石黒 英一(いしぐろ えいいち、1884年3月12日 - 1… 石黒 英一(いしぐろ えいいち、1884年3月12日 - 1973年12月29日)は、日本の経営者。愛知県出身。 1910年に大阪高等工業学校を卒業し、同年に名古屋ガス(のちの東邦ガス)に入社。1936年に取締役に就任し、常務、専務、副社長を経て、1960年8月に社長に就任。1964年8月から相談役を務めた。 1958年に藍綬褒章を受章し、1965年に勲三等瑞宝章を受章。 1973年12月29日老衰のために死去。89歳没。
原 安三郎(はら やすさぶろう、1884年(明治17年)3月… 原 安三郎(はら やすさぶろう、1884年(明治17年)3月10日 - 1982年(昭和57年)10月21日)は日本の実業家。日本化薬会長、東洋火災海上保険株式会社(現・セコム損害保険)初代会長、日本化学工業協会会長、政府税制調査会会長などを歴任し、日本財界の重鎮として活躍した。徳島県徳島市生まれ。生家は江戸時代、蜂須賀家の家臣。徳島市名誉市民。娘婿は、坂野常和(元大蔵省証券局長、元日本化薬会長)。 1950年(昭和25年)、電波監理委員会はラジオ民間放送への門戸開放に際し、東京の新設放送局は二局に限ることを決定した。しかし既に民間放送開始に向けて新聞会社を母体とする朝日放送(朝日新聞系)、ラジオ日本(毎日新聞系)、読売放送(読売新聞系)、東京放送(電通系)が準備を進めており、どの新聞社系の会社が免許を取得しても軋轢が生じることが不可避となった。
小宮 豊隆(こみや とよたか、1884年〈明治17年〉3月7… 小宮 豊隆(こみや とよたか、1884年〈明治17年〉3月7日 - 1966年〈昭和41年〉5月3日)は、日本の独文学者・文芸評論家・演劇評論家。東北大学名誉教授。日本学士院会員。 福岡県仲津郡久富村(現・京都郡みやこ町)に生まれる。少年期に父を失うが、祖母と母のもと裕福な家庭で育つ。旧制の福岡県立豊津中学校(現・福岡県立育徳館高等学校)を経て第一高等学校 (旧制)(現・東京大学教養学部)に進む。同期に安倍能成、中勘助、藤村操、尾崎放哉、岩波茂雄がいた。 1905年(明治38年)東京帝国大学文科大学独文科に入学。大学時代に夏目漱石の門下(木曜会)となり、寺田寅彦、森田草平、芥川龍之介、内田百閒、鈴木三重吉、久米正雄、松岡譲、野上豊一郎、津田青楓たちと交際。
後藤 文夫(ごとう ふみお、1884年(明治17年)3月7日… 後藤 文夫(ごとう ふみお、1884年(明治17年)3月7日 - 1980年(昭和55年)5月13日)は大正・昭和の官僚・政治家。「天皇陛下の警察官」を自称し、新官僚の代表と見られた。戦後、日本の原子力発電導入に尽力した。
豊田 利三郎(とよだ りさぶろう、1884年(明治17年)3… 豊田 利三郎(とよだ りさぶろう、1884年(明治17年)3月5日 - 1952年(昭和27年)6月3日)は、日本の実業家。位階は従五位。勲等は勲四等。 株式会社豊田自動織機製作所社長(初代)、豊田紡織株式会社社長(第3代)、トヨタ自動車工業株式会社社長(初代)、豊田工機株式会社社長(初代)などを歴任した。 豊田佐吉の婿養子(長女愛子の夫)で、豊田自動織機製作所及びトヨタ自動車工業の初代社長である。ただし、トヨタ自動車工業の実質的な創業者は、佐吉の実子で利三郎の義弟にあたる豊田喜一郎であるとされる。利三郎は元々は車作りに反対していたが、喜一郎の細かい計画や上海自動縫の西川からの資金援助で豊田自動車(後のトヨタ自動車)を設立した。
島田 勝之助(しまだ かつのすけ、1884年(明治17年)3… 島田 勝之助(しまだ かつのすけ、1884年(明治17年)3月5日 - 1960年(昭和35年)2月10日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。北海道炭礦汽船会長、貴族院勅選議員。 東京府で島田慶助の三男として生まれる。1903年(明治36年)東京外国語学校仏語科を卒業した。 卒業後、三井物産に入社した。1931年(昭和6年)ロンドン支店長に就任し、1934年(昭和9年)取締役となる。1935年(昭和10年)三井合名に転じて理事に就任。1936年(昭和11年)常務理事となり、北海道炭礦汽船取締役、三井鉱山取締役、三井農林会長を兼務した。1939年(昭和14年)三井合名、三井鉱山の役員を辞して北海道炭礦汽船取締役会長に就任した。
桑島 主計(くわしま かずえ、1884年〈明治17年〉3月4… 桑島 主計(くわしま かずえ、1884年〈明治17年〉3月4日 - 1958年〈昭和33年〉9月24日)は、日本の外交官。駐オランダ公使、ブラジル大使。 香川県出身。1906年(明治39年)に早稲田大学政治科を卒業し、外務書記生試験に合格した。清国に在勤し、1908年(明治41年)に高等文官試験に合格し、外務属となった。1911年(明治44年)、外交官及領事官試験に合格し、領事官補、領事、外務書記官・帝都復興院書記官、大使館一等書記官を歴任し、その間に奉天、漢口、サンフランシスコ、バンクーバー、シカゴ、ワシントンD.C.に勤務した。さらにホノルル総領事、漢口総領事、大使館参事官、天津総領事、外務省亜細亜局長、同東亜局長を務めた。
