南 好雄 (みなみ よしお、1904年〈明治37年〉1月29… 南 好雄 (みなみ よしお、1904年〈明治37年〉1月29日 - 1980年〈昭和55年〉9月4日)は、日本の政治家。位階は従三位。 衆議院議員(7期)、運輸大臣(第26代)を歴任した。 石川県羽咋郡高浜町(現在の志賀町)生まれ。第四高等学校、東京帝国大学独法科卒業後、1928年商工省に入省。商工省大臣官房会計課長、総理府東京地方物価局長を最後に、退職。戦時中は陸軍司政官に転出した。1949年、衆議院議員(当選7回)。1953年、第5次吉田茂内閣の建設政務次官、衆院公選法改正特別委員長を歴任。1960年、第1次池田内閣の運輸大臣として初入閣。1967年の総選挙に立候補せず、前年の衆議院解散をもって政界から引退。
星川 清孝(ほしかわ きよたか、1904年1月28日 - 1… 星川 清孝(ほしかわ きよたか、1904年1月28日 - 1993年7月11日)は、日本の漢文学者。学位は文学博士。 佐賀県小城郡小城町生まれ。1926年旧制大阪高等学校文科乙類卒業、1929年東京帝国大学文学部支那文学科卒業。松本高等学校教授、水戸高等学校教授を経て、茨城大学教授、1970年定年退官し名誉教授。桜美林大学教授、1979年に定年退休。 1959年「楚辞の研究」で、九州大学・文学博士の学位を取得、1962年同著で第14回読売文学賞(研究・翻訳部門)を受賞。
中山 省三郎(なかやま しょうざぶろう、1904年〈明治37… 中山 省三郎(なかやま しょうざぶろう、1904年〈明治37年〉1月28日 - 1947年〈昭和22年〉5月30日)は、日本の詩人、ロシア文学者。 茨城県真壁郡紫尾村大字酒寄(真壁町を経て現桜川市)で、開業医・中山清、りう の三男として生まれた。生後ひと月余りで母りうが亡くなり、紫尾村を離れて父の実家の大宝村へ移って育つ。同郷の詩人・横瀬夜雨の薫陶を受けて詩作を始め、田畑修一郎の勧めで早稲田大学露文科に進み原久一郎に学ぶ。火野葦平・田畑とともに同人誌を発行し、ロシア文学を翻訳・研究。また、詩人としては、日夏耿之介を介して北原白秋の知遇を得て、作品上でも私的にも親交があった。さらに、詩を書く他にも、横瀬夜雨や長塚節の遺稿集の編集などを行った。
影山 光一(かげやま こういち、1904年1月27日 - 1… 影山 光一(かげやま こういち、1904年1月27日 - 1964年3月26日)は、日本の電機および鉄道技術者で実業家。高知県出身。近畿日本鉄道(近鉄)元専務取締役である。 高知県安芸郡安芸町(現・安芸市)西浜に生まれる。旧制安芸中学校時代には平均点で95点とも98点ともいわれるほどの優秀な成績を残したという。 旧制松山高校を経て1926年に東京帝国大学工学部を卒業し、鈴木商店(現・味の素)に入社。まもなくイギリスに渡り、ウェスティングハウス(WH)の子会社であるメトロポリタン・ビッカース電機会社に工員(名目上は実習生)として勤務、技術を習得した。 1929年、同郷の先輩で近鉄の前身・参宮急行電鉄(参急)の幹部であった井内彦四郎に招聘され、中途入社として参急に入社する。
寺阪 英孝(てらさか ひでたか、1904年1月27日 - 1… 寺阪 英孝(てらさか ひでたか、1904年1月27日 - 1996年4月3日)は日本の数学者。専攻は幾何学。大阪大学名誉教授、理学博士(1938年)。正四位勲二等瑞宝章。
