瀬尾 俊三(せお しゅんぞう、1897年4月11日 - 19… 瀬尾 俊三(せお しゅんぞう、1897年4月11日 - 1980年9月17日)は、日本の経営者。雪印乳業社長を務めた。 北海道札幌市出身。札幌第一中学校(現・北海道札幌南高等学校)を経て、1922年に早稲田大学商学部を卒業。東海林太郎とは大学時代に同じ下宿にいた親友。 名古屋銀行での勤務を経て、1926年に北海道酪農販売組合連合会主事に就任し、1938年に専務、1950年6月に雪印乳業専務、1957年5月に副社長を経て、1963年5月に社長に就任。1971年5月に会長を経て、1973年5月には相談役に就任した。 1963年に藍綬褒章を受章し、1967年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1980年9月17日、急性肺炎のために死去。
山口 俊雄(やまぐち としお、1897年4月10日 - 19… 山口 俊雄(やまぐち としお、1897年4月10日 - 1945年1月27日)は、日本の俳優である。新派劇俳優であるが、牧野省三のマキノ・プロダクションとの提携で映画に主演、1928年(昭和2年)の片岡千恵蔵、嵐寛寿郎らのマキノからの独立時に歩調を揃えて、自らのスタープロダクションを立ち上げた。 1897年(明治30年)4月10日、熊本県に生まれる。東京に出て、旧制・錦城中学校(現在の錦城学園高等学校)を経て、18歳のときの1915年(大正4年)ころ、東京「有楽座」の文士劇で初舞台を踏む。のちに井上正夫の一座に入門、大阪の福井茂兵衛、都築文男らの新派劇団、高田実の門下を経て、1918年(大正7年)の暮れに松竹傘下の「新声劇」に参加し、活躍した。
広野 三郎(ひろの さぶろう、1897年(明治30年)4月1… 広野 三郎(ひろの さぶろう、1897年(明治30年)4月10日 - 1968年(昭和43年)4月4日)は、歌人。 東京出身。國學院大學卒。1915年『アララギ』に入会し、島木赤彦、斎藤茂吉に師事。1926年東京帝国大学史料編纂所業務嘱託、1927年史料編纂官補、1946年事務官、1954年東京大学史料編纂所助手、1958年講師、1962年退官。歌人としては1950年『白埴』を創刊、1953年『草苑』と合同して『久木』を主宰。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
原 侑(はら すすむ、1897年4月10日 - 1960年1… 原 侑(はら すすむ、1897年4月10日 - 1960年1月31日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 広島県出身。1923年日本大学高等師範部(現・文理学部)卒業。日大第二中学校長、京浜学園園長、日本汽船漁業(株)常任監査役、山路壁紙(株)監査役、(資)義合祥顧問、協同土木(株)総監督、国際科学食糧研究所専務理事となる。 1946年の第22回衆議院議員総選挙で広島県から日本自由党公認で立候補して初当選。翌1947年の第23回衆議院議員総選挙において広島3区で立候補して再選。この間自由党政調会同胞援護部長、政調会労働委員長、総務を務めた。1948年に議員辞職した。その後、1949年の第24回衆議院議員総選挙と1952年の第25回衆議院議員総選挙に続けて立候補したが、落選した。
加藤 まさを(かとう まさを、1897年4月8日 - 197… 加藤 まさを(かとう まさを、1897年4月8日 - 1977年11月1日)は、日本の画家、詩人、小説家、イラストレーター。本名は正男。別名、藤枝春彦、蓮芳夫。立教大学在学中の1919年(大正8年)に刊行した『アンデルセン童話』、『花の精』などの絵はがきで一躍有名となり、大正末期から昭和初期にかけて、竹久夢二、高畠華宵、蕗谷虹児らとともに抒情画の全盛時代を築いた。童謡『月の沙漠』の作詞家としても知られる。 1897年(明治30年)4月8日、静岡県志太郡西益津村田中(現・藤枝市大手)に生まれる。幼少期を祖父母と共に藤枝で過ごす。父は浦和中学の教師を務めたが、後に東京の小学校校長を務めた。西益津尋常高等小学校(現在の藤枝市西益津小学校)3学年を終了後、1910年(明治43年)に父母のもとに上京し、早稲田中学校に入学。
林 信雄(はやし のぶお、明治30年(1897年)4月8日 … 林 信雄(はやし のぶお、明治30年(1897年)4月8日 - 昭和39年(1964年)12月12日)は、日本の医学者、医学博士(千葉医科大学)。放射線による内科的診断・放射線医学の先駆者。従五位・勲四等・旭日小綬章。 山形県鶴岡市出身。
