野田 正昇(のだ まさのり / せいしょう、1876年(明治… 野田 正昇(のだ まさのり / せいしょう、1876年(明治9年)12月21日 - 1947年(昭和22年)6月11日)は、明治から昭和前期の農業経営者、政治家、陸軍軍人。衆議院議員、愛知県会議長、愛知県丹羽郡大口村長、陸軍歩兵少尉。 愛知県丹羽郡大屋敷村(太田村、大口村を経て現大口町)で、代々庄屋を務めた野田家当主・野田庄右衛門の長男として生まれる。1886年(明治19年)家督を相続した。陸軍教導団に入団し日露戦争に従軍。陸軍歩兵少尉に進み陸軍幼年学校教官として務め予備役編入となった。1907年(明治40年)早稲田大学専門部法律科を卒業して帰郷し、農業を営む。 丹羽郡養蚕組合長、同桑苗組合長、同農会長、愛知県養蚕業組合連合会長、同耕地協会副会長などを務めた。
九条 恵子(くじょう やすこ、1876年(明治9年)12月1… 九条 恵子(くじょう やすこ、1876年(明治9年)12月19日 - 1956年(昭和31年)5月8日)は、公爵・九条道実(九条道孝の長男)の妻。大谷光瑩の次女。母は木下俊愿の三女・恒子。 跡見女学校(現跡見学園女子大学)卒業。名家の子女が学ぶ学校として著名だった跡見女学校の卒業生のなかでも、とくに才能が秀でており、「跡見三才媛」の一人と呼ばれた。道実との間に一男五女を儲けた。長男は道秀。長女・兼子は侯爵佐竹義春(佐竹義生の長男)、次女・豊子は中山輔親(中山孝麿の子)、四女・敏子は賀陽宮恒憲王に嫁いだ。恵子は大日本婦人教育会評議員、愛国婦人会本部評議員、婦人法話会幹事として活躍した。79歳で死去。
加護谷 祐太郎(かごたに すけたろう 1876年(明治9年)… 加護谷 祐太郎(かごたに すけたろう 1876年(明治9年)12月19日 - 1936年(昭和11年)6月7日)は、日本の建築家。 兵庫県明石生まれ。姫路中学、第三高等学校(京都)を経て東京帝国大学工科大学建築学科に進む。 1904年(明治37年)、東京帝国大学を卒業。同年、奈良県技師となり、東大寺大仏殿の修理に携わる。その後、山梨県(県立病院)、辰馬汽船、兵庫県(鶴林寺太子堂修理など)、大分県(県庁)などで業務に従事。1922年に東京市技師、建築課長。翌年関東大震災が起こり、1925年まで震災復興に当たる。東京市退職後は丹羽鋤彦、竹内季一と共同で建築事務所を開設。1931年より加護谷建築事務所を主宰。
須藤 吉之祐(すどう きちのすけ、1876年12月19日 -… 須藤 吉之祐(すどう きちのすけ、1876年12月19日 - 1956年10月2日)は、日本の経済学者、教育者。立教大学元学長、立教大学経済学部元教授。 1894年(明治27年)、立教学校(現・立教大学)卒業。同期には木村重治(立教大学元学長)がいる。 1897年(明治30年)にアメリカに留学し、ペンシルベニア大学に入学。1900年(明治33年)に同大学を卒業。 その後、母校である立教大学の教員となり、経済学部教授を務める。 1932年(昭和7年)9月に、杉浦貞二郎の後任として木村重治が立教大学学長に就任し、経済学部長を兼任すると、経済学科長に河西太一郎、商学科長に須藤吉之祐が着任した。 1936年(昭和11年)7月、立教大学学長(事務取扱)に就任し、翌年3月まで務めた。
島木 赤彦(しまき あかひこ、1876年(明治9年)12月1… 島木 赤彦(しまき あかひこ、1876年(明治9年)12月16日 - 1926年(大正15年)3月27日)は、日本の明治・大正時代のアララギ派歌人。本名は久保田俊彦。別号、柿乃村人。 長野師範学校を卒業後、小学校教員を務める傍ら、1903年に歌誌「比牟呂」を創刊、やがて伊藤左千夫の門下となった。 1909年には「比牟呂」を「アララギ」に合流させ、以来、斎藤茂吉、土屋文明らと並ぶアララギ派の有力歌人として活躍。左千夫と長塚節なきあとは上京し、「アララギ」の編集責任者となった。 1876年(明治9年)12月16日、長野県諏訪郡上諏訪村角間(現諏訪市元町)に旧諏訪藩士・塚原浅茅と妻・さいの四男として生まれる。
高階 瓏仙(たかしな ろうせん、1876年12月15日 - … 高階 瓏仙(たかしな ろうせん、1876年12月15日 - 1968年1月19日)は、日本の仏教学者、僧侶。曹洞宗大学(現駒澤大学)教授。總持寺独住第12世貫首、永平寺第71世貫首、曹洞宗第18代管長、全日本仏教会長を歴任。道号は玉堂。 福岡県嘉穂郡臼井村生まれ。1890年永泉寺の高階黙仙住職について得度。1901年曹洞宗大学林(現駒澤大学)卒業。同年より曹洞宗の内地留学生として京都で仏教研究。1903年福岡県の永泉寺住職。1904年可睡斎の日置黙仙に4年に渡り随待参禅し、1905年静岡県の崇信寺住職となる。1909年曹洞宗大学教授に就任。1910年曹洞宗特選議員となり、以後宗議会議長、宗務院総務を歴任。
