呉 三連(ご さんれん、1899年11月15日 - 1988… 呉 三連(ご さんれん、1899年11月15日 - 1988年12月29日)は、中華民国の政治家、日本のジャーナリスト。初代民選台北市長。 日本統治時代の台湾の嘉義県の寒村頭港仔出身。1919年台湾総督府国語学校国語部を卒業し、東京高等商業学校(現一橋大学)予科に進学。留学中日本統治下の台湾における台湾人政治運動に加わり、1920年新民会、東京台湾青年会に参加。同年下村宏台湾総督府総務長官と面会し日本の植民地政策を批判し、その後台湾議会設置運動に参加した。 1925年東京商科大学(現一橋大学)卒業。陸上競技部出身。卒業後大阪毎日新聞記者となる。1932年台湾新民報が創刊されると編集者として台湾に戻り、論説委員、整理部長、政治部長を兼任した。
筬島 威一(おさじま いいち、1899年11月13日 - 1… 筬島 威一(おさじま いいち、1899年11月13日 - 1973年7月1日)は、日本の実業家。 愛媛県松山市に生まれる。1917年福岡県立中学修猷館、1920年第五高等学校工科を経て、1923年東京帝国大学工学部を卒業。 1923年三井物産に入社し大阪機械支部勤務。1929年から1934年までロンドン支店勤務。帰国後、機械課長、大阪支店長代理、同支店次長、佐世保支店長、福岡支店長を務め、1947年に三井物産が解体されると同時に退社し、三保物産を設立し代表取締役となる。 1948年1月ゼネラル物産(後にゼネラル石油と改称し現東燃ゼネラル石油)佐世保出張所長を委嘱され、1952年8月同社に入社して取締役大阪支店長、1953年6月常務取締役、1958年11月代表取締役を経て、1959年ゼネラル海運代表取締役となり、1962年2月ゼネラル石油代表取締役社長に就任する。
水野 成夫(みずの しげお、1899年11月13日 - 19… 水野 成夫(みずの しげお、1899年11月13日 - 1972年5月4日)は、日本の実業家。フジテレビジョン(現フジ・メディア・ホールディングス)初代社長。元日経連常任理事・経済団体連合会理事・経済同友会幹事。
奥野 信太郎(おくの しんたろう、1899年〈明治32年〉1… 奥野 信太郎(おくの しんたろう、1899年〈明治32年〉11月11日 - 1968年〈昭和43年〉1月15日)は、日本の中国文学者、随筆家。
進藤 英太郎(しんどう えいたろう、1899年11月10日 … 進藤 英太郎(しんどう えいたろう、1899年11月10日 - 1977年12月18日)は、日本の俳優。本名:真藤 辰五郎。 舞台俳優を経て映画界に入り、幅広い演技で620本にもおよぶ作品に出演した。『山椒大夫』『近松物語』『赤線地帯』など溝口健二監督作品の常連として脇役を好演し、東映時代劇では悪役として活躍した。後年はテレビドラマに活躍の場を移し、『おやじ太鼓』などのホームドラマに出演して人気を得た。 1899年(明治32年)11月10日、福岡県福岡市大名町(現在の福岡市中央区大名)に生まれる。生家はカムチャツカ漁業を経営しており、進藤の叔父は北洋漁業の開発者でカムチャッカ漁業の権威である眞藤愼太郎である。
八巻 芳夫(やまき よしお、1899年11月10日 - 19… 八巻 芳夫(やまき よしお、1899年11月10日 - 1990年)は、日本の土木技術者、都市計画家。仙台市の戦災復興都市計画に従事・尽力。 青葉通り、定禅寺通りのケヤキ並木道の設計者。丸森町出身。 東北帝国大学附属工学専門部/旧制仙台高等工業学校土木工学科卒業後、朝鮮総督府に勤務。総督府で地方出先の土木課長などを歴任。朝鮮時代に乱伐された山林をみて緑のない地方道は次々に並木を整備していったという。 1946年に帰国し、仙台市に勤務。仙台市戦災復興局建設部公営課長から後に建設局復興部長、建設局長を歴任。1959年からは仙台市技監。1966年に退職。その後土地区画整理審議会全国連合会などに関わる。
方 定煥(パン・ジョンファン、방정환、1899年11月9日 … 方 定煥(パン・ジョンファン、방정환、1899年11月9日 – 1931年7月23日)は、近代朝鮮の小説家である。本貫は温陽方氏。現在のソウル特別市出身。雅号小波。 善隣商業学校卒業後、東学に入信し、孫秉煕の女婿となる。普成専門学校(高麗大学校)に通い、三・一運動では謄写版の「独立新聞」を配布し逮捕される。釈放後は日本に行き、東京の東洋大学の哲学科で児童文学と児童心理学を学んだ。1923年、朝鮮で最初の児童文化団体であるセクトン会を組織して、子供運動を積極的に展開した。1923年、朝鮮では初めて純粋児童雑誌である『オリニ』を創刊して活動した。 児童のための様々な社会活動を行い、民族啓蒙や児童文学においても先駆的な業績を残した。
