山田 銀蔵(やまだ ぎんぞう、1915年7月8日 - 197… 山田 銀蔵(やまだ ぎんぞう、1915年7月8日 - 1978年12月25日)は、日本のクロスカントリースキー選手。青森県南津軽郡大鰐町出身。1936年ガルミッシュパルテンキルヒェンオリンピック日本代表。 大鰐尋常高等小学校高等科を卒業後、青森営林局(青森林友)に勤務する。 1934年の第12回全日本スキー選手権大会クロスカントリースキー個人長距離(18km)で優勝。翌年の同大会32kmリレーでは、山田伸三らとともに青森林友を優勝に導いた。 1936年ガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピックでは、クロスカントリースキー個人長距離(18km)で56位、4x10kmリレーで12位だった。 現役引退後は、地元青森で後進の育成に尽くした。
音羽 久米子(おとわ くめこ、1915年7月8日 - 没年不… 音羽 久米子(おとわ くめこ、1915年7月8日 - 没年不詳)は、日本の女優。本名は滝沢 ヤス(旧姓:森)。 1915年(大正4年)7月8日、東京府東京市四谷区(現在の東京都新宿区)に、父・芳五郎と母・寿美の8人兄姉の末子として生まれる。父は政治好きで、定職を持たなかった。 高等小学校を卒業後、師範学校入学を希望するが、芸事好きの末兄に勧められ、六代目尾上菊五郎が創設した日本俳優学校に2期生として入る。1936年(昭和11年)3月に卒業、その後は関西新派で舞台に立つが、数か月で帰京。久米正雄の紹介で9月に日活多摩川撮影所へ入社。六代目菊五郎の屋号である音羽屋と久米正雄の姓をもらって、芸名とする。
阪田 勝三(さかた かつぞう、1915年7月5日 - 201… 阪田 勝三(さかた かつぞう、1915年7月5日 - 2010年9月19日)は、日本の英米文学者。専門はジョン・キーツ、ウィリアム・フォークナー。 和歌山県生まれ。東北帝国大学法文学部英文科卒業。土居光知に師事。海軍大学校教授、戦後宮城学院女子大学助教授、教授を経て、1969年同大学および同短期大学にて公選制最初の学長。1972年日本大学文理学部教授、1976年「ジョン・キーツ論考 自己解体としての想像力」で日本大学文学博士。1986年日本大学定年後、96年までクラーク学園理事長を務めた(95-96年は和泉短期大学学長も兼務)。 多くのキーツ研究者が「思想の詩人としてのキーツ」を重く見るのに対し、阪田は「感覚の詩人としてのキーツ」に愛着を持った数少ない研究者である。
飛鳥 寛栗(あすか かんりつ、1915年7月5日 - 201… 飛鳥 寛栗(あすか かんりつ、1915年7月5日 - 2016年9月30日)は、浄土真宗の僧、仏教音楽研究家、元飛鳥山善興寺住職。近代日本の仏教音楽を体系化した人物である。 浄土真宗本願寺派善興寺(富山県高岡市)に生まれる。父は、同寺第17代住職で、浄土真宗本願寺派の監正局長をつとめた飛鳥寛徹。1939年龍谷大学文学部仏教学科卒業。学校法人清光学園清光女子高等学校(現高岡龍谷高校)初代常務理事、浄土真宗本願寺派教学伝道研究センター顧問をはじめ、財団法人国際仏教文化協会顧問や社会福祉法人中田保育園理事長などを歴任。仏教音楽コレクション・A主宰(現在は相愛大学の図書館に寄贈)。東洋音楽学会会員。善興寺第18代住職。
太田 緑子(おおた みどりこ、1915年(大正4年)7月5日… 太田 緑子(おおた みどりこ、1915年(大正4年)7月5日 - 2010年(平成22年)10月22日)は、日本の病院経営者。太田綜合病院の副理事長、夫の死後は理事長を経て名誉理事長を務めた。経営者として地域医療の充実、病院の発展に努める傍ら、福島県教育委員会委員長、福島県社会福祉協議会長、郡山国際フィルハーモニー協会副会長などを歴任して、地域の医療、社会福祉、教育、文化の発展に寄与し、福島県および郡山市の興隆のために尽くした。 1915年(大正4年)、福島県郡山町にて太田醫院を創業した医師の父三郎、母祥(さが)の七女として双子の妹薫子とともに生まれた。小学校を経て、安積高等女学校を卒業し、実践女子専門学校に進学し二年で中途退学した。
