斉藤 隆三(斎藤 隆三、さいとう りゅうぞう、1875年(明… 斉藤 隆三(斎藤 隆三、さいとう りゅうぞう、1875年(明治8年)4月6日 - 1961年(昭和36年)4月7日)は、千葉県相馬郡守谷町(現:茨城県守谷市)出身の史学者・文学博士。 明治期より昭和期にかけ風俗史、郷土史、美術史等の執筆を行っていた文学博士で、日本美術院の再興や発展、運営にも深く関わった。 1875年(明治8年)に千葉県相馬郡守谷町(現:茨城県守谷市)に出生。斉藤家は江戸時代の下総国関宿藩領のうち10ヶ村の惣名主を務めた家で、先祖に小林一茶に学んだ俳人斉藤徳左衛門(俳号「若雨」)、長兄に元衆議院議員の斉藤斐がいる。茨城県尋常中学校、旧制二高を経て東京帝国大学国史科卒業。大学在学中に郷里守谷の歴史をまとめた「守谷志」を刊行、1902年(明治35年)に大学卒業以後は、半世紀以上に渡り、美術史や国内の世相史を中心に執筆を行った。
斉藤 隆三(さいとう りゅうぞう、1875年(明治8年)4月… 斉藤 隆三(さいとう りゅうぞう、1875年(明治8年)4月6日 - 1961年(昭和36年)4月7日)は、千葉県相馬郡守谷町(現:茨城県守谷市)出身の史学者・文学博士。
赤羽 巌穴(あかはね がんけつ、1875年4月5日 - 19… 赤羽 巌穴(あかはね がんけつ、1875年4月5日 - 1912年3月1日)は明治時代のジャーナリスト、思想家、社会主義者、無政府主義者。本名は赤羽一(あかはね はじめ)。巌穴は号。 長野県筑摩郡広丘村(現塩尻市)の郷原宿に生まれる。父の名は赤羽無事、母は京。家は下問屋と呼ばれている旧家で、代々郷原宿の問屋場を務めていた。弁護士で衆議院議員まで務めた森山儀文治は叔父に当たる。 郷原宿下問屋の長男に生まれ、16歳で祖父源蔵から家督を相続したが、1893 年(明治26年)家督を弟宜十に譲って、翌1894年(明治27年)上京した。1898年(明治31年)7月、東京法学院(現在の中央大学)を卒業して、神戸新聞社に就職し神戸新聞の記者となり神戸に移るも、1899年東京に戻り、島田三郎の『革新』、松村介石の『警世』の記者となる。
石川 寅治(いしかわ とらじ、明治8年(1875年)4月5日… 石川 寅治(いしかわ とらじ、明治8年(1875年)4月5日 - 昭和39年(1964年)8月1日)は、明治時代から昭和時代にかけての洋画家、版画家。 高知県高知市において石川義忠の長男として、明治8年4月5日生まれる。まず旧制中学時代に上村昌訓について洋画を教わった。明治24年(1891年)に上京し、小山正太郎の不同舎という私画塾に学び、明治26年(1893年)、第5回明治美術会展に「野鴨」を初出品した。明治33年(1900年)のパリ万博にも作品を出品した。翌明治34年(1901年)には明治美術会の組織改革により、新会務委員となって吉田博、満谷国四郎とともに太平洋画会を結成し、水彩画のほか、油絵、素描、木版画、彫刻などを制作し続けた。
小田 幹治郎(おだ みきじろう、1875年(明治8年)4月3… 小田 幹治郎(おだ みきじろう、1875年(明治8年)4月3日 - 1929年(昭和4年)3月1日)は、日本の裁判官。朝鮮総督府官僚。 兵庫県出身。1895年(明治28年)、和仏法律学校(現在の法政大学)邦語法律科を卒業。判事検事登用試験に合格し。司法官試補、長野区裁判所判事・長野地方裁判所判事を務めた。1905年(明治38年)、韓国政府の聘用で、平安北道裁判所法務補佐官、内閣法典調査局事務官、同書記官を務めた。1910年(明治43年)より朝鮮総督府取調局事務官、朝鮮総督府事務官・参事官室勤務、総督官房総務課勤務、中枢院書記官、中枢院調査課長などを歴任。1922年(大正11年)に中枢院書記官長に就任した。
津川 イネ(つがわ イネ、1875年〈明治8年〉4月3日 -… 津川 イネ(つがわ イネ、1875年〈明治8年〉4月3日 - 1986年〈昭和61年〉5月21日)は、長寿日本一であった徳島県の女性。 1875年、徳島県麻植郡木屋平村森遠集落で農林業を営む津川国三郎・マス夫婦の長女として生まれる。 9歳の時、村に小学校が設立され入学したが、入学時の生徒はイネただひとりだけだったという。 永らく独身を貫いていたが、39歳の時に15歳年下の男性(婿養子)と結婚。当時としてはかなりの晩婚であった。その後数人の子どもが生まれたが、二男一女を除いて夭折した。また、1945年には次男と孫(長女の息子)が戦死している。 75歳頃まで、木綿の入手が難しかったこともあり、現在徳島県那賀郡那賀町木頭でしか織られていない、太布織っていたという。