亘 四郎(わたり しろう、1899年〈明治32年〉11月8日… 亘 四郎(わたり しろう、1899年〈明治32年〉11月8日 - 1977年〈昭和52年〉4月4日)は、日本の政治家。位階は正三位、勲等は勲一等。衆議院議員(8期)、新潟県知事(公選第7・8代、在任1966年 - 1974年)、参議院議員(1期)。日魯漁業創業者の堤清六は実兄。 呉服商「近清」7代目の堤清七・千代の四男(第7子)として新潟県南蒲原郡三条町上町に出生。長兄の清六とは19歳も離れていた。幼くして寺泊の廻船問屋亘信治の養子となる。 寺泊町立尋常科寺泊小学校を経て旧制新潟県立三条中学校を卒業後、アメリカ合衆国ニュージャージー州のラトガーズ大学に留学。建築学や数学を学ぶ一方で、アメリカンフットボール部でも活躍した。
菊池 明(きくち あきら、1899年(明治32年)11月8日… 菊池 明(きくち あきら、1899年(明治32年)11月8日 - 1973年(昭和48年)8月29日)は、昭和時代の土木工学者、内務官僚、建設技監。 香川県に生まれる。1925年(大正14年)東京帝国大学工学部土木工学科を卒業し、内務省土木局に入り、下関土木出張所、興亜院勤務を経て、1945年(昭和20年)国土局道路課長となる。戦後は、近畿土木出張所、建設院地政局長、建設省道路局長を経て、1952年(昭和27年)建設技監に進む。1956年(昭和31年)退官し、日本道路公団理事となり1960年(昭和35年)まで務めた。ほか、地崎組副社長、地崎道路会長、橋梁コンサルタント社長、日本道路協会会長、道路緑化協会会長、第13回国際道路会議議長、土木学会会長などを歴任した。
難波 大助(なんば だいすけ、1899年(明治32年)11月… 難波 大助(なんば だいすけ、1899年(明治32年)11月7日 - 1924年(大正13年)11月15日)は、日本の共産主義者、極左テロリスト。大正期の反逆的な社会運動家。 1923年(大正12年)12月の虎ノ門事件で摂政宮(皇太子裕仁親王、のちの昭和天皇)を襲撃し、暗殺しようとした。審理が行われた大審院でも皇室否定の主張を曲げず、大逆罪により処刑された。 1899年(明治32年)、山口県熊毛郡周防村立野宮河内(現:山口県光市立野)の名家に難波作之進の四男として生まれた。難波家は長州藩士ではなく陪臣であり、長州藩寄組清水氏の家臣で、清水宗治の弟難波宗忠を家祖とし、戦国時代から主従関係は変わることはなかった。
小林 節太郎(こばやし せつたろう、1899年11月7日 -… 小林 節太郎(こばやし せつたろう、1899年11月7日 - 1977年8月12日)は、日本の経営者。兵庫県小野市出身。 1924年に関西学院大学高等商業部を卒業。岩井商店、大日本セルロイドでの勤務を経て、1934年1月に富士写真フイルムに転じ、1937年5月に取締役、1943年5月に常務、同年11月に専務、1958年に副社長を経て、1960年6月に社長に就任。1962年には富士ゼロックス社長にも就任。。 1964年11月に藍綬褒章を受章し、1970年11月に勲二等瑞宝章を受章。 1977年8月12日急性心不全のために死去。77歳没。
加茂 儀一(かも ぎいち、1899年11月6日 - 1977… 加茂 儀一(かも ぎいち、1899年11月6日 - 1977年11月7日)は、日本の科学史学者。 兵庫県神戸市生まれ。兵庫県立神戸第一中学校から神戸高等商業学校(現神戸大学)入学。1921年に東京商科大学(現一橋大学)へ転学し、1924年に卒業。三井物産に就職。中央気象台では気象技術官養成所教授として英語を教える。 戦後東京工業大学教授、東京社会科学研究所理事長。1957年に小樽商科大学学長に就任し、1965年まで務める。 1966年に関東学院大学教授へ転じる。その間日本科学史学会会長(1964年1月 - 1970年5月)を務めた。 1977年11月7日、関東学院大学教授在職のまま死去。78歳没。
榊原 亨(さかきばら とおる、1899年〈明治32年〉11月… 榊原 亨(さかきばら とおる、1899年〈明治32年〉11月3日 - 1992年〈平成4年〉1月27日)は、大正末から昭和期の医学者、政治家。衆議院議員(1期)、参議院議員(1期)、医学博士。心臓外科の創始者。 福井県福井市宝永上町生まれ。幕臣榊原職直の後裔である。開業医の長男として生まれる。第四高等学校を経て、1925年(大正14年)九州帝国大学医学部を卒業した。 金沢医科大学(現金沢大学)に赴任し副手、助手を歴任。泉伍朗教授の元で脾臓手術を行い認められる。1928年(昭和3年)泉教授と共に岡山医科大学(現岡山大学医学部)に赴任し講師に就任し、1929年(昭和4年)助教授となる。収縮性心包炎の手術に成功して名を知られた。
