阿部 主計(あべ かずえ、1909年5月22日 - 2006… 阿部 主計(あべ かずえ、1909年5月22日 - 2006年6月27日)は、日本の随筆家、翻訳家。日本推理作家協会名誉会員。 東京都生まれ。1927年に東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。慶應義塾大学国文科卒業。
1909年(明治42年)生まれ:640人
阿部 主計(あべ かずえ、1909年5月22日 - 2006… 阿部 主計(あべ かずえ、1909年5月22日 - 2006年6月27日)は、日本の随筆家、翻訳家。日本推理作家協会名誉会員。 東京都生まれ。1927年に東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。慶應義塾大学国文科卒業。
菅 寿子(すが ひさこ、1909年〈明治42年〉5月20日 … 菅 寿子(すが ひさこ、1909年〈明治42年〉5月20日 - 1994年〈平成6年〉12月3日)は、日本の福祉活動家、社会事業家。神奈川県厚木市の社会福祉法人・紅梅会の元理事長、紅梅会で女性の知的障害者(精神薄弱者)を対象とする入所施設である紅梅学園の創立者、元園長。「女子精薄者の母」「女性知的障害者の母」と呼ばれる。夫は小説家・編集者の菅忠雄。東京市下谷区(後の東京都台東区)龍泉寺町出身、私立佐藤高等女学校(現・女子美術大学付属高等学校)卒業。旧姓は鶴田。 炭問屋の7人兄弟の長女として誕生。重度の知的障害者の末弟が滋賀の知的障害児施設である近江学園に引き取られ、同学園の女子部を目にしていたことが、後の人生に大きく影響を及ぼした。
中谷 泰(なかたに やすし/なかたに たい、1909年5月2… 中谷 泰(なかたに やすし/なかたに たい、1909年5月20日 - 1993年5月31日)は、三重県松阪市出身の画家。東京藝術大学教授。 戦前、新文展で特選。春陽会会員となる。絵本画家のいわさきちひろに油絵を指導したことでも知られる。本名は中谷泰一(なかたにたいいち)。 戦後は、日本美術会の書記長を務めた美術評論家の水沢澄夫に誘われ、同会に入会。春陽会や、日本アンデバンダン展(日本美術会主催)、平和美術展(美術家平和会議主催)にも作品を出品した。その後、日本美術会代表、東京藝術大学美術学部教授、財団法人いわさきちひろ記念事業団理事長、日本美術会附属美術研究所「民美」所長を歴任した。 戦前から挿絵も手がけ、坪田譲治の名作児童文学『善太と三平』(童話春秋社、1940年)の挿絵を皮切りに、戦後のNHKのラジオドラマ番組「光を掲げた人々」をもとにした「光を掲げた人々」シリーズ全12巻(光の友社、1954年)の多くで挿絵を担当。
任田 新治(とうだ しんじ、1909年(明治42年)5月19… 任田 新治(とうだ しんじ、1909年(明治42年)5月19日 - 1970年(昭和45年)12月16日)は、日本の農林官僚、政治家。参議院議員(1期)。金沢工業大学教授。 石川県金沢市出身。瓢箪町小学校、旧制石川県立金沢第三中学校、旧制第四高等学校、東京帝国大学農学部卒業。大学を出た1934年(昭和9年)は満洲国への移民の呼び声があった時代で自らも現地へ赴き、終戦まで開拓地建設とその土地改良、農業土木事業に勤しんだ。終戦後は妻や娘とともにソビエト連邦に抑留され、1946年(昭和21年)に引き揚げ、農林省に入る。 金沢農地事務局課長、奈良県農地部長を歴任して1955年(昭和30年)本省に戻る。1963年(昭和38年)北陸農政局長。
岩井 隆盛(いわい りゅうせい、1909年(明治42年)5月… 岩井 隆盛(いわい りゅうせい、1909年(明治42年)5月18日 - 1995年(平成7年)2月12日)は、日本の言語学者。金沢大学名誉教授。石川県羽咋郡押水町出身。 また、石川国語方言研究会会長(1950年-1960年)、石川県バレーボール協会顧問等を務めた。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
高山 萬司(たかやま まんじ、1909年5月17日 - 19… 高山 萬司(たかやま まんじ、1909年5月17日 - 1987年12月20日)は日本の実業家。 長野県北安曇郡七貴村鵜山(現池田町)生まれ。旧制松本中学(現長野県松本深志高等学校)を卒業後、池田小学校の代用教員となる。 2年後、大阪市の食品会社に入社し中央卸売市場で働く傍ら、1936年賀川豊彦に師事してキリスト教の布教活動に従事。1938年機械製作会社に転職し、経理課長・資材課長となり、1955年退職。翌年、兵庫県尼崎市に三和シヤッター製作所を設立。代理店によらず直販とし、従来職人の手によっていたシャッターを多量生産に切り替えて、実績を拡大させた。
