木下 双葉(きのした ふたば、1910年8月9日 - 193… 木下 双葉(きのした ふたば、1910年8月9日 - 1938年8月30日)は、日本の女優である。本名は光田 貞子(みつだ さだこ)で、初期は本名で活動していた。 1910年(明治43年)8月9日、東京府東京市本所区押上町(現在の東京都墨田区押上)に「光田貞子」として生まれる。 1926年(大正15年)、名古屋のキリスト教主義学校である旧制・金城女学校(現在の金城学院高等学校)を卒業し、東京に戻って、松竹蒲田撮影所に入社する。当時は本名を名乗っていた。1929年(昭和4年)、京都に移り、東亜キネマ京都撮影所に移籍した。1931年(昭和6年)9月、東亜キネマが経営不振に陥り、福西譲治監督の『霧の中の白蓮』を最後に、同社の業務を代行する会社として設立された東活映画社(東活)に移籍する。
やなぎ 女楽(やなぎ めらく、1910年〈明治43年〉8月8… やなぎ 女楽(やなぎ めらく、1910年〈明治43年〉8月8日 - 1997年〈平成9年〉6月17日)は、日本の曲独楽師。本名∶田口 亀次。 群馬県館林市出身。芝居小屋の息子で小さい頃から芸事に親しむ。館林中学中退後、1929年に上京し落語家の5代目柳亭左楽に入門する。はじめは噺家を目指し柳亭女楽を名乗る。 のち噺家の道を断念し曲ごまを独学で学ぶ。素人演芸会に出ていたところプロの目に留まり、1942年、本郷の寄席にやなぎ女楽の名で出演。戦後、米軍キャンプの慰問などで日本各地を回った。1965年から落語芸術協会に所属する。 十八番は「衣紋流し」。貴重な膝替わりの芸人として晩年まで寄席出演をしていた。
杉本 甫(すぎもと はじめ、1910年8月8日 - )は、日… 杉本 甫(すぎもと はじめ、1910年8月8日 - )は、日本の実業家で、市川毛織(現・イチカワ)顧問。東京府(現・東京都)出身。
福永 健司(福永 健司、ふくなが けんじ、1910年〈明治4… 福永 健司(福永 健司、ふくなが けんじ、1910年〈明治43年〉8月5日 - 1988年〈昭和63年〉5月31日)は、日本の政治家、衆議院議長(第63代)、内閣官房長官(第9・10・26・27代)、労働大臣(第19代)、厚生大臣(第51代)、運輸大臣(第49代)、自由民主党国会対策委員長、自由民主党総務会長を歴任。位階は従二位、勲一等旭日桐花大綬章。息子は元自民党衆議院議員の福永信彦。 滋賀県甲賀郡甲賀町(現・甲賀市)出身。旧制松江高校文科甲類、1933年東京帝国大学法学部法律学科卒業後、片倉製糸紡績に入社。 1947年、西村実造埼玉県知事の要請を受けて埼玉県副知事となる。カスリーン台風が到来したときには、利根川が決壊するなか陣頭指揮にあたる。
津田 穣(つだ ゆたか、1910年〈明治43年〉8月4日 -… 津田 穣(つだ ゆたか、1910年〈明治43年〉8月4日 - 1955年〈昭和30年〉8月12日)は、日本のフランス文学者、翻訳家。 京都府出身。1935年京都帝国大学文学部仏文科卒。第三高等学校講師、大阪高等学校(旧制)教授。 ブレーズ・パスカル『パンセ』の翻訳で知られる。 息子は俳優、声優、ナレーターの津田喬。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
金沢 良雄(かなざわ よしお、1910年8月4日 - 198… 金沢 良雄(かなざわ よしお、1910年8月4日 - 1987年1月6日)は、日本の法学者。専門は、経済法・公害・環境法。学位は、法学博士(東京大学・論文博士・1961年)(学位論文「水法論」)。成蹊大学名誉教授。東京大学法学部教授を歴任。1977年紫綬褒章受章。弁護士。大阪出身。「金澤良雄」とも表記される。 1928年(昭和3年)旧制大阪府立今宮中学校卒業、1931年(昭和6年)旧制浪速高等学校卒業。1938年(昭和13年)東京帝国大学法学部卒。国際文化振興会、中央物価統制協力会議、内閣総合計画局、内閣調査局、東京大学嘱託を経て、1948年(昭和23年)東京大学法学部助教授。 1953年(昭和28年)北海道大学法経学部教授。
伊藤 佐喜雄(いとう さきお、1910年8月3日 - 197… 伊藤 佐喜雄(いとう さきお、1910年8月3日 - 1971年10月17日)は、日本の作家。 島根県津和野生まれ。女優の伊沢蘭奢の子。漢方胃腸薬「一等丸」で知られる、島根県津和野の薬屋「伊藤博石堂」の長男として生まれる。大阪高等学校中退。在学中に文芸評論家の保田與重郎を知り師事、『日本浪曼派』、『コギト』の同人となる。 1936年第二回「芥川賞」に「面影」と「花の宴」の2作が候補となる。1943年「花の鼓笛」で第8回池谷信三郎賞を受賞。 戦後は少女小説や、偕成社の児童向け名作文庫の再話、偉人伝などを執筆した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
