小山 文太郎(こやま ぶんたろう、1891年11月3日 - … 小山 文太郎(こやま ぶんたろう、1891年11月3日 - 1972年10月22日)は、日本の社会学者・社会科教育学者。 東京出身。1919年東京高等師範学校卒、1922年東京帝国大学文学部社会学科卒、横浜実科高等女学校教諭、1925年千葉県銚子町公正会主事。1927年東京帝大経済学部卒。1932年東京府豊島師範学校教諭、1934年東京市視学。39年東京市主事教育局教育研究所長、1952年駒澤大学教授(-1962)、1955年東京経済大学教授、1956年亜細亜大学教授・日本経済短期大学教授、1971年亜細亜大を定年、名誉教授。
大槻 憲二(おおつき けんじ、1891年11月2日 - 19… 大槻 憲二(おおつき けんじ、1891年11月2日 - 1977年2月23日)は、日本の精神分析家、心理学者、文芸評論家。兵庫県洲本市出身。早稲田大学卒。孫に翻訳家の長井那智子。 日本における精神分析の草分けの一人であり、代表的な紹介者である。ジークムント・フロイトやその他の精神分析家の翻訳者としても著名である。文芸評論家としては『文藝日本』『新潮』などにマルキシズム文学論批判の評論を発表している。 1928年、矢部八重吉や長谷川天渓(本名、長谷川誠也)らとともに東京精神分析学研究所を創設し、後に所長となった。1933年には日本初の精神分析学の雑誌、『精神分析』を創刊した。 戦後創設された日本精神分析学会には大槻は入会していない。
米田雄郎(よねだ ゆうろう、1891年(明治24年)11月1… 米田雄郎(よねだ ゆうろう、1891年(明治24年)11月1日 - 1959年(昭和34年)3月5日)は、大正・昭和前期の歌人。出生名、米田菊次。本名、米田雄還。同じく歌人の米田登は次男。 奈良県磯城郡川西村(現・川西町)の農家の長男として生まれる。尋常小学校卒業後、伯父が住職を務める香久山村の法念寺に寄寓。1907年(明治40年)、大阪市の上宮中学に入学。18歳より短歌を始め、若山牧水の添削を受ける。1911年(明治44年)前田夕暮の白日社に入社し、雄郎の筆名を使い始め、自由律短歌及び定型律短歌を作る。1917年(大正6年)には歌集「日没」を発行。 早稲田大学中退後、1918年(大正7年)滋賀県蒲生郡(現・東近江市)石塔町の浄土宗寺院・極楽寺住職となり、また高等小学校の代用教員も務める。
田中 信男(たなか のぶお、1891年(明治24年)10月3… 田中 信男(たなか のぶお、1891年(明治24年)10月30日 - 1966年(昭和41年)12月4日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
木村 惇(きむら あつし、1891年〈明治24年〉10月30… 木村 惇(きむら あつし、1891年〈明治24年〉10月30日 - 1969年〈昭和44年〉2月12日)は、日本の政治家、内務・外務官僚・外交官。京都府知事を務めた。 1891年10月、宮城県で平民・木村精造の長男として生まれる。旧制第二高等学校を経て、1915年に京都帝国大学法科大学政治科を卒業。 1914年に高等文官試験に合格し、1915年に内務省に入省。東京府内務部農商課長を務めたのち、外交科試験以外の合格者を採用する「門戸解放」の一環として、外務省に転じ、欧米局第一課事務官、在アメリカ合衆国大使館三等書記官・二等書記官、亜細亜局事務官、文化事業部事務官、文化事業部第一課長、第二課長、文化事業部文部書記官、シカゴ領事、マニラ総領事、在ポーランド公使館一等書記官、在ポーランド大使館一等書記官、フィリピン協会常務理事を務めた。
小茂田 青樹(おもだ せいじゅ、1891年(明治24年)10… 小茂田 青樹(おもだ せいじゅ、1891年(明治24年)10月30日 - 1933年(昭和8年)8月28日)は、大正から昭和初期の日本画家。「詩情の画家」と呼ばれる。 埼玉県入間郡川越町(現川越市)に、呉服商・小島徳右衛門の次男として生まれる。本名は小島茂吉。通称は茂。1896年(明治29年)、叔父の養子となり小茂田姓になる。 17歳で上京。当時は川越町と東京市を結ぶ鉄路がなく、寄宿したのが松本楓湖の隣家であった。その縁もあって楓湖の「安雅堂画塾」に入門。なお、同日に、終生ライバル関係となる速水御舟も入門。1913年(大正2年)、第13回巽画会展に出品、原富太郎に買い上げられ、以降、支援を受ける。
向山 均(むこうやま ひとし、1891年(明治24年)10月… 向山 均(むこうやま ひとし、1891年(明治24年)10月29日 - 1978年(昭和53年)7月5日)は、日本の海軍軍人、政治家、華族。最終階級は海軍造兵中将。貴族院男爵議員。向山慎吉の子。 東京市で海軍士官・向山慎吉の長男として生まれる。父の死去に伴い、1911年(明治44年)1月12日、家督を相続し男爵を襲爵。同年7月、東京帝国大学工科大学に入学し、1914年(大正3年)3月、海軍造兵学生となり同年7月に東京帝大工科大学電気科を卒業した。 1914年7月10日、海軍造兵中技士に任官し横須賀鎮守府附となる。以後、呉海軍工廠水雷部副部員、横須賀海軍工廠造兵部副部員、扶桑乗組、呉工廠水雷部部員、英国駐在、仏国駐在、兼造兵監督官、呉工廠検査官兼水雷部部員、兼海軍兵学校教官、呉工廠水雷部部員、兼呉工廠電気実験部部員、艦政本部員(一部三課)兼造兵監督官、兼連合艦隊司令部附、呉工廠電気部部員、兼海軍砲術学校教官、兼呉工廠電気実験部部員などを経て、1930年(昭和5年)12月1日、海軍造兵大佐に昇進。