横山 隆一(よこやま りゅういち、1909年5月17日 - … 横山 隆一(よこやま りゅういち、1909年5月17日 - 2001年11月8日)は、日本の漫画家・アニメーション作家。高知県高知市出身。 政治風刺漫画が主流だった1930年代日本の漫画界において、簡略な絵柄と明快なギャグによる欧米流の「ナンセンス漫画」を志向した若手グループ「新漫画派集団」を結成し、やがて戦中・戦後初期の漫画界をリードした。戦後にはアニメーション制作会社「おとぎプロダクション」を設立したほか、広告・絵本のイラストレーションや、油彩画を描いた。 高知市堺町に生まれる。公式の誕生日(戸籍上の生年月日)は5月17日であるが、横山自身は母から、名付けの遅れのために届け出が遅れ、本当の生まれた日付は5月10日であったことを伝え聞いているという。
井野川 潔(いのかわ きよし、1909年5月15日 - 19… 井野川 潔(いのかわ きよし、1909年5月15日 - 1995年12月21日)は、日本の教育運動家。本名は早船斌男(よしお)。妻は早船ちよ。 埼玉県川口市出身。埼玉師範学校卒業。小学校教師となる。 1931年退職し、郷土社で『綴方生活』などを編集。新興教育研究所に属し左翼教育運動を行い、弾圧を受ける。 1934年早船ちよと結婚、共に浦和市(現・さいたま市)で児童文化運動にかかわる。 戦時中科学工業新聞社、朝日映画社に勤務。 戦後は教育運動史研究会を運営、新作家協会・児童文化の会の創立に参画し、『新作家』『子ども世界』などを主宰した。また、『新興教育』『綴方生活』の復刻や出版に努めた。1977年生活綴方研究会を創設、教育運動史研究の隆盛に貢献した。
田中 秀果(たなか しゅうか、1909年5月15日 - 20… 田中 秀果(たなか しゅうか、1909年5月15日 - 2007年4月5日)は、昭和・平成時代日本の川柳作家、作詞家。本名・田中 秀雄(たなか ひでお)。 滋賀県彦根市出身。京都市の繊維業者に20年余り勤務した後、独立し京染加工業を営む。本業の傍ら、1932年(昭和7年)頃から新聞の川柳欄への投稿を行うようになり、今村良之祐に師事した。 御所車川柳社発行の『御所車』編集者や染織新報社発行の業界誌『そめとおり』で川柳欄の選者を務めた後、彦根へ帰郷し滋賀文学会理事に就任。1984年(昭和59年)、京都府が実施した府歌の歌詞一般公募に応募作が入選し、團伊玖磨の作曲で「京都府の歌」として制定される。 平成以降も彦根市文化協会理事として市民川柳の選者を務めていたが、2007年(平成19年)4月5日に脳内出血のため市内の病院で逝去した。
清水 亘(しみず わたる、1909年〈明治42年〉5月14日… 清水 亘(しみず わたる、1909年〈明治42年〉5月14日 - 1974年〈昭和49年〉1月26日)は、三重県熊野市出身の政治活動家。 正則英語学校英文科卒業後、橋本欣五郎の『大日本青年党』(後の大日本赤誠会)に加わり、上海交響楽団の運営にも関与していたと自称。 敗戦数年後より右翼活動を本格化し、1948年4月26日『大日本独立青年党』を結党、同年中に内山昌宣(別名:富士宮瓊光)率いる『真正日本建設協議会』に加わり、次いで1949年10月3日『祖国防衛自衛団』を結成した。 また『全日本愛国者団体協議会』(後代の全日本愛国者団体会議と直接の関係は無い)も立ち上げ、孫文の『五民主義』(民族・民生・民治・民享・民友)を掲げて、徒党にナチスの物を摸した制服を着せ、主要駅頭でアジ演説を打つなどしていたが、この段階で勢力は弱小だった。
久保 貞次郎(くぼ さだじろう、1909年5月12日 - 1… 久保 貞次郎(くぼ さだじろう、1909年5月12日 - 1996年10月31日)は、日本の美術評論家、小中学生を対象とした創造主義美術教育運動の指導者。跡見学園短期大学学長、町田市立国際版画美術館初代館長なども務めた。婚家の莫大な資産をもとに美術品蒐集でも知られ、芸術家の支援も行なった。旧姓・小此木。小此木真三郎は弟。 栃木県足利町で金物店を営む小此木仲重郎、ヨシの次男として生まれる。3歳で母を亡くし、継母と姉を母替わりに育つ。足利尋常西小学校、栃木県立足利中学校(旧制)を経て、成蹊高等学校 (旧制)に進学。欧米に憧れを抱いていた貞次郎は、1927年に国際語エスペラントを新聞広告で知って寮友らと学習を始め、1928年に日本エスペラント学会に入会。
栗原 俊夫(くりはら/くりばら としお、1909年〈明治42… 栗原 俊夫(くりはら/くりばら としお、1909年〈明治42年〉5月8日 - 1989年〈平成元年〉1月30日)は、日本の政治家。衆議院議員(4期)、参議院議員(1期)、群馬県議会議員(2期)、群馬県多野郡小野村長。日本社会党所属。囲碁4段、将棋3段、柔道3段。妻は1932年のロサンゼルスオリンピックに陸上競技80メートルハードルで出場した中西みち。 1909年(明治42年)、群馬県多野郡小野村(現・藤岡市)の農家に、栗原徳次郎・タカの長男として生まれる。群馬県立藤岡中学校、旧制藤岡高等学校を経て1932年(昭和7年)京都帝国大学(京都大学)法学部を卒業。 一時天龍・大ノ里の新興力士団に勤め、その後大阪時事新報社に入社し経済記者として活動した。