吉野 俊彦(よしの としひこ、1915年7月4日 - 200… 吉野 俊彦(よしの としひこ、1915年7月4日 - 2005年8月12日)は、日本銀行理事。父は逓信官僚の吉野圭三。 千葉県生まれ。武蔵高等学校を経て、1938年に東京帝国大学法学部を卒業し、日本銀行に入行する。日銀では調査局に勤め、内国調査課長、局次長、局長を経て1970年に理事に就任した。 1974年に山一證券経済研究所理事長に転じ、1984年に会長、1985年に特別顧問となり1998年まで務めた。また1978年1月に前川春雄副総裁を委員長とする日本銀行百年史編纂委員会が発足すると、呉文二、西川元彦と共に日本銀行百年史編纂委員会の委嘱委員を務めた。 神武景気以降、岩戸景気前夜の1950年代後半から1960年代初頭にかけて、戦後復興が一段落し、多くのエコノミストが「復興の勢いは終わり、これからは安定成長に移行する」と見通していた時期に、日本経済は依然として高い成長を維持できるか、それとも成熟・安定化すべきか、高度経済成長の是非と、日本経済の潜在能力をどのように評価するかを巡り、高度成長論者である下村治と安定成長論者の吉野の間で論争をおこなった。
金子 操(かねこ みさお、1915年7月1日 - 1990年… 金子 操(かねこ みさお、1915年7月1日 - 1990年3月22日)は日本の実業家。死亡時の役職は東宝代表取締役副社長、生活衛生同業組合京都興行理事長。東京都小平市出身。 この項目は、映画関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ映画)。
生源寺 廷(しょうげんじ ただし、大正4年〈1915年〉7月… 生源寺 廷(しょうげんじ ただし、大正4年〈1915年〉7月 - ?)は、日本の科学者。 大正4年(1915年)7月、父生源寺順、母嘉納治五郎の次女である忠子夫妻の長男として生まれる。昭和12年(1937年)3月31日、旧制福岡高等学校理科甲類を卒業。九州帝国大学応用化学科卒業。 博士論文「濃縮燃焼による亜硫酸パルプ廃液処理に関する研究」を著し、昭和36年(1961年)11月18日に工学博士を授与された。生源寺廷, 高橋英郎 & 丹野和夫 1962, p. 172によれば、工業技術院東京工業試験所に入所している。四国工業技術試験所(現在の産業技術総合研究所四国センター)に転じており(生源寺廷 1968, p. 26)、少なくとも翌年までは同所にいることが赤松勲・生源寺廷 1969, p. 195により判明している。
加藤 克巳(かとう かつみ、1915年6月30日 - 201… 加藤 克巳(かとう かつみ、1915年6月30日 - 2010年5月16日)は、昭和・平成期の歌人。 京都府綾部市生まれ。旧制埼玉県立浦和中学校在学中に短歌を作り始め、若山牧水系の歌誌「菁藻」(主宰:髙橋俊人)に入会。1933年、國學院大學予科入学、1935年、國學院大學国文科進学、折口信夫、武田祐吉らの薫陶を受ける。在学中に新芸術派短歌運動に加わり「短歌精神」を創刊。1936年、若手歌人の集まり「四月会」に参加。1937年、第一歌集『螺旋階段』を刊行。1938年、國學院大學卒業。 その後応召し、敗戦まで軍隊生活を経験する。戦後は浦和中学校の教諭に復帰。1946年、常見千香夫、大野誠夫らと「鶏苑」を創刊、近藤芳美、宮柊二らと「新歌人集団」を結成。
橋本 輝雄(はしもと てるお、1915年6月30日 - 20… 橋本 輝雄(はしもと てるお、1915年6月30日 - 2001年10月1日)は、日本の騎手、競走馬調教師。 1933年に騎手デビュー。太平洋戦争最中の1944年に「能力検定競走」として行われた東京優駿(日本ダービー)をカイソウで制したほか、1950年にはクモノハナに騎乗して皐月賞、日本ダービーのクラシック二冠を制した。騎手通算成績は1154戦154勝、うち八大競走3勝を含む重賞5勝。 1953年に調教師へ転身し、それぞれ菊花賞に優勝したコマヒカリ、アカネテンリュウ、中山大障害を4連勝し海外でも2勝したフジノオー、日本ダービー優勝馬メリーナイスなど数々の活躍馬を手掛けた。1993年に定年引退。調教師成績は日本中央競馬会が発足した1954年以降で通算7361戦931勝、うち八大競走・GI級競走4勝を含む重賞30勝。
島田 秀夫(しまだ ひでお、1915年6月27日 - 200… 島田 秀夫(しまだ ひでお、1915年6月27日 - 2005年11月3日)は、岡山県出身の会社役員、サッカー選手、第7代日本サッカー協会会長。 1928年に東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)、1933年に同附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。附属中の同級生には、石川馨(東京大学名誉教授)、中村光夫(文芸評論家)、小川平四郎(初代駐中国大使)などがいる。 旧制水戸高校(現・茨城大学)を経て、1936年に東北帝国大学法文学部に入学。1940年3月に大学を卒業して三菱重工業に入社した。1941年に太平洋戦争の召集を受けて従軍、1945年にシベリア抑留に遭い、1947年に帰国。
