笹川 恵三(ささがわ けいぞう、1906年3月29日 - 没… 笹川 恵三(ささがわ けいぞう、1906年3月29日 - 没年不詳)は、日本の俳優。東京府荏原郡目黒村(現:東京都目黒区)出身。劇団同志座創立メンバーの一人。
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笹川 恵三(ささがわ けいぞう、1906年3月29日 - 没… 笹川 恵三(ささがわ けいぞう、1906年3月29日 - 没年不詳)は、日本の俳優。東京府荏原郡目黒村(現:東京都目黒区)出身。劇団同志座創立メンバーの一人。
伊藤 真乗(いとう しんじょう、本名:伊藤 文明、1906年… 伊藤 真乗(いとう しんじょう、本名:伊藤 文明、1906年(明治39年)3月28日 - 1989年(平成元年)7月19日)は、日本の宗教家。真如苑開祖。 山梨県北巨摩郡秋田村(現:北杜市長坂町)出身。妻は真如苑初代苑主の伊藤友司。娘は真如苑2代苑主の伊藤真聰。 山梨県北巨摩郡秋田村(現:北杜市長坂町)で伊藤文二郎と母・よしえの次男として生まれる。少年期は天理教信者であった母の影響で天理教に親しみ、曹洞宗の禅寺の檀家総代であった父からは、禅と家伝の易学「甲陽流病筮鈔(びょうぜいしょう)」を学んだ。 1923年(大正12年)、父の死去に際し、上京。東京中央電信局(現・NTT)購買部に勤務するかたわら夜学に励む。
島崎 千里(しまざき せんり、1906年(明治39年)3月2… 島崎 千里(しまざき せんり、1906年(明治39年)3月28日-1981年(昭和56年)12月26日)は、日本の実業家。電通顧問、日本マーケティング協会初代理事長。広告業界の実力者、アイディアマンとして知られ、広告の正常化・近代化に努めた。 鹿児島県熊毛郡南種子村生まれ。1918年(大正7年)仁川尋常小学校卒業、1923年(大正12年)鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)卒業、1926年(大正15年)第七高等学校造士館 (旧制)卒業。1929年(昭和4年)に東京帝国大学経済学部を卒業後、イギリスに留学。帰国後、日本生命保険を経て産業經済新聞に入社。戦時中は軍に3度応召され、中支、南支、ビルマ、シンガポールなどの戦線に赴き、韓国で歩兵太尉として終戦を迎える。
田部 武雄(たべ たけお、1906年3月28日 - 1945… 田部 武雄(たべ たけお、1906年3月28日 - 1945年6月)は、広島県広島市袋町(現在の中区)生まれのプロ野球選手(内野手、外野手、投手)。大日本東京野球倶楽部→東京巨人軍創成期の1番打者、主将。巨人で最初に背番号3を着けた選手(現在永久欠番となっている1と3を両方着けた唯一の選手でもある)[3][4]。戦死した日本のプロ野球選手の一人。
松野 幸吉(まつの こうきち、1906年 <明治39年> 3… 松野 幸吉(まつの こうきち、1906年 <明治39年> 3月28日 - 1989年 <平成元年> 1月30日)は、日本の経営者。日本ビクター社長、会長を務めた。位階は正四位。 兵庫県神戸市出身。1933年に関西大学法学部を卒業し、同年に松下電器産業に入社。1944年8月に取締役に就任し、1963年1月に常務を経て、1973年11月に日本ビクター社長に就任した。1979年6月から会長を務めた。 1971年4月に藍綬褒章を受章し、1976年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 1989年1月30日、肺炎のために死去。82歳没。死没日付をもって正四位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
松井 政吉(まつい まさきち、1906年(明治39年)3月2… 松井 政吉(まつい まさきち、1906年(明治39年)3月27日 - 1993年(平成5年)9月19日)は、日本の政治家。日本社会党衆議院議員(当選6回)。日本対外文化協会理事長、日本電信電話公社経営委員会委員。 新潟県南魚沼郡五十沢村(現南魚沼市)生まれ。1930年、専修大学卒業。日本運輸労働組合組合長など労組幹部を歴任。1933年、社会大衆党中央執行委員。1949年、第24回衆議院議員総選挙に福島3区から出馬し当選。以後当選6回。この間、衆議院逓信委員長、社会党の労働部長、農民部長、組織部長などを歴任。社会党の左右分裂時代は右派社会党に所属していた。 1966年、ソ連政府の提案によるソ連・東欧との交流組織、日本対外文化協会(対文協)を松前重義、石原萠記らとともに設立。