松島寛三郎(まつしま ひろさぶろう、1875年4月1日 - … 松島寛三郎(まつしま ひろさぶろう、1875年4月1日 - 1956年4月22日)は、日本の鉄道技術者・鉄道官僚。京阪電気鉄道常務取締役。 広島県比婆郡口北村(現庄原市)に生まれ、13歳の時に単身同志社中学(現同志社中学校・高等学校)に入学。第一高等中学校経て、1897年(明治30年)卒業。東京帝国大学に合格するが、その年に新設される京都帝国大学に振り分けられた。第一高まで野球部に所属しており、京大在学中に同支社中の野球部のコーチに招聘されている。現在の同志社大学硬式野球部の基礎を作り上げたとも言われる。 京大工学部一期生として1900年(明治33)卒業。同年10月に山陽鉄道に入社し、1906年(明治39)の国有化後は鉄道作業局湊町保線事務所長、北海道鉄道管理局工務課長、名古屋鉄道管理局工務課長等を歴任。
秋田 寅之介(あきた とらのすけ、旧姓・秋富、1875年〈明… 秋田 寅之介(あきた とらのすけ、旧姓・秋富、1875年〈明治8年〉4月1日 - 1953年〈昭和28年〉9月11日)は、日本の政治家(衆議院議員、下関市会議員・同議長)、資産家、実業家。秋田商会社長。族籍は山口県平民。 山口県厚狭郡藤山村(現・宇部市)生まれ。秋富傳五郎の二男。秋富久太郎の弟。11歳の時叔父の許に小僧となり追い使われるが、忠実に働いて僅かな暇にも『立志伝』を読む。 1893年、19歳で先代松次郎の養子となる。1917年、家督を相続する。家業の海運業に従事する傍ら、海陸産物の売買にも事業を拡げる。日清戦争中には食糧・雑貨などを朝鮮、満州方面へ輸送し、戦後は台湾へ木材や食糧を販売して大きな利益を得る。
島田 五空(しまだ ごくう、1875年(明治8年)4月1日 … 島田 五空(しまだ ごくう、1875年(明治8年)4月1日 - 1928年(昭和3年)12月26日)は秋田県山本郡(現・能代市)出身の俳人にして実業家、政治家。本名・島田豊三郎。別号に香車、悟空、五工、山頭火など。 1875年(明治8年)4月1日に父豊三郎、母キヱの次男として現在の能代市畠町に生まれる。幼名は島田長冶郎といい、この島田家は名士の家系であったが父と兄の死により幼くして島田豊三郎の名を継ぐ。小学校卒業の頃にはすでに日本外史、十八史略、三国志、水滸伝などを次々読破するなど大変読書熱心な子供であり、才気煥発、敏捷にとびまわる利巧者ぶりが孫悟空のようだと称されたことが後の雅号の由来となる。
高橋 廣湖(たかはし こうこ、明治8年(1875年)4月1日… 高橋 廣湖(たかはし こうこ、明治8年(1875年)4月1日 - 大正元年(1912年)6月2日)は、日本の明治時代に活動した日本画家。 熊本県鹿本郡山鹿町松坂(現在の熊本県山鹿市)に、浦田長次郎と登喜の長男として生まれる。本名は久馬記(くまき)。長次郎は熊本藩御用絵師の矢野良敬に師事、雪舟の流れをくむ雲谷派に学び、地元山鹿で画塾「観松堂」を開いていた。雪翁・雪長の号を持ち、今でも山鹿周辺の寺社には長次郎が描いた絵馬が多く残っている。初めは父に絵の手ほどきを受け、同じく次弟の一二(号は天鹿)、四男の四郎(号は湖月・廣香)も日本画家になっている。明治25年(1892年)17歳で熊本在住の南画家・犬塚松琴に弟子入りする。
清水 南山(しみず なんざん、1875年〈明治8年〉3月30… 清水 南山(しみず なんざん、1875年〈明治8年〉3月30日 - 1948年〈昭和23年〉12月7日)は、広島県豊田郡能地村(現・三原市幸崎町能地)出身の彫金家。本名、清水 亀蔵(しみず かめぞう)。日本画の大家である平山郁夫の祖母の兄。 広島県出身者としては初めて特待生として東京美術学校(現在の東京藝術大学)に入学した。最初は絵画科(日本画)へ所属していたが、後に彫金科に編入した。彫金科を卒業後に研究科で加納夏雄、海野勝珉に、塑造科で藤田文蔵に学んだ。その後は独自の創作活動を続け、彫金界の第一人者としての地位を築いた。1909年、香川県立工芸学校の教諭になるが、6年余りで退職し、奈良県に住んで法隆寺の古美術を研究した。
小野寺 長治郎(おのでら ちょうじろう、1875年(明治8年… 小野寺 長治郎(おのでら ちょうじろう、1875年(明治8年)3月24日 - 1939年(昭和14年)2月7日)は、日本の陸軍軍人。階級は陸軍主計中将。貴族院議員。
中 亥歳男(なか いさお、1875年〈明治8年〉3月24日 … 中 亥歳男(なか いさお、1875年〈明治8年〉3月24日 - 1944年〈昭和19年〉8月19日)は、日本の政治家。衆議院議員(3期)。 徳島県美馬郡、のちの脇町(現美馬市)で生まれた。神戸市会議員、同参事会員となる。神戸商工会議所議員、副会頭、神戸真田同業組合長、日本麦稈真田同業組合連合会会長、神戸麻真田輸出組合、神戸帽子輸出組合、日本東洋パナマ帽輸出組合連合会各理事長を務めた。 1928年(昭和3年)の第16回衆議院議員総選挙において兵庫1区(当時)から立憲民政党公認で立候補したが落選した。1930年(昭和5年)の第17回衆議院議員総選挙で初当選。以来連続3期務める。1937年(昭和12年)の第20回衆議院議員総選挙で落選した。
