星野 立子(ほしの たつこ、1903年(明治36年)11月1… 星野 立子(ほしの たつこ、1903年(明治36年)11月15日 - 1984年(昭和59年)3月3日)は、昭和期の俳人。高浜虚子の次女。虚子に師事し、初の女性主宰誌『玉藻』を創刊・主宰した。虚子一族で特に評価の高い人物。女性俳人では同時期に活躍した中村汀女・橋本多佳子・三橋鷹女とともに四Tと称された。星野立子の名を冠する俳句賞として、星野立子賞・星野立子新人賞が設けられている。 東京府麹町区富士見町(現・東京都千代田区)に生まれる。父高浜虚子、母いとの次女。7歳のとき鎌倉に移る。1924年、東京女子大学高等学部卒業。1925年に作家で『文学界』主宰星野天知の息子、鎌倉彫職人の星野吉人と結婚、『ホトトギス』発行所および文化学院に就職する。
二見 秀雄(ふたみ ひでお、1903年(明治36年)11月1… 二見 秀雄(ふたみ ひでお、1903年(明治36年)11月15日 - 1986年(昭和61年)6月10日)は、日本の建築学者。 ラーメン構造の構造力学研究と50余年にわたる教職を通して、人材育成、委員会の収締め役として貢献した。とくに初代南極観測建築委員長として観測建物の製作指導や、高層ビルの高さ制限の調停などがあげられる。東京工業大学名誉教授。
遠山 清(とおやま きよし、1903年〈明治36年〉11月1… 遠山 清(とおやま きよし、1903年〈明治36年〉11月15日 - 1963年〈昭和38年〉6月10日)は、日本の教育者、画家。 サンサシオン同人、広井尋常小学校教員、名古屋市立第一高等女学校教員、光風会会員、愛知県立愛知工業高等学校教員、社団法人光風美術会会員、社団法人日展会員、社団法人日展審査員などを歴任した。 愛知県名古屋市出身の洋画家である。広井尋常小学校、名古屋市立第一高等女学校、愛知県立愛知工業高等学校に教員として勤務する傍ら、光風会展、帝展、日展に出品を続け、光風賞や岡田賞を受賞している。光風会や日展の会員となり、のちに日展の審査員も務めた。 1903年(明治36年)11月15日、大日本帝国の愛知県名古屋市にて生まれた。
八木 芳信(やぎ よしのぶ、1903年(明治36年)11月1… 八木 芳信(やぎ よしのぶ、1903年(明治36年)11月14日- 1993年(平成5年)6月5日)は、日本の内務・警察官僚、実業家。最後の官選三重県知事。 京都府出身。京都府立京都第一中学校、第三高等学校を卒業。1926年12月、高等試験行政科試験に合格。1927年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省に入省し、千葉県属となる。 以後、長野県経済部長、神奈川県警察部長、神奈川県内務部長などを歴任。戦時中は海軍司政官に転出した。 1947年3月、前任の佐伯敏男が知事選に出馬のため辞任したことに伴い三重県知事に発令された。知事選挙などを執行して同年4月に退任。 その後、経済安定本部高松地方安定局長、帝国産業株式会社(現テザック)社長、同会長を歴任。
竹内 良一(たけうち りょういち、1903年11月13日 -… 竹内 良一(たけうち りょういち、1903年11月13日 - 1959年1月18日)は、日本の俳優。本名は外松 良一(とまつ りょういち)。旧芸名は竹内 良作(たけうち りょうさく)。女優岡田嘉子の元夫。実妹は舞台女優の竹内京子。祖父は外松孫太郎。男爵・外松亀太郎の長男。 1903年、陸軍大尉男爵・外松亀太郎(とまつ かめたろう, 明治8年生まれ、外松孫太郎長男)と混血の声楽家で日本女子大教師の大山たま子(明治10年生まれ、明治43年離縁)の長男として東京市赤坂区青山に生まれる。1911年、学習院初等科入学。学習院中等科を経て、1922年に学習院高等科を卒業。1924年6月、築地小劇場の演技研究生となり、千田是也たちと共に演劇を学び、竹内良作の芸名で舞台に立つ。
荊木 一久(いばらぎ かずひさ、1903年(明治36年)11… 荊木 一久(いばらぎ かずひさ、1903年(明治36年)11月13日 - 1952年(昭和27年)1月4日)は、衆議院議員(日本進歩党→民主党)、弁護士。 新潟県中頸城郡春日村(現在の上越市)出身。荊木久三郎の長男として生まれた。1927年(昭和2年)に慶應義塾大学経済学部を卒業し、1929年(昭和4年)に高等試験に合格した。原法律事務所に勤務の後、1931年(昭和6年)に高田市に事務所を開いた。春日村会議員、新潟県会議員、同参事会員に選出された。 戦後の1946年(昭和21年)、第22回衆議院議員総選挙で当選。第23回でも再選された。その間、日本進歩党常議員、同監察副部長、同部長、民主党政務調査会理事を歴任した。
