関 集三(せき しゅうぞう、1915年5月21日 - 201… 関 集三(せき しゅうぞう、1915年5月21日 - 2013年12月24日)は、日本の化学者(物理化学)。位階は正四位。勲等は勲二等。学位は理学博士(大阪帝国大学・1945年)。大阪大学名誉教授、日本学士院会員。 大阪大学理学部教授、関西学院大学理学部教授などを歴任した。 1915年兵庫県(現在の西宮市)生まれ。父は実業家の関桂三。1938年大阪帝国大学理学部化学科卒業。理学博士。物質状態の理解に広く適用されている熱力学に物質構造の観点を加え、固体および液体状態の研究の発展に大きな貢献をした。また、「ガラス状態の熱力学的研究」は精密な熱測定による実験に基づき、物質内の分子の集合状態の研究を行った。
松永勇(まつなが いさお、1915年5月21日 - 没年不明… 松永勇(まつなが いさお、1915年5月21日 - 没年不明)は日本の大蔵官僚。大臣官房財務調査官(管財局担当)兼管財局総務部長、内閣官房内閣審議室長、国有財産局長、京都銀行副頭取などを歴任。 岡山県出身。東京帝国大学法学部法律学科卒業。東京帝大法学部法律学科在学中の1938年10月に高等試験司法科、1939年10月に同行政科をそれぞれ受験。1940年4月 大蔵省入省。大臣官房財政経済調査課属。1961年6月23日 大臣官房財務調査官(管財局担当)兼管財局臨時貴金属処理部長。1962年5月10日 大臣官房財務調査官(管財局担当)兼管財局総務部長兼管財局臨時貴金属処理部長。1963年4月 内閣官房内閣審議室長。
矢沢 正雄(やざわ まさお、1915年5月15日 - 200… 矢沢 正雄(やざわ まさお、1915年5月15日 - 2004年12月11日)は、日本の陸上競技(短距離走)選手。 旧制鎌倉中学校(現在の鎌倉学園高等学校)卒業後、専修大学に入学。 1935年、日本陸上競技選手権大会の男子200mで優勝(21秒8)。 1936年ベルリンオリンピックで日本代表選手となり、男子200メートル競走と400メートルリレー走に出場。予選通過はならなかった。 1937年、日本陸上競技選手権大会で100m・200mの2種目で優勝。 1939年、専修大学は箱根駅伝(第20回大会)を制覇したが、この時の陸上競技部主将が矢沢である。また、日本学生陸上競技対校選手権大会の200メートル競走での記録は、2005年時点でも専修大学記録として残っていた。
牧野 正蔵(まきの しょうぞう、1915年(大正4年)5月1… 牧野 正蔵(まきの しょうぞう、1915年(大正4年)5月15日 - 1987年(昭和62年)2月12日)は、日本の競泳選手。1932年ロサンゼルスオリンピックの1500m自由形銀メダリスト、1936年ベルリンオリンピックの400m自由形銅メダリスト。400mおよび800m自由形で世界記録を更新した。 静岡県浜名郡鷲津町(現在の湖西市)出身。吉津尋常小学校(現 湖西市立鷲津小学校)に入学。1932年ロサンゼルスオリンピックに出場し、男子100m自由形で金メダルを獲得した宮崎康二は吉津尋常小学校で牧野の1年後輩である。旧制静岡県立見付中学校(現在の静岡県立磐田南高等学校)から早稲田大学に進学する。
米山 博久(よねやま ひろひさ、1915年5月15日 - 1… 米山 博久(よねやま ひろひさ、1915年5月15日 - 1985年6月9日)は、日本の鍼灸師。大阪府鍼灸師会副会長。 1915年長野県下伊那郡山本村(現・飯田市)に生まれる。高等小学校卒業後、1935年に鍼灸師資格を取得し、1936年に東方医学会(大阪)に所属。1946年に刀根山鍼灸医学会を設立し、1950年から1971年まで日本鍼灸師会代議員を務めた。1958年には明治鍼灸専門学校の講師。1960年から1971年、1974年から1975年の4回に渡って、大阪府はりきゅう師試験委員を歴任。1963年から1975年まで大阪府鍼灸師会理事。このほか、1960年に結成された日本針灸皮電研究会(現・日本臨床鍼灸懇話会)理事、大阪府鍼灸師会副会長、大阪鍼灸専門学校(現・森ノ宮医療学園専門学校)校長などを務めた。
林 敏夫(はやし としお、1915年5月14日 - 1945… 林 敏夫(はやし としお、1915年5月14日 - 1945年8月13日)は、日本の俳優、歌舞伎役者である。本名同じ。第二次世界大戦で戦死した。 1915年(大正4年)5月14日、大阪府大阪市南区玉屋町(現在の同府同市中央区東心斎橋付近)に生まれる。祖父が初代中村鴈治郎、父が二代目林又一郎、叔父が二代目中村鴈治郎という歌舞伎一家に生まれた。 1921年(大正10年)、数え年7歳にして大阪・中座で初舞台を踏む。作品は『菅原伝授手習鑑』四段目『寺小屋』、菅丞相の子「菅秀才」役であった。以来、鴈治郎一座で歌舞伎役者として活動する。役者としての活動の傍ら、旧制・浪速中学校(現在の浪速高等学校)に進学、同校を卒業したのち、満18歳を迎える1933年(昭和8年)、京都の松竹下加茂撮影所に入社する。