永田 年(ながた すすむ、1897年(明治30年)4月5日 … 永田 年(ながた すすむ、1897年(明治30年)4月5日 - 1981年(昭和56年)12月31日)は、昭和時代の土木工学者、台湾総督府官僚、内務官僚、実業家。 福岡県出身。1922年(大正11年)東京帝国大学工学部土木工学科卒業。台湾総督府、内務省土木局、満州国交通部を経て、電力界へ転じ東北振興電力および日本発送電にて勤務する。1951年(昭和26年)北海道電力副社長、1952年(昭和27年)電源開発理事を経て、1953年(昭和28年)佐久間発電所建設所長を兼務する。ついで、1957年(昭和32年)土木部長、1960年(昭和35年)電源開発顧問を経て、東京電力技術最高顧問に就任した。 ほか、国際大ダム会議副総裁、日本大ダム会議会長、日本ACI会長などの要職を歴任した。
能登 久(のと ひさし、1897年(明治30年)4月5日 -… 能登 久(のと ひさし、1897年(明治30年)4月5日 - 1980年(昭和55年)11月29日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 富山県出身。1920年(大正9年)5月、陸軍士官学校第32期卒業。陸軍砲工学校第29期を優等で卒業。東京帝国大学物理学科卒業。 北支那方面軍気象部長、陸軍技術本部附を経て、1941年(昭和16年)3月、陸軍大佐に進み、同年6月、陸軍技術本部課長となる。翌年の1942年(昭和17年)10月に第7陸軍技術研究所員に転じ、1945年(昭和20年)6月、陸軍少将に進んだ。 1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた。
諫早 不二雄(いさはや ふじお、1897年〈明治30年〉4月… 諫早 不二雄(いさはや ふじお、1897年〈明治30年〉4月4日 - 1947年〈昭和22年〉1月16日)は、日本の華族(旧佐賀藩国老、男爵)、資産家。 長崎県北高来郡諫早村(現・諫早市)出身。諫早家興の弟。諫早家崇の庶子男。 1913年、家督を相続し、襲爵仰せ付けられる。1913年12月、長崎県北高来郡立諫早実科高等女学校敷地として畑2段5畝5歩を寄付し、銀杯1箇を賜う。住所は長崎県北高来郡諫早村原口名、東京府荏原郡品川町大字南品川三ツ木鎗ケ崎(現・品川区)。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
松根 宗一(まつね そういち、1897年4月3日 - 198… 松根 宗一(まつね そういち、1897年4月3日 - 1987年8月7日)は、日本の昭和時代に活動した実業家。後楽園スタヂアムおよび新理研工業会長、電気事業連合会副会長を歴任し「電力界のフィクサー」「ミスター・エネルギーマン」の異名で呼ばれた。 祖父は宇和島藩家老の松根図書、次兄は俳人の松根東洋城。 1897年(明治30年)、愛媛県北宇和郡宇和島町(現在の宇和島市)に生まれる。旧制宇和島中学校を経て東京高等商業学校を卒業後、日本興業銀行を経て1932年(昭和7年)7月に電力連盟書記長。1939年(昭和14年)の日本発送電設立に伴い電力連盟は解散し、興銀からの出向により理研コンツェルンの中核企業であった理研工業へ入社、常務を経て副社長に就任する。
新関 八洲太郎(にいぜき やすたろう、1897年(明治30年… 新関 八洲太郎(にいぜき やすたろう、1897年(明治30年)4月2日 - 1978年5月30日)は、埼玉県浦和市出身の実業家で、元三井物産社長・会長。
相賀 武夫(おうが たけお/おおが たけお、1897年4月2… 相賀 武夫(おうが たけお/おおが たけお、1897年4月2日 - 1938年8月12日)は、日本の出版事業家、小学館及び集英社の創業者。1932年(昭和7年)7月に相賀祥宏と改名している。長男は小学館第2代社長の相賀徹夫。孫は小学館第3代社長の相賀昌宏(徹夫の長男)。 岡山県都窪郡加茂村(現在の岡山市北区加茂)出身。1897年(明治30年)4月2日、庄屋を営む相賀虎右衛門の長男として生まれる。祖父の春治は村会議員を務め、私財を投げうって村の発展に尽くしていた。 父・虎右衛門の時代には生家が没落して貧しかったため、1910年(明治43年)3月に加茂尋常小学校(現・岡山市立加茂小学校)卒業後は書記見習として県立高松農学校(現・岡山県立高松農業高等学校)に書記見習として就職(後に書記代理へ昇進)。
我妻 榮(わがつま さかえ、1897年〈明治30年〉4月1日… 我妻 榮(わがつま さかえ、1897年〈明治30年〉4月1日 - 1973年〈昭和48年〉10月21日)は、日本の法学者。専門は民法。学位は法学博士(東京大学)、東京大学名誉教授、米沢市名誉市民。文化勲章、贈従二位(没時叙位)・贈勲一等旭日大綬章(没時叙勲)。憲法改正に伴う家族法大改正の立案担当者の一人。鳩山秀夫に師事。弟子に有泉亨、川島武宜、四宮和夫、幾代通、加藤一郎、鈴木録彌、星野英一、西原道雄など。 山形県米沢市出身。英語教師の父・又次郎と家計のたしにするため、自宅で中学生相手に国・漢・数学を教えた母・つるの長男として生まれる。5人の子における唯一の息子であったため、父母を安心させなければという気持ちから一心に勉強に励んだ。