一柳 貞吉(ひとつやなぎ さだきち、1876年(明治9年)1… 一柳 貞吉(ひとつやなぎ さだきち、1876年(明治9年)12月15日 - 1941年(昭和16年)11月4日)は、日本の実業家・著述家。王子製紙取締役・監査役を務めるかたわら、一柳家にまつわる歴史の編纂や史跡の保護にあたった。諱として「直幹」、号として「南峰」を称している。 1876年(明治9年)、岐阜県大垣生まれ。父は大垣藩で藩校教授を務めていた一柳元吉(1842年 - 1919年、諱は「薫」、号「芳洲」)。実弟に、文部省社会教育局長・国民精神文化研究所所長となる関屋龍吉がいる。生家の一柳家は、江戸時代初期に伊予国西条藩主であった一柳家の流れを汲む。西条藩一柳家は3代藩主一柳直興の時に改易処分を受けたが、直興の弟・一柳直照が5000石で別家を立てており、その家は大身旗本として幕末まで存続した。
菅沼 周次郎(すがぬま しゅうじろう、1876年(明治9年)… 菅沼 周次郎(すがぬま しゅうじろう、1876年(明治9年)12月15日 - 1963年(昭和38年)12月26日)は、明治時代から昭和時代の日本海軍軍人、教育者。西海学園高等学校の創立者である。 旧平戸藩士菅沼量平の二男として長崎県松浦郡平戸(現平戸市)に生まれる。兄は平戸派南進論者として知られた菅沼貞風で、幼時よりその指導を受けた。 兄の死後、海軍兵学校(26期)に進み海軍入り。日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦に従軍。 1924年(大正13年)に少将・佐世保鎮守府人事部長を最後に退官した後、佐世保市助役に推されたが辞退し当時佐世保に無かった男子の進学できる私立普通中学の創設を志した。退官翌年の1925年(大正14年)、「西海中学」(のちの西海学園高等学校)を佐世保市八幡町に開校。
馬渡 俊雄(まわたり としお、1876年(明治9年)12月1… 馬渡 俊雄(まわたり としお、1876年(明治9年)12月14日 - 1946年(昭和21年)2月1日)は、日本の内務・警察官僚、実業家。官選県知事。旧姓・加藤。 東京府豊多摩郡淀橋町で加藤弘之の三男として生まれる。1885年7月、佐賀藩の家老諫早一学の家臣で、判事や弁護士を務めた馬渡俊猷の養子となる。第一高等学校を経て、1901年9月、東京帝国大学法科大学政治学科に入学。1905年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1906年、東京帝大を卒業し内務省に入省、愛知県属となる。 以後、滋賀県事務官、大阪府事務官、山口県事務官・警察部長、福岡県事務官・警察部長、神奈川県警察部長、和歌山県内務部長、新潟県内務部長などを歴任。
川村 数郎(かわむら かずろう、1876年〈明治9年〉12月… 川村 数郎(かわむら かずろう、1876年〈明治9年〉12月14日 - 1939年〈昭和14年〉12月3日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 岐阜県、のちの岐阜市出身。貿易業を営む。朝鮮煙草、日本テレビン油、丸山乾燥各(株)取締役、(株)中井商店、新公論社各理事、中外化学工業(株)、岐阜毎夕新聞、濃飛日報各社長となる。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において岐阜4区から立憲政友会公認で立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1924年の第15回衆議院議員総選挙では政友本党から立候補したが落選した。1928年の第16回衆議院議員総選挙では岐阜2区から立憲民政党公認で立候補したが落選した。
禱 苗代(祷 苗代、いのり しげしろ、1876年(明治9年)… 禱 苗代(祷 苗代、いのり しげしろ、1876年(明治9年)12月12日 - 1927年(昭和2年)5月13日)は、明治から昭和初期の教育者・弁護士・政治家。衆議院議員(立憲政友会→政友本党)。 鹿児島県大島郡赤尾木村(龍郷村を経て現龍郷町)で、禱朝衡、みよ の長男として生まれた。沖縄師範学校を卒業し、1898年(明治31年)、沖縄県国頭小学校校長となり、1905年(明治38年)には東京市東陽小学校校長に就任した。その後、日本大学に入り、1909年(明治42年)に卒業した。同年、司法官試補となったが、翌年に退官し、東京で弁護士を開業した。 帰郷して1920年(大正9年)5月、第14回衆議院議員総選挙(鹿児島県第8区、立憲政友会公認)で当選。
津末 良介(つのすえ りょうすけ、1876年(明治9年)12… 津末 良介(つのすえ りょうすけ、1876年(明治9年)12月11日 - 1949年(昭和24年)12月3日)は、日本の衆議院議員(立憲同志会→憲政会→新政会)。弁護士。 大分県大分郡滝尾村(現在の大分市)出身。第五高等学校を経て、1904年(明治37年)に京都帝国大学法科大学独法科を卒業。司法官試補となり大分地方裁判所に勤務したが、辞して1905年(明治38年)に同地に弁護士事務所を開いた。1908年(明治41年)に大分弁護士会長に選ばれ、1911年(明治44年)には大分市参事会員に選ばれた。 1912年(明治44年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第13回に至るまで連続3回当選を果たした。
