野口 隆(のぐち たかし、1912年3月30日 - 没年不詳… 野口 隆(のぐち たかし、1912年3月30日 - 没年不詳)は、日本の社会学者、広島大学名誉教授。京都帝国大学文学部史学科卒。1962年、「ギュルヴィッチ社会学の研究」で九州大学文学博士。広島大学教授。1976年、定年退官、名誉教授、佛教大学教授、広島修道大学教授。
1912年(大正元年 / 明治45年)生まれ:648人
野口 隆(のぐち たかし、1912年3月30日 - 没年不詳… 野口 隆(のぐち たかし、1912年3月30日 - 没年不詳)は、日本の社会学者、広島大学名誉教授。京都帝国大学文学部史学科卒。1962年、「ギュルヴィッチ社会学の研究」で九州大学文学博士。広島大学教授。1976年、定年退官、名誉教授、佛教大学教授、広島修道大学教授。
正宗 猪早夫(まさむね いさお、1912年3月30日 - 1… 正宗 猪早夫(まさむね いさお、1912年3月30日 - 1999年9月28日 )は、日本の経営者。日本興業銀行頭取を務めた。 東京都出身。正宗得三郎の長男として生まれ、父が美術教師をしていた成城学園に進学、小原國芳から教え子の中で最も優れた俊才の一人と言われた1933年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年に日本興業銀行に入行した。日本開発銀行への出向を経て、1957年5月に取締役に就任し、常務を経て、1964年11月に副頭取に就任し、1968年5月には頭取に昇格した。1975年5月に会長に就任し、1984年6月に取締役相談役を経て、1985年6月から相談役を務めた。日本たばこ産業相談役、日本生命保険取締役なども歴任。
鈴木 セイ(すずき セイ、1912年〈明治45年〉3月30日… 鈴木 セイ(すずき セイ、1912年〈明治45年〉3月30日 - 2013年〈平成25年〉1月23日)は、日本の福祉活動家。群馬県桐生市境野町出身。 結核患者の介護を志し、母が娘の結婚のためにと貯蓄した資金を学費とし、1942年に看護婦免許、1948年に栄養士免許を取得した。1938年(昭和13年)、榛名山の麓に結核保養所の榛名荘(現、榛名荘病院)を開所し、常任理事に就任した。以後、終生にわたってこの榛名荘に第二の故郷として定住した。 重症心身障害児が福祉制度の対象にならず、障害児者関係制度の狭間に置かれていたことを憂慮し、1965年(昭和40年)、群馬県高崎市榛名山町で、群馬初の重症心身障害児施設である「はんなさわらび学園(現、はんな・さわらび療育園)を創設した。
林 茂司(はやし しげじ、1912年3月29日 - 1984… 林 茂司(はやし しげじ、1912年3月29日 - 1984年2月8日)は、日本の経済学者。専門は労働経済学。元札幌商科大学学長。 1912年、北海道勇払郡早来町(現・安平町)生まれ。1929年北海道庁立札幌第一中学校(後の北海道札幌南高等学校)を卒業。1932年第二高等学校文科甲類卒業。1936年に東京帝国大学経済学部卒業し、満州国財政部に勤務する。その後終戦前に、北海道に戻り、産業復興会議北海道幹事となった。 戦後は北海道札樽工業地帯調査会事務局長などを経て、1952年北海道立総合経済研究所(北海道庁研究機関)に入所。1962年より北海道立総合経済研究所研究第2部長。1967年には北海道立総合経済研究所副所長。
加藤 新平(かとう しんぺい、1912年〈明治45年〉3月2… 加藤 新平(かとう しんぺい、1912年〈明治45年〉3月29日 - 1999年〈平成11年〉4月2日)は、日本の法学者(法理学・法哲学)。京都大学名誉教授。1983年から日本学士院会員。1971年から1975年まで日本法哲学会理事長。沢内村名誉村民第一号。 1912年、岩手県和賀郡沢内村生まれ。1927年、宮城県白石中学校(宮城県白石高等学校の前身)4年修了、同年第一高等学校(一高)文科甲類入学。1930年11月、思想事件により一高を中途退学、1932年、第二高等学校文科甲類卒業検定合格。同年4月、京都帝国大学文学部哲学科入学、1933年、同大学法学部入学。1935年、高等試験行政科合格、1936年、同大学法学部卒業、直ちに同法学部助手に任用。
白田 林二郎(しらた りんじろう、1912年〈明治45年〉3… 白田 林二郎(しらた りんじろう、1912年〈明治45年〉3月29日 - 1993年〈平成5年〉5月29日)は、山形県出身の日本の武道(合気道)家、 合気道開祖・植芝盛平の高弟。 1912年(明治45年)山形県に生まれる。旧制・新荘中学(現・新庄北高校)では柔道部の大将を務めていた。 1931年(昭和6年)の暮れ上京。父親が大本の信者だった縁で、植芝盛平(守高)の開設間もない皇武館道場に入門、内弟子となる(19歳)。当時の写真によると太い首とがっちりした肩幅を持つ偉丈夫である。米俵(一俵=60kg)を両手に一つずつ持ち、拍子木のように打ち付けることが出来たという話もある。素性の分からない道場破りが来ると必ず白田が応対し、相手を徹底的にたたき伏せるのが常であったという。