更科 源蔵(さらしな げんぞう、1904年1月27日(戸籍上… 更科 源蔵(さらしな げんぞう、1904年1月27日(戸籍上は2月15日) - 1985年9月25日)は、日本の詩人、アイヌ文化研究家。 北海道川上郡弟子屈町にて、新潟県からの開拓農民の家に生まれる。役場までの道が雪で閉ざされていたため出生届の提出が遅れ、2月15日生まれとされた。東京の麻布獣医畜産学校を中退し、帰郷する。詩誌『リリー』『潮霧』などを刊行、高村光太郎、尾崎喜八らに私淑し、詩作を始める。1925年に「抒情詩」の尾崎喜八選に入選したのをきっかけに、真壁仁、伊藤整らと交流を始める。1927年、『港街』創刊。1930年開拓農民とアイヌの現実を描いた詩集『種薯』を刊行。1929年から31年にかけて地元で代用教員となるが解雇され、札幌市に移り様々な職を転々としながら詩作とアイヌ文化研究を進める。
坂元 彦太郎(さかもと ひこたろう、1904年1月25日 -… 坂元 彦太郎(さかもと ひこたろう、1904年1月25日 - 1995年2月4日)は、日本の教育・保育学者。岡山大学名誉教授。 宮崎県都城市生まれ。1940年東京帝国大学文学部社会学科卒、姫路師範学校教諭、1943年岡山師範学校女子部長、1945年11月大阪第一師範学校女子部長、文部省初等教育課長、1949-51年岡山師範学校校長、岡山大学教育学部長(-56年)・教授、1958年名誉教授、お茶の水女子大学教授、59年お茶の水女子大学附属幼稚園長、1969年青山学院大学教授、洗足学園大学教授、1974年十文字学園女子短期大学学長。1984-94年旭出学園 (特別支援学校) 校長。 1959年NHK放送文化賞受賞。
館林 三喜男(舘林 三喜男、たてばやし みきお、1904年1… 館林 三喜男(舘林 三喜男、たてばやし みきお、1904年1月25日 - 1976年10月22日)は、日本の内務官僚、政治家、実業家。 佐賀県副知事、衆議院議員(4期)、三愛石油株式会社社長(第2代)、株式会社リコー社長(第2代)などを歴任した。 内務省に入省し要職を歴任するも、太平洋戦争後は公職追放となる。第25回衆議院議員総選挙で当選を果たし、以降2回の落選を挟みながら4期務めた。第31回衆議院議員総選挙にて3度目の落選となる。以降はリコー三愛グループの事業に携わり、三愛石油の副社長を経て社長に就任し、のちにリコーの社長も務めた。 佐賀県西松浦郡有田町出身。第五高等学校を経て、1928年東京帝国大学法学部政治学科卒。
斎藤 武雄(さいとう たけお、1904年1月25日 - 19… 斎藤 武雄(さいとう たけお、1904年1月25日 - 1995年1月28日)は、日本の哲学研究者。弘前大学名誉教授。 秋田県生まれ。1933年東京文理科大学哲学科卒。1949年弘前大学文理学部教授、人文学部長。1960年「ヤスパースにおける絶対的意識の構造と展開」で東京教育大学文学博士。1962年文部省在外研究員として西独、スイス、米国に滞在。1968年定年退官、名誉教授、弘前学院大学学長。
小泉 純也(こいずみ じゅんや、旧姓名:鮫島 純也〈さめじま… 小泉 純也(こいずみ じゅんや、旧姓名:鮫島 純也〈さめじま すみや〉、1904年〈明治37年〉1月24日 - 1969年〈昭和44年〉8月10日)は、日本の政治家。位階は正三位。 衆議院議員(7期)。1960年日米安保改定への尽力や防衛庁長官を務めたことなどから、安保男(あんぽおとこ)と呼ばれた。 衆議院副議長、逓信大臣などを歴任した小泉又次郎の女婿。首相を務めた小泉純一郎の父。根津財閥の大番頭だった鮫島宗一郎は従兄弟。横須賀市議会議長をつとめた井料克己は甥。 鹿児島県川辺郡東加世田村大字小湊(後の万世町、加世田市、現:南さつま市加世田小湊)小松原地区の漁業・鮫島家に生まれた。父親の鮫島彌三左衛門は事業に失敗し、地元の鰹節工場に雇われていたが、純也が11歳の時に亡くなった。