藤井 達二(ふじい たつじ、1891年(明治24年)10月2… 藤井 達二(ふじい たつじ、1891年(明治24年)10月24日 - 1968年(昭和43年)8月9日)は、昭和時代の政治家、実業家。衆議院議員(1期)。 青森県三戸郡八戸町(現八戸市)に生まれる。1910年(明治43年)県水産試験場付属八戸講習所卒業。1936年(昭和11年)2月の第19回衆議院議員総選挙に青森県第1区から立憲政友会所属で出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。 戦後、1949年(昭和24年)1月の第24回衆議院議員総選挙に立候補したが辞退し、1956年(昭和31年)7月の第4回参議院議員通常選挙にも全国区から出馬したが落選した。自由民主党県連合顧問、同副会長を歴任した。ほか、財界では身延木材専務取締役、那須土地取締役、大和木材、青森県農林商事各社長、日本海外興業会長などを務めた。
中薗 盛孝(なかその もりたか、1890年〈明治23年〉11… 中薗 盛孝(なかその もりたか、1890年〈明治23年〉11月22日 - 1943年〈昭和18年〉9月9日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 鹿児島県川辺郡、のちの川辺町(現南九州市)で、役場書記・中薗平左衛門の三男として生まれる。川辺中学を経て、1912年(明治45年)5月、陸軍士官学校(24期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し野砲兵第6連隊付となる。1915年(大正4年)12月、陸軍砲工学校高等科を卒業。大阪砲兵工廠員、陸士生徒隊付などを経て、1922年(大正11年)11月、陸軍大学校(34期)を卒業した。翌月、野砲兵第6連隊中隊長に就任。 1923年(大正12年)12月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員、第15師団参謀、第3師団参謀、陸軍野戦砲兵学校教官を歴任し、1927年(昭和2年)7月、砲兵少佐に昇進。
米山 治(よねやま はる、1890年11月21日 - 196… 米山 治(よねやま はる、1890年11月21日 - 1968年1月)は、日本の銀行員、作詞家。島根県出身。本名は米山 豊蔵(よねやま とよぞう)。 1890年(明治23年)、島根県神門郡杵築町(現在の出雲市大社町)の旧家に生まれる。1907年(明治40年)に京都市立商業実修学校を卒業し、大阪の三十四銀行へ入行。京橋、次いで神田支店長に就いた。三十四銀行は1933年(昭和8年)に鴻池・山口の両行と合併して三和銀行(現在の三菱UFJ銀行)となり、船場支店長を経て天満、朝日橋、中央市場支店長を歴任する。 定年退職後は島根へ帰郷し悠々自適の生活を送っていたが、1952年(昭和27年)のサンフランシスコ講和条約発効記念事業として島根県が懸賞募集を行った県民歌で応募作「薄紫の山脈」が宮田隆の応募作「青い空なら」と並んで準入選で採用された。
上沢 謙二(うえざわ けんじ、1890年11月21日 - 1… 上沢 謙二(うえざわ けんじ、1890年11月21日 - 1978年7月7日)は、日本の児童文学者童話作家教育者である。 1890年に栃木県上都賀郡東大芦村(現 鹿沼市)に生まれる。地元の引田尋常小学校および高等科を卒業して上京。日本銀行に見習いとして採用される。1907年、日本基督教団日本橋教会で洗礼を受け、以後、キリスト者の道を歩む。1919年に結婚した後に日本銀行を退職、アメリカ合衆国へ留学する。1923年にワシントン州立大学教育学部卒業後、帰国。子供之友編集主任、日本キリスト教文化協会長などを歴任する。1938年、洗足幼稚園の経営を引き継ぐが、戦局の悪化に伴い1944年に休園。やがて1945年3月の東京大空襲により幼稚園が焼失し、郷里に疎開させていた家族のもとへ戻る。
日下 辰太(くさか たつた、1890年〈明治23年〉11月1… 日下 辰太(くさか たつた、1890年〈明治23年〉11月19日 - 没年不詳)は、日本の農商務官僚。関東州官僚。台湾総督府官僚。 岡山県出身。日下謙太の長男。1916年(大正5年)、東京帝国大学法学部独法科を卒業し、高等文官試験に合格した。農商務属、臨時産業調査局事務官、水産局書記官、水産講習所教授、水産局事務官・農商務局書記官、農商務参事官、特許局事務官、法制局参事官、商工書記官、関東庁事務官・長官官房文書課長、同内務局殖産課長、同内務局長、関東局司政部長、台中州知事などを歴任した。 1936年(昭和11年)に退官した後、台湾拓殖株式会社理事に就任。その他、星規那産業株式会社代表、台湾単寧興業株式会社代表、台湾畜産興業株式会社取締役、南日本化学工業株式会社取締役、台湾産金株式会社取締役、南日本塩業株式会社取締役、台湾通信工業株式会社取締役、台湾石炭株式会社取締役などを務めた。