高橋 成夫(たかはし しげお、浅間 善次郎、1912年3月2… 高橋 成夫(たかはし しげお、浅間 善次郎、1912年3月29日 - 1990年11月4日)は日本の水泳選手。東京都出身。荏原中学(現日体荏原高等学校、早稲田大学卒業。
篠原 正瑛(しのはら せいえい、1912年3月29日 - 2… 篠原 正瑛(しのはら せいえい、1912年3月29日 - 2001年11月15日)は、日本の哲学者。 東京府出身。1939年に上智大学文学部哲学科を卒業後、フンボルト財団の奨学金によりドイツに留学した。これは「日独交換留学」によるものであった。ベルリン大学哲学科およびイェーナ大学哲学科を修了してドイツ国立ヨハヒムスタール・ギムナジウム教授となる。留学中はカール・ヤスパースやエドゥアルト・シュプランガーに指導を受けた。 ドイツ降伏後、連合軍による抑留と、スイスでの療養生活を経て1949年3月29日に空路で日本に帰国した。帰国の際、シュプランガーから日本国民へのメッセージを預かり、帰国直後は療養生活を続けていた。
稲山 壬子(いなやま じんし、1912年3月29日 - 19… 稲山 壬子(いなやま じんし、1912年3月29日 - 1996年4月18日)は、日本のバレーボール指導者。 埼玉県南埼玉郡宮代町出身。日本体育会体操学校(後の日本体育大学)を経て、1933年に東京千代田学園バレーボール部監督。1943年に久喜高等女学校(現久喜高校)バレーボール部監督に就任し、全国大会優勝4回を達成。同校をバレーボール名門校に導いた。 1962年に1964年東京オリンピック強化コーチに就任。同大会での金メダル獲得に陰ながら貢献した。 1969年に東京三洋電機バレー部監督に就任し、チームを日本リーグ昇格まで導いた。全く無名の新人だった前田悦智子を「三年以内に全日本のエースにする」と宣言し育成した。
塚本 俊雄(つかもと としお、1912年(明治45年)3月2… 塚本 俊雄(つかもと としお、1912年(明治45年)3月29日 - 1990年(平成2年)9月1日)は、昭和から平成初期の地方公務員、政治家。東京都目黒区長(4期)。 静岡県磐田市生まれ。目黒区総務課長、1965年総務部長、監査委員、1970年助役を経て、1975年区長。 1990年9月1日、急性心不全のため任期中に死去。78歳没。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
小原 勝郎(おはら かつろう、1912年3月28日 - 19… 小原 勝郎(おはら かつろう、1912年3月28日 - 1990年1月23日)は、日本の登山家。ヒマラヤのマナスル初登頂隊(第3次)で副隊長、先遣隊でリーダーを務めた。登山隊はマナスル初登頂とともに、日本人として最初の8000M峰の登頂に成功し、日本山岳史に残る快挙となっている。日本山岳会元理事。津村順天堂(現・ツムラ)で常務・静岡工場長を務めた。 日本学園高等学校卒業。1934年(昭和9年)、立教大学商学部卒業。大学では山岳部に所属し、1933年(昭和8年)3月には、同部員の湯浅巌とともに鹿島槍ヶ岳天狗尾根登攀で積雪期初登頂を果たした。その際の登山案内人は大町の櫻井一雄らが務めた。 日本山岳会が、1952年(昭和27年)4月16日、マナスル遠征を決定し、それ以来、登頂成功までの約5年間、幾多の苦労が重ねられることとなる。
畑中 健二(はたなか けんじ、1912年(明治45年)3月2… 畑中 健二(はたなか けんじ、1912年(明治45年)3月28日 - 1945年(昭和20年)8月15日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少佐。 鈴木貫太郎内閣のポツダム宣言受諾決定(日本の降伏)に抗議する一部の陸軍省幕僚と近衛師団参謀が企図したクーデター未遂事件(宮城事件)の首謀人物の一人である。決起は叶わず、玉音放送直前の8月15日午前11時過ぎに二重橋と坂下門の間の芝生上で椎崎二郎とピストル自決した。 京都府船井郡高原村(現京丹波町)出身。地主・畑中鋭次郎の二男として生まれる。京都府立園部中学校を四年修了、三高文科を希望していたが、周囲の勧めで陸軍士官学校予科を経て、1934年(昭和9年)6月、陸軍士官学校(46期)を64番/338名の成績で卒業。