八田 元夫(はった もとお、1903年11月13日 - 19… 八田 元夫(はった もとお、1903年11月13日 - 1976年9月17日)は、日本の演出家。父は元旧制新潟高等学校初代校長の八田三喜。弟は教育者の八田亭二。 東京出身。東京大学文学部美学科卒業。戦前は丸山定夫らに同行し、桜隊の覆面演出家をしていた。昭和20年8月6日の広島原爆の報を受け、槙村浩吉と共に広島に駐屯していた桜隊を探しに広島に出かけた。しかし、広島市は焼野原で桜隊の寮も跡形もなかった。しかし、そこで珊瑚隊が立てた立札を頼りに厳島の存光寺を訪ねる。そこで珊瑚隊と再会し、行方不明の丸山から「鯛尾島にいる」とのメモが届いたことを知り、槙村とともに鯛尾に赴く。しかし、丸山は小屋浦国民小学校に移送された後だった。
三宅 孝雄(みやけ たかお、1903年 <明治36年> 11… 三宅 孝雄(みやけ たかお、1903年 <明治36年> 11月13日 - 1978年 <昭和53年> 4月11日)は、日本の経営者。安藤建設社長を務めた。位階は正五位。 山口県出身。1924年に東京商科大学専門部を卒業し、同年に日本綿花に入社。1955年5月に取締役に就任し、1958年に常務、1959年に専務、1960年11月に副社長を経て、1964年12月に安藤建設専務に就任し、1965年5月に副社長を経て、1969年10月から1976年6月までに社長を務めた。 1974年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1978年4月11日尿毒症のために死去。74歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
鍋島 弘蔵(なべしま ひろぞう、1903年11月13日 - … 鍋島 弘蔵(なべしま ひろぞう、1903年11月13日 - 没年不詳)は、大正から昭和時代に活動した日本の新聞記者、詩人、コラムニスト、映画監督。元富山新聞社社長。富山県出身。 旧名は豊朔(ほうさく)で、1954年(昭和29年)に改名した。号は太守庵(たいしゅあん)で、作詞家としてのペンネームに名部島 春(なべしま はる)がある。漫画家の藤子不二雄Ⓐは甥。 1903年(明治36年)、富山県東礪波郡(現在の砺波市)に生まれる。日本大学美術科を中退後、北陸タイムス(北日本新聞の前身の一つ)を経て北國新聞系列の越中新聞へ入社し、高岡支局長となる。越中新聞では「太守庵」のペンネームで主として時事に関するコラムを執筆し、社外では1935年(昭和10年)に自主映画『輝く孝道』の監督を務めた。
筒井 直久(つつい なおひさ、1903年(明治36年)11月… 筒井 直久(つつい なおひさ、1903年(明治36年)11月12日 - 2002年(平成14年)11月10日)は、日本の公吏、政治家、実業家。松本市長。 長野県東筑摩郡神林村(現松本市)で、筒井浜十郎、きん の五男として生まれた。旧制松本中学(現長野県松本深志高等学校)、旧制松本高校文科甲類を経て、1930年(昭和5年)京都帝国大学法学部卒業。 1932年(昭和7年)東京府公吏となり、東京市社会局、麻布区総務課長などを務めた後、1945年(昭和20年)退職し帰郷。1946年(昭和21年)8月から1947年(昭和22年)3月まで松本市助役・市長代理に就任した。 同年4月に施行された、初の公選による松本市長選挙に当選。
木部 シゲノ(きべ シゲノ、1903年(明治36年)11月1… 木部 シゲノ(きべ シゲノ、1903年(明治36年)11月12日 - 1980年(昭和55年)7月29日)は、日本の女性パイロットの草分けのひとりである。NHKの連続テレビ小説『雲のじゅうたん』のモデルのひとりといわれる。 福岡県築上郡八屋町上町久保(後の豊前市)出身。3歳のときに一家で朝鮮の平安南道鎮南浦(後の北朝鮮南浦特別市)に移住し、父は海産物商を営んだ。シゲノは幼少から男まさりの気性であったとされる。 女学校を卒業後、1923年(大正12年)に上京しシゲノは、蒲田にあった日本自動車学校の航空科で航空力学や発動機学を学んだのち、同年5月5日に神奈川県橘樹郡潮田町(後の横浜市鶴見区)で開校した第一航空学校に入学。
伊勢野 重任(いせの しげたか、1903年(明治36年)11… 伊勢野 重任(いせの しげたか、1903年(明治36年)11月11日 - 1982年(昭和57年)4月7日)は、日本の脚本家である。名の読みは「しげとう」とも。映画で2度リメイクされたオリジナル脚本『國士無双』の作者として知られる。 1903年(明治36年)11月11日、鳥取県に生まれる。 愛媛県松山市に移り、1922年(大正11年)3月、旧制・愛媛縣松山中學校(現在の愛媛県立松山東高等学校)を卒業し、東京に移って、東京府東京市麹町区有楽町(現在の東京都千代田区有楽町)にあった東京市役所に務める。中学校の同級生に重松鶴之助(1903年 - 1938年)がおり、先輩には伊藤大輔(1898年 - 1981年)、伊丹万作(1900年 - 1946年)、中村草田男(1901年 - 1983年)がおり、伊藤・伊丹を頼り、映画界に入る。