中村 琢二(なかむら たくじ、1897年4月1日 - 198… 中村 琢二(なかむら たくじ、1897年4月1日 - 1988年1月31日)は、日本の洋画家である。日本芸術院会員。 鉱山技師であり、後に住友本社鉱山技師長となる中村啓二郎の二男として、当時啓二郎が勤務していた佐渡金山があった新潟県佐渡郡相川町(現・佐渡市)に生まれる。洋画家の中村研一は実兄。1899年、愛媛県新居浜に移り、1906年より、福岡県の祖父母のもとで育つ。旧制東筑中学(現福岡県立東筑高等学校)入学後、福岡県立中学修猷館に転校。在学中に兄・研一や児島善三郎らが創立した絵画同好会「パレット会」に参加して、西洋絵画を勉強している。1916年、父の跡を継ぐべく第五高等学校理科に進むが、健康上の理由で中退し、第六高等学校英法科に入学して、1924年、東京帝国大学経済学部を卒業する。
我妻 榮(わがつま さかえ、1897年〈明治30年〉4月1日… 我妻 榮(わがつま さかえ、1897年〈明治30年〉4月1日 - 1973年〈昭和48年〉10月21日)は、日本の法学者。専門は民法。学位は法学博士(東京大学)、東京大学名誉教授、米沢市名誉市民。文化勲章、贈従二位(没時叙位)・贈勲一等旭日大綬章(没時叙勲)。憲法改正に伴う家族法大改正の立案担当者の一人。鳩山秀夫に師事。弟子に有泉亨、川島武宜、四宮和夫、幾代通、加藤一郎、鈴木録彌、星野英一、西原道雄など。 山形県米沢市出身。英語教師の父・又次郎と家計のたしにするため、自宅で中学生相手に国・漢・数学を教えた母・つるの長男として生まれる。5人の子における唯一の息子であったため、父母を安心させなければという気持ちから一心に勉強に励んだ。
生越 三郎(おごし さぶろう、1897年(明治30年)4月1… 生越 三郎(おごし さぶろう、1897年(明治30年)4月1日 - 1969年(昭和44年)12月2日)は、大正から昭和期の技術者、実業家、政治家。衆議院議員(1期)。 島根県那賀郡、現在の浜田市で生まれる。1919年(大正8年)大阪工業専門学校機械科を卒業。 三菱造船に技師として入社した。1935年(昭和10年)に日本機械車両工業を設立し社長に就任。その他、東京大同商会代表社員、日本電気漂白専務取締役、三星工業取締役社長、日本化機工業取締役などを務めた。 1940年(昭和15年)財団法人石見工業専修学校を設立し理事長に就任。同校は石見工業学校、益田商工高等学校を経て益田工業高等学校(現益田東高等学校)となり各理事長を務めた。
長谷川 透(はせがわ とおる、1897年(明治30年)4月 … 長谷川 透(はせがわ とおる、1897年(明治30年)4月 - 1977年(昭和52年)6月13日)は、日本の内務官僚。官選宮崎県知事。 京都府出身。長谷川吟之助の二男として生まれる。第三高等学校を卒業。1919年10月、高等試験行政科試験に合格。1920年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。農商務省に入り工務局属となる。その後、内務省に転じた。 以後、福井県理事官、愛媛県理事官、内務省社会局事務官兼内務事務官、同社会局書記官・社会部職業課長、同大臣官房文書課長などを経て、1937年6月、大阪府書記官・総務部長に就任。 1939年9月、宮崎県知事に就任。1941年1月に退官し、大日本産業報国会労務局長に就任。
山根 春衛(やまね はるえ、1897年4月 - 1981年2… 山根 春衛(やまね はるえ、1897年4月 - 1981年2月25日)は、日本の実業家。栃木県下都賀郡瑞穂村大字土与(現・栃木市大平町土与)出身。大正海上火災保険(現在の三井住友海上火災保険)の社長を務めた。 1917年3月に栃木中学校を卒業し、東京商科大学に入学。在学中は中国・南洋各地を旅行視察し、1921年7月卒業、大正海上火災保険に入社して東京本店勤務。1927年2月、社命を受けて欧米各国の保険事業を研究するため出張、1929年5月に帰国して大阪支店長代理を務める。1945年4月に取締役、翌1946年6月に常務取締役、さらに翌1947年5月に社長に就任する。 1957年5月に藍綬褒章を受章した。
井上 清(いのうえ きよし、1897年〈明治30年〉4月 -… 井上 清(いのうえ きよし、1897年〈明治30年〉4月 - 1996年〈平成8年〉9月30日)は、日本の時計職人。北海道札幌市のシンボルともいえる札幌時計台の修理を1933年(昭和8年)に始め、以来、3日に一度は必ず時計台の保守を行う作業を、半世紀にわたって無償で手掛け、「時計台のお医者さん」と呼ばれた。長男は同じく時計台の保守を手掛けた時計職人の井上和雄。 1897年(明治30年)4月に、北海道札幌郡広島村(後の恵庭市)で誕生した。小学校を卒業後、自らの意思で、進学ではなく就職の道を選んだ。 実家は祖父の代に山口県から北海道に入植した家で、父は旧国鉄の職員であったが、その仕事を嫌ったこと、機械いじりが好きだったことで、16歳で時計店に務めた。