西岡 弘(にしおか ひろし、1915年5月13日 - 200… 西岡 弘(にしおか ひろし、1915年5月13日 - 2004年2月24日)は、日本の文学者。専門は中国文学。文学博士(國學院大學)。國學院大學名誉教授。 大阪府大阪市出身。大阪府立北野中学校卒業。1939年國學院大學高等師範部卒業。大修館書店入社。同大漢和辞典編集室所属。1943年日本大学法文学部文学科2部卒業。陸軍少年通信兵学校教官。1946年國學院大學文学部専任講師。1951年同文学部助教授。1961年3月31日に論題「中国古代の葬礼と文学」で國學院大學にて文学博士号を受く。1963年國學院大學文学部教授。1983年國學院大學図書館長。1986年國學院短期大学(現・國學院大學北海道短期大学部)2代学長。
麻生 和子(あそう かずこ、1915年(大正4年)5月13日… 麻生 和子(あそう かずこ、1915年(大正4年)5月13日 - 1996年(平成8年)3月15日)は、随筆家。元総理大臣吉田茂の娘。元総理大臣麻生太郎の母。
藤末 尚(ふじすえ しょう、1915年5月13日 - 200… 藤末 尚(ふじすえ しょう、1915年5月13日 - 2006年10月28日)は、日本の経営者。住友セメント社長、会長を務めた。兵庫県出身。 1940年に京都帝国大学法学部を卒業し、同年に住友石炭鉱業に入社。杵島炭鉱を経て、1968年に取締役に就任し、1971年に専務を経て、1973年に社長に就任。1974年から1982年までに住友セメント社長を務めた。 2006年10月28日、心不全で死去。91歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
天城 勲(あまぎ いさお、1915年(大正4年)5月12日 … 天城 勲(あまぎ いさお、1915年(大正4年)5月12日 - 2011年(平成23年)7月22日)は、日本の文部官僚。 静岡県出身。府立一中、一高を経て1942年東京帝国大学法学部政治学科卒。朝鮮総督県道府警視、1946年文部省入省。 1960年大臣官房長、62年調査局長、65年管理局長、66年大学学術局長、69年事務次官。72年日本育英会理事長、76年日本学術振興会理事長。89年日本ユネスコ国内委員会会長。2011年死去。
佐々木 正(ささき ただし、Tadashi Sasaki、1… 佐々木 正(ささき ただし、Tadashi Sasaki、1915年〈大正4年〉5月12日 - 2018年〈平成30年〉1月31日)は、日本の電子工学の科学者。シャープ元副社長。工学博士。「ロケット・ササキ」の異名を持つ。 島根県浜田市で生まれ、小学生時代に台湾の小学校へ転校。旧制台北高等学校を経て、1938年に京都帝国大学工学部電気工学科を卒業。台北高等学校で卒業研究として、マンゴーとリンゴを接ぎ木する等のマンゴーの品種改良に取り組む。アップルマンゴーは「この研究がきっかけでできた」と佐々木は説明している。 大卒後、当時の川西機械製作所(後に富士通と合併)へ入社。第二次世界大戦中はレーダー技術を獲得するためにシベリア鉄道でドイツに渡り、対空レーダーのウルツラウスの技術の習得のために派遣されたが、命からがら潜水艦の「Uボート」で帰国した。
羽田 春兔(はねだ はると、1915年5月12日 - 199… 羽田 春兔(はねだ はると、1915年5月12日 - 1995年7月1日)は、昭和時代から平成時代の医師。医学博士(北海道大学、1948年)。13代日本医師会会長。 1915年(大正4年)、長崎県に生まれる。1939年、北海道帝国大学医学部卒業。1948年(昭和23年)、東京都大田区に内科医院を開業。1983年(昭和58年)、東京都医師会会長。1984年(昭和59年)、第12代日本医師会会長花岡堅而の再選を阻んで、第13代日本医師会会長に就任。 