溝上 泰子(みぞうえ やすこ、1903年11月11日 - 1… 溝上 泰子(みぞうえ やすこ、1903年11月11日 - 1990年10月11日)は、日本の教育者、人類生活者。 広島県御調郡市村生まれ。広島県三原女子師範学校、奈良女子高等師範学校、東京文理科大学卒業。 実践女子専門学校教授、東京家庭学園教授、京都女子大学教授を経て、1951年島根大学教育学部教授。1958年に「日本の底辺―山陰農村婦人の生活」を刊行し、「底辺」の生活に光をあてる。1967年に島根大学を退官後は、全国の小学6年生に「生きる・生活する」と題する授業をつづけた。聖カタリナ女子短期大学教授、本州大学教授、上田女子短期大学教授を務めた。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
永田一脩(ながた いっしゅう、1903年11月11日 - 1… 永田一脩(ながた いっしゅう、1903年11月11日 - 1988年4月9日)は、日本戦前期の、前衛美術系およびプロレタリア美術系の画家、写真家、グラフィックデザイナー。演劇にも携わる。本名永田一脩(ながた かずなが)。 福岡県門司市生まれ。1927年東京美術学校洋画科卒。労働美術家連盟、前衛芸術家同盟、ナップに参加。1929年国際文化研究所に入り、『国際文化』を編集。1930年ナップの一斉検挙にあい、保釈後フリーで活動する。1941年東京日日新聞社入社、毎日新聞となり1958年まで勤務。 写真に関しては、1930年代に、写真評論などを『フォトタイムス』誌に執筆し、実作品も制作した。写真作品としては、フォトモンタージュを利用したシュルレアリスム的な作品が多い。
庄司 浅水(しょうじ せんすい、1903年11月10日 - … 庄司 浅水(しょうじ せんすい、1903年11月10日 - 1991年9月7日)は、日本の書誌学研究家、ノンフィクション作家。ミズノプリンティングミュージアム名誉館長。日本出版学会、日本ペンクラブ、グロリアクラブ、各会員である。 元京都外国語大学専任講師。書物研究の傍ら、世界の奇談を紹介した。 宮城県仙台市出身。本名は喜蔵。三田英学校(現在の錦城学園高等学校)卒業。1925年、南葵音楽文庫に勤務。 1929年に「ぐろりあそさえて」から実質的な処女作『書籍装釘の歴史と実際』を刊行。1930年に装釘同好会を結成。1931年に佐々木幸四郎、斎藤昌三らと雑誌「書物展望」を創刊。また、書誌出版を志してブックドム社を設立。
吉田 秀雄(よしだ ひでお、1903年11月9日 - 196… 吉田 秀雄(よしだ ひでお、1903年11月9日 - 1963年1月27日)は、日本の実業家。電通の経営者で、「鬼十則」を作るなど広告の鬼と呼ばれていた。 1903年(明治36年)渡辺勝五郎の次男として、福岡県小倉市(現・北九州市)に生まれる。勝五郎は市内の鉄工所で働いていたが、秀雄が小学校に上がるころに解雇されてしまう。そこで父は家族のことを考え、1910年(明治43年)、単身台湾に渡ることを決意する。翌年、母親サトは幼い子供を連れて勝五郎に続く。秀雄は小学校2年生、兄は小学4年生、妹は5歳と3歳のときであった。しかし、生活が向上することはなく、1913年(大正2年)、勝五郎一人を残して再び小倉に戻る。
吾妻 光俊(あづま みつとし、1903年11月9日 - 19… 吾妻 光俊(あづま みつとし、1903年11月9日 - 1973年4月21日)は、日本の法学者。専門は民法・労働法・社会保障法。一橋大学名誉教授。末弘厳太郎門下。弟子に蓼沼謙一、横井芳弘など。 東京で横田秀雄(大審院院長・民法学者)の子として生まれる。1925年第一高等学校卒業。1928年東京帝國大學法学部法律学科卒業。同法学部助手。1930年東京商科大学附属商学専門部専任講師。1935年東京商科大学附属商学専門部教授。1936年東京商科大学商学部助教授。1936年労働法研究のためドイツ・イタリア・アメリカ合衆国に留学( - 1939年)。1940年東京商科大学学生主事( - 1941年)。1941年東京商科大学商学部教授。
森 シノ(もり シノ、1903年〈明治36年〉11月9日 -… 森 シノ(もり シノ、1903年〈明治36年〉11月9日 - 2015年〈平成27年〉8月23日)は、インターネット放送局・天草テレビのアナウンサー。世界最高齢の女子アナウンサーとして知られた。 熊本県、現在の上天草市松島町で、8人兄弟の3女として生まれた。24歳の時に2歳年上の、地元の男性・森秋義と結婚し、5人の子供をもうけたが、32歳の時に夫は病死する。夫の死後は農業を営みながら、女手一つで子供達を育てた。 2006年(平成18年)6月、102歳で天草テレビの3代目女子アナとしてデビュー。お天気コーナーなどを担当した。2008年(平成20年)12月には麻生太郎首相(当時)と対談も行っている。