大野 謙一(おおの けんいち、1897年(明治30年)4月 … 大野 謙一(おおの けんいち、1897年(明治30年)4月 - 1968年〈昭和43年〉5月2日)は、昭和時代前期の朝鮮総督府官僚。咸鏡北道知事。朝鮮総督府学務局長。 大野謙弼の長男として山口県大島郡蒲野村(大島町を経て現周防大島町)に生まれ、1901年(明治34年)家督を相続した。1897年(明治45年)高等小学校を卒業。1921年(大正10年)高等試験に合格し、朝鮮総督府に奉職する。江原道学務課長、江原道地方課長、平安南道地方課長、朝鮮総督府殖産局水利課長、黄海道財務部長、忠清北道警察部長、慶尚北道警察部長、朝鮮総督府学務局学務課長、慶尚南道内務部長、朝鮮総督府北京出張所長、朝鮮総督官房外務部長を経て、咸鏡北道知事に就任した。
奥村 純松(おくむら すみまつ、1897年(明治30年)3月… 奥村 純松(おくむら すみまつ、1897年(明治30年)3月31日 - 1948年(昭和23年)7月23日)は、昭和期の華族(男爵)。 加賀藩重臣奥村宗家第14代当主奥村栄滋の子として生まれる。1945年7月2日、兄栄同の死去に伴い男爵を襲爵した。 慶應義塾大学部理財科を卒業し南満洲鉄道に勤務した。 永福 - 栄明 - 栄政 - 栄清 - 時成 - 有輝 - 有定 - 修古 - 栄輇 - 尚寛 - 栄実 - 栄親 - 栄通 - 栄滋 - 栄同 - 純松 - 栄純 易英 - 庸礼 - 悳輝 - 明敬 - 温良 - 保命 - 易直 - 煕殷 - 成象 - 隆振 - 質直 - 惇叙 - 直温 - 篤輝 - 則友 - 則英 - 内膳 - 弘 - 隆弘
小畑 信良(おばた のぶよし、1897年(明治30年)3月2… 小畑 信良(おばた のぶよし、1897年(明治30年)3月29日 - 1976年(昭和51年)5月30日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。兄に小畑英良。 大阪府出身。地主・小畑万治郞の七男として生まれる。茨木中学校卒。日本軍において、輜重兵科として陸軍大学校に入校し卒業した数少ない将校であった。 太平洋戦争開戦前の1941年(昭和16年)2月初め以来、参謀本部第1部内で小畑を長とする研究班が設置され、秘密裏に南方占領地行政に関する研究を行う。 1943年(昭和18年)3月には第15軍参謀長に着任。第15軍司令部で後のインパール作戦が起案された際、小畑はアラカン山系のジャングルを越える作戦実施は不可能と判断して作戦に反対した。
太刀光 電右エ門(たちひかり でんえもん、1897年3月29… 太刀光 電右エ門(たちひかり でんえもん、1897年3月29日 - 1952年5月15日)は、北海道三笠市出身で高砂部屋(入門時は友綱部屋)に所属した大相撲力士。本名は八田 政次(はった まさつぐ(まさじ))。最高位は東大関。 1897年3月29日に北海道空知郡(現:北海道三笠市)で鉱夫の二男として生まれる。1912年の夏に太刀山峯右エ門一行が札幌へ巡業に来た際に兄に付き添われて直接弟子入りを志願したが、小兵だったことで見込みが無いと判断され、諭された上に断られた。それでも政次少年は熱心に入門を志願したため、太刀山自ら「厳しい修行に耐えられるか」と問い、その様子を傍で見ていた代議士も口添えしてくれたため、友綱部屋への入門を許可された。
萩原 雄祐(はぎはら ゆうすけ、1897年3月28日 - 1… 萩原 雄祐(はぎはら ゆうすけ、1897年3月28日 - 1979年1月29日)は、日本の天文学者。大阪府大阪市南区(現中央区)出身。旧制第一高等学校を経て東京帝国大学理学部卒業。日本学士院会員。勲一等瑞宝章・文化勲章受章。贈正三位(没時叙位)
後藤 丹治(ごとう たんじ、1897年3月28日 - 196… 後藤 丹治(ごとう たんじ、1897年3月28日 - 1963年5月1日)は、日本の国文学者。 三重県出身。京都帝国大学卒。 東京帝国大学史料編纂官補、立命館大学教授、1954年に大阪学芸大学教授。1957年に定年退官。 中世の戦記物語や近世の読本を研究した。
中山 正則(なかやま まさのり、1897年3月28日 - 1… 中山 正則(なかやま まさのり、1897年3月28日 - 1971年11月9日)は、日本の経営者。埼玉県出身。 1921年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業。1926年に石川島造船所に転じ、1943年に常務に就任し、1947年に顧問を経て、1956年5月から1964年4月までに澁澤倉庫社長を務めた。 1971年11月9日閉塞性黄疸のために死去。74歳没。