有明 吾郎(ありあけ ごろう、1875年3月23日 - 19… 有明 吾郎(ありあけ ごろう、1875年3月23日 - 1943年2月19日)は、現在の長崎県島原市出身で伊勢ノ海部屋に所属した大相撲力士。本名は大家 八五郎(旧姓山中)。最高位は東小結。5代式秀。165cm、123kg。 1894年5月序ノ口。1899年5月十両昇進、1800年代最後の関取のひとりである。1900年5月場所、7勝2敗1休で現在でいう十両優勝にあたる成績をあげる。翌1901年1月場所は番付運なく十両筆頭にとどまるが、翌5場所月に新入幕。1904年1月場所では東8枚目で7勝2敗1休、9日目に駒ヶ嶽に敗れるまで梅ヶ谷、常陸山の両横綱と並走した。1909年小結昇進。三役は結局この一場所ですぐ平幕に落ち、その後は幕内中位をエレベーターしていたが、1913年1月場所十両落ち、翌5月場所で幕下陥落を機に引退、式秀を襲名した。
大谷 繞石(おおたに ぎょうせき/じょうせき、1875年(明… 大谷 繞石(おおたに ぎょうせき/じょうせき、1875年(明治8年)3月22日 - 1933年(昭和8年)11月17日)は、日本の英文学者・俳人。本名は正信。 島根県松江市末次本町出身。島根県尋常中学校(後の島根県立松江北高等学校)在学中に、西田千太郎らの英語教師に教えを受けるとともに、1890年(明治23年)、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が英語教師として同校に赴任すると、学生の中で最もハーンの信任を得た。 1892年(明治25年)、京都の第三高等学校へ入学し、1894年(明治27年)、学制改革のため仙台の第二高等学校へ転校した。第三高等学校、第二高等学校では、同級生に俳人高浜虚子と河東碧梧桐がおり、この頃俳句への傾倒が始まった。
小倉 正恒(おぐら まさつね、1875年(明治8年)3月22… 小倉 正恒(おぐら まさつね、1875年(明治8年)3月22日 - 1961年(昭和36年)11月20日)は、第六代住友総理事である。 第2次近衛内閣(昭和15年 - 昭和16年(1940年 - 1941年))の国務大臣、第3次近衛内閣(昭和16年(1941年))の大蔵大臣を務める。 著書に『日本国憲法』『行政法』『現代家族関係論』『私の生活信条』『小倉正恆談叢』等。 明治8年(1875年)、前田利家の家老の家系であった旧金沢藩士・裁判官の小倉正路の長男として石川県金沢市に生まれる。 第四高等学校を経て、明治30年(1897年)東京帝国大学英法律学科を卒業後、内務省(現総務省)に入省。土木監督署事務官となる。
島村 孝三郎(しまむら こうざぶろう、1875年(明治8年)… 島村 孝三郎(しまむら こうざぶろう、1875年(明治8年)3月20日 - 1966年(昭和41年)10月24日)は日本の考古学者。南満州鉄道で大連図書館の初代館長などを務めたのちに憲政会に所属し、その後は東亜考古学会の幹事として戦後にいたるまで活動した。 1875年(明治8年)に生まれる。高校時代は仙台の第二高等学校で過ごし、この頃からすでに『東京人類学会雑誌』などに遺跡紹介の論文を掲載している。1895年(明治28年)には創設者の一人として奥羽史学会を結成。大学は東京帝国大学法科大学に進み、1897年(明治30年)ごろには国際法学会の発起人の一人となっている。東大法科時代の同級生には中田薫、杉栄三郎、柳田國男、松岡均平、遠藤源六らがいる。
小島 伊佐美(こじま いさみ、1875年(明治8年)3月16… 小島 伊佐美(こじま いさみ、1875年(明治8年)3月16日 - 1945年(昭和20年)6月15日)は戦前日本のドイツ語教師。石川県士族。熊本市第五高等学校で44年間ドイツ語を教えた。 1875年(明治8年)3月16日石川県金沢に小島与次郎の長男として生まれた。原籍は川上新町3丁目12番地。1881年(明治14年)5月金沢の小学校に入学し、1888年(明治21年)11月共立尋常中学校(後の金沢一中)第2年級に編入、1892年(明治25年)4月第1回生として卒業し、同校予備科で嘱託教師を務めた。 1893年(明治26年)9月11日第四高等中学校本科第1年級に入学し、徳永富・蒲生重実にドイツ語を学んだ。
蒲原 有明(かんばら ありあけ、1875年(明治8年)3月1… 蒲原 有明(かんばら ありあけ、1875年(明治8年)3月15日 - 1952年(昭和27年)2月3日)は、日本の詩人。本名、隼雄(はやお)。東京生れ。
中川 望(なかがわ のぞむ、1875年(明治8年)3月15日… 中川 望(なかがわ のぞむ、1875年(明治8年)3月15日 - 1964年(昭和39年)4月1日)は、日本の内務官僚、政治家。貴族院議員、枢密顧問官、錦鶏間祗候。 宮城県出身。仙台藩士・中川操吉の二男として生まれる。第二高等学校を経て、1901年(明治34年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。内務省に入省し内務属・総務局文書課兼地方局勤務となる。同年11月、文官高等試験に合格。 1903年(明治36年)7月、福島県参事官に就任。以後、兵庫県参事官、内務省参事官・衛生局保健課長、地方局市町村課長、埼玉県内務部長などを歴任。1909年(明治42年)12月から1911年2月まで欧米へ出張した。