大岡 虎雄(おおおか とらお、1912年3月28日 - 19… 大岡 虎雄(おおおか とらお、1912年3月28日 - 1975年8月23日)は、福岡県出身のプロ野球選手(内野手)。 豊国中学(現豊国学園高)を経て、社会人野球の強豪・八幡製鐵所で四番打者として、八幡の虎の異名をとる。1931年の日米野球で全米選抜チームと八幡製鐵との対戦が下関長府球場で行われた。この試合で大岡は、ラリー・フレンチ投手(ピッツバーグ・パイレーツ)から2本の本塁打を放ったが、大岡自身先発登板し、アル・シモンズやミッキー・カクレーンら4選手に計6本の本塁打を浴び8-17で敗れた。 1935年に東京巨人軍にスカウトされたが、八幡製鐵所に残留した。そのころは、若林忠志、湯浅禎夫、野口明らとともに投手としてリストアップされていたようだった(「巨人軍50年 写真でつづる栄光の記録」読売新聞社 155ページ)。
飯盛 武夫(いいもり たけお、1912年3月28日 - 19… 飯盛 武夫(いいもり たけお、1912年3月28日 - 1943年8月16日)は、日本の化学者、理学博士。飯盛里安の長男である。父・里安と同じように東京帝国大学理学部を卒業し、理化学研究所に入所して研究者の道を歩み始めたが31才で早世した。 1936年理化学研究所飯高研究室に研究生として入所し、翌年4月までの1年間、熱した鉄が空気に触れた時に生じる酸化鉄の膜の結晶構造を電子線回折法で調べる研究を行なった。1937年4月には父・里安が主宰する飯盛研究室に移籍し、飯盛研究室本来の希元素関連の研究に加えてサイクロトロンに関する研究も行なった。与えられた研究題目は次のとおり。 1937年、理化学研究所には仁科芳雄の主導で日本で最初の26インチサイクロトロンが完成した。
一ノ濵 枩雄(いちのはま まつお、1912年3月28日 - … 一ノ濵 枩雄(いちのはま まつお、1912年3月28日 - 没年不明)は、北海道函館市出身で井筒部屋に所属した元大相撲力士。本名は海老田 松夫。最高位は十両8枚目。 井筒部屋に入門し、1927年1月初土俵を踏む。1934年5月十両に昇進。翌1935年1月、東十両8枚目まで上がったが、4勝7敗と負け越し、この場所限りで24歳の若さで廃業した。 一ノ浪 枩夫→谷岩 枩夫(1933年1月場所-)→一ノ濵 枩雄(1934年5月場所-)
和田 鶴一(わだ つるいち、1912年(明治45年)3月27… 和田 鶴一(わだ つるいち、1912年(明治45年)3月27日 - 1973年(昭和48年)6月1日)は、日本の政治家。参議院議員(2期)。 和田今之助の次男として和歌山県西牟婁郡串本町(現・東牟婁郡串本町)で生まれる。和歌山県師範学校を経て、日本大学法文学部を卒業。 1932年(昭和7年)から和歌山県や東京府の小学校に教員として勤務し、1945年(昭和20年)に帰郷して和歌山県立串本商業学校教諭となった。1947年(昭和22年)、和歌山県水産会総務部長に就任し、1949年(昭和24年)に和歌山県水産振興対策委員会副委員長、串本漁業協同組合理事となり、翌1950年(昭和25年)には推されて和歌山県漁業協同組合連合会長に就任した。
梅本 克己(うめもと かつみ、1912年3月26日 - 19… 梅本 克己(うめもと かつみ、1912年3月26日 - 1974年1月14日)は、日本の哲学者。
高木 正(たかぎ ただす、1912年3月26日 - 2000… 高木 正(たかぎ ただす、1912年3月26日 - 2000年4月1日)は、日本の経営者。日立化成工業社長、会長を務めた。 滋賀県出身。1935年に京都帝国大学工学部電気工学科を卒業し、1936年に日立製作所に入社。1967年11月に取締役に就任し、1969年11月に常務、1973年11月に日立化成工業副社長を経て、1974年11月には社長に就任。1981年6月に会長、1985年6月に相談役を経て、1995年6月には名誉相談役に就任。 1983年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 2000年4月1日、死去。88歳没。
金 達鎬(キム・ダロ、キム・ダルホ、朝鮮語: 김달호、191… 金 達鎬(キム・ダロ、キム・ダルホ、朝鮮語: 김달호、1912年3月26日 - 1979年3月4日)は、日本統治時代の朝鮮、満州国および大韓民国の検察官、裁判官、弁護士、政治家。第3代韓国国会議員。号は端斎。 日本統治時代の慶尚北道尚州郡(現・尚州市)出身。中央大学法学部卒業または中退、大学1年時高等試験合格。司法官試補、朝鮮総督府の光州・清津地方法院の判事を経て、満州国で弁護士をしていたが神社参拝拒否と抗日行為を理由に退職させられた。解放後はソウル高等検察庁次長検事、法興編纂委員、考試委員を経て、1954年の第3代総選挙で国会議員に当選し、1956年に進歩党副委員長を務めた。1958年の進歩党事件により入獄したが、大法院による無罪判決を経て4・19革命で釈放された。