津川 武一(つがわ たけいち、1910年8月2日 - 198… 津川 武一(つがわ たけいち、1910年8月2日 - 1988年9月4日)は、日本の政治家、精神科医、作家である。 青森県南津軽郡五郷村(現青森市浪岡地区)に生まれ、小作人の子どもとして育つ。学業成績が優秀であったため、小学校の教師のすすめで弘前中学校に進学し、その後旧制弘前高等学校に進む。弘前高時代は、石上玄一郎と交友をもつ。なお、太宰治とも同時期に弘前高に在学していたが、そのころは交流はなかったという。なお、津川、石上、太宰は、いずれも旧制中学四修で高校入学組の秀才だった。ただし、太宰は高等小学校1年就学後に中学入学のため津川と石上よりは一歳上だった。 1930年、東京帝国大学医学部に進学。
友田 信(ともだ しん、1910年(明治43年)8月2日 -… 友田 信(ともだ しん、1910年(明治43年)8月2日 - 2000年(平成12年)5月16日)は、日本の経営者。文化放送、キングレコード、サンケイ・スワローズで社長を務めた。 京都府京都市出身。1936年に早稲田大学政治経済学部を卒業。第一紙業社社長、第一通信社社長を経て、1956年に文化放送専務に就任し、1968年には社長に昇格した。 その一方で、産業経済新聞社で取締役と専務を務め、キングレコードで代表取締役社長と会長を務めた。フジテレビジョン代表取締役、サンケイ・スワローズ球団社長も務めた。 1971年に藍綬褒章を受章し、1981年に勲二等瑞宝章を受章した。 2000年5月16日肺炎のために死去。
萱場 照雄(かやば てるお、1910年(明治43年)8月1日… 萱場 照雄(かやば てるお、1910年(明治43年)8月1日 - 1984年(昭和59年)7月3日)は、日本の剣道家。段位は範士八段。 1940年(昭和15年)の天覧試合で準優勝した逆二刀の剣道家である。 宮城県伊具郡枝野村(現角田市)に生まれる。1934年(昭和9年)2月、宮城県警察官に任官。第二高等学校 (旧制)剣道師範の乳井義博から二刀流を学ぶ。1940年(昭和15年)6月20日、紀元二千六百年奉祝天覧武道大会府県選士の部で準優勝。1948年(昭和23年)4月、宮城県警察部を退職。その後、萱場産業を設立。 宮城県剣道連盟理事、仙台市剣道連盟名誉会長等を歴任した。
小林 千代子(こばやし ちよこ、1910年7月30日 - 1… 小林 千代子(こばやし ちよこ、1910年7月30日 - 1976年11月25日)は、日本の戦前期に活動した流行歌歌手・声楽家である。北海道小樽市出身。別名、金色仮面・小林伸江。 東京府立第七高等女学校(現・東京都立小松川高等学校)卒業後、東洋音楽学校(現・東京音楽大学)に入学。卒業後、新宿ムウランルウジュで初舞台を踏む。 その後、松竹楽劇部(のちの松竹歌劇団)に入団、水の江滝子やオリエ津阪の相手役を務め、1936年に退団するまで、「タンゴローザ」「ウィンナワルツ」「蝶々夫人の幻想」等、多くの歌劇に出演する。 松竹楽劇部入部と同時に日本ビクター蓄音器株式会社に入社し「金色仮面」(ゴールデン・マスク)という芸名で音盤界デビューを果たした。
山本 清二郎(やまもと せいじろう、1910年 <明治43年… 山本 清二郎(やまもと せいじろう、1910年 <明治43年> 7月30日 - 1995年 <平成7年> 12月12日)は、日本の検察官。最高検察庁次長検事、大阪高等検察庁検事長。位階は正三位。 愛知県出身。1933年、中央大学法学部卒業、銀行員を経て、1935年に検事任官。戦後の公職追放によって、塩野季彦らを大御所とする戦前からの主流であった思想検事系列の一掃と共に、東京地検特別捜査部長(1953年11月9日-1955年10月3日)に。東京地検次席検事に田中萬一、主任検事に河井信太郎と主だったポストには中央大学出身者が占めた。その後も河井らと昭和電工事件、造船疑獄、共和製糖事件、日通事件などの主だった政界汚職に従事した。
赤松 貞明(あかまつ さだあき、1910年(明治43年)7月… 赤松 貞明(あかまつ さだあき、1910年(明治43年)7月30日 - 1980年(昭和55年)2月22日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中尉。日中戦争、太平洋戦争の撃墜王。 1910年(明治43年)7月30日高知県土佐郡秦村(現高知市)で測候所長の子として生まれる。中学海南学校を卒業し、1928年(昭和3年)6月佐世保海兵団に入隊、四等水兵。1929年(昭和4年)大村航空隊所属の柴田武雄中尉の従兵となる。柴田によれば、赤松は外出しては酔って暴れ、そのたびに柴田がもらい下げにいったという。1931年(昭和6年)6月、第17期操縦練習生。教官は源田実大尉。1932年(昭和7年)3月、同修了。その後、大村航空隊、空母「赤城」、「龍驤」、「加賀」に配属。