初代 北里柴三郎1916-1931 / 2代 北島多一1931-1943 / 3代 稲田龍吉1943-1946 / 4代 中山寿彦1946-1948 / 5代 高橋明1948-1950 / 6代 田宮猛雄1950 / 7代 谷口弥三郎1950-1952 / 8代 田宮猛雄1952-1954 / 9代 黒澤潤三1954-1955 / 10代 小畑惟清1955-1957 / 11代 武見太郎1957-1982 / 12代 花岡堅而1982-1984 / 13代 羽田春兔1984-1992 / 14代 村瀬敏郎1992-1996 / 15代 坪井栄孝1996-2004 / 16代 植松治雄2004-2006 / 17代 唐澤祥人2006-2010 / 18代 原中勝征2010-2012 / 19代 横倉義武2012-2020 / 20代 中川俊男2020-2022 / 21代 松本吉郎2022- この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
小濱 新次(こはま しんじ、1915年(大正4年)5月12日… 小濱 新次(こはま しんじ、1915年(大正4年)5月12日 - 2005年(平成17年)7月30日)は、日本の政治家。衆議院議員(4期)を務めた。 茨城県結城郡千代川村(現在の下妻市)出身。出羽海部屋に入門し、1930年10月場所で初土俵を踏む。 1936年(昭和11年)1月場所で幕下に上がったが、徴兵検査を受けて海軍に入り、横須賀鎮守府に勤務した。その後は相撲界に復帰することなく、1941年(昭和16年)5月場所限りで廃業した。最高位は東幕下10枚目だった。 後に海軍航海学校高等科で航海術を学び、海軍兵学校教員となる。終戦後、神奈川県で露天商(下駄販売)を始め、第1回国民体育大会から相撲を再び取り始め神奈川県代表として出場した。
小川 利雄(おがわ としお、1915年5月11日 - 没年不… 小川 利雄(おがわ としお、1915年5月11日 - 没年不明)は、神奈川県出身のプロ野球選手。 浅野中学校から東京機器工業を経て、1950年に国鉄スワローズへ入団。
正田 誠一(しょうだ せいいち、1915年〈大正4年〉5月1… 正田 誠一(しょうだ せいいち、1915年〈大正4年〉5月10日 - 1974年〈昭和49年〉10月11日)は、日本の経済学者。広島県安芸郡江田島村(後の江田島市)出身。原爆歌人として知られる正田篠枝の実弟。 広島県立第一中学校(後の広島県立広島国泰寺高等学校)、旧制広島高等学校を経て、九州大学法文学部経済学科を卒業。広島高時代は同校始まって以来の秀才との評判を得ていた。その後、日本鉄鋼連合会調査部、宇品内燃機有限会社、不二越鋼材株式会社の勤務を経て、1946年(昭和21年)に九州大学の講師に就任し、後に助教授、さらに教授に昇任した。 教授職においては工業政策や社会政策講座を担当する傍ら、九州の石炭産業の分析・研究に関する論文を多く執筆した。
中村 広(なかむら ひろし、1915年5月10日 - 199… 中村 広(なかむら ひろし、1915年5月10日 - 1997年10月9日)は、日本の競馬騎手、調教師。 1933年に騎手デビュー。初戦から2か月足らずで最高格競走帝室御賞典を制するなど早くから頭角を現す。1936年からは群馬県片品村の素封家千明家(千明牧場)の専属となり、1939年まで騎手兼調教師として帝室御賞典優勝馬マルヌマ、東京優駿(日本ダービー)優勝馬スゲヌマなどを手掛けた。ほか騎手として1943年の横浜農林省賞典四歳呼馬(皐月賞)をダイヱレク、1954年の天皇賞(秋)をオパールオーキットで制している。1950年度国営競馬リーディングジョッキー(年間最多勝利騎手)。1955年に史上3人目の通算500勝を達成して騎手を引退し、調教師に転身した。
大窪 愿二(おおくぼ げんじ、1915年(大正4年)5月9日… 大窪 愿二(おおくぼ げんじ、1915年(大正4年)5月9日 - 1986年(昭和61年)5月18日)は、日本の政治学者、翻訳家。専門は日本政治、国際政治。在日カナダ大使館顧問、聖徳学園岐阜教育大学教授を務めた。 1915年、秋田県生まれ。1926年、新潟市に転居。1933年に新潟県立新潟中学校を卒業し、青山学院文学部に入学。英語師範科で学び、1937年に卒業。1938年、太平洋問題調査会(通称IPR)就職する。以後、2度の従軍経験をはさんで1949年までIPRや世界経済調査会などのシンクタンクに勤務する。 1938年に、日本生まれのカナダの歴史家E・H・ノーマンとIPRのオフィスで出会い、交際が始まる。
