澤部 元信(さわべ もとのぶ、1883年(明治16年)3月1… 澤部 元信(さわべ もとのぶ、1883年(明治16年)3月10日 - 1973年 <昭和48年> 4月6日)は、日本の政治家。初代茨城県下妻市長(2期)。勲五等双光旭日章。位階は正六位。 ハライチの澤部佑の曽祖父。 1903年(明治36年)、明治法律学校を修了する。1921年(大正10年)真壁郡下妻町会議員となる。その後、1933年(昭和8年)と1939年(昭和14年)に下妻町長に就任。町長は1943年(昭和18年)まで務めた。 戦後公職追放となり、追放解除後の1952年(昭和27年)下妻町長に復帰する。1954年(昭和29年)下妻町は真壁郡上妻村・結城郡総上村・豊加美村・筑波郡高道祖村を編入し、下妻市が発足し、町長から初代市長となった。
金子 喜代太(かねこ きよた、1883年(明治16年)3月9… 金子 喜代太(かねこ きよた、1883年(明治16年)3月9日 - 1971年(昭和46年)6月6日)は、日本の実業家。結婚によって浅野総一郎の親戚になり、浅野財閥の多数の企業の重役を務めた。 1883年(明治16年)3月に、高知県の金子虎太郎の長男として生まれた。東京高等師範学校(筑波大学)の物理化学科を1907年(明治40年)に卒業した。 或いは数学科を卒業した。 教師として数年間働いてから、東京帝国大学(東京大学)に入学して、穂積八束博士宅に寄寓して、昼は学生、夜は教師をして苦学しながら、法科 または政治科を大正4年に卒業した。 卒業後に最初は三菱合資に就職したが、 穂積八束博士の娘であり穂積重威の妹でもある女性と結婚して、浅野総一郎の親戚となり、大正6年に浅野セメント(太平洋セメント)に転職した。
白勢 黎吉(しろせ れいきち、1883年〈明治16年〉3月9… 白勢 黎吉(しろせ れいきち、1883年〈明治16年〉3月9日 - 没年不詳)は、台湾総督府官僚。実業家。 新潟県北蒲原郡新発田町(現在の新発田市)出身。今井文三の二男として生まれ、白勢家を継いだ。1909年(明治42年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、高等文官試験に合格した。台湾総督府鉄道部書記、同事務官、交通局理事、鉄道部長兼総務課長、交通局総長を歴任した。 退官した後は、台湾青果社長、常磐簡易火災保険会社常務取締役、東海運輸株式会社社長、台湾土地建物株式会社取締役、台湾乗合自動車事業組合理事長、台湾自動車事業組合連合理事などを務めた。
広部 達三(廣部 達三、ひろべ たつぞう、1883年〈明治1… 広部 達三(廣部 達三、ひろべ たつぞう、1883年〈明治16年〉3月9日 - 没年不明)は、日本の農学者。東京帝国大学農学部教授。農林省農事試験場技師。旧姓・太田。 宮城県仙台市生まれ。太田可一の弟。1907年、東京帝国大学農学科卒業。1912年、広部銀行頭取・広部清兵衛の養子となる。農科大学講師兼農事試験場嘱託同技師農林技師歴職。また広部拓殖社員である。 『広部農具論』、『広部農用機具』などの著書がある。趣味は庭球、柔道、弓道、スケート、写真。住所は東京市渋谷区神山町。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
森 万吉(萬吉、もり まんきち、1883年(明治16年)3月… 森 万吉(萬吉、もり まんきち、1883年(明治16年)3月8日 - 没年不明)は、明治時代後期から昭和時代前期の台湾総督府官僚。台南市尹。花蓮港庁長。 東京府荏原郡馬込村(馬込町、東京市大森区を経て、現東京都大田区)に生まれる。1907年(明治40年)3月、台湾総督府雇となり、同年7月、文官普通試験に合格する。1908年(明治41年)4月、統計講習会を修了し、土木局勤務を拝命する。ついで臨時台湾工事部書記、土木局庶務課勤務、台北庁属、内務局土木課庶務係長などを経て、1924年(大正13年)12月、新竹州苗栗郡守となる。1926年(大正15年)1月、台南州虎尾郡守、1928年(昭和3年)9月、台中州豊原郡守を経て、1932年(昭和7年)4月、台南市尹に就任。
米津 政賢(よねきつ まさただ、1883年(明治16年)3月… 米津 政賢(よねきつ まさただ、1883年(明治16年)3月8日 - 1941年(昭和16年)8月19日)は、明治から昭和期の技術者、政治家、華族。貴族院子爵議員。位階および勲等は正三位・勲二等。 旧長瀞藩主・米津政敏の長男として生まれる。父の死去に伴い、1895年(明治28年)11月22日、子爵を襲爵した。 学習院中等科、第六高等学校を経て、1908年(明治28年)7月、東京帝国大学農科大学を卒業。同年、農商務省嘱託となる。以後、農商務省種畜牧場嘱託、農林省嘱託、同畜産試験場嘱託、畜産博覧会審査官、第2回神奈川県有畜農業経営共進会審査長などを務めた。 1915年(大正4年)6月12日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し、死去するまで5期在任した。