関口 恒五郎(せきぐち つねごろう、1910年7月29日 -… 関口 恒五郎(せきぐち つねごろう、1910年7月29日 - 1988年11月3日)は、昭和時代の日本の柔道家、関口病院院長。全日本学生柔道連盟会長などを歴任[要出典]。講道館八段。父は関口孝五郎、兄は関口林五郎。
田中 文雄(たなか ふみお、1910年7月29日 - 199… 田中 文雄(たなか ふみお、1910年7月29日 - 1998年1月6日)は、日本の経営者。王子製紙社長、会長を務めた。 長野県南佐久郡平賀村(現佐久市)出身。旧制野沢中学を経て、1935年に九州帝国大学農学部林学科を卒業し、同年に王子製紙に入社した。1956年に取締役に就任し、常務、副社長を経て、1968年に社長に就任。社長在任中は、北日本製紙、日本パルプ工業との合併を実現させ、紙パルプ業界の国際化に尽力した。1981年に会長に就任し、1989年から取締役相談役を務めた。1982年には病気療養中の市村修平社長に代わり、社長を一時代行した。 1979年から1987年までに日本経営者団体連盟副会長を務め、1981年には日本製紙連合会会長に就任した。
井伊 直愛(いい なおよし、1910年(明治43年)7月29… 井伊 直愛(いい なおよし、1910年(明治43年)7月29日 - 1993年(平成5年)12月2日)は、日本の水産学者・政治家。旧彦根藩主井伊家の第16代当主。農学博士(東京大学・論文博士・1961年)(学位論文「極東海域におけるアミ科の分布に関する研究」)。滋賀大学経済学部講師、彦根市長。彦根市名誉市民。滋賀県出身。 幕末の大老井伊直弼の曾孫にあたる。 伯爵井伊直忠の庶子。生母は東京の斎藤ふく。 海軍軍人志望だったが体格に自信がなく、また当時の軍を支配していた藩閥を嫌って学問の道に進み、東京帝国大学農学部水産学科から同大学院に学ぶ。専門はアミ類で、約50種の新種を発見した。東大農学部嘱託、文部省資源科学研究所や滋賀県水産試験場、滋賀大学経済学部講師などを歴任した。
今日泊 亜蘭(きょうどまり あらん、1910年(明治43年)… 今日泊 亜蘭(きょうどまり あらん、1910年(明治43年)7月28日 - 2008年(平成20年)5月12日)は、日本の小説家、SF作家。本名は水島 行衛(みずしま ゆきえ)。「今日泊」以外のペンネームに水島多樓(みずしま たろう)、水島太郎、璃昴(りぼう)、紀尾泊世央(きおどまり ぜお)、今日泊蘭二、宇良島多浪(うらしま たろう)、園兒(えんじ)、志摩滄浪(しま そうろう)など。日本SF界の最長老として知られた。代表作は、日本SFの古典としても知られる『光の塔』。
大澤 孝(おおさわ たかし、1910年7月26日 - 198… 大澤 孝(おおさわ たかし、1910年7月26日 - 1987年1月10日)は、日本の経営者。山梨県出身。 府立一中を経て、1935年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に鐘紡に入社。 1949年に鐘淵化学工業(現在のカネカ)に転じ、1956年11月に取締役に就任し、1962年2月に常務、1968年5月に専務を経て、1969年5月に副社長に就任し、1974年11月には社長に昇格。1978年11月に会長に就任し、1982年6月から相談役を務めた。 1987年1月10日脳梗塞のために死去。76歳没。
斎藤 栄治(さいとう えいじ、1910年7月26日 - 19… 斎藤 栄治(さいとう えいじ、1910年7月26日 - 1979年1月22日)は、日本のドイツ文学者。 1933年東京帝国大学独文科卒。戦後、1971年まで東京大学教養学部教授。ゲーテなどを専門とし、多くの翻訳書がある。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作詞家・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ:作家)。