藤田 若水(ふじた わかみ、1876年(明治9年)12月11… 藤田 若水(ふじた わかみ、1876年(明治9年)12月11日 – 1951年(昭和26年)12月30日)は、日本の弁護士、衆議院議員(立憲民政党)。司法参与官。広島市長(官選)。早稲田大学評議員。 愛媛県新居郡中荘村大字中村(現在の新居浜市)出身。藤田甸之の四男。 1898年(明治31年)、東京専門学校(現在の早稲田大学)邦語行政科を卒業。1900年(明治33年)、弁護士試験に合格。 1901年(明治34年)、大阪に弁護士事務所を開き、1903年(明治36年)に広島市に移った。広島では弁護士副会長や弁護士会長を務めた。 広島市会議員、広島県会議員、県参事会員、県会副議長を歴任した後、1927年(昭和2年)の衆議院議員補欠選挙に当選。
太田 水穂(おおた みずほ、1876年(明治9年)12月9日… 太田 水穂(おおた みずほ、1876年(明治9年)12月9日 - 1955年(昭和30年)1月1日)は、明治期から昭和期の日本の歌人・国文学者。本名は太田貞一、別号・みづほのや。歌人・太田青丘は養子。 長野県東筑摩郡広丘村(現・塩尻市)に、太田億五郎の三男として生まれる。太田家は太田道灌の一族との伝がある。幼少から父より孝経の素読や百人一首の和歌を教えられる。 広丘高等小学校(現・塩尻市立広丘小学校)卒業後、長野県師範学校(現・信州大学教育学部)に進学。教師には高橋白山、浅井洌、高島平三郎がいた。在学中に詩歌に興味を持ち、文芸雑誌「文学界」に新体詩の投稿を始め、信濃毎日新聞に「和歌日抄」を掲載する。
稲葉 岩吉(いなば いわきち、1876年12月4日 - 19… 稲葉 岩吉(いなば いわきち、1876年12月4日 - 1940年5月23日)は、日本の歴史学者。専門は朝鮮史・中国史。旧姓は小林。号は「君山」。 1876年(明治9年)、現在の新潟県村上市で生まれた。1900年、高等商業学校附属外国語学校中国語部を卒業後、中華民国の北京に留学。1904年に勃発した日露戦争の際には、陸軍の通訳として従軍し、その後大阪商船に一時期勤務した。 1909年に満鉄調査部に入り、「満州朝鮮歴史地理調査」に携わった。1915年、陸軍大学校の教官に着任し、主に中国情勢についての講義を担当。 1922年、朝鮮総督府朝鮮史編纂委員会の委員兼幹事に任じられ、1925年からは修史官として歴史書『朝鮮史』の編集にあたった。
20代 木村 庄之助(にじゅうだい きむら しょうのすけ、1… 20代 木村 庄之助(にじゅうだい きむら しょうのすけ、1876年〈明治9年〉12月3日 - 1940年〈昭和15年〉3月9日)は、大相撲の立行司。 本名:後藤子之吉(旧姓・名川-鯉沼)。栃木県鹿沼市出身。所属は伊勢ノ海部屋、のち出羽海部屋。8代式守伊之助の弟子で、のち養子になった。21代庄之助は弟弟子にあたる。 明治後期から昭和初期の大相撲界を支えた近代名行司の第一人者で、行司史上屈指の名人と謳われている。人望、見識ともに備わり、名行司の証とも言われる 「松翁」 の称号を番付上に冠した。土俵態度、裁きともに秀で角界内では一目置かれていた。行司生活54年間に裁いた取組で差し違えはわずか2番のみであったという。
直木 倫太郎(なおき りんたろう、1876年(明治9年)12… 直木 倫太郎(なおき りんたろう、1876年(明治9年)12月1日 - 1943年(昭和18年)2月11日)は、日本の土木技術者・土木工学者、都市計画家。元帝都復興院技監。大陸科学院初代院長。元大阪市都市計画部長。関西工学専修学校(現:大阪工業大学)の創設時協力者。元大林組取締役。 新聞に投稿して入選した俳句から燕洋と号した。技術者の地位向上分野の先駆をなした「日本工人倶楽部」の活動でも活躍した技術官僚。 1876年、兵庫県で真島顕蔵の長男として生まれ、17歳で実業家・直木政之介(日本燐寸製造創業者)の養子となる。 姫路中学校、第三高等学校、第二高等学校を経て、1899年7月、東京帝国大学工科大学土木工学科卒業。
奥山 清治(おくやま せいじ、1876年(明治9年)11月3… 奥山 清治(おくやま せいじ、1876年(明治9年)11月30日 - 1965年(昭和40年)5月17日)は、日本の外交官。駐ギリシャ公使。 山形県北村山郡出身。1896年(明治29年)に旧制山形中学卒業。1903年(明治36年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、翌年に外交官及領事官試験合格した。シンガポール領事官補、オーストリア公使館三等書記官、外務省参事官、ロシア大使館一等書記官、外務省人事課長、同文書課長、国際連盟事務局次長、駐ギリシャ公使を務めた。 退官後は国際連盟協会主事を務めた後、満州国駐日大使館最高顧問となった。