山口 好一(やまぐち こういち、1903年11月8日 - 1… 山口 好一(やまぐち こういち、1903年11月8日 - 1969年3月19日)は、日本の政治家。自由民主党衆議院議員(7期)。弁護士。 栃木県栃木町(現:栃木市)に生まれる。旧栃木中、旧制一高を経て、1927年東京帝国大学法学部法律学科(英法)卒。卒業後は栃木商業学校教諭となり、1935年に高等試験司法科試験に合格し、弁護士となった。この他明治大学、日本大学の各講師を務めた。 戦後の1946年の第22回衆議院議員総選挙において栃木県(全県1区)から日本自由党公認で立候補して初当選。以来当選7回。在職中は衆議院地方行政委員長、同懲罰委員長、同科学技術振興対策特別委員長、第3次吉田内閣法務政務次官などを歴任した。
塩谷 太郎(しおや たろう、旧字体: 鹽谷 太郞、1903年… 塩谷 太郎(しおや たろう、旧字体: 鹽谷 太郞、1903年〈明治36年〉11月8日 - 1996年〈平成8年〉)は、日本の翻訳家、児童文学者。本名・相馬 一正(そうま かずまさ)。 群馬県桐生市生まれ。群馬県立桐生中学校出身。東京外国語学校(現・東京外国語大学)ドイツ語科を卒業。商社勤務を経て翻訳家になる。ドイツ語圏、英語圏の児童文学・ノンフィクションなどを日本語に翻訳した。最初の訳書はおそらく1941年のテオドル・シュトルム『少女ローレ』(改造社)。(ヴィツキー・バウムの長篇 Das große Enimaleins を訳出したが、出版に至っていない。)1962年、『ハウフ童話全集』でサンケイ児童出版文学賞を受賞。
楊井 克巳(やない かつみ、1903年11月8日 - 199… 楊井 克巳(やない かつみ、1903年11月8日 - 1997年9月14日)は、日本の経済学者、東京大学名誉教授。 1903年、山口県生まれ。旧制山口高等学校を経て、東京帝国大学経済学部に進む。大学では矢内原忠雄に師事した。 太平洋戦争後、東京大学経済学部教授となり、経済学部長をつとめた。1959年、「アメリカ帝国主義史論」を提出して経済学博士号を取得。1964年に東京大学を定年退官し、名誉教授となった。その後も日本大学教授、立正大学教授、帝京大学教授として教鞭をとり、1990年に退職した。
村山 籌子(むらやま かずこ、1903年〈明治36年〉11月… 村山 籌子(むらやま かずこ、1903年〈明治36年〉11月7日 - 1946年〈昭和21年〉8月4日)は、日本の児童文学作家。動物や野菜などを主人公とした、ユーモアとウイットにあふれる童話を多数執筆した。夫は村山知義、息子は児童劇作家の村山亜土。 1903年(明治36年)、父・岡内徳次郎、母・寛(ゆたか)の長女として香川県高松市に生まれる。家業は祖父の岡内喜三が創業した漢方薬を製造販売する岡内千金丹本舗で、全国的にも名の知られた商家であった。1916年(大正5年)、香川県立高松高等女学校に入学。水泳を得意とし在学中に高松藩の游泳術である水任流を身につけ、その一方、婦人之友社の雑誌『新少女』に和歌で入賞するなど、熱心な読者投稿者でもあった。
東海林 稔(しょうじ みのる、1903年〈明治36年〉11月… 東海林 稔(しょうじ みのる、1903年〈明治36年〉11月7日 - 1967年〈昭和42年〉10月1日)は、日本の地方公務員(群馬県庁職員)、政治家。日本社会党衆議院議員(4期)。 新潟県岩船郡瀬波町(現・村上市)出身。旧制新潟県立村上中学校(現・新潟県立村上高等学校)を経て、1927年(昭和2年)に北海道帝国大学農学部農業経済学科を卒業。 農林省に入り、台湾総督府技師・陸軍ジャワ司政官となり、ジャカルタ州経済部長となる。この時妻子を台湾に残した。戦後の1946年(昭和21年)に帰国。翌1947年(昭和22年)に群馬県庁に入り農地部長・経済部長などを歴任した後、1956年(昭和31年)に退職。
吉沢一郎(よしざわ いちろう、1903年11月6日 – 19… 吉沢一郎(よしざわ いちろう、1903年11月6日 – 1998年1月22日)は、日本の登山家。一橋大学山岳部出身。1977年、吉沢が総指揮を取った日本登山隊はK2登頂を試みて成功し、これが世界で2番目のK2登頂成功例となった。 麹町小学校卒業後、旧・明治中学校(現明治大学付属明治高等学校・中学校)中退を経て、1928年旧制東京商科大学(現一橋大学)卒業。電通映画社専務取締役。 元社団法人日本山岳会副会長。望月達夫、深田久弥、諏訪多栄蔵らとともに日本のヒマラヤ研究の第一人者であった。英国山岳会会員でもある。1980年には公共広告機構(現:ACジャパン)のCMに起用された。