山田 尚達(やまだ なおみち、1915年(大正4年)5月8日… 山田 尚達(やまだ なおみち、1915年(大正4年)5月8日 - 2014年(平成26年)1月21日)は日本の小児科学者、北海道大学名誉教授、北星学園大学文学部教授、北海道公安委員会委員長、医学博士。 東京都出身。趣味は陸上競技・音楽・登山。 1939年(昭和14年)東京大学医学科卒業。1954年(昭和29年)信州大学教授、1959年(昭和34年)北海道大学教授、1979年(昭和54年)同大学名誉教授、同年、北星学園大学教授。 2014年1月21日、急性心不全のため札幌市の病院で死去、98歳。 交詢社 第69版 『日本紳士録』 1986年 この項目は、医学に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:医学/Portal:医学と医療)。
仁杉 巌(にすぎ いわお、1915年〈大正4年〉5月7日 -… 仁杉 巌(にすぎ いわお、1915年〈大正4年〉5月7日 - 2015年〈平成27年〉12月25日)は、日本の鉄道技術者、実業家。第9代日本国有鉄道総裁(在任1983–1985年)。 東京市牛込区(現在の新宿区西五軒町)生まれ、静岡県駿東郡清水町で育った。1938年4月東京帝国大学工学部土木工学科を卒業、鉄道省入省。国鉄技師として長年勤め、1965年4月15日常務理事に就任した。この間1954年には信楽線の第一大戸川橋梁復旧の際、日本初の本格的なプレストレスト・コンクリート橋を採用し橋梁技術に革新を起こした。1966年には新幹線建設の功績より、紫綬褒章を受章、1968年4月に一旦国鉄を退く。 1971年6月1日顧問として西武鉄道に入社、同年11月1日取締役に選任され、専務取締役に就任、その後副社長となる。
岩佐 直治(いわさ なおじ、1915年〈大正4年〉5月6日 … 岩佐 直治(いわさ なおじ、1915年〈大正4年〉5月6日 - 1941年〈昭和16年〉12月8日)は、日本の海軍軍人である。「甲標的」(前部に45センチ魚雷発射管を備えた特殊潜航艇)による真珠湾攻撃の考案者の一人で、自ら搭乗して真珠湾攻撃で戦死した。「九軍神」の一人である。二階級特進により、最終階級は海軍中佐。 群馬県前橋市天川原町に、岩佐直吉・てる夫婦の5男、末子として生まれる。長兄・竹松は陸軍中尉だった。後の神奈川県知事・内山岩太郎は従兄にあたる。前橋市中川尋常小学校(現:前橋市立中川小学校)に入学後、前橋市城南尋常小学校(現:前橋市立城南小学校)が新設されると同校に転校、旧制・群馬県立前橋中学校(現:群馬県立前橋高等学校)を経て、海軍兵学校(海兵65期)を卒業した。
瓜生 忠夫(うりゅう ただお、1915年(大正4年)5月6日… 瓜生 忠夫(うりゅう ただお、1915年(大正4年)5月6日 - 1983年(昭和58年)2月26日)は日本の映画評論家とマスコミの研究者。東京帝国大学ドイツ文学科を卒業した後、日本映画社に入社。在学中は帝国大学新聞編集長を務めた。戦後は、映画評論やマスコミ研究に専念しながら、法政大学、明治大学、中央大学、専修大学の講師を務めた。共産党員であったため1950年にレッドパージを受ける。駅弁の研究者としても知られていた。
勝 芳孝(かつ よしたか、1915年5月5日 - 没年不詳)… 勝 芳孝(かつ よしたか、1915年5月5日 - 没年不詳)は、日本の華族、実業家。新興製作所代表取締役社長、伯爵。徳川慶喜の孫および勝海舟の曾孫であり、勝家第3代当主。 1915年(大正4年)5月、父・勝精(徳川精、徳川慶喜の十男)と母・勝伊代(勝小鹿の長女)の長男として生まれる。 学習院を経て、立教大学経済学部を卒業。 1941年(昭和16年)に出征し、ラバウルの陸軍部隊にいて終戦を迎える。一時戦死したとの誤報も流れた中、赤坂・氷川の邸宅も空襲で焼かれた。わずかに土蔵が残ったものの、これも戦後のどさくさの中で、伯爵家の執事の三太夫に持ち出され、散逸したものが多いという。名刀や名剣の類は、進駐軍のアメリカ軍人らに持ち出された。
吉沢 國雄(よしざわ くにお、1915年5月4日 - 200… 吉沢 國雄(よしざわ くにお、1915年5月4日 - 2008年11月9日)は、埼玉県出身の医師。佐久市立国保浅間総合病院名誉院長 浅間総合病院初代院長であり、糖尿病インスリンの自己注射の実現をはじめ、住民と一体となった集団健診や栄養改善、ひと部屋暖房運動など生活様式の改善活動に取組み、脳卒中死亡率の低下をはじめ、長寿のまちの基礎を築いた。 昭和34 年4 月浅間病院の初代院長として佐久の地に赴任した。当時は、地域住民の健康管理状況は必ずしも良好でなく、脳卒中の死亡率は日本でも最高位であった。このような環境の中で診療と保健予防活動という二本の柱を、地域に密着して住民と共に実践するために、広く地域住民の健康を守る医療、地域医療の推進を提唱し、佐久市立国保浅間病院を中心にその実践活動をした。