三木 天遊(みき てんゆう、1875年〈明治8年〉3月12日… 三木 天遊(みき てんゆう、1875年〈明治8年〉3月12日 - 1923年〈大正12年〉9月1日?)は、日本の詩人。本名は三木 猶松、他の筆名に天友、未奇庵、雪衣、楽天遊などがある。 1875年3月12日、兵庫県赤穂市加里屋に、省六・恒子夫妻の次男として生まれる。 1879年に大阪へ移り、大阪府立北野中学校を経て、1894年に東京専門学校に入学。在学中に『早稲田文学』をはじめとした各新聞・雑誌で詩を発表する。後に病気のために退学。 1897年、浪華青年文学会の客員として、機関誌『よしあし草』に寄稿された詩の選者となる。1900年3月、須藤南翠、水谷不倒、菊池幽芳などと関西文学同好会を結成する。
井島 義雄(いじま よしお、1875年(明治8年)3月10日… 井島 義雄(いじま よしお、1875年(明治8年)3月10日 - 1920年(大正9年)6月27日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。弁護士。 熊本県熊本市出身。1903年(明治36年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業した。弁護士を開業し、熊本市会議員、熊本県会議員に選出された。 1917年(大正6年)、第13回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その他に肥後酒精株式会社監査役を務めた。
森本 慶三(もりもと けいぞう、1875年(明治8年)3月1… 森本 慶三(もりもと けいぞう、1875年(明治8年)3月10日 - 1964年(昭和39年)12月5日)は日本のキリスト教徒、学者。 樽井藤吉と森本ふさの三男として生まれ、キリスト教について学び、後に津山基督教図書館(現・森本慶三記念館)を設立した。その他にも、学者の一面があり、現在、森本慶三記念館に慶三の遺物が展示されている。 津山一の素封家であった樽井藤吉の三男として岡山県伏見町に生まれる。京都府立洛北高等学校・附属中学校を卒業した後、兄の後を継いで家業の呉服商「錦屋」を営んだ。しかし商売は上手くいかなったため、子供の頃から生きる事に悩んでいたとされている。キリスト教徒である内村鑑三に救われ、自らもキリスト教に入信し、1900年に上京して内村に師事した。
天野 健太郎(あまの けんたろう、1875年(明治8年)3月… 天野 健太郎(あまの けんたろう、1875年(明治8年)3月9日 - 1937年〈昭和12年〉6月17日)は、日本の商人(呉服商)、政治家。広島県呉市長。廣島銀行、呉銀行各取締役。広島合同貯蓄銀行常務取締役。族籍は広島県平民。 広島県安芸郡和庄村(のち和庄町、現・呉市)出身。広島県平民・天野健左衛門の長男。生家は代々農業を営む。1897年、呉服商店を開始する。1898年、家督を相続する。23歳の壮齢に早くも和庄町助役となり、2年余在職する。1902年、市会議員に当選し、翌年市助役に就任。 1908年、市参事会員となる。1909年、推されて廣島銀行取締役呉支店長に任ぜられる。1911年、市会議長となる。
植田 謙吉(うえだ けんきち、1875年〈明治8年〉3月8日… 植田 謙吉(うえだ けんきち、1875年〈明治8年〉3月8日 - 1962年〈昭和37年〉9月11日)は、日本の陸軍軍人。陸士10期、陸大21期。陸軍大将正三位勲一等功三級。 大阪府南河内郡狭山村(現:大阪狭山市)出身。陸軍軍吏、植田謙八の二男として生れる。北野中学校、東京高等商業学校(現:一橋大学)を経て、1898年(明治31年)11月、陸軍士官学校(10期)を卒業し、翌年6月、騎兵少尉任官。陸士生徒隊附、騎兵監部員などを経て、1909年(明治42年)12月、陸軍大学校(21期)を卒業。第18師団参謀、第16師団参謀、陸軍省軍務局課員、参謀本部附(欧州出張)などを歴任。シベリア出兵に際しては、浦塩派遣軍参謀として出征した。
皆川 治廣(みながわ はるひろ、1875年(明治8年)3月7… 皆川 治廣(みながわ はるひろ、1875年(明治8年)3月7日 - 1958年(昭和33年)3月7日)は、司法官僚、検事、判事。 愛媛県松山市出身。旧制第一高等学校を経て、1903年(明治36年)に東京帝国大学法科大学を卒業し、司法官試補として大阪地方裁判所に勤務した。翌年、日露戦争が勃発すると第四軍司令部附国際法顧問として従軍した。 1906年(明治39年)、大阪地方裁判所予備検事となり、小倉区裁判所検事、東京地方裁判所検事を歴任した。1910年(明治43年)、ブリュッセルで開催された万国刑法会議に出席した後、フランス・ドイツ・スイスに留学した。1913年(大正2年)に帰国後、司法書記官・大臣官房職員課長に任命され、法律取調委員会幹事も務めた。
