巽 フサ(たつみ フサ、1907年〈明治40年〉4月25日 … 巽 フサ(たつみ フサ、1907年〈明治40年〉4月25日 - 2023年〈令和5年〉12月12日)は、大阪府柏原市在住だった長寿の女性(スーパーセンテナリアン)。2022年4月19日から死去するまで長寿日本一であった。 1907年4月25日、6人兄弟の次女として八尾町(現在の大阪府八尾市)に生まれる。桃やブドウを育てる農家の夫と32歳の時に結婚。3人の子供に恵まれた。結婚前は華道や茶道を習い、生け花が得意で、106歳までは自宅の玄関に生けた花を飾り、庭では菊を育てていた。みたらしやぜんざいなど甘い物が大好きであった。 2013年、柏原市の特別養護老人ホーム「はくとう」に入所する。入所時は車いすに乗ったまま体操するなど元気だったという。
鷲尾 健三(わしお けんぞう、1907年4月24日 - 19… 鷲尾 健三(わしお けんぞう、1907年4月24日 - 1985年5月28日)は、兵庫県出身の日本の建築構造学者。工学博士(京都帝国大学)。大阪大学名誉教授。日本建築学会元副会長。武田五一の教え子で、構造学の研究に関する業績を残している。 ついても先駆的な業績を残した。このような実践を通し、構造力学という純粋で厳密な学問の大切さとともに実務に密着する鋼構造学の設計・施工の実態を踏まえた地道な技術者教育とその基礎にある人間教育がすべての根源であるとの認識を固めたように思われている。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
小出 武(こいで たけし、1907年4月24日 - 2007… 小出 武(こいで たけし、1907年4月24日 - 2007年1月6日)は日本の地理学者。 旧制東京文理科大学卒業。信濃教育会研究所主任、長野県立高校教諭、本州大学(現・長野大学)教授、1969年から1972年まで学長代行を務めた。理学博士(東京教育大学)。元長野県地理学会会長。勲四等旭日小綬章。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
8代目 雷門 助六(かみなりもん すけろく、1907年4月2… 8代目 雷門 助六(かみなりもん すけろく、1907年4月22日 - 1991年10月11日)は、東京府東京市本郷区壱岐殿坂出身の落語家、喜劇役者。本名∶岩田 喜多二。旧姓は青木。出囃子は『助六ばやし』。愛称は「六さん」。 父は6代目雷門助六。5歳だった1912年から父の門下で小助六の名で人形町末広で初舞台、以降小噺やかっぽれで舞台に立った。 1917年には5代目柳亭左楽の門人となり、小学校の頃は一時中断していた時期もあったが1921年10月には16歳の若さながら睦の五郎の名で真打に昇進。この時睦ノ太郎、睦の三郎とで若手三羽烏として売り出される。 1928年には父の6代目助六が睦会を脱退し独立した際、自身は睦の五郎を返上し雷門五郎に改名する。
渡辺 義雄(わたなべ よしお、1907年4月21日 - 20… 渡辺 義雄(わたなべ よしお、1907年4月21日 - 2000年7月21日)は、日本の写真家である。 戦前はライカなどの小型写真機を駆使したスナップ写真で著名となった。フリーランスとなってからは、対外宣伝グラフ誌『NIPPON』に参加。また国際文化振興財団や木村伊兵衛らの中央工房に関係した国際報道写真協会で活躍。報道写真家の草分けとなる。戦後には大型カメラを使用する建築写真界の第一人者、そして優れた写真教育者となった。写真家としては日本で最初の文化功労者。三条市名誉市民。 新潟県南蒲原郡三条町(現在の三条市)に呉服商の家に生まれる。1925年小西写真専門学校(のちの東京写真専門学校)に入学。在学中より『写真月報』に作品を発表。
中野 嘉一(なかの かいち、1907年4月21日 - 199… 中野 嘉一(なかの かいち、1907年4月21日 - 1998年7月23日)は、日本の詩人、歌人、精神科医。 愛知県碧海郡高岡町堤村(現:豊田市)出身。刈谷中学校(現:愛知県立刈谷高等学校)、慶應義塾大学医学部卒。在学中から前田夕暮に師事して歌集を刊行する。1944年から45年は軍医としてヤップ州メレヨン島に駐留し過酷な状況を日記に記し戦後は詩歌を著した。 精神科医として、東京武蔵野病院で太宰治の主治医を務めた。新短歌運動、シュールレアリスム運動に加わり、1951年に詩誌『暦象』を創刊、主宰する。1952年に詩集『春の病歴』で第1回中部日本詩人賞、1976年に『前衛詩運動史の研究』で第9回日本詩人クラブ賞を受賞する。