早瀬 太郎三郎(はやせ たろさぶろう、旧字体: 早瀨 太郞三… 早瀬 太郎三郎(はやせ たろさぶろう、旧字体: 早瀨 太郞三郞、前名:為治郎・為次郎、1884年〈明治17年〉3月4日 - 1968年〈昭和43年〉5月30日)は、日本の商人(質商)、大阪府多額納税者、資産家、地主、実業家。 大阪府大阪市東区横堀五丁目生まれ。早瀬太郎三郎の長男。大阪府立堂島中学校に入り、1902年に卒業、先代太郎三郎の病没により、家督を相続し、前名・為次郎を改め襲名した。1907年、早稲田大学商科卒業。1年志願兵となり、除隊後所有土地の経営に従う。 「今木屋」と称し、貸地業を営み、傍ら会社の重役であった。桐花興業社長、大阪土地協会会長、大神中央土地、木津川土地運河、八馬汽船各取締役、東北興業、九州石炭鉱業、早瀬塗料店、東洋ベアリング、呉羽紡績各監査役、早稲田大学評議員などをつとめた。
比佐 昌平(ひさ しょうへい、1884年(明治17年)3月3… 比佐 昌平(ひさ しょうへい、1884年(明治17年)3月3日 - 1941年(昭和16年)11月23日)は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党)。 福島県石城郡湯本村(常磐市を経て、現在のいわき市)出身。早稲田大学政治経済科卒業。 1924年(大正13年)の第15回衆議院議員総選挙に出馬。対立候補は星製薬社長の星一(立憲政友会)であったが、「薬は星、政治は比佐」のキャッチフレーズで勝利を収めた。 以後、当選回数は6回を数え、第2次若槻内閣と第1次近衛内閣で陸軍参与官を務めた。 1941年(昭和16年)現職のまま死去。戦後、『公職追放に関する覚書該当者名簿』に公職追放者として掲載された(追放理由は「陸軍政務官」)。
千葉 了(ちば りょう、1884年(明治17年)3月2日 -… 千葉 了(ちば りょう、1884年(明治17年)3月2日 - 1963年(昭和38年)11月8日)は、日本の内務・警察官僚。政友会系官選県知事。
山口 剛(やまぐち たけし、1884年(明治17年)3月1日… 山口 剛(やまぐち たけし、1884年(明治17年)3月1日 - 1932年(昭和7年)10月8日)は、日本の国文学者・中国文学者。早稲田大学教授。号は、聾阿弥・聾不言・不言斉主人など。 山口常太郎・なか夫妻の長男として、1885年(明治18年)茨城県新治郡土浦町(現:土浦市)に生まれた。父・常太郎は土浦小学校の校長を務め、退職後は代言人の傍ら俳句・新体詩を指導していた。 剛も土浦中学校(現:茨城県立土浦第一高等学校)から早稲田大学高等師範部卒業(現:早稲田大学教育学部)へと進学し、1912年(大正元年)に早稲田大学講師。更に、早稲田大学高等学院教授(1920年 / 大正9年)・早稲田大学高等師範部・文学部教授(1924年/大正13年)を歴任。
小田島孤舟(おだしま こしゅう、1884年3月1日 - 19… 小田島孤舟(おだしま こしゅう、1884年3月1日 - 1955年12月4日)は、岩手県和賀郡小山田村(現花巻市)出身の歌人・教育家・書道家。「岩手歌壇の父」と言われる。本名は小田島理平治。旧姓は佐々木。 1884年3月、和賀郡小山田町の農家の二男として生まれる。1902年、19歳で「小国民」懸賞小説に二等当選。同年4月、岩手師範学校本科に入学。1904年、同校文芸同人誌『花摺草』に短歌、俳句、美文「わが罪」を発表。1905年7月、石川啄木を訪問し交際が始まる。[要出典] 与謝野鉄幹は、「君は短歌より長詩の方が優る」と手紙でいさめたが、結果的には石川啄木が小田島にあてた書面「和歌は現代に新価値あり」に動かされ、歌人を目指すことになった。
久内清孝(ひさうち きよたか、1884年3月 - 1981年… 久内清孝(ひさうち きよたか、1884年3月 - 1981年4月12日)は日本の植物学者、薬学者である。日本の植物分類学の初期の研究者の一人である。
釜瀬 富太(かませ とみた、1884年(明治17年)3月 -… 釜瀬 富太(かませ とみた、1884年(明治17年)3月 - 没年不詳)は、日本の内務官僚、朝鮮総督府官僚。教育者。 福岡県出身。第五高等学校を経て、1911年(明治44年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業した。1912年(大正元年)、高等文官試験に合格。佐賀県属、同警視、同理事官、神埼郡長、宮城県理事官、朝鮮総督府事務官、同税関長、咸鏡北道内務部長などを歴任した。 1928年(昭和3年)に退官し、1932年(昭和7年)に門司市助役に就任。その後、学校法人九州学園理事長、九州女子高等学校・中学校校長を務めた。
