業。 東京都監察医として、1949年の下山事件で検視を行う。1951年「感電死の研究」で慶應義塾大学医学博士。慶應義塾大学講師。 1961年札幌医科大学教授。1985年定年退職、名誉教授。多くの司法解剖を行った。 1990年7月16日、死去。75歳没。 父は実業家の八十島親徳。岳父は医学者の川村麟也。兄に実業家の八十島親義、弟に土木工学者で東京大学名誉教授の八十島義之助。
加賀 大介(かが だいすけ、1914年〈大正3年〉10月1日… 加賀 大介(かが だいすけ、1914年〈大正3年〉10月1日 - 1973年〈昭和48年〉6月21日)は、石川県能美郡根上町(現能美市)生まれの作詞家。出生名・中村 義雄。後に本名をペンネームの一つでもあった加賀大介に改名。 1948年に朝日新聞が募集した全国高等学校野球選手権大会の大会歌に、婚約者(後に妻)であった当時23歳の金沢地方貯金局職員・高橋道子(結婚後は中村道子)の名前を借りて「加賀道子」の筆名で応募し、5,252篇の中から選ばれた。この歌は『栄冠は君に輝く』として知られる。 妻の名前を借りて応募したのは、当時加賀が短歌や演劇の会を主宰し、脚本を書いていたプロの文筆家であったため「懸賞金目当て」と思われるのが嫌だったからである。
川松 鍵三(かわまつ けんぞう、1914年〈大正3年〉10月… 川松 鍵三(かわまつ けんぞう、1914年〈大正3年〉10月 - 没年不明)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚、拓務官僚。 愛知県出身。第八高等学校を卒業。1939年(昭和14年)10月、高等試験行政科試験に合格。1940年(昭和15年)3月東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、同年台湾総督府殖産局兼拓務省殖産局勤務となる。ついで、総督府官房審議室に転じ、1941年(昭和16年)6月、地方理事官に進み、高雄州恒春郡守に就任し、1942年(昭和17年)8月、台南州教育課長に転じた。 戦後は、愛知県文書課長、愛知労働基準局労災補償課長、徳島県経済部長、同県商工水産部長、東京事務所長、兵庫労働基準局次長、奈良労働基準局長、大阪労働基準局次長、公共企業体等労働委員会事務局名古屋支局長を歴任した。
高木 博(たかぎ ひろし、1914年(大正3年)10月 - … 高木 博(たかぎ ひろし、1914年(大正3年)10月 - 没年不明)は、日本の国文学者、神奈川県立外語短期大学名誉教授。 1940年東京帝国大学文学部国文科卒、文部事務官、明治大学講師、相模女子大学教授、神奈川県立衛生短期大学教授、神奈川県立外語短期大学教授、学長。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
辻 亮一(つじ りょういち、1914年9月28日 - 201… 辻 亮一(つじ りょういち、1914年9月28日 - 2013年3月6日)は、日本の小説家。 滋賀県神崎郡南五個荘村金堂(現在の東近江市五個荘金堂町)生まれ。従兄に画家の野口謙蔵がいる。呉服商・辻市左衛門の五男で、父に謡曲を習う。 八日市中学校、早稲田第二高等学院を経て、1937年早稲田大学文学部フランス文学科卒業。高等学院在学中、八木義徳、多田裕計、中村八朗らと同人雑誌『黙示』を創刊。大学卒業後は満洲に渡り、東満洲鉄道の親会社である東満洲産業に勤務した。 敗戦に伴い、中国共産党軍に抑留され、妻を失う。1948年に帰国した後に再婚し、長浜ゴム(のち三菱樹脂)に勤務。1949年、中国共産党の手榴弾工場で徴用された経験を描いた「異邦人」を書く。