与謝野 道子(よさの みちこ、旧姓:坂内、1915年6月26… 与謝野 道子(よさの みちこ、旧姓:坂内、1915年6月26日 - 2000年10月31日)は、日本の評論家、随筆家。
岩永 博(いわなが ひろし、1915年6月26日 - 201… 岩永 博(いわなが ひろし、1915年6月26日 - 2010年11月9日)は、東洋史学者、法政大学名誉教授。 1915年、広島県生まれ。1939年東京帝国大学文学部西洋史学科を卒業。法政大学助教授となり、教授昇進。1986年に法政大学を定年退任し、名誉教授となった。1963年より公益財団法人中東調査会常務理事を務めた。 2010年11月9日、心不全のため死去。
糸数 カメ(いとかず カメ、1915年6月26日 - 199… 糸数 カメ(いとかず カメ、1915年6月26日 - 1991年10月23日)は、沖縄民謡の歌手、舞踊家。 8歳の頃から玉城盛義に師事。 1958年に玉城流師範免許を取得し、1976年には糸和会を設立した。 戦後沖縄の民謡、舞踊界の先駆的存在として活躍した一方で、空手にも秀でていた。 この項目は、歌手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ芸能人)。
古澤 潔夫(ふるさわ いさお、1915年6月25日 - 20… 古澤 潔夫(ふるさわ いさお、1915年6月25日 - 2001年3月3日)は日本の植物学者である。小石川植物園(東京大学大学院理学系研究科附属植物園)で働いた。
大西 三良(おおにし さぶろう、1915年 <大正4年> 6… 大西 三良(おおにし さぶろう、1915年 <大正4年> 6月25日 - 1996年 <平成8年> 9月16日)は、日本の経営者。日本ゼオン社長、会長を務めた。位階は従四位。 滋賀県出身。1936年に彦根高等商業学校を卒業し、1942年10月に横浜護謨製造に入社。 1951年3月に日本ゼオンに転じ、1966年11月に取締役に就任し、1969年5月に常務、1973年5月に専務を経て、1974年5月に副社長に就任し、1979年6月には社長に昇格。1987年6月に会長に就任。 1978年11月に藍綬褒章を受章し、1986年11月に勲三等旭日中綬章を受章。。 1996年9月16日胃癌のために死去。81歳没。
北野 善朗(きたの よしろう、1915年(大正4年)6月25… 北野 善朗(きたの よしろう、1915年(大正4年)6月25日 - 1975年(昭和50年)5月30日)は、日本の実業家である。日本ビクター(現在のJVCケンウッド)社長を務めた。 和歌山県の生まれ。1936年(昭和11年)に和歌山高等商業学校(現在の和歌山大学)を卒業し、松下無線に入社する。その後は福岡営業所を経て東京営業所、大阪本社に勤務し、1950年(昭和25年)には親会社の松下電器産業(現在のパナソニック)に転勤した。同年には同社の第1事業本部営業部長に就任し、1953年(昭和28年)には経営破綻に陥った日本ビクターに転勤し経営再建のために同社の専務に就任する。 1969年(昭和44年)には当時の社長であった百瀬結の元で副社長となり、翌1970年(昭和45年)には会長となった百瀬の後継者として代表取締役社長を務めた。
草間 俊一(くさま しゅんいち、1915年(大正4年)6月2… 草間 俊一(くさま しゅんいち、1915年(大正4年)6月24日 - 1997年(平成9年)1月15日)は、日本の歴史学者。岩手大学名誉教授。盛岡短期大学元学長。 長野県生まれ。旧制松本第二中学(現長野県松本県ヶ丘高等学校)、旧制松本高校を経て、1939年(昭和7年)京都帝国大学文学部史学科卒業。 高知県女子師範学校教授、岩手県女子師範学校、岩手師範学校教授を経て、1949年岩手大学学芸学部(現人文社会科学部)助教授、1962年教授。1976年(昭和51年)定年退官、名誉教授。 退官後は、盛岡短期大学学長を務めた。 1986年(昭和61年)、戦後40年間にわたり郷土史研究と文化財愛護に取り組み歴史研究の発展に貢献したことにより、第39回岩手日報文化賞(学芸部門)を受賞した。