平瀬 信太郎(ひらせ しんたろう、1884年(明治17年)2… 平瀬 信太郎(ひらせ しんたろう、1884年(明治17年)2月28日 - 1939年(昭和14年)9月9日)は、日本の貝類学者。父の平瀬與一郎や同年代の黒田徳米らとともに、日本における貝類学の発展に寄与した学者の一人である。 ニシキウズガイ科の巻貝の一種 ヒラセギンエビス Ginebis argenteonitens hirasei Otsuka et Taki,1943 は、平瀬の功績を記念した献名がなされている。 1884年(明治17年)、平瀬與一郎の長男として淡路島福良(現 : 南あわじ市)に生まれた。旧制の京都府立第一中学校(現 : 京都府立洛北高等学校)、第三高等学校、京都帝国大学文学部(現 : 京都大学)を卒業した。
市村 慶三(いちむら けいぞう、1884年(明治17年)2月… 市村 慶三(いちむら けいぞう、1884年(明治17年)2月28日 - 1959年(昭和34年)1月8日)は、日本の内務官僚、政治家。県知事、京都市長。旧姓・古川。 京都府出身。古川専太郎の三男として生まれ、市村貞蔵の養子となる。第三高等学校を経て、1910年、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入り北海道庁属となる。 以後、北海道庁警視、神奈川県橘樹郡長、千葉県・兵庫県の各理事官、奈良県警察部長、皇宮警察長、内務省参事官兼宮内事務官、神奈川県書記官・内務部長、警視庁書記官・官房主事などを歴任。 1926年8月、福井県知事に就任。以後、愛媛県・三重県の各知事を経て、1931年11月、鹿児島県知事に就任。
小野 弥一(おの やいち、1884年(明治17年)2月26日… 小野 弥一(おの やいち、1884年(明治17年)2月26日 - 1939年(昭和14年)4月6日)は、日本の海軍軍人。海軍兵学校33期。最終階級は海軍中将。 山口県玖珂郡玖珂町(現岩国市)出身。小野友蔵長男。岩国中学校を経て、1905年11月海軍兵学校(33期)を卒業。1906年12月に海軍少尉任官。1912年に海軍大学校乙種及び海軍大学校専修を卒業した後、音羽、韓崎の航海長を経て、1915年軍艦政本部艤装員として英国で建造中だった駆逐艦江風の艤装に従事する。 1916年海軍少佐任官。浅間、鞍馬、霧島、比叡の航海長を歴任し、1920年富士(運用術練習艦)教官兼海軍大学校教官に就任。1921年に海軍中佐に任官、海軍大学校教官専任となる。
猪股 松之助(いのまた まつのすけ、1884年(明治17年)… 猪股 松之助(いのまた まつのすけ、1884年(明治17年)2月26日 - 1939年(昭和14年)6月7日)は、台湾総督府官僚。 秋田県由利郡石沢村(現在の由利本荘市)出身。1908年(明治41年)、東京帝国大学文科大学史学科を卒業。1915年(大正4年)、同法科大学政治科を卒業し、高等文官試験に合格した。台湾総督府属、嘉義支庁事務官、台南支庁事務官、台北州警務部長、台南州警務部長、台中州内務部長、花蓮港庁長を歴任し、1931年(昭和6年)に新竹州知事に就任した。 1932年(昭和7年)に退官した後は、台湾青果株式会社常任監査役、同常務取締役を務めた。
寺本 武治(てらもと たけじ、1884年2月25日 - 19… 寺本 武治(てらもと たけじ、1884年2月25日 - 1958年12月2日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 島根県出身。神戸一中を経て、1905年(明治38年)11月、海軍兵学校(33期)を卒業し、1906年(明治39年)12月、海軍少尉任官。海軍大学校乙種、海軍砲術学校高等科で学ぶ。1911年(明治44年)12月、「筑波」分隊長となり、「三笠」「周防」の各分隊長、砲術学校教官兼分隊長兼海軍機関学校教官、「橋立」分隊長兼砲術学校教官などを経て、1917年(大正6年)11月、海大(甲種15期)を卒業した。 1917年12月、海軍少佐に昇進し海軍省人事局局員(第1課)に就任。1920年(大正9年)12月、「伊勢」砲術長となり、軍令部参謀兼サガレン州派遣軍司令部付に転じ、1921年(大正10年)12月、海軍中佐に進級。