水船 六洲(みずふね ろくしゅう、1912年(明治45年)3… 水船 六洲(みずふね ろくしゅう、1912年(明治45年)3月26日 - 1980年(昭和55年)6月30日)は、日本の彫刻家、版画家。広島県呉市草里町(現東中央2丁目)出身。本名は田中六洲。なお、本名の名前読みは漢字「六洲」を「むつくに」と読む。実兄に洋画家水船三洋があり、実父も書家だった。 作風は版画にも彫刻のような力強さを求め絵画的彩色を施す独自技法を駆使したほか、1960年代以降は魚、鳥などの動物を主なモチーフに選んで制作を行った。 1912年、広島県呉市草里町(現東中央2丁目)に生まれる。中学の頃に高村光太郎訳『ロダンの言葉』(ASIN B0093E7YYY)を読み感動し彫刻家を目指した。
高田 富之(たかだ とみゆき、1912年3月26日 - 19… 高田 富之(たかだ とみゆき、1912年3月26日 - 1999年10月14日)は、日本の政治家。位階は従三位。 衆議院議員(10期)。埼玉県深谷市出身。 実業家・高田良平の長男として生まれる。旧制松江高等学校を経て1937年に東北帝国大学法文学部を卒業後、宇野弘蔵の元で東北大学法文学部経済学教室副手となる。 繊維需給調整協議会調査課長・全国商工経済会企画部主事・日農県連会長・全国連書記長を歴任。 人民戦線事件で宇野と共に逮捕されるが起訴猶予となる。 戦後、日本共産党に入党し、1949年の第24回衆議院議員総選挙で埼玉3区で当選する。しかし、1951年に共産党が51年綱領を出して武装闘争に舵を切り、翌年の第25回衆議院議員総選挙ではそのあおりで落選(共産党の全議員が落選した)。
椿原 健督(つばはら けんすけ、1912年3月26日 - 1… 椿原 健督(つばはら けんすけ、1912年3月26日 - 1986年12月29日)は、日本の経営者。北海道ガス社長を務めた。福岡県柳川市出身。 1939年に東北帝国大学工学部応用学科を卒業し、同年に東京ガスに入社。後に北海道ガスに転じ、1974年12月から1976年6月まで社長を務めた。 1986年12月29日心不全のため死去した。74歳没。
島村 利正(しまむら としまさ、1912年3月25日 - 1… 島村 利正(しまむら としまさ、1912年3月25日 - 1981年11月25日)は、日本の小説家。 長野県上伊那郡高遠町(現伊那市)に商家の長男として生まれる。家業を継ぐのを嫌がり、1926年、高遠実業補習学校(現・長野県高遠高等学校)を中退。家出して奈良の古美術写真出版社飛鳥園へ行き、小川晴暘の薫陶を受け、志賀直哉、武者小路実篤、瀧井孝作の知遇を得る。1931年、正則英語学校卒業。 1941年に『高麗人』で、1943年に『暁雲』で芥川賞候補となる。戦時中から撚糸工業会社に勤務し、1955年、会社を設立し代表取締役となるが、1962年、倒産し、以後、作家業に専念。若い頃から釣りを好む。1975年刊行の『青い沼』で平林たい子文学賞、1979年刊行の『妙高の秋』で、翌年に読売文学賞受賞。
酒井 忠夫(さかい ただお、1912年3月25日 - 201… 酒井 忠夫(さかい ただお、1912年3月25日 - 2010年2月19日)は、日本の中国史学者。 1912年、福井県坂井郡棗村小幡(現・福井市)で生まれた。東京高等師範学校を経て、東京文理科大学東洋史学科に進学。1935年に卒業。 修了後は、中華民国・東亜研究所に勤務。敗戦で引き揚げ帰国。 1961年、学位論文『中国善書の研究』を東京教育大学に提出して文学博士号を取得。東京教育大学教授を務め、1975年に定年退官し、東京教育大学名誉教授となった。その後は、シンガポール南洋大学客員教授。1976年より立正大学教授を務め、1982年に退任した。2010年に死去。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
磐城 徳枩(ばんじょう とくまつ、1912年3月25日 - … 磐城 徳枩(ばんじょう とくまつ、1912年3月25日 - 1942年6月2日)は、昭和時代の大相撲力士。二十山部屋所属。本名は小野 徳松。197cm、113kg。最高位は十両2枚目。 宮城県亘理郡亘理町出身。二十山部屋に入門し、1929年1月、「小ノヶ嶽」(後、小野ヶ嶽)の四股名で初土俵を踏む。2m近い体格で早くから有望視された。1932年5月十両昇進。6場所連続十両の地位にあったが、1935年1月幕下に落ちた。翌5月に十両に復帰、四股名も「磐城」に改めた。十両は4場所いたが、1938年1月再び幕下に落ち、「春風」と改名。その後は幕下の地位にあった。1942年1月に廃業し、同年6月に満30歳で死去した。
水町 庸子(みずまち ようこ、本名︰三国 むめ子、1912年… 水町 庸子(みずまち ようこ、本名︰三国 むめ子、1912年3月24日 - 1941年1月11日)は、福井県出身の女優。夫は俳優の三国周三、娘は女優の水町瑛子(三邦瑛子)、甥は放送タレントの三國一朗。 三重県立津高等女学校(現 三重県立津高等学校)を中退後、1933年、21際の時に新宿の大衆劇場ムーランルージュ新宿座に入団。入団当初は「水町玲子」の芸名で地味ながら堅実な演技をこなす舞台女優として活躍した。徐々に女優としての頭角を現し、美人であった事も加わってトップ女優の仲間入りを果たしていく。 その後、同じムーラン所属の俳優であった三国周三と結婚、1938年に芸名を「水町玲子」から「水町庸子」に改名して「冬の宿」で映画デビューを果たす。