奥田 智重子(おくだ ちえこ、1915年(大正4年)6月23… 奥田 智重子(おくだ ちえこ、1915年(大正4年)6月23日 - 2006年(平成8年)3月6日)は、日本の声楽家(ソプラノ)、音楽教育者。本名:久本 智重子(ひさもと ちえこ)。 千葉県千葉市出身。1937年(昭和12年)東京音楽学校本科卒業。1939年(昭和14年)同校研究科修了。世代柄『此の決意』(テイチク1943年2月新譜、東海林太郎・奥田智重子)等の軍歌の録音もある。 1949年(昭和24年)東京でリサイタル・デビュー。1953年(昭和28年)渡独、フライブルク音楽大学で学ぶ。1955年(昭和30年)同大学卒業。1955年(昭和30年) - 1958年(昭和33年)同大学マイスターコース修了。
坪内 美子(つぼうち よしこ、本名:山崎 登美子、1915年… 坪内 美子(つぼうち よしこ、本名:山崎 登美子、1915年6月22日 - 1985年11月3日)は、昭和期の女優。 東京市小石川区白山御殿町(現・文京区白山)に生れる。牛込高等女学校(現・豊島岡女子学園)卒業後、銀座の有名カフェの女給(源氏名・孔雀)をしているところをスカウトされ、1932年松竹蒲田撮影所に入社する。 1933年、野村芳亭監督の『涙の渡り鳥』で竹内良一の相手役に抜擢され、映画デビュー。続く『島の娘』でも主演し、人気スターの仲間入りをする。その後、島津保次郎監督の『春琴抄 お琴と佐助』、小津安二郎監督の『浮草物語』などの話題作に出演し、その美貌が人気を集めると共に、1935年には幹部に昇進し、名実共に、松竹の看板女優となる。
舘野 万吉(たての まんきち、1915年6月20日 - 20… 舘野 万吉(たての まんきち、1915年6月20日 - 2015年11月18日)は、日本の実業家。元日本製鋼所社長。 旧制栃木県立栃木中学校を経て、1933年に東京帝国大学工学部卒業。1940年、日本製鋼所入社、大日本帝國海軍呉工場(広島)で戦艦大和、戦艦武蔵等の建造に従事した。1979年同社社長就任(のち相談役)。横浜カントリークラブ名誉理事。 1977年に藍綬褒章、1987年に勲二等瑞宝章を受章。 2015年11月18日、老衰のため死去。100歳没。
深谷 義治(ふかたに よしはる、1915年6月20日 - 2… 深谷 義治(ふかたに よしはる、1915年6月20日 - 2015年4月21日)は、日本の陸軍軍人。 1915年6月20日、島根県大田市の農家に長男として生まれる。 1937年、浜田歩兵第21連隊に入隊。訓練後、中国の戦場で戦闘中に負傷。1939年に憲兵志願試験に合格。日本憲兵教習隊の第二中隊に配属され、中国の言語・歴史・地理などを学び、優秀な成績で卒業。1940年末、極秘の特殊任務を受けて中国人を装い、諜報員として活動を始める。敵国紙幣を偽造して貨幣市場を混乱させるなどの任務を成功させ、27歳で瑞宝章を受けた。終戦後も任務続行という命令を受け、中国に13年間潜伏。1958年にスパイ容疑で中国当局に逮捕され、上海市第一看守所(拘置所)と上海市監獄(刑務所)に合わせて20年4ヶ月収監。
山内 一男(やまのうち かずお、1915年6月19日 - 2… 山内 一男(やまのうち かずお、1915年6月19日 - 2008年3月)は、日本の経済学者。法政大学名誉教授。中国経済の近代化過程を研究した、中国研究の第一人者。菅沼正久らと共に文化大革命を礼賛した代表的な人物として知られる。 広島県出身。1940年東京帝国大学(現・東京大学)卒、南満州鉄道調査部勤務。1957年まで中国に滞在。1961年法政大学教授。1986年定年退任、名誉教授、中国研究所理事長。1984年~1987年現代中国学会代表幹事。 この項目は、経済学者(経済評論家を含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ウィキポータル 経済学、ウィキプロジェクト 経済)。
前田 護郎(まえだ ごろう、1915年6月17日 - 198… 前田 護郎(まえだ ごろう、1915年6月17日 - 1980年4月17日)は、新約聖書学者、東京大学名誉教授。
堀江 正夫(ほりえ まさお、1915年〈大正4年〉6月16日… 堀江 正夫(ほりえ まさお、1915年〈大正4年〉6月16日 - 2022年〈令和4年〉3月20日)は、日本の陸軍軍人、陸上自衛官、政治家。自由民主党所属の参議院議員(2期)。位階勲等は正四位勲二等。日本会議代表委員。アジアと日本の平和と安全を守る全国フォーラム初代会長。 新潟県糸魚川市出身。水産学校校長堀江英一の次男として生まれた。7歳から12歳まで樺太で過ごし、糸魚川中学、東京陸軍幼年学校(34期)、陸士予科を経て、陸軍士官学校を卒業(第50期、35番/426名)。旧軍時代は歩兵科士官で、太平洋戦争中に陸軍大学校を卒業し(57期)、第18軍参謀としてパプアニューギニアで終戦を迎えた。 終戦後、1946年(昭和21年)3月に復員し、妻の郷里宮崎県日南市で林業に従事した後、警察予備隊及び保安隊を経て陸上自衛隊で勤務。