石谷 源十郎(いしたに げんじゅうろう、1876年〈明治9年… 石谷 源十郎(いしたに げんじゅうろう、1876年〈明治9年〉11月30日 - 1951年〈昭和26年〉)は、日本の実業家、政治家、鳥取県多額納税者、地主。鳥取県会議員。鳥取県八頭郡智頭町会議員。八頭銀行頭取。因幡木材会社社長。因伯時報社取締役。 鳥取県八頭郡智頭町大字智頭出身。石谷源蔵の長男。1896年、鳥取中学校を卒業する。1905年、家督を相続する。父祖の家業である農業、林業の経営に従事する。 1911年、鳥取県会議員に当選し1期間をつとめ政友会鳥取県支部の幹部として活躍し、1919年、政友会鳥取県支部幹事長に挙げられる。 政友会に属し、地方名望家としてその名を知られる。政友会系統の政治家として智頭町を二分してアンチ米原民政派の勢力の中心だった。
金子 薫園(かねこ くんえん、1876年11月30日 - 1… 金子 薫園(かねこ くんえん、1876年11月30日 - 1951年3月30日)は、日本の歌人。
松岡 均平(まつおか きんぺい、1876年11月28日 - … 松岡 均平(まつおか きんぺい、1876年11月28日 - 1960年6月10日)は、法学博士。男爵・松岡康毅の長男。男爵、貴族院議員。東京帝国大学法科教授。
川口 誠三郎(かわぐち せいさぶろう、1876年(明治9年)… 川口 誠三郎(かわぐち せいさぶろう、1876年(明治9年)11月28日 - 1921年(大正10年)9月24日)は、明治から大正期の政治家、実業家。衆議院議員。 福島県安積郡、のちの郡山町(現:郡山市)の製糸業・川口半右衛門の二男として生まれる。質屋を営む。平郡線(磐越東線)の敷設、水郡線の開通に尽力した。 郡山町会議員、安積郡会議員、福島県会議員を務めた。1920年(大正9年)5月、第14回衆議院議員総選挙(福島県第4区、立憲政友会公認)で郡山初の衆議院議員に当選したが、議員在任中の1921年9月に死去した。
真崎 甚三郎(まさき じんざぶろう、旧字体: 眞崎 甚三郞、… 真崎 甚三郎(まさき じんざぶろう、旧字体: 眞崎 甚三郞、1876年〈明治9年〉11月27日 - 1956年〈昭和31年〉8月31日)は、日本の陸軍軍人。陸軍士官学校9期、陸軍大学校19期。最終階級は陸軍大将。栄典は正三位勲一等功四級。 荒木貞夫と共に皇道派の頭目の一人として、青年将校の衆望を集める。青年将校が起こした二・二六事件においては、犯人らの主張に沿って収束を図ったが、昭和天皇の強い反発を招き失敗した。 弟に海軍少将、衆議院議員の真崎勝次。長男に外務省、宮内庁の官僚で昭和天皇の通訳を長く務めた真崎秀樹。 1876年(明治9年)11月27日、中農の真崎要七の長男として佐賀県に生まれた。 佐賀中学(現佐賀県立佐賀西高等学校)を1895年(明治28年)12月に卒業後、士官候補生を経て1896年(明治29年)9月に陸軍士官学校に入学した。
石村 貞吉(いしむら ていきち、1876年(明治9年)11月… 石村 貞吉(いしむら ていきち、1876年(明治9年)11月27日 - 1973年(昭和48年)7月26日)は、大正時代から昭和時代の日本文学者。東京女子大学名誉教授。姓は石邨とも称した。号は平川。 東京府東京市麹町区(現在の東京都千代田区)に石村貞一の子として生まれる。父は長門国出身の儒学者であった。東京帝国大学文科大学史学科を1901年卒業する。大日本農会附属高等農学校の嘱託となる。1904年、愛知県立第一中学校の教諭となり、1917年から1920年の3年間同校の校長を務めた。1921年から大倉高等商業学校と東京女子大学の教授となった。日本基督教神学専門学校や武蔵高校の講師を兼務した。1923年の関東大震災が発生するまで塙保己一が開いた和学講談所の土蔵を改造した住宅に住んでいたが、貴重な経本と共に全て焼失した。
乾 政彦(いぬい まさひこ、1876年(明治9年)11月27… 乾 政彦(いぬい まさひこ、1876年(明治9年)11月27日 - 1951年(昭和26年)4月29日)は、奈良県出身の法学者、弁護士、貴族院議員。弟の東季彦と共に佐佐木信綱門下の歌人としても知られた。 十津川村出身。旧姓中垣。1889年、養子として乾家に入る。郷校文武館(現在の奈良県立十津川高等学校)を経て、1888年に上京。旧制日本中学校から第一高等学校を経て、1900年(明治33年)東京帝国大学法科大学を卒業後、同年、東京高等商業学校(現一橋大学)の講師に着任した。 1901年、文部省留学生としてドイツに渡り、ボン大学で民法を研究。1904年に帰国後、1905年から東京高商教授を務め、1914年に法学博士号を受けたが、1915年に弁護士へ転じ、1920年に東京高商が大学に昇格するまで非常勤講師として教鞭を執った。
長谷川 天渓(はせがわ てんけい、1876年〈明治9年〉11… 長谷川 天渓(はせがわ てんけい、1876年〈明治9年〉11月26日 - 1940年〈昭和15年〉8月30日)は、20世紀初期に活躍した日本の文芸評論家である。本名は長谷川誠也。 新潟県刈羽郡高浜町出身、柏崎に育つ。高田中学入学後上京し、東京専門学校(現早稲田大学)に学び、坪内逍遥や大西祝に学ぶ。卒業後は博文館に勤務し、雑誌『太陽』の編集にたずさわる。「小説家と時代精神」を発表し、評論活動にはいる。『太陽』1906年10月に「幻滅時代の芸術」を発表した。その後、『太陽』1908年1月の「現実暴露の悲哀」にいたるまで、自然主義文学を擁護する立場から論陣をはる。 1910年、社命により渡欧してからは評論活動よりも出版者としての活動が主となり、博文館の取締役もつとめた。