小松 伸六(こまつ しんろく、1914年9月28日 - 20… 小松 伸六(こまつ しんろく、1914年9月28日 - 2006年4月20日)は、日本のドイツ文学者、文芸評論家。筆名・内海伸平。 北海道釧路生まれ。東京帝国大学卒。第四高等学校(金沢)教授を務めた。ゲーテ論、トーマス・マンの翻訳などを行うかたわら、1941年、第五次『赤門文学』を主宰。戦後は立教大学教授。久保田正文、林富士馬、駒田信二らと『文學界』の同人雑誌評を担当、原田康子らを発掘した功績で1979年、菊池寛賞受賞、81年、『美を見し人は』で芸術選奨文部大臣賞受賞。 岐阜県海津市の海津市海津図書館の文学同人誌を収集する施設「日本現代紙碑文学館」は、小松伸六の1万5千冊の寄贈が基礎となり、1976年(昭和51年)4月に設立されている。
渋谷 巌(しぶや いわお、1914年9月28日 - 2003… 渋谷 巌(しぶや いわお、1914年9月28日 - 2003年12月13日)は、日本の航空技術者。中島飛行機の課長、東北大学の教授、富士重工業の常務などを務めた。戦前は一〇〇式重爆撃機「呑龍」の構造設計、超大型爆撃機「富嶽」の開発など、戦後はジェットエンジン「JO-1」の開発などを手掛けた。 旧制富山高校を経て、東京帝国大学に入学した。とくに航空を好きなわけではなかったが、数学が好きで難しいなら受けようと思い、難関の航空学科に受験したという。教師からは難しいが、渋谷なら入れるだろうと言われたという。1937年(昭和12年)3月、東京帝国大学工学部航空学科を卒業。同期は東條輝雄、内藤子生、高山捷一などで「花の十二年組」と呼ばれた。
茂木 佐平治(もぎ さへいじ、1914年 <大正3年> 9月… 茂木 佐平治(もぎ さへいじ、1914年 <大正3年> 9月28日 - 1990年 <平成2年> 6月5日)は、日本の経営者。キッコーマン社長、会長を務めた。同社創業家の茂木家(野田の醤油醸造#茂木一族)出身で10代目茂木佐平治。旧名・茂木資一郞。千葉県出身。位階は従四位。 9代目茂木佐平治の長男・資一郞として生まれる。母親の淑江も茂木一族で茂木房五郎 (5代)の妹。1938年に東京帝国大学経済学部商業学科を卒業し、同年に野田醤油(のちのキッコーマン)に入社。1952年に取締役に就任し、1974年には社長に就任。1980年3月に取締役に就任。 1979年11月に藍綬褒章を受章し、1984年11月に勲三等旭日中綬章を受章。
大塚 耕二(おおつか こうじ、1914年(大正3年)9月28… 大塚 耕二(おおつか こうじ、1914年(大正3年)9月28日 - 1945年(昭和20年)7月30日)は、洋画家、前衛芸術家日本前衛絵画の草分け的存在として評価される画家の一人である。 熊本県菊池市隈府下町の大塚書店の次男として生まれる。旧制鹿本中学(現在の熊本県立鹿本高等学校)を卒業後、帝国美術学校の学生であった、坂本善三(後に抽象画家となる)に師事する。 1934年、帝国美術学校西洋画科(現武蔵野美術大学)に入学。 1935年、浅原清隆、小田正春、森堯之ら学生仲間と絵画グループ「表現」を結成、同年、創立者兼初代校長で後に政治家・衆議院議員へ転身する北昤吉と学生らの対立より起きた同盟休校事件(学生ストライキ)が発生し、帝国美術学校より多摩帝国美術学校(現多摩美術大学の前身)が分離独立。
宇野 重吉(うの じゅうきち、1914年〈大正3年〉9月27… 宇野 重吉(うの じゅうきち、1914年〈大正3年〉9月27日 - 1988年〈昭和63年〉1月9日)は、日本の俳優、演出家、映画監督。本名:寺尾 信夫(てらお のぶお)。 宇野は第二次世界大戦前から戦後にかけて長く演劇界をリードしてきた名優の1人であり、滝沢修らと劇団民藝を創設した。飄々とした風貌と軽妙な演技を持ち味とし、『ゴドーを待ちながら』『夕鶴』などの舞台に出演。演出家としても多くの作品を残しており、リアリズムを基調とした近代的な芸を追求した。映画・テレビでも活躍し、主な映画出演作に『愛妻物語』『第五福竜丸』『金環蝕』など。映画監督として4本の作品も発表している。宇野重吉の芸名は、中野重治と鈴木三重吉に由来している。