山本 夏彦(やまもと なつひこ、1915年6月15日 - 2… 山本 夏彦(やまもと なつひこ、1915年6月15日 - 2002年10月23日)は、日本の随筆家・編集者。東京市下谷根岸出身。 東京の下谷根岸に生まれる。父・山本三郎(1879-1928)は、坪内逍遥に傾倒し慶応から早稲田に転学し、詩人・山本露葉として児玉花外、山田枯柳らとともに若手の新体詩人として注目されたが、夏彦は三男で小学6年時に、父は50歳で亡くなった。なお祖父は高利貸しの山本義上(1848-1909)で、父の代は資産家であった。 父・露葉の友人であった武林無想庵に連れられ15歳で渡仏。3年後に帰国し、24歳のときにフランス童話『年を歴た鰐の話』の翻訳で文壇デビュー。戦後まもない1950年に工作社を創立、没時まで編集兼発行人、コラムニストとしても活動した。
伊藤 一郎(いとう いちろう、1915年6月15日 - 19… 伊藤 一郎(いとう いちろう、1915年6月15日 - 1991年5月6日)は、日本の工学者。京都大学名誉教授。京都市出身。資源工学の第一人者として活躍した。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
関野 雄(せきの たけし、1915年6月14日- 2003年… 関野 雄(せきの たけし、1915年6月14日- 2003年7月23日)は、日本の考古学者、東洋史学者。東京大学名誉教授。 1915年、東京で生まれた。東京帝国大学文学部で東洋史を学び、1939年に卒業。北京に留学し、1941年に帰国し、東京大学文学部助手に採用された。1943年に応召し、1946年に復員。 戦後は東亜考古学会研究員として勤務。後に東京大学文学部助手に就いた。1949年、法政大学助教授に就き、1950年に教授昇格。1951年に東京大学東洋文化研究所助教授に転じた。1957年、学位論文『半瓦当の研究』を東京大学に提出して文学博士の学位を取得。また、同1957年に戦後はじめての考古学者による訪中が日本考古学協会と毎日新聞社の共同主催で組織されると団員として訪中。
和歌森 太郎(わかもり たろう、1915年(大正4年)6月1… 和歌森 太郎(わかもり たろう、1915年(大正4年)6月13日 - 1977年(昭和52年)4月7日)は日本の歴史学者、民俗学者。東京教育大学名誉教授。専門は日本の民衆史・修験道史。
池見 酉次郎(いけみ ゆうじろう、大正4年(1915年)6月… 池見 酉次郎(いけみ ゆうじろう、大正4年(1915年)6月12日 - 平成11年(1999年)6月25日)は、日本の心身医学、心療内科の基礎を築いた草分け的な日本の医学者。九州大学医学部名誉教授。位階は正四位。勲三等旭日中綬章。甥は臨床心理学者の池見陽。 福岡県糟屋郡粕屋町生まれ。旧制福岡中学(現福岡県立福岡高等学校)、九州帝国大学医学部卒業。戦後、アメリカの医学が日本に流入した際、心身医学の存在を知る。昭和27年(1952年)にはアメリカミネソタ州のメイヨー・クリニックに留学し、帰国後、日野原重明、三浦岱栄らと共に昭和35年(1960年)日本心身医学会を設立し、初代理事長になる。翌昭和36年(1961年)九州大学に国内最初に設立された精神身体医学研究施設(現在の心療内科に当たる)教授に就任し、内科疾患を中心に、心と体の相関関係に注目した診療方法を体系化、実用化に尽力した。
中村 時雄(なかむら ときお、1915年6月12日 - 20… 中村 時雄(なかむら ときお、1915年6月12日 - 2001年3月20日)は、日本の政治家である。衆議院議員、松山市長を歴任した。
諏訪 博(すわ ひろし、1915年(大正4年)6月11日 -… 諏訪 博(すわ ひろし、1915年(大正4年)6月11日 - 1989年(平成元年)12月9日)は、日本の実業家。北海道小樽市出身。TBS社長などを務めた。 小樽中学校(現・北海道小樽潮陵高等学校)、慶應義塾大学経済学部卒業後、国際電気通信に入社。 1951年(昭和26年)、TBSの前身であるラジオ東京の設立に参加。ラジオ編成部長、テレビ演出部長、テレビ営業局長、1964年(昭和39年)11月常務を歴任。1969年(昭和44年)11月28日社長に昇格、1977年(昭和52年)6月29日会長に退き、山西由之に社長を譲る。 1983年(昭和58年)相談役、1986年(昭和61年)山西が死去したため3月25日会長に復帰し、1989年(平成元年)6月29日特別顧問。