山川 章太郎(やまかわ しょうたろう、1884年(明治17年… 山川 章太郎(やまかわ しょうたろう、1884年(明治17年)2月25日 - 1941年(昭和16年)2月4日)は、内科学者。位階および勲等は正三位・勲二等瑞宝章。専門は糖質代謝、消化器。ぶどう糖、脂肪の非経口的栄養(静脈内投与)の創始者、特に脂肪乳剤ヤノールの臨床応用が重要。 長男は山川邦夫(順天堂大学医学部教授)。次男は山川民夫(東京大学名誉教授)。孫は大熊由紀子(科学ジャーナリスト)。 香川県高松市に、山川慎蔵(儒者、和算家)の長男として生まれる。祖父の山川孫水も大坂出身の儒者および和算家で、私塾を開いたのち高松藩の郷校の校長を務めている。 米国留学中、野口英世の協力を得て、血清プロテアーゼの研究を行った(追悼録)。
橘 純一(たちばな じゅんいち、1884年(明治17年)2月… 橘 純一(たちばな じゅんいち、1884年(明治17年)2月25日 - 1954年(昭和29年)1月19日)は、国文学者。 東京市京橋区木挽町(現在の東京都中央区銀座)生まれ。児島喜三郎の五男。橘守部直系の家へ養子に入る。第二高等学校、1909年東京帝国大学文学部国文科卒。同助手、13年府立第五中学校教諭、21年『橘守部全集』を編集刊行。25年退職、各学校講師をしながら著述生活。36年国語解釈学会を創立、雑誌『国語解釈』を創刊。41年陸軍士官学校教官、50年跡見学園短期大学教授。没後、二松学舎大学名誉教授の称号を追贈。 1938年、小学校教科書に掲載された『源氏物語』について、不敬の書であるから削除すべしと主張した。
安井 武雄(やすい たけお、1884年2月25日 - 195… 安井 武雄(やすい たけお、1884年2月25日 - 1955年5月23日)は、大阪を中心に活躍した日本の建築家。昭和初期のモダニズム建築を代表する建築として名高い大阪ガスビルディングなどを設計したことで知られる。
小池 正晁(こいけ まさあき、1884年(明治17年)2月2… 小池 正晁(こいけ まさあき、1884年(明治17年)2月23日 - 1941年(昭和16年)6月18日)は、日本陸軍の軍人、政治家。貴族院議員・陸軍軍医総監・正三位・勲二等・医学博士・男爵。男爵・小池正直の長男。東京市小石川(現・東京都文京区小石川)出身。 日本陸軍軍医・小池正直の長男として朝鮮釜山に生れる。1902年(明治35年)第一高等学校を首席で卒業する。1909年(明治42年)12月、京都帝国大学の分科大学である福岡医科大学(現・九州大学医学部)を卒業。 歩兵第3連隊(麻布三連隊)に入営。1910年(明治43年)6月、二等軍医となり、近衛歩兵第2連隊に配属された。1912年(明治45年)1月、東京帝国大学大学院に入学した。
泉 芳璟(いずみ ほうけい、1884年2月23日 - 194… 泉 芳璟(いずみ ほうけい、1884年2月23日 - 1947年12月28日)は、浄土真宗の僧、仏教学・サンスクリット学者。 三重県津市安濃町安部の円称寺(真宗大谷派)に生まれる。1907年真宗大学卒。1918-19年インド、ヨーロッパに学ぶ。真宗大学教授、大谷大学教授、同図書館長。真宗大谷派学僧。
三浦 環(みうら たまき、1884年(明治17年)2月22日… 三浦 環(みうら たまき、1884年(明治17年)2月22日 - 1946年(昭和21年)5月26日)は、東京府東京市京橋区(現:東京都中央区京橋)出身の日本の女性歌手。 出生名:柴田 環(しばた たまき)。日本で初めて国際的な名声をつかんだオペラ歌手として知られる。十八番だったジャコモ・プッチーニの「蝶々夫人」にある“蝶々さん”と重ね合わされて「マダム・バタフライ」と称され、国際的に広く知られた。 1884年(明治17年)2月22日に東京府東京市京橋区(現:東京都中央区京橋)で生まれる。父親は静岡県城東郡下朝比奈村(現:御前崎市)出身で公証人である柴田孟甫(本名:熊太郎)、母は城東郡小沢村(現:菊川市)出身の永田登波で、3歳から日本舞踊を、6歳から長唄と箏を習い始める。
大類 伸(おおるい のぶる、1884年(明治17年)2月22… 大類 伸(おおるい のぶる、1884年(明治17年)2月22日 - 1975年(昭和50年)12月27日)は、日本の西洋史学者。東北帝国大学教授、帝国学士院会員、日本学士院会員。 1884年、東京市日本橋区生まれ。神田練塀小学校から東京開成中学校、第一高等学校を経て、1906年東京帝国大学文科大学史学科を卒業。 1921年、東京帝国大学文学部助教授に採用される。1915年に東京帝国大学に日本城郭史の研究を提出して文学博士の学位を授与された。1937年5月8日、帝国学士院会員に選出。1924年、東北帝国大学教授に転任。ヤーコプ・ブルクハルトを学んで西洋中世史、ルネッサンス史に先駆的業績をあげた。1944年に東北帝国大学を退官し、日本女子大学教授となった。