高橋 邦雄(たかはし くにお、1910年〈明治43年〉7月2… 高橋 邦雄(たかはし くにお、1910年〈明治43年〉7月25日 - 1988年〈昭和63年〉8月26日)は、昭和期の地方公務員、政治家。参議院議員(1期)、群馬県副知事。 群馬県群馬郡車郷村富岡(箕郷町を経て現高崎市)で生まれる。旧制高崎中学、旧制松本高校を経て、1936年(昭和11年)京都帝国大学法学部を卒業した。 1936年、群馬県庁に入庁し総務部地方課に配属された。1937年(昭和12年)10月、充員召集令により歩兵第15連隊に入隊し1940年(昭和15年)1月に召集解除となったが、1941年(昭和16年)8月に再度充員召集を受けて東部38部隊に入隊し、1945年(昭和20年)4月に解除された。
大月 明(おおつき あきら、1910年7月25日 - 198… 大月 明(おおつき あきら、1910年7月25日 - 1987年2月16日 )は、日本の医学者。論文『から・あざーるニ関スル研究』で、博士(医学)の学位授与(主査:木村廉「微生物学」)。学位記宛先は、大阪府三島郡富田町(現・高槻市富田町)。現住所:不掲載。
阿部 九洲男(あべ くすお、1910年7月24日 - 196… 阿部 九洲男(あべ くすお、1910年7月24日 - 1965年11月2日)は、日本の俳優である。初期の芸名は春見 堅太郎(はるみ けんたろう)など、本名は伊東 石太郎(いとう いしたろう)である。 1910年(明治43年)7月24日、神奈川県横浜市寿町(現在の同県同市中区寿町)に「伊東石太郎」として生まれる。 満19歳を迎える1929年(昭和4年)、古海卓二監督の紹介で京都の市川右太衛門プロダクションに入社、「春見堅太郎」の芸名で、同年、城戸品郎監督の『髪』に出演、大貫三郎衛門役を演じる。市川右太衛門に師事する が、1931年(昭和6年)には関東に戻り、東京・巣鴨の河合映画製作社に移籍する。同年、村越章二郎監督の『清水の小政』に出演している。
山中 吾郎(やまなか ごろう、1910年(明治43年)7月2… 山中 吾郎(やまなか ごろう、1910年(明治43年)7月23日 - 1983年(昭和58年)6月2日)は、昭和期の教育者、地方公務員、政治家。衆議院議員。 和歌山県伊都郡名倉村(高野口町を経て現橋本市高野口町)出身。1933年(昭和8年)東京高等師範学校文科を卒業した。 山形県立山形中学校(現山形県立山形東高等学校)教諭、三重県師範学校教諭、京都府師範学校教諭などを歴任。1943年(昭和18年)7月、高等試験行政科試験に合格。1945年(昭和20年)岩手県庁に入庁。学務課長兼厚生課長、労働部長、教育部長を歴任し、1948年(昭和23年)岩手県教育委員会教育長に就任。その後、公共企業体等労働委員会地方調停委員、岩手大学講師、私立修紅短期大学助教授などを務めた。
久保田 収(くぼた おさむ、明治43年(1910年)7月22… 久保田 収(くぼた おさむ、明治43年(1910年)7月22日 - 昭和51年(1976年)12月7日)は、日本の歴史学者。専門は神道史。学位は、文学博士。 明治43年(1910年)、富山市に生まれる(本籍滋賀県)。昭和3年(1928年)静岡県立浜松第一中学校、昭和6年第六高等学校文科甲類を経て、昭和9年(1934年)に東京帝國大學文学部国史学科を卒業。在学中は平泉澄に学び、高弟として知られ終生師事した。朱光会の創立に関わり、また青々塾最初の入塾者の一人でもあった(いずれも平泉主宰)。 昭和10年に東京府立第九中学校教諭を経て、昭和13年(1938年)に、第七高等学校造士館教授となった。 帝大卒業後鹿児島に赴任するまでの間は、青々塾塾頭をつとめ、七高時代は集義塾を開くなどして、後進の指導にあたった。
足立 篤郎(あだち とくろう、1910年〈明治43年〉7月2… 足立 篤郎(あだち とくろう、1910年〈明治43年〉7月22日 - 1988年〈昭和63年〉8月14日)は、日本の政治家。位階は正三位、勲等は勲一等。 科学技術庁長官(第28代)、農林大臣(第43代)、衆議院議員(12期)などを歴任。 静岡県周智郡山梨村(現袋井市)生まれ。掛川中学校(現静岡県立掛川西高等学校)、旧制静岡高等学校を経て、1934年、京都帝国大学法学部を卒業。南満洲鉄道に入社する。戦後は静岡県農業共済組合連合会会長などを経て、1949年の第24回衆議院議員総選挙で吉田茂率いる民主自由党公認で旧静岡3区から立候補し、初当選。以後当選12回。 自民党では佐藤栄作派-田中角栄派に所属。
岡本 虎二郎(おかもと とらじろう、1910年7月21日 -… 岡本 虎二郎(おかもと とらじろう、1910年7月21日 - 1998年5月29日)は、日本の実業家。月賦百貨店であった緑屋(現:クレディセゾン)の創業者である。 1910年(明治43年)7月21日に愛媛県今治市で、米穀商をしていた岡本繁満太の長男として生まれた。岡本家は後に一家で大阪に移り、岡本虎二郎は天王寺中学校に通っていたが1926年(大正15年)に父親が44歳で死亡し天王寺中学校を中退し大阪の中井洋紙店に奉公した。従兄で月賦販売店の丸共の銀座店の支店長であった辻田貞二に誘われ、1927年(昭和2年)に上京し、丸共銀座店に入店。 1935年(昭和10年)には独立し、義兄の立野究と共同で江戸川区小岩井に一軒の店を構えた。