小高 長三郎(おだか ちょうざぶろう、1890年(明治23年… 小高 長三郎(おだか ちょうざぶろう、1890年(明治23年)11月19日 – 1958年(昭和33年)3月26日)は、衆議院議員(立憲政友会)、外務参与官。ジャーナリスト。 千葉県武射郡蓮沼村(現在の山武市)出身。1910年(明治43年)、大倉商業学校(現在の東京経済大学)を卒業。自由通信社に入社し、外交部長、支配人、社長を歴任した。 1932年(昭和7年)、第18回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、第21回衆議院議員総選挙まで4回連続当選を果たした。その間、米内内閣で外務参与官を務めた。 大政翼賛会の推薦議員のため公職追放となった。 また『立憲政友会史』『立憲政友会報国史』の編纂に携わった。
11代 池本 甚四郎(いけもと じんしろう、1890年(明治… 11代 池本 甚四郎(いけもと じんしろう、1890年(明治23年)11月18日 - 1964年(昭和39年)1月30日)は、大正から昭和期の農業経営者、醸造家、政治家。衆議院議員、京都府会議長、京都府久世郡小倉村長、宇治市長。旧名・嘉一郎、号・水也。 京都府久世郡小倉村大字小倉小字久保(現宇治市小倉町)で、素封家の10代池本甚四郎、静の長男として生まれる。小倉尋常小学校(現宇治市立小倉小学校)、久世郡組合高等小学校、伏見彰徳高等小学校、府立京都第二中学校(現京都府立鳥羽高等学校)を経て、1913年(大正2年)3月、山口高等商業学校を卒業した。卒業後、家業の醤油醸造業に従事した。1920年(大正9年)4月、京都市立第一商業学校(現京都市立西京高等学校・附属中学校)教諭に就任し、また宇治に設立された夜間中学の教師も務めた。
渡辺 素舟(渡邊 素舟、わたなべ そしゅう、1890年11月… 渡辺 素舟(渡邊 素舟、わたなべ そしゅう、1890年11月16日 - 1986年1月16日)は、工芸研究者。 愛知県西春日井郡新川村(現・清須市)出身。本名は清重郎。1916年東洋大学専門部哲学科卒。1931年帝国美術学校講師、多摩帝国美術学校教師、1939年東京高等工芸学校講師、1948年多摩造形芸術専門学校教授。1953年校名変更で多摩美術大学教授、1965年定年退任、名誉教授。1961年「東洋文様史の研究」で東洋大学文学博士。日本工芸会評議員。東洋に伝わる建造物や工芸品、着物の文様を系統的に研究した先駆者。
鈴木 義尾(すずき よしお、1890年(明治23年)11月1… 鈴木 義尾(すずき よしお、1890年(明治23年)11月15日 - 1944年(昭和19年)11月21日)は、日本の海軍軍人。海軍中将。前名は義雄。主な軍歴を第二艦隊に歩み、太平洋戦争において軍令部第二部長、第三戦隊司令官を歴任。マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦に参戦し、台湾沖で乗艦「金剛」 の沈没時に戦死した。 山形県出身。新庄中学を経て、海軍兵学校40期を卒業。席次は144名中29番。鈴木は海軍大学校航海学生を修了した航海科専攻士官で、重巡洋艦「加古」など4艦の航海長を務めた。 大尉で第一艦隊参謀を務め海大甲種23期を修了。高木武雄、角田覚治、田結穣らが同期生である。中佐時代は欧米出張を経て、日本海軍の前進部隊である第二艦隊の参謀に就任。
坪山 徳弥(徳彌、つぼやま とくや、1890年(明治23年)… 坪山 徳弥(徳彌、つぼやま とくや、1890年(明治23年)11月15日 – 1970年(昭和45年)12月28日)は、大正から昭和期の農業指導者、政治家。衆議院議員(3期)、参議院議員(1期)、栃木県河内郡姿川村長。栃木県を代表する戦後昭和期の農業指導者。 栃木県河内郡姿川村下欠(現宇都宮市)で、坪山弥重、トモの二男として生まれる。1910年(明治43年)栃木県立宇都宮中学校(現栃木県立宇都宮高等学校)を卒業した。 その後、家業の農業に従事。徴兵され、その後、陸軍砲兵中尉に昇進し、帝国軍人教育会地方委員、帝国在郷軍人会姿川分会長、同河内郡連合分会長などを務めた。また、地方森林会議員、栃木県馬匹畜産組合連合会副会長、同養蚕組合連合会副会長などにも就任した。
崎山 武夫(さきやま たけお、1890年(明治23年)11月… 崎山 武夫(さきやま たけお、1890年(明治23年)11月15日 - 1934年(昭和9年)5月11日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党→立憲政友会)、鉄道官僚、ジャーナリスト。 鹿児島県鹿児島市に竪山吉太郎の二男として生まれ、崎山賢輔の養子となった。一年志願兵制度によって陸軍歩兵中尉に任じられ、1920年に中央大学経済学部を、翌年に日本大学法律科を卒業した。鉄道局書記、鉄道属、鉄道省嘱託を経て、やまと新聞記者となった。 1928年の第16回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、3回連続当選を果たした。その他、南九州窯業株式会社取締役も務めた。墓所は多磨霊園(11-1-11-8)