吉田 俊雄(よしだ としお、1909年〈明治42年〉5月7日… 吉田 俊雄(よしだ としお、1909年〈明治42年〉5月7日 - 2006年〈平成18年〉12月)は、日本の海軍軍人、作家。最終階級は海軍中佐。長崎県佐世保市出身。 旧制福岡中学(現・福岡県立福岡高等学校)より海軍兵学校へ進む。病気のため留年し1931年(昭和6年)11月、123人中41番で卒業した(59期)。 1933年(昭和8年)4月少尉任官、翌年11月中尉、1937年(昭和12年)4月海軍大学校選科学生。この間大尉に進級している。第28駆逐隊附、重巡洋艦「妙高」分隊長を経て、軍令部出仕(3班8課)となり、日蘭会商の随員を務めた。帰国後再び軍令部出仕となり、臨時戦史部に所属。第二次世界大戦中は主に軍令部3部8課に勤務。
斎藤 秀夫(さいとう ひでお、1909年〈明治42年〉5月4… 斎藤 秀夫(さいとう ひでお、1909年〈明治42年〉5月4日 - 2003年〈平成15年〉9月6日)は、日本の法学者。専門は民事訴訟法、特に競売法、司法学。学位は、法学博士(東北大学・論文博士・1952年)。東北大学名誉教授。司法権論、裁判官論など、日本の司法学の開拓者として著名。菊井維大門下。弟子に小室直人など。 宮城県出身。旧制仙台第一中学校(現・宮城県仙台第一高等学校)、旧制第二高等学校を経て、1933年東北帝国大学法文学部卒、同助手。東京帝国大学法学部に内地留学し、菊井維大、兼子一に師事した。その後、1937年東北帝国大学助教授、1949年東北大学法学部教授。1952年「国会と司法権の独立 国政調査権と裁判官弾劾」で東北大学より法学博士の学位を取得。
吉原 貞敏(よしはら さだとし、1909年5月3日 - 19… 吉原 貞敏(よしはら さだとし、1909年5月3日 - 1995年9月17日)は、日本の実業家、馬主。広島県向島(現・尾道市)出身。東京鐵鋼創業者である。東京鐵鋼現社長で、馬主の吉原毎文は長男。 祖父は広島県向島の八幡神社の神官で、祖父まで137代を数える家系。父・吉原敏(1885-1962)が明治大学在学中から清浦奎吾に私淑し卒業後、清浦の秘書として仕えたあと、日本兵器製造の東京支社長などを経て、長男にあたる貞敏とともに1940年に大和製鉄を買収して同社を名称変更したものが東京鐵鋼の創業となる。貞敏は明治大学商学部を1932年に中退し、飛島組に入社。1937年に有明鉄工所、1938年に高級鋳鉄研究所を設立した後、高級鋳鉄の生産を目指して父とともに東京鐵鋼を創業。
高岡 周夫(たかおか かねお、1909年5月2日 - 200… 高岡 周夫(たかおか かねお、1909年5月2日 - 2005年1月31日)は、日本の統計学者・経済学者。経済学博士(北海道大学)。元北海学園大学学長代理・北海学園大学名誉教授。 この他、経済統計学会全国運営委員や北海道経済学会理事でもあった。 経営学を小島昌太郎に師事し、統計学を蜷川虎三に師事する。 父は第三代北海道帝国大学総長の高岡熊雄であり、叔父に高岡直吉がいる。夫人は世界的外科医であり九州大学医学部教授を務めた三宅速の娘。兄弟に北海道大学名誉教授の高岡道夫・北星学園大学名誉教授の高岡英夫がいる。
石橋 辰之助(いしばし たつのすけ、1909年(明治42年)… 石橋 辰之助(いしばし たつのすけ、1909年(明治42年)5月2日 - 1948年(昭和23年)8月21日)は、俳人。栗林一石路や橋本夢道とともにプロレタリア俳句運動に尽力した。別号に竹秋子。 東京府下谷区生まれ。安田工業学校電気科卒業。帝国劇場、帝都座の照明技師を経て日本映画社の制作課長となる。10代より「ホトトギス」に投句。1931年、「ホトトギス」を離れ水原秋桜子の「馬酔木」に参加、1933年同誌同人。当時は竹秋子の号を用い、特に山岳俳句において新局面を開く。 1937年、「馬酔木」を離れ新興俳句運動、プロレタリア俳句運動に参加、翌年「京大俳句」に参加。1939年には西東三鬼、三谷昭らと「天香」を創刊するが、1940年の「京大俳句」弾圧事件に連座、「天香」も終刊を余儀なくされる。
清水 澄子(しみず すみこ、1909年5月1日 - 1925… 清水 澄子(しみず すみこ、1909年5月1日 - 1925年1月7日)は、長野県上田市出身の詩人。没後に発表された遺稿集『さゝやき』により知られる。