清原 道壽(清原 道寿、きよはら みちひさ、1910年7月1… 清原 道壽(清原 道寿、きよはら みちひさ、1910年7月18日 - 2002年6月18日)は、日本の技術科教員、教育学者。東京工業大学名誉教授。 福岡県生まれ。1935年東京帝国大学文学部教育学科卒、滝野川区(現北区)立滝野川東高等小学校教師となり工業技術を教える。1943年治安維持法違反で逮捕投獄され、敗戦後45年釈放。目黒区立第六中学校で職業(技術科)を教える。1949年職業教育研究会(のちの産業教育研究連盟)を設立、代表。國學院大學教授、東京工業大学教授。71年定年退官、名誉教授、大東文化大学教授。83-84年学長。
大橋 棣(おおはし やすし、1910年7月17日 - 200… 大橋 棣(おおはし やすし、1910年7月17日 - 2004年9月9日)は大阪府出身のプロ野球選手、野球指導者(高校野球・社会人野球監督)。 旧制浪速中学校(現浪速高校)卒業後、関西大学に進学。強肩・好守の遊撃手として有名だった。その後、門司鉄道局に就職。門司鉄道局時代は、玉井栄など九州の選手の大阪タイガース・阪神軍入団に関わり、球団を側面からサポートした。 松木謙治郎が退団するときに阪神軍に助監督として入団するつもりだったが、阪神本社側の反対で選手として1942年10月登録された。翌1943年オフに退団。誰にでも食ってかかる事から「ケンカ大橋」の異名を持ち、ベンチではヤジ将軍として有名だった。
伊藤 武郎(いとう たけろう、1910年7月17日 - 20… 伊藤 武郎(いとう たけろう、1910年7月17日 - 2001年11月29日)は、日本の映画プロデューサー、労働運動家。日本映画演劇労働組合の初代委員長として、東宝争議を指揮した。本名伊藤 武男(いとう たけお)。 1910年(明治43年)7月17日、福井県に「伊藤武男」として生まれる。 東京に移り、早稲田大学に入学、同学を卒業後の1937年(昭和12年)、東宝映画(現在の東宝)に入社する。東宝映画東京撮影所(現在の東宝スタジオ)で、1942年(昭和17年)、渡辺邦男監督の『武蔵坊弁慶』で伊藤基彦とともに初めて「製作」に名を連ね、映画プロデューサーとなる。 第二次世界大戦終結の翌年、1946年(昭和21年)2月に東宝撮影所で東宝争議が起きる。
佐藤 正己(さとう まさみ、1910年(明治43年)7月16… 佐藤 正己(さとう まさみ、1910年(明治43年)7月16日 - 1984年(昭和59年)8月30日)は、日本の植物学者。理学博士(東京帝国大学・1942年)。茨城大学名誉教授。山形県東田川郡山添村(現・鶴岡市)出身。地衣類研究の権威として知られている。
石田 周三(いしだ しゅうぞう、1910年7月16日‐ 19… 石田 周三(いしだ しゅうぞう、1910年7月16日‐ 1985年6月20日)は、日本の動物生理学者。 東北帝国大学理学部卒。1956年「二枚介類における代謝型式」で理学博士。東北帝国大学浅虫臨海実験所、千葉大学文理学部助教授、教授、1974年定年退官、名誉教授。ダーウィンの『種の起原』を訳すなど啓蒙的著作・翻訳を行った。妻は西村伊作の長女の石田アヤ。娘は文化学院副院長を務めた立花利根(1937- )。
山本 薩夫(やまもと さつお、1910年7月15日 - 19… 山本 薩夫(やまもと さつお、1910年7月15日 - 1983年8月11日)は、日本の映画監督。鹿児島県出身。早稲田大学文学部独文科中退。 甥たち(兄山本勝巳の子)が、俳優の山本學、山本圭、山本亘で、自身の作品への配役も多い。息子の山本駿、山本洋も映画監督。 両親とも石川県小松市の出身(薩夫の本籍も石川県)。札幌農学校を中退して農商務省の官吏になった父が愛知県庁を振り出しに各地の県庁を転々とし、鹿児島県庁勤務時に薩夫が生まれた。名前もそこから付けられた。6人兄弟の末っ子で兄弟はそれぞれ別の土地で生まれた。薩夫が2歳になる前に父が愛媛県庁に転勤し、一家は愛媛県松山市に引っ越す。この時期に長兄の友人で、のちに共産党弾圧で獄死した重松鶴之助や俳人・中村草田男らの知遇を得る。