黒木清次(くろき せいじ、1915年5月2日 - 1988年… 黒木清次(くろき せいじ、1915年5月2日 - 1988年8月22日)は、日本の作家、詩人。 宮崎県西諸県郡須木村(現小林市)生まれ。宮崎師範学校(のち宮崎大学)卒。小学校教員となる。1938年に富松良夫らと同人誌『龍舌蘭』を創刊。太平洋戦争中は上海に渡り、『上海文学』を創刊する。43年「棉花記」で芥川賞候補。戦後、宮崎市の日向日日新聞社(現・宮崎日日新聞社)勤務、のち同社社長(1977~1982)。
坪井 東(つぼい はじめ、1915年〈大正4年〉5月1日 ‐… 坪井 東(つぼい はじめ、1915年〈大正4年〉5月1日 ‐ 1996年〈平成8年〉7月5日)は、日本の実業家。三井不動産の社長や会長を22年間務め、ツーバイフォー工法の導入や東京ディズニーランド開園事業に携わったほか、三井ホーム社長、世界不動産連盟会長、不動産協会理事長、不動産流通経営協会理事長等の公職も務めた。 千葉県市川市生まれ。旧制東京府立第三中學校(のちの都立両国高等学校)を経て、旧制東京商科大学(のちの一橋大学)を卒業。のちに三洋証券社長の土屋陽三郎、新日本証券社長の鷹尾寛、東京銀行頭取の横山宗一、鹿島建設副会長の原明太郎、マツダ会長の岩沢正二、丸井今井社長の今井道雄、日東製網社長の小林政夫、一橋大学学長の小泉明らとともに大学の同期会を結成した。
西治 辰雄(にしじ たつお、1915年5月1日 - 1988… 西治 辰雄(にしじ たつお、1915年5月1日 - 1988年8月1日)は、統計学者、数学者、商学博士。関西学院大学名誉教授、第九代関西学院大学学長、元関西学院大学商学部長。 数理統計学、オペレーションズ・リサーチを経済、経営の数量化の研究において数多くの研究、業績を残した。兵庫県生まれ。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
長田 正松(おさだ しょうまつ、1915年〈大正4年〉5月1… 長田 正松(おさだ しょうまつ、1915年〈大正4年〉5月1日 - 2003年〈平成15年〉12月25日)は、日本の実業家。有限会社つかれ酢本舗創業者。政治運動家。 以下は総て自費出版である。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
橘 義夫 (たちばな よしお、1915年 <大正4年> 4月… 橘 義夫 (たちばな よしお、1915年 <大正4年> 4月30日 - 没年不明)は、日本の経営者。西松建設社長を務めた。 熊本県出身。1936年に熊本高等工業学校土木科を卒業し、同年に西松組(のちの西松建設)に入社。1964年5月に取締役に就任し、1968年5月に常務、1971年11月に専務を経て、1974年5月に副社長に就任し、1977年6月には社長に昇格。1983年6月に会長、1987年6月に取締役相談役を経て、1991年6月から顧問を務めた。 1974年11月に藍綬褒章を受章し、1985年4月に勲三等旭日中綬章を受章した。
近藤 典生(こんどう のりお、1915年4月28日 - 19… 近藤 典生(こんどう のりお、1915年4月28日 - 1997年1月21日)は、日本の環境共生学者・研究者・指導者。探検家。専門は植物遺伝育種学などで、種無しスイカの生みの親でもある。三重県松阪市生まれ。 1915年、小津茂右衛門の次男として生まれる。は旧制津中学(現・三重県立津高等学校)を経て1939年、東京農業大学農学部農学科卒業。京都帝国大学農学部遺伝子研究室副手。1941年、財団法人木原生物学研究所所員。1944年同研究所主任。1948年、同研究所主任・京都大学副手を辞任、東京農業大学助教授就任。1950年、東京農業大学育種学研究所創設。1954年に農学博士。1957年、東京農業大学教授就任。
前田 直衞(まえだ なおえ、1915年(大正4年)4月28日… 前田 直衞(まえだ なおえ、1915年(大正4年)4月28日 - 2008年(平成20年)12月23日)は、日本の日本画家。京都の町屋造りの老舗を描いた「京の老舗」シリーズで知られる。