池田 欽三郎(いけだ きんざぶろう、1904年〈明治37年〉… 池田 欽三郎(いけだ きんざぶろう、1904年〈明治37年〉1月24日 - 没年不詳)は、日本の内務・商工官僚。官選秋田県知事。旧姓・木戸。 三重県出身。木戸吉太郎の三男として生まれ、池田龍一の養子となる。第一高等学校を卒業。 1925年11月、高等試験行政科試験に合格。1926年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。 内務省に入省し都市計画課属となる。 以後、青森県商工課長、同庶務課長、埼玉県社会課長、同庶務課長、神奈川県建築課長、同工場監督官、福岡県学務課長、大阪府労務課長、厚生省衛生局指導課長、同資材課長、茨城県書記官・経済部長、神奈川県書記官・学務部長、物価局部長、北海鉱山局長などを歴任。
市浦 健(いちうら けん、1904年1月24日 - 1981… 市浦 健(いちうら けん、1904年1月24日 - 1981年11月3日)は、日本の建築家。 1928年、東京帝国大学工学部建築学科卒業後大学院に籍をおいて、東京女子高等師範学校(のちの新制お茶の水女子大学)で住居の講義担当を経て、実地としていくつかの個人住宅を設計のかたわら日本大学に赴任し専門部の教授。1932年には川喜田煉七郎開設の新建築工芸学院でも教鞭をとる。1936年から1941年まで、厚生省体力局嘱託、同保険局技師として勤務。 1937年に「建築生産の合理化について」を発表。1941年住宅営団に入り、 研究部企画課長などを歴任。1945年からは、戦災復興院技師。住宅建築にかかわる。 1948年から51年まで鹿島建設にて取締役、企画第三部長、沖縄支店や名古屋支店長を歴任。
小堀 進(こぼり すすむ、1904年(明治37年)1月22日… 小堀 進(こぼり すすむ、1904年(明治37年)1月22日 - 1975年(昭和50年)3月16日)は、茨城県行方郡大生原村(現潮来市大賀)出身の水彩画家である。水彩連盟結成メンバーのひとり。 公募展初出品作品から没年まで一貫して水彩画のみを描き、長年水彩画の地位向上と発展をもたらし、また郷里水郷の風景、山、そして空や海、広大な空間を独自の画法により描き出した。 1904年(明治37年)1月22日、茨城県行方郡大生原村(現潮来市大賀)に生まれる。 1922年(大正11年)3月、千葉県立佐原中学校(現千葉県立佐原高等学校)を卒業。中学時代より郷里の水郷風景を水彩で描いていた。 翌1923年(大正12年)、上京し葵橋洋画研究所に入所、晩年の黒田清輝に洋画の基礎を学んだ。
島村 矩康(しまむら のりやす、1904年(明治37年)1月… 島村 矩康(しまむら のりやす、1904年(明治37年)1月22日 - 1945年(昭和20年)1月15日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。位階勲等は従四位勲四等。 高知県土佐郡初月村久万(現・高知市)出身。島村民衛・千代の長男。高知第一中学校(現高知県立高知追手前高等学校)、大阪陸軍地方幼年学校を経て、1924年(大正13年)7月、陸軍士官学校(36期)を卒業。同年10月、歩兵少尉に任官し歩兵第38連隊付となる。1931年(昭和6年)11月、陸軍大学校(43期)を優等で卒業した。 1932年(昭和7年)9月、参謀本部付勤務となる。参謀本部員、中国・ソビエト連邦駐在、関東軍参謀を務め、1938年(昭和13年)3月、歩兵少佐に昇進。
森 美徳(もり よしのり、1904年1月21日 - 1985… 森 美徳(もり よしのり、1904年1月21日 - 1985年10月5日)は、日本の経営者。井関農機社長を務めた。 香川県出身。1929年に東京帝国大学法学部を卒業し、同年に日本勧業銀行に入行。1953年に取締役に就任し、1960年に常務を経て、1969年12月に井関農機顧問に就任し、1970年1月には社長に昇格した。1977年12月には会長に就任。 1985年10月5日、脳梗塞のために死去。81歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