内田 一臣(うちだ かずとみ、1915年(大正4年)6月8日… 内田 一臣(うちだ かずとみ、1915年(大正4年)6月8日 - 2001年(平成13年)7月5日)は、日本の海軍軍人及び海上自衛官。海軍兵学校卒業(第63期)。第8代海上幕僚長。 岡山県出身。旧制津山中学を経て海軍兵学校に入校。1936年(昭和11年)3月、海軍兵学校を卒業。海軍少尉候補生として遠洋航海に参加し、アメリカ合衆国各地を巡った。 1937年(昭和12年)8月、軽巡洋艦「川内」乗組みだった海軍少尉時代に第二次上海事変を迎える。同艦の乗員で急遽編成された臨時の陸戦隊小隊長として参加し、1ヶ月間に及ぶ戦闘に従事した。その際、中華民国陸軍の師団本部を殲滅し師団長を戦死させた。この功績により金鵄勲章を授与される。
香坂 順一(こうさか じゅんいち、1915年6月7日 - 2… 香坂 順一(こうさか じゅんいち、1915年6月7日 - 2003年7月22日)は、日本の中国語学者、大東文化大学名誉教授。 栃木県生まれ。東京外国語学校支那語科卒業。広州市嶺南大学(現・中山大学の前身)に学ぶ。戦後、大阪市立大学教授、1973年から1975年北京大学客員教授。大東文化大学東洋文化研究所教授、同中国語学科主任、同学長、同常務理事、同顧問。NHK中国語講座の講師を務めた。一般財団法人日本中国語検定協会創設者、初代理事長。1990年勲三等旭日中綬章受勲。
森田 宗一(もりた そういち、1915年6月5日 - 200… 森田 宗一(もりた そういち、1915年6月5日 - 2007年2月7日)は、日本の裁判官、弁護士。 東京都出身。昌平中学校、東京帝国大学法学部卒。1942年司法官試補。1949年少年法施行と同時に最高裁判所家庭局付判事補。同局第三課長を経て、1959年東京家庭裁判所判事。1973年に弁護士となる。 青少年の健全育成を唱え、1970年には少年法適用年齢の上限引き下げ改正要綱に反対した。
西村 公朝(にしむら こうちょう、1915年(大正4年)6月… 西村 公朝(にしむら こうちょう、1915年(大正4年)6月4日 - 2003年(平成15年)12月2日)は、日本の仏師・仏像修理技師・僧侶・東京芸術大学名誉教授。勲三等瑞宝章。前名:西村利作。位階は従四位。 大正4年(1915年)6月4日、大阪府三島郡富田村(現・高槻市富田町2丁目)に、父・利兵衛と母・ミツの長男として生まれた。 1935年、東京美術学校(現東京芸術大学)に入学。彫刻科木彫部で現代彫刻家を志す。4年生の時に同校の古美術研究旅行で京都・奈良をまわり、法隆寺・夢殿の救世観音に感激。1940年に卒業し、いったんは私立大阪工科学校(旧制)の図画教師となる。 1940年頃、学生時代の縁で法隆寺に通っていた際、偶然日本美術院(第二部)初代院長である新納忠之介も同寺を訪ねており、後進の明珍恒男が亡くなったばかりで、「美大出で誰か仏像の好きなやつはおらんか」と法隆寺の僧に尋ねると、「丁度相応しい者が金堂におります」と紹介され、新納から美術院への入所の誘いを受けた。
一色 孝(いっしき たかし、1915年6月3日 - 1958… 一色 孝(いっしき たかし、1915年6月3日 - 1958年4月15日)は、日本の薬学者(薬学博士〈東京大学)。 1957年に新設された東北大学医学部薬学科の初代教授として赴任し、学科のカリキュラム立案、学科の教室や研究室の新設・改設などに従事した。一年後の名古屋の学会に出席中、研究室火災の報を受け、急遽、仙台に戻る夜行列車途中の伊達駅付近で急逝した。 東京帝国大学薬学科の朝比奈泰彦研究室で石館守三助教授の指導のもとで薬学研究をスタートし、石館守三教授の新設講座設立(薬品分析化学講座)に伴い、副手、助手、助教授として研究を行った。 1943年の秋頃、古河町の実家に疎開し以後古河から通勤したが戦時中でありしばしば研究を中断せざるを得なかった。
松本 正(まつもと ただし、1915年6月3日 - 2005… 松本 正(まつもと ただし、1915年6月3日 - 2005年11月13日)は、日本の工学者。北海道大学名誉教授。北海道工業大学元学長。北海道伊達市出身。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。 この項目は、工学・技術に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(Portal:技術と産業)。