和田 清(わだ せい、1890年11月15日 - 1963年… 和田 清(わだ せい、1890年11月15日 - 1963年6月22日)は、大正後期から昭和前期にかけての東洋史学者。 1890年、神奈川県高座郡鶴嶺村(現在の茅ヶ崎市)の豪農の家に生まれた。第一高等学校を経て、東京帝国大学文科大学史学科東洋史学専攻に進学。1915年に卒業し、同大学大学院に進んだ。 大学院修了後は、中央大学予科および東京帝国大学講師となった。1924年に留学を命じられ、欧米や中華民国に留学。帰国の翌年の1927年に東京帝国大学助教授に昇格。折りしも、留学中に東京帝国大学における東洋史学の基礎を築いた白鳥庫吉・市村瓚次郎が定年退官を迎え、世代交代の最中にあった。和田は池内宏・加藤繁とともに新しい東洋史学科の中心的な地位に立つことになった。
富田 砕花(とみた さいか、1890年11月15日 - 19… 富田 砕花(とみた さいか、1890年11月15日 - 1984年10月17日)は、日本の詩人、歌人。校歌や市町歌の作詞など、旺盛な詩作活動を行なったことから「兵庫県文化の父」と称される。 岩手県盛岡市生まれ。本名・戒治郎。日本大学殖民科卒業。1902年に上京し、同年12月から会計検査院に勤める。1908年、与謝野寛と与謝野晶子の新詩社に加わり、石川啄木とともに歌会に参加する。以来、啄木に思想的な影響を受け、啄木の死に際してエッセイを発表した。 1912年、歌集『悲しき愛』を出版する。その前後にホイットマンやエドワード・カーペンターの訳詩集を刊行し、彼らの詩を日本に初めて紹介した。1915年、最初の詩集『末日頌』を上梓。
上山 市郎兵衛(うえやま いちろうべえ、前名・市三郎、189… 上山 市郎兵衛(うえやま いちろうべえ、前名・市三郎、1890年〈明治23年〉11月13日 - 没年不明)は、日本の実業家。元内外除虫菊会長。上山殖産代表取締役。和歌山県多額納税者。大日本除虫菊の創業者上山英一郎は養叔母ゆきの夫。 和歌山県有田郡保田村(現・有田市)出身。先代・市郎兵衛の長男。先代・市郎兵衛は南海水力電気を起こした。1922年、家督を相続し、前名・市三郎を改め襲名する。 祖業を継ぎ農業を営み、傍ら上山殖産会社を創立する。上山殖産社長、南海水力電気社長、関西配電理事、南海工業会長、内外除虫菊会長を務めた。 人となりは、朗らかな明るい紳士である。先代・市郎兵衛より、父子共に社会公共に尽した。
上野 基三(うえの きぞう、1890年(明治23年)11月8… 上野 基三(うえの きぞう、1890年(明治23年)11月8日 - 1953年(昭和28年)12月11日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。弁護士。 栃木県芳賀郡中村(現在の真岡市)に栃木県会議員上野大太郎の三男として生まれた。真岡中学校、第一高等学校を経て、1916年(大正5年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。西沢金山株式会社社員、第一生命保険相互会社社員、下野電力株式会社支配人、野州電気株式会社専務取締役などを務めた。その後、弁護士を開業し、栃木県会議員に選出された。 1930年(昭和5年)、第17回衆議院議員総選挙に出馬し当選。第18回衆議院議員総選挙でも再選を果たした。
永瀬 寅吉(ながせ とらきち、1890年(明治23年)11月… 永瀬 寅吉(ながせ とらきち、1890年(明治23年)11月5日 - 1965年(昭和40年)7月17日)は、日本の実業家・政治家。貴族院多額納税者議員、埼玉県川口市長(第3代)。 埼玉県北足立郡川口町(現:川口市)で、川口町長・鋳物業、永瀬庄吉の長男として生まれる。1909年、埼玉県立浦和中学校卒業後に東京高等工業学校を修了した。 1912年以降、永瀬鉄工所管理者、川口商工会議所会頭、川口鋳物工業組合理事などを務めた。 1933年、川口市の市制施行に伴い市会議員に就任し、初代議長を務めた。1935年7月1日、第3代川口市長に就任し、1938年4月1日まで在任。その他、埼玉県産業報国会副会長、大政翼賛会埼玉県支部参与などを務めた。
矢代 幸雄(やしろ ゆきお、1890年11月5日 - 197… 矢代 幸雄(やしろ ゆきお、1890年11月5日 - 1975年5月25日)は、日本の美術史家、美術評論家である。音楽家矢代秋雄は長男。秋雄の長女(孫)は古代ギリシア美術史研究者平山東子。妻の弟が木村健二郎。 横浜で讃岐高松藩元藩士の矢代宗勝と神戸出身の美佐の長男に生まれる。父は初め塗物屋を開業、のち商館番頭をしていた。横浜商業学校に進んだが、算盤が苦手で神奈川県立第一中学校に転校し、第一高等学校英法科を経て東京帝国大学法科大学に入学したが、文科大学英文科に転じ、1915年に卒業。一高時代から大下藤次郎主宰の日本水彩画研究所に通い、大学時代には第7回文展に入選。実家があまり裕福でなく、自作の水彩画を売ったり美術書の翻訳をしたりして学費の足しにしていたが、成績優秀で学資免除の特待生になった。