名寄岩 静男(なよろいわ しずお、1914年9月27日 - … 名寄岩 静男(なよろいわ しずお、1914年9月27日 - 1971年1月26日)は、北海道名寄市出身(出生地は北海道小樽市)で立浪部屋に所属した大相撲力士。本名は岩壁 静雄(いわかべ しずお)。最高位は西大関。 1914年9月27日、北海道高島郡高島村で家伝の灸と鍼を用いた治療業を営む家に生まれる(母は鍼灸師の免許を持っていなかったため正式な開業はできなかったとも伝わる)。生後10ヵ月くらいの時に、岩壁家は名寄町に移住し、もう1つの家業である小さな養豚業を営んでいた。 6人兄弟の長男である静雄少年は馬にリアカーを引かせて町内の旅館などから豚の餌となる芋の皮や残飯を貰い受けていた。幼少期から体格が良く、街で彼の姿を見かけた人々は、「静夫少年が馬より大きく見え、馬を引いていたように見えた」と語る。
藤代 七郎(ふじしろ しちろう、1914年(大正3年)9月2… 藤代 七郎(ふじしろ しちろう、1914年(大正3年)9月27日 - 1999年(平成11年)5月25日)は、日本の政治家。自民党所属。千葉県船橋市長(第12 - 13代)。位階は従五位。 千葉県千葉郡豊富村(現在の船橋市古和釜町)出身。父・藤代清七は、旧豊富村長を務めた。前船橋市長の藤代孝七は実子。強固な後援会『南風会』を組織し、渡辺三郎市長を破って初当選。船橋市長在任中、千葉県市長会会長を務めた。1999年死去。死没日付をもって従五位に叙された。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
河津 憲太郎(かわつ けんたろう、1914年(大正3年)9月… 河津 憲太郎(かわつ けんたろう、1914年(大正3年)9月26日 - 1970年(昭和45年)3月24日)は、日本の水泳選手。1932年ロサンゼルスオリンピック100メートル背泳ぎで銅メダルを獲得。明治大学出身。
安田 博(やすだ ひろし、1914年 <大正3年> 9月26… 安田 博(やすだ ひろし、1914年 <大正3年> 9月26日 - 1981年 <昭和56年> 4月22日)は、日本の経営者。大阪ガス社長を務めた。位階は従三位。 京都府八幡市出身。1937年に大阪商科大学を卒業。阪神電気鉄道での勤務を経て、1945年に大阪ガスに転じ、1963年8月に取締役に就任。常務、専務、副社長を経て、1974年9月に社長に就任した。 日本ガス協会副会長、関西経済連合会常任理事、大阪商工会議所副頭取も務めた。 1974年10月に藍綬褒章を受章した。 1981年4月22日、脳内出血のために死去。66歳没。死没日付をもって従七位から従三位に進階した。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
渡辺 武雄(わたなべ たけお、1914年9月24日 - 20… 渡辺 武雄(わたなべ たけお、1914年9月24日 - 2008年3月17日)は、日本の演出家、振付家。第二次世界大戦後、長く宝塚歌劇団で活動し、名誉理事となった。 台湾の台北市生まれ。 1933年、関西学院大学に入学して劇研究会に所属し、同期生であった高木史朗に紹介された白井鐵造の助言で、出口秀子に師事してバレエを学ぶ。 1938年、大学を中退して上京し、高木史朗に紹介された日劇ダンシングチームの振付家・益田隆の助手となり、1940年には東宝舞踊隊公演『燃ゆる大地・台湾』で、初めて本格的な演出を手がけた。 その後、活動の拠点を東京から大阪へ移し、大阪松竹少女歌劇団 (OSK) を経て、1946年に大阪・梅田劇場の東宝ダンシングチーム設立に参画するとともに、関西学院大学に復学して1949年に卒業した。
清水 天山(しみず てんざん、1914年9月24日 - 20… 清水 天山(しみず てんざん、1914年9月24日 - 2001年11月26日)は、日本の書道家。熊本で活躍した。「日本の書道会」を発足させ、会長を務めた。本名、清水 正隆。 清水天山の五男で手島右卿より直接指導を受けた清水隆治は清水天山の書を4期に分けている。第1期はしっかりとした土台を作った時期で、臨書修練の中心は草書十七帖(じゅうしちじょう)であった。この時期の基礎力養成が書家として大きな土台をつくった。第2期は、手島右卿に師事し、当時としては極めて難関の日本美術展に連続入選を果たしている。古典を土台としながら、多字数作を試行した時代で、男性的力強さで一貫している濃墨作がある。第3期は手島右卿が傑作を発表した時期に、その理念に共感して、一字作品を世に問うた。