堀 光亀(ほり みつき、1876年11月24日 - 1940… 堀 光亀(ほり みつき、1876年11月24日 - 1940年6月25日)は、日本の教育者である。東京商科大学(後の一橋大学)の発展を支えた。商業大学必要論を著し、東京商業学校の商科大学昇格に貢献した。日本で初めて海運学を創設した。 1876年(明治9年)、長崎県で元島原藩士石河光英の三男として生まれた。画家・石河光哉は弟。長崎市立商業学校に入り、上京、東京商業学校に入学した。1902年(明治35年)卒業後、同校の講師となった。 欧米帰国後、堀は直ちに「商業大学必要論」を執筆する。同著の中で、堀は「吾人が商業大学の設立を望む所以のものは、徒に大学という名称に拘泥するが故にあらず、名実兼備せる商業大学の制度を確立しこれを設置するに在り。
松平 親信(まつだいら ちかのぶ、1875年〈明治8年〉12… 松平 親信(まつだいら ちかのぶ、1875年〈明治8年〉12月21日 - 1914年〈大正3年〉12月18日)は、明治・大正期の政治家、華族。貴族院子爵議員。幼名・龍若。 旧杵築藩主松平親貴の長男として生まれる。父の死去に伴い1882年(明治15年)10月12日に家督を継承し親信と改名。1884年(明治17年)7月8日に子爵を叙爵した。 学習院高等科を経て、1900年(明治33年)東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業し、さらに同大学院を修了した。浅草区教育会長を務めた。 1906年(明治39年)2月9日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、死去するまで在任した。会派は研究会に所属した。 1914年12月18日、東京市浅草区(現・台東区)浅草北三筋町の自宅で病のため死去した。
高原 操(たかはら みさお、1875年12月16日 - 19… 高原 操(たかはら みさお、1875年12月16日 - 1946年11月21日)は、日本のジャーナリスト。大阪朝日新聞主筆兼取締役編集局長。大正デモクラシーの第一線言論人。
黒住 成章(くろずみ せいしょう、前名・佐平治、1875年(… 黒住 成章(くろずみ せいしょう、前名・佐平治、1875年(明治8年)12月16日 - 1928年(昭和3年)7月17日)は、日本の弁護士、会社役員、政治家。衆議院議員(当選3回、立憲政友会)。族籍は岡山県平民。 1875年(明治8年)12月、岡山県津高郡一宮村(後の御津郡一宮町一宮、現在の岡山市北区一宮)で生まれる。黒住秀治の長男。生家は代々農業を営む。小学校卒業後、家業に従事する。 家が貧しく、学資を得ず、上京して牛乳配達、新聞配達等を勤めながら、1902年(明治35年)、和仏法律学校(現・法政大学)を卒業。 1903年(明治36年)、判検事登用試験に及第し、この年の12月に司法官試補を命ぜられ函館地方裁判所に勤務する。
山本 鶴一(やまもと かくいち、1875年〈明治8年〉12月… 山本 鶴一(やまもと かくいち、1875年〈明治8年〉12月15日 - 没年不明)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功四級。 島根県楯縫郡、後の簸川郡灘分村(現出雲市)で山本才之助の長男として生まれ、1900年(明治33年)に家督を相続した。 松江中学校(現島根県立松江北高等学校)を卒業。1897年(明治30年)11月、陸軍士官学校(9期)を卒業し、1898年(明治31年)6月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第11連隊付となる。1903年(明治36年)8月、陸軍大学校(20期)に入学。日露戦争勃発により1904年(明治37年)2月、陸大を中退し、1906年(明治39年)3月、陸大に復校し、1908年(明治41年)11月、同校を卒業し参謀本部に配属された。
6代 木津 太郎平(きづ たろへい、1875年(明治8年)1… 6代 木津 太郎平(きづ たろへい、1875年(明治8年)12月14日 - 1950年(昭和25年)7月8日)は、明治時代後期から昭和時代前期の政治家、実業家。衆議院議員。富山県高岡市長。富山県多額納税者。幼名は清太郎。号・蒼石、杉雨。 新川県射水郡高岡上川原町(石川県、富山県射水郡高岡上川原町を経て現・高岡市川原本町)で、先代・太郎平の長男として生れ、1903年(明治36年)3月に家督を相続し、幼名を改め、6代太郎平を襲名した。富山県立富山中学校(現富山県立富山高等学校)を卒業後、志願兵として従軍し陸軍歩兵中尉に任官する。日露戦争の功により功五級金鵄勲章および日独戦争の功により勲四等を叙勲される。