河内 清(かわち きよし、1907年4月20日 - 1991… 河内 清(かわち きよし、1907年4月20日 - 1991年2月11日)は、日本のフランス文学者、翻訳家。静岡大学名誉教授。 愛知県知多郡内海町(現・南知多町)出身。第一高等学校を経て、1930年東京帝国大学仏文科卒業。徳川義忠(尾張徳川家・分家)の家庭教師を務め、31年草村北星の龍吟社に入る。32年藤山工業図書館勤務、38年財団法人東亜研究所(近衛文麿総裁)に入り調査員となる。戦後の47年広島文理科大学および広島高等師範学校講師、48年静岡高等学校教授、49年静岡大学文理学部教授、54年図書館長、62年文理学部長、65年改組により初代人文学部長、67年東京教育大学教授、71年定年退官、静大名誉教授、72年白百合女子大学教授、78年定年退職。
安部 三史(あべ さんし、1907年4月20日 - 1993… 安部 三史(あべ さんし、1907年4月20日 - 1993年11月5日)は、日本の医学者。専門は公衆衛生学。元北海道医療大学学長。 北海道出身。1933年(昭和8年)北海道帝國大學医学部卒業後、同医学部助手。1941年(昭和16年)帯広高等獣医学校講師に就任。帯広獣医畜産専門学校講師を経て1946年(昭和21年)北海道大学医学部講師。その後、同医学部助教授。1956年同教授。1963年同医学部長。1967年北海道大学歯学部教授となり、同歯学部長。1970年北海道大学停年退官。同名誉教授。北星学園大学文学部社会福祉学科教授。1974年東日本学園大学薬学部教授。1977年東日本学園大学2代学長に就任。
田万 広文(廣文、たまん ひろふみ、1906年(明治39年)… 田万 広文(廣文、たまん ひろふみ、1906年(明治39年)5月17日 – 1986年(昭和61年)5月9日)は、昭和期の弁護士、政治家。衆議院議員。 香川県仲多度郡、のちの善通寺市中通で生まれる。1930年(昭和5年)京都帝国大学法学部を卒業。 1930年、高等試験司法科試験に合格し、有馬忠三郎事務所で研修した。1932年(昭和7年)丸亀市で法律事務所を開業した。高松弁護士会副会長、全日本農民組合香川県支部連合会顧問、日本弁護士連合会司法制度調査委員などを務めた。 1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙に香川全県区から日本社会党公認で出馬して初当選。1947年(昭和22年)4月の第23回総選挙に香川県第2区から出馬して落選。
佐々木 哲蔵(ささき てつぞう、1906年5月15日 - 1… 佐々木 哲蔵(ささき てつぞう、1906年5月15日 - 1994年5月25日)は宮城県出身の裁判官、弁護士。裁判官時代は訴訟の進め方、公費出張に関するルーズな態度などが取り沙汰され、2度にわたり裁判官訴追委員会の調査を受け、「裁判官の中で”特異な存在”だった」と評されている。「実の姪を妻にした破廉恥判事」とも呼ばれた。 宮城県宮城郡塩竈町(現・塩竈市)生まれ。1930年、東京帝国大学法学部独法科卒。1931年に裁判官として任官。 1938年、奈良地裁から満州新京(現・長春市)の満州国司法部に移り、新京高等法院に赴任し、四平地方法院次長、ハルビン高等法院廷長を経て、1943年に退官し新京法政大学教授となったが、関東軍に召集されて軍務につき、敗戦後ソ連に抑留され、2年半を過ごす。
細川 碧(ほそかわ みどり、1906年〈明治39年〉5月15… 細川 碧(ほそかわ みどり、1906年〈明治39年〉5月15日 - 1950年〈昭和25年〉8月21日)は、日本の作曲家。東京府出身。男性。 東京牛込に生まれる。「さるやんごとない方の落とし子」「さる帝(明治天皇ではない)のご落胤」(ごらくいん)であったとされる。 東京府立第一中学校(現・東京都立日比谷高等学校)在学中、梁田貞に作曲を学んだ。1922年4月、東京音楽学校予科に入学。同校本科声楽部(バリトン)に進学し、ハンカ・ペツォールト、マルガレーテ・ネトケ=レーヴェに声楽を、信時潔に作曲を師事し、1926年3月に卒業。進んで同校研究科作曲部で引き続き信時に師事し、1929年3月に修了した。 1929年、同校研究科卒業と同時に文部省在外研究員としてウィーン市国立音楽芸術単科大学に5年間留学する。
乾 信一郎(いぬい しんいちろう、1906年5月15日 - … 乾 信一郎(いぬい しんいちろう、1906年5月15日 - 2000年1月29日)は、日本の小説家、翻訳家。 米国シアトル生まれ。本名・上塚貞雄で、本名での著作もある。 1912年、母とともに父母の郷里熊本県甲佐町早川に戻り、現在の甲佐町立白旗小学校に通った。その後上京し、青山学院高等部を卒業した。 同商科在学中の1928年、翻訳が『新青年』に採用される。1930年卒業後、博文館に勤務し、『新青年』に探偵小説を書く。1935年『講談雑誌』編集長、1937年『新青年』編集長。1938年フリーとなり、文筆に専念。 戦後「青いノート」「コロの物語」などNHK連続放送劇の脚本を手がける。ユーモア小説、動物小説を多く書いたが、探偵小説やミステリー小説などの翻訳も数多く手がけた。