宮崎 淳臣(みやざき きよおみ、1915年(大正4年)4月2… 宮崎 淳臣(みやざき きよおみ、1915年(大正4年)4月27日 - 没年不明)は、日本の陸軍軍人(軍医将校)、医師。最終階級は陸軍軍医少佐。かつて731部隊に所属していた。宮崎神経科嵯峨病院創立者。子に豊田潤多郎、孫に豊田剛一郎。紺綬褒章受章者。 兵庫県出身。宮崎伝治の長男として生まれる。旧制姫路高等学校理科乙類を経て、1939年(昭和14年)に京都帝国大学医学部を卒業後、近衛歩兵第1連隊付軍医中尉に任官。1943年(昭和18年)軍医少佐に累進後、陸軍軍医学校教官兼陸軍軍医学校中山出張所長を務める。1946年(昭和21年)千葉県血清製造初代所長となり、1948年(昭和23年)公職追放され医院を開業。
菅 泰男(すが やすお、1915年4月26日 - 2007年… 菅 泰男(すが やすお、1915年4月26日 - 2007年6月5日)は、日本の英米文学者。シェイクスピア文学等が専門。 京都市出身。1939年京都帝国大学文学部英文科を卒業し、同大学院に進学。京都女子大学講師、1949年8月京都大学吉田分校助教授を経て、1953年5月京都大学文学部助教授、1961年7月教授に昇任、1962年「シェイクスピアの劇場と舞台」で京都大学文学博士。1979年定年退官、名誉教授、甲南女子大学文学部教授、明星大学人文学部教授、大阪府立国際児童文学館館長・理事長を務めた。また、アメリカ学会会長、日本演劇学会副会長、日本英文学会理事等を歴任。それらの功績により、1991年勲三等旭日中綬章、1994年大阪文化賞を受賞、1998年には京都市文化功労者に選ばれた。
小山 進次郎(こやま しんじろう、1915年(大正4年)4月… 小山 進次郎(こやま しんじろう、1915年(大正4年)4月26日 - 1972年(昭和47年)9月5日)は、日本の官僚。厚生省で年金局長、保険局長などを歴任し、退官後は社会保障制度審議会委員などを務めた。戦後、現在の生活保護法の成立に力を尽くし、「生活保護法の解釈と運用」の著者として知られる。 新潟県柏崎市中浜で、呉服商の家に生まれる。父は藤吉、母は芳。1928年(昭和3年)、宇都宮中央尋常小学校から栃木県立宇都宮中学校に進学。1930年に宮城県立仙台第一中学校へ転向し、1932年に4年修了、第二高等学校文化乙類に入学。1935年、東京帝国大学法学部政治学科に入学し、1937年秋に高等試験行政科に合格すると、翌1938年の卒業後、内務省から分離して新たに設立されたばかりの厚生省に採用となり、社会局に勤務した。
山邊 武郎(やまべ たけお、1915年4月26日 - 199… 山邊 武郎(やまべ たけお、1915年4月26日 - 1992年7月21日)は、日本の化学者。東京大学名誉教授。神奈川大学元学長。専門はクロマトグラフィー科学、無機化学。イオン交換樹脂膜を用いて海水淡水化する研究で知られる。日本海水学会会長、電気透析研究会会長などを歴任。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
吉岡 たすく(よしおか たすく、1915年4月24日 - 2… 吉岡 たすく(よしおか たすく、1915年4月24日 - 2000年5月22日)は、大阪府出身の児童文化研究家。テレビの教育相談番組で活動した。本名は吉岡 佐(読みは同じ)。 大阪府立生野中学を経て大阪府天王寺師範学校を卒業し、後に泉大津市に移住。1935年から大阪府高石市の小学校の教員や校長を務める傍ら、幼児教育・文化、童話などの研究を進めた。元日本サッカー協会会長である川淵三郎は、高石小学校教諭時代の教え子である。 1975年3月に退職後、研究活動を続けながら、全国各地で講演を行い、著作を発表。毎日放送『八木治郎ショー』レギュラー出演のほか、NHK教育テレビ『おかあさんの勉強室』にたびたび出演した。
酒井 忠康(さかい ただやす、1915年〈大正4年〉4月24… 酒井 忠康(さかい ただやす、1915年〈大正4年〉4月24日 - 1967年〈昭和42年〉10月23日)は、日本の華族。正五位・子爵、旧松嶺藩主酒井家10代当主。
荻原 秀夫(おぎわら ひでお、1915年〈大正4年〉4月23… 荻原 秀夫(おぎわら ひでお、1915年〈大正4年〉4月23日 - 2004年〈平成14年〉6月14日)は、日本の小説家、編集者、警察官。 群馬県佐波郡宮郷村(現・伊勢崎市)に生まれる。内務省警察講習所(警察大学校)卒。警視庁に十年間勤務し、山岡荘八に師事、戦後犯罪小説や推理小説を書いた。1951年日本出版タイムス社に迎えられ、『週刊タイムス』編集局長を勤める。妻は詩人の荻原欣子(1925-2018)。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