16代上山 勘太郎(うえやま かんたろう、前名・英夫、189… 16代上山 勘太郎(うえやま かんたろう、前名・英夫、1899年〈明治32年〉11月3日 - 1984年〈昭和59年〉1月8日)は、日本の実業家。大日本除虫菊会長を務めた。大日本除虫菊の創業者上山英一郎の三男。同社会長を務めた上山英介の実父、同じく会長を務めた上山直武の養父。 和歌山県有田郡保田村山田原(現・有田市山田原)出身。1924年、京都帝国大学経済学部卒業。日本勧業銀行に入り、検査役・鑑定役・大阪支店副支配人などを歴任し、1938年、退職して大日本除虫菊会社副社長に就任。1943年、勘太郎を襲名し第3代社長に就任。1981年、会長に就任。 上山英一郎の三男、十五代勘太郎、英三の弟であり、1932年に分家した。
那波 光正(なわ みつまさ、1899年11月3日 - 196… 那波 光正(なわ みつまさ、1899年11月3日 - 1968年12月7日)は、岐阜県出身の実業家・興行師。京都帝国大学卒業。株式会社東京楽天地社長などを歴任した。土木工学者・鉄道官僚の那波光雄は父。日本郵船社長の有吉義弥は義兄。 1899年(明治32年)11月3日に岐阜県に生まれた。父は土木工学者・鉄道官僚の那波光雄である。愛媛県の旧制松山高等学校を第1回生として卒業後、1926年(大正15年)に京都帝国大学法学部を卒業した。旧制松山高校の同窓には後に三和銀行頭取となる上枝一雄、後に日本郵船社長となる有吉義弥などがいた。大学卒業後には小林一三が率いる東宝グループの阪神急行電鉄、東京瓦斯、東京宝塚劇場などに勤務した。
竹内 徳治(たけうち とくじ、1899年(明治32年)11月… 竹内 徳治(たけうち とくじ、1899年(明治32年)11月1日 - 1991年(平成3年)5月10日)は、日本の大蔵官僚。官選香川県知事。 群馬県前橋市出身。竹内清次郎の三男として生まれる。第一高等学校を卒業。1922年11月、高等試験行政科試験に合格。1923年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。大蔵省に入省し主計局属となる。 以後、財務書記(英仏駐在)、司税官、主計官を歴任。1935年、対満事務局経済課長に就任。さらに、企画院第五部長、拓務省殖産局長、内務省管理局長、東北興業副総裁を務める。 1946年1月、香川県知事に就任し四国地方行政事務局長官を兼務した。県下の治安維持に尽力。同年6月に知事を辞任。
野村 健三(のむら けんぞう、1899年(明治32年)10月… 野村 健三(のむら けんぞう、1899年(明治32年)10月31日 - 1948年(昭和23年)6月19日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 広島県出身。1921年(大正10年)7月、陸軍士官学校第33期卒業。陸軍砲工学校第30期を優等で卒業。東京帝国大学応用化学科卒業。 陸軍省整備局資源課高級課員、兵器局器材課高級課員、野戦兵器長官部員、兵器局器材課長を経て、1941年(昭和16年)8月、陸軍大佐に進む。1942年(昭和17年)10月、陸軍兵器行政本部総務部第3課長に転じ、1945年(昭和20年)6月に陸軍少将に進んだのち、翌7月に同本部技術部長に補され終戦を迎えた。 1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた。
友田 恭助(ともだ きょうすけ、1899年(明治32年)10… 友田 恭助(ともだ きょうすけ、1899年(明治32年)10月30日 - 1937年(昭和12年)10月6日)は、日本の新劇俳優。本名は伴田五郎。 1899年(明治32年)、東京市日本橋区(現 : 東京都中央区)に実業家の伴田六之助の子として生まれる。幼い頃から芝居を好んで過ごし、錦城中学校へと進んだ。中学生の頃に土方与志と知り合い、伯母の住む神奈川県茅ヶ崎の家に南湖座と名付けられた芝居小屋を作ってもらい、土方らと素人劇団を作りそこで演劇をしていた。1917年(大正6年)に早稲田大学独文科へと進み、在学中に新劇協会の畑中蓼坡の指導を受けて、1919年(大正8年)に『ワーニャ伯父さん』で本格的な舞台初出演を果たした。
竹内 自益(たけうち じえき、1899年10月30日 - 1… 竹内 自益(たけうち じえき、1899年10月30日 - 1978年7月3日)は、日本の経営者。三重県出身。 1923年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年4月に三井倉庫に入社。1947年1月に取締役に就任し、1952年5月に常務、1959年11月に専務、1965年5月に副社長を経て、1968年5月に社長に就任。1972年5月には会長に就任。 1978年7月3日心筋梗塞のために死去。78歳没。