蛭川 幸茂(ひるかわ ゆきしげ、1904年(明治37年)1月… 蛭川 幸茂(ひるかわ ゆきしげ、1904年(明治37年)1月20日 - 1999年(平成11年)1月29日)は、旧制高校、及び新制大学の教授。 ヒルさん、蛭公の愛称で慕われた。 東京市小石川区に生まれる。愛知県西尾に転居し、1920年に名古屋市の明倫中学を4年で修了後、第八高等学校理科乙類に入学。 1923年東京帝国大学理学部数学科入学。1926年卒業。同年より旧制松本高校(信州大学の前身)講師となる。同年10月教授就任。 1950年、旧制高校の廃止と共に退職。同年より長野県新村小学校の代用教員となる。後年に教諭就任。 1954年3月小学校教諭退職、愛知学院大学助教授として就任。後、教授。名古屋大学でも教鞭を執る。
岡田 時彦(おかだ ときひこ、本名・高橋英一、明治36年(1… 岡田 時彦(おかだ ときひこ、本名・高橋英一、明治36年(1903年)2月18日 - 昭和9年(1934年)1月16日)は、大正・昭和初期の日本の俳優。無声映画時代を代表する二枚目俳優であった。 東京市神田区宮本町(現・千代田区外神田2丁目)に生まれる。父の放浪癖のため、川崎に3年、茅ヶ崎に1年、その後逗子に移るなど各地を転々とした。大正4年(1915年)に神奈川師範附属小学校を卒業。同級生に江川宇礼雄、国木田虎雄、青柳信雄らがいた。旧制・逗子開成中学校(のち中退)には抜群の成績で入学したが、伊勢佐木町の映画館で観た『名金』に感動して、学業そっちのけで浅草六区に足を運ぶほど映画に熱中した。 大正9年(1920年)、4月に設立され、山下公園に撮影所をもつ横浜の映画会社大正活映(大活)の俳優募集に応募し、17歳で入社。
駒井 志づ子 (こまい しづこ、1903年(明治36年)2月… 駒井 志づ子 (こまい しづこ、1903年(明治36年)2月18日 - 1978年(昭和53年)1月2日)は、大正・昭和期に活動した、石川県出身の女性運動家、政治家、歌人。 1951年(昭和26年)に女性初の石川県議会議員となり、以降5期25年にわたって在任した。 当時金沢市議会議員(後の第6代金沢市長)であった飯尾次郎三郎の長女として生まれる。 1918年(大正7年)、石川県立金沢第一高等女学校(現在の金沢二水高等学校)を卒業。 1920年(大正9年)に法学士の駒井粂吉と結婚したが、1934年(昭和9年)に死別した。夫の粂吉は、読書家で政治に関心を持っており、このことが妻の志づ子にも影響を与えたとされる。
市川 一郎(いちかわ いちろう、1903年2月18日 - 1… 市川 一郎(いちかわ いちろう、1903年2月18日 - 1981年9月29日)は、将棋棋士。八段。棋士番号は9。大崎熊雄九段門下。東京府東京市(現:東京都文京区)出身。 1927年に入門し1930年に四段に昇段。奨励会(関東)の創設は1928年であるため、奨励会に参加していたと思われる。 1940年に五段に昇段。戦後の1946年の順位戦C級クラスに参加し、8勝6敗と成績上位だったため六段に昇段。C級には第10期まで所属し、第10期にC級2組で降級が決まった事により引退。 この項目は、将棋の棋士(女流棋士・アマチュアを含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:ボードゲーム/プロジェクト:人物伝)。