辻 永(つじ ひさし、1884年〈明治17年〉2月20日 -… 辻 永(つじ ひさし、1884年〈明治17年〉2月20日 - 1974年〈昭和49年〉7月23日)は、日本の洋画家。広島県広島市生まれ、茨城県水戸市育ち。 広島県広島市に生まれ、後に父の任地変更に伴い家族で茨城県水戸市に移り住んだ。水戸警察署長を務めた父の趣味が書画、骨董品の蒐集および草花、西洋野菜の育成であったことが永の絵画と植物の方面へ影響を及ぼした、と水戸市立博物館は2011年辻永植物画特別展の際に記している。 水戸中学校在学時代の1900年(明治33年)に白馬会会員で図画教師の丹羽林平宅に同居しつつ油絵を学び、以後東京美術学校西洋画科本科に進学し黒田清輝、岡田三郎助らに師事し洋画家となった。
杉 道助(すぎ みちすけ、1884年(明治17年)2月20日… 杉 道助(すぎ みちすけ、1884年(明治17年)2月20日 - 1964年(昭和39年)12月14日)は、日本の実業家。第二次世界大戦後における大阪・関西財界の代表者。曽祖父は吉田松陰の父である杉常道、祖父は松陰の兄の杉民治。 八木商店社長となり、大阪商工会議所会頭を23年間務め、日本商工会議所副会頭、新日本放送(現・MBSメディアホールディングス)社長、海外市場調査会(現・日本貿易振興機構(略称:JETRO(ジェトロ)を設立後、理事長となる。鳩山一郎内閣において日ソ交渉全権顧問、日韓会談首席代表として政界にも関与した。位階は正三位、勲等は勲一等。 山口県山口市に生まれた。父の相次郎は県庁勤めをしていた。
片上 伸(かたがみ のぶる、1884年(明治17年)2月20… 片上 伸(かたがみ のぶる、1884年(明治17年)2月20日 - 1928年(昭和3年)3月5日)は、日本の文芸評論家、ロシア文学者。初期は「天弦」の号で執筆活動をしていたので、片上天絃(片上天弦)の名でも知られる。 1884年、愛媛県今治市波止浜生まれ。一族は裕福な庄屋であり、伸の父・良(つかさ)は月番所詰めの役人であった。幼いころから神童と呼ばれ、新聞・雑誌の投稿欄の懸賞金を学資に当てていたという。旧制愛媛県立松山中学校(現・愛媛県立松山東高等学校)を卒業後、1900年に東京専門学校(現・早稲田大学)予科に入学する。在学中は英文学を学んだが、一方で当時勃興期であった自然主義文学に傾倒。卒業後は『早稲田文学』の記者をとなり、後に早稲田大学の教員となった。
大柏 清三郎(おおかし せいざぶろう、1884年〈明治17年… 大柏 清三郎(おおかし せいざぶろう、1884年〈明治17年〉2月18日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の政治家。香川県丸亀市長。 1905年(明治38年)関西大学専門部法律学科を卒業し、大阪府属となる。1909年(明治42年)香川県属に転じ、1919年(大正8年)高松市助役職務管掌を経て、1920年(大正9年)高松市助役に就任し、爾来15年間勤続する。1934年(昭和9年)7月、助役を辞し、同月25日に丸亀市長に当選した。
飯田 貞固(いいだ さだかた、1884年(明治17年)2月1… 飯田 貞固(いいだ さだかた、1884年(明治17年)2月18日 - 1977年(昭和52年)9月15日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 新潟県刈羽郡山横沢村(小国村、小国町を経て現長岡市)出身。山横沢村長・飯田貞一の長男として生れる。組合立小国高等小学校、仙台陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1905年(明治38年)3月、陸軍士官学校(17期)を卒業。翌月、騎兵少尉に任官し近衛騎兵連隊付となる。騎兵第22連隊付などを経て、1912年(大正元年)11月、陸軍大学校(24期)を卒業した。 1913年(大正2年)12月、参謀本部付勤務となり、独立第18師団副官として青島の戦いに参加。1914年(大正3年)11月、青島守備軍参謀に就任。
野波 治平太(のなみ じへいた、1884年〈明治17年〉2月… 野波 治平太(のなみ じへいた、1884年〈明治17年〉2月17日 - 没年不明)は、日本の醸造家、鳥取県多額納税者、野波商店経営主。 鳥取県米子市の醤油醸造業者である。1941年11月3日、善行者として表彰を受ける。貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。住所は鳥取県米子市法勝寺町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
堀江 季雄(ほりえ すえお、1884年(明治17年)2月16… 堀江 季雄(ほりえ すえお、1884年(明治17年)2月16日 - 1946年(昭和21年)2月23日)は、枢密院書記官長、貴族院勅選議員。 東京府に市野良樹の二男として生まれ、堀江敬慎の養子となった。1909年(明治42年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業。滋賀県属となり、1913年(大正2年)に高等文官試験に合格した。滋賀県警視、同野洲郡長を経て、同理事官、岐阜県理事官を歴任。1920年(大正9年)、枢密院書記官に転じ、行政裁判所評定官、枢密院議長秘書官などを務めた。1939年(昭和14年)枢密院書記官長に就任した。 退官後の1945年(昭和20年)8月3日に貴族院議員に勅選され、死去するまで在任した。