塩沢 幸一(しおざわ こういち、1883年(明治16年)3月… 塩沢 幸一(しおざわ こういち、1883年(明治16年)3月5日 - 1943年(昭和18年)11月17日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。長野県伊那郡大草村(現上伊那郡中川村)出身。実家は養命酒で有名な養命酒製造で塩沢はその四男。妻すがは代議士・北原阿智之助次女。文芸評論家の中沢臨川は次兄。
伊木 壽一(いぎ ひさいち、明治16年(1883年)3月3日… 伊木 壽一(いぎ ひさいち、明治16年(1883年)3月3日 - 1970年11月28日)は、日本の歴史学者。専門は日本古文書学。 1883年(明治16年)、山口県大津郡三隈村(現在の山口県長門市)で山口県士族伊木尚義の長男として生まれた。山口中学校、山口高等学校を経て、東京帝国大学文科大学史学科に進学。1906年に卒業。同大学大学院に入学し、古文書学を専攻した。 1907年、東京帝国大学史料編纂掛嘱託となり、『大日本古文書』の伊達家文書・相良家文書等の編纂に従事。1908年からは國學院大學、1911年からは慶應義塾大学部で講師として古文書学を講義した(兼任)。1925年に史料編纂官となり、『大日本史料』第9編の編纂を手掛けた。
和田 三造(わだ さんぞう、1883年(明治16年)3月3日… 和田 三造(わだ さんぞう、1883年(明治16年)3月3日 - 1967年(昭和42年)8月22日)は、明治・大正・昭和期の日本の洋画家、版画家。帝国美術院会員。1953年(昭和28年)、大映映画『地獄門』で、色彩デザイン及び衣裳デザインを担当し、この作品で、1954年(昭和29年)の第27回アカデミー賞で衣裳デザイン賞を受賞。
武田 久吉(たけだ ひさよし、1883年3月2日 - 197… 武田 久吉(たけだ ひさよし、1883年3月2日 - 1972年6月7日)は、日本の植物学者、登山家。
朝倉 文夫(あさくら ふみお、1883年〈明治16年〉3月1… 朝倉 文夫(あさくら ふみお、1883年〈明治16年〉3月1日 - 1964年〈昭和39年〉4月18日)は、明治から昭和の彫刻家(彫塑家)である。号は紅塐(こうそ)。「東洋のロダン」と呼ばれることもある。位階は正三位。舞台美術家・画家の朝倉摂(摂子)は長女、彫刻家の朝倉響子は次女。 1883年(明治16年)、大分県大野郡上井田村(現豊後大野市朝地町)村長であった渡辺要蔵の三男として生まれる。11人兄弟の5番目の子であった文夫は1893年(明治26年)の10歳の時に朝倉種彦(衆議院議員・朝倉親為の弟にあたる)の養子となるが、入学した大分尋常中学校竹田分校(在学中に「竹田中学校」に独立。現大分県立竹田高等学校)を3度も落第し、いたたまれなくなった母・キミにより1902年(明治35年)、当時既に東京で新進気鋭の彫刻家として既に活躍していた9歳年上の兄・渡辺長男を頼って上京することになる。
牛島 省三(うしじま しょうぞう、せいぞう、1883年(明治… 牛島 省三(うしじま しょうぞう、せいぞう、1883年(明治16年)3月 - 1940年(昭和15年)10月14日)は、日本の内務・警察・朝鮮総督府官僚、実業家。官選茨城県知事。 陸軍大将の牛島満は弟。 鹿児島県鹿屋市出身。薩摩藩士牛島実満の二男。父は明治維新後、東京に住し、陸軍中尉として近衛連隊に勤務していたが、弟の満が生まれる半年前に死去。5歳の時に母に連れられて鹿児島に転居[要出典]。 第七高等学校造士館を卒業後、1910年に東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。1911年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し兵庫県試補となる。 以後、兵庫県警視、同県美嚢郡長、鳥取県理事官、山口県警察部長、熊本県警察部長、兵庫県警察部長、石川県書記官・内務部長、長野県書記官・内務部長、大阪府書記官・内務部長、警視庁警務部長などを歴任。
真野 正雄(まの まさお、1883年〈明治16年〉3月 - … 真野 正雄(まの まさお、1883年〈明治16年〉3月 - 1939年〈昭和14年〉2月7日)は、明治末期から昭和戦前期にかけての日本の電気技術者・実業家である。逓信省の技師を経て中部電力(岡崎)常務取締役を務めた。父は機械工学者の真野文二。 真野正雄は、1883年(明治16年)3月、当時工部大学校助教授であった真野文二(のち東京帝国大学教授・貴族院勅選議員)の長男として生まれた。1906年(明治39年)7月、岡山市の第六高等学校工科を卒業し、次いで1910年(明治43年)7月に東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業した。 大学卒業後は一旦三井物産に入社するが1911年(明治44年)5月退社して逓信省へ入り、8月逓信技手に任ぜられる。