大河内 龍(おおこうち りゅう、1909年5月 - 没年不詳… 大河内 龍(おおこうち りゅう、1909年5月 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名山田 通(やまだ とおる)。京都の撮影所の助監督から俳優に転向、トーキー時代にサイレント映画を量産した全勝キネマで剣戟スターとしていきなり大成する。大部屋時代は田川 通(たがわ とおる)、一時マキノ 梅太郎(まきの うめたろう、二代目)を名乗った。 1909年(明治42年)5月、静岡県沼津市に生まれる。映画女優の岡島艶子の親戚にあたる。 三重県の旧制三重県励精中学校(現在の三重県立津商業高等学校)から三重師範学校(現在の三重大学教育学部)に転学、卒業後は教員への道を進まず、京都のマキノ・プロダクションに入社、助監督部に配属になる。
平田 佐貞(ひらた すけさだ、1909年(明治42年)5月 … 平田 佐貞(ひらた すけさだ、1909年(明治42年)5月 - 1938年(昭和13年)10月)は、日本の俳人・彫刻家・陸軍軍人。 平田紡績の創業家に生まれる。2代目平田佐次郎の第12子・七男であり、長兄に平田佐十郎、次兄に平田佐武、三兄に平田佐矩、四兄に平田佐雄、五兄に宗村佐信(宗村の養子)、六兄に平田佐義。長姉にあさお子、次姉にあさへ子、三姉にますへ子、四姉に富枝子。甥に宗村完治、宗村南男と宗村明夫がいる。三重郡富洲原町出身(現在の三重県四日市市富洲原地区富田一色町)出身。
川上 嘉(かわかみ よしみ、1909年(明治42年)5月 -… 川上 嘉(かわかみ よしみ、1909年(明治42年)5月 - 1994年(平成6年)8月2日)は、日本の政治家、参議院議員。鹿児島県大島郡龍郷町戸口出身。龍郷町名誉町民。 鹿児島県立大島中学校 (旧制)および明治大学専門部法科を卒業。中央大学の税務高等経理講習と東京大学の公開講座を修了。 大島支庁に勤務した後、1935年から東京財務局管内の各税務署に勤務。1946年結成の全国財務労働組合(全財、国公関連労働組合連合会の前身の一つ)に参加し、1947年東京財務職員組合委員長に就任。 1947年の第1回参議院議員通常選挙全国区に無所属で立候補して、初当選(任期3年)。1948年、税務会計事務所を開設。
甘露寺 忠長(かんろじ ただなが、1909年〈明治42年〉4… 甘露寺 忠長(かんろじ ただなが、1909年〈明治42年〉4月29日 - 1937年〈昭和12年〉3月24日)は、明治時代から昭和時代にかけての華族。伯爵甘露寺受長の嗣子。位階は従五位。 1909年(明治42年)4月29日、甘露寺受長の長男として誕生する。母は北白川宮能久親王第一王女の満子女王。姉に績子、壽子がいる。 1929年(昭和4年)5月15日、20歳で従五位に叙爵された。 1930年(昭和5年)3月28日、旧制学習院高等科文科丙類を卒業した。同年4月3日、京都帝国大学経済学部に入学した。 1933年(昭和8年)3月30日、学士試験に合格したことにより京都帝国大学を卒業した。 1937年(昭和12年)3月24日、卒去した。
金 意俊(キム・イジュン、キム・ウィジュン、朝鮮語: 김의준… 金 意俊(キム・イジュン、キム・ウィジュン、朝鮮語: 김의준、1909年4月28日または1916年2月19日 - 1985年2月14日)は、大韓民国の裁判官、検察官、弁護士、政治家。第2・3・4代韓国国会議員。本貫は延安金氏(朝鮮語版)。 京畿道驪州郡出身。京城第一高普、明治大学法科卒、高等考試司法科合格。検察庁春川支院検事、ソウル地方法院判事、ソウル高等法院判事、驪州支院長を経て政界入りし、国会議員3期、国会法制司法委員長、高等考試委員、国連総会オブザーバー韓国代表、自由党中央党宣伝部長・党務委員を務めた。 5・16軍事クーデター以降は政界を引退し弁護士として活動したが、脳卒中が発病してからは子供たちがいるアメリカに移住した。
村岡 重夫(むらおか しげお、1909年(明治42年)4月2… 村岡 重夫(むらおか しげお、1909年(明治42年)4月26日 - 1980年(昭和55年)7月25日は、日本の経済学者・地方公務員。専門は、北海道経済論・経済政策。札幌短期大学教授・同学長を歴任。 大阪市南区生まれ(父金三郎、母須恵長男)。1931年(昭和6年)官立大阪外国語学校卒業。南満州鉄道に入社。満州国産業部勤務を経て、満州国興安総省に入省。昭和16年山本清と婚姻。1945年終戦とともに北海道に引き揚げ。その後、北海道庁に入庁。1955年北海道庁総務部総合企画開発本部係長。札幌短期大学非常勤講師(~1969年)。1962年北海道立総合経済研究所(北海道庁研究機関)主任研究員。1969年札幌短期大学商学科教授。