西宮 弘(にしみや ひろし、1906年5月14日 - 200… 西宮 弘(にしみや ひろし、1906年5月14日 - 2003年11月22日)は、日本の官僚、政治家。陸軍司政官。 茨城県水戸市出身。東京帝国大学法学部卒。内務省、戦後に自治省係長、岩手県出納長、宮城県副知事、日本社会党所属の衆議院議員。 岩手県出納長を経て、1956年10月に新たに宮城県知事に就任した大沼康の副知事に任命される。1959年3月、大沼の急逝を受けて知事選に立候補したが、落選。翌1960年の第29回衆議院議員総選挙に日本社会党公認で宮城1区から出馬し初当選。1963年に再度、宮城県知事選に立候補するが落選。同年の第30回衆議院議員総選挙に再出馬し当選した。 全金本山労働組合争議では、支援共闘会議議長を担う。
左近 義慈(さこん よししげ、1906年5月13日 - 19… 左近 義慈(さこん よししげ、1906年5月13日 - 1990年2月18日)は、日本の牧師・聖書学者。青山学院神学部元教授、東京神学大学名誉教授。 青山学院神学部元教授左近義弼は父。東京神学大学元学長左近淑は義理の息子。 1906年、左近義弼・まつの次男として米国・ニューヨークで生まれる。青山学院中等部、専門部を経て渡米し、南カリフォルニア大学を卒業。 ニュージャージー州マディソンにあるドルー大学神学大学院に進み、旧約聖書学を専攻。1935年に修士課程を修了し、修士号を取得。特別奨学金を得てエルサレムにあるアメリカ東洋研究所(W. F. Albright Institute of Archaeological Research)の特別研究員としてウィリアム・オルブライトの下で聖書考古学およびセム語を研究。
井上 薫(いのうえ かおる、1906年(明治39年)5月13… 井上 薫(いのうえ かおる、1906年(明治39年)5月13日 - 1993年(平成5年)4月18日)は、日本の銀行家。第一銀行頭取、第一勧業銀行初代会長を務めた。千葉県我孫子市出身。妻・光子は渋谷米太郎の長女。 開成中学、一高を経て、1929年に東京帝国大学経済学部を卒業。同年に第一銀行に入行。調査部長、審査第一部長等を歴任。 1954年に取締役に選任。常務、専務、副頭取を経て、1962年に頭取に就任し、1966年に会長に退いた。しかし、当時第一銀行と三菱銀行の合併話が進んでいたことから、酒井杏之助相談役と共に合併反対派の領袖として、当時頭取で合併推進派だった長谷川重三郎と対立する。結局合併は破談となり、その責任を取って長谷川が頭取を辞任したため、1969年に頭取に復帰した。
大場 俊助(おおば しゅんすけ、1906年5月13日 - 1… 大場 俊助(おおば しゅんすけ、1906年5月13日 - 1970年11月30日)は、日本の日本文学研究者。 静岡県出身。東京文理科大学国文科卒。1936年中央大学予科教授、1939年中央大学文学部教授。国語教育が専門だが、近世文学などに業績があり、小林一茶のセックスについて研究したことで知られる。
土屋 尹直(つちや ただなお、1906年(明治39年)5月1… 土屋 尹直(つちや ただなお、1906年(明治39年)5月13日- 1979年(昭和54年)9月24日)は、昭和期の実業家、宮内官、政治家、華族。貴族院子爵議員。旧姓・堤、旧名・忠雄。 華族・堤雄長の三男として生まれ、子爵・土屋正直の養子となる(剱沢小屋雪崩事故で正直の嫡男土屋秀直が死亡した事による)。1938年(昭和13年)12月28日、尹直と改名した。養父の死去に伴い、1939年(昭和14年)1月16日に子爵を襲爵した。 1930年(昭和5年)、東京商科大学を卒業し、三井物産本社に入社。以後、三輪銀行常任監査役、同頭取、式部官兼主猟官、兼内大臣秘書官などを務めた。 1945年(昭和20年)10月25日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