松尾 靜磨(まつお しずま、1903年2月17日 - 197… 松尾 靜磨(まつお しずま、1903年2月17日 - 1972年12月31日)は運輸省航空庁長官および日本航空社長・会長を務めた人物。 佐賀県杵島郡若木村(後の武雄市)出身。 連合国軍最高司令官総司令部によって航空事業が壊滅的な打撃を受けた中、民間航空の再建に取り組み、フラッグ・キャリアの日本航空の設立に実現したことから戦後日本航空業界の父と言われる。 杵島郡若木村(後の武雄市若木町)に4人兄弟の次男として生まれた。松尾家は代々庄屋を務める旧家であり、靜麿の祖父・安兵衛は土木建築業・松尾組(現、松尾建設)を創業、更に佐賀県内の各種企業の経営に参画するなど地元財界にて重きを成した。 旧制佐賀中学校(現・佐賀県立佐賀西高等学校)、旧制佐賀高等学校(現・佐賀大学)を経て、九州帝国大学工学部機械工学科卒業。
松尾 靜麿(まつお しずま、1903年2月17日 - 197… 松尾 靜麿(まつお しずま、1903年2月17日 - 1972年12月31日)は、元運輸省航空庁長官および元日本航空社長・会長。佐賀県杵島郡若木村(後の武雄市)出身。連合国軍最高司令官総司令部によって航空事業が壊滅的な打撃を受けた中、民間航空の再建に取り組んだことから戦後日本航空業界の父と言われる。
和田 博雄(わだ ひろお、1903年〈明治36年〉2月17日… 和田 博雄(わだ ひろお、1903年〈明治36年〉2月17日 - 1967年〈昭和42年〉3月4日)は、日本の政治家、農林官僚。農林大臣(第4代)、経済安定本部総務長官(第4代)、物価庁長官(第4代)。衆議院議員(6期)、参議院議員(1期)。 旧制中学校教員の息子として埼玉県川越市に生まれる。父が岡山県の中学校に転任したため、尋常小学校から旧制高校(六高)まで学校教育を岡山県で受ける。 旧制第六高等学校を経て、東京帝国大学法学部に進み、1925年卒業。後に企画院事件で検挙された者には社会主義運動出身者が多く、また和田自身は統制経済派であったが、社会主義・左翼系の学生運動に参加したことはない。 農林省入省。
蜂須賀 正氏(はちすか まさうじ、1903年〈明治36年〉2… 蜂須賀 正氏(はちすか まさうじ、1903年〈明治36年〉2月15日 - 1953年〈昭和28年〉5月14日)は、日本の鳥類学者、華族(侯爵)、貴族院議員、探検家、飛行家。絶滅鳥ドードー研究の権威として知られた他、沖縄本島と宮古島との間に引かれた生物地理学上の線である蜂須賀線に名をとどめている。徳川家斉の玄孫。 旧徳島藩藩主・蜂須賀家の当主。蜂須賀小六から数えて第18代目にあたる。 1903年(明治36年)2月15日、東京で誕生した。父・蜂須賀正韶は侯爵、貴族院副議長。母・筆子は徳川慶喜の四女。長姉・年子はデザイナー。 学習院初等科に入った頃から生物に著しい関心を示し、先輩の黒田長禮に出会ってから鳥類学に志す。
平山 嵩(ひらやま たかし、1903年2月15日 - 198… 平山 嵩(ひらやま たかし、1903年2月15日 - 1986年11月20日)は、日本の建築家・建築学者。専門は、建築環境工学。工学博士。 1903年、東京府(現・東京都)出身。1926年、東京帝国大学工学部建築学科を卒業。留学してハーバード大学修了の後、マサチューセッツ工科大学大学院に進み修了した。 帰国した後大蔵省営繕管財局に入り、国会議事堂の室内意匠・音響設計等に従事。1930年、東京帝大工学部講師となった。翌1931年に東大助教授に昇格し、助教授時代に公衆衛生院建築衛生部長を兼任した。1940年より東大教授。1963年に東京大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は東洋大学工学部教授として後進の指導にあたった。