飛岡 卯一郎(とびおか ういちろう、1875年(明治8年)1… 飛岡 卯一郎(とびおか ういちろう、1875年(明治8年)12月13日 - 1925年(大正14年)6月25日)は、日本の政治家。帝国議会衆議院議員(1期)、鹿児島市会議員、鹿児島県会議員。 鹿児島県鹿児島市金生町出身。飛岡卯右衛門の長男として生まれる。1894年(明治27年)7月、鹿児島高等中学造士館予科卒業、1896年(明治29年)7月、鹿児島高等中学造士館本科卒業。1904年(明治37年)東京帝国大学法科大学政治学科卒業。鹿児島市会議員、鹿児島県会議員を歴任し、1912年(明治45年)5月の第11回衆議院議員総選挙において鹿児島市選挙区で当選、立憲政友会所属で1期務めた。そのほか、鹿児島商業会議所議員、同副会頭、第百四十七銀行(鹿児島銀行の前身のひとつ)常務取締役なども歴任。
瀬沼 夏葉(せぬま かよう、1875年12月11日 - 19… 瀬沼 夏葉(せぬま かよう、1875年12月11日 - 1915年2月28日)は日本の小説家、翻訳家、教師。本名は瀬沼 郁子(旧姓:山田)。アントン・チェーホフを初めて日本に紹介した。 高崎県高崎(現在の群馬県高崎市)で、種子業を営む父・山田勘次郎と母・よかの長女・郁子として生まれる。両親はともに正教会の信者であり、自身も早くから信者となった。1882年に主教のニコライ・カサートキンが高崎教会に来た際にはよかに連れられて他の信徒とともに前橋市まで出迎えに行き、大きくなったら駿河台の正教女子神学校に入学するよう勧められたという。1883年によかが結核のため亡くなったが、キリスト教徒である事を理由に先祖代々の墓所への埋葬を拒否されている。
大倉 和親(おおくら かずちか、1875年(明治8年)12月… 大倉 和親(おおくら かずちか、1875年(明治8年)12月11日 - 1955年(昭和30年)7月1日)は、明治期の実業家。日本陶器(現・ノリタケ)初代社長。東洋陶器(現・TOTO)社長、日本碍子社長、伊奈製陶(後のINAX、現・LIXIL)社長、大倉陶園主のほか、森村組取締役などを務めた。 大倉孫兵衛の長男として東京日本橋に生まれ、1921年に家督を相続する。慶應義塾幼稚舎から進んで、1894年(明治27年)慶應義塾正則本科を卒業し、森村組入社。明治28年渡米しイーストマン商業学校で学んだ後、森村組ニューヨーク店森村ブラザースに入る。欧米滞在9年を経て帰国し、明治37年日本陶器合名会社設立し、代表社員に就任。
結城 素明(ゆうき そめい、1875年(明治8年)12月10… 結城 素明(ゆうき そめい、1875年(明治8年)12月10日 - 1957年(昭和32年)3月24日)は、日本の明治から昭和にかけて活躍した日本画家。日本芸術院会員。 東京本所荒井町に、「池田屋」という酒屋を営んでいた森田周助の次男として生まれる。本名の貞松は勝海舟の命名といい、奇しくも後に素明は、「江戸開城談判」(聖徳記念絵画館蔵)において海舟の姿を描いている。10歳の頃、親類の結城彦太郎の養嗣子となる。明治24年(1891年)7月岡倉覚三(天心)の紹介で、川端玉章の画塾天真堂(天真社)に入門する。玉章に学びながら明治25年(1892年)東京美術学校日本画科に入学。常に墨斗と手帖を携帯し、目にとまったものは何でも写生したという。
新井 亀太郎(あらい かめたろう、1875年〈明治8年〉12… 新井 亀太郎(あらい かめたろう、1875年〈明治8年〉12月8日 - 1932年〈昭和7年〉11月7日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 群馬県出身。新井沢次郎の四男として生まれる。群馬県境野小学校、同山田第一高等小学校、錦城商業学校を経て、1896年(明治29年)11月陸軍士官学校(8期)を卒業。翌年6月、陸軍歩兵少尉に任官される。歩兵第16、9、35の各連隊付を経て、1903年(明治36年)陸軍大学校に入学。 日露戦争の勃発に伴い修学を中退、原隊復帰、第一回旅順攻撃(歩兵第35連隊第12中隊長)、第二回攻撃(歩兵第6旅団副官代理)、第三回攻撃及び奉天の会戦(同副官)に参加。 1907年陸軍大学校(第19期)を卒業。
野口 米次郎(のぐち よねじろう、1875年〈明治8年〉12… 野口 米次郎(のぐち よねじろう、1875年〈明治8年〉12月8日 - 1947年〈昭和22年〉7月13日)は、明治・大正・昭和前期の英詩人、小説家、評論家、俳句研究者。海外の文芸思潮の紹介に携わり、また海外に日本文化を紹介した。イサム・ノグチの父親。内田魯庵からノーベル文学賞の受賞を待望された。 愛知県海部郡津島町(現・津島市)生まれ。雑貨店を営む父・傳兵衛、母・久己(くわ)の四男として生まれた。10歳で英語を学び始める。 1888年(明治21年)生家を離れ名古屋で英学を学び、ユニオン第四読本、スマイルズ著『自助論』を学ぶ。1889年(明治22年)愛知県尋常中学校(現・愛知県立旭丘高等学校)に入学し、ザ・セカンド・ナショナル読本を学ぶも、1890年(明治23年)2月退学し、四日市から海路で上京、伯父である鵜飼大俊和尚旧居である芝・増上寺の通元院に寄寓し、のち現在の銀座に当たる京橋にあった長兄野口秀之助の知人である磯長宅に寄寓。