大村 一蔵(おおむら いちぞう、1884年(明治17年)2月… 大村 一蔵(おおむら いちぞう、1884年(明治17年)2月15日 - 1944年(昭和19年)1月29日)は日本の鉱山技師。石油調査・研究を専門とし、帝国石油副総裁や日本地質学会会長を歴任したほか、アマチュアスポーツの指導者としても活動した。 鳥取県鳥取片原二十番屋敷(現:鳥取市片原町)生まれ。鳥取県尋常中学校(現:鳥取県立鳥取西高等学校)、明治学院普通学部(現:明治学院高等学校)、第五高等学校(現:熊本大学)を経て、1907年(明治40年)、東京帝国大学理科大学(現:東京大学理学部)地質学科に入学。 帝大卒業後、下関市の黒鉛会社を経て、1912年(明治45年)に、当時日本石油と並ぶ二大石油会社であった宝田石油(本社・長岡市)に技師として入社。
有馬 浅雄(ありま あさお、明治17年〈1884年〉2月15… 有馬 浅雄(ありま あさお、明治17年〈1884年〉2月15日 - 昭和18年〈1943年〉10月6日)は、日本の政治家。衆議院議員。 長野県上伊那郡伊那部村(現伊那市)生まれ。明治41年(1908年)に上京し、東京府北豊島郡滝野川町役場の吏員となる。後に助役、町長に推挙され、東京府会議員となる。 東京府税務協議会長、東京府五郡町村互助会長、大日本消防協会理事、帝都教育会理事など各種団体の役員、顧問、相談役に就任して奔走し、九十九里漁業会社などの企業重役も務める。 昭和7年(1932年)第18回衆議院議員総選挙に長野県3区から出馬し当選、同年東京市会議員に当選。同11年(1936年)に政界を引退し、大政翼賛会東京支部常務員となったが、太平洋戦争中の同18年(1943年)に没した。
岩田 熊吉(いわた くまきち、1884年〈明治17年〉2月1… 岩田 熊吉(いわた くまきち、1884年〈明治17年〉2月14日 - 没年不明)は、日本の実業家。錦隆汽船、岩田海運各社長。合資会社岩田商店代表社員。 鳥取県西伯郡境町(現・境港市)に生まれる。1894年に西伯郡和田村(現・米子市和田町)の小学校を卒業して間もなく一家は米子町(現・米子市)に移転したため熊吉も同地に移り、1898年に境町の海運業岡田回漕店に入る。 1913年に同店を辞し、神戸の岡田信吉朗の後援により現地に独立開業する。1935年に合資会社に組織変更、その代表社員に就任する。1938年に岩田海運を創立して社長となる。海運業並びに石炭商を営む。また会社の重役である。 趣味は読書、園芸、読書。
長 世吉(ちょう つぎよし、1884年(明治17年)2月12… 長 世吉(ちょう つぎよし、1884年(明治17年)2月12日 - 1963年(昭和38年)10月8日)は、貴族院書記官長、貴族院勅選議員。 大分県出身。父は漢学者で書家の長三洲、兄は歴史学者の長寿吉。1914年(大正3年)に京都帝国大学法科大学政治科を卒業した。京都府属、同久世郡長を経て、貴族院書記官となり、内務参事官、法制局参事官、臨時議院建築局事務官、同書記官、大蔵省営繕管財局書記官を兼ねた。貴族院庶務課長を経て、1931年(昭和6年)に貴族院書記官長に就任し、営繕管財局参与も兼ねた。 退官後の1938年(昭和13年)4月2日に貴族院議員に勅選され、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
大橋 亦兵衛(おおはし またべえ、1884年(明治17年)2… 大橋 亦兵衛(おおはし またべえ、1884年(明治17年)2月11日 - 1946年(昭和21年)10月16日)は、大正から昭和時代戦前の政治家。治水家。衆議院議員。静岡県会議長。静岡県磐田郡井通村長。俳号は天竜。 大橋頼摸の長男として、静岡県豊田郡小立野村(豊田郡井通村、磐田郡井通村、豊田村、豊田町を経て現磐田市)に生まれる。1912年(大正元年)家督を相続する。書籍業を営む。浜松中学校を卒業する。 井通村会議員、同村長を経て、1919年(大正8年)静岡県会議員に当選。1926年(大正15年)同議長に推された。1928年(昭和3年)2月の第16回衆議院議員総選挙では静岡県第3区から立憲政友会所属で出馬し当選。