清水 六和(きよみず ろくわ、1875年〈明治8年〉3月6日… 清水 六和(きよみず ろくわ、1875年〈明治8年〉3月6日 - 1959年〈昭和34年〉8月1日)は近代日本の陶芸家。5代目清水六兵衛。日本芸術院会員。 京都府京都市東山区五条坂八幡前に、4代目六兵衛の子として生まれる 。母はキタ 。次男であったが長男が夭逝したため実質的に長男として育つ 。祖父・3代六兵衛の幼名を受け継ぎ栗太郎を称した。1887年、日本画家の幸野楳嶺に師事し、さらに京都府立画学校に学ぶ。1895年に楳嶺が没した後は、谷口香嶠に指導を受けた。 陶法は父に師事。1895年の第4回内国勧業博覧会に花瓶を出品したのが自身初の陶芸作品出品となる。1896年、京都市立陶磁器試験場が設立されると同所で科学的釉薬、製陶法を研究する。
川名 兼四郎(かわな かねしろう、1875年3月5日 - 1… 川名 兼四郎(かわな かねしろう、1875年3月5日 - 1914年11月7日)は、日本の法学者。専門は民法。梅謙次郎に師事。弟子に末弘厳太郎、岩田新など。 千葉県出身。東京帝国大学卒業後、1900年に東京帝国大学助教授となる。1903年から1906年までドイツに留学して民法を研究し、帰国翌年の1907年に教授となった。1911年刊行の『法律大辞書』(復刻版 ISBN 4820529935) の主要執筆者一覧にも「東京帝国大学法科大学教授」として名を連ねる。末弘厳太郎の指導教官。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
野村 益三(のむら ますぞう、1875年(明治8年)3月5日… 野村 益三(のむら ますぞう、1875年(明治8年)3月5日 - 1959年(昭和34年)12月25日)は、明治から昭和期の教員、政治家、華族。貴族院子爵議員。 外務省出仕・野村靖の長男として生まれる。父の死去に伴い、1909年(明治42年)2月19日に子爵を襲爵した。 東京帝国大学農学部を修了し、1910年(明治43年)ドイツ帝国に留学した。 1905年(明治38年)和歌山県立粉河中学校教諭に就任。以後、愛知県立第五中学校教諭、愛知県立第五中学校教諭、神奈川県立第四中学校教諭などを歴任。その他、教科書調査会副会長、帝国水産会長、南洋水産協会長、産業組合中央金庫評議員、大日本育英会評議員、帝国教育会評議員会議長、大日本農会理事、東京農業大学理事、国語審議会委員、教育評議会委員、文政審議会委員、物価審議会委員、農林計画委員会委員などを務めた。
東園 基光(ひがしぞの もとみつ、1875年(明治8年)3月… 東園 基光(ひがしぞの もとみつ、1875年(明治8年)3月4日 - 1934年(昭和9年)2月26日)は、明治から昭和初期の内務・警察官僚、政治家、華族。官選富山県知事、貴族院子爵議員。 東京府出身。侍従・宮中顧問官・子爵、東園基愛の長男として生まれる。学習院高等学科を経て、1903年(明治36年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し大学院に進む。同年、文部省に入省し普通学務局属となる。1904年(明治37年)11月、文官高等試験行政科試験に合格した。 1905年(明治38年)内務省に転じ内務属となる。以後、岡山県事務官、静岡県事務官・第二部長、滋賀県事務官・警察部長、愛知県事務官・警察部長、茨城県内務部長、東京府内務部長などを歴任。
八波 則吉(やつなみ のりきち、1875年3月1日 - 19… 八波 則吉(やつなみ のりきち、1875年3月1日 - 1953年12月7日)は、日本の日本文学研究者、国語教育学者、作詞家。旧制第四高等学校教授、旧制第五高等学校名誉教授。
中村 勝麻呂(なかむら かつまろ、1875年〈明治8年〉3月… 中村 勝麻呂(なかむら かつまろ、1875年〈明治8年〉3月 - 1944年〈昭和19年〉3月23日)は、日本の歴史学者、教育者。史料編纂官および立教大学文学部教授を務め、幕末から維新期の古文書の編纂を行った。 1875年(明治8年)3月、滋賀県で中村平太の長男として生まれる。叔父には、彦根藩儒学者の中村不能齊(中村不能斎)がおり、養子の関係から勝麻呂は不能斎の孫となる。 1901年(明治34年)、東京帝国大学文科大学史学科を卒業し、同大学院に入り幕末外交史を専攻する。 1908年(明治41年)、東京帝国大学の史料編纂掛(後の史料編纂所)に務める史料編纂官に任ぜられ、1935年(昭和10年)まで勤務する。