朽木 綱貞(くつき つなさだ、1875年(明治8年)12月2… 朽木 綱貞(くつき つなさだ、1875年(明治8年)12月2日 - 1929年(昭和4年)9月6日)は、明治から大正時代の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍少将。貴族院議員、子爵、工学博士。福知山藩13代(最後)の藩主朽木為綱の子。妻は徳川篤守の娘芳子。陸軍の火薬研究の権威であった。 1883年(明治16年)に父の為綱が没したため家督を継ぎ、1884年(明治17年)7月8日、子爵を襲爵する。慶應義塾幼稚舎を経て、1896年(明治29年)5月27日、陸軍士官学校(7期)を卒業。1897年(明治30年)1月、砲兵少尉任官。陸軍砲工学校高等科で学び、さらに陸軍派遣学生として東京帝国大学工科大学応用化学科を1904年(明治37年)6月に卒業。
松永 安左エ門(松永 安左衞門、まつなが やすざえもん、18… 松永 安左エ門(松永 安左衞門、まつなが やすざえもん、1875年(明治8年)12月1日 - 1971年(昭和46年)6月16日)は、「電力王」「電力の鬼」と言われた日本の財界人。政治家(帝国議会衆議院議員1期)。美術コレクター、茶人としても知られ、耳庵(じあん)の号を持つ近代小田原三茶人の一人。氏名は「松永安左ヱ門」と表記されることもある。
長谷川 如是閑(はせがわ にょぜかん、1875年(明治8年)… 長谷川 如是閑(はせがわ にょぜかん、1875年(明治8年)11月30日 - 1969年(昭和44年)11月11日)は、日本のジャーナリスト、文明批評家、評論家、小説家。明治・大正・昭和と三代にわたり、新聞記事・評論・エッセイ・戯曲・小説・紀行と約3000本もの作品を著した。大山郁夫らとともに雑誌『我等』(後に『批判』)を創刊し、大正デモクラシー期の代表的論客の一人。「如是閑」は雅号、本名は萬次郎。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 東京府深川区深川扇町(現在の東京都江東区木場)で、山本金蔵(幼名・徳治郎)・たけの次男として生まれる。山本家は江戸城築城に携わった棟梁の家系で、代々幕府から俸禄を受けていたが、金蔵の代からは材木商を営んでいた。
西野 元(にしの げん、1875年(明治8年)11月29日 … 西野 元(にしの げん、1875年(明治8年)11月29日 - 1950年(昭和25年)8月3日)は、日本の大蔵官僚、政治家、銀行家。大蔵次官、貴族院議員、枢密顧問官。大蔵省の至宝といわれた人物で、八八艦隊計画成立後に、海軍首脳に対しその実施不可能であることを踏まえワシントン会議に臨むよう訴えた。 茨城県出身。西野元聿の長男として生まれる。水戸中学校、第一高等学校を経て、1902年(明治35年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を優等で卒業し、銀時計を授与された。同年11月、文官高等試験行政科試験に首席合格。同年12月、臨時秩禄処分調査局属兼大蔵属に任官。一時期、上京してきた同郷の荒川敬を寄寓させていた。
12代 三木 与吉郎(みき よきちろう、1875年(明治8年… 12代 三木 与吉郎(みき よきちろう、1875年(明治8年)11月27日 - 1938年(昭和13年)6月23日)は、日本の政治家、実業家、漢詩人。衆議院議員、貴族院議員。徳島県松茂町出身。旧名は康治。号は天遊舎愛松。 先代・三木与吉郎順治の長男として板野郡松茂町中来喜で生まれる。後に与吉郎の名を襲名し、藍商・酒造業を営む三木家の12代目となる。後に、藍商を改組して、三木商店を創業し、初代社長に就任。また、阿波製紙も創業し、初代社長を兼ねた。若年、詩を前塚芳南、中村三蕉らに学び、詩・俳句を能くした。その後、二松學舎で学んだ。さらに、衆議院議員、貴族院議員を務める傍ら京都商業学校夜間部にも通い、同校を卒業した。
石田 昇(いしだ のぼる、1875年(明治8年)11月25日… 石田 昇(いしだ のぼる、1875年(明治8年)11月25日 - 1940年(昭和15年)5月31日)は、日本の医学者、精神科医。呉秀三門下生のひとり。 代々仙台藩の藩医を務めた家に生まれる。第二高等中学校在学中から短歌や小説に熱中。第五高等学校 (旧制)を経て、1899年に東京帝国大学医科大学に入学、1903年に卒業後、巣鴨病院(後の松沢病院)内にあった東京帝国大学精神病学教室の助手となり、29歳で『新撰精神病学』を執筆。これが呉秀三に認められ、1907年(明治40年)に31歳で長崎医学専門学校(後の長崎大学医学部)精神病学科の初代教授に就任。教授在任中には『新撰催眠療法』『健全なる精神』を執筆するなど、日本の精神医学の草創期に第一人者として活躍した。