森 恪(もり かく、1883年〈明治16年〉2月28日 - … 森 恪(もり かく、1883年〈明治16年〉2月28日 - 1932年〈昭和7年〉12月11日)は、昭和戦前期の日本の実業家、政治家、衆議院議員。名の「恪」を「かく」とも読むが、本来の読みは「つとむ」。 「東洋のセシル・ローズ」を自認した帝国主義者。軍部と提携し、日本の中国侵出に大きな役割を果たした。また、三井物産天津支店長、中国興業株式会社社長、外務政務次官、内閣書記官長、立憲政友会幹事長を務めた。 1883年2月28日、大阪府大阪市西区江戸堀に生まれる。父は判事・大阪市議会議長を務めた森作太郎。慶應義塾幼稚舎を卒業したが、成績不良と素行不良のため慶應義塾普通部に進めず、大阪に帰郷。その後、東京商工中学校(最終学歴)を卒業。
足立 正(あだち ただし、1883年(明治16年)2月28日… 足立 正(あだち ただし、1883年(明治16年)2月28日 - 1973年(昭和48年)3月29日)は、日本の実業家・財界人。位階勲等は正三位勲一等旭日大綬章。号立堂。王子製紙社長、ラジオ東京(現・TBSホールディングス)初代社長・会長、日本民間放送連盟初代会長。日本商工会議所名誉会頭。東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。 1883年(明治16年)鳥取県境町(現・境港市)朝日町に生まれる。1905年(明治38年)東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業、三井物産へ入社。1920年(大正9年)王子製紙取締役に就任、1942年(昭和17年)同社社長就任 1951年(昭和26年)ラジオ東京(現・TBS)創立に当たり取締役社長。
内藤 正剛(ないとう まさたけ、1883年(明治16年)2月… 内藤 正剛(ないとう まさたけ、1883年(明治16年)2月28日 - 1959年(昭和34年)1月22日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)、弁護士。 岡山県阿賀郡新見村(現在の新見市)出身。関西法律学校(現在の関西大学)を卒業した後、中央大学で学び、判事検事登用試験に合格した。司法官試補となったが、後に弁護士となり、大阪弁護士会副会長を務めた。弁護士のかたわら大阪市会議員・同議長、大阪府議会議員・同議長を歴任した。 1932年(昭和7年)、第18回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第20回まで3回連続当選を果たした。 戦後、公職追放となる。1951年追放解除。 その他に大阪木材相互市場株式会社顧問、関西大学監事などを務めた。
土屋 興(つちや おき、1883年〈明治16年〉2月25日 … 土屋 興(つちや おき、1883年〈明治16年〉2月25日 - 1927年〈昭和2年〉12月1日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 静岡県駿東郡、のちの沼津町(現沼津市)出身。1910年、慶應義塾大学政治科卒。卒業後はイギリスに留学し、1914年、ロンドン大学政治経済科卒。大阪毎日新聞に入り、記者となる。その後、東洋加工紙、富士護謨工業、富士川製紙、関東紡績各(株)取締役、富士薬品工業(株)監査役、土屋(資)代表社員、荏原郡議、大崎町(現・品川区)議となる。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において東京13区から立憲政友会公認で立候補して当選する。1924年の第15回衆議院議員総選挙では政友本党公認で立候補して再選した。
菅源三郎(かん げんざぶろう、1883年(明治16年)2月2… 菅源三郎(かん げんざぶろう、1883年(明治16年)2月24日 - 1942年(昭和17年)5月20日)は、日本の航海士、船長。 1883年、愛媛県越智郡歌仙村(現在の菊間町)で生まれる。愛媛県の松尾尋常小学校、旧制西条中学校(現愛媛県立西条高等学校)を経て1908年に商船学校を卒業し、日本郵船に入社。その後日本郵船の外国航路の乗組船員として熱田丸、阿波丸などの乗務に就く。1916年に甲種船長免状を取得した後に三菱合資会社、近海郵船へ移籍して日華連絡航路、日台連絡航路の乗務に従事し、1939年に東亜海運に移って上海航路の乗務に就いた。 第二次世界大戦時に定期船長崎丸の船長として海軍の捜索要請に協力、揚子江河口にてアメリカの客船「プレジデント・ハリソン」を発見し、これを追跡して座礁させた。
神鞭 常孝(こうむち つねたか、1883年(明治16年)2月… 神鞭 常孝(こうむち つねたか、1883年(明治16年)2月24日 – 1956年(昭和31年)6月27日)は、日本の大蔵官僚。南満州鉄道理事、北支那開発副総裁。 京都府出身。衆議院議員・法制局長官神鞭知常の長男として生まれる。第四高等学校を経て、1907年(明治40年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、同年に高等文官試験に合格した。大蔵省に入って、ロンドン駐在財務官附となり、1911年(明治44年)に帰国。税関事務官として横浜税関に勤務し、大蔵省関税課長、横浜税関長を歴任した。 1927年(昭和2年)、南満州鉄道株式会社の理事に就任し、経理部長・販売部長・用度部長を務めた。さらに昭和製鋼所常務取締役となり、1938年(昭和13年)からは北支那開発株式会社の副総裁を務めた。