浅利 鶴雄(あさり つるお、1899年10月29日 - 19… 浅利 鶴雄(あさり つるお、1899年10月29日 - 1980年4月15日)は、東京府出身の演劇プロデューサー、俳優である。 明治中学を経て、1922年(大正11年)、慶應義塾大学部理財科(現・経済学部)卒業。1924年(大正13年)、小山内薫、友田恭助、和田精、汐見洋、土方与志とともに新劇の専門劇場である築地小劇場を創立。後に松竹に移り、俳優として「三田英児」の名でサイレント映画に出演。松竹では社長秘書などの他、プロデューサーを務め、2代目左団次が行った歌舞伎界初のソ連公演には秘書として参加。また、戦前・戦後を通し一時代を築いた浅草国際劇場の初代支配人に就任し、こけら落としではチャップリンを招聘。
小原 重孝(おばら しげたか、1899年10月24日 - 1… 小原 重孝(おばら しげたか、1899年10月24日 - 1971年7月13日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大佐。小原 重厚と表記する文献も有る。 東京府出身(北海道札幌市出身とする資料も有り)。司法官・小原文太郎の長男として生まれる。札幌一中卒を経て、1920年(大正9年)5月、陸軍士官学校(32期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し、歩兵第25連隊付となる。陸士予科生徒隊付などを経て、1929年(昭和4年)11月、陸軍大学校(41期)を卒業し、歩兵第25連隊中隊長となる。 1930年(昭和5年)12月、参謀本部付勤務(ロシア班)となる。同年、ロシア班長の橋本欣五郎が結成した桜会に参加。
中野 敏雄(なかの としお、1898年(明治31年)11月2… 中野 敏雄(なかの としお、1898年(明治31年)11月22日 - 1999年(平成11年)11月1日)は、昭和期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員、初代佐賀県武雄市長。 佐賀県杵島郡武雄町(現武雄市武雄町)で、温泉旅館・春慶屋経営、中野祐市、いち夫妻の長男として生まれる。1916年(大正5年)慶應義塾大学部理財科に入学したが、志望校ではなかったため両親に内緒で旧制高等学校を受験して合格し、親の許しを受けて1918年(大正7年)4月、第七高等学校造士館に入学。1921年(大正10年)3月、七高を卒業し、同年4月、東京帝国大学文学部社会学科に入学。1925年(大正14年)同大文学部を卒業したが、不況の最中での卒業であったため、じっくり学問に取り組もうと同年4月、同大法学部政治学科に入学し、1928年(昭和3年)3月に卒業した。
萩原 恭平(はぎわら きょうへい、1898年11月19日 -… 萩原 恭平(はぎわら きょうへい、1898年11月19日 -1969年7月13日 )は、日本の言語学者。ロンドン大学客員教授、早稲田大学教育学部英語英文学科教授等を歴任した。稲村松雄、竹沢啓一郎との共著『Jack and Betty』は発行部数4,000万部を超えるベストセラーとなり、戦後日本の中・高等教育課程における代表的な英語教科書となった。埼玉県上里町出身。墓所は寛永寺第3霊園。 埼玉県児玉郡賀美村(現:上里町)大字黛にて出生。旧制高崎中学校を経て早稲田大学高等師範部卒業。千葉県立大多喜中学校教諭、東京府立第五中学校教諭、早大高師部講師等を経て1935年に早大教授に就任。同校を1969年に定年退職するまでの間に、1938年に渡英しロンドン大学で客員教授を務め、1960年代に跡見学園女子大学で客員教授を務めた際には同大学英文科開設に尽力した。
稲田 勤(いなだ つとむ、1898年 <明治31年> 11月… 稲田 勤(いなだ つとむ、1898年 <明治31年> 11月19日 - 1976年 <昭和51年> 8月27日)は、日本の経営者。明治生命保険社長を務めた。位階は従五位。 東京都出身。1922年に慶應義塾理財科を卒業し、同年に明治生命保険に入社。 1946年11月に常務に就任し、1958年5月に副社長を経て、1961年5月に社長に就任。1964年5月には相談役に就任した。 経済団体連合会理事、日本経営者団体連盟常任理事、日本相撲協会会長なども歴任した。 1963年5月に藍綬褒章を受章し、1970年4月に勲四等旭日小綬章を受章。 1976年8月27日、心筋梗塞のために死去。77歳没。死没日付をもって従五位に叙された。
近衞 秀麿(このえ ひでまろ、1898年11月18日 - 1… 近衞 秀麿(このえ ひでまろ、1898年11月18日 - 1973年6月2日)は、日本の指揮者・作曲家。元子爵。正三位勲三等。元貴族院議員。異母兄に近衞文麿(政治家・元内閣総理大臣)、実弟に近衞直麿(雅楽研究者)、水谷川忠麿(春日大社宮司)がいる。