阿部 信行(あべ のぶゆき、1875年〈明治8年〉11月24… 阿部 信行(あべ のぶゆき、1875年〈明治8年〉11月24日 - 1953年〈昭和28年〉9月7日)は、日本の陸軍軍人、政治家。 陸軍士官学校9期、陸軍大学校19期(恩賜)、陸軍大将。位階は正二位。勲等は勲一等。 予備役編入後、内閣総理大臣(第36代)、外務大臣(第59代)、翼賛政治会総裁(初代)、貴族院議員、朝鮮総督(第9代)を歴任した。 石川県金沢生まれ。父は旧金沢藩士・阿部信満。東京府尋常中学校を経て、第四高等学校に進むも中退し、陸軍士官学校に進んで陸軍砲兵将校となる。陸軍少将として参謀本部総務部長、陸軍省軍務局長の要職を務め、陸軍中将として陸軍次官、第4師団長、台湾軍司令官を歴任して陸軍大将に親任された。
磯部 尚(いそべ ひさし、1875年(明治8年)11月23日… 磯部 尚(いそべ ひさし、1875年(明治8年)11月23日 - 1935年(昭和10年)11月1日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。磯部四郎の娘婿。 福井県福井市で士族の日比登の二男として生まれる。1887年、私立長岡学校(現在の新潟県立長岡高等学校)卒。京都帝国大学教授で工学博士の日比忠彦は実兄。第一高等学校を経て、1898年に東京帝国大学法科大学を卒業。卒業後、直ちに弁護士を開業した。弁護士・貴族院議員の磯部四郎の長女艶子と結婚し、姓を改めた。 本所区会議員、東京市会議員を経て、1917年の第13回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、4回の当選を重ねた。その間、田中義一内閣で司法参与官を務めた。
太田 秀穂(おおた ひでお、1874年(明治7年)12月21… 太田 秀穂(おおた ひでお、1874年(明治7年)12月21日- 1950年(昭和25年)12月23日)は、日本の教育者。 茨城県出身。太田茂兵衛の四男。1898年(明治31年)、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業し、さらに大学院で学んだ。新潟県新潟師範学校教諭、山梨県師範学校校長、新潟県高田師範学校校長、長野県師範学校校長を歴任。1912年(明治45年)、朝鮮総督府視学官に転じ、さらに京城女子高等普通学校校長も兼ねた。1917年(大正6年)、佐賀県師範学校校長となり、1919年(大正6年)には台湾総督府視学官に転じ、翌年には台湾総督府台北師範学校も兼ねた。 1923年(大正12年)からは多摩少年院院長を務めた。
若林 徳懋(わかばやし のりしげ、1874年(明治7年)12… 若林 徳懋(わかばやし のりしげ、1874年(明治7年)12月20日 - 1939年(昭和14年)1月24日)は、明治時代後期から昭和時代前期の政治家、実業家。衆議院議員。 島根県周吉郡、のちの中条村、現在の隠岐の島町中央部出身。1896年(明治29年)島根県師範学校を卒業。ほか、明治法律学校、早稲田専門学校に学ぶ。小学校長となったのち農業に転じ、ついで中条村長、村農会長、島根県会議員、同参事会員、西郷町外十一箇村組合議員を歴任。ほか、満韓塩業社員、原田興業社長、同顧問を務めた。 1920年(大正9年)第14回衆議院議員総選挙で島根県第6区から立憲政友会所属で出馬して当選し、1期務めた。のち政友本党所属に転じた。
水野 吉太郎(みずの きちたろう、1874年(明治7年)12… 水野 吉太郎(みずの きちたろう、1874年(明治7年)12月18日 - 1947年(昭和22年)2月14日)は日本の政治家、弁護士。衆議院議員、高知弁護士会長。族籍は高知県平民。 1874年(明治7年)12月、高知県香美郡富家村に生まれる。水野源兵衛の長男。1899年(明治32年)に和仏法律学校法律科(現・法政大学)を卒業し、判事検事登用試験及び弁護士試験に合格する。 1900年(明治33年)に高知県で弁護士を開業するも、北海道に移住する。しかし、北海道での新聞事業の失敗、材木商との争いなどで、大連に渡る。 その後、高知県に帰郷し、1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選する(政友会)。
近藤 茂(こんどう しげる、1874年〈明治7年〉12月15… 近藤 茂(こんどう しげる、1874年〈明治7年〉12月15日 - 1954年〈昭和29年〉1月1日)は、明治から昭和初期にかけて活動した日本の電気技術者、実業家。工学博士。 逓信省の技官として電気局技術課長心得などを務め、退官後は実業界に転じて電力会社にかかわり大同電力常務取締役、昭和電力副社長に就任した。福井県出身。 福井県福井市出身。1874年(明治7年)12月15日、士族近藤寅之助の長男として生まれる。1896年(明治29年)7月第一高等学校第二部工科を卒業し、次いで1899年(明治32年)7月東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業した。同期に日本電気会長を務めた秋山武三郎らがいる。 卒業後は逓信省に入り、電気事業の監督にあたる。