藤本 真澄(、1910年〈明治43年〉7月15日 - 197… 藤本 真澄(、1910年〈明治43年〉7月15日 - 1979年〈昭和54年〉5月2日)は、日本の映画プロデューサー。元東宝副社長、東宝映画初代社長。日本映画黄金期のヒット作を多数手掛けた東宝の看板プロデューサーである。 旧満州旅順生まれ。海軍軍医だった父の転任に伴い、長崎県佐世保市、対馬、広島県呉市、神奈川県横須賀市、京都府京都市、広島市で育ち1928年(昭和3年)、県立山口中学校卒業後2年浪人。少年期から映画に熱を上げ映画館に通いつめ「塚本靖」名で『キネマ旬報』に映画批評を投稿したりした。「塚本靖」名では東宝の新人時代、アイデアを出した数本の映画に原作者としてのクレジットがある。1934年(昭和9年)慶應義塾高等部在学中に三映社でアルバイトをして映画の宣伝を担当、ルネ・クレールの『巴里の屋根の下』(1930年)やリーフェンシュタールの『青の光』(1932年)などを手掛けた。
香川 進(かがわ すすむ、1910年7月15日 - 1998… 香川 進(かがわ すすむ、1910年7月15日 - 1998年10月13日)は、昭和期・平成期の日本の歌人。 香川県多度津町出身。多度津中学校(現香川県立多度津高等学校)を経て、1934年神戸商業大学(現神戸大学)卒。在学中の1932年に白日社に入社し、前田夕暮に師事。口語自由律短歌を作る。 三菱商事に入社後、1935年に出張先で現地召集される。1945年友人と東亜交易創立。敗戦後の財閥解体の処理に関わる。1953年木下商店に入り、名古屋支店長や内外炉工業社長を歴任。 戦後は文語定型短歌へと回帰。1953年「地中海」を創刊、主宰。義兄にあたる米田登も参加。門下に小野茂樹、雨宮雅子がいる。1958年『湾』で第4回日本歌人クラブ推薦歌集(現日本歌人クラブ賞)受賞、1973年『甲虫村落』で第7回迢空賞受賞、1992年『香川進全歌集』で第15回現代短歌大賞受賞。
亀谷俊司(かめたに しゅんじ、1910年7月11日 - 20… 亀谷俊司(かめたに しゅんじ、1910年7月11日 - 2010年4月2日)は、日本の数学者。 東京に生れる。1936年東京帝国大学理学部卒業。45年「ハウスドルフ測度と一般化された容量に就いて其の函数論への応用二,三」で理学博士。多賀高等工業學校教授、東京女子高等師範学校教授、1949年お茶の水女子大学助教授、教授、1976年定年退官、名誉教授。99歳で没、没後正四位。
井上 幸治(いのうえ こうじ、1910年7月10日 - 19… 井上 幸治(いのうえ こうじ、1910年7月10日 - 1989年9月9日)は、日本の歴史学者。専攻は西洋史(近代フランス史)で、フランス史書・哲学などの翻訳・監修も多い。戦後の西洋史研究の基礎を築いた一人で、郷里の埼玉県で起きた秩父事件の先駆的研究や史料集成でも知られる。 1910年、埼玉県秩父郡大宮町(現・秩父市)で生まれた。旧制熊谷中学校から旧制浦和高等学校文科丙類(フランス語)に進学。浦和高校での友人に、後にジャーナリストになった柳沢恭雄(同級生)、警視総監になった原文兵衛(2年後輩)がいた。1930年3月に浦和高校を卒業、東京帝国大学文学部西洋史科に入学。1933年に同大学を卒業した。
信 欣三(しん きんぞう、1910年7月9日 - 1988年… 信 欣三(しん きんぞう、1910年7月9日 - 1988年12月26日)は、日本の俳優。本名は信 金蔵。1960年代半ばから1970年代半ばにかけては、信 欽三の芸名でも活動した。脚本家・小説家の筒井ともみは義理の姪。墓所は谷中霊園。 東京市出身。祖父の信大蔵は、旧尾張藩士で、幕府軍に参加し箱館戦争を戦ったが、敗れたため逃れたという。その後銀座尾張町にて洋酒、牛乳、氷屋の函館屋を開き、特に幕府顧問のフランス人より習ったアイスクリーム販売が名物であった。 銀座の泰明小学校、東京府立第一商業学校(現、東京都立第一商業高等学校)卒業。東京左翼劇場を経て、1933年に『河向ふの青春』で映画に初出演した。
岸 風三楼(きし ふうさんろう、1910年7月9日 - 19… 岸 風三楼(きし ふうさんろう、1910年7月9日 - 1982年7月2日)は、岡山県出身の俳人。御津郡馬屋下村松尾(現岡山市北区松尾)生まれ。本名・二三男。 旧制関西中学校を経て関西大学法学部を卒業、1929年大阪逓信省に入省。俳句は中学4年時より始め『山陽新報』(現・山陽新聞)に投句。1929年より「ホトトギス」に投句。皆吉爽雨、山口誓子の指導を受ける。1933年、職場句会を通じて「若葉」を知り入会、富安風生に師事する。1934年、「京大俳句」に入会。京大俳句事件にて追及を受けた。この際、逓信省の高級官吏であった風生の擁護で難を免れたとも言われる。1944年、「若葉」編集長。風生の「若葉」運営に献身。