飯尾 藤次郎(いいお とうじろう、1875年(明治8年)2月… 飯尾 藤次郎(いいお とうじろう、1875年(明治8年)2月27日 - 1943年(昭和18年)9月9日)は、日本の検察官、内務・警察官僚。政友会系官選県知事。 愛媛県出身。飯尾東平の三男として生まれた。1903年、東京帝国大学法科大学法律学科(仏法)を卒業。司法省に入省。岐阜地方兼同区裁判所検事を務めた。 1907年8月28日、内務省に転じ大阪府警視に就任。以後、高知県事務官・警察部長、新潟県事務官・警察部長、富山県内務部長、宮城県内務部長、熊本県内務部長、平安北道知事、黄海道知事などを歴任。 1927年5月7日、沖縄県知事に就任。経済の振興、中等教育の振興、政友会の党勢拡張に尽力。1928年12月26日、岩手県に転任。
河田 与惣左衛門(かわだ よそざえもん、1875年(明治8年… 河田 与惣左衛門(かわだ よそざえもん、1875年(明治8年)2月27日 - 1945年(昭和20年)3月1日)は、明治から大正時代の政治家、銀行家。貴族院多額納税者議員。 秋田県北秋田郡鷹巣村(現・北秋田市鷹巣)の豪農。河田与惣兵衛の二男として生まれ、1888年(明治21年)3月に家督を相続する。 1902年(明治35年)秋田銀行取締役となり、のち秋田県多額納税者として補欠選挙で貴族院議員に互選され、1906年(明治39年)12月24日から1911年(明治44年)9月28日まで在任した。 その後、秋田郡地主会長、同郡中央会長、赤十字有功社員などを歴任した。 妻 きさ (1881年生まれ、佐藤新三郎三女) 義弟 高安 正一 (1903年生まれ、扇田鉄鉱取締役高安虎治長男)
大石 斉治(齊治、おおいし さいじ、1875年(明治8年)2… 大石 斉治(齊治、おおいし さいじ、1875年(明治8年)2月27日 - 1952年(昭和27年)3月13日)は、明治から昭和時代の政治家。大日本帝国陸軍軍人。衆議院議員。 大石喜三右衛門の長男として、富山県射水郡、のちの氷見郡氷見町(現氷見市)に生まれる。1917年(大正6年)家督を相続する。1893年(明治26年)石川県農学校本科を卒業し、実業学校教員資格検定試験に合格した。日露戦争に従軍し、陸軍歩兵中尉に進んだ。 農業に従事する傍ら、富山県農学校教諭、郡立上伊那甲種農学校教諭兼舎監、徳島県立農業学校教諭、富山県郡立農学校長校長兼教諭を歴任した。 また、氷見町会議員、富山県会議員、高岡市助役、在郷軍人会氷見郡連合分会長、土木会議員、大政翼賛会高岡市支部常務、富山県農会幹事を務めた。
牧野 賤男(まきの しずお、1875年(明治8年)2月26日… 牧野 賤男(まきの しずお、1875年(明治8年)2月26日 - 1943年(昭和18年)12月30日)は、日本の政治家で立憲政友会所属の衆議院議員、弁護士。大政翼賛会東京支部顧問。 新潟県佐渡郡相川町(現在の佐渡市)出身。牧野伸の三男。明治法律学校(現在の明治大学)法律科、東京法学院(現在の中央大学)高等研究科を卒業し、1898年(明治31年)に判事検事弁護士試験に合格した。司法官試補となった後、弁護士を開業。東京弁護士会副会長や帝国弁護士会理事を務めた。 下谷区会議員、東京市会議員、東京府会議員、同議長を歴任し、1928年(昭和3年)の第16回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、当選回数は6回を数えた。
石川 岩吉(いしかわ いわきち、明治8年(1875年)2月2… 石川 岩吉(いしかわ いわきち、明治8年(1875年)2月22日 - 昭和35年(1960年)6月6日)は、日本の教育者。國學院大學名誉学長。 1875年(明治8年)広島県広島市出身。元広島藩士・石川完治の二男に生まれ、1886年(明治19年)に一家で東京の霞が関に移住。翌年、平河小学校(現・麹町小学校)初等一級に入るが、1887年(明治20年)、本郷区への一家転居に伴い、当地の小学校に転入し卒業。1888年(明治21年)に東京府尋常中学(現・都立日比谷高校)に入学。のち國學院大學本科に入学し、1895年(明治28年)に第3期生として國學院大學を卒業した。 卒業後は3年間の兵役を経て1898年(明治31年)に、國學院で師事した湯本武比古が社長を務める開発社に入職し、雑誌『教育時論』の記者となった。
大島 寅吉(おおしま とらきち、1875年(明治8年)2月1… 大島 寅吉(おおしま とらきち、1875年(明治8年)2月19日 - 1958年(昭和33年)6月1日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 新潟県刈羽郡生まれ。1896年(明治29年)7月、東京法学院(現・中央大学)を卒業。 帰郷してロシア領漁業に従事。その後、函館市会議員(当選4回)、北海道会議員(函館市選出、民政党所属、当選1回)、同参事会員、函館商工会議所議員、函館硫安会社社長、大島合名会社社長などを務めた。 1932年(昭和7年)2月、第18回衆議院議員総選挙で北海道第3区から立憲民政党所属で出馬して当選し、その後第21回総選挙まで連続4回の当選を果たした。この間、米内内閣・鉄道参与官を務めた。