金光 鑑太郎(こんこう かがみたろう、明治42年(1909年… 金光 鑑太郎(こんこう かがみたろう、明治42年(1909年)4月26日 - 平成3年(1991年)1月10日)は、金光教の四代金光様。書家、歌人、文化人、教育者。雅号は碧水(へきすい)。金光図書館を創設し、初代図書館長。昭和26年から平成2年まで、日本図書館協会顧問。昭和48年から平成2年までボーイスカウト日本連盟顧問。 明治42年4月26日、今の岡山県浅口市金光町大谷に生まれる。金光攝胤とキクヨ(佐藤範雄の娘)の長男。父金光攝胤の死に伴う金光教教主選挙で、昭和38年7月9日二代目金光教主に就任、信奉者からは四代金光様と呼ばれた。 平成3年1月10日死去。死後は長男の金光平輝(こんこうへいき)が、教主に選出された。
相原 茂(あいはら しげる、1909年4月25日 - 199… 相原 茂(あいはら しげる、1909年4月25日 - 1993年12月8日)は、日本の経済学者。 静岡県出身。旧制一高を経て東京帝国大学経済学部卒。第一高等学校教授、1949年東京大学教養学部助教授、教授、1963-1966年教養学部長、1969年定年退官、名誉教授、信州大学教授、1975年定年。
増田 三男(ますだ みつお、1909年(明治42年)4月24… 増田 三男(ますだ みつお、1909年(明治42年)4月24日 - 2009年(平成21年)9月7日)は、埼玉県出身の彫金家。人間国宝(重要無形文化財保持)。 埼玉県北足立郡大門村(のち美園村、浦和市、現さいたま市)に生まれる。文展などへの出品のほか、埼玉県立浦和高等学校でも美術講師として勤務した。浦和高校時代は美術部に入部し、2歳下の高田誠と親交が深く、卒業後も恩師である福宿光雄を囲って「連穂会」を開いていた。
杉 柾夫(すぎ まさお、1909年4月24日- 1975年1… 杉 柾夫(すぎ まさお、1909年4月24日- 1975年1月11日)は、日本の漫画家、政治家。本名:杉浦 茂。 1909年、京都市左京区に生まれる。桃山中学校を卒業。1908年生まれの同姓同名の漫画家杉浦茂は同い年である。杉が上京して漫画家として活動する前から、杉浦は田河水泡門下で漫画家デビューし少年少女向けで活動していた。杉は杉浦と相談した結果、「杉柾夫」のペンネームを用いて漫画家活動を開始することにした。杉は子供向け漫画の杉浦とジャンルを住み分けるために、政治漫画や左翼系の風刺漫画の執筆を中心に活動し、また朝日や読売等の新聞にも風刺漫画を連載した。1931年にはプロレタリア美術家同盟(ヤップ)に加入し、その後はヤップの後身である日本プロレタリア文化連盟(コップ)で活動した。
富永 次郎(とみなが じろう 1909年4月23日 - 19… 富永 次郎(とみなが じろう 1909年4月23日 - 1969年7月14日)は、日本の美術評論家。 東京本郷に生まれる。富永太郎は兄、富永三郎は弟。1925年(大正14年)12月旧制成城第二中学校4年のとき、兄太郎死去。1927年(昭和2年)富永太郎詩集を没後出版。旧制成城高等学校で大岡昇平や古谷綱武と知り合い、1929年(昭和4年)4月、同人雑誌『白痴群』創刊時に、同人として参加。同誌は、編輯人を河上徹太郎が務め、村井康男とその門下生たち、中原中也が創作や翻訳を寄せるものであった。京都帝国大学文学部美学科卒業。1940年(昭和15年)小説『黄昏暦』を出版。そのほかに美術書、こども向けの美術案内書の著作がある。
鈴木 朝英(すずき ともひで、1909年(明治42年)4月2… 鈴木 朝英(すずき ともひで、1909年(明治42年)4月23日 - 2000年(平成12年)9月11日)は、日本の教育学者。北海道大学名誉教授、元市立名寄短期大学学長。位階は正四位。 埼玉県熊谷市出身。1933年(昭和8年)東京帝国大学文学部卒業。同文学部助手。東京府豊島師範学校(現東京学芸大学)助教授。同教授を経て、1948年北海道大学教育学部助教授、1950年同教育学部教授。1973年(昭和48年)北海道大学停年退官。同名誉教授。市立名寄短期大学学長に就任。1977年(昭和52年)市立名寄短期大学退官。札幌商科大学人文学部人間科学科招聘教授(~1983年(昭和58年))。2000年死去。死没日付をもって正四位に叙された。
勝又 俊教(かつまた しゅんぎょう、1909年4月22日 -… 勝又 俊教(かつまた しゅんぎょう、1909年4月22日 - 1994年2月18日)は、日本の学僧・仏教学者。大正大学名誉教授。 1909年、新潟県で生まれた。東京大学文学部印度哲学科で学び、修了。 東洋大学教授。大正大学教授。1960年、学位論文『仏教における心識説の研究』を東洋大学に提出して文学博士号を取得。1978年、第22代大正大学学長に就任。同大学を退職し、名誉教授となった。 宗門においては、真言宗豊山派総本山長谷寺第79世能化。真言宗長者。千葉市広徳院住職。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