藤岡 郊二(ふじおか ひろじ、1884年(明治17年)2月8… 藤岡 郊二(ふじおか ひろじ、1884年(明治17年)2月8日 - 不明 )は、日本の実業家である。倉敷紡績・倉敷絹織(現クラレ)の取締役。岡山県総社市出身。 1884年(明治17年)2月、岡山県吉備郡日美村(現在の総社市)で代々医者の家系である藤岡信道の次男として生まれる。旧制高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)を経て、1903年(明治36年)、第六高等学校 (旧制)へ入学し、同級生に建築家の薬師寺主計がいた。1906年(明治39年)、同校を卒業、東京帝国大学工学部電気科へ進学した。1909年(明治42年)7月に同大学を優良で卒業。兵庫県に当時あった龍野電気株式会社へ主任技師として就職した。 2年間、龍野電気に務めた後、1911年(明治44年)7月より、倉敷紡績へ転職する。
木下 信(きのした まこと、1884年〈明治17年〉2月8日… 木下 信(きのした まこと、1884年〈明治17年〉2月8日 - 1959年〈昭和34年〉6月27日)は、日本の内務官僚、政治家。憲政会系県知事、台湾総督府総務長官、衆議院議員。 長野県上伊那郡中箕輪村(現:箕輪町)に木下彦四郎の四男として生まれる。第一高等学校を経て、1909年(明治42年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1911年(明治44年)11月、文官高等試験行政科試験に合格し内務省に入省、長野県属となる。 以後、熊本県鹿本郡長、同上益城郡長、長野県小県郡長、同県理事官、秋田県警察部長、北海道庁拓殖部長、警視庁刑事部長、同警務部長などを歴任。 1924年(大正13年)6月、鳥取県知事に就任。
橋 健行(はし けんこう、1884年〈明治17年〉2月6日 … 橋 健行(はし けんこう、1884年〈明治17年〉2月6日 - 1936年〈昭和11年〉4月18日)は日本の精神科医。医学博士。正五位。作家・三島由紀夫の伯父で、橋倭文重の兄。 1884年(明治17年)2月6日、石川県金沢区(現・金沢市)で、父・橋健三(漢学者)と母・こう(漢学者・橋健堂の三女)の間の長男として誕生。その後、生母・こうの死亡により、1890年(明治23年)から、健三の後妻・トミ(こうの妹で橋健堂の五女)に育てられる。やがて、妹や弟たち(雪子、正男、健雄、行蔵、倭文重、重子)が生まれる。 1901年(明治34年)、開成中学校を卒業。同級生には斎藤茂吉がいた。同年、第一高等学校に進学。
鳩山 秀夫(はとやま ひでお、1884年2月4日 - 194… 鳩山 秀夫(はとやま ひでお、1884年2月4日 - 1946年1月29日)は、日本の法学者、元衆議院議員。専門は民法。東京都出身。
佐賀ノ海 初太郎(さがのうみ はつたろう、1884年2月4日… 佐賀ノ海 初太郎(さがのうみ はつたろう、1884年2月4日 - 1937年3月24日)は、現在の福岡県柳川市出身で湊部屋、出羽海部屋に所属した力士。本名は松永 初太郎。7代二子山。170cm、90kg。最高位は西前頭6枚目。 生まれは福岡県三潴郡蒲池村(現在の柳川市)だが、その後佐賀市唐人町に移住。このことが、のち四股名の由来となった。 大坂相撲に在籍したが、1906年に東上。常陸山谷右エ門の弟子になり、5月に幕下付出で初土俵。1908年5月に十両昇進。1911年2月に入幕した。左四つからの上手投げ、立ち合いからの叩き込みを得意とした。1916年1月に引退し、先代師匠の未亡人と婚姻し二子山を襲名したが、常陸山の逆鱗に触れ1918年5月に廃業した。
望月 政友(もちづき まさとも、1884年(明治17年)2月… 望月 政友(もちづき まさとも、1884年(明治17年)2月1日 - 1944年(昭和19年)3月1日)は、明治末から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。 和歌山県伊都郡兄井村(見好村兄井を経て現かつらぎ町)で、実業家、政治家・望月右内の長男として生まれる。居村小学校、奈良県立五條中学校(現奈良県立五條高等学校)、第六高等学校を経て、1908年(明治41年)東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業した。 その後、農商務省に入省し、特許局に配属され1909年(明治42年)6月まで在任した。退官後に帰郷し、1917年(大正6年)1月、家督を相続し家業に従事。同年、玉川水道取締役となり、その他、東京電燈などの経営に参画した。
今井田 清徳(いまいだ きよのり / せいとく、1884年(… 今井田 清徳(いまいだ きよのり / せいとく、1884年(明治17年)2月1日 - 1940年(昭和15年)5月8日)は、日本の逓信官僚、政治家。貴族院議員、朝鮮総督府政務総監、逓信次官。旧姓・国塩。 岡山県赤坂郡神田村(赤磐郡鳥取中村、高陽村、山陽町を経て現赤磐市)出身。旧岡山藩士・国塩与三郎の三男として生まれ、磐梨郡佐伯北村(赤磐郡吉井町を経て現:赤磐市)今井田善十郎の養嗣子となる。関西中学校、第六高等学校を経て、1909年7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。通信属となり逓信省通信局に配属。同年11月、文官高等試験に合格。 1910年4月、通信事務官・大阪中央郵便局長に就任。以後、神戸逓信管理局総務部長、逓信省電気局管理課、東部逓信局経理部規画課長などを歴任。