兪 鎮午(ゆ ちんご、ユ・ジノ、1906年5月13日 - 1… 兪 鎮午(ゆ ちんご、ユ・ジノ、1906年5月13日 - 1987年8月30日)は、日本統治時代の朝鮮と大韓民国の小説家、法学者、教育者、政治家。号は玄民。初期はプロレタリア作家、中期は純粋文学、そして後期は親日派として時代に翻弄された[疑問点 – ノート]。解放後は、韓国において法学者、政治家として活動した。大韓民国憲法の起草者でもある。 1906年5月13日、ソウル嘉会坊斉洞に生まれる。杞渓兪氏(朝鮮語版)。1914年、斉洞公立普通学校に入学、1919年、京城高等普通学校に入学し、教育を受ける。京城高等普通学校を卒業後、1924年、京城帝国大学予科に入学する。この年、朝鮮人学生団体「文友会」を組織し、機関紙『文友』の発刊に携わった。
山下 勝治(やました かつじ、1906年 <明治39年> 5… 山下 勝治(やました かつじ、1906年 <明治39年> 5月12日 - 1967年 <昭和42年> 12月5日)は、日本の会計学者。学位は、経営学博士(神戸大学・論文博士・1951年)。位階は従三位、勲等は勲三等旭日中綬章。 岡山県笠岡市出身。笠岡商業学校(現岡山県立笠岡商業高等学校)を経て、1927年大分高等商業学校卒、愛知県豊橋市立商業学校教諭、1932年神戸商業大学(現:神戸大学)卒。1934年同研究科修了。平井泰太郎研究室出身。1934年彦根高等商業学校講師、1936年教授、1944年神戸経済大学助教授、1951年大阪大学法経学部教授併任、1951年「損益計算制度の発展」で神戸大学より経営学博士の学位を取得。
小場瀬 卓三(おばせ たくぞう、1906年5月12日 - 1… 小場瀬 卓三(おばせ たくぞう、1906年5月12日 - 1977年11月12日)は、日本のフランス文学者、翻訳家。(旧)東京都立大学名誉教授。 兵庫県生まれ。1927年甲南高等学校文科卒業、1930年東京帝国大学文学部仏文科卒業、1936年から1938年までパリに留学。東京都立大学教授、日本フランス語フランス文学会会長などを歴任。 ディドロ、モリエールを研究、16世紀から18世紀のフランスの思想・演劇について研究、ほかアラゴンの翻訳を含め、多くの著書訳書を著した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
塩飽 玉男 (しわく たまお、1906年5月12日 – 19… 塩飽 玉男 (しわく たまお、1906年5月12日 – 1990年12月15日)は、日本の陸上競技選手。専門は長距離走・マラソン。1936年ベルリンオリンピックに日本代表選手としてマラソンに出場した。 当時大規模な入浜式塩田を擁していた坂出周辺では、「浜子」と呼ばれる塩田労働者が塩田内で仕事として終日走る生活を送っていた。1919年にはマラソンへの関心に火がつき、地元出身で1920年アントワープオリンピック陸上競技代表選手となった大浦留市(東京高等師範学校)が、帰国後に郷里で開かれたロードレースで2人が自分より上位に入ったことを評価・激励したこともそれを後押しした。1928年アムステルダムオリンピックのマラソンに「浜子」出身の山田兼松が4位入賞を果たし、それを追う形で楠好蔵や塩飽も陸上競技に進んだ。
吉行 エイスケ(よしゆき えいすけ、本名:栄助、1906年(… 吉行 エイスケ(よしゆき えいすけ、本名:栄助、1906年(明治39年)5月10日 - 1940年(昭和15年)7月8日)は、日本のダダイスト詩人、小説家。 アナキズムに傾倒し、旧制第一岡山中学校(現・県立岡山朝日高校)を4年時に退学し詩作に励む。その翌年当時まだ学生の吉行あぐり(旧姓、松本)と結婚し、長男の吉行淳之介が生まれるが暮らし向きは良くなかった。 上京後、詩人の辻潤、清沢清志、高橋新吉らと交友を通し、『ダダイスム』を発行、1926年『虚無思想』を新居格らと主宰し新興芸術派の旗手と目されるが、1933年には断筆した。1940年に狭心症のため34歳で急死した。前日まで元気であったが突然の事であったという。
金子 武雄(かねこ たけお、1906年〈明治39年〉5月10… 金子 武雄(かねこ たけお、1906年〈明治39年〉5月10日 - 1985年〈昭和58年〉3月24日)は、国文学者。 新潟県生まれ。旧姓・伊野宮。第八高等学校卒、1933年東京帝国大学文学部国文科卒。 1905年生まれの金子武雄とは同姓同名の別人であるが、生没年ともに極めて近く、研究した専攻分野は異なるものの近いため一般書などでは同じ分野のものも多く、国会図書館の書誌データベースの著者の情報では混同されていた、という話が以前よりあり、現在も混同されたままである。