田口 易之(たぐち やすゆき / えきし、1883年(明治1… 田口 易之(たぐち やすゆき / えきし、1883年(明治16年)2月24日 - 1965年(昭和40年)2月13日)は、日本の検察官、内務・警察官僚、政治家。官選大分県知事、和歌山市長。 岡山県西北条郡上田邑村(田邑村を経て現津山市上田邑)出身。田口徳一郎の二男として生まれた。1912年10月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年12月、司法官試補に任じられ静岡地方裁判所検事局事務修習となる。 1913年10月、静岡区裁判所検事代理に就任。同年7月、検事に昇格し名古屋地方裁判所検事局勤務となる。以後、富山区裁判所検事、輪島区裁判所検事、金沢区裁判所検事などを歴任。1920年6月、内務省に転じ、大阪府警視・刑事課長に就任。
佐々井 一晁(ささい いっちょう / かずあきら、1883年… 佐々井 一晁(ささい いっちょう / かずあきら、1883年(明治16年)2月22日 - 1973年(昭和48年)1月12日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。本名・佐々井晁次郎。 兵庫県氷上郡、のちの葛野村(現丹波市)で生まれる。1909年神戸市バルモーア英学院高等部卒。卒業後は逓信書記官補、小学校教員、内務省社会局、中央教化団体連合会の各嘱託などを務める。その後、大日本党を組織し、主宰となり、引き続き同党をやまとむすびと改称し、主宰を務めた。1942年の総選挙(いわゆる翼賛選挙)では兵庫5区から非推薦で立候補して当選する。同選挙区では1940年に衆議院で「支那事変処理中心とした質問演説」(いわゆる反軍演説)を行ったために議会を除名された斎藤隆夫も非推薦で立候補してトップ当選し、この選挙区では定員3名のうち2名が大政翼賛会の推薦を受けなかった非推薦の候補が当選した数少ない選挙区となった。
志賀 直哉(しが なおや、1883年〈明治16年〉2月20日… 志賀 直哉(しが なおや、1883年〈明治16年〉2月20日 - 1971年〈昭和46年〉10月21日)は、日本の小説家。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 宮城県石巻生まれ、東京府育ち。明治から昭和にかけて活躍した白樺派を代表する小説家のひとり。「小説の神様」と称せられ多くの日本人作家に影響を与えた。代表作に「暗夜行路」「和解」「城の崎にて」「小僧の神様」など。 志賀直哉は1883年(明治16年)2月20日、宮城県牡鹿郡石巻町に、父・志賀直温と母・銀の次男として生まれた。父・直温は当時第一銀行石巻支店に勤務していた。明治期の財界で重きをなした人物である。母・銀は、伊勢亀山藩の家臣・佐本源吾の娘であった。
松島 肇(まつしま はじめ、1883年2月20日 - 196… 松島 肇(まつしま はじめ、1883年2月20日 - 1961年4月15日)は、日本の外交官。
今村 明光(いまむら あきみつ、1883年(明治16年)2月… 今村 明光(いまむら あきみつ、1883年(明治16年)2月19日 - 1950年〈昭和25年〉4月7日)は、日本の医学者、内科学者。旧制東京女子医学専門学校(現・東京女子医科大学)教授。学位医学博士。 1883年、鹿児島県の士族今村明清の六男として鹿児島市にて生まれた。中学造士館を経て、1904年7月に第七高等学校造士館を卒業(第三部医科志望、第1回卒業生)。1909年12月東京帝国大学医科大学卒業。続けて同大学の病理学教室で研究、次いで大学附属医院に勤務。1919年東京帝国大学医学部講師嘱託となる。1921年12月8日、東京帝国大学より医学博士の学位を受領。1922年6月東京帝国大学医学部助教授に任じられる。
林 儀作(はやし ぎさく、1883年(明治16年)2月19日… 林 儀作(はやし ぎさく、1883年(明治16年)2月19日 - 1935年(昭和10年)1月20日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、ジャーナリスト。号は濁川。 新潟県雑太郡相川町(現在の佐渡市)出身。佐渡鉱山学校卒業後、佐渡毎日新聞に勤務。同郷の長谷川世民(本名:長谷川淑夫、長谷川海太郎・潾二郎・濬・四郎兄弟の父)に誘われて函館に渡り、北海新聞に入るが、筆禍事件により禁固刑を受ける。出獄後は平出喜三郎が経営する函館新聞で編集長を務め、後に函館日日新聞理事・主筆となった。その他、東洋印刷会社社長、財団法人函館共働宿泊所理事長、函館東部職業紹介所所長を歴任した。 函館市会議員、北海道会議員、同参事会員を経て、1932年の第18回衆議院議員総選挙に出馬して当選を果たした。