難波 桂芳(なんば けいほう、1914年(大正3年)9月24… 難波 桂芳(なんば けいほう、1914年(大正3年)9月24日 - 2009年(平成21年)12月28日)は、昭和から平成時代の安全工学者。専門は化学安全工学、燃料工学、反応化学。 1940年(昭和15年)3月、東京帝国大学工学部火薬学科を卒業後、海軍火薬廠を経て,1942年(昭和17年)11月、東京帝国大学第一工学部火薬学科助教授、1963年(昭和38年)6月、同大学教授となり火薬学第二講座(製造火薬学)を担当。ほか燃料工学第二講座(高速燃料学)、反応化学第二講座(反応性物質化学)を担任した。1975年(昭和50年)4月1日、定年退官、東京大学名誉教授の称号を受ける。 学術分野ではほかに、日本学術会議安全工学研究連絡委員会、安全工学協会(現・安全工学会)、工業火薬協会(現・火薬学会)、日本化学会、日本火災学会などで会長、副会長、理事、評議員などを歴任する。
嶋崎 昌(しまざき あきら、1914年9月24日 - 197… 嶋崎 昌(しまざき あきら、1914年9月24日 - 1974年3月3日)は、昭和時代の歴史学者。元中央大学学長。専門は、中央アジア史。特に高昌国史を研究。 1914年、富山県上新川郡島村(現・富山市)で生まれた。幼くして小学校教諭の父の転勤に伴い、朝鮮半島で育った。1934年3月、京城帝國大学予科を卒業。京城帝国大学法文学部史学科に進学し、1937年3月に卒業。 1937年4月、京城帝国大学法文学部助手に採用された。その際の指導教授は大谷勝真であった。その後、北京の中央亜細亜協会調査員として勤務。1944年に赤紙招集に伴い、邯鄲に拠点を置いた独立混成第1旅団に入隊。1946年に復員。 1947年6月、明星中学校に教諭として勤務。
東條 輝雄(とうじょう てるお、1914年(大正3年)9月2… 東條 輝雄(とうじょう てるお、1914年(大正3年)9月23日 - 2012年(平成24年)11月9日)は、昭和期の日本の航空技術者、実業家。 陸軍大将・第40代内閣総理大臣:東條英機の次男として東京府東京市(現東京都)にて出生。東京府立第六中学校、旧制福岡高等学校を卒業。当初は数学が好きなので数学の先生になることを考え、大学受験時に父に相談すると、飛行機を勧められ、航空学科を選択した。1937年(昭和12年)3月、東京帝国大学工学部航空学科を卒業。同期は高山捷一、内藤子生、渋谷巌などで「花の十二年組」と呼ばれた。三菱重工業に入社し、名古屋航空機製作所に勤務。ゼロ戦の設計チームに配属され、強度計算を担当した。
赤尾 庸吉(あかお ようきち、1914年〈大正3年〉9月22… 赤尾 庸吉(あかお ようきち、1914年〈大正3年〉9月22日 - 2005年〈平成17年〉10月6日)は、元聖マリアンナ医科大学副理事長。 財団法人聖マリアンナ会、財団法人日本明星育英会、聖マリアンナ医科大学の創立者で理事長を務めた明石嘉聞とともに、同大学、グループ創立に尽力した。 大正3年(1914年)9月22日、京都市に生まれた。京都教育大附属小学校、京都一中、松江高等学校、京都帝国大学理学部物理学科を卒業した。東京芝浦電気研究所に入所した。 太平洋戦争終戦後、庸吉の姉・田鶴子 が明石嘉聞 に嫁いでいた縁で、明石に請われて聖マリアンナ会設立に参画した。その後、財団法人聖マリアンナ会理事長、東横病院事務長、聖マリアンナ医科大学副理事長、聖マリアンナ東横惠愛病院理事長、明星育英会理事を歴任した。