土岐 嘉平(とき かへい、1875年(明治8年)2月16日 … 土岐 嘉平(とき かへい、1875年(明治8年)2月16日 - 1946年(明治21年)3月22日)は、日本の内務官僚・政治家。府県知事、北海道庁長官、京都市長。 和歌山県那賀郡、のちの山崎村(岩出町を経て現岩出市)出身。土岐綱右衛門の二男として生まれる。第三高等学校を経て、1901年、東京帝国大学法科大学政治学科を優等で卒業し、銀時計を授与された。 1901年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入り土木局に配属された。以後、山梨県参事官、内務省書記官、同参事官、大阪府内務部長などを歴任。 1914年6月、高知県知事に就任。地元の利害に直結する市町村の土木補助費問題に関して、県議会での調整に尽力した。
三上 義夫(みかみ よしお、1875年〈明治8年〉2月16日… 三上 義夫(みかみ よしお、1875年〈明治8年〉2月16日 - 1950年〈昭和25年〉12月31日)は、日本の数学史家、和算研究家。日本の数学と中国の数学を英文で西洋に紹介した。 父親は三上助衛門安忠、母親は勝。妻は近藤幸八郎の三女武。 広島県高田郡上甲立村(現在の安芸高田市甲立)の素封家である三上本家(「安国屋」家)に生れる。1890年(明治23年)12月に広島高等小学校を卒業後、翌年4月に千葉県尋常中学校2年級に編入学した。1892年(明治25年)には神田錦町の国民英学会および神田猿楽町の東京数学院に学ぶ。 1895年(明治28年)、徴兵検査のため帰郷するが、虚弱のため免役される。同年、武と結婚。
関田 駒吉(せきだ こまきち、1875年(明治8年)2月15… 関田 駒吉(せきだ こまきち、1875年(明治8年)2月15日 - 1939年(昭和14年)11月5日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 1875年(明治8年)2月15日、高知県長岡郡大篠村(現在の南国市)に生まれた。初め宮地氏を称し、3歳にして父に別れ、醫家関田修斎に養われて、その家を継いだ。夙に才学に秀で、海南学校より海軍兵学校に進学し卒業(24期)。明治30年10月、少尉候補生を命ぜられるとともに軍艦比叡乗組となり、後、松島や厳島に転じ、翌年4月1日海軍少尉に任ぜられ、尋いで5月10日正八位に叙せられた。宇治艦長、最上艦長、松江艦長、満州艦長などを歴任。のち少将を任官。退役後は郷土史の研究をした余生を過ごした。
重村 義一(しげむら ぎいち、1875年(明治8年)2月14… 重村 義一(しげむら ぎいち、1875年(明治8年)2月14日 - 1938年(昭和13年)3月31日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍機関少将。広島県出身。
飯塚 国三郎(いいづか くにさぶろう、旧字体: 飯塚 國三郞… 飯塚 国三郎(いいづか くにさぶろう、旧字体: 飯塚 國三郞、1875年(明治8年)2月13日 - 1958年(昭和33年)7月25日)は、日本の柔道家。段位は講道館柔道十段、大日本武徳会柔道範士。慶應義塾體育會柔道部師範、国際柔道協会会長などを歴任した。 栃木県出身。飯塚茂七郎の二男。 早くより武道を稽古していたが若き日に上京の後、慶應義塾大学、二松學舍で学ぶ傍ら、1891年11月に講道館に入門して柔道を修業する。講道館や慶應義塾において、横山作次郎や山下義韶、嘉納治五郎と共に斯道の発達普及に従事。東京高等師範学校、旧制第二高等学校、第七高等学校造士館の柔道教師を歴任。大日本武徳会において形制定に従事する。
小野 廉(おの すなお、1875年(明治8年)2月12日 -… 小野 廉(おの すなお、1875年(明治8年)2月12日 - 1952年(昭和27年)12月3日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、大分市長、別府市長。弁護士。 大分県大分郡、のちの阿南村(庄内村、庄内町を経て現由布市)で医者の家に生まれる。大分中学校を経て、1902年(明治35年)、東京法学院(現在の中央大学)を卒業。弁護士を開業し、後に大分弁護士会長を務めた。大分市会議員、同参事会員、大分県会議員、同参事会員、同議長に選出された。1935年(昭和10年)、別府市長に就任した。 1936年(昭和11年)、第19回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第20回でも再選された。その間、1938年(昭和13年)に大分市長に選出された。