杉森 久英(すぎもり ひさひで、1912年(明治45年)3月… 杉森 久英(すぎもり ひさひで、1912年(明治45年)3月23日 - 1997年(平成9年)1月20日)は日本の小説家。 石川県七尾市の公務員の家庭に生まれ、金沢市で育つ。旧制石川県立金沢第一中学校(現・石川県立金沢泉丘高等学校)から第四高等学校を経て、1934年(昭和9年)に東京帝国大学文学部国文科卒業。地方公務員(公立学校教員)となり、旧制埼玉県立熊谷中学校(現・埼玉県立熊谷高等学校)の教師となった。 教員を退職後、中央公論社編集部に入社。編集者という職に自信を失い退職後、大政翼賛会文化部、日本図書館協会などを経て、戦後河出書房に入り『文藝』の編集に従事。1947年『文藝』編集長に就任。 1953年デイヴィッド・ガーネットやフランツ・カフカの影響が色濃い短篇小説『猿』が芥川賞の候補になったのを機に作家専業となる。
大谷 篤蔵(おおたに とくぞう、1912年3月22日 - 1… 大谷 篤蔵(おおたに とくぞう、1912年3月22日 - 1996年8月4日)は、日本の国文学者。 大阪市生まれ。1935年京都帝国大学文学部国文科卒。大学院で潁原退蔵に師事し近世文学、俳諧を専攻。出征したのち抑留され、1948年7月復員。1949年天理図書館司書研究員。1953年佐賀大学助教授、1958年大阪女子大学教授。75年定年退官、名誉教授、松蔭女子学院大学教授。89年退任、名誉教授。俳文学会代表。
岡田 博(おかだ ひろし、1912年(明治45年)3月21日… 岡田 博(おかだ ひろし、1912年(明治45年)3月21日 - 2001年(平成13年)9月29日)は、日本の医師。医学博士。名古屋大学医学部名誉教授、愛知医科大学学長を務め、公衆衛生・予防医学発展に寄与した。京都府出身。 1912年(明治45年)3月21日、岡田吉相(おかだよしすけ)の長男として誕生した。父吉相は滋賀県野洲郡守山村吉身(現守山市)で生まれ、後に京都市東山区東山松原にて医院を開業した。祖父は滋賀県議会議長・衆議院議員を務めた岡田逸治郎。博は父と共によく守山を訪れ、博の息女一人は守山で誕生した。 1933年(昭和8年)入学者80名中席次13番の成績で名古屋医科大学(現名古屋大学医学部)に入り、1937年(昭和12年)3月席次5番で卒業した。
布施 健(ふせ たけし、1912年〈明治45年〉3月21日 … 布施 健(ふせ たけし、1912年〈明治45年〉3月21日 - 1988年〈昭和63年〉2月25日)は、日本の検察官。 ロッキード事件時の検事総長(在任期間:1975年1月25日 - 1977年3月20日)。旧姓は小橋。現在の岡山県備前市香登出身。法曹界では「フセケン」の愛称で親しまれた。 元は田舎の百姓の身分であり、中学に入る12歳の時に広島県の布施家の養子となる。広島県立呉第一中学校(現・広島県立呉三津田高等学校)、旧制第六高等学校を経た布施は、海軍士官に憧れて兵学校に進学しようと考えていたが、養父から弁護士を勧められ、1935年(昭和10年)に司法試験を受けて合格。1936年(昭和11年)に東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、1937年(昭和12年)に検事に任官した。
前田 光子(まえだ みつこ、旧姓:安原、1912年(明治45… 前田 光子(まえだ みつこ、旧姓:安原、1912年(明治45年)3月21日 - 1983年(昭和58年)4月18日)は、前田一歩園財団の創立者で、前田一歩園の3代目園主。元宝塚少女歌劇団(現・宝塚歌劇団)雪組娘役。宝塚歌劇団卒業生。 宝塚歌劇団在団時の芸名は、文屋秀子(ぶんや ひでこ)。義父は前田正名。 1912年、栃木県日光市に生まれる。 1927年、宝塚歌劇団17期生として宝塚歌劇団(当時は「寶塚少女歌劇團」)に入団する。同期生に梅香ふみ子、佐保美代子らがいる。 1928年4月、宝塚大劇場において、雪組公演・レヴュウ『春のをどり』で初舞台を踏む。初舞台後は雪組に配属される。 1932年、同年4月1日から30日まで行われた雪組公演『木村重成の妻』『春のをどり(七曜譜)』への出演を最後に宝塚歌劇団を退団する。
原 全五(はら ぜんご、1912年3月21日 - 2003年… 原 全五(はら ぜんご、1912年3月21日 - 2003年7月17日)は、昭和から平成時代の社会運動家。日本共産党中央委員候補。 鹿児島県熊毛郡南種子村(現南種子町)生まれ。小学校卒業。17歳のとき大阪に来て鉄工所の見習工となり、1932年3月大阪砲兵工廠に旋盤工として入社。大阪で同郷の先輩で、全協日本金属労働組合で非合法活動をしていた山田六左衛門から影響を受け、同年4月に全協日本金属労働組合大阪支部砲兵工廠分会を結成。同年5月には日本共産党に入党、共青・党関西地方委員会専従オルグとなった。1933年検挙、起訴猶予。1934年宮内勇らの日本共産党「多数派」に参加。1935年検挙、1937年起訴猶予。