藤沼 庄平(ふじぬま しょうへい、1883年(明治16年)2… 藤沼 庄平(ふじぬま しょうへい、1883年(明治16年)2月17日 - 1962年(昭和37年)1月2日)は日本の官僚、政治家。位階は従三位。勲一等瑞宝章。 栃木県安蘇郡堀米町(現・栃木県佐野市)に生まれる。10歳の時に実父・若田部友造が亡くなったため、長兄が相談して町長・藤沼友次郎の養子となる。1902年(明治35年)栃木県立栃木中学校(現栃木県立栃木高等学校)卒業、旧制一高を経て1909年(明治42年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業、内務省に入省する。 奈良県、鹿児島県、京都府、大阪府の警察部長を務め、1923年(大正12年)10月に茨城県知事に就任するが、虎ノ門事件により辞職する。この後内務省警保局長として摂政の関西行啓に井上孝哉、荒木貞夫と同道、唐沢俊樹を内務省参事官に起用する。
久保 勉(くぼ まさる、1883年2月17日 - 1972年… 久保 勉(くぼ まさる、1883年2月17日 - 1972年5月24日)は、日本のギリシア哲学者。 1883年、愛媛県伊予市で生まれた。松山中学校を卒業後、1901年に海軍兵学校へ進んだ。日露戦争終結後に退役し、東京帝国大学哲学科選科に入学した。大学ではラファエル・ケーベルの教えを受け、その後助手を務めた。1912年、東京帝国大学を卒業。同大学大学院に進んだ。 1925年よりドイツに留学し、ハイデルベルク大学やベルリン大学に滞在して研究を行った。1928年に帰国し、翌1929年、東北帝国大学法文学部助教授となった。大学では阿部次郎と同僚であり、『ソクラテスの弁明・クリトン』などの刊行を共に進めていった。
木村 義雄(きむら よしお、1883年2月14日 - 195… 木村 義雄(きむら よしお、1883年2月14日 - 1957年7月6日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 福岡県出身。1911年、東京帝国大学政治科卒。日本石油(株)に入り、販売課長、道路部長、同社嘱託、朝鮮石油(株)専務取締役、大栄倉庫(株)社長となる。 1930年の第17回衆議院議員総選挙において福岡3区から立憲民政党公認で立候補して当選し、衆議院議員を1期務めた。1932年の第18回衆議院議員総選挙で落選した。1957年死去。
西山 哲治(にしやま てつじ、1883年(明治16年)2月1… 西山 哲治(にしやま てつじ、1883年(明治16年)2月13日 - 1939年(昭和14年)12月15日)は、日本の教育者。 兵庫県氷上郡竹田村(現在の丹波市)出身。代用教員、准教員を経て、1901年(明治34年)に哲学館(現在の東洋大学)に入学した。1905年(明治38年)に哲学館を卒業した後は、雑誌「教育実験界」の記者となり、また日本家庭辞書の編纂にあたった。1906年(明治39年)から1910年(明治43年)までニューヨーク大学に留学し、教育学博士の称号を得た。 1912年(明治45年)には帝国小学校・帝国幼稚園を創設し経営にあたった。さらに1926年(大正15年)からは東洋大学教授も務めた。
吉家 敬三(よしいえ けいぞう、明治16年(1883年)2月… 吉家 敬三(よしいえ けいぞう、明治16年(1883年)2月12日 - 没年不明)は日本の実業家。元鴨川化工会長。 父吉家捨蔵は長野県多額納税者で農業を営んだ。長男光夫の妻道子は王子製紙社長、日本商工会議所会頭などを歴任した足立正の三女。 長野県上高井郡小布施村(現小布施町)に生まれた。吉家捨蔵の長男。 明治38年(1905年)早稲田大学専門部法律科修了。大正5年(1916年)亀井染料に入り大正15年(1926年)満州鉱山薬社長に就任し後南満火工品社長を兼ね昭和16年(1941年)鴨川ニッケル(後の鴨川化工)会長に挙げられた。
小林 古径(こばやし こけい、旧字:古徑、1883年〈明治1… 小林 古径(こばやし こけい、旧字:古徑、1883年〈明治16年〉2月11日 - 1957年〈昭和32年〉4月3日)は、大正時代から昭和時代にかけての日本画家。本名は茂(しげる)。 1883年(明治16年)、新潟県中頚城郡高田土橋町(現上越市)に生まれる。早期に家族を亡くし、1899年(明治32年)に上京して梶田半古に日本画を学ぶ。半古から古径の雅号を授かる。1914年(大正3年)第1回再興日本美術院展で入選、同人に推挙される。1922年(大正11年)から日本美術院留学生として、前田青邨と共に渡欧留学。翌1923年(大正12年)、大英博物館で中国・東晋の名画「女史箴図巻」(じょししんずかん)を模写している。
八木 元八(やぎ もとはち、1883年(明治16年)2月10… 八木 元八(やぎ もとはち、1883年(明治16年)2月10日 – 1946年(昭和21年)10月29日)は、衆議院議員、外交官。 静岡県榛原郡相良町(現在の牧之原市)出身。1902年(明治35年)、外務省留学生試験に合格し、サンクトペテルブルク・アモイに留学した。1906年(明治36年)、外務書記生となり、アモイ、奉天、香港、漢口、ニューヨークに勤務した。1918年(大正7年)より長沙副領事、北京副領事、天津副領事、青島領事、ニューオーリンズ領事を歴任した。1928年(昭和2年)よりハルビン総領事を務めた。 退官後は鴨緑江採木公司理事長、鴨緑江製材株式会社代表、安東市商工公会会長などを務めた。