小林 篤一(こばやし とくいち、1890年(明治23年)11… 小林 篤一(こばやし とくいち、1890年(明治23年)11月5日 - 1972年(昭和47年)11月23日)は、大正・昭和期の産業組合活動家、政治家。参議院議員(1期)。ホクレン農業協同組合連合会の創立者とされる。 兵庫県城崎郡、のちの日高町(現豊岡市)で生まれる。8歳で北海道に移住し、現在の岩見沢市峰延町で農業を営む。1914年(大正3年)峰延産業組合(現峰延農業協同組合)を設立し理事に就任し、組合長を30年務めた。1919年(大正8年)北海道信用購買販賣組合聯合會(北聯、現ホクレン農業協同組合連合会)を設立し理事に就任。1936年(昭和11年)北聯会長に就任。北海道食糧営団理事長、同農業会長、同青果物配給公社社長、北海道販売農協連会長、道購買農協連合会会長、道農協中央会会長、全販連理事、全購連理事などを歴任。
山川 菊栄(やまかわ きくえ、旧字体: 山川 菊榮、1890… 山川 菊栄(やまかわ きくえ、旧字体: 山川 菊榮、1890年〈明治23年〉11月3日 - 1980年〈昭和55年〉11月2日)は、日本の婦人問題評論家・研究家、社会主義者、労働運動家、婦人運動家である。戦前、公娼制度の廃止、女性労働者の地位向上、古い家族制度の批判、社会主義フェミニズムの理論化、女性社会主義者の組織化などを展開。アウグスト・ベーベルの『婦人論』の最初の完訳者としても有名。戦後も、女性運動、婦人労働運動の理論的指導者として活動し、労働省の初代婦人少年局長をつとめた。 東京府東京市麹町区四番町(現:千代田区九段北)生まれ。旧姓は森田、後に青山姓となる。夫は山川均。息子は山川振作。 1916年、『青鞜』1月号に、「日本婦人の社会事業に就て伊藤野枝氏に與ふ」を発表し、『青鞜』1915年12月号に発表された伊藤野枝の論文「傲慢狭量にして不徹底なる日本婦人の公共事業に就て」を批判した。
栗田 元次(くりた もとつぐ、1890年〈明治23年〉11月… 栗田 元次(くりた もとつぐ、1890年〈明治23年〉11月3日 - 1955年〈昭和30年〉12月1日)は、日本の国史学者。名古屋大学名誉教授。旧制第八高等学校校長。専門は日本近世史。 愛知県愛知郡田代村(現・名古屋市千種区)出身。旧制明倫中(現・愛知県立明和高等学校)、旧制八高を経て、1914年に東京帝国大学文学部国史学科卒。 東京帝大史料編纂官補となり、「大日本史料」の編纂に従事。八高教授、広島高等師範学校教授、1929年に広島文理科大学教授、1946年に第八高等学校校長、1949年に名古屋大学教授。1953年に中日文化賞を受賞。 1955年、在官のまま病死。法名は顕学院釈元晃。桃巌寺に葬られた。
足立 達夫(あだち たつお、1890年(明治23年)11月3… 足立 達夫(あだち たつお、1890年(明治23年)11月3日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。 京都府天田郡福知山町(現在の福知山市)出身。1912年(明治45年)、第三高等学校卒業。1915年(大正4年)、高等文官試験に合格し、翌年に東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。司法官試補となったが、翌年に警視庁警部に転じ、同警視、赤坂青山警察署長、島根県警視・保安課長、同理事官・学務課長、香川県理事官・視学官・学務課長、同事務官、同書記官・学務部長、静岡県書記官・学務部長、青森県警察部長、栃木県警察部長、同内務部長、福岡県警察部長を歴任。1932年(昭和7年)、鹿児島県書記官・総務部長に就任し、1936年(昭和11年)に退官した。
西ノ海 嘉治郎(3代)(にしのうみ かじろう、1890年11… 西ノ海 嘉治郎(3代)(にしのうみ かじろう、1890年11月2日 - 1933年7月28日)は、鹿児島県西囎唹郡西国分村(現・鹿児島県霧島市)出身で井筒部屋に所属した大相撲力士。第30代横綱。本名は松山 伊勢助(まつやま いせすけ)。 1890年に鹿児島県で生まれる。子供の時から剛力で鳴り響いたため、二代目西ノ海嘉治郎に見出されたことから上京、鹿児島県出身の力士が多く所属する井筒部屋に入門した。1910年1月場所で源氏山大五郎と名乗って初土俵を踏むと順調に昇進、序二段、三段目、幕下で5戦全勝を記録し、十両2場所目の1915年5月場所でも6勝無敗1分を記録。1916年1月場所に新入幕を果たすとこの場所は9勝1敗の好成績で、1918年5月場所で関脇に昇進する。
河合 長明(かわい たけはる、1890年(明治23年)11月… 河合 長明(かわい たけはる、1890年(明治23年)11月2日 - 1971年(昭和46年)5月9日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 愛媛県松山市出身。陸軍士官学校第25期卒業。陸軍重砲兵射撃学校に乙種学生として入学、成績優等につき卒業時拳銃を下賜される。陸士教官(兵器学部教官、32期区隊長)、高射砲第3連隊副官を経て、1940年(昭和15年)3月9日に甘木の高射砲第4連隊長(西部軍・西部軍砲兵隊)に就任し、8月1日に陸軍砲兵大佐に進級した。1941年(昭和16年)7月22日に西部軍司令部附となり、11月12日に防空第5連隊長(東部軍・東部防空旅団)に就任して市川に位置した。 1944年(昭和19年)6月に第19野戦高射砲隊司令官(第8方面軍)に就任し、ラバウルに出征した。