奥野 健一(おくの けんいち、1898年11月18日 - 1… 奥野 健一(おくの けんいち、1898年11月18日 - 1984年5月6日)は、最高裁判所判事。和歌山県出身。文芸評論家の奥野健男は長男。 旧制和歌山県立田辺中学校から旧制第六高等学校へ進学。旧制高校時代に高校生と地回りたちの大乱闘があったさいに、喧嘩には加わらなかったが、目撃者の誤った証言で警察に逮捕された。いくらやらないと言っても警察官は聞き入れず、ついには卑怯者と言われたくなく友人を庇う義侠心から乱闘の首謀者と偽りの自白をしてしまった。警察官に尋問をされ、偽りの上に偽りの自白を重ね、架空の筋書きの調書が作られた。幸い検事の調べによって無実であることがわかり不起訴となった。 この体験は警官の誘導尋問によって人間はいかに偽りの自白をしやすいものであるかという教訓として、自身が体験者の一人として後年に裁判をする時にいつもその点を配慮するようになったとのことである。
北村 喜八(きたむら きはち、1898年11月17日 - 1… 北村 喜八(きたむら きはち、1898年11月17日 - 1960年12月27日)は、日本の演出家、劇作家、翻訳家。 石川県出身。東京帝国大学英文科卒。 1924年(大正13年)、築地小劇場に参加する。1937年(昭和12年)、村瀬と芸術小劇場を結成し主宰する。第二次世界大戦後は新劇で活動。1950年(昭和25年)8月18日、阿部知二とともに第22回国際ペンクラブ大会に戦後始めて代表として出席。1951年(昭和26年)、国際演劇協会日本センター初代理事長となる。 ドイツ・英米演劇を翻訳した。 妻は女優の村瀬幸子。
榊原 巌(さかきばら がん、1898年〈明治31年〉11月1… 榊原 巌(さかきばら がん、1898年〈明治31年〉11月17日 - 1994年〈平成6年〉11月30日)は、日本の経済学者、キリスト教(アナバプティズム)研究家、政治家、実業家。青山学院大学名誉教授。筆名は、吾妻 東一、福田 逸史。 妻は衆議院議員の榊原千代。息子はヒッポファミリークラブ創設者の榊原陽。 愛知県碧南市生まれ。1921年(大正10年)3月、官立神戸高等商業学校を中途退学する。同年4月に東京商科大学(現・一橋大学)本科に入学し、1924年(大正13年)3月に卒業する。同年4月に横浜社会問題研究所の研究員に就任する。 1926年(大正15年)6月から福島高等商業学校(現・福島大学)講師、1927年(昭和2年)7月から同校教授に就任する。
矢上 純雄(やがみ すみお、1898年(明治31年)11月1… 矢上 純雄(やがみ すみお、1898年(明治31年)11月16日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の台湾総督府官僚、昭和戦後の鹿児島県職員。 鹿児島県囎唹郡末吉村(現・曽於市)に生まれる。1918年(大正7年)8月、渡台し、台中郵便局雇、台湾総督府通信手、内務局勤務を経て、1937年(昭和12年)9月、地方理事官に進み、台北市助役に就任する。 1939年(昭和14年)4月、台中州豊原郡守に転じ、1940年(昭和15年)11月、台南州虎尾郡守に就任。1942年(昭和17年)8月、花蓮港庁総務課長を発令された。 終戦後は帰国し、1947年(昭和22年)から鹿児島県農地部農地課に勤務し、農地課長を経て、1949年(昭和24年)経済部水産課長に就く。
野溝 勝(のみぞ まさる、1898年(明治31年)11月15… 野溝 勝(のみぞ まさる、1898年(明治31年)11月15日 - 1978年(昭和53年)8月22日)は、日本の政治家、農民運動家。衆議院議員、参議院議員、左派社会党書記長、芦田内閣の地方財政委員会委員長。正三位勲一等瑞宝章。 長野県上伊那郡赤穂村(現在の駒ヶ根市)に馬車屋の子として生まれる。旧制飯田中学(長野県飯田高等学校)を経て、1917年(大正6年)青森農業学校畜産獣医科を卒業する。同年法政大学に入学するが、すぐに中退し、獣医師となり、長野県警察部で防疫官、衛生助手として勤務する。しかし思想的に問題があるとみなされて、長野県下伊那郡富草警察署(現・阿南警察署)に配置換えとなる。しかし、ここでも署長と衝突し、1922年(大正11年)に退職した。
河口 静雄(かわぐち しずお、1898年11月14日 - 1… 河口 静雄(かわぐち しずお、1898年11月14日 - 1991年12月19日)は、日本の実業家。三共副社長、東京12チャンネルテレビ事業本部長を務めた。 福岡県柳川市出身。河口時次、トリの三男。1928年に慶應義塾大学法学部を卒業し三共に入社。資材部長、1944年7月に取締役、1950年5月に常務、1955年11月専務を経て、1962年11月には副社長に就任し、1964年5月から相談役を務めた。1969年11月には当時経営不振に陥っていた東京12チャンネルテレビ事業本部長に就任し、同社の再建に当たった。全日本広告連盟理事長、日本広告審査機構理事長なども歴任し、広告界の重鎮として活躍した。1967年には日本宣伝大賞を授賞、1969年4月には勲三等瑞宝章を受章した。