金子 鷗亭(かねこ おうてい、1906年〈明治39年〉5月9… 金子 鷗亭(かねこ おうてい、1906年〈明治39年〉5月9日 - 2001年〈平成13年〉11月5日)は、日本の書家。近代詩文書を提唱した。 北海道松前郡生まれ。本名は金子賢藏。鷗亭は雅号で、他に琴城、薊谷がある。子息は書家の金子卓義。 1906年、北海道松前郡小島村(現:松前町)に生まれる。1921年、15歳で札幌鉄道教習所に入学、同級生には桑原翠邦、三宅半有などがいた。教習所時代に大塚鶴洞、川谷尚亭などから書を学んだ。1929年に函館師範學校(現・北海道教育大学函館校)卒業。同年、札幌に来遊していた比田井天来と出会い、上京を勧められ、1932年上京、以降天来に師事する。1933年には上田桑鳩が結成した書道芸術社に参加するとともに、雑誌『書之研究』に「新調和体」論を発表、近代詩を書にする近代詩文書運動を起こした。
松本 豊(まつもと ゆたか、明治39年(1906年)5月8日… 松本 豊(まつもと ゆたか、明治39年(1906年)5月8日 - 平成12年(2000年)12月25日)は日本の柔道家、実業家、政治家。境港商工会議所名誉会頭。元境町会議員、境港市会議員。 鳥取県境港市出身。万一の長男。 米中卒。松本材木店経営。姫路野砲第十連隊入隊、昭和19年(1944年)再応召、陸軍中尉。 昭和21年(1946年)松本木材(株)を設立、取締役社長に就任、同年境港商工会議所会頭(のち公職追放で辞任)。昭和30年(1955年)~昭和61年(1986年)境港商工会議所会頭。 昭和34年(1959年)(株)米子木材市場取締役社長、境港外材輸入(協)理事長、昭和38年(1963年)大山産業(株)取締役社長、昭和57年(1982年)松本木材(株)を境港木材工業(株)に改組、取締役顧問。
門叶 宗雄(とが むねお、1906年5月8日 - 1969年… 門叶 宗雄(とが むねお、1906年5月8日 - 1969年12月4日)は、日本の内務・防衛官僚。官選最後の島根県知事、警視総監、防衛事務次官。旧姓・川村。位階は従三位。 秋田市出身。秋田藩士の川村宗治の二男として生まれ、母方の門叶家を継承した。奉天中学校、弘前高等学校 (旧制)を経て、1930年3月、東京帝国大学法学部法律学科を卒業。1929年10月、高等試験行政科試験に合格。1930年5月、内務省に入り京都府警部補として警察部警務課に配属された。 1932年1月、京都府警察部特別高等警察課に勤務。以後、京都府属・内務部地方課勤務、佐賀県警察部特別高等警察課長、静岡県警察部刑事課長、内務事務官・警保局勤務、内閣情報部情報官、情報局第四部第一課勤務、内務大臣秘書官兼内務事務官、警保局警務官、山梨県書記官・警察部長、茨城県部長・経済部長、同県部長・警察部長、内務省警保局警務課長、同経済保安課長などを歴任し、終戦を迎えた。
市川 百々之助(いちかわ もものすけ、1906年(明治39年… 市川 百々之助(いちかわ もものすけ、1906年(明治39年)5月8日 - 1978年(昭和53年)1月15日)は、歌舞伎役者、映画俳優、映画監督。サイレント映画の時代に「ももちゃん」の愛称で親しまれ、全盛期には阪東妻三郎と人気を二分する剣劇俳優であった。戦後は芸名を百々木 直(ももき なお)と名乗った。本名は上田 直正(うえだ なおまさ)。 広島県広島市に生まれる。 1911年(明治45年)、『近江源氏戦陣館』の小四郎で初舞台を踏む。12歳のとき、市川中車の門下となりちんこ芝居(小青年歌舞伎)の一座を組織して各地を巡業、葉村屋一派、中村扇雀一座などにも加入出演した。 1922年(大正11年)9月、17歳のときに、帝国キネマ演芸(帝キネ)小坂撮影所へ入社、同年、中川紫郎監督の『異端者の恋』や『大江戸の武士』に出演し、映画俳優としてデビュー。
刑部 人(おさかべ じん、1906年5月5日 - 1978年… 刑部 人(おさかべ じん、1906年5月5日 - 1978年3月8日)は、日本の洋画家。 栃木県下都賀郡家中村(現在の栃木市都賀町家中)に生まれる。東京府立一中時代には、同期に高見順や長沼弘毅がいた。同校在学中、高見順らと廻覧雑誌を創刊する。 1922年(大正11年)から川端画学校に通い、1924年(大正13年)に東京美術学校西洋学科に入学。東京美術学校在学中に和田英作に師事し、帝展に初入選した。 1929年(昭和4年)に東京美術学校西洋学科卒業。1943年に新文展で無鑑査となる。さらに1946年、1947年には出品作品が日展特選となった。 画家として順調なスタートを切ったが、ヨーロッパ各地で起こっていたフォーヴィズム、キュビズムをはじめとする新しい芸術運動の波のなかで、他の多くの画家たち同様に一時的なスランプに陥る。