弘津 三男(ひろつ かずお、1910年7月8日 - )は日本… 弘津 三男(ひろつ かずお、1910年7月8日 - )は日本の映画監督。愛媛県松山市生まれ。県立松山中学を卒業後、1937年新興キネマ京都撮影所に助監督として入社。溝口健二監督の下でチーフ助監督を務める。 以下に日本映画データベースに従い公開日、作品名、監督名を記載。製作会社はすべて大映京都撮影所。
仁智 栄坊(にち えいぼう、1910年7月8日 - 1993… 仁智 栄坊(にち えいぼう、1910年7月8日 - 1993年3月31日)は、俳人。高知県高知市生まれ。本名は北尾一水(きたお かずみ)。新興俳句弾圧事件の犠牲者として知られる。 1931年大阪外国語学校(現・大阪外国語大学)卒業後、大阪逓信局無線課に勤め、ロシア語の知識を生かして、ソビエト連邦からの無線の傍受にあたった。岸風三楼に誘われ「京大俳句」に参加。1940年の俳句弾圧事件、いわゆる京大俳句事件に連座。1941年7月、妻とともに満洲に渡り、新京の満洲電信電話放送部に就職。同僚に高屋窓秋がいた。また森繁久弥は芸能番組を担当していた。 敗戦後、ソ連軍に反ソ活動の容疑で逮捕され、シベリアの収容所送りとなった。
伊藤 久男(いとう ひさお、1910年(明治43年)7月7日… 伊藤 久男(いとう ひさお、1910年(明治43年)7月7日 - 1983年(昭和58年)4月25日)は日本の歌手。本名は伊藤 四三男(いとう しさお)。福島県安達郡本宮町(現本宮市)出身。 本宮町の旧家の出身。本名の四三男は生年の明治43年に由来する。父親は立憲政友会所属で県会議員を務めた伊藤彌(わたる)、兄は福島県議会議員を経て戦後に自由民主党所属の衆議院議員を務める伊藤幟(のぼり)である。 生家は裕福であり、伊藤は当時はまだ珍しかったピアノに没頭し、中学(旧制)の頃にはピアニストを志望するようになる。家族や親族の反対を押し切り単身上京、音楽を生業とすることに反対していた家族へのカモフラージュのため東京農業大学に入学。
三嶋 栄(みしま さかえ、1910年(明治43年)7月6日-… 三嶋 栄(みしま さかえ、1910年(明治43年)7月6日-2008年(平成20年)8月4日)は日本の実業家。元王子製紙会長。 1910年(明治43年)7月6日、島根県に生まれる。1936年(昭和11年)に法政大学経済学部を卒業後、旧王子製紙に入社する。1946年(昭和21年)に日本パルプ工業に移り、資材部長に就任する。 1949年(昭和24年)に米子工場長、1960年(昭和35年)に取締役、1964年(昭和39年)に常務、1969年(昭和44年)に専務、1971年(昭和46年)に副社長、1973年(昭和48年)に社長に就任する。1979年(昭和54年)、旧王子製紙との合併により王子製紙会長に就任する。
結城 吉之助(ゆうき きちのすけ、1910年(明治43年)7… 結城 吉之助(ゆうき きちのすけ、1910年(明治43年)7月5日-2003年(平成15年)12月17日)は日本の政治家。山形県村山市長、引揚者団体全国連合会副理事長。位階は従五位。勲四等瑞宝章。 1910年(明治43年)7月5日、山形県に生まれる。1933年(昭和8年)に法政大学を卒業し、鏡泊学園に第一期生として入学する。2年目からは鏡泊学園の教官に任命されるが、応召され、咸興歩兵第74連隊で兵役を務める。 なお、鏡泊学園は、創立者山田悌一を含む学園関係者等15名が匪賊により殺害され、また、学園の財政難もあいまって、創立3年で学園は解散する。 除隊後、満州国の官吏となり、吉林省懐徳県街村指導官、1938年(昭和13年)に伊通県地方課長、1940年(昭和15年)に樺甸県総務部長、1942年(昭和17年)から満州国協和会に出向し、鶏寧県本部事務長、協和会副参事に就任する。
竹内 季雄(たけうち すえお、1910年7月3日 - 198… 竹内 季雄(たけうち すえお、1910年7月3日 - 1981年8月3日)は、日本の経営者。間組社長を務めた。 山口県出身。1931年に熊本高等工業学校土木工学科を卒業し、1933年に間組に入社。1969年11月に取締役に就任し、1971年11月に常務、1972年12月に専務、1974年11月に副社長を経て、1975年5月に社長に就任。 1981年8月3日、脳溢血のために在任時に死去。71歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