桜井 督三(さくらい とくぞう、別表記 : 櫻井 督三、18… 桜井 督三(さくらい とくぞう、別表記 : 櫻井 督三、1898年 〈明治31年〉11月14日 - 1978年〈昭和53年〉5月15日)は、日本の経営者。北越製紙、新潟総合テレビ社長などを務めた。位階は従四位。 新潟県広神村(現・魚沼市)の庄屋に生まれる。 長岡中学(現・新潟県立長岡高等学校)を経て慶應義塾理財科を卒業。1922年に九州水力電気に入社。1942年に九州配電理事に就任。理事になるまで、経理、営業、企画、技術を担当。九州の主なところでは大牟田、大分、福岡に移り住んだ。 1944年に日本発送電理事に転じ、1949年7月から1950年9月までに副総裁を歴任。1954年9月から1956年9月までに電源開発理事を務めた。
藤野 岩友(ふじの いわとも、1898年11月14日 - 1… 藤野 岩友(ふじの いわとも、1898年11月14日 - 1984年5月28日)は、古典中国文学者。國學院大學名誉教授。文学博士。折口信夫の五博士のうちの一人である。 楚辞の研究で知られ、主著は『巫系文学論』、『中国の文学と礼俗』など。漢文学者として『角川漢和中辞典』など漢和辞典や漢文教科書の編さんを担当した。 息子は幻想画家の藤野一友(別名義で中川彩子)。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
松坂 佐一(まつさか さいち、1898年11月13日 - 2… 松坂 佐一(まつさか さいち、1898年11月13日 - 2000年3月11日)は、日本の民法学者。現在の倉敷市生まれ。名古屋大学名誉教授。従三位勲二等旭日重光章。
黒津 敏行(くろつ としゆき、1898年(明治31年)11月… 黒津 敏行(くろつ としゆき、1898年(明治31年)11月12日 - 1992年(平成4年)11月16日)は、日本の医学者。大阪大学名誉教授。 1898年(明治31年)京都府に生まれる。1916年(大正5年)京都府立京都第二中学校 (旧制)を卒業後。大阪医科大学 (旧制)に進学。1924年(大正13年)に卒業後、同大助手を経て、1931年(昭和6年)同大助教授に就任。1935年(昭和10年)にはロンドンで開催された第二回国際神経学会に出席した。1936年(昭和11年)大阪帝国大学教授、1948年(昭和23年)同大医学部長に就任。1956年(昭和31年)に退官後は園田学園女子短期大学、園田学園女子大学の初代学長をそれぞれ務めた。
川島 桂山(かわしま けいざん、1898年〈明治31年〉11… 川島 桂山(かわしま けいざん、1898年〈明治31年〉11月12日 - 1987年〈昭和62年〉3月4日)は、昭和に活躍した千葉県出身の書家。書道普及会創設者。社団法人日本書道院理事。書道研究温知会名誉理事。本名は川嶋 泰祐(かわしま たいすけ)。 1920年(大正9年)小野鵞堂主宰の書道研究斯華会に入会、1925年(大正14年)小野成鵞および神郡晩秋に師事し直接指導をうけ1952年(昭和27年)から1970年(昭和45年)には豊道春海に書道の薀奥を学んだ。また、世界各地に日本美術を紹介する手助けや、芸術家文化人のチャリティ展などに協力して書道の普及に尽力した。 桂山は1936年(昭和11年)「現代に適応した書道の普及と兼ねて精神の修養に資せんが為」に書道普及会を設立し、会誌「書道普及」を創刊する。
米田 吉盛(よねだ よしもり、1898年〈明治31年〉11月… 米田 吉盛(よねだ よしもり、1898年〈明治31年〉11月10日 - 1987年〈昭和62年〉5月17日)は、日本の教育者。神奈川大学の創立者であり、昭和期の政治家である。衆議院議員(4期)。 1898年(明治31年)11月10日に愛媛県喜多郡満穂村(現:内子町)論田で、村役場の書記を務める父良吉、母サヨシの元に生まれる。しかし、米田が1歳の際に離婚し、祖母であるクマの元で育てられた。尋常小学校を卒業後、京都の呉服屋に丁稚奉公に行く。しかしながら、この丁稚奉公は1年で切り上げ、米田15歳の夏、第一次世界大戦後の景気に沸く台湾・基隆の山本金物店(社長山本勘助)に勤め、数年のうちに責任を任された。
上田 誠一(うえだ せいいち、1898年(明治31年)11月… 上田 誠一(うえだ せいいち、1898年(明治31年)11月10日 - 1969年(昭和44年)1月7日)は、日本の内務・警察官僚、弁護士。官選県知事。 石川県出身。小学校長・上田誠文の長男として生まれる。石川県立金沢第二中学校を卒業。金沢医学専門学校中退を経て、第四高等学校を卒業。1921年10月、高等試験行政科試験に合格。1922年3月、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。同年4月、内務省に入省し、宮城県属となり内務部地方課に配属された。 1923年2月、宮城県警視・警察部警務課長に就任。以後、同保安課長兼工場課長、兵庫県警察部保安課長、同特別高等警察課長、京都府警察部特別高等警察課長、警視庁警視・特別高等警察課長、兼外事課長、警視庁衛生部長を歴任。