小笠原 数夫(おがさわら かずお、1884年(明治17年)2… 小笠原 数夫(おがさわら かずお、1884年(明治17年)2月1日 - 1938年(昭和13年)9月4日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。旧姓・島田。 福岡県出身。旧小倉藩士・農業、島田耕蔵の三男として生まれ、小笠原長舒の養子となる。高等小学校、熊本陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て、1904年(明治37年)10月、陸軍士官学校(16期)を卒業。同年11月、歩兵少尉に任官し歩兵第14連隊付となる。1905年(明治38年)4月から同年11月まで日露戦争に出征。1916年(大正5年)11月、陸軍大学校(28期)を卒業し歩兵第14連隊中隊長に就任した。 参謀本部付勤務(通信課)、参謀本部員、陸大教官、飛行第6大隊付、国際連盟帝国空軍代表随員(1924年6月 - 1925年3月)などを務め、1924年(大正13年)8月、歩兵中佐に昇進。
横田 克己(よこた かつみ、1884年(明治17年)2月 -… 横田 克己(よこた かつみ、1884年(明治17年)2月 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。 長野県下水内郡飯山町(現在の飯山市)出身。1911年(明治44年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、宮城県属となった。1912年(大正元年)に入営のため辞職するが、1914年(大正3年)に長野県警部補となり、警部を経て、1918年(大正7年)に上高井郡長に就任した。 その後、朝鮮総督府に転じ、全羅北道財務部長、同警察部長、仁川府尹を歴任した。
阿部 嘉八(あべ かはち、1884年(明治17年)2月 - … 阿部 嘉八(あべ かはち、1884年(明治17年)2月 - 1938年(昭和13年)5月18日)は、日本の外交官、実業家。在シカゴ帝国領事、在バンクーバー帝国領事、大阪鐵工所取締役等を歴任した。 熊本県熊本市生まれ。壷川小学校を経て、1900年(明治33年)熊本商業学校卒業。1904年(明治37年)東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業し、大阪商船に入社。1906年(明治39年)同校専攻部卒業。柔道部出身。1907年(明治40年)外交官試験に合格し、領事官補任官。1908年(明治41年)在ホノルル総領事代理。1909年(明治42年)在サンフランシスコ領事官補。 1910年(明治43年)在シアトル領事官補。
上山 草人(かみやま そうじん、1884年1月30日 - 1… 上山 草人(かみやま そうじん、1884年1月30日 - 1954年7月28日)は、日本の俳優。本名は三田 貞(みた ただし)。号は半月。 坪内逍遥の文芸協会を経て、妻の山川浦路らと近代劇協会を設立して新劇俳優として活動。1919年(大正8年)に渡米してからは映画界に転向し、ラオール・ウォルシュ監督、ダグラス・フェアバンクス主演の活劇映画『バグダッドの盗賊』に出演。ハリウッドで活躍した日本人俳優の一人となった。帰国後の出演作に『赤西蠣太』『七人の侍』などがある。 1884年(明治17年)1月30日、現在の宮城県遠田郡涌谷町に父・上山五郎の次男として、五郎の愛人である角川浦路との間に生まれる。父は産婦人科病院を経営していた医者で、宮城医学校教授を務めた。
手代木 隆吉(てしろぎ りゅうきち、1884年(明治17年)… 手代木 隆吉(てしろぎ りゅうきち、1884年(明治17年)1月30日 - 1967年(昭和42年)3月31日)は、日本の教育者・政治家・弁護士・実業家。衆議院議員(当選6回、日本進歩党)。北海道有珠郡紋鼈(現・北海道伊達市)出身。号は「胡山」。 父、要蔵。母、エミの長男として誕生。母の父が仙台藩亘理伊達家の藩士手代木順造。 明治4年の亘理伊達家の北海道移住に際し一家で渡道(当時エミは4歳)。後に太田家より要蔵を入婿で迎え手代木家より分家。 エミの兄(長男)は伊達、苫小牧などの戸長、村長を歴任した手代木茂篤(隆吉の叔父)[出典無効] 1906年(明治39年)北海道尋常師範学校(現在の北海道教育大学札幌校)卒業後、北海道の旧制小学校の訓導や校長を経て、1918年(大正7年)中央大学法学部卒業。