坂田 英一(さかた えいいち、1897年3月27日 - 19… 坂田 英一(さかた えいいち、1897年3月27日 - 1969年7月22日)は、石川県出身の官僚、政治家。位階は正三位。勲等は勲一等。 衆議院議員(7期)。農林大臣(第35代)。自民党佐藤派所属。 石川県加賀市生まれ。第四高等学校を経て、1920年、東京帝国大学農学部卒業後、農商務省入省。1938年、農林省特産課長(1946年まで)。 1949年1月の第24回衆議院議員総選挙に民主自由党から立候補し初当選(当選同期に池田勇人・佐藤栄作・前尾繁三郎・橋本龍伍・岡崎勝男・麻生太賀吉・小渕光平・西村英一・橋本登美三郎・福永健司・塚原俊郎・藤枝泉介・木村俊夫・稲葉修・河本敏夫・森山欽司・床次徳二・有田喜一など)。
宇賀田 為吉(うがた ためきち、1897年3月25日 - 1… 宇賀田 為吉(うがた ためきち、1897年3月25日 - 1999年2月28日)は、日本の医師、たばこ研究家、江戸版本蒐集家。 埼玉県加須市出身。東京帝国大学医学部卒、1928年「パラメチウム発育の生化学的研究」で医学博士。沖電気工業診療所長。大槻玄沢『蔫録(えんろく)』の調査研究が終生のテーマで、室号を「蔫々堂文庫」と称した。江戸時代の版本の蒐集家でもあり、そのコレクションは、たばこと塩の博物館に寄贈されている。101歳で死去。
新村 英一(にむら えいち、1897年(明治30年)3月25… 新村 英一(にむら えいち、1897年(明治30年)3月25日 - 1979年(昭和54年)4月2日)は、舞踊家である。本名は、三木富蔵。「新村英一」は、まだ舞踊家になる前、ボストンに向かう列車の中で新聞記事をヒントにつけた名前であり、「Nimura Yeichi」と表記する。 長野県上諏訪町(現諏訪市)生まれ。1918年(大正7年)単身渡米し、舞踊家を志す。セント・デニス、テッド・ショーンらに師事。1925年(大正14年)ニューヨークのカーネギーホールでデビュー(デニショーン舞踊団(英語版))。1930年(昭和5年)同じくニューヨークで発表会。舞踊における東洋と西洋の融合を果たす。その後、後に妻となるリサン・ケイ(Lisan Kay)を相手にヨーロッパ各地やカナダ、全米で巡回公演、各地で熱烈な支持を受ける。
近藤 孝太郎(こんどう こうたろう、1897年3月24日 -… 近藤 孝太郎(こんどう こうたろう、1897年3月24日 - 1949年11月6日)は、日本の社会運動家、著述家、芸術家。大正期から昭和20年代前半にかけて、郷里岡崎市の社会主義運動および文化活動を牽引した。 愛知県額田郡常磐村大字米河内(現・岡崎市米河内町)の代々続く清酒醸造を業とする家に近藤伍三郎の長男として生まれ、祖母に育てられる。1914年(大正3年)、愛知県立第二中学校(現・愛知県立岡崎高等学校)卒業。芸術家になることを夢み、東京美術学校進学を希望するが父の反対にあい、やむなく東京高等商業学校(現・一橋大学)に進む。在学中から若山牧水に師事し「創作社」同人となった。この頃、府立一中の蔵原惟人、浅野晃らと同人誌『りらの花』(後『リラ』)発行。
高木 吉之助(本姓:髙木、たかぎ きちのすけ、1897年(明… 高木 吉之助(本姓:髙木、たかぎ きちのすけ、1897年(明治30年)3月24日 - 1984年(昭和59年)11月21日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 京都府京都市出身。1918年(大正7年)京都高等工芸学校(現京都工芸繊維大学)を卒業した。 織物業を経営。近畿中小企業連絡協議会参与委員、西陣織物統制組合理事長、京都物産協会長、京都府商工会議所理事、西陣織物協同組合理事長、西陣織物同業会長、日本絹人絹織物同業会理事などを務めた。 また、京都市会議員に選出され、商工省物価局価格査定事務嘱託、京都府西陣地区物価監視委員長、生糸問屋審査専門委員なども務めた。1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙で京都府地方区から民主党公認で出馬したが次点で落選。
井田 完二(いだ かんじ、1897年〈明治30年〉3月23日… 井田 完二(いだ かんじ、1897年〈明治30年〉3月23日 - 1988年〈昭和63年〉)は、日本の内務官僚。従六位。井田特許事務所長。 福井県遠敷郡雲浜村(現:小浜市)生まれ。井田謙治の二男。日本加除出版取締役・井田勝久(井田耕治)の弟。1922年、高等試験行政科に合格する。1923年、京都帝国大学法学部独法科を卒業する。 内務省に入り、石川県警視、地方事務官、奈良、埼玉、愛媛、広島各県勤務。本省地方局地方債課長、財務課長、宮城、広島各県警察部長を歴任。1934年3月18日から1935年1月19日まで広島市長職務管掌。1945年に住宅営団理事となり、大阪支所長を兼ね、1949年に大阪府立大学学生部長となり、後に退職、京都市内に特許事務所を開く。