金 沃周(キム・オクチュ、朝鮮語: 김옥주、1915年6月3… 金 沃周(キム・オクチュ、朝鮮語: 김옥주、1915年6月3日 - 1980年9月12日)は、日本統治時代の朝鮮の労働運動家、独立運動家、大韓民国の教員、政治家。制憲韓国国会議員。 元国会議員の金善周(朝鮮語版)は兄。 全羅南道光陽郡津上面出身。光陽公立普通学校(現・光陽西初等学校(朝鮮語版))、ソウル養正高等普通学校、早稲田大学法科卒。朝鮮化学工業株式会社に入社したが、朝鮮人の労働者待遇改善を求めた運動および反日思想事件に関与したため、10ヶ月間投獄された。解放後は光陽津上国民学校教員、無所属の制憲国会議員、大韓民国憲法・政府組織法起草委員を務めた。国会議員在任中の1949年に国会フラクチ事件の連座により懲役6年を言い渡された。
泉 靖一(いずみ せいいち、1915年6月3日 - 1970… 泉 靖一(いずみ せいいち、1915年6月3日 - 1970年11月15日)は、日本の文化人類学者。東京大学東洋文化研究所教授。専門は文化人類学。 1915年、東京府雑司ヶ谷で政治経済学者の父・泉哲、母・ハツヨの長男として出生。本籍地は北海道夕張郡角田村(栗山町の前身)。東京市青柳尋常小学校に入学したが、4年次に豊島師範学校付属小学校に転入。6年次の時に朝鮮半島に渡り、京城府公立東大門尋常小学校に転入。京城公立中学校、京城帝国大学予科を経て、京城帝国大学法文学部に進学。当初は文学科所属であったが、のち哲学科に転科し、卒業。 卒業後は、京城帝国大学法文学部助手に採用された。その後、同大学理工学部助手兼書記、同大学学生主事補、同大学大陸資源科学研究所嘱託を務めた。
渡辺 佳英(わたなべ よしふさ、1915年(大正4年)6月1… 渡辺 佳英(わたなべ よしふさ、1915年(大正4年)6月1日 - 1993年(平成5年)4月28日)は、日本の実業家。東洋パルプ元社長。中小企業金融公庫元総裁。元通産省官僚。 妻は、帝国海軍史上屈指の英才と評される、堀悌吉 海軍中将の次女。 星野嘉一の次男として愛知県に生まれ、外祖母・渡辺縫子の養子となる。 1937年(昭和12年)高等文官試験の行政科と司法科をとり、翌年1938年(昭和13年)3月東京帝国大学法学部法律学科を卒業。同年4月に商工省に入省。入省後間もなく、内閣法制局参事官に転じ、新憲法にも貢献した。 1948年(昭和23年)通産省に復帰。その後、繊維局化学繊維課長、資源長石炭生産局生産課長、工業技術庁調整課長、公益事業委員会審査課長、企業局企業第一課長を歴任し、1952年(昭和27年)退官。
平田 義正(ひらた よしまさ、1915年5月30日 - 20… 平田 義正(ひらた よしまさ、1915年5月30日 - 2000年3月5日)は、日本の天然物化学者。名古屋大学名誉教授。 1915年、山口県山口市生まれ。山口高等学校理科甲類を卒業し、1938年に東京帝国大学理学部化学科に入学。1941年に卒業した。卒業研究および同大学大学院においては、有機化学の久保田勉之助教授(ポール・サバティエ門下)の下で黄変米の有毒成分を研究した。 1943年より、母校である東京帝国大学助手になる。1944年1月、名古屋帝国大学に理学部講師として着任し、6月には助教授に就任。太平洋戦争中の戦時下では、研究室疎開先の長野県上田市で江上不二夫の指導の下、乏しい物資の中で研究に当たった。
森 弘太郎(もり こうたろう、1915年5月29日 - 19… 森 弘太郎(もり こうたろう、1915年5月29日 - 1966年9月1日)は、愛知県一宮市出身のプロ野球選手(投手)。
山内 邦臣(やまのうち くにおみ、1915年5月28日 - … 山内 邦臣(やまのうち くにおみ、1915年5月28日 - 1998年6月17日 )は、英米文学者。京都大学名誉教授。旧姓は「姉嵜 邦臣(あねざき)」。主としてユージン・オニールを研究。 1915年、奈良県奈良市生まれ。旧制奈良師範附属小学校、旧制奈良中学校、旧制高岡中学校を経て、旧制富山高等学校を1935年に卒業。京都帝国大学文学部(英文学専攻)に進み、1938年に卒業した。その後は同大学大学院に進み、1943年まで在籍した。 その後は文学部副手となり、1939年までつとめた。1939年より旧制大谷女子専門学校講師、1940年旧制龍谷大学予科教授、1944年旧制京都府立女子専門学校教授(1946年まで)、旧制第三高等学校教授(1948年まで)。