今 日出海(こん ひでみ、1903年(明治36年)11月6日… 今 日出海(こん ひでみ、1903年(明治36年)11月6日 - 1984年(昭和59年)7月30日)は、日本の小説家、文芸評論家、舞台演出家。 初代文化庁長官を務めた。 北海道函館市に生まれた。3人兄弟の末子で、長兄は小説家で天台宗僧侶の今東光である。 日本郵船の船長であった父武平の転勤により、1911年(明治44年)に神戸市の小学校へ入り、1917年(大正6年)神戸一中へ進んだが、病気休学し、翌年東京の暁星中学へ移った。1922年(大正11年)、五年制中学の四年修了で旧制浦和高校に合格した。 1925年(大正14年)、東京帝国大学仏蘭西文学科へ入学し、辰野隆・鈴木信太郎らに学んだ。同期に小林秀雄・三好達治・中島健蔵らが、一年下に佐藤正彰・武田麟太郎らがいた。
今井 丈夫(いまい たけお、1903年11月6日 - 197… 今井 丈夫(いまい たけお、1903年11月6日 - 1971年3月18日) は、日本の水産学者。東北大学名誉教授。カキの養殖を研究し、紫綬褒章受章。 山形県出身。1927年東北帝国大学理学部卒業。副手、助教授を経て、1944年教授。1962年東北大学水産実験所所長。カキの養殖法を開発するなどし、1967年、紫綬褒章を受章。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
原 泰良(はら やすよし、1903年(明治38年)11月5日… 原 泰良(はら やすよし、1903年(明治38年)11月5日 - ?)は、日本の実業家。 神戸電気鉄道社長、大阪神鉄交通社長、有馬土地開発社長、神鉄交通社長、有馬興業社長、神鉄観光社長、有馬温泉掘鑿社長などを務めた人物。神戸電気鉄道企業集団(現:神戸電鉄グループ)の発展に大きく貢献した。 兵庫県姫路市別所町別所で生まれた。1922年(大正11年)兵庫県立姫路中学校を卒業した春、地元姫路の第三十八国立銀行(のちに神戸岡崎・五十六・高砂・灘商業・西宮・姫路と合併して神戸銀行〈現:三井住友銀行〉)に入行、網干支店長、検査部長、姫路支店長、取締役を歴任した。 倒産寸前で神戸市への身売りやバス転換を検討していた神戸電気鉄道(現:神戸電鉄)の経営再建を図るべく、1959年(昭和34年)11月24日に同電鉄の副社長に転身、小林秀雄社長が退任した1960年(昭和35年)5月25日からは第10代代表取締役社長に就任した。
亀沢 善次郎(かめざわ ぜんじろう、1903年11月5日 -… 亀沢 善次郎(かめざわ ぜんじろう、1903年11月5日 - 1987年3月27日)は、日本の経営者、銀行家。東京都出身。 1927年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、1943年に第四銀行に入行。 1957年11月に取締役に就任し、1960年11月に常務、1964年11月に専務を経て、1970年5月には頭取に就任。1972年11月には相談役に就任。 1975年11月に勲四等旭日小綬章を受章。 1987年3月27日急性心不全のために死去。83歳没。
横山 實(よこやま みのる、1903年(明治36年)11月5… 横山 實(よこやま みのる、1903年(明治36年)11月5日 - 1974年(昭和49年)8月14日)は日本の政治家。青森県青森市長(4期)。 青森県青森市出身。1923年、青森県師範学校卒。卒業後は小学校に勤務した。1936年、青森市会議員となり、1939年には青森県会議員に当選した。1944年に青森市助役となり、翌年まで務めた。その後、進歩党青森県支部幹事長となったが、1947年、青森市長選挙に立候補して当選、連続4期務めた。 市長在任中は、青森県体育協会会長、全国市長会理事、同副会長、東北六県市長会副会長、青森県市長会会長、青森市物産協会会長、青森県漁港協会会長などを歴任した。 1963年に市長を退任、同年藍綬褒章を受章。
日高 孝次(ひだか こうじ、1903年11月4日 - 198… 日高 孝次(ひだか こうじ、1903年11月4日 - 1984年8月15日)は、日本の海洋物理学者。弟は歴史学者の日高次吉。 1903年に宮崎県宮崎郡広瀬村(現在の宮崎市)で出生。旧制宮崎中学を経て第七高等学校造士館を卒業後、東京帝国大学理学部物理学科に進学し、1926年(大正15年)に同大学を卒業。その後すぐに中央気象台に入庁、海洋気象台で勤務した。この間、転倒温度計(英語版)に関する日高公式を作成した。 1934年(昭和9年)に「湖沼の振動及び海流に関する海洋物理学的研究」で理学博士。同論文で帝国学士院から学士院賞を受賞した。1941年(昭和16年)、他の日本の海洋学者らとともに日本海洋学会を設立し、自身も1948年(昭和23年)から1966年(昭和41年)まで同会会長を務めた。