杉田 村雄(すぎた むらお、1903年(明治36年)2月14… 杉田 村雄(すぎた むらお、1903年(明治36年)2月14日 - 1986年(昭和61年)7月17日)は、日本のクラシックギター・マンドリン音楽家、指揮者。 東京府南多摩郡多摩村東寺方(現・東京都多摩市東寺方)の村医 杉田武雄の長男として生まれる。暁星中学校(旧制)時代、クラスメートの齋藤秀雄とともに比留間賢八に師事、2人で暁星マンドリン倶楽部から静美社音楽部へと音楽活動を進める。杉田は中央大学に進学し中央大学音楽研究会マンドリン倶楽部に所属。一方齋藤は上智大学に進学し「オルケストル・エトワール」を結成、1923年(大正12年)1月に武井守成主宰「シンフォニア・マンドリニ・オルケストラ」(1915年(大正4年)発足)主催の第1回全国マンドリン合奏団競演会に出場し同団を指揮し入賞するが、音楽に専念するために上智大学を中退し近衛秀麿に随伴してドイツに留学する。
山添 利作(やまぞえ りさく、1903年2月14日 - 19… 山添 利作(やまぞえ りさく、1903年2月14日 - 1979年7月7日)は、日本の農林官僚。農林事務次官を務め、退官後は農林漁業金融公庫総裁や日銀政策委員などを歴任した。長女・祥子の夫は参議院議員・衆議院議員を務めた藤井裕久。 京都府与謝郡岩滝町(現与謝野町)で父・山添小三郎、母・たかの次男として生まれる。1920年、京都府立宮津中学校を卒業し、第一高等学校仏法学科へ入学。1923年、一高を卒業し、東京帝国大学へ進学。在学中に高等試験行政科を合格し、1926年に農林省へ入省した。戦前から戦後に至るまで、蚕糸局での勤務が長く蚕糸行政には最も長く関与している。また戦後の農地改革では、その立案と実施に行政の責任者として取り組んだ。
布施 欽吾(ふせ きんご、1903年2月13日 - 1971… 布施 欽吾(ふせ きんご、1903年2月13日 - 1971年3月8日)は、日本の漢学者、教育者。中央大学文学部教授、立教大学文学部教授。 千葉県出身。1928年(昭和3年)東京帝国大学文学部卒業。1929年(昭和4年)4月に、立教大学文学部教授に就任し、漢文を担当する。 戦後、1949年(昭和24年)より中央大学文学部教授を務め、1952年(昭和27年)に文学部に哲学専攻が発足すると、中国哲学を教える。 1961年(昭和36年)5月1日には中央大学学生部長に就任。1963年(昭和38年)11月、中央大学文学部長に就任。 1971年(昭和46年)3月8日、脳塞栓のため東京都杉並区荻窪の東京衛生病院で死去 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
前島 勘一郎(まえじま かんいちろう、1903年(明治36年… 前島 勘一郎(まえじま かんいちろう、1903年(明治36年)2月13日 - 1981年(昭和56年)2月25日)は、昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。 実業家・前島彌の長男として生まれる。父の死去に伴い、1935年(昭和10年)7月1日、男爵を襲爵した。 1929年(昭和4年)東京帝国大学農学部を卒業。1936年、早稲田大学出版部理事となる。その他、肥田製作所取締役などを務めた。 1946年(昭和21年)5月11日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