坂本 吉勝(さかもと よしかつ、1906年3月27日 - 1… 坂本 吉勝(さかもと よしかつ、1906年3月27日 - 1989年1月25日)は、日本の弁護士。最高裁判所判事。東京都出身。 1931年(昭和6年)11月に東北帝国大学在学中に高等文官試験司法科に合格し、翌1932年3月に同大学法文学部を卒業。同年10月に弁護士を登録して、第二東京弁護士会に所属。 戦時中は軍に召集されるも、終戦により復員。その後、閉鎖期間生理委員会法律室長や司法研修所民事教官を務めた。 1971年(昭和46年)12月7日に最高裁判事となる。就任の際には「大きな勉強をしたとか、積み重ねがあるわけではないので、懸命に微力を尽くすのみです」と話した。 1976年(昭和51年)3月に定年退官した。
中條 晴夫(ちゅうじょう はるお、1906年(明治39年)3… 中條 晴夫(ちゅうじょう はるお、1906年(明治39年)3月27日 - 1995年(平成7年)5月17日)は、日本の実業家。元百十四銀行頭取、中條文化振興財団設立者。 1906年(明治39年)3月27日、香川県高松市に生まれる。1928年(昭和3年)に法政大学法文学部法律科を卒業する。 1929年(昭和4年)に百十四銀行に入行し、営業部次長、取締役を経て、1948年(昭和23年)に常務に就任する。 1952年(昭和27年)に専務、1959年(昭和34年)10月に副頭取、1975年(昭和50年)12月に頭取、1979年(昭和54年)12月に会長に就任し、1989年(平成1年)6月に取締役相談役に退く。
松山 英夫(まつやま ひでお、1906年3月27日 - 19… 松山 英夫(まつやま ひでお、1906年3月27日 - 1986年4月11日)は、日本の映画プロデューサー、実業家である。マキノトーキー製作所企画部長、大映専務取締役、ダイニチ映配取締役社長を歴任した。和製英語「ゴールデンウィーク」と「シルバーウィーク」の名付け親として知られる。 1906年(明治39年)3月27日、愛知県宝飯郡蒲郡町(現在の同県蒲郡市)に生まれる。 1928年(昭和3年)、関西学院を卒業する。 満29歳であった1935年(昭和10年)12月末、太秦帷子ヶ辻中開町(現在の右京区太秦堀ヶ内町)に、牧野省三の長男であるマキノ正博がトーキー(映音式)のための新しい撮影所を建設した新会社、マキノトーキー製作所を設立、これに入社して「企画部長」に就任、翌年1936年(昭和11年)1月、同社の陣容を発表した際に名を連ね、同部のメンバーには岡本潤、中川信夫、坂田重則らがいた。
山野 種松(やまの たねまつ、1906年 <明治39年> 3… 山野 種松(やまの たねまつ、1906年 <明治39年> 3月26日 - 1995年 <平成7年> 12月23日)は、日本の経営者。レンゴー社長を務めた。位階は正五位。 大阪府出身。1931年に京都帝国大学経済学部を卒業し、同年にレンゴーに入社。1947年に監査役に就任し、1950年に取締役、1960年11月に常務、1962年5月に専務を経て、1963年11月に社長に就任。1973年2月に会長に就任し、1984年6月に相談役に就任。 1978年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1995年12月23日肺炎のために死去。89歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
大須賀 力(おおすか つとむ、1906年3月26日 - 20… 大須賀 力(おおすか つとむ、1906年3月26日 - 2009年7月24日)は、日本の彫刻家。1979年、勲四等瑞宝章受章。1994年、千葉県市川市名誉市民。多くの彫刻作品が市川市内施設、千葉県内各地に設置されている 。 1906年、東京都千代田区生まれ。 1923年、東京高等工芸学校彫刻部に入学。1926年、東京美術学校(現:東京芸術大学)彫刻科塑像部に入学。学科は異なるものの、同期には加藤栄三、東山魁夷らがいる。1928年、千葉県市川市に移住。 1930年、東京美術学校に在学中の第11回帝展に初入選し、その後毎回出品する。1931年東京美術学校卒業。建畠大夢に師事。1932年の『首飾りの女』が第13回帝展の特選を受賞。
第23代 田部 長右衛門(たなべ ちょうえもん、1906年(… 第23代 田部 長右衛門(たなべ ちょうえもん、1906年(明治39年)3月25日 - 1979年(昭和54年)9月15日)は、日本の実業家、政治家、芸術家。衆議院議員。島根県知事。位階は従三位。勲一等瑞宝章。 奥出雲の山林大地主で「たたら御三家」の一つ「田部家」の第23代当主。名は朋之。号は松露亭。茶室「明々庵」の再建や「田部美術館」の設立など文化振興にも尽力した。竹下登元首相も彼が支援した政治家の一人である。 祖父と同じ部屋で寝起きしていたため、大ダンナ教育は早朝から始められた。夜も明けぬ暗いうちに起こされ、武士の出で養子だった祖父の長秋から毎日昔の武士気質を聞かせられたという。 若い頃、女優司葉子の父・庄司繁二郎に良いことも悪いこと(遊ぶこと)もしょっちゅう連れ歩いてもらって教わったこともあり司の姉妹揃って大いに可愛がった。