及川 古志郎(おいかわ こしろう、1883年〈明治16年〉2… 及川 古志郎(おいかわ こしろう、1883年〈明治16年〉2月8日 - 1958年〈昭和33年〉5月9日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。 岩手県出身(出生地は新潟県古志郡)。海兵31期・海大13期。第2次近衛内閣・第3次近衛内閣で海軍大臣。第18代軍令部総長。 1883年(明治16年)2月8日、新潟県古志郡で医師・及川良吾の長男として生まれる(本籍は岩手)。母親は大島高任の長女。初めは「越郎」といったが、後に生誕地から「古志郎」と改名した。 岩手県で育ち、同県内の小学校を経て、盛岡中学校(現:岩手県立盛岡第一高等学校)に進学した。及川は野村胡堂や金田一京助、田子一民ら同窓生に勧められるままに、長詩・短歌を盛んに寄稿していた。
清水 比庵(しみず ひあん、1883年(明治16年)2月8日… 清水 比庵(しみず ひあん、1883年(明治16年)2月8日 - 1975年(昭和50年)10月24日)は、日本の歌人、書家、画家、政治家。本名は清水秀(しみず ひで)。号は他に匕舟、比舟、比安。質素な生活ぶり、岡山にゆかりがあること、歌人・書家という活動分野から、晩年は「今良寛」と呼ばれた。 岡山県上房郡高梁町(現・高梁市弓之町)に清水質(ただし)と妻・すへの長男として生まれる。旧制高梁中学校(現・岡山県立高梁高等学校)、第六高等学校(現・岡山大学)を経て、1908年(明治41年)京都帝国大学(現・京都大学)法学部を卒業。中学から大学まで同級生だった友人に神社柳吉がいる。司法官として神戸地方裁判所へ勤務。
小口 みち子(おぐち みちこ、1883年2月8日 - 196… 小口 みち子(おぐち みちこ、1883年2月8日 - 1962年7月27日)は、日本の美容家、婦人運動家、小説家。出生名は寺本みち子(てらもと みちこ)、号は美留藻(みるも)。兵庫県出身。 1883年(明治16年)2月8日、兵庫県加東郡社村(加東市)出身。教育者の寺本武・ぬいの長女。旧姓は寺本。号は美留藻(みるも)。小学校卒業後、独学で教員検定試験に合格し、郷里で2年間、神戸市立神戸小学校で3年間、上京後も2年間、小学校正教員の教職に就いた。 同じ時期、平民社の社会主義婦人講演会に出席し「生まれて初めてわが魂をゆさぶる内容」に感銘し、社会主義そのものよりも女性解放に魅せられて平民社に出入りする。
川崎 正一(かわさき しょういち、1883年(明治16年)2… 川崎 正一(かわさき しょういち、1883年(明治16年)2月7日 - 没年不詳)は、大阪府岸和田市長。農学者。 大阪府泉南郡沼野村(現在の岸和田市)出身。1904年(明治37年)、東京帝国大学農科大学実科を卒業。栃木県立農学校教諭、和歌山県立農林学校教諭、有馬郡立有馬農林学校教諭を歴任。さらに静岡県農事試験場技師、同茶業組合連合会技師、京都府農業技師、同農事試験場技師を務めた。 帰郷後の1922年(大正11年)、岸和田市会議員に当選。さらに大阪府会議員、同参事会員に選ばれた。 1933年(昭和8年)から1936年(昭和11年)まで岸和田市長を務めた。 その他、大阪府農会副会長、泉南畜産組合長などを務めた。
田口 謙蔵(たぐち けんぞう、1883年2月6日 - 195… 田口 謙蔵(たぐち けんぞう、1883年2月6日 - 1956年1月16日)は、日本の新聞人、秋田県会議員、郷土史家。松圃(しょうほ)と号した。 田口家は秋田県の花館村の人であり、先祖は千助とされる。大曲町の素封家であった田口米吉の二男として産まれる。祖父・岩蔵が、謙蔵には幼くして非凡な才能のあることを見抜き、満三歳から大道政治郎という人をつけて勉強させた。大道の熱心な教育もあり、通常より2年早い5歳で大曲小学校に入学し神童と呼ばれる。 1891年に秋田市伝紳画会が平福穂庵の追悼画会として全国から作品を募集した際に、当時9歳の謙蔵も絵画を応募したが、審査にあたった鈴木百年、菅原白竜は筆致に感じて奉書紙に漢文の奨励詞を書いて、手づから与えた。
高畠 亀太郎(たかばたけ かめたろう、1883年2月6日 -… 高畠 亀太郎(たかばたけ かめたろう、1883年2月6日 - 1972年9月23日)は、日本の実業家・政治家、衆議院議員(2期)。画家の高畠華宵は弟。 小間物商と生糸商を営んでいた高畠和三郎の長男として愛媛県北宇和郡宇和島町裡町4丁目(現・愛媛県宇和島市)に生まれた。実業界・地方政界で活動した後、1937年に中央政界に入る。1939年の政友会分裂に際しては久原房之助や鳩山一郎らとともに正統派に所属した。政党解消後は翼賛議員同盟に所属し、1942年の第21回衆議院議員総選挙では翼賛政治体制協議会の推薦候補として立候補し当選。その後は翼賛政治会・大日本政治会に所属した。 戦後は旧日政会系の日本進歩党の結党に参加したが、日政会を母胎にしたとはいえ進歩党所属議員の大半は政党解消以前は立憲民政党・政友会革新派・政友会統一派に所属しており、政友会正統派に所属していた議員で進歩党結党に参加した者は高畠以外では中井一夫・西川貞一・依光好秋・猪野毛利栄・三善信房・綾部健太郎の6名のみである。