吉永 榮助(よしなが えいすけ、1912年3月20日 - 1… 吉永 榮助(よしなが えいすけ、1912年3月20日 - 1998年9月28日)は、日本の法学者。専門は、商法・経済法。学位は、法学博士(一橋大学)。一橋大学名誉教授。東京出身。 1929年府立第七中学校(現・東京都立墨田川高等学校)卒業。東京商科大学(現一橋大学)予科入学。1934年司法試験合格(旧制)。1935年東京商科大学商学部卒業。商学部助手。民法学の岩田新ゼミナール出身だったが、岩田が白票事件で退官すると、田中誠二に師事して商法研究に転じた。また、大平正芳(のちに内閣総理大臣)や武野義治(のちに初代駐イスラエル大使)、小島太作(のちに駐インド大使)、富樫総一(のちに労働事務次官)らと、憲法の田上穣治講師や国際法の大平善梧教授が中心となっていた研究会にも参加した。
大阪 圭吉(おおさか けいきち、1912年3月20日 - 1… 大阪 圭吉(おおさか けいきち、1912年3月20日 - 1945年7月2日)は、愛知県出身の推理作家、小説家。本名は鈴木 福太郎(すずき ふくたろう)。 愛知県南設楽郡新城町(現・新城市)の旅館、「鈴木屋」の息子として生まれる。地元の小学校から豊橋商業学校(現・愛知県立豊橋商業高等学校)に進学するも、3年で中退。上京して日本大学商業学校(夜間、現在の日本大学第一高等学校)で学ぶ。この頃、坂上蘭吉のペンネームで「中央公論」の文壇アンデパンダン懸賞小説に応募するが選外となる。1931年には大学を卒業、郷里に戻り新城町役場に入職する。 やがて探偵小説を書くようになり、ペンネームも敬愛する江戸川乱歩の「江戸」に対する地名から、「大阪」圭吉と改め、1932年に『日の出』の創刊号懸賞小説に応募した「人喰い風呂」が佳作入選。
李 相敦(イ・サンドン、朝鮮語: 이상돈、1912年3月20… 李 相敦(イ・サンドン、朝鮮語: 이상돈、1912年3月20日 - 1997年7月14日)は、大韓民国の実業家、ジャーナリスト、政治家。制憲・第5・6代韓国国会議員。 本貫は慶州李氏。号は青居(チョンゴ、청거/靑居)。 日本統治時代の忠清南道天安郡出身。光州学生運動に関わったことにより公州高普中退、1933年徽文高等普通学校卒。早稲田大学第一高等学院を経て、1939年に早稲田大学政治経済学部経済科卒。卒業後は東亜日報に入社して記者・編集局論説部論説委員を務めたが、翌1940年に強制廃刊された。その後は京城天一薬房庶務課長、東亜薬品工業創立者・常務理事、韓国民主党中央執行委員・宣伝部次長、民主国民党宣伝部次長、民主党天安乙区党委員長・中央常務委員・政策委員を務めた。
高城 重躬(たかじょう しげみ、1912年3月18日 - 1… 高城 重躬(たかじょう しげみ、1912年3月18日 - 1999年8月4日)は、日本のオーディオ評論家、音楽評論家。 ヴァイオリニストの父・高城重之(横浜翠嵐高校校歌作曲者)と、ピアニストの母・翠の長男として東京に生まれる。実妹に作曲家・音楽教育家の涌井曄子がいる。その三女の涌井純子(純の文字に草冠が付く)は作編曲を施すハープ奏者。 小学校入学前からピアノを弾いており、1929年、福岡県中学修猷館を卒業し、東京高等師範学校理科第1部(数学)に入学。同時に、東京音楽学校(現・東京芸術大学)選科のピアノ科、後に作曲科に通い、ピアノを榊原直と田中規矩士、作曲を橋本国彦に学ぶ。 その後、都立三田高校数学教諭、都立南高校校長、都立深沢高校校長などを歴任するが、その傍ら日本のオーディオ界の草分けとしても活躍。
金森 直一(かなもり なおかず、1912年3月18日 - 1… 金森 直一(かなもり なおかず、1912年3月18日 - 1998年6月30日)は、日本の経営者。長崎県出身。 1934年に慶應義塾高等部を卒業し、1937年に日産火災海上保険に入社。1959年に取締役に就任し、1963年に常務、1966年に専務を経て、1969年6月に副社長に就任し、1974年4月には社長に昇格し、1977年4月までに務めた。 1976年9月に藍綬褒章を受章し、1982年11月に勲四等瑞宝章を受章。 1998年6月30日腎不全のために死去。86歳没。
不二 洋子(ふじ ようこ、1912年3月18日 - 1980… 不二 洋子(ふじ ようこ、1912年3月18日 - 1980年5月11日)は、日本の女優、女剣劇の開祖。1930年代以降、初代・二代目の大江美智子とともに女剣劇の全盛期を築きあげた舞台女優である。 戦前の女剣劇創成期から、卓越した立ち回り技術と、しばしば「男性的」とも評された中性的なイメージで人気を博した。 本名は迫 静子(さこ しずこ)。旧姓・大西。 1912年(明治45年)3月18日、広島県佐伯郡平良村上平良(現在の同県廿日市市上平良)に生まれる。香川県綾歌郡坂出町(現在の同県坂出市)に生まれる。 1916年(大正5年)、広島県佐伯郡平良村上平良(現在の同県廿日市市上平良)出身の旅役者・迫日出雄の養女になり、戸籍上の名が「迫静子」となる。