市川 泰治郎(いちかわ たいじろう、1906年3月25日 -… 市川 泰治郎(いちかわ たいじろう、1906年3月25日 - 没年不詳)は、日本の経済・思想史研究者。 横浜市生まれ。東京商科大学本科卒。国立国会図書館勤務、国際事業部長、拓殖大学教授。77年定年、名誉教授。城西大学教授。
伊藤 実雄(伊藤 實雄、いとう じつお、1906年(明治39… 伊藤 実雄(伊藤 實雄、いとう じつお、1906年(明治39年)3月25日 - 1984年(昭和59年)4月4日)は、昭和期の農業指導者、政治家。衆議院議員、広島県安芸郡熊野町長。 広島県安芸郡熊野村(現熊野町)で、伊藤忠兵衛の息子として生まれた。1938年(昭和13年)私立山陽中学校(現山陽高等学校)を卒業した。 農業を営む。熊野町会議員、同町長、同町農業会長、広島県農業中央会初代会長、全国農業会議所副会長などを務めた。 1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙で広島全県区に無所属で出馬して当選し、日本農民党に所属して衆議院議員に1期在任した。その後、1959年(昭和34年)6月の第5回参議院議員通常選挙で広島県地方区に無所属で立候補したが次点で落選した。
河野 鷹思(こうの たかし、本名・河野孝、1906年3月21… 河野 鷹思(こうの たかし、本名・河野孝、1906年3月21日 - 1999年3月23日)は、日本のグラフィックデザイナー、エディトリアルデザイナー。愛知県立芸術大学名誉教授。日本における商業デザインの草分けの1人。 東京都神田出身。1929年に東京美術学校(現・東京芸術大学)図案科卒業。同年松竹の宣伝部に入り、その後、ポスター、舞台美術、衣裳(コスチューム)、パッケージ、ディスプレイ、(屋外の)サインなど、幅広いデザインをこなした。 名取洋之助の日本工房にも参加し、雑誌NIPPONのレイアウト、グラフィックデザイン等も担当した。 1940年から1941年にかけては、日本写真工芸社に参加し、『VAN』と『NDI』という対外宣伝誌のデザインを担当した。
小酒井 義男(こざかい よしお、1906年〈明治39年〉3月… 小酒井 義男(こざかい よしお、1906年〈明治39年〉3月21日 - 1993年〈平成5年〉6月21日)は、昭和期の労働運動家、政治家。参議院議員(3期)。 岐阜県郡上郡八幡町(現郡上市)出身。1918年(大正7年)八幡町尋常小学校を卒業した。 1927年(昭和2年)美濃電気軌道(現名古屋鉄道)に入社。1945年(昭和20年)名古屋鉄道労働組合の結成に参画し同執行委員長となる。1947年(昭和22年)日本私鉄労働組合総連合会(私鉄総連)中央執行副委員長に就任。日本労働組合総同盟(総同盟)愛知県連会長なども務めた。 1946年(昭和21年)日本社会党に入党し、同党岐阜県連会長などを歴任。1950年(昭和25年)6月の第2回参議院議員通常選挙で全国区に社会党公認で出馬して当選し、以後、第4回、第6回通常選挙で再選され、参議院議員に連続3期在任した。
高山 岩男(こうやま いわお、1905年(明治38年)4月1… 高山 岩男(こうやま いわお、1905年(明治38年)4月18日 - 1993年(平成5年)7月7日)は、日本の哲学者。京都帝国大学教授・神奈川大学教授・日本大学教授・東海大学教授、秋田経済法科大学学長を歴任。 1905年、山形県山形市で生まれた。1918年、山形県立山形中学校(現・山形県立山形東高等学校)に入学。1925年、山形高等学校を卒業。西田幾多郎、田辺元の著書に触発され、京都帝国大学文学部哲学科に入学。当時の文学部には西田幾多郎、波多野精一、田辺元、和辻哲郎らが教員として在籍しており、京都学派の全盛期であり、特に田辺から多大な影響を受けた。西田幾多郎からは俊秀と評され、京都帝国大学を首席卒業した。
中川 信夫(なかがわ のぶお、1905年4月18日 - 19… 中川 信夫(なかがわ のぶお、1905年4月18日 - 1984年6月17日)は、日本の映画監督。 怪談映画の名手として知られる。 1905年(明治38年)4月18日、京都市洛西の嵯峨二尊院門前町に生まれる。父・中川竹次郎は嵐山の料理旅館「嵐峡館」のシン(板前の主任)、母・ソノは同旅館の仲居頭だった。橘尋常小学校卒業後、兵庫県の旧制育英商業学校(現在の育英高等学校)に入学。1924年(大正13年)卒業。文学者になることを目指し同人誌『幻魚』に小説を執筆するが、文学者になるには大学を出ていなければ駄目だと思いその道をあきらめ、映画の道に進む。 キネマ旬報読者寄書欄の素人映画評論家を経てマキノ・プロダクションに入社し、助監督となる。
有沢 忠一(ありさわ ただいち、1905年(明治38年)4月… 有沢 忠一(ありさわ ただいち、1905年(明治38年)4月16日 - 1990年(平成2年)9月27日)は、元三菱瓦斯化学株式会社社長、同社会長、元日本瓦斯化学工業株式会社社長、元株式会社有沢製作所社長、同社会長 その他、沢製作所株式会社会長、東邦天然ガス株式会社取締役、三菱製紙株式会社顧問、天然ガス鉱業会顧問を歴任した。墓所は多磨霊園。