吉岡 安直(よしおか やすなお、明治23年(1890年)11… 吉岡 安直(よしおか やすなお、明治23年(1890年)11月1日 - 昭和22年(1947年)11月30日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 農業・川内清作の五男として大分県に生れ、佐賀県の貿易商・吉岡又吉の養子となる。中津中学校、第五高等学校中退、士官候補生を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官した。陸士生徒隊付などを経て、1925年(大正14年)11月、陸軍大学校(37期)を卒業し歩兵第45連隊中隊長となる。 1927年(昭和2年)2月、参謀本部付勤務(庶務課)となり、参謀本部員、支那駐屯軍参謀、歩兵第45連隊大隊長、第8師団参謀などを歴任し、1932年(昭和7年)12月、関東軍参謀となり、翌年8月、歩兵中佐に昇進。
大迫 通貞(おおさこ みちさだ、1890年(明治23年)11… 大迫 通貞(おおさこ みちさだ、1890年(明治23年)11月1日 - 1974年(昭和49年)3月13日)は、鹿児島県出身の日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 鹿児島県日置郡、のちの東市来町(現日置市)で、農業・村長、大迫半七の子息として生まれる。川内中学校(現鹿児島県立川内高等学校)、名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1911年(明治44年)5月、陸軍士官学校(23期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第45連隊付となる。1923年(大正12年)11月、陸軍大学校(35期)を卒業し歩兵第45連隊中隊長に就任。 1925年(大正14年)3月、陸士教官となり、参謀本部員、参謀本部付(支那研究員、吉林駐在)を務め、1927年(昭和2年)7月、歩兵少佐に昇進。
佐藤 与助(與助)(さとう よすけ、1890年11月1日 -… 佐藤 与助(與助)(さとう よすけ、1890年11月1日 - 1971年)は、日本の資源工学者。専門は採炭学、及び日本の炭鉱・炭田に関する史的研究。 三宅長市の三男として福岡市に生まれ、炭鉱経営者で篤志家であった佐藤慶太郎の養子となる。1910年福岡県立中学修猷館、1913年7月第五高等学校工科を経て、1916年7月九州帝国大学工学部採炭学科を卒業。 卒業後、九州帝国大学工学部講師となり、1918年9月採炭学研究のため欧米に留学、1920年6月に帰国後、明治専門学校(現・九州工業大学)の教授に就任し、鉱山学科長、および採炭学科長を務めた。その後、東北帝国大学工学部講師を経て、1947年9月同教授に就任、1948年8月同鉱山学科主任教授となる。
森 律子(もり りつこ、1890年10月30日 - 1961… 森 律子(もり りつこ、1890年10月30日 - 1961年7月22日)は、日本の女優。最初期の女優として、また元代議士を父に持つお嬢様女優として話題を集め、喜劇を得意とした。 東京府東京市京橋区日吉町(現・東京都中央区銀座8丁目)生まれ。父は愛媛県松山出身の弁護士・衆議院議員の森肇(1864年-1927年)。肇は長髪がトレードマークの熱血漢であると同時に、癇癪を起こすと自宅で銃や日本刀を振り回すような暴君でもあり法曹界の名物男として有名だった。 跡見女学校卒業後、築地のサンマース、女子語学校専科で英語を学ぶ。1908年川上貞奴の帝国女優養成所に入り、帝劇女優第一期生となる。当時、芸人は卑しい職業とされていたため、跡見女学校の同窓会から除名されたとの説を福田和也らが書いているが、実際にはその後も同窓会に出席している。
菊池 山哉(きくち さんさい、1890年〈明治23年〉10月… 菊池 山哉(きくち さんさい、1890年〈明治23年〉10月29日 - 1966年〈昭和41年〉11月17日)は、東京府出身の郷土史家、土木技師、政治家(東京市会議員)。本名は菊池武治。 1890年10月29日、東京府府中駅字新宿(現在の東京都府中市宮町)に生まれる。父・菊池金之丞、母・サタの四男。 1904年、府中町立高等小学校を首席で卒業。1906年1月まで私塾至誠学舎と原田塾に通い、数学と漢学を修める。2月に工手学校(現在の工学院大学)の土木予科に入学する。 1908年、東京府雇の技手判任官となる。1912年、東京府を退官し、東京市役所河港課に転じる。同年、東京人類学会と歴史地理学会と考古学会に入会する。
東海林 俊成(しょうじ とししげ/としなり、1890年10月… 東海林 俊成(しょうじ とししげ/としなり、1890年10月27日 - 1974年12月10日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍少将。