北村 暢(きたむら みつる、1915年4月22日 - 199… 北村 暢(きたむら みつる、1915年4月22日 - 1995年2月3日)は、日本の政治家。参議院議員(3期)。 北海道出身。旧制北海中学校を経て、1938年(昭和13年)北海道帝国大学農学部卒。大学卒業後、北海道庁に入庁。林野庁旭川営林局本庁を経て、1951年(昭和26年)全農林労働組合中央執行委員長に就任。1956年(昭和31年)、第4回参議院議員通常選挙全国区に日本社会党から出馬し当選、以後3期務めた。社会党内では左派に属した。1963年(昭和38年)参議院建設委員会委員長、1970年(昭和45年)参議院災害対策特別委員長を歴任した。引退後は、全国高齢者退職者連絡協議会会長などを務める。 1985年(昭和60年)勲二等瑞宝章受章(勲六等からの昇叙)。
尾崎 宗吉(おざき そうきち、1915年〈大正4年〉4月22… 尾崎 宗吉(おざき そうきち、1915年〈大正4年〉4月22日 - 1945年〈昭和20年〉5月15日)は、日本の作曲家。 静岡県で生まれ、1937年から東洋音楽学校 (現:東京音楽大学)でピアノを学ぶ。在学中からドイツより帰国した諸井三郎の門を叩き、作曲を師事した。 1936年、日本現代作曲家連盟に入会し、自作を発表、また1938年には深井史郎、安部幸明、小倉朗らと楽団プロメテを結成し活動した。1939年8月、応召を受け、北中国および南方戦線に派遣され、1942年に一旦帰還し、映画会社に勤務するも、翌1943年には再び満州および中国戦線に派遣され、1945年、江西省全県にて虫垂炎のため戦病死した。
牛田 寛(うしだ ひろし、1915年〈大正4年〉4月22日 … 牛田 寛(うしだ ひろし、1915年〈大正4年〉4月22日 - 1965年〈昭和40年〉1月10日)は、日本の政治家、宗教家。参議院議員(1期)。 東京市(現・東京都)に生まれる。横浜高等工業学校(現在の横浜国立大学)機械工学科を卒業後、東京計器製作所(現・東京計器)に勤める。 戦後、都立機械工業専門学校教授、東京都立大学工学部講師を務める。創価学会男子部長(初代)、同会青年部長(第2代)、同会理事、学術部長(初代:1962年9月~)、南米総支部長(初代:1962年11月)等を歴任する。 1959年6月2日、第5回参議院議員通常選挙に、創価学会系無所属として全国区から立候補し、創価学会現役幹部の原島宏治、小平芳平らと共に、当選(当選1期)する。
平尾 収(ひらお おさむ、1915年4月21日 - 1995… 平尾 収(ひらお おさむ、1915年4月21日 - 1995年7月4日)は、日本の自動車工学者。東京大学生産技術研究所の教授を務めた。東京大学名誉教授。人-自動車系という考えを早くから打ち出し、「人動車(Anthro-mobile)」という概念を作り出した。また、人動車の研究の過程で「微分ハンドル」を発明した。 牛生扇という筆名も持つ。 2001年、日本自動車殿堂入り。
文村 潤(ふみむら じゅん)、1915年4月21日 - 19… 文村 潤(ふみむら じゅん)、1915年4月21日 - 1983年7月6日)は、日本の翻訳家。 本名は加能 越郎 (かのう えつろう)。東京府(現・東京都新宿区)出身。 1939年東京帝国大学法学部卒業。旺文社で編集に携わり、常務理事を務める傍ら、英米の推理小説を訳した。 1983年、肺癌で死去。
秦 正流(はた しょうりゅう/まさる、1915年4月15日 … 秦 正流(はた しょうりゅう/まさる、1915年4月15日 - 1994年7月9日)は、日本のジャーナリスト。滋賀県出身。朝日新聞社専務取締役、日本ジャーナリスト会議代表委員を務めた。 浄土真宗本派本願寺派至心山円徳寺住職の父諦観と母いくの次男として生まれる。1936年3月、大阪外国語学校(現大阪大学外国語学部)露語部を卒業する。 同1936年8月、大阪朝日新聞社に準試用社員として入社し、奈良通信部に配属される。1937年1月、兵役に召集され、金沢の騎兵第9連隊に入営のため朝日新聞社を休職。満州ハルビンに配属されて初年兵の教育を受け、幹部候補生に採用されて6月に一等兵として帰国。翌1938年1月千葉県習志野の陸軍騎兵学校に入校、7月少尉任官、騎兵第9連隊が駐屯中の中国・蘇州で原隊復帰。