真下 五一(ましも ごいち、1906年5月5日 - 1979… 真下 五一(ましも ごいち、1906年5月5日 - 1979年3月23日)は、日本の作家。本名は林 五市。 京都府中郡峰山町(現・京丹後市)生まれ。明治大学商学部卒。教師をしながら文学を志す。1939年「暖簾」で芥川賞候補、同年「仏間会議」で同候補。1968年京都市文化功労者。 伝記小説、歴史小説、京都の生活に関する随筆などを書いた。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作詞家・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ:作家)。
磐瀬 太郎(いわせ たろう、1906年5月3日 - 1970… 磐瀬 太郎(いわせ たろう、1906年5月3日 - 1970年2月28日)は、日本の蝶学の研究者・愛好者・アマチュア研究の指導者。 東京都文京区出身。日本鱗翅学会会長(1967-70年)。妻は浜口吉右衛門長女文子。従姉妹に童謡歌手の平山美代子。妻の従姉妹に嵯峨浩がいる。 1906年、文京区駒込西片町(現・文京区西片)に東京帝国大学名誉教授、宮内庁御用掛侍医、医学博士磐瀬雄一の長男として生まれる。1919年東京高等師範学校付属小学校を卒業。同付属中学を卒業。父雄一より標本、採取道具等を譲り受け、東京谷中墓地等で蝶の採取を経験する。 中学在学中の1921年、初めての論文「アゲハ蝶類の草食及び食物に就いて」を「昆虫世界」(第25号)に発表。
須田 剋太(すだ こくた、1906年5月1日 - 1990年… 須田 剋太(すだ こくた、1906年5月1日 - 1990年7月14日)は、日本の洋画家。埼玉県出身。浦和画家。 当初具象画の世界で官展の特選を重ねたが、1949年以降抽象画へと進む。力強い奔放なタッチが特徴と評される。司馬遼太郎の紀行文集『街道をゆく』の挿絵を担当し、また取材旅行にも同行した。道元の禅の世界を愛した。文展に入選した翌年の昭和9年には寺内萬治郎が浦和の別所沼畔のアトリエを訪れ激励し、光風会に入ることを勧められ入会した。また、寺内萬治郎の門下生が集まる武蔵野会に参加した。浦和画家のひとり、光風会の里見明正とは同じ熊谷中学校で、別所沼のアトリエも隣り合っていた。また、四方田草炎や林倭衛とも交流していた。
高沖 陽造(たかおき ようぞう、1906年4月25日 - 1… 高沖 陽造(たかおき ようぞう、1906年4月25日 - 1999年10月15日)は、日本の文芸評論家、翻訳家。 広島県生まれ。正則英語学校卒業。1933年から西洋の文芸思想の紹介を始める。戦後は民主主義科学者協会に所属、マルクス主義芸術理論を研究、紹介した。
山本陶秀(やまもと とうしゅう、1906年(明治39年)4月… 山本陶秀(やまもと とうしゅう、1906年(明治39年)4月24日 - 1994年(平成6年)4月22日)は、陶芸家。岡山県出身。人間国宝
見田 石介(みた せきすけ、1906年4月23日 - 197… 見田 石介(みた せきすけ、1906年4月23日 - 1975年8月9日)は、日本の哲学者・マルクス主義経済学者・ヘーゲル研究者。旧姓は甘粕、筆名「佐竹 恒有」、「瀬木 健」。 1906年、島根県津和野生まれ。1923年3月県立富山中学校4学年修了。1927年3月旧制第四高等学校理科卒業。1930年京都帝国大学文学部哲学科卒業。波多野精一に師事し、ヘーゲルの歴史哲学を研究した。 1930年4月に同大学大学院に進学し、同時に平安女学院講師に就職するが、1931年3月に大学院を退学。同年4月に平安女学院講師も退職する。1932年10月に創立された唯物論研究会に11月に参加。1933年機関誌『唯物論研究』に執筆開始。
玉得 博康(たまえ ひろやす、明治39年(1906年)4月2… 玉得 博康(たまえ ひろやす、明治39年(1906年)4月21日 - 昭和60年(1985年)5月2日)は、日本の空手家。王統流命名者。全日本空手道連盟錬武会初代最高師範。全日本空手道連盟初代元老。群馬県空手道連盟副会長。 1906年に沖縄那覇に生まれ、幼少の頃より父から那覇手を教授され、後に首里手の大浜賢助、城間真繁に師事する。師範学校においても、那覇手や棒術を習得。また戦前に訪中した際に北京にて中国拳法も学んでいる。 戦後は群馬県伊勢崎市を中心に空手を指導し、全日本空手道連盟錬武会の最高師範として防具付き空手の普及に尽力。また1964年の全日本空手道連盟発足時に東京へ移り、審議委員、初代元老、中央資格審査員を務めた。