宇野 利泰(うの としやす、1909年4月21日 - 199… 宇野 利泰(うの としやす、1909年4月21日 - 1997年1月6日)は、日本の翻訳家。日本文芸家協会、日本推理作家協会、各会員。 本名、太田 稔治(おおた としじ)。ペンネームは、江戸川乱歩の土曜会で知り合った翻訳家阿部主計が、タバコの「Union Leader」をもじって命名したもの。書籍によっては、太田 稔(おおた みのる)、多田 雄二(ただ ゆうじ)などの別名義を用いることもあった。 東京市神田区生まれ。実家は太田鉄工所を経営し、裕福な一家に生まれ育つも、宇野の代で工場は人手に渡っている。旧制武蔵高等学校を経て、1932年東京帝国大学独文科卒。 田園調布(4の70)の自宅の隣人は石坂洋次郎であり、海外推理小説に詳しかったことから江戸川乱歩の知遇を得、雑誌『宝石』(岩谷書店)の創刊に貢献。
仙石 永博(せんごく ながひろ、1909年4月20日 - 2… 仙石 永博(せんごく ながひろ、1909年4月20日 - 2001年1月20日)は、日本の経営者。住友倉庫社長、会長を務めた。大阪府大阪市出身。位階は従四位。 1934年に東京帝国大学法学部法科を卒業し、同年に住友倉庫に入社。1956年5月に取締役に就任し、1961年3月に常務、1966年11月に専務を経て、1970年11月には社長に就任。1976年6月に会長、1981年6月に取締役相談役を経て、1983年6月に相談役に就任。 1973年11月に藍綬褒章を受章し、1974年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 2001年1月20日肺炎のために死去。91歳没。死没日付をもって従四位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
武ノ里 武三(たけのさと たけぞう、1909年4月20日 -… 武ノ里 武三(たけのさと たけぞう、1909年4月20日 - 没年不明)は、青森県五所川原市出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。本名は吉崎 武三。最高位は東前頭14枚目(1943年1月場所)。173cm・94kg。得意技は左四つ、寄り。 1926年1月場所に初土俵を踏んで以降順調に出世し、東幕下5枚目で迎えた1930年10月場所で幕下優勝し、翌1931年1月場所に十両に昇進。しかし当場所は体調不良により4勝7敗と振るわず、翌5月場所も全休したため幕下に陥落。その直後の1932年1月の春秋園事件で天竜・大ノ里らと行動を共にし協会を脱退、翌年設立の関西角力協会に参加した。 関西角力協会では幕内で活躍、松ノ里、中ノ里とともに「大ノ里門弟三羽烏」と言われていた。
宮崎輝(みやざき かがやき、1909年(明治42年)4月19… 宮崎輝(みやざき かがやき、1909年(明治42年)4月19日 - 1992年(平成4年)4月17日)は、昭和・平成期の企業経営者。旭化成中興の祖と呼ばれた。勲一等瑞宝章受章。没後従三位追贈。吾妻町名誉町民及び延岡市名誉市民。 長崎県南高来郡山田村(現:雲仙市吾妻町)出身。長崎県立島原中学校に入学、同中学時代は市内の曹洞宗の禅寺晴雲寺で5年間寄宿生活を送った。第五高等学校を経て東京帝国大学法学部英法科卒業後、日本窒素肥料(現:チッソ)に入社。旭ベンベルグ絹糸(後の旭化成工業、現:旭化成)に配属となる。 総務課長、東京事務所長を経て38歳で取締役に選任。延岡工場で起きた労働争議の解決に尽力し、その手腕が認められる事となった。
菅 忠道(かん ただみち、1909年4月18日-1979年1… 菅 忠道(かん ただみち、1909年4月18日-1979年11月20日)は、児童文学研究家。 東京生まれ。父は陸軍軍人。1927年福岡県中学修猷館、1930年第五高等学校文科乙類を経て、東京帝国大学文学部教育学科中退。学生時代から東大セツルメントなどの児童文化運動に関わり、1936年保育問題研究会に参加し、事務局長格の仕事をする。1936-42年岩波書店の雑誌『教育』の編集に参加。1937年からは教育科学研究会生活教育研究部会に所属、その傍ら同じ頃から同研究会の校外教育研究会に参加し、児童文学に取り組む立場から校外の子どもの生活や教育活動を研究した。幼児教育を研究対象とすることから、保育問題研究会と教育科学研究会の双方をつなぐ役割を果たす。
南部 知伸(なんぶ とものぶ、1909年4月18日 - 没年… 南部 知伸(なんぶ とものぶ、1909年4月18日 - 没年不明 )は、日本の経営者。 大阪府大阪市出身。1934年に京都帝国大学経済学部を卒業し、同年に阪神電気鉄道に入社。1957年4月に阪神百貨店常務に就任し、専務を経て、1963年11月に社長に就任。1983年6月に会長に就任し、1990年6月には相談役に就任。1985年12月には大阪商工会議所副会頭に就任。 1981年11月に勲四等旭日小綬章を受章。