北条 民雄(ほうじょう たみお、旧字体:北條 民雄、1914… 北条 民雄(ほうじょう たみお、旧字体:北條 民雄、1914年(大正3年)9月22日 - 1937年(昭和12年)12月5日)は、徳島県出身の小説家。ハンセン病となり隔離生活を余儀なくされながら、自身の体験に基づく作品「いのちの初夜」などを遺した。本名:七條 晃司(しちじょう てるじ)。 1914年9月、日本統治時代の朝鮮の首都京城(現・ソウル)に生まれる。生後間もなく母親と死別し、徳島県阿南市下大野町に育つ。 1932年に結婚。1933年、19歳のとき、ハンセン病を発病し破婚。翌1934年、東京府北多摩郡東村山村の全生園に入院。入院後、創作を開始した。川端康成に書簡を送って原稿の閲読を乞い、以降は川端に師事する。
松永 行(まつなが あきら、1914年9月21日 - 194… 松永 行(まつなが あきら、1914年9月21日 - 1943年1月20日)は、静岡県志太郡出身のサッカー選手。ポジションはフォワード。 静岡県志太郡東益津村(現焼津市)出身。松永信夫、松永碩は実弟。静岡県立志太中学校(現:静岡県立藤枝東高等学校)に入学してサッカー部に所属した。なお、笹野積次は志太中での1年先輩に当たる フォワードを務め、100メートルを10秒8台で走る俊足であったという。東京文理科大学附置東京高等師範学校に入学し、蹴球部に所属。在学中の1935年6月に開催された全日本蹴球選手権大會(第15回天皇杯全日本サッカー選手権大会)に中垣内勝久らと出場して準優勝の成績を残した。 1936年のベルリンオリンピックの日本代表に選出。
古川 勝巳(ふるかわ かつみ、1914年9月21日 - 19… 古川 勝巳(ふるかわ かつみ、1914年9月21日 - 1986年7月12日)は日本ヘラルド映画代表取締役社長。本名は古川 一巳(ふるかわ かつみ)。愛知県名古屋市中区出身。父はヘラルドグループ創業者の古川為三郎。 出生地は名古屋市であったが、父の経営する古川商店の東京進出の関係で東京に住み、橋本小学校に入学する。しかし、関東大震災を機に父が東京支店を畳むことになったため、南久屋小学校(現・名古屋市立栄小学校)に転入した。1927年に愛知県惟信中学校に入学し、1931年に名古屋高等商業学校へと進んだ。1935年に同校を卒業すると同時に資生堂に入社。1939年に結婚した。1956年に父親が立ち上げたヘラルド映画の設立に参加、同社初代代表取締役社長となる。
上山 善紀(うえやま よしのり、1914年9月21日 - 2… 上山 善紀(うえやま よしのり、1914年9月21日 - 2009年8月25日)は実業家。近畿日本鉄道(近鉄)元社長(大阪電気軌道創業から10代目)・会長、近鉄グループの元代表者。
野々 浩介(のの こうすけ、1914年9月21日 - 19… 野々 浩介(のの こうすけ、1914年9月21日 - 1991年6月19日)は、東京市(現:東京都)出身の俳優、声優。 本名は野々山 浩司(ののやま こうじ)。日本大学専門部芸術科映画科卒業。 1936年、東宝映画京都撮影所入社。1938年5月、大阪劇団宝塚ショー入社。1941年12月、ムーランルージュ新宿座に入団し、軽演劇を中心に活動。人生座、ラジオ東京、伊藤事務所、フリーランス期間、新作座、カタバミ事務所、さむらいプロなどに所属。映画、テレビドラマの端役のほか、人形劇やラジオドラマの声優としても活動した。 1991年6月19日、死去。76歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、俳優(男優・女優)に関連した書きかけの項目です。
乾 常美(いぬい つねみ、1914年(大正3年)9月21日 … 乾 常美(いぬい つねみ、1914年(大正3年)9月21日 - 2007年(平成19年)9月18日)は、高知県出身の郷土史家。随筆家。国府史蹟保存会会長、南国史談会会長、南国市文化財審議会委員。清和源氏土岐氏支流乾氏・乾和信の分家の子孫(和信の14世孫)にあたる。板垣退助の監修による『自由党史』を執筆した和田三郎は親戚。 高知県商工会議所業務部長を務めるかたわら、長年に渡って執筆投稿してきた随筆を『生涯雑筆』に収録して出版。さらに続編として『続・生涯雑筆』を上梓。国府史蹟保存会会長として紀貫之邸址の整備と石碑の建立。南国史談会の会長をつとめ、みずから南国市の史跡調査についての研究論文を執筆。また、「乾の大墓」の調査保存に努めた。