太田 和彦(おおた かずひこ、1905年5月20日 - 19… 太田 和彦(おおた かずひこ、1905年5月20日 - 1984年7月5日)は、日本の文部官僚、図書館情報学者。図書館短期大学(現・筑波大学情報学群知識情報・図書館学類)学長を務めた。 長野県飯田市出身。旧制長野県諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)、旧制第一高等学校を経て、京都帝国大学文学部哲学科卒業。文部省(現・文部科学省)入省。教科書調査官を務めた。 旧制浪速高等学校教授、群馬大学教授、獨協大学文学部教授を歴任し、1969年図書館短期大学(のちの図書館情報大学を経て、現・筑波大学情報学群知識情報・図書館学類)学長に就任。時代に即した文献情報学科の新設、筑波移転に伴う四年制大学昇格(図書館情報大学)の基礎固めに尽力した。
熊谷 義雄(くまがい よしお、1905年5月20日 - 19… 熊谷 義雄(くまがい よしお、1905年5月20日 - 1994年1月4日)は、日本の政治家、自由民主党衆議院議員(5期)。三木派。デーリー東北新聞社取締役。親族に八戸市長の熊谷雄一がいる。 1905年、岩手県下閉伊郡普代村に生まれる。1917年、普代村立堀内小学校を卒業する。1929年、明治大学を卒業。卒業後は八戸魚市場専務を経て、戦後は大洋水産を創立し、社長となり、大洋石油、大洋水産工業、八戸製函、八戸ガス各社長、八戸商工会議所会頭に就任する。ほか、中央魚類、丸美屋、八戸通運、八戸臨海倉庫、青森県製釘、青森放送各取締役、八戸市総合振興対策審議会長を歴任した。 1963年、第30回衆議院議員総選挙において青森1区から自由民主党公認で立候補して初当選する。
山辺 健太郎(やまべ けんたろう、1905年5月20日 - … 山辺 健太郎(やまべ けんたろう、1905年5月20日 - 1977年4月16日)は、日本の歴史家、労働運動家。太平洋戦争後は日本共産党に所属した時期がある。「山健」の愛称で知られた。 ※脚注のないものは『社会主義運動半生記』[要ページ番号]より。 東京府本郷区(現・東京都文京区)に生まれる。1907年、別府に移る。別府市立北尋常小学校(のちに別府市立北小学校となり、2009年に別府市立別府中央小学校に統合)を卒業する。 1918年春、京城府(現・ソウル特別市)に移る。1919年1月に帰国し、4月から丸善大阪支店の見習店員となる。 1920年暮、大阪の白鹿足袋工場に入る。1921年5月、大阪の第1回メーデーに参加。
松田昇(まつだ のぼる、1905年5月18日 - 1982年… 松田昇(まつだ のぼる、1905年5月18日 - 1982年11月20日)は、日本の高校野球指導者。高知県高等学校野球連盟初代理事長。高知商業高校、明徳高校野球部元監督。
鈴木 俊隆(すずき しゅんりゅう、1905年5月18日 - … 鈴木 俊隆(すずき しゅんりゅう、1905年5月18日 - 1971年12月4日)は昭和の曹洞宗の僧侶。アメリカに禅を広め、欧米では、鈴木大拙と並んで「2人の鈴木」と呼ばれている。 神奈川県平塚市の曹洞宗松岩寺に生まれる。12歳で静岡県森町の蔵雲院の玉潤祖温に弟子入り。駒澤大学在学中に蔵雲院住職となる。1930年同大卒業。永平寺、總持寺で修行。1936年に静岡県焼津町(現、焼津市)林叟院住職に転任。 1959年に55歳でアメリカに渡り、サンフランシスコの桑港寺の住職となる。桑港寺はそれまで主に日系人向けに教化活動をしていたが、当時の社会運動により、非日系アメリカ人の参禅者が増加。日系人との間で軋轢を生むようになり、鈴木は彼らのために1962年にサンフランシスコ禅センターを設立。
青木 恵一郎(あおき けいいちろう、1905年5月17日 -… 青木 恵一郎(あおき けいいちろう、1905年5月17日 - 1988年2月10日)は、日本の農民運動家、著作家。 長野県更級郡稲里村中氷鉋(現・長野市)生まれ。1925年旧制千葉高等園芸学校(現・千葉大学園芸学部)卒。日本農民組合東京出張所書記となり、木崎村小作争議などに参加。秋田県でも活躍し、1933年日農東京出張所長となる。その後、全農全国会議派の合法化運動をし、1939年中国に渡って中支那合作社幹事となる。戦後は日農の再建に加わり、1948年日本共産党に入党し、1949年離党。この間、長野県第1区 (中選挙区)から衆議院選に出馬(1947年日本社会党、1949年共産党)し、落選。1957年日農連合会を結成して、第一線から退き、林業経営研究所員、東京教育大学講師などを務め、農民運動史の研究に従事した。
大澤 嘉平治(おおさわ かへいじ、1905年(明治38年)5… 大澤 嘉平治(おおさわ かへいじ、1905年(明治38年)5月17日 - 1983年(昭和58年)8月21日)は日本の政治家、実業家。衆議院議員(2期、民主党→民主自由党) 1905年(明治38年)に栃木県で生まれ、法政大学商業学校を卒業する。野洲繊維工業、安足産業、安足自動車運送、大澤建設工業、日本化工、東京タクシーなど多くの社長を務め、佐野商工会議所初代会頭に就任する。 1947年(昭和22年)に第23回衆議院議員総選挙に栃木県第2区から出馬し、当選する(連続2期)。また、民主自由党総務を務める。 1980年(昭和55年)秋の叙勲で勲三等瑞宝章受章。 1983年(昭和58年)8月21日死去、78歳。