藤松 正憲(ふじまつ まさのり、1903年11月4日 - 1… 藤松 正憲(ふじまつ まさのり、1903年11月4日 - 1997年7月29日 )は、日本の経営者。足利銀行頭取を務めた。 佐賀県出身。1927年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年に日本銀行に入行した。1956年5月に監事を経て、1958年5月に足利銀行に転じ、副頭取に就任し、同年10月には頭取に昇格した。1972年5月に会長を経て、1982年6月には相談役に就任。 1940年に勲五等双光旭日章、1961年に紺綬褒章、1969年4月に藍綬褒章、1981年4月に勲三等旭日中綬章をそれぞれ受章。 1997年7月29日、心不全のために死去。93歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
毛利 菊枝(もうり きくえ、1903年〈明治36年〉11月3… 毛利 菊枝(もうり きくえ、1903年〈明治36年〉11月3日 - 2001年〈平成13年〉8月20日)は、日本の女優。本名は森 キク(旧姓:小林)。夫は美術史家の森暢。 杉村春子、山本安英らと同世代の新劇女優であり、岸田國士に師事。幾つかの劇団を経て、京都市に劇団くるみ座を創設し、長く代表をつとめた。戦後は映画やテレビドラマにも多く出演し、老け役で活躍した。 1903年(明治36年)、群馬県利根郡沼田町(現沼田市)に生まれる。群馬県立高崎高等女学校(現群馬県立高崎女子高等学校)中退。 1925年(大正14年)、岸田國士主宰の新劇研究所に第1期生として入る。1929年(昭和4年)、喜劇座『御意に任せて』で初舞台を踏む。
日野原 節三(ひのはら せつぞう、1903年〈明治36年〉1… 日野原 節三(ひのはら せつぞう、1903年〈明治36年〉11月3日 - 1991年〈平成3年〉12月4日)は、昭和時代の実業家。昭和電工社長時代に「昭電疑獄」の中心人物となった。山梨県東八代郡出身。 1927年、東京帝国大学法学部独法科卒業。昭和化成や秩父木材工業などの役員を務めた後、第二次世界大戦後に日本水素工業の社長となる。1947年、芦田均の支援者でもあった妻の兄菅原通済の推薦によって社長の森暁が公職追放となった昭和電工の社長に迎えられた。社長就任後、会社再建のために復興金融金庫から巨額の融資を受けようと考え、GHQを含む関係者に贈賄や政治献金を行った。これが国会で問題視されて、1948年に日野原は逮捕され、芦田内閣も総辞職に至った。
飯田 道彦(いいだ みちひこ、1903年11月3日 - 19… 飯田 道彦(いいだ みちひこ、1903年11月3日 - 1967年12月19日)は、日本の経営者。日動火災海上保険元社長。神奈川県出身。 1928年に東京商科大学を卒業し、同年に日動火災海上保険に入社。 1950年に取締役に就任し、1953年に常務を経て、1954年から1961年までに社長を務めた。 1967年12月19日腹膜炎のために死去。64歳没。
伊豆川 浅吉(いずかわ あさきち、1903年(明治36年)1… 伊豆川 浅吉(いずかわ あさきち、1903年(明治36年)11月3日 - 1968年(昭和43年)8月24日)は、日本の水産学者、歴史学者。元東京水産大学教授。専門は漁業史、水産経済学。 1903年11月3日、神奈川県小田原市に生まれる。1922年4月に横浜高等工業学校応用化学科に入学し、1925年3月に卒業。1927年に旭水産に入社し、1928年に小田原市場に入社する。 1935年、法政大学経済学部を卒業し、1937年に法政大学大学院を修了、小野武夫に師事する。アチック・ミューゼアム研究所員、東京帝国大学助手を経て、1948年に鹿児島水産専門学校教授(後の鹿児島大学水産学部)に就任する。1950年、『日本鯨漁業の経済的研究』で農学博士(九州大学)を取得する。
瀬木 博信(せき ひろのぶ、1903年〈明治36年〉11月3… 瀬木 博信(せき ひろのぶ、1903年〈明治36年〉11月3日- 1971年〈昭和46年〉11月10日)は、日本の実業家。博報堂の元社長。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