三谷 一馬(みたに かずま、1912年(明治45年)3月16… 三谷 一馬(みたに かずま、1912年(明治45年)3月16日 - 2005年(平成17年)6月15日)は、日本画家、江戸風俗研究家。 香川県高松市に生まれる。実家は古くから歌舞伎芝居などの背景画や小道具、看板等を描く仕事をしていた。 東京美術学校日本画科卒業。岡本綺堂「半七捕物帳」など挿絵の分野で活躍ののち、江戸時代の風俗考証画を描くことに専念する。 日本文芸家協会会員。江戸を語る「江戸会」に属した。1988年、「失われてゆく江戸風俗を四十年の歳月をかけ、『江戸職人図聚』はじめ数著に集大成、江戸風俗の”絵引き”として貴重な資料を提供」した功績により、吉川英治文化賞を受賞した。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。
尾上 政次(おのえ まさじ、1912年3月14日 - 199… 尾上 政次(おのえ まさじ、1912年3月14日 - 1994年1月18日)は、日本の英語学・アメリカ文学者、翻訳家。中央大学名誉教授。 兵庫県姫路市生まれ。尾上作兵衛の六男。姫路高等学校を経て、1934年東京帝国大学英文科卒。1939年まで大学院に在籍し、大阪高等学校教授、武蔵大学教授、戦後1951年中央大学経済学部助教授、1953年文学部助教授、教授、1982年定年となり名誉教授。はじめアメリカ英語を研究し、のち文学研究、翻訳をおこなった。 1994年1月18日、急性心不全のため死去。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
水上 一久(みずかみ いちきゅう、1912年3月14日 - … 水上 一久(みずかみ いちきゅう、1912年3月14日 - 1962年4月12日)は、日本の歴史学者。専門は日本中世史。 石川県金沢市生まれ。1932年第四高等学校文科甲類卒業、1935年東京帝国大学文学部国史学科卒業。卒業論文は「荘園制の崩壊より見たる中世の東寺領」。 1935年鹿児島県史編纂委員、1943年立命館大学文学部教授を経て、1945年第四高等学校講師、1946年同校教授、1950年金沢高等師範学校教授、1952年金沢大学法文学部助教授、1958年同教授。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
石野 信一(いしの しんいち、1912年3月13日 - 19… 石野 信一(いしの しんいち、1912年3月13日 - 1996年1月19日)は、日本の大蔵官僚、実業家。第8代大蔵事務次官、さくら銀行名誉会長。文芸評論家の村上一郎は従兄弟。 神戸三中、大阪高校を経て、1935年、東京帝国大学法学部政治学科卒業後、大蔵省入省。主計局配属。理財局総務課長、大臣官房調査部長、理財局次長の後、1957年6月11日に俗に「森 - 石 ライン」と呼ばれることとなった森永貞一郎の下で官房長を務め、1959年に銀行局長、1961年に主計局長を経て、1963年に大蔵事務次官に就任、池田勇人首相の高度経済成長政策のブレーンとして活躍した。熟慮断行タイプとして知られ、大臣官房財務調査官(大臣官房調査課担当)だった1954年度予算編成では緊縮型予算を主張し貫徹した話は伝説になっている。
山路 ふみ子(やまじ ふみこ、1912年〈明治45年〉3月1… 山路 ふみ子(やまじ ふみこ、1912年〈明治45年〉3月13日 - 2004年〈平成16年〉12月6日)は、日本の女優・実業家・社会事業家・慈善家。兵庫県神戸市長田区出身。本名・大久保 ふみ子(おおくぼ ふみこ)。映画人の育成、功績のあった人の賞賛、教育・文化・福祉事業への支援活動に、私財を投げ打った。 1912年、兵庫県神戸市に生まれる。1930年、森高等女学校(現・神戸学院大学附属高等学校)在学中に神戸新聞社主催のミス神戸に選出され、同年、大阪松竹楽劇部(現・OSK日本歌劇団)を経て、帝国キネマ演芸株式会社に新人幹部候補生として入社し、『時代の反抗児』で映画デビューを飾る。たちまち看板スターとして脚光を浴び、雑誌や広告にもモデルとして登場するが、演技への評価はあまり高くなかった。