森崎 了三(もりさき りょうぞう、1897年(明治30年)3… 森崎 了三(もりさき りょうぞう、1897年(明治30年)3月23日 - 1978年(昭和53年)8月27日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 兵庫県、現在の姫路市で森崎理也の長男として生まれる。1919年(大正8年)神戸高等商業学校(現神戸大学)を卒業。1936年(昭和11年)家督を相続した。 神戸商工会議所議員、兵庫県商工経済会理事、同県貨物自動車運送事業組合理事長、全国貨物自動車運送事業組合連合会理事、同監事、日本自動車輸送研究所理事長、兵庫県トラック協会長、全国通運業連盟副会長、近畿通運連絡会長、日本食堂(現日本レストランエンタプライズ)取締役、神戸トヨペット取締役、大同通運取締役社長、兵庫タイヤ販売取締役社長などを務めた。
牛原 虚彦(うしはら きよひこ、1897年3月22日 - 1… 牛原 虚彦(うしはら きよひこ、1897年3月22日 - 1985年5月20日)は、日本の映画監督、脚本家。本名は牛原 清彦。 初期の松竹蒲田撮影所で活躍した映画監督で、鈴木傳明とのコンビで明朗な青春映画などを作り、島津保次郎らとともに蒲田映画の一翼を担った。渡米してチャールズ・チャップリンの映画『サーカス』の製作に参加したことでも知られる。監督引退後は日本大学芸術学部教授や日活芸術学院初代学院長などに就いて後進の指導にあたった。毎日映画コンクール創設メンバーの一人でもある。妻は女優の三村千代子で、息子は日活で活躍した映画監督の牛原陽一。 1897年(明治30年)3月22日、熊本県熊本市京町に、父・満太郎と母・冬の6人兄妹の5番目として生まれる。
馬場 敬治(ばば けいじ、1897年(明治30年)3月22日… 馬場 敬治(ばば けいじ、1897年(明治30年)3月22日 - 1961年(昭和36年)8月10日)は、日本の昭和期の経営学者である。 東京大学名誉教授、千葉工業大学元学長。大正15年7月10日の日本経営学会創立会議に臨席する。人間関係論にもとづく経営学理論をとなえ、組織論の基礎を確立した。
細野 三千雄(ほその みちお、1897年〈明治30年〉3月2… 細野 三千雄(ほその みちお、1897年〈明治30年〉3月22日 - 1955年〈昭和30年〉6月25日)は、日本の政治家。日本社会党衆議院議員(5期)。立教大学教授。弁護士。 愛知県海部郡八開村(現:愛西市)出身。父、辰三郎も弁護士。東京帝国大学に入り、三輪寿壮らと新人会に参加する。帝大卒業(1920年)後の1922年に立教大学教授となる。その後弁護士となり、労働運動や農民運動に携わる。高野岩三郎主宰の大原社会問題研究所嘱託。星島二郎の中央法律研究所所員。阿仁前田小作争議では、終始小作農民側の弁護士を務めた。農民労働党、日本労農党、社会大衆党などの役員を務めたこの他法政大学講師も務めた。1929年(昭和4年)の東京市会議員総選挙に四谷区から日本大衆党公認で立候補したが落選した。
淡谷 悠蔵(淡谷 悠藏、あわや ゆうぞう、1897年〈明治3… 淡谷 悠蔵(淡谷 悠藏、あわや ゆうぞう、1897年〈明治30年〉3月22日 - 1995年〈平成7年〉8月8日)は、日本の政治家。日本社会党の衆議院議員(6期)。 昭和期に活躍した歌手で、「ブルースの女王」の愛称で知られる淡谷のり子は姪にあたる。 1897年(明治30年)に青森県青森市で父・金蔵、母・まつの13番目の子(末っ子)として生まれた。実家は豪商「大世・阿波屋」を本家とする老舗の呉服店「大五呉服店」を営み、青森市長を務めた5代目・淡谷清蔵は母方の伯父にあたる。高等小学校卒業後は家業に従事しながら若山牧水系の歌誌「はまなす」で短歌を詠む。悠蔵は旧家の因習を嫌って新城村で農業を始め、この頃から盛んに文学同人誌に投稿する傍ら、武者小路実篤の「新しき村」運動に共鳴して青森支部を自ら立ち上げた。
赤松 月船(あかまつ げっせん、1897年3月22日 - 1… 赤松 月船(あかまつ げっせん、1897年3月22日 - 1997年8月5日)は、日本の詩人、曹洞宗僧侶。梅花流詠讃歌で知られる。岡山県浅口郡鴨方村(現・浅口市)出身。旧名は藤井卯七郎。 小学校卒業と同時に井原の善福寺の住職赤松仏海の養子となり、13歳で得度、1914年(大正3年)から新居浜の瑞応寺で修行、1916年から大本山永平寺で修行。1918年(大正7年)、僧籍を離れ上京して生田長江に師事。文学上の友人としては村井武生がいる。佐藤春夫、室生犀星らと知り文学活動を始め、『紀元』『文藝時代』などに参加。 1936年、岡山県に帰り、洞松寺(矢掛町)、善福寺の住職。1950年、曹洞宗特派布教師。1951年、正教師。