清成 迪(きよなり すすむ、1903年(明治36年)11月2… 清成 迪(きよなり すすむ、1903年(明治36年)11月2日 - 1988年(昭和63年)2月7日)は、日本の技術者。日立製作所取締役副社長を経て、動力炉・核燃料開発事業団理事長や、原子力委員会委員長代理を務めた。「もんじゅ」や「ふげん」の名付け親でもある。 熊本県熊本市出身。1928年九州帝国大学工学部卒業。1940年日立製作所取締役副社長。1967年動力炉開発臨時推進本部委員。動力炉・核燃料開発事業団副理事長在任中の1970年、大洗工学センターの発足式で、高速増殖炉もんじゅ、新型転換炉ふげんの命名を行った。1972年動力炉・核燃料開発事業団理事長。1978年原子力委員会委員。同年原子力委員会委員長代理。
岩本 晋一郎(いわもと しんいちろう、1903年11月2日 … 岩本 晋一郎(いわもと しんいちろう、1903年11月2日 - 1981年2月10日)は、日本の商工官僚。岐阜県高山市長(2期)。岩本漆器店代表取締役。 岐阜県出身。中央大学卒業後、1933年高等文官試験に合格し、商工省に入る。山梨、山形各県の商工課長を経て、岩手県社会、商工、経済統制課長を歴任し、福岡県学務、農務各課長を務める。その後、高知県経済部長から岐阜県民生部長、同教育長を務める。1950年の岐阜県知事選挙に立候補するが落選。以降合計3回続けて立候補したが落選した。1959年の高山市長選挙に立候補して初当選した。1期目は市民生活の向上と産業振興などに施策を進め、環境衛生センターの完成、簡易水道の整備、市民会館の開館などがあり、1963年に2回目の当選をした。
平田 小六(ひらた ころく、1903年11月1日 - 197… 平田 小六(ひらた ころく、1903年11月1日 - 1976年5月18日)は、日本の作家。 秋田県生まれ。弘前中学校卒。プロレタリア文学の作家として出発、農民小説を書く。戦後は新日本文学会所属。 英語教師である父・孝次郎の勤務先である秋田県大館町に生まれる。第五十九国立銀行の行員となった父の転勤に伴い、幼い時期は青森県内を転々とする。1923年(大正12年)に弘前中学校を卒業すると、家計を助けるために進学を断念して代用教員に就く。1924年、北津軽郡小泊村下前尋常小学校(後の下前小学校。2010年に小泊小学校に統合され閉校)に訓導として着任する。(下前尋常高等小学校は明治9年に完成しました)この下前での2年弱の体験が、後の『囚はれた大地』の原型となった。
木村崋邦(きむら かほう、1903年10月31日-1982年… 木村崋邦(きむら かほう、1903年10月31日-1982年12月25日)は、日本の画家。本名は木村敞(きむら たかし)。 茨城県竹原下郷(現・小美玉市)出身。1920年に上京し、関田華亭に師事して崋山系花鳥画を学ぶ。1921年、日本南画会に初出品。1922年、松林桂月の天香画塾の塾生となり、主として山水花鳥などを描く。1923年、第1回茨城美術展に初出品。1948年、日本水墨会創立展に出品。1965年、日本南画院評議員に就任(1967年同理事、1971年同常任委員)。この頃、高松宮から推賞され、志操を一新した[要出典]。1969年、水墨画研究のため、黒曜会を主宰。1970年、第15回日本南画院に「浅春」200号を出品し、その後、東京銀座において、画業50年記念個展を催した[要出典]。
吉谷 久雄(よしたに ひさお、1903年10月30日 - 没… 吉谷 久雄(よしたに ひさお、1903年10月30日 - 没年不詳)は、日本の俳優である[4][5][6][7][8][9]。本名石井 清一(いしい せいいち)、旧芸名市川 喜有利(いちかわ きうり)。松竹蒲田撮影所が1920年代に推進した「短篇喜劇」の主演俳優として知られる。
渡辺 漸(わたなべ すすむ、1903年10月30日 - 19… 渡辺 漸(わたなべ すすむ、1903年10月30日 - 1984年4月2日)は日本の病理医、医学者。登山家。広島大学病理学第二講座初代教授、第4代医学部長。広島大学原爆放射能医学研究所初代所長。広島大学名誉教授。「雪山讃歌」作詞者の一人。東京都出身。 1921年(大正10年)静岡県立静岡中学校卒業。1922年(大正11年)第三高等学校 (旧制)入学。浪人中に西堀栄三郎と知り合い、揃って合格したところに今西錦司が落ちてきて、三人一緒になり、のちに高橋健治、桑原武夫、四手井綱彦らが加わり三高山岳部(のちの京都大学山岳部)が出発した。 1925年(大正14年)、東京帝国大学医学部進学、東大ではスキー部に所属。
西村 二郎(にしむら じろう、1903年10月28日 - 1… 西村 二郎(にしむら じろう、1903年10月28日 - 1999年12月30日)は、日本の経営者。新潟日報社社長を務めた。 東京都出身。1928年に東京商科大学を卒業。電通、同盟通信社での勤務を経て、1944年に新潟日報社取締役に就任し、1950年に社長に就任。1967年に会長に就任し、1980年9月に相談役を経て、1984年4月には顧問に就任。 1974年4月に勲二等旭日重光章を受章。 1999年12月30日肺炎のために死去。96歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