田宮 義雄(たみや よしお、1905年(明治38年)5月15… 田宮 義雄(たみや よしお、1905年(明治38年)5月15日 - 1988年(昭和63年)11月2日)は、模型メーカータミヤの創業者。
門田 芦子(かどた あしこ、本名:内山仲子、1905年5月1… 門田 芦子(かどた あしこ、本名:内山仲子、1905年5月15日 - 1974年12月20日)とは元宝塚少女歌劇団(元月組主演男役クラス・元月組・星組組長)の人物である。愛知県名古屋市出身[4]。宝塚歌劇団時代の愛称はチャマさん。
内藤 隆福(ないとう たかとみ、1905年 <明治38年> … 内藤 隆福(ないとう たかとみ、1905年 <明治38年> 5月15日 - 2009年 <平成21年> 7月8日)は、日本の経営者。オリンパス光学工業(現在のオリンパス)社長、会長を務めた。位階は従四位。 東京都出身。1931年に早稲田大学理工学部電気工学科を卒業し、同年に高千穂製作所(現在のオリンパス)に入社。1945年12月に取締役に就任し、1954年7月に常務、1963年12月に専務を経て、1967年6月に社長に就任。1971年12月に会長に就任し、1973年12月から相談役を務めた。 1971年4月に藍綬褒章を受章し、1976年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 2009年7月8日老衰のために死去。
前川 國男(まえかわ くにお、1905年5月14日 - 19… 前川 國男(まえかわ くにお、1905年5月14日 - 1986年6月26日)は日本の建築家である。
鎌原 正巳(かんばら まさみ、1905年5月14日 - 19… 鎌原 正巳(かんばら まさみ、1905年5月14日 - 1976年3月15日)は、日本の作家。 長野県埴科郡松代町(現:長野市)生まれ。松本高等学校文科乙類卒、京都帝国大学文科中退。 早稲田大学出版部にて雑誌編集等に携わる傍ら、1939年に古谷綱武、森三千代らと同人誌『文学草紙』を創刊。 1947年-1966年東京国立博物館に勤務し資料室長となる。 1954年「土佐日記」で芥川賞候補、「曼荼羅」で再度候補。70年文化財功労者となる。
阿部 吉雄(あべ よしお、1905年〈明治38年〉5月12日… 阿部 吉雄(あべ よしお、1905年〈明治38年〉5月12日 - 1978年〈昭和53年〉5月30日)は、日本の中国哲学者。 1905年、山形県山形市で生まれた。山形中学校を経て、東京帝国大学文学部支那哲学科に入学。1928年、卒業論文『荀子の研究』を提出して同大学を卒業。同大学大学院に進学した。 1930年、東方文化学院東京研究所の助手となり、服部宇之吉の「儀礼鄭注補正」の助手を務めた。1935年に同研究所研究員となり、「朱子経説の淵源」の題目で研究を進めた。 1941年、京城帝国大学法文学部助教授として赴任。当地で朝鮮儒学に関心を抱いた。李退渓と闇書の思想的血縁関係について著した専門書をまとめたものの、公刊直前に敗戦となり、原稿ともども失う。
松島 詩子(まつしま うたこ、本名:内海 シマ、1905年〈… 松島 詩子(まつしま うたこ、本名:内海 シマ、1905年〈明治38年〉5月12日 - 1996年〈平成8年〉11月19日)は、日本の歌手。山口県玖珂郡日積村(現在の柳井市の一部)出身。夫は戦前期浅草オペラやニットーレコードで歌手として活躍した内海一郎(1898年 - 1972年)。 テレビ東京系「出没!アド街ック天国」のワンコーナー「〇〇物語」のBGMにこの曲のインストゥルメンタルが使われている。
鈴木 敬信(すずき けいしん、1905年5月12日 - 19… 鈴木 敬信(すずき けいしん、1905年5月12日 - 1993年1月27日)は、日本の天文学者。専門分野は位置天文学、日食計算論。 東京学芸大学名誉教授。秋田県秋田市出身。一部の人名事典では出身地が東京都になっているものもある。なお、小惑星の(2393) Suzukiは、彼に因み命名された。 旧制第一高等学校を経て1929年、東京帝国大学理学部天文学科を卒業。広島第一中学校教諭、赤羽工兵隊幹部候補生、東京科学博物館嘱託を経て1939年、海軍水路部技師となる。水路部では編暦に従事し、『天体位置表』を創刊した。 1951年、運輸大臣賞(「天体位置表の創刊」により)。 1952年、東京学芸大学教授に就任し、1969年退官。