堀 武芳(ほり たけよし、1898年11月10日 - 196… 堀 武芳(ほり たけよし、1898年11月10日 - 1968年10月15日)は、日本の経営者、銀行家。日本勧業銀行頭取を務めた。和歌山県出身。 1923年に東京帝国大学独法科を卒業し、同年に日本勧業銀行に入行。1946年に理事に就任し、1950年1月には頭取に就任した。1961年から1962年12月に会長を務めた。1964年には日本銀行政策委員に就任し、全国銀行協会連合会会長も務めた。 1968年10月15日脳血栓のために死去。69歳没。
稲畑 太郎(いなばた たろう、1898年11月9日 - 19… 稲畑 太郎(いなばた たろう、1898年11月9日 - 1988年4月3日)は、昭和時代の日本の実業家。 京都出身。稲畑勝太郎の長男。 1921年(大正10年)、東京高等商業学校(現・一橋大学)を卒業した。1937年(昭和12年)稲畑商店(のちの稲畑産業)取締役社長となる。 1944年(昭和19年)から1946年(昭和21年)まで住友化学工業監査役を務めた。1948年(昭和23年)関西経済同友会代表幹事。1953年(昭和28年)再び住友化学工業監査役に就任。1958年(昭和33年)久保田鉄工監査役に就任。 1959年(昭和34年)再び関西経済同友会代表幹事に就任。1960年(昭和35年)日本国際貿易促進協会関西本部副理事長。
伊藤 四男(いとう かずお、1898年11月8日 - 197… 伊藤 四男(いとう かずお、1898年11月8日 - 1974年3月20日)は日本の柔道家(講道館9段・国際武道院(英語版)名人10段)。 戦後、講道館の中で東京高師閥と共に興盛を誇った三船久蔵閥の主力人物であり、警視庁や日本体育大学、東洋大学等で柔道師範を務めた。その後北米や欧州各国で柔道指導を行い、柔道の国際的発展にも貢献している。 晩年は講道館の9段位に列せられたほか、国際武道院を主宰して師の三船に次ぐ名人10段位を名乗った。 山形県新庄市下金沢町の伊藤家に四男(よんなん)として出生し、警察官を退官後に町役場吏員を務める父・一から柔道の手解きを受けた。後の市立日新小学校を卒業後は1913年に旧制佐世保中学校(後の長崎県立佐世保北高校および同南高校)に入学して柔道を修行、その後は佐世保の海兵隊に進んで同隊在籍中の1920年4月に講道館へ入門した。
宮沢 トシ(みやざわ トシ、旧字体: 宮澤 トシ、1898年… 宮沢 トシ(みやざわ トシ、旧字体: 宮澤 トシ、1898年〈明治31年〉11月5日 - 1922年〈大正11年〉11月27日)は、明治時代から大正時代にかけての日本の女性。詩人・童話作家の宮沢賢治の妹。 宮沢賢治の妹で、彼の理解者の一人であった。日本女子大学校(当時は旧制女子専門学校の扱い)を首席で卒業後、岩手県立花巻高等女学校(現・岩手県立花巻南高等学校)で教員を務めていたが、結核により満24歳で死去した。 彼女の臨終の模様は『永訣の朝』等の賢治の詩に描写され、またその死去は賢治の創作活動に大きな影響を与えたとされる。 なお、名前の「トシ」は戸籍名であるが、賢治の創作や書簡においては「とし子」「敏」といった表記も用いられている。
片山 敏彦(かたやま としひこ、1898年(明治31年)11… 片山 敏彦(かたやま としひこ、1898年(明治31年)11月5日 - 1961年(昭和36年)10月11日)は、日本の詩人、文学研究者、ドイツ文学者、フランス文学者、翻訳家。 ロマン・ロラン、ヘッセ、リルケ、ハイネ、ゲーテらの翻訳も多く、『著作集』全10巻がある。 1898年11月5日、高知県医師会会長・片山徳治の長男として高知市帯屋町に生まれる。母の名は「歌」で、姉・佐栄との4人家族であった。1905年、高知市立第三尋常小学校へ入学、1911年、高知県立第一中学校(現在の追手前高校)に進んだ。多感で、詩に牽かれ、短歌を投稿するなどした。 1916年、岡山市の第六高等学校第3部(医科)に入学し、西欧の哲学、文学を耽読した。
平野 力三(ひらの りきぞう、1898年11月5日 - 19… 平野 力三(ひらの りきぞう、1898年11月5日 - 1981年12月17日)は、日本の農民運動家、政治家。位階は従三位。 国家社会主義者。のち反資本・反ファッショ・反共農民運動の指導者となる。数々の政党結成に関わり「政界の策士」と呼ばれ、戦後も衆議院議員として活動し、片山内閣の農林大臣を務めた。 兄に平野増吉、夫人の平野成子は日本社会党参議院議員。二女の平野義子は「呼び屋」と呼ばれた神彰の後妻となった。三女の平野照子は、民社党で活動した。自由民主党衆議院議員から岐阜県知事を務めた平野三郎は甥にあたる。 1898年(明治31年)11月5日岐阜県郡上郡大和村(現郡上市)に生まれる。1920年(大正9年)拓殖大学中国語科を経て、1923年(大正12年)早稲田大学政経科を卒業する。