小島 七郎(こじま しちろう、1883年(明治16年)2月5… 小島 七郎(こじま しちろう、1883年(明治16年)2月5日 – 1930年(昭和5年)3月5日)は、衆議院議員(憲政会)、弁護士。 山口県吉敷郡山口町(現在の山口市)出身。1913年(大正元年)、東京帝国大学法科大学を卒業。ハルビンで西伯利亜新聞社の社長となり、さらに東京通信社の理事を務めた。 牛込区会議員、同議長、東京市会議員を経て、1924年(大正13年)の第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した。その後、東京市会議長に就任した。 その他に関東醸造株式会社取締役、哈爾浜取引所監査役などを務めた。墓所は多磨霊園。
鈴木 與平(すずき よへい、1883年(明治16年)2月5日… 鈴木 與平(すずき よへい、1883年(明治16年)2月5日 - 1940年(昭和15年)5月2日)は、明治から昭和にかけての日本の実業家、政治家。鈴与創業者。清水市会議長、静岡県会議長、貴族院多額納税者議員等を歴任した。旧名山崎通太郎。 2021年現在、鈴与会長を務める鈴木与平は8代目で、孫にあたる(没後に誕生した為、面識はない)。 静岡県有度郡上清水村(現静岡市清水区清水)で、沢野道太郎出生。静岡県静岡中学校に学ぶ。静岡中学時代は野球部(現在の静岡高校野球部)に所属した。東京高等商業学校(現一橋大学)在学中に鈴木家の婿養子となる。1906年に同校専攻部を卒業。1917年に家督相続し第6代鈴木與平の名を継ぐ。
鷲津 貞二郎(わしづ ていじろう、1883年2月5日 - 1… 鷲津 貞二郎(わしづ ていじろう、1883年2月5日 - 1927年12月15日)は、日本基督教会の牧師である。 1883年(明治16年)、東京小石川に永井久一郎、恒の次男として生まれる。兄の永井壮吉は後の永井荷風である。母方の祖母と母はW・シュピンナー宣教師から受洗した普及福音教会の熱心な信徒であった。 母方の鷲津家の養子になる。東京専門学校(現・早稲田大学)を卒業して、三菱銀行本店に勤務する。1902年(明治35年)に洗礼を受ける。東京神学社で学び植村正久の薫陶を受ける。卒業後に、日本基督教会の牧師の按手礼を受け、1912年(明治45年)に山梨教会に、1914年(大正3年)に水戸教会、富士見町教会、明星教会(小石川明星教会)の牧師を歴任する。
平田 貫一(ひらた かんいち、1883年〈明治16年〉2月3… 平田 貫一(ひらた かんいち、1883年〈明治16年〉2月3日 - 1971年〈昭和46年〉1月13日)は、日本の内務官僚、神職。皇學館大学初代学長。 鹿児島県薩摩郡宮之城町(さつま町)出身。第七高等学校を経て、1909年(明治42年)、東京帝國大學法科大学政治学科を卒業し、高等文官試験に合格した。農商務省に入り、特許局審査官補、鉱山監督署事務官、鉱務官、札幌鉱務署鉱政課長を務めた。その後、内務省に転じ、社会局書記官、兵庫県産業部長、岐阜県内務部長、栃木県内務部長、福岡県内務部長を歴任した。 1930年(昭和5年)、神宮皇學館長に就任。その後、近江神宮宮司を務めた。 戦後は2度にわたり神社本庁事務総長に就き、1962年(昭和37年)に皇學館大學が再興すると初代学長を務めた。
衛藤 衛(えとう まもる、1883年2月3日 - 1992年… 衛藤 衛(えとう まもる、1883年2月3日 - 1992年2月16日)は、日本の宣教師。アメリカの日系人教会でも牧師を務めた。日本人マフィアのモンタナ・ジョーこと衛藤健の実父でもある。 大分県竹田に生まれる。大分師範学校卒業後、1903年(明治36年)徴兵検査に合格し、第12師団に所属。1904年(明治37年)の日露戦争の際には遼陽会戦に参加。歩兵連隊の司令部で戦闘報告書を書く任務に就く。 関西学院の創立にも関わり、体操の教師を務めた。1917年(大正6年)に日本政府より日系アメリカ人の実態調査を命じられ、カリフォルニア州に派遣される。現地の日系人の荒んだ状態を目の当たりにした衛藤は、彼らを救済するためにストックトンで教会を開く。
大谷 正男(おおや まさお、1883年(明治16年)2月2日… 大谷 正男(おおや まさお、1883年(明治16年)2月2日 – 1967年(昭和42年)2月6日)は、貴族院勅選議員、宮内官僚。 貴族院議員大谷靖の三男として東京市に生まれる。1907年(明治40年)、東京帝国大学法科大学を卒業した。大蔵省に入り、税関監視官、同事務官、横浜税関監視部長を務めた。1914年(大正3年)、宮内省に入り、内蔵寮財務課長、大臣官房総務課長、書記官、宮内大臣秘書官、勅任参事官、内蔵頭を歴任。1933年(昭和8年)、宮内次官に就任。1936年(昭和11年)からは皇太后宮大夫を務めた。 1946年(昭和21年)6月19日、貴族院議員に勅選された。