藤井 清(ふじい きよし、1909年4月17日 - 1998… 藤井 清(ふじい きよし、1909年4月17日 - 1998年10月6日)は、日本の歌人・国文学者。 福井県鯖江市生まれ。1939年広島文理科大学史学科卒。仙台の宮城県立第一高等女学校(現在の宮城県宮城第一高等学校)をふりだしに、宇都宮、福井など各地の高校、大学で教え、1969年退職。 1932年『国民文学』に入会し、松村英一に師事する。のち編集委員・選者。1978年「高樹会」会員となり、合同歌集「高樹」に参加。千代國一編集の歌誌「国民文学」の選者を務めた。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
杉浦 六右衛門(すぎうら ろくえもん、8代目、1909年4月… 杉浦 六右衛門(すぎうら ろくえもん、8代目、1909年4月16日 - 1995年5月28日)は、日本の経営者。小西六写真工業(現在のコニカミノルタ)社長、会長を務めた。東京都出身。 1934年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に小西六写真工業に入社。 1941年に社長に就任し、1968年4月までに務めた。 1955年に紺綬褒章を受章。 1995年5月28日肺炎のために死去。86歳没。
中村 實(なかむら みのる、1909年 <明治42年> 4月… 中村 實(なかむら みのる、1909年 <明治42年> 4月16日 - 1978年 <昭和53年> 10月20日)は、日本の経営者。静岡銀行頭取を務めた。位階は正五位。勲三等瑞宝章。 静岡県浜松市出身。1930年に名古屋高等商業学校を卒業し、同年に三十五銀行(のちの静岡銀行)に入行。 1958年10月に取締役に就任し、1961年に常務、1970年4月に専務を経て、1973年11月から1978年6月までに頭取を務めた。 1978年10月20日内臓障害のために死去。69歳没。死没日付をもって正五位に叙され、勲三等瑞宝章を追贈された。
森 はな(もり はな、1909年(明治42年)4月16日 -… 森 はな(もり はな、1909年(明治42年)4月16日 - 1989年(平成元年)6月14日)は、兵庫県出身の児童文学作家・教育者。代表作は知的障害のある青年と地域との交流を描いた『じろはったん』。 1909年(明治42年)、兵庫県養父郡大蔵村宮田(現・朝来市和田山町)で、酒類販売業を営む父の次女として生まれた。1924年(大正13年)に大蔵尋常高等小学校高等科から兵庫県明石女子師範学校(神戸大学国際人間科学部の前身のひとつ)に進学し、1928年(昭和3年)に明石女子師範学校を卒業した後、南谷尋常小学校の教員となり、その後養父尋常小学校に転任となった。 この頃に兄の友人であり後に結婚する森種樹との文通が始まり、1932年(昭和7年)に結婚した。
千葉 皓(ちば こう、1909年4月15日 - 1984年1… 千葉 皓(ちば こう、1909年4月15日 - 1984年1月20日)は、昭和時代(戦前から戦後)の日本の外交官。位階は正三位。 米国サンフランシスコに生まれ、1922年に帰国する。第二高等学校文科甲類を経て、1932年に東京帝国大学法学部を卒業後、外交官試験に合格し、同年11月に外務省へ入省する。英国勤務を経て、東亞局に勤務する。1942年中国在勤。戦後、一時大蔵省に勤務するが、1947年終戦連絡中央事務局連絡官、1948年会計課長に復帰した。1952年メキシコ在外事務所所長、同年4月同国大使館参事官。1954年2月サンパウロ総領事。 1955年4月欧米局長、1957年4月欧米局長を経て、同年12月メキシコ大使に任ぜられる。
上原 小枝(うえはら さえ、1909年 <明治42年> 4月… 上原 小枝(うえはら さえ、1909年 <明治42年> 4月13日 - 1996年 <平成8年> 8月20日)は、日本の経営者。大正製薬社長、会長を務めた。静岡県下田市出身。位階は従五位。 夫は大正製薬社長、参議院議員などを歴任した上原正吉。正吉との間には実子は無く、そのため実兄の次男である上原昭二を養子に迎えている。 1955年7月に大正製薬取締役に就任し、1962年9月に副社長を経て、1965年6月には社長に就任。1966年9月に副社長、1973年5月に副会長、1981年6月に会長。当時は政治活動等で多忙な正吉に代わり、大正製薬の経営を実質的に采配しており、一部では「ゴッドマザー」とも称された。
吉田 幸一(よしだ こういち、1909年4月12日 - 20… 吉田 幸一(よしだ こういち、1909年4月12日 - 2003年1月9日)は、日本の国文学者、書誌学者、出版人、古典籍蒐集家。東洋大学名誉教授。 学位は、文学博士(東洋大学・論文博士・1961年)(学位論文『和泉式部日記の基礎研究』)。日本古典文学の叢書「古典文庫」を個人事業として編纂・発行したことなどで知られる。 1909年(明治42年)4月12日、静岡県静岡市に生まれる。1930年(昭和5年)4月東洋大学文学部国文学科入学、1933年(昭和8年)7月卒業。並行して東京外国語学校支那語専修科(夜間)で中国語を学ぶ。吉田は恩師として藤村作と久松潜一の名を挙げている。 会社勤務、小学校代用教員を経て、1939年(昭和14年)4月、静岡県立浜松商業学校・同工業学校嘱託(中国語担当)。