黒田 秀俊(くろだ ひでとし、1905年4月15日-1989… 黒田 秀俊(くろだ ひでとし、1905年4月15日-1989年6月14日)は、日本のジャーナリスト、社会運動家。 静岡県下田市出身。明治大学政治経済学科中退、明治大学新聞高等研究科修了。 1938年中央公論社入社、42年南方派遣、のち「中央公論」編集長となり、44年横浜事件及び改造社、中央公論社解散に遭遇。 戦後は原水協事務局長、基地問題文化人懇談会事務局長、日本平和委員会常任理事などを務め、晩年は東京都中野区の教育委員準公選運動などに関わった。
水田 三喜男(みずた みきお、1905年〈明治38年〉4月1… 水田 三喜男(みずた みきお、1905年〈明治38年〉4月13日 - 1976年〈昭和51年〉12月22日)は、日本の政治家。位階は従二位。城西大学創立者。自由民主党政務調査会長(初代)。大蔵大臣を数度にわたり務めたほか、経済審議庁長官や通商産業大臣など経済閣僚を歴任した。戦後日本の代表的な財政家でもある。 千葉県安房郡曽呂村(現・鴨川市)出身。水田家は400年ほど前に讃岐(現在の香川県)の地から移住してきた家系とされる。祖父・竹蔵、父・信太郎はいずれも村長を務めた。旧運輸事務次官と日本航空副社長を務めた町田直は妻の実弟である。実家は、旧水田家住宅として保存されている。 旧制安房中学校(現・千葉県立安房高等学校)、旧制水戸高等学校(茨城大学の前身校)を卒業し、東京帝国大学を当初は志望したが、学生連合会の要請で親友の宇都宮徳馬とともに京都帝国大学(法学部)に入学した。
八百板 正(やおいた ただし、1905年4月12日 - 20… 八百板 正(やおいた ただし、1905年4月12日 - 2004年4月23日)は、日本の農民運動家、政治家。衆議院議員(11期)、参議院議員(2期)。日本社会党副委員長を歴任。 福島県伊達郡飯野村(飯野町を経て現福島市)に生まれる。福島中学校(現福島県立福島高等学校)を経て、早稲田大学専門部法科卒業。旧制中学の恩師だった阪本勝(後の衆議院議員、兵庫県知事)を頼り、安部磯雄らの日本フェビアン協会に参加。河上丈太郎、賀川豊彦、櫛田民蔵の知遇を得る。日本労農党、社会大衆党などに参加して無産政党運動をする。1929年に郷里に帰って東北新人会を結成、伊達郡を中心に小作争議を指導し度々投獄される。1933年に全国農民組合(全農)中央委員に選出。
浜田 禎介(はまだ ていすけ、1905年〈明治38年〉4月1… 浜田 禎介(はまだ ていすけ、1905年〈明治38年〉4月11日 - 没年不明)は、日本の政治家、実業家。熱海市議会議員。相模屋社長。伊豆山観光協会長。 新潟県・須山斌二郎の三男。1927年、早稲田大学政治経済学部政治学科を卒業。東京大北電信会社に勤務。相模屋旅館・浜田三郎の養子となる。養父経営の相模屋旅館を継承する。1947年、熱海市議に当選。 教育委員長、早大稲門会会長、ユネスコ理事長に挙げられる。1948年、家業の相模屋を株式に改組と共に専務に就任。1955年、熱海商工会議所副会頭に就任。 宗教は真言宗。趣味は絵画、野球、乗馬、ゴルフ、カメラ、登山。住所は静岡県熱海市伊豆山。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
吉川 久衛(きっかわ きゅうえ、1905年4月10日 - 1… 吉川 久衛(きっかわ きゅうえ、1905年4月10日 - 1978年6月20日)は農業協同組合運動の推進者、衆議院議員。 長野県上伊那郡飯島村生まれ。赤穂村立公民実業学校(長野県赤穂高等学校)を経て、1932年に明治大学法学部英法学科卒業。同年農林省(現・農林水産省)に入省し大臣官房吏員、興農合作社中央会科長、中央農業会課長、戦時農業団秘書役などを歴任した。戦時中は満洲に5年間派遣された。 1947年の第23回衆議院議員総選挙を皮切りに長野県第3区から出馬し、断続的に計8回当選した。 衆議院では農林政務次官(第2次鳩山一郎内閣)、農林水産・決算・地方行政の各常任委員長などを歴任し、農業基本法・農業管理法の制定、農協共済制度・農林年金制度の確立などに功績があった。
北根 貞雄(きたね さだお、1905年4月10日 - 198… 北根 貞雄(きたね さだお、1905年4月10日 - 1987年9月19日)は、日本の経営者。兵庫県出身。 1927年に名古屋高等商業学校を卒業し、同年に愛知銀行に入行。 1955年に取締役に就任し、1958年11月に常務、1961年5月に専務を経て、1962年5月に中央信託銀行副社長に就任し、1965年12月には社長に昇格。1970年12月に会長に就任し、1975年12月に取締役相談役を経て、1978年6月に相談役に就任。 1975年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1987年9月19日呼吸不全のために死去。82歳没。