季子女王(すえこじょおう、1898年〈明治31年〉11月2日… 季子女王(すえこじょおう、1898年〈明治31年〉11月2日 - 1914年〈大正3年〉7月17日)は、日本の皇族。閑院宮載仁親王の第3女子。母は、三条実美公爵令嬢・智恵子。身位は女王で、皇室典範における敬称は殿下。腎臓病によって、15歳で夭折した。
森山 武彦(もりやま たけひこ、1898年(明治31年)10… 森山 武彦(もりやま たけひこ、1898年(明治31年)10月31日‐ 1964年(昭和39年)4月3日) は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 宮崎県北諸県郡都城町(現都城市)で生まれた。1920年(大正9年)法政大学専門部法律科を卒業。 東京市、都城市に森山航空精工所を設置して経営を行った。その後、木材業を営んだ。 1936(昭和11年)2月の第19回衆議院議員総選挙で宮崎県全県区から中立で立候補したが、最下位で落選。戦後、1946(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙に宮崎県全県区から日本社会党公認で立候補したが落選。1947(昭和22年)4月の第23回総選挙で宮崎県第2区から出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
臼井 茂樹(うすい しげき、1898年(明治31年)10月3… 臼井 茂樹(うすい しげき、1898年(明治31年)10月30日 - 1941年(昭和16年)12月23日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 鹿児島県出身。薩摩郡高江村大字久見崎(現在の薩摩川内市久見崎町)に臼井恕助の息子として生まれる。熊本陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1919年(大正8年)5月、陸軍士官学校(31期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第46連隊付となる。1926年(大正15年)12月、陸軍大学校(38期)を卒業した。 1928年(昭和3年)3月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員、ポーランド・ソビエト連邦駐在、ポーランド兼ルーマニア公使館付武官補佐官、参謀本部員、参謀本部付などを務め、1937年(昭和12年)8月、歩兵中佐に昇進。
小牧 実繁(こまき さねしげ、1898年〈明治31年〉10月… 小牧 実繁(こまき さねしげ、1898年〈明治31年〉10月28日 - 1990年〈平成2年〉2月18日)は、日本の地理学者。京都帝国大学教授、滋賀大学学長等を歴任。滋賀県出身者として最初の文学博士。
大滝 亀代司(大瀧、おおたき きよし、1898年(明治31年… 大滝 亀代司(大瀧、おおたき きよし、1898年(明治31年)10月25日 - 1977年(昭和52年)8月31日)は、大正から昭和期の弁護士、政治家。衆議院議員(1期)、白鷹町名誉町民。 山形県西置賜郡蚕桑村大字山口(現白鷹町大字山口)で大滝利久馬の二男として生まれる。苦学して日本大学法学部を卒業。1923年(大正12年)弁護士試験に合格した。 東京で弁護士を開業。全日本弁護士会理事、第一東京弁護士会常議員となる。また、大興社取締役社長を務めた。 1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙に山形県全県区から日本自由党公認で出馬して次点で落選。1947年(昭和22年)4月の第23回総選挙に山形県第1区から出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
川口 寿(かわぐち ひさし、1898年(明治31年)10月2… 川口 寿(かわぐち ひさし、1898年(明治31年)10月25日 - 1984年(昭和59年)6月28日)は、日本の政治家。 富山県出身。1923年(大正12年)、明治大学卒業。大東文化協会常任幹事、東京市議、同参事会員、東京府議、明治大学評議員、日本共栄社長、外務省嘱託などを歴任し、1942年(昭和17年)に行われた第21回衆議院議員総選挙(いわゆる「翼賛選挙」)において、東京2区から翼賛政治体制協議会の推薦を受け、立候補し、衆議院議員に当選した(所属は翼賛政治会→大日本政治会→日本進歩党)。戦後、推薦議員のため公職追放となった。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。