田中 耕太郎(たなか こうたろう、1890年(明治23年)1… 田中 耕太郎(たなか こうたろう、1890年(明治23年)10月25日 - 1974年(昭和49年)3月1日)は、日本の法学者、法哲学者、裁判官、政治家。専門は商法。学位は法学博士。東京帝国大学法学部長、第1次吉田内閣文部大臣、第2代最高裁判所長官、国際司法裁判所判事、日本学士院会員。日本法哲学会初代会長。文化勲章、勲一等旭日桐花大綬章を受章。大勲位菊花大綬章を没後叙勲、正二位を追贈された。松本烝治に師事。弟子に山尾時三、伊沢孝平、西原寛一、鈴木竹雄、石井照久、矢沢惇など。 裁判官・検察官であった田中秀夫の長男として鹿児島県鹿児島市に生まれる。父の出身地は佐賀県杵島郡北方村(現在の武雄市)。 高等小学校2年次に岡山中学入学。
関 泰祐(せき たいすけ、1890年10月25日 - 198… 関 泰祐(せき たいすけ、1890年10月25日 - 1988年2月10日)は、日本のドイツ文学者、翻訳家。 1890年、京都府で生まれた。東京帝国大学独文科で学び、卒業。 卒業後は教員となり、新潟高等学校教授、静岡高等学校教授、第一高等学校教授を務めた。水戸高等学校校長。 戦後は一橋大学教授に就いた。その後、学習院大学教授、国士舘大学教授を務めた。 トーマス・マン、ゲーテ、テオドール・シュトルムなどを訳した。
浜田 三郎(はまだ さぶろう、1889年〈明治22年〉11月… 浜田 三郎(はまだ さぶろう、1889年〈明治22年〉11月22日 - 没年不明)は、日本の実業家、静岡県多額納税者。相模屋社長。熱海伊豆山温泉組合長。 静岡県田方郡熱海町(現・熱海市)の温泉旅館業、相模屋・浜田文作の息子。1913年、家督を相続した。温泉旅館業を営んだ。千人風呂相模屋旅館を経営し、静岡県多額納税者に列した。永く区長の要職にあった。 熱海小学校学務委員であった。伊豆銀行、箱根ホテル各監査役、伊豆銀行熱海支店相談役を兼任した。 相模屋旅館について、三郎によると「先代文作が苦心経営の結果、顧客の信用を高め高評を博するようになり、千人風呂に久邇宮殿下の御行啓の幸栄を賜り、また松方侯爵、浅野侯爵、松浦伯爵、寺島伯爵、渡辺子爵、三浦子爵、後藤男爵等の諸華族方を始め、文士には、大町桂月、有島武郎、実業家には、福島浪蔵、山科礼蔵、織田昇次郎、久原房之助、村井吉兵衛の諸氏も来遊されてこの風呂で深い感興をそそられたこともあった」という。
生田 花朝女(いくた かちょうじょ、1889年(明治22年)… 生田 花朝女(いくた かちょうじょ、1889年(明治22年)11月22日 - 1978年(昭和53年)3月29日)は、明治時代から昭和時代にかけての日本画家。 菅楯彦と北野恒富の門人。本名、生田稔(みのり)。始め花朝と号し、のちに花朝女と号した。1889年、大阪市天王寺区上之宮町で生まれており、現在は生誕地の碑が建っている。父は国学者の生田南水。父に俳句、藤沢黄波に漢学、近藤尺天に国学を学ぶ。大阪第一師範学校附属小学校を卒業後、喜多暉月に四条派を教わる。1912年、菅楯彦に師事してまず大和絵と有職故実を学んでいる。1921年に北野恒富に預けられ、白耀社にも所属した。1925年の第6回帝展に出品した「春日」が初入選を果たした。
中井 一夫(なかい かずお、1889年11月20日 - 19… 中井 一夫(なかい かずお、1889年11月20日 - 1991年10月18日)は、日本の裁判官・弁護士・政治家。位階は正四位。 太平洋戦争終戦直前に神戸市長に就任し、戦後の復興に携わった。雅号は和堂。勲二等旭日重光章、勲一等瑞宝章(1986年)、修交勲章崇礼章(1989年)受章。元神戸弁護士会長。神戸市名誉市民(1989年)。 1889年11月20日、大阪府大阪市東区瓦町(船場)に、薬問屋中井一馬・テルの末子(5男)として生まれる。中井家は代々大阪で家伝の膏薬を売る老舗で、父の一馬は大阪府議会議員と大阪市議会議員を兼任し、大阪府議会副議長、大阪市参事会員を務めた政治家でもあった。 中井曰く尋常小学校、高等小学校時代の成績は優秀で、毎年級長を務めた。
小野 竹喬(おの ちっきょう、 1889年(明治22年)11… 小野 竹喬(おの ちっきょう、 1889年(明治22年)11月20日 - 1979年(昭和54年)5月10日)は、近現代日本画を代表する日本画家。75年間の画業を通して、日本の自然の美しさを描き続けた。本名は小野英吉。 1889年(明治22年) 岡山県笠岡市西本町に四男として生まれる。祖父と長兄は画家であった。1903年(明治36年)長兄の勧めで京都に上り、竹内栖鳳に師事。「竹橋」の号を授かる。1909年(明治42年)栖鳳の勧めで同画塾の土田麦僊とともに、京都市立絵画専門学校(絵専、現:京都市立芸術大学)の第一期生として入学(1911年卒業)。 当時の栖鳳は写生派の伝統とカミーユ・コローの写実表現を融合した作品を描いていた。
魚澄惣五郎(うおずみ そうごろう、明治22年(1889年)1… 魚澄惣五郎(うおずみ そうごろう、明治22年(1889年)11月17日 - 昭和34年(1959年)3月26日)は、日本の日本史学者。広島大学名誉教授。 明治22年(1889年)11月17日、兵庫県神戸市兵庫区宮前町において、魚澄惣一郎・くま夫妻の次男として生まれる。 明治41年(1908年)3月25日、第八高等学校第一部乙類に入学する。 明治44年(1911年)2月に『八高校友会雑誌第二号』に最初の論文「政治家としての新井白石」を発表し、7月1日に第八高等学校を卒業。8月31日に東京帝国大学文科大学史学科に入学し国史学を専攻する。 大正3年(1914年)7月10日、東京帝国大学文科大学史学科を卒業し、9月1日に京都帝国大学大学院に入学する。