松尾 信人(まつお のぶと 、1905年〈明治38年〉4月9… 松尾 信人(まつお のぶと 、1905年〈明治38年〉4月9日 - 1990年〈平成2年〉9月19日)は、日本の政治家。公明党衆議院議員(2期)。 長崎県長崎市生まれ。1928年(昭和3年)、長崎高等商業学校(現・長崎大学経済学部)卒業。同年、長崎税関に入った。長崎税関総務部長、離島振興対策審議会委員を務めた。1969年(昭和44年)の第32回衆議院議員総選挙で長崎1区に公明党から出馬し、初当選。以後連続2期務める。同年の選挙には立候補せずに引退した。 その他、創価学会副理事長や中央選挙管理会予備委員務めた。 1990年(平成2年)9月19日、心不全のため東京都千代田区の東京警察病院で死去した。
星 克(ほし かつ、1905年4月9日 - 1977年5月2… 星 克(ほし かつ、1905年4月9日 - 1977年5月25日)は、戦前の沖縄県の教育者で、沖縄群島政府、琉球政府及び沖縄県の政治家。沖縄県石垣市出身。 戦前の教職時代に沖縄民謡「安里屋ユンタ」を基に「新安里屋ユンタ」を作詞したことでも知られる。 1905年(明治38年)4月9日生まれ。1922年(大正11年)に石垣島の白保尋常高等小学校代用教員となる。戦前は教育界に身を置いた。 沖縄戦後は大浜町に就職し、収入役・助役・町長の三役を務めた後、八重山群島議会議員に就任。そして琉球政府発足後の第2回立法院議員総選挙で初当選した。 琉球政府立法院では、当時の保守政党であった沖縄自由民主党の重鎮として活躍する。
倭島 英二(わじま えいじ、1905年4月8日 - 1982… 倭島 英二(わじま えいじ、1905年4月8日 - 1982年4月6日)は、昭和時代の日本の外交官。 鳥取県出身。東京帝国大学法学部在学中の1928年(昭和3年)、外交官試験に合格。翌年外務省入省。米国、中華民国、興亜院、本省政務局勤務などを経て、1942年(昭和17年)11月、中華民国駐在大使館の1等書記官で赴任。1945年(昭和20年)2月、大臣官房会計課長。同年8月より終戦連絡中央事務局第4部長・名古屋事務局長等を務めた後、1948年(昭和23年)1月より本省管理局長として引揚げ推進のためGHQなどとの折衝に尽力した。 アジア局の復活に伴い1951年(昭和26年)12月、同局長。1953年(昭和28年)11月、特命全権公使に任命され、同年12月より日本・インドネシア国交樹立、賠償、その他懸案事項の処理交渉を行う。
ジョン・ムーア・アリソン(John Moore Alliso… ジョン・ムーア・アリソン(John Moore Allison, 1905年4月7日 - 1978年10月28日)は、アメリカ合衆国の外交官。駐日大使、駐インドネシア大使、駐チェコスロヴァキア大使を歴任した。
大野 勝巳(おおの かつみ、1905年4月6日 - 2006… 大野 勝巳(おおの かつみ、1905年4月6日 - 2006年9月1日)は、北海道浜中町出身の外交官。駐英大使、外務事務次官、帝国ホテル社長、日英協会理事長、日本国際問題研究所理事長など歴任した。勲一等瑞宝章受章。 北海道釧路支庁管内浜中町の貧しい酪農家で産まれる。旧制立教中学、東京外国語学校(東京外国語大学の前身)を経て、1929年(昭和4年)京都帝国大学経済学部卒。同年外務省に入省し、外交官補としてドイツに駐在。同期に朝海浩一郎(終戦連絡事務局長官、駐米大使)、山田久就(事務次官、駐ソ大使、環境庁長官)など。外相兼大東亜相秘書官・終戦連絡中央事務局賠償部長、外務省管理局長などを経て、1948年総務局長、翌年政務局長。
太田 三郎(おおた さぶろう、1905年4月5日 - 197… 太田 三郎(おおた さぶろう、1905年4月5日 - 1978年7月19日)は、日本の外交官、政治家。初代公選横須賀市長を経て、駐ビルマ特命全権大使、駐ポーランド特命全権大使、駐オーストラリア特命全権大使を歴任した。 茨城県出身。1925年第五高等学校文科甲類卒業。1928年東京帝国大学法学部卒業、外務省入省。1930年任外交官補、英国在勤。1931年在シドニー領事館補。1937年在ソビエト連邦大使館三等書記官。1940年外務省欧亜局第三課長。1943年外務省調査局第三課長。 1945年8月ポツダム宣言による終戦受諾により終戦連絡中央事務局第三部長、9月2日、ミズーリの艦上での降伏文書調印式では日本側全権団随員で参列した。