真藤 恒(しんとう ひさし、1910年7月2日 - 2003… 真藤 恒(しんとう ひさし、1910年7月2日 - 2003年1月26日)は、日本の実業家。福岡県久留米市出身。石川島播磨重工業(現:IHI)の社長、電電公社の最終代総裁、NTT初代社長・会長を務めた。また、ドクター合理化の異名を取った。 中学明善校(現・福岡県立明善高等学校)卒業。1934年春、九州帝国大学工学部造船学科を卒業後、播磨造船所(後の石川島播磨重工業)に入社。戦後はアメリカの「海運王」、ダニエル・ラドウィックと手を組み、当時としては画期的な手法で数々の船舶を建造し、専門の船ではそれまでの常識を破った「ズングリムックリ」型のタンカーを考え出したり、従来の貨物船が一隻ごとにオーナーと仕様を決めるオーダーメイドであったのを、あらかじめ造船所が主要スペックを決めてカタログ販売する標準船を世に送り出した。
正木 茂(まさき しげる、1910年7月2日 - 1980年… 正木 茂(まさき しげる、1910年7月2日 - 1980年8月28日)は、昭和時代の日本の洋画家。 1910年7月2日、徳島県美馬郡脇町(現・美馬市)に生まれる。1929年、大阪市立商業学校(後の大阪市立大学)を卒業する。1947年8月、脇町中学校助教諭となり、1953年3月休職。その後、徳島新聞の挿絵画家として活躍する。 大阪の川上拙以に入門し、契村と号して日本画を学ぶ。のちに油絵に転向し、東光会に入選する。東京へ出向し、東向会会員となる。「阿波の踊り子シリーズ」で第12回日展に入選し、特選候補にもあがる。日展会友。 1980年、東京で没する。70歳。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。
竹内榮(たけうち さかえ、1910年6月29日 - 2006… 竹内榮(たけうち さかえ、1910年6月29日 - 2006年5月25日)は、日本の工学者。専門は金属工学・金属学。理学博士。室蘭工業大学元学長。東北大学名誉教授。 宮城県出身で生後間もなく札幌市に移り住んだ。1933年北海道帝国大学工学部卒業。 北海道帝國大學工学部助手、東北帝国大学金属材料研究所助手、東北帝国大学工学部講師、同工学部助教授、1945年東北帝国大学工学部教授。その後、東北大学金属材料研究所所長、東北大学低温センターセンター長を歴任。1974年東北大学停年退官。同名誉教授。 芝浦工業大学工学部教授。1975年室蘭工業大学6代学長に就任。1979年室蘭工業大学を退官。芝浦工業大学工学部教授に再び就任。
藤野 博(ふじの ひろし、1910年6月27日 - 2005… 藤野 博(ふじの ひろし、1910年6月27日 - 2005年11月24日)は、日本の口腔外科医。専門は口唇口蓋裂治療。九州大学名誉教授。 1910年、兵庫県にて生まれる。1932年に旧制山口高等学校を卒業し、九州帝国大学医学部に進学。1937年に卒業後、第一外科学教室(赤岩八郎教授)を経て歯科学口腔外科学教室(1922年設置)に入局。初代教授・問田亮次(在任1922年 - 1943年)、第2代教授・加来素六(在任1943年 - 1954年)の後を継いで1954年に第3代教授に就任した。同教室の歯学部昇格運動に尽力し、1967年に東京医科歯科大学・大阪大学・東北大学・新潟大学・広島大学に続く6校目の国立大学歯学部設置を果たした(北海道大学と同時)。
中野 次雄(なかの つぎお、明治43年(1910年)6月27… 中野 次雄(なかの つぎお、明治43年(1910年)6月27日 - 平成11年(1999年)10月13日)は、日本の裁判官。元大阪高等裁判所長官。位階は正三位。父は東京府会議長をつとめた中野勇治郎。 東京市本所区東両国出身。 1933年11月高等試験司法科及行政科合格。1934年3月東京帝国大学法学部卒業。同年6月司法官試補 東京地方裁判所詰。1935年判事に任官。 1957年~1964年司法研修所教官。1966年~1968年最高裁判所調査官(上席)。1968年前橋地方・家庭裁判所所長。1970年東京高等裁判所判事。1973年大阪高等裁判所長官、1975年定年退官。1976年~1981年早稲田大学客員教授。
長谷川 富三郎(はせがわ とみさぶろう、1910年6月27日… 長谷川 富三郎(はせがわ とみさぶろう、1910年6月27日 - 2004年8月19日)は日本の版画家。号は無弟。棟方志功とともに民藝運動を支えた板画家である。 1910年(明治43年)に兵庫県姫路市に生まれる。1929年(昭和4年)に鳥取県師範学校を卒業し、倉吉市の明倫小学校に勤務する傍、1934年(昭和9年)に倉吉の文化団体「砂丘社」同人になり油絵を描くようになる。 そのころに吉田璋也と出会い民藝運動に参加する。そして同運動に関わっていた柳宗悦、河井寛次郎らに師事するようになり、1940年(昭和15年)より棟方志功との交友が始まる。戦後、その棟方のすすめで板画を始める。1954年(昭和29年)には、柳宗悦、濱田庄司、バーナード・リーチを明倫小学校に招いて講演会を開催した。