淀川 長治(よどがわ ながはる、1909年〈明治42年〉4月… 淀川 長治(よどがわ ながはる、1909年〈明治42年〉4月10日 - 1998年〈平成10年〉11月11日)は、日本の雑誌編集者、映画解説者、映画評論家。 約32年に渡って務めた『日曜洋画劇場』の解説の締め括りに「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ…」と強調して言う独特の語り口から全国的に有名になり、「ヨドチョーさん」「ヨドさん」「サヨナラおじさん」等と呼ばれる程に多くの視聴者に親しまれてきた。 兵庫県神戸市(兵庫区)西柳原町にて芸者置屋の跡取り息子として父・又七、母・りゅうのもとに生まれる。実母は、父の本妻の姪にあたった。長く病身で、自分に子ができないことを悔いた本妻が、妾として姪を夫に推薦したのだった。
三橋 富治男(みつはし ふじお、1909年〈明治42年〉4月… 三橋 富治男(みつはし ふじお、1909年〈明治42年〉4月10日 - 1999年〈平成11年〉5月2日)は、日本の東洋史学者。位階は従四位。 東京出身。慶應義塾大学文学部東洋史学科卒。外務省調査部嘱託、明治大学助教授を経て、千葉大学文理学部助教授、教授となる。1975年定年退官、名誉教授となる。トルコ史が専門。1999年死去。死没日付をもって従四位に叙された。
村田 重治(むらた しげはる、1909年〈明治42年〉4月9… 村田 重治(むらた しげはる、1909年〈明治42年〉4月9日 - 1942年〈昭和17年〉10月26日)は、日本の海軍軍人。海兵58期。南太平洋海戦で米空母「ホーネット」攻撃後に戦死した。二階級特進により最終階級は海軍大佐。 1909年(明治42年)4月9日、長崎県南高来郡島原村新馬場に父円の次男として生まれる。村田家は士族で、祖父・重太郎は戊辰の役に兵士として参加している。重治の幼少時代は、成績は小学校、中学校ともに優秀だが、控えめで口数も少なくどちらかと言うと目立たなかったが、相撲と剣道は強かった。中学時代の渾名は「ガジ」であり、当時の級友によれば「決してガジガジの性格から来たものではなく、背が低くてがっしりしていたので、その感じから自然と“ガジ”という渾名が付いたものと思う」という。
信夫 清三郎(しのぶ せいざぶろう、1909年4月8日 - … 信夫 清三郎(しのぶ せいざぶろう、1909年4月8日 - 1992年10月10日)は、日本の政治学者・歴史学者。日本政治学会理事長。名古屋大学名誉教授。 外交官で国際法学者の信夫淳平の三男として、父の任地である韓国の仁川で生まれる。信夫韓一郎(新聞記者、元朝日新聞社代表取締役専務)は兄。1934年、九州帝国大学を卒業し、マルクス主義的な立場から在野で日本近代史の研究を行う。唯物論研究会に所属し、1938年には治安維持法違反容疑で、特別高等警察に逮捕されたこともある。 1943年9月に出版した『ラッフルズ――イギリス近代的植民政策の形成と東洋社会』(日本評論社)は、発売一週間で内務省により敵国のイギリスを褒めているという理由で発売禁止の処分を受けた。
伊沢元美(いざわ もとよし、1909年4月8日 - 2004… 伊沢元美(いざわ もとよし、1909年4月8日 - 2004年10月31日)は、日本近代文学研究者。 東京生まれ。1933年東京帝国大学文学部国文科卒。36年同大学院修了(旧制)。島根大学法文学部助教授、教授、1974年定年退官、名誉教授、鶴見大学女子短期大学部教授。主として俳句を研究した。
渡辺 一太郎(わたなべ いちたろう、1909年(明治42年)… 渡辺 一太郎(わたなべ いちたろう、1909年(明治42年)4月6日 – 1991年(平成3年)1月22日)は、昭和期の内務・警察官僚、政治家。参議院議員、千葉県副知事。 東京府出身。日本大学専門部を経て、1934年(昭和9年)同大学法文学部を卒業した。1936年(昭和11年)長野県巡査に任官。1938年(昭和13年)10月、高等試験行政科試験に合格し、厚生省に入省。以後、徳島県農務課長、鹿児島県庶務課長、神奈川県商工課長、鳥取県警察部長、警察庁参事官、千葉県警察本部長、臨時行政調査会専門委員などを歴任。1963年(昭和38年)千葉県副知事に就任した。また、戦時中は陸軍司政官に転出した。 1968年(昭和43年)7月の第8回参議院議員通常選挙に千葉県地方区から自由民主党公認で出馬して当選し、参議院議員に1期在任した。