寺尾 威夫(てらお たけお、1905年4月5日 - 1974… 寺尾 威夫(てらお たけお、1905年4月5日 - 1974年5月25日)は、日本の実業家。大和銀行元頭取、会長。奈良県吉野郡十津川村出身。 1929年に東京帝国大学法学部を卒業し、野村銀行(のちの大和銀行、統合により、現在はりそな銀行となる。)に入行した。 1947年1月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1950年8月には社長に就任し、1951年11月からは大和銀行頭取を務め、1973年4月からは会長を務めた。頭取在職中に、1965年に大蔵省から行政指導により、信託業務を分離するように命令を受けたが、これを拒否し、信託併営を堅持した。 その一方で、関西経済同友会幹事、大阪商工会議所副会頭などを歴任した。
野村 正二郎(のむら しょうじろう、旧姓:杉村(すぎむら)、… 野村 正二郎(のむら しょうじろう、旧姓:杉村(すぎむら)、1905年4月4日 - 1975年1月15日)は、大阪府大阪市出身の科学者、大学教授およびサッカー選手。男爵。 父は杉村倉庫創業者の杉村正太郎、弟は阪急電鉄常務を務めた杉村正三郎であり、大阪商工会議所初代会頭の五代友厚が母方の祖父に当たる。 大阪府立天王寺中学校(現:大阪府立天王寺高等学校)を卒業後、早稲田大学に入学してア式蹴球部に所属。在学中の1927年に第8回極東選手権大会のサッカー日本代表に選出され、8月27日の中華民国代表で代表初出場を果たした。 男爵を叙爵した野村維章を祖とする野村家に大学を卒業する前に養子に入って野村姓に改名し、1928年2月2日に男爵を襲爵した。
神谷慶治(かみや けいじ、1905年4月2日 - 1998年… 神谷慶治(かみや けいじ、1905年4月2日 - 1998年10月26日)は、日本の農業経済学者。東京大学名誉教授。 静岡県掛川市生まれ。1931年東京帝国大学農学部農業経済学科卒、1932年同副手となり、1935年講師、1939年助教授、1948年教授となり、東京大学農学部教授、1962年農学部長を務め、1966年定年退官、名誉教授、東京農業大学教授、1976年退職。そのほか、1951年農林省農業綜合研究所長。1974-1979年大日本報徳社社長。日本農業経済学会会長、日本農村更生協会会長を務めた。日本学術会議会員。1960年「日本農業機械化の分析」(共編)で日経・経済図書文化賞、1968年日本農学賞受賞。
湊 顯(湊 顕、みなと あきら、1905年(明治38年)4月… 湊 顯(湊 顕、みなと あきら、1905年(明治38年)4月2日 - 1992年(平成4年)3月20日)は、日本の薬学者。薬学博士。専門は臓器薬化学。北海道薬科大学初代学長。千葉大学名誉教授。位階は従三位。 岩手県生まれ。1930年(昭和5年)東京帝国大学医学部薬学科卒業。同年、同医学部助手。1937年(昭和12年)東京薬学専門学校講師。1942年(昭和17年)千葉医科大学薬学専門部教授。1951年(昭和26年)千葉大学薬学部教授。1962年(昭和37年)同薬学部長。1974年(昭和49年)千葉大学停年退官。同名誉教授。北海道薬科大学初代学長に就任。1984年(昭和59年)北海道薬科大学退職。1992年死去。
福山 敏男(ふくやま としお、1905年4月1日 - 199… 福山 敏男(ふくやま としお、1905年4月1日 - 1995年5月20日)は、日本の建築史家。京都大学名誉教授。 1905年、福岡県山門郡城内村(現柳川市)で生まれた。第五高等学校を経て、京都帝国大学工学部建築学科に進学。1927年に卒業。 修了後は、内務省造神宮使庁嘱託に採用された。1939年、京都帝国大学から工学博士の学位を取得。1942年、文部技師に昇格として宗教局に勤務。のち教化局総務課勤務を経て、1943年11月1日付けで教学局文化課勤務。 1947年より東京国立博物館附属美術研究所(東京国立文化財研究所)に勤務。1951年より同所資料部長、1954年より同所美術部長。1959年、京都大学教授に転じた。
磯部 浅一(いそべ あさいち、1905年(明治38年)4月1… 磯部 浅一(いそべ あさいち、1905年(明治38年)4月1日 - 1937年(昭和12年)8月19日)は、日本の陸軍軍人、皇道派青年将校。 陸軍幼年学校、陸軍士官学校(38期)を経て陸軍歩兵将校となるが、中尉の時に経理部に転科した。陸軍一等主計の時に、陸軍士官学校事件により停職、「粛軍に関する意見書」配布により免官となった。二・二六事件において決起将校らと行動を共にし、軍法会議で死刑判決を受けて刑死した。 1905年(明治38年)4月1日、山口県大津郡菱海村(現長門市)河原に農業兼左官磯部仁三郎の三男として生まれる。 高等小学校、広島陸軍幼年学校、陸軍士官学校予科を経て、1926年(大正15年)7月に陸軍士官学校(38期)を卒業する。