川上 四郎(かわかみ しろう、1889年(明治22年)11月… 川上 四郎(かわかみ しろう、1889年(明治22年)11月16日 - 1983年(昭和58年)12月30日)は、大正から昭和にかけて活動した日本の童画画家、挿絵画家。牧歌的な農村風景を得意とし、素朴な画風で親しまれた。大正期の童話・童謡運動(雑誌『赤い鳥』を中心に巻き起こった童話や童謡を巡る児童文学運動。童心主義も参照)の影響を受けて、児童向けの絵画の芸術的地位を高めるため、「童画」という言葉を作り、振興に努めた。このことから、「童画の父」「日本童画の父」とも呼ばれる。 1889年(明治22年)11月16日、新潟県古志郡上組村大字摂田屋(現・長岡市摂田屋)の豪農であった父・川上半四郎(屋号「川半」、井上円了の従兄弟)と母ヨシの四男として生まれる。
小山 邦太郎(こやま くにたろう、1889年〈明治22年〉 … 小山 邦太郎(こやま くにたろう、1889年〈明治22年〉 11月16日 - 1981年〈昭和56年〉 3月24日)は、日本の政治家、実業家。戦前の長野県会議員から衆議院議員(6期)。戦後、参議院議員(3期)。参議院永年在職議員。初代小諸市長。位階は正三位。勲等は勲一等。 長野県北佐久郡小諸町生まれ。小諸高等小学校を経て、長野市立甲種商業学校卒業。小諸高等小学校在学時には、自由主義教育者の伊藤長七の影響を受けた。 戦前は明正会・立憲民政党に所属したが戦後公職追放され、追放解除後は旧民政党左派の松村謙三・粟山博・鶴見祐輔・中村三之丞・松浦周太郎・川崎末五郎らと行動をともにした。政界復帰後は自由民主党松村・三木派に所属した。
鈴木 謙二(すずき けんじ、1889年(明治22年)11月1… 鈴木 謙二(すずき けんじ、1889年(明治22年)11月16日 - 1948年(昭和23年)2月25日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功三級。 新潟県岩船郡村上本町(現・村上市)出身。陸軍士官学校第23期、陸軍大学校第34期卒業。1921年(大正10年)4月に陸軍歩兵大尉に進級し、1926年(大正15年)8月に陸軍歩兵学校教官兼同校研究部部員陸軍大学校兵学教官に就任した。1927年(昭和2年)5月に陸軍歩兵少佐に進級し、同年8月に陸軍大学校兵学教官専任となり、1930年(昭和5年)12月に近衛歩兵第1連隊附に移り、1931年(昭和6年)6月に陸軍歩兵中佐に進級した。1932年(昭和7年)4月に第10師団参謀に転じ、満州事変に出動。
大津 和郎(おおつ わろう、1889年(明治22年)11月1… 大津 和郎(おおつ わろう、1889年(明治22年)11月16日 - 1941年(昭和16年)8月10日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 山形県米沢市上花沢片町出身。1911年(明治44年)5月、陸軍士官学校(23期)を卒業し、同年12月、工兵少尉に任官。1920年(大正9年)11月、陸軍大学校(32期)を卒業し、参謀本部通信課に配属された。 1935年(昭和10年)3月、工兵大佐に昇進し、参謀本部通信課長に就任。1938年(昭和13年)7月、陸軍少将に進級し、陸軍通信学校付となり、さらに同校幹事を務めた。1938年(昭和13年)10月、台湾軍参謀長となる。 1940年(昭和15年)3月、近衛師団司令部付となり、同年7月、鎮海湾要塞司令官に就任。
眞田 範衞(さなだ のりえ、1889年11月15日 -194… 眞田 範衞(さなだ のりえ、1889年11月15日 -1946年3月15日)は、日本の教育者。旧制灘中学校初代校長。戦後まもない1946年に発疹チフスに感染し、灘校校長在職中に死去した。唱歌や童謡の作詞も行い、灘校の校歌・生徒歌の作詞の他、国定教科書に詩が採用されている。
千葉 あやの(ちば あやの、1889年〈明治22年〉11月1… 千葉 あやの(ちば あやの、1889年〈明治22年〉11月14日 - 1980年〈昭和55年〉3月29日 )は、日本の染色家。宮城県文字村(現栗原市)出身。 日本最古の染色技術といわれる「正藍染(正藍冷染)」の技法の保持者として、人間国宝に認定された。 1889年11月14日、文字村の佐藤善五郎・きよのの三女として生まれる。幼少より機織りに優れたといわれる。1909年6月22日、千葉彦右衛門の養子由之助に嫁ぐ。 中国大陸から日本に伝わった藍染の技術は、日本各地で行われていた。あやのの生まれた栗駒山麓の農村でも、栽培した麻を布に織り、藍で染めて衣料の自給を行っていた。明治から大正期にかけて、昔ながらの藍染めを行う家が文字村には20軒ほどあったが、近代化により、昭和20年代には千葉家を含めて2軒を残すのみとなっていた。
木下 又三郎(きのした またさぶろう、1889年11月13日… 木下 又三郎(きのした またさぶろう、1889年11月13日 - 1977年3月8日)は、日本の実業家。