玉柳 実(實、たまやなぎ みのる、1903年(明治36年)1… 玉柳 実(實、たまやなぎ みのる、1903年(明治36年)10月27日 - 1960年(昭和35年)3月15日)は、昭和期の内務官僚、厚生官僚、政治家、弁護士。参議院議員。現在の愛媛県松山市生まれ。 愛媛県温泉郡味生村南斎院(現:松山市)で玉柳政吉の長男として生まれる。松山中学校(現愛媛県立松山東高等学校)を経て、1923年(大正12年)に大阪高等商業学校(現大阪市立大学)中退。1929年(昭和4年)10月に高等試験行政科合格。1930年(昭和5年)に高等試験司法科に合格。同年、内務省に入省し岩手県属に任官。1943年(昭和18年)に厚生省保険局船員労災課長、1946年(昭和21年)に愛媛県農地部長、1948年(昭和23年)に愛媛県経済部長。
野中 四郎(のなか しろう、1903年(明治36年)10月2… 野中 四郎(のなか しろう、1903年(明治36年)10月27日 - 1936年(昭和11年)2月29日)は、日本の陸軍軍人。
森下 弘(もりした ひろむ、1903年10月25日 - 19… 森下 弘(もりした ひろむ、1903年10月25日 - 1990年1月17日)は、日本の実業家。日本新薬社長、会長を務めた。奈良県出身。 1929年に九州帝国大学法文学部を卒業し、1933年に日本新薬に入社した。1946年から社長に就任し、1987年から会長に就任した。 1970年から1983年までに京都商工会議所会頭と日本商工会議所副会頭を務め、1987年までに関西経済連合会副会長も務めた。 1990年1月17日うっ血性心不全のために死去。86歳没。死後に京都府から特別功労表彰を受けた。
中 助松(なか すけまつ、1903年(明治36年)10月25… 中 助松(なか すけまつ、1903年(明治36年)10月25日 - 1953年(昭和28年)7月31日)は、日本の衆議院議員(自由党→分党派自由党→自由党)、内務参与官。 富山県下新川郡浦山村(現在の黒部市)出身。1927年(昭和2年)、明治大学政治経済科を卒業し、農林省大臣官房や山林局に勤務した。1932年(昭和7年)より神奈川県会議員に選出され、同参事会員、同副議長を務めた。 1942年(昭和17年)、第21回衆議院議員総選挙において神奈川1区(当時)から翼賛政治体制協議会推薦で出馬し、当選。幣原内閣で内務参与官を務めた。その後、公職追放となった。追放中の1948年(昭和23年)、政治資金に関する問題で衆議院不当財産取引調査特別委員会に証人喚問された。
崔 丙柱(チェ・ビョンジュ、朝鮮語: 최병주、1903年10… 崔 丙柱(チェ・ビョンジュ、朝鮮語: 최병주、1903年10月25日 - 没年不詳)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の法曹、政治家。第2代韓国国会議員。 全羅北道扶安郡幸安面出身。京城帝国大学法学部卒、高等文官試験司法科合格。以後は大法官、弁護士を務めた。1950年の第2代総選挙では扶安郡選挙区から無所属で出馬して当選し、国会議員を1期務めた。 しかし、同年の朝鮮戦争中に拉致された。妻による失郷私民申告書によると、1950年7月中旬ごろに全羅北道で北朝鮮側の関係者に拉致され、拘束中に通訳などをさせられていたということが伝わっている。その後は弟からも同書が提出された。1956年7月、在北平和統一促進協議会中央委員を務める。
平川 虎臣(ひらかわ こしん、1903年10月25日 - 1… 平川 虎臣(ひらかわ こしん、1903年10月25日 - 1969年5月2日)は、日本の小説家。熊本県菊池郡城北村(現・山鹿市菊鹿町)生まれ。満州、京都、東京を放浪したのち上司小剣に師事し、作家となり、戦前活躍。戦後は不遇だった。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
佐藤 井岐雄(さとう いきお、1902年〈明治35年〉11月… 佐藤 井岐雄(さとう いきお、1902年〈明治35年〉11月22日 - 1945年〈昭和20年〉8月11日)は日本の生物学者。サンショウウオを中心とする両生類研究の世界的権威であった。 岐阜県郡上郡奥明方村(現・郡上市)に生まれる。命名の由来は、父の出身地・岐阜県の「岐」と母の出身地福井県の「井」にちなむ。 奈良県の中学を卒業したのち広島高師に入学し長野県の自然誌を研究[要出典]、高師卒業後は長野県で中学校教諭として勤務した。その後旧制広島文理科大学(現在の広島大学)に入学、阿部余四男教授に師事した(のち佐藤は自分が確認した新種のサンショウウオに命名する際、恩師の名にちなみ「アベサンショウウオ」とした)。