菅原 明朗(すがはら めいろう、Méireaux Sœgah… 菅原 明朗(すがはら めいろう、Méireaux Sœgaharat、1897年(明治30年)3月21日 - 1988年(昭和63年)4月2日)は、日本の作曲家、音楽の教育者、指導者、啓蒙家。本名は吉治郎。 兵庫県明石市大蔵町生まれ。菅原道真の菅原氏の末流。プロテスタントの幼稚園に通ったことから、明石第二尋常小学校(現在の明石市立人丸小学校)通学中の1908年(11歳)、洗礼を受ける(後年、カトリックに改宗)。1910年(13歳)京都二中(現在の京都府立鳥羽高等学校)に入学。その時代、陸軍軍楽隊長小畠賢八郎にホルンとソルフェージュを習った。 1914年(17歳)上京し、1918年(21歳)まで川端画学校洋画科で藤島武二に学んだ。
河本 緑石(かわもと ろくせき、本名:河本義行〈かわもと よ… 河本 緑石(かわもと ろくせき、本名:河本義行〈かわもと よしゆき〉、1897年〈明治30年〉3月21日 - 1933年〈昭和8年〉7月18日)は、日本の自由律俳句の俳人・詩人。『層雲』の荻原井泉水に師事した。鳥取県東伯郡社村(現・倉吉市)出身。 鳥取県東伯郡社村(現・倉吉市)に父定吉、母政野の次男として生まれる。長男が夭折したため跡取りとして育てられる。幼少期に従兄・河本謹一郎の感化を受けて俳句を作りはじめる。この頃の句は定型であったといわれているが現存しない。社尋常高等小学校(現・倉吉市立社小学校)卒業後、1911年4月に鳥取県立倉吉中学校(現・鳥取県立倉吉東高等学校)に入学。同校在学中に東郷湖横断競泳の記録を残している。
重政 誠之(しげまさ せいし、1897年3月20日 - 19… 重政 誠之(しげまさ せいし、1897年3月20日 - 1981年6月3日)は、日本の農商務官僚、政治家。元衆議院議員。従三位勲二等旭日重光章。参議院副議長を務めた重政庸徳は兄で、安倍源基は親戚。 広島県深安郡神辺町(現福山市)に生まれる。広島県立福山中学(現・広島県立福山誠之館高等学校)、第六高等学校 (旧制)を経て東京帝国大学法学部を卒業後、1923年、農商務省に入省。小磯内閣の農商次官、農業報国会理事、東久邇宮内閣の農林次官を歴任、商工省の岸信介とともに官僚の双璧と言われた。戦後は占領軍に公職追放された。1948年9月10日には昭和電工疑獄事件で嫌疑がかけられ逮捕され、一部無罪となるものの懲役1年・執行猶予1年が確定した。
荒木 俊馬(あらき としま、1897年〈明治30年〉3月20… 荒木 俊馬(あらき としま、1897年〈明治30年〉3月20日 - 1978年〈昭和53年〉7月10日)は、日本の天文学者、物理学者。専門は天体物理学、理論物理学、宇宙論。学位は、理学博士(京都大学・1929年)。京都大学名誉教授、京都産業大学初代総長。 1897年、荒木竹次郎・記寿の長男として熊本県鹿本郡来民町(後の鹿本町、現在の山鹿市)に生まれた。1903年、来民尋常小学校に入学。1906年、熊本市立碩臺尋常小学校に転校し、翌1907年に卒業した。1910年、熊本県立中学済々黌(現:熊本県立済々黌高等学校)に入学。1915年に済々黌を卒業し、広島高等師範学校理科一部に入学。1919年に同校を卒業。
本多 忠晃(ほんだ ただてる、1897年(明治30年)3月1… 本多 忠晃(ほんだ ただてる、1897年(明治30年)3月19日 - 1978年(昭和53年)10月5日)は、昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。 元陸奥泉藩主・本多忠伸の二男として生まれる。1904年(明治37年)7月、兄・忠彦が日露戦争で戦死したため家督を継承し、同年11月12日に子爵を襲爵した。 1923年(大正12年)京都帝国大学経済学部を卒業。1925年(大正14年)東京電燈に入社し、その後、南満州鉄道嘱託などを務めた。 1939年(昭和14年)10月7日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
里見 岸雄(さとみ きしお、1897年3月17日 - 197… 里見 岸雄(さとみ きしお、1897年3月17日 - 1974年4月18日)は、日本の思想家、人文学者、国体学者、法学者。国柱会を創設した田中智学の三男として東京で生まれ、のちに里見家へ養子に入る。日本国体学の創始者として知られ、戦前の言論に大きな影響を与えた。 1920年旧制早稲田大学哲学科卒業。1922年から1924年にかけて英独仏などに遊学し、帰朝後に里見日本文化学研究所を創立。1936年、日本国体学会を創立。後に立命館大学法学部教授に就任、法学博士号を同大より授与され、国体学科を創設。主任教授となる。 近年、戦前期の国家主義に関する研究が進む中、大谷栄一による近代日蓮主義運動史研究、大塚桂・昆野伸幸による政治思想史研究、林尚之による憲法学史研究などにおいて、その独自性が評価されつつある。