松下 達夫(まつした たつお、1912年3月13日 - 19… 松下 達夫(まつした たつお、1912年3月13日 - 1985年8月20日)は、日本の俳優。太陽プロモーション所属。奈良県出身。 大阪府大阪市福島区生まれ。早稲田大学文学部英文学科卒業。 北支那方面軍へ兵役後、1934年、中央演劇会を経て同年中に村山知義らの新協劇団に研究生として参加する。1935年に映画デビューする。その後スマトラ島からタイへの兵役を経て、1952年に滝沢修、宇野重吉らの劇団民藝に入団、『セールスマンの死』などの舞台に立った。1973年に民藝を退団し、フリーとなった。舞台のほか、映画、テレビドラマでも渋い脇役として活躍した。 趣味・特技は関西弁、剣道(2段)。
阿具根 登(あぐね のぼる、1912年〈明治45年〉3月13… 阿具根 登(あぐね のぼる、1912年〈明治45年〉3月13日 - 2004年〈平成16年〉1月16日)は、日本の政治家。参議院議員(5期、日本社会党)。参議院副議長。位階は正三位。 福岡県大牟田市出身。海軍横須賀通信学校卒。三井三池炭鉱に就職し、戦後大牟田市議を経て1949年に三井三池労組の初代組合長に就任。1953年、参院選に全国区から社会党公認で立候補し当選する。党参議院国対委員長を歴任し、三井三池争議では社会党の一員として調停役に回った。1965年の参院選で落選、1967年には熊本県知事選にも立候補するが落選し、翌1968年の参院選で国政に返り咲いた。 1978年、飛鳥田一雄委員長の下で下平正一、北山愛郎らと共に党中央執行副委員長に就き、1980年の衆参同日選後は党参議院議員会長に就任。
住友 彰(すみとも あきら、1912年3月12日 - 201… 住友 彰(すみとも あきら、1912年3月12日 - 2011年8月16日)は、日本の土木技術者。専門はトンネル工学。 福岡市に生まれる。1930年福岡県中学修猷館を経て、1935年九州帝国大学工学部土木工学科を卒業。 1935年内務省技師となり、下関工事事務所に勤務。1937年下関市と門司市(現・北九州市)の海底を結ぶ関門国道トンネルの調査工事の下関側責任者となり、戦中の工事休眠期間中は他事務所へ転任。工事が再開されると、併任のまま関門国道工事に携わる。戦前、戦中から、1958年の完成まで、21年間にわたって一貫してトンネル工事の調査から設計施工までを幹部として関わり、関門国道トンネルの完成に尽くした。
中山 礼治(なかやま れいじ、1912年(明治45年)3月1… 中山 礼治(なかやま れいじ、1912年(明治45年)3月11日- 1988年(昭和63年)3月27日)は、新潟県出身の歌人。長岡工業高等専門学校名誉教授。コスモス短歌会新潟県支部長。 新潟市刈部家(刈部喜兵衛)の子として生まれる。生後7日目に北魚沼郡小千谷町(現在の小千谷市)の中山泰治・ハツリ夫妻の養子となる。 町立小千谷尋常小学校から旧制県立小千谷中学校を経て、國學院高等師範学校を卒業した。卒業後は水戸工業学校で教員(国語・漢文)となる。 1938年、歩兵第58連隊少尉として支那事変に従軍した。除隊後、新潟県立糸魚川中学校で教職に復帰する。 1945年7月に再度の招集を受け、広島県からフィリピンに向かう途中で輸送船が魚雷攻撃を受けて沈没する。
岩本 義行(いわもと よしゆき、1912年3月11日 - 2… 岩本 義行(いわもと よしゆき、1912年3月11日 - 2008年9月26日)は、広島県三次市出身のプロ野球選手(外野手)・監督。「元祖神主打法」「初代トリプルスリー」[4]。弟はプロ野球南海の投手・審判を務めた岩本信一。5人いる孫の1人に女優の遠野舞子がいる[5]。
赤松 明勅(あかまつ めいちょく、1912年3月11日 - … 赤松 明勅(あかまつ めいちょく、1912年3月11日 - 1965年2月6日)は、日本の政治家。日本社会党衆議院議員(1期)。 愛媛県宇摩郡金砂村(のち伊予三島市、現・四国中央市)出身。日本大学大阪専門学校(現・近畿大学)で学ぶ。海南新聞記者となり、赤松博集堂製本工場を経営する。関西製本業統制組合専務理事、全国製本紙工商工業協同組合専務理事、上分村農民組合長となる。 戦後、日本社会党愛媛県支部連合会執行委員となり、1947年の第23回衆議院議員総選挙では愛媛2区から日本社会党公認で立候補してトップ当選、衆議院議員を1期務めた。1949年の第24回衆議院議員総選挙では社会革新党から立候補したが落選した。
佐々木 吉蔵(ささき きちぞう、1912年3月10日 - 1… 佐々木 吉蔵(ささき きちぞう、1912年3月10日 - 1983年1月23日)は、日本の陸上競技選手。 秋田県鹿角郡小坂村(現在の小坂町)に生まれる。1929年に大館中学校(現在の秋田県立大館鳳鳴高等学校)を卒業し、小坂鉱山花岡支社に入社し、明治神宮大会の男子100mで優勝する。 翌年、東京高等師範学校に進み、日本陸上競技選手権大会の男子200mで優勝し、ついで1931年には一般対抗学生選手権の4×100mリレーの学生チームの第2走者として、41秒6で当時の日本記録を樹立した。 1932年ロサンゼルスオリンピック代表に選ばれたが、怪我のために辞退した。つづく1936年ベルリンオリンピックでは男子100メートルに出場した。