村田 禎介(むらた ていすけ、1905年3月31日 – 19… 村田 禎介(むらた ていすけ、1905年3月31日 – 1969年12月22日)は、日本の実業家。村田機械創業者。旧姓:岩城。 明治38年(1905年)小浜市湯岡、岩城喜左衛門の3男として出生。大正8年 – 今富尋常高等小学校高等科卒業、嶋長商店入店。 大正9年 – 京都市 村田直商店入店。昭和8年 – 村田家入籍、同社専務。昭和10年 – 西陣ジャカード機製作所設立。 昭和14年 – 東亜機械製造株式会社設立。昭和20年 – 村田繊維機械株式会社、村田産業株式会社設立。 昭和37年 – 村田機械株式会社設立、京都商工会議所副会頭、会頭代行。 昭和42年 – 藍綬褒章受章、機械振興協会賞受賞。昭和44年(1969)- 12月22日死去、勲三等瑞宝章受章、京都南禅寺に葬る。
織田 幹雄(おだ みきお、1905年(明治38年)3月30日… 織田 幹雄(おだ みきお、1905年(明治38年)3月30日 - 1998年(平成10年)12月2日)は、日本の陸上選手、指導者。広島県安芸郡海田町出身。1928年アムステルダムオリンピック三段跳金メダリスト。 「日本人初のオリンピック金メダリスト」であり、アジア人初のオリンピック金メダリストでもある。織田の金メダルにより、日本陸上は一躍世界の第一線に躍り出たと言われる。当時英語で「ホップ・ステップ・アンド・ジャンプ」(現在はトリプルジャンプ)と呼ばれた競技名を「三段跳」と訳した。早稲田大学時代に競技会のプログラムを作る際、織田が「三段跳」と訳した。三段跳では、織田(1928年五輪)・南部忠平(1932年五輪)・田島直人(1936年五輪)と3大会連続で金メダルを獲得したことから、当時は、「日本のお家芸」とも言われた。
高橋 順吉(たかはし じゅんきち、1905年 <明治38年>… 高橋 順吉(たかはし じゅんきち、1905年 <明治38年> 3月30日 - 1985年 <昭和60年> 6月20日)は、日本の銀行家。十六銀行頭取を務めた。位階は正五位。 岐阜県出身。1928年に京都帝国大学経済学部を卒業し、1930年に赤坂銀行に入行。1942年5月に十六銀行に転じ、1948年6月に取締役、1953年4月に常務、1954年6月に専務を経て、1958年2月副頭取に就任し、1963年2月小寺勝昌頭取の急逝に伴い頭取に昇格。1984年3月に会長に就任。 1969年10月に藍綬褒章を受章し、1975年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1985年6月20日呼吸不全のために死去。80歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
巽 盛三(たつみ もりぞう、1905年 <明治38年> 3月… 巽 盛三(たつみ もりぞう、1905年 <明治38年> 3月30日 - 1990年 <平成2年> 11月8日)は、日本の経営者。山陽放送社長を務めた。位階は正五位。 広島県出身。1926年に和歌山高等商業学校を卒業。倉敷紡績、倉敷レーヨンでの勤務を経て、1953年4月に山陽放送常務に就任し、専務を経て、1965年5月には社長に就任した。1974年5月に会長に就任し、1977年6月に取締役相談役を経て、1981年6月に相談役に退いた。 1969年9月に藍綬褒章を受章し、1975年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 1990年11月8日、呼吸不全のために死去。85歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
村井 正誠(むらい まさなり、明治38年(1905年)3月2… 村井 正誠(むらい まさなり、明治38年(1905年)3月29日 - 平成11年(1999年)2月5日)は、明治 - 平成時代の洋画家。岐阜県大垣市出身。新宮市名誉市民。武蔵野美術大学名誉教授。閉校した文化学院および文化学院芸術専門学校(埼玉県庄和町)講師。元日本美術家連盟理事長。 抽象絵画の草分けの一人として活躍した。作品にシリーズ「URBAIN」などがある。 岐阜県に生まれ、村井昌澄と、とみゑの次男。眼科医のであった父の転勤によって、幼少期を和歌山県東牟婁郡新宮町(現・新宮市)で過ごす。新宮第一尋常小学校3年生の頃にスケッチをしている西村伊作(後に入学する文化学院の創設者)に出逢う。西村の作品を後ろから覗き見た経験が美術に対して興味を持つきっかけの一つになる。
上野 次郎男(うえの じろうお、1905年 <明治38年> … 上野 次郎男(うえの じろうお、1905年 <明治38年> 3月29日 - 1971年 <昭和46年> 8月25日)は、日本の経営者。積水化学工業社長、積水ハウス産業代表取締役を務めた。位階は正五位。勲三等瑞宝章。 鹿児島県川内市(現在の薩摩川内市)出身。1927年に東京帝国大学経済学部を卒業。報知新聞社での勤務を経て、日本窒素肥料に転じた。1947年に取締役に就任し、1951年2月に再び取締役に就任し、同年9月に積水化学工業社長に就任し、1960年8月に積水ハウス産業代表取締役に就任した。その一方で、讀賣テレビ放送取締役、関西経済連合会理事も務めた。 1957年に紺綬褒章を受章し、1963年に藍綬褒章を受章した。