田中 英篤(たなか ひであつ、1897年 <明治30年> 3… 田中 英篤(たなか ひであつ、1897年 <明治30年> 3月16日 - 1984年 <昭和59年> 4月2日)は、日本の経営者。北越銀行頭取を務めた。新潟県出身。位階は従五位。 1922年に東京高等商業学校専攻科を卒業し、1927年4月に長岡銀行(のちの北越銀行)に入行。 1948年6月に常務に就任し、1962年1月に専務を経て、1965年11月から1970年11月までに頭取を務めた。 1972年4月に勲四等瑞宝章を受章。 1984年4月2日老衰のために死去。87歳没。死没日付をもって従五位に叙された。
吉谷 一次(よしたに いちじ、1897年〈明治30年〉3月1… 吉谷 一次(よしたに いちじ、1897年〈明治30年〉3月14日 - 1990年〈平成2年〉3月23日)は、日本の政治家。北海道函館市長(3期)。位階は正六位。 長野県生まれ。吉谷重平の長男。1918年(大正7年)、北海道帝国大学土木専門部卒。卒業後は北海道炭礦汽船に入り、土木技師として活動する。1920年(大正9年)に函館区水道拡張事業所(現・函館市企業局上下水道部)に移り、市水道課長、同水道部長、助役を経て、1955年(昭和30年)の函館市長選挙に立候補し、現職の宗藤大陸を破って初当選した。同年5月2日に市長に就任した。在職中は市勢拡大の時期であり、道南の中核都市としての都市計画が一層進んだ。
久保 岩太郎(くぼ いわたろう、1897年3月13日 - 1… 久保 岩太郎(くぼ いわたろう、1897年3月13日 - 1980年4月29日)は、日本の法学者。専門は国際私法。学位は、法学博士(東京大学・論文博士・1953年)。一橋大学名誉教授。山口弘一の弟子。 香川県木田郡十河村(現高松市)生まれ。1916年旧制香川県立高松中学校(現香川県立高松高等学校)卒業、1919年旧制山口高等商業学校(現山口大学経済学部)卒業。1923年東京商科大学(現一橋大学)卒業。論争を機に交流のあった江川英文との縁で、1953年東京大学より法学博士の学位を取得。 大学院の指導学生に秌場準一(一橋大学名誉教授)、海老澤美廣(元名古屋高等裁判所判事、元青山学院大学教授)。 1923年4月関西学院大学高等商業学部教授、1938年東京商科大学附属商学専門部教授兼東京商科大学講師、1940年東京商科大学教授兼任、1949年東京商科大学教授、1951年一橋大学法学部教授、1955年から1957年まで一橋大学法学部長及び評議員。
佐藤 千夜子(さとう ちやこ、1897年(明治30年)3月1… 佐藤 千夜子(さとう ちやこ、1897年(明治30年)3月13日 - 1968年(昭和43年)12月13日)は、日本初のレコード歌手。本名は佐藤千代。山形県東村山郡天童村(現:天童市)出身。中山晋平の歌謡曲を世に広め、古賀政男の才能を発見したことで、それ以後の日本大衆音楽史の発展に大きな功績がある。華々しくかつ浮き沈み激しい人生は、NHK朝の連続テレビ小説「いちばん星」のモデルとなった。
若槻 有格(わかつき ありのり、明治30年(1897年)3月… 若槻 有格(わかつき ありのり、明治30年(1897年)3月13日 - 昭和46年(1971年)8月19日)は、日本の実業家、元日本銀行証券局長。 第25代および第28代内閣総理大臣若槻禮次郎と若槻徳子の長男。 東京市小石川区(現在の文京区)に生まれる。大正10年(1921年)に東京帝国大学経済学部卒業、日本銀行入行。検査役、静岡支店長、松江支店長、証券局長等を歴任する。昭和20年(1945年)に利久醗酵工業会長、昭和22年(1947年)に同常任監査役となったが、同社が協和醗酵工業との合併を機会に辞任し、セロハン販売興進社社長となる。昭和46年(1971年)没。 趣味は文学。宗教は真宗。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
朱 基瑢(チュ・ギヨン、朝鮮語: 주기용、1897年3月12… 朱 基瑢(チュ・ギヨン、朝鮮語: 주기용、1897年3月12日 - 1966年5月8日)は、日本統治時代の朝鮮および韓国の独立運動家、教育者、政治家。制憲国会議員。氏名の漢字表記は朱基容、朱基溶、朱基鎔などもある。 本貫は新安朱氏。牧師の朱基徹は従弟、独立運動家・教育者の李昇薫は岳父。 慶尚南道昌原郡(現・昌原市鎮海区)出身。1916年に平安北道定州郡の五山中学校を卒業した後に故郷に戻り、熊東面にあった啓光学校で教鞭を取った。学校に在職中に三・一運動が起こると、熊川・熊東の万歳デモを主導したため馬山の刑務所に投獄された。出獄後は創立者で岳父の李昇薫の助けを借りて日本内地に渡り、正則英語学校を経て東京高等師範学校数学科を卒業した。