鶴園 哲夫(つるぞの てつお、1915年 <大正4年> 5月… 鶴園 哲夫(つるぞの てつお、1915年 <大正4年> 5月28日 - 2006年 <平成18年> 4月11日)は、日本の政治家。参議院議員(3期)。 鹿児島県知覧町(現南九州市)出身。旧制鹿児島県立第一鹿児島中学校、旧制第七高等学校造士館、東京帝国大学農学部農業経済学科を卒業。1940年に農林省入省。全農林労働組合委員長を経て1959年、第5回参議院議員通常選挙全国区に日本社会党から出馬し初当選。1971年、第9回参議院議員通常選挙で鹿児島地方区に回り、当選。決算委員長や公害対策環境保全特別委員長などを歴任した。 1985年秋の叙勲で勲二等旭日重光章受章。 2006年4月11日、呼吸不全のため東京都新宿区の病院で死去。
朴 永昌(パク・ヨンチャン、朝鮮語: 박영창、1915年5月… 朴 永昌(パク・ヨンチャン、朝鮮語: 박영창、1915年5月28日 - 2015年7月28日)は、大韓民国の独立運動家、牧師、教授。 雅号はウォルガン(월광)。数々の著書があり、民族のための牧師であったとされる。父はプロテスタントの長老で神社参拝拒否運動を展開した朴寛俊。 訳は一部日本語版の題名を引用。
松浦潟 達也(まつらがた たつや、1915年5月27日 - … 松浦潟 達也(まつらがた たつや、1915年5月27日 - 1945年3月10日頃)は、佐賀県東松浦郡名古屋村馬渡島(現・唐津市鎮西町馬渡島)出身の大相撲力士。本名は牧山 強臣(まきやま つよみ)。 1930年1月場所に錦島部屋から初土俵を踏む。四股名は出身地の松浦潟(唐津湾)に由来する。1938年1月からは「大蛇潟(おろちがた)」の四股名で新入幕を果たすが、負け越して1場所で十両陥落となる。このままでは伸び悩むと判断したことから、四股名を「枩浦潟」に戻し、1940年1月場所で再入幕。このとき、独立した能代潟錦作と共に立田山部屋へ移籍した。 折しも時代は太平洋戦争へと突入し、若手の力士たちも次々に戦場へ召集されていったが、枩浦潟は大相撲に必要不可欠な存在として兵役を免除され、戦時中にあっても現役の力士として活躍を続けた。
草野 文男(くさの ふみお、1915年5月24日 - 199… 草野 文男(くさの ふみお、1915年5月24日 - 1996年8月21日)は、中国研究者。 1915年、福島県いわき市で生まれた。法政大学に進学するが、1939年に中退。中央大学に移るが、1941年に中退。北京大学で学ぶが、中退。 その後、外務省に入省し、情報部、調査部、調査局で勤務。その後、拓殖大学政経学部助教授に転じた。1960年、学位論文『中共計画経済の実証的研究』を拓殖大学に提出して経済学博士号を取得。後に教授昇格。1987年に拓殖大学を退任し、名誉教授。となった。1996年8月21日、肺癌のため死去。 この項目は、経済学者(経済評論家を含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ウィキポータル 経済学、ウィキプロジェクト 経済)。
塩野 宜慶(しおの やすよし、1915年5月23日 - 20… 塩野 宜慶(しおの やすよし、1915年5月23日 - 2011年1月22日 )は、日本の法律家。法務事務次官、東京高等検察庁検事長、最高裁判所判事を歴任。司法大臣を務めた塩野季彦の長男。子に最高検検事、福島地検検事正等を務めた健彦(中央大学法学部卒業)がいる。 父季彦の実家、山寺家は旧松代藩士の家系。本籍地の長野県松代町で出生、東京市で育つ。 東京府立第一中学校、府立高等学校を経て、1939年(昭和14年)に東京帝国大学法学部を卒業する。高等文官試験司法科(現在の司法試験に相当)に合格し、検察官に任官した。東京地検刑事部長、東京地検公判部長、法務総合研究所第一部長、甲府地検検事正、東京地検検事正を歴任。
浅原 清隆(あさはら きよたか、1915年(大正4年)5月2… 浅原 清隆(あさはら きよたか、1915年(大正4年)5月23日- 1945年(昭和20年)5月29日)は兵庫県生まれの洋画家。 兵庫県神戸市中央区播磨町生まれ。 1934年(昭和9年)帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)に入学。1935年(昭和9年)第22回二科展に初入選する。シュルレアリスムに関心を持ち、同級生らと1936年(昭和10年)グループ「表現」を結成同年「動向」の結成参加、映画研究会の会報『T映』参加。1937年(昭和11年)第7回独立展入選。1938年(昭和12年)創紀美術協会結成に参加。1939年(昭和13年)美術文化協会の結成に参加。同年、神戸で個展を開催するが、まもなく応召し、1945年(昭和20年)ビルマ(現:ミャンマー)のプローム県で行方不明となる。