藪田 嘉一郎(やぶた かいちろう、1905年3月28日 - … 藪田 嘉一郎(やぶた かいちろう、1905年3月28日 - 1976年1月13日)は、日本の編集者・歴史家。出雲国風土記偽書説など大胆な新説を唱え、松本清張が師事した在野の古代史家として知られる。 京都市生まれ。1924年京都市立第一商業学校専修科卒業。1925年京都帝国大学文学部史学科選科入学、1928年中退。 1928年至誠堂に入社し、1932年飛鳥園、1933年日出芸林社と転籍し、書籍の編集者として活躍する。1934年株式会社便利堂に入社し、1950年同社取締役に就任。1951年に退社。同年、自ら綜芸舎(綜芸種智院に因む)を創立する。この間、文献、美術、石造文化財などの史資料を使った古代史研究や能楽研究、易学研究の著作・論文を公刊した。
大久保 泰(おおくぼ たい、1905年3月28日 - 198… 大久保 泰(おおくぼ たい、1905年3月28日 - 1989年1月29日)は、日本の洋画家、美術評論家。愛知県出身。早稲田大学卒。山本鼎に油絵を学び、1931年、ヨーロッパ留学。帰国後国画会展、春陽会展に出品。1939年以後、独立展に出品、「裸婦」で岡田賞を受賞。風景画を得意とした。
秋田嶽 由藏(あきただけ よしぞう、1905年3月27日 -… 秋田嶽 由藏(あきただけ よしぞう、1905年3月27日 - 1940年11月27日)は、秋田県横手市出身で春日野部屋に所属した元大相撲力士。本名は松岡 由蔵。最高位は十両4枚目。 春日野部屋に入門し、1925年1月初土俵を踏む。番付を上げ、1932年1月には幕下上位に上がった。番付発表直後に起きた春秋園事件で大量の幕内十両の脱退者が出たため、その穴埋めのため東十両7枚目に昇進した。新十両の場所とその翌場所はともに3勝止まりと振るわず、幕下に落ちた。1933年1月に再十両で6勝5敗と初めて勝ち越した。3場所連続十両にいて、一度幕下に落ちるが1935年1月に十両に復帰、4場所連続在位した。その後再び幕下に落ち、「千雄山」と改名したが、1939年1月に廃業。
三宅 宗悦(みやけ むねよし、1905年(明治38年)3月2… 三宅 宗悦(みやけ むねよし、1905年(明治38年)3月26日 - 1944年(昭和19年)11月6日)は、日本の人類学・考古学者。医学博士。 1905年(明治38年)3月26日、京都府京都市東山区で三宅宗淳・男依の4男として生まれる。京都府立第二中学校、旧制山口高等学校(のち山口大学文理学部、現同大学人文学部)を卒業後、京都府立医科大学に入学。考古学に興味を持ち、京都帝国大学考古学教室に出入りするようになる。濱田耕作や清野謙次などから考古学・人類学の薫陶を受け、1929年(昭和4年)には同教室による須玖遺跡(福岡県春日市)の発掘調査に参加している。 1930年(昭和5年)に同医科大学を卒業後、京都帝国大学医学部助手に任命される。
瀬川 功(せがわ こう、1905年3月26日 - 1984年… 瀬川 功(せがわ こう、1905年3月26日 - 1984年11月2日)は、日本の小児科医師、陶磁器研究家、医学博士、医療法人瀬川小児病院第3代院長、社団法人日本陶磁協会 第4代理事長。常陸宮正仁親王と清宮貴子内親王の元主治医。旧姓:加瀬。
中山 義夫(なかやま よしお、1905年(明治38年)3月2… 中山 義夫(なかやま よしお、1905年(明治38年)3月26日 - 1986年(昭和61年)11月17日)は、日本の民俗舞踊家。民俗舞踊の第一人者。 1905年(明治38年)3月26日、北海道旭川市にて生まれる。法政大学専門部政治経済科に入学し、在学中に、亡命ロシア人の舞踊家エリアナ・パブロバに師事し、バレエダンサーの草分けとして活動する。1929年(昭和4年)に法政大学を卒業し、卒業後、海外を回るうちに民俗舞踊にひかれるようになる。また、新京で満州舞踊学校長などを務める。 戦後、中山民俗舞踊研究所を設立し、毎年のように海外公演を行う。1978年(昭和53年)に勲五等双光旭日章、1979年(昭和54年)にギリシャ政府文化功労章を受章する。
薗田 香勲(そのだ こうくん、1905年〈明治38年〉3月2… 薗田 香勲(そのだ こうくん、1905年〈明治38年〉3月25日 - 1969年〈昭和44年〉4月9日)は、日本のドイツ文学者・仏教学者、浄土真宗本願寺派の僧。大阪府立大学教授。ゲーテ、親鸞を研究した。 1905年、和歌山県和歌山市で浄土真宗本願寺派の妙慶寺に生まれた。1916年に得度。京都帝国大学文学部独文科で学び、1927年に卒業。 卒業後は、同1927年より龍谷大学講師。1931年、大阪商科大学(現:大阪市立大学)教授となった。1951年からは浪速大学教授、校名変更で大阪府立大学教授。 宗門においては、1926年より妙慶寺住職(1969年まで)。1947年から1951年まで、浄土真宗本願寺派和歌山教区長兼鷺森別院輪番をつとめた。