保原 元二(ほばら もとじ、1883年〈明治16年〉2月2日… 保原 元二(ほばら もとじ、1883年〈明治16年〉2月2日 - 1968年〈昭和43年〉12月23日)は日本の治水技術者。北海道庁の技師として、在任中に立案された北海道の河川計画のすべてに関与していたと言われる。 また後半生においては、美術商としても活動した。 1883年(明治16年)2月2日、宮城県仙台市大町5丁目で畳商を営む旧家にて、父・千代吉と母・タネの次男として生まれる。 小学校卒業後は商業学校を経て、第二高等学校に進学。在籍中には土井晩翠から英語を教わったという。 1904年(明治37年)、東京帝国大学工科大学へ進学し、広井勇のもとで橋梁工学を学ぶ。 1910年(明治43年)7月25日、広井の勧めを受けて北海道庁に就職し、札幌市に転居する。
曺 晩植(チョ・マンシク、そう・ばんしょく、1883年2月1… 曺 晩植(チョ・マンシク、そう・ばんしょく、1883年2月1日 - 1950年10月18日)は、朝鮮の独立運動家、教育者、政治家である。雅号は古堂(コダン、고당)。日本へ留学し明治大学法学部を卒業している。 平安南道江西郡に生まれ、1905年に平壌のミッション系スクールである崇実学校に入学し、在学中にキリスト教に入信した。 1908年に崇実学校を卒業した後は、日本へ留学し、1910年まで正則英語学校において英語を学び、1911年には明治大学法学部へ進学した。その際、インドのマハトマ・ガンディーが主唱した「非暴力・不服従」に関する論文に共感、これが後の独立運動における思想の礎となり、「朝鮮のガンジー」と呼ばれる所以となった。
山崎 定義(やまざき さだよし、1883年(明治16年)2月… 山崎 定義(やまざき さだよし、1883年(明治16年)2月1日 - 1971年(昭和46年)6月4日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。富山市長。 富山県上新川郡富山千石町(現富山市)で、旧富山藩士、陸軍大尉・山崎定孝、敏(とき)夫妻の長男として生まれたが、生後11ヵ月で父が病のため死去した。啓迪高等小学校(その後、八人町小学校を経て現富山市立芝園小学校)を経て、富山県立富山中学校に進み、三年次に名古屋陸軍地方幼年学校を受験して合格。中央幼年学校を経て陸軍士官学校(15期)に進み、1903年11月30日、同校を卒業して金沢歩兵第35連隊に勤務。1904年2月12日、陸軍歩兵少尉に任官。
黒木 親慶(くろき ちかのり、1883年(明治16年)2月1… 黒木 親慶(くろき ちかのり、1883年(明治16年)2月1日 - 1934年(昭和9年)3月14日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少佐。 宮崎県西諸県郡飯野村(後の飯野町、現・えびの市)に大河平親貞の長男として生まれ、黒木実幸の養子となる。 熊本陸軍幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て、1904年(明治37年)11月、陸軍士官学校(16期)を卒業。同期生に、岡村寧次、小畑敏四郎、永田鉄山らがいる。同年12月、歩兵少尉に任官し、歩兵第46連隊付となる。1905年(明治38年)5月から12月まで、日露戦争に出征。1912年(大正元年)陸軍大学校(24期)を卒業した。 陸軍士官学校教官、参謀本部部員、ハルビン駐在を経て、1916年(大正5年)第一次世界対戦下のロシア軍に従軍。
緒方 知三郎(おがた ともざぶろう、1883年1月31日 -… 緒方 知三郎(おがた ともざぶろう、1883年1月31日 - 1973年8月25日)は、日本の病理学者。東京生まれ。正三位・勲一等。 緒方洪庵の次男である緒方惟準の四男。緒方章は弟。緒方富雄、緒方安雄は甥。岳父(妻の父)は岡村輝彦。岡村昭彦、岡村春彦は義甥(妻の甥)。佐藤泰然は曾祖父。 旧制第三高等学校を経て、東京帝国大学医科大学(現在の東京大学医学部)を卒業。山極勝三郎に師事。脚気や結核、腫瘍の発生、「唾液腺内分泌に関する研究」等を研究。ドイツに留学し、ベルリン市ウエストエンド病院病理研究室などでの研究を終えて、1913年帰国、東京帝国大学医科大学医学科講師に嘱託、翌年助教授になる。1923年に東京帝国大学医学部教授となり、1943年に退官し、同大学名誉教授となる。
秋田 雨雀(あきた うじゃく、1883年〈明治16年〉1月3… 秋田 雨雀(あきた うじゃく、1883年〈明治16年〉1月30日 - 1962年〈昭和37年〉5月12日)は、日本の劇作家・詩人・童話作家・小説家・社会運動家である。本名は徳三(とくぞう)。 産科医である父玄庵(全盲であった)と、母まつの長男として青森県南津軽郡黒石町(現黒石市)に生まれる。黒石尋常小学校、青森県立第一尋常中学校(青森県立弘前高等学校の前身)を経て東京専門学校(早稲田大学の前身校)英文科に入学する。在学中の1904年、詩集「黎明」を刊行。 1908年、恩師の島村抱月の推薦により、『早稲田文学』6月号に小説「同性の恋」を発表。小山内薫のイプセン研究会の書記をつとめ、戯曲への関心を深める。