藤井 勝志(ふじい かつし、1915年4月13日 - 199… 藤井 勝志(ふじい かつし、1915年4月13日 - 1996年1月25日)は、日本の政治家。叙正三位勲一等旭日大綬章。 井原市名誉市民。労働大臣、大蔵政務次官などを務めた。 岡山県井原市出身。興譲館中学、第一高等学校を経て、東京帝国大学(現在の東京大学)法学部卒業。東大法学部では、矢部貞治に師事。帝国石油に就職したが短期現役海軍主計科士官(8期)を志願し、1942年1月、海軍主計中尉に任官し海軍経理学校に入校。同年5月に卒業。第101燃料廠に配属されバリックパダンに赴任。同廠スラバヤ出張所主任を経て、1943年11月、海軍主計大尉に昇進し同廠会計部員に就任。1944年9月、海軍省軍務局御用掛兼軍需省軍需官となり終戦を迎えた。
坂上 隆祥(さかがみ りゅうしょう、1915年(大正4年)4… 坂上 隆祥(さかがみ りゅうしょう、1915年(大正4年)4月13日 - 1993年(平成5年)12月28日)は、日本の武道家。段位は空手道範士九段、剣道範士七段、居合道範士八段、杖道教士七段。空手家の摩文仁賢和の高弟で、糸洲派正統第三世を継承した。本名、坂上博一(ひろかず)。 1915年兵庫県川西市生まれ、8歳より剣道を伊丹市の修武館道場で学び、後に富山円、志賀矩両範士に師事する。14歳の時に、地元在住、沖縄県出身の玉城より、松茂浪派(泊手)の空手を学ぶ。1933年より居合道無双直伝英信流を穂岐山波雄、福井春政両範士に学ぶ。 1935年4月、国士舘剣道科(現・国士舘大学)に入学。在学中に、沖縄県出身で同期の石川春善と共に、当時笹塚に住んでいた屋比久孟伝より空手道並びに琉球古武道を学ぶ。
河本 将(こうもと まさ、1915年(大正4年)4月12日 … 河本 将(こうもと まさ、1915年(大正4年)4月12日 - 没年不詳)は、日本の女性ファッションデザイナーである。本姓は山崎。 京都にて河本大作の長女として生まれる。後に上京し桜蔭高等学校卒業後、伊東茂平に師事し洋裁を学んだ。1941年(昭和26年)に鐘淵紡績(後のカネボウ、現在のクラシエホールディングス)に入社し、同社が製造・販売するディオールの商品開発を担当し、使用普及に貢献した。 1967年(昭和42年)に退社後はフリーランスとしての活動を開始し、後に自身が主催するファッションショーの開催を始める。1975年(昭和50年)には当時イギリス国王であったエリザベス2世の専属デザイナー・ハーディー・エイミス(英語版)日本銀座店の店長を務めた。
森井 茂(もりい しげる、1915年4月12日 - 1987… 森井 茂(もりい しげる、1915年4月12日 - 1987年4月11日)は、三重県出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。
太田 嘉四夫(おおた かしお、1915年4月11日 - 19… 太田 嘉四夫(おおた かしお、1915年4月11日 - 1994年3月16日)は、日本の動物学者・生態学者。 父方の祖父は太田惣五郎で、祖母は太田いと。叔父に医学者・文学者である木下杢太郎(本名太田正雄)と復興局疑獄事件で自殺した鉄道技術者の太田圓三がいる。太田の一族には社会運動や左翼運動に身を投じたものも多く、こうした環境下で少年期から特殊な影響を受けることを懸念した父が仙台の太田正雄(木下杢太郎)東北帝国大学教授にあずけた、という。
向坂 正男(さきさか まさお、1915年4月9日 - 198… 向坂 正男(さきさか まさお、1915年4月9日 - 1987年8月3日)は、日本の経済学者。 福岡県大牟田市生まれ。向坂逸郎の弟。1938年東京帝国大学経済学部卒、企画院、満鉄調査部に勤務。戦後、経済企画庁に入り、1962年総合計画局長。1966年日本エネルギー経済研究所を設立、所長となり、その後会長となる。1981年国際エネルギー政策フォーラムを作り議長となる。他に電源開発調整審議会委員、原子力委員会委員、総合エネルギー調査会委員、石炭鉱業審議会委員などを兼任した。
森 一也(もり かずや、 1915年(大正4年)4月8日 -… 森 一也(もり かずや、 1915年(大正4年)4月8日 - 1998年(平成10年)2月1日)は、コロムビア専属の作曲家・音楽評論家(懐メロ解説)。愛知県出身。弟にアニメーション評論で知られる映画評論家の森卓也。 幼少の頃から詩人・西條八十の大ファンで、西條八十作の童話に親しみ、毎晩母親から読み聞かせてもらわなければ寝られぬほどであったという。昭和7年4月に愛知県の一宮中学校から明治大学附属中学校に編入、翌8年4月に家事都合で退学する。また、明治大学講堂で開かれた山田耕筰の音楽講座に出席するなど音楽についての研究に没頭し、その後、東京音楽学校(現:東京藝術大学)を卒業。一時、ビクターコンサートビューローに籍を置き、戦時中は地元名古屋で音楽教師として活躍。