蟹江 一太郎(かにえ いちたろう、1875年2月7日 - 1… 蟹江 一太郎(かにえ いちたろう、1875年2月7日 - 1971年12月20日)は、日本の実業家。カゴメ創業者。「トマト王」とも称される。 元カゴメ社長の蟹江一忠は養子。元カゴメ社長の蟹江嘉信は孫。カゴメ不動産社長の蟹江信孝は孫。 1875年(明治8年)、愛知県知多郡名和村(現・東海市名和町)に農家の長男として出生。当時の名前は佐野市太郎。1893年(明治26年)18歳で蟹江家に婿入りしたが、近隣に蟹江市太郎という同姓同名の人物がいたため、名を一太郎に改名した。 1896年(明治29年)、名古屋にあった歩兵第6連隊に入隊し、3年間の兵役を務め上げた。除隊の折り上官の西山中尉より西洋野菜の栽培を勧められ、1899年(明治32年)にトマトなどの西洋野菜の栽培に着手。
飯島 忠夫(いいじま ただお、1875年2月3日 - 195… 飯島 忠夫(いいじま ただお、1875年2月3日 - 1954年9月27日)は、日本の東洋史学者。 長野県松代町(現長野市)の旧松代藩士の家に生まれる。祖父は藩の故実家・飯島勝休。小学校卒業後、母校で雇として教えるかたわら、外祖父で旧藩上級藩士の長谷川昭道に漢学を師事、1901年上京し旧制錦城中学に編入、翌年卒業。臨時お茶の水第一教員養成所に入り、1904年卒業し学習院中等科教授、1937年(昭和12年)まで務めた。東京帝国大学選科修了。帝大では上田万年に師事した。東宮御学問所御用掛も務めた。1929年(昭和4年)「支那古代史論」で東京帝大文学博士。中国古代史、暦法研究のほか、郷土の人物として佐久間象山も研究した。
小栗 風葉(おぐり ふうよう、本名:加藤 磯夫(旧姓:小栗)… 小栗 風葉(おぐり ふうよう、本名:加藤 磯夫(旧姓:小栗)、1875年(明治8年)2月3日 - 1926年(大正15年)1月15日)は日本の小説家。愛知県生まれ。 愛知県知多郡半田町(現半田市)に薬種商(美濃半)の長男として生まれる。幼名磯平、のち磯夫と改めた。少年の頃から近世稗史小説を好み、柳亭種彦、為永春水らを耽読、また嵯峨の屋おむろ「初恋」などに感動し、『少年園』などに投稿、1889年、家業を継ぐ勉強のため上京。済生学舎、商業素修学校を経て、錦城中学校に学ぶ。1891年高等学校の入試に失敗し一時不良となるが、文学に志を持ち、家業は弟に任せ、尾崎紅葉の硯友社に入門。1893年九州を放浪し、その経験をもとに「片靨」を書き読売新聞に掲載。
鈴木 忠治(すずき ちゅうじ、1875年2月2日 - 195… 鈴木 忠治(すずき ちゅうじ、1875年2月2日 - 1950年12月29日)は、日本の実業家。鈴木商店(現味の素)創業者二代目鈴木三郎助の弟で、同社代表取締役社長や、昭和電工代表取締役社長、電気化学協会会長、内閣顧問などを務めた。 神奈川県堀内村(現三浦郡葉山町)出身。耕余塾を経て、1894年横浜商業学校卒業。外国貿易商店に勤めたのち、鈴木商店(現味の素)創業者である兄鈴木三郎助とともに、味の素の製造・販売を進めた。1931年(昭和6年)から兄の後任として鈴木商店および東信電気の代表取締役社長を務め、多角化を進めて、昭和酒造(現メルシャン)や宝製油(現J-オイルミルズ)、宝製薬社(現味の素ヘルシーサプライ)の設立を行った。
村上 清(むらかみ きよし、1875年(明治8年)2月2日 … 村上 清(むらかみ きよし、1875年(明治8年)2月2日 - 1935年(昭和10年)12月31日)は、日本の検事。高知市長。財団法人板垣伯銅像記念碑建設同志会第6代会長。 高知県香美郡山北村(現在の香南市)出身。通信書記、海軍属を経て、1899年(明治32年)に明治法律学校(現在の明治大学)を卒業した。翌年、判事検事登用試験に合格し、高知、福知山、京都、堺、大阪、五條、青森の各裁判所で検事を務めた。1908年(明治41年)、韓国の検事に転じた。その後、朝鮮総督府裁判所検事を務め、1920年(大正9年)には朝鮮総督府地方法院検事正に任ぜられ、勅任官待遇となった。1924年(大正13年)、退官して弁護士を開業した。
岡村 千馬太(おかむら ちまた、1875年2月1日 - 19… 岡村 千馬太(おかむら ちまた、1875年2月1日 - 1936年6月15日)は、日本の教育者。号は天機。 長野県安曇郡中萱村(現安曇野市)生まれ。南安曇郡高等小学校卒業後、明治24年(1891年)に上京し、小石川の尚志社に学んだのち、長野師範学校在学中に東邦協会に入会する。同30年(1897年)に卒業後、長野県内各地の尋常小学校で訓導や校長などを歴任した。同44年(1911年)同志の教育者とはかって「東西南北会」を設立し、長野に三宅雪嶺、犬養毅、古島一雄、池辺三山らを招いて講演会を開催し、人格主義教育を唱導した。 諏訪郡・小県郡視学や長野県視学を経て、大正11年(1922年)埴科郡長に任命されるが、教育に専念するため辞職。