加藤 多喜雄(かとう たきお、1903年2月12日 - 19… 加藤 多喜雄(かとう たきお、1903年2月12日 - 1991年4月19日)は、日本の化学者。東北大学名誉教授。理学博士(東北大学、1935年)。弟に地球物理学者の加藤愛雄、生物学者の加藤陸奥雄、地質学者の加藤磐雄、孫に数学者の加藤文元がいる。 1903年、千葉県夷隅郡大多喜町に生まれる。出生地に因んで多喜雄と命名される。科学者として名高い加藤四兄弟の長男である。旧制仙台一中、旧制二高を経て、1926年に東北帝国大学理学部化学科を卒業。1935年に学位論文「アルカリ金属の研究」で東北帝国大学より理学博士の学位を取得。同大学助手を経て、1929年に東京工業大学助教授、1944年に東北大学工学部教授となり、1945年より東北大学非水溶液化学研究所教授を兼務。
戸叶 武(とかの たけし、1903年2月11日 – 1982… 戸叶 武(とかの たけし、1903年2月11日 – 1982年12月25日)は、日本の政治家。位階は従三位、勲等は勲一等。参議院議員(4期、日本社会党)。妻は衆議院議員の戸叶里子。 田中正造の政治的後継者で、下野新聞社長を務めていた戸叶薫雄の長男として、栃木県安蘇郡田沼町(現佐野市)に生まれた。旧制豊山中学校(現日本大学豊山高等学校)を経て、早稲田大学政治経済学部へ入学。在学中は、高野実などと社会主義学生団体「文化会」を率いる。また、雄弁会に参加し、1922年(大正11年)には先輩である浅沼稲次郎の推薦により幹事となった。 1925年(大正14年)1月24日、学校教練に反対するデモにリーダー格で参加して麹町警察署に一時検束される。
龍田 静枝(たつた しずえ、1903年2月11日 - 196… 龍田 静枝(たつた しずえ、1903年2月11日 - 1962年1月21日)は、大正末期から昭和初期のサイレント映画で活躍した女優である。本名塩野 静枝(しおの - 、旧姓)、山形県出身。 女優以前の経歴には不明な点が多く、複数の説がある。 1903年(明治36年)2月11日、山形県南村山郡堀田村(現在の上山市金瓶)で生まれる。「1906年(明治39年)山形市生まれ」説あり。 山形高等小学校(旧制、現在の山形市立第一山形小学校)を卒業後、山形高等女学校(現在の山形県立山形西高等学校)卒業の説、米沢高等女学校(現在の同県立米沢東高等学校)卒業の説あり。 上京して日本女子大学に入学するも写真家を目指して中退、いっぽう「17歳で結婚、直後に夫病死、1923年(大正12年)母とともに上京」説あり。
吉田 富三(よしだ とみぞう、1903年(明治36年)2月1… 吉田 富三(よしだ とみぞう、1903年(明治36年)2月10日 - 1973年(昭和48年)4月27日)は、日本の医師、病理学者。学位は医学博士(東京大学・1936年)。長崎医科大学教授、東京大学医学部長などを歴任。文化勲章・勲一等旭日大綬章受章。 福島県石川郡浅川村(現・浅川町)生まれ。ラットの腹水癌である吉田肉腫と腹水肝癌の発見で実験腫瘍学に新たな扉を開いた。財団法人癌研究会癌研究所長、財団法人佐々木研究所研究所長、日本学術会議会員・副会長(第6期)、国語審議会委員(第1-6期)などを務めた。テレビディレクターの吉田直哉は長男である。動物学者の田子勝彌は叔父である。
鮫島 宗雄(さめじま むねお、1903年2月10日 - 19… 鮫島 宗雄(さめじま むねお、1903年2月10日 - 1947年8月6日)は、昭和初期の日本の臨床医師、医学研究者(医学博士)。南洋庁立の病院の医師として、トラック医院、パラオ医院、ヤップ医院、ヤルート医院、ポナペ医院で現地日本人およびミクロネシア人を診察した。その傍ら、ミクロネシア人についての医学的、人類学的、疫学的研究をおこなった。 1920年(大正9年)、岡山医学専門学校に進学する。在学中の1922年に岡山医学専門学校は岡山医科大学に昇格した。1924年(大正13年)3月、岡山医科大学付属専門部を卒業。 日本の各地の医師を経て、南洋群島に渡り1934年(昭和9年)頃に南洋庁の官医となる。
下村 兼史(しもむら けんじ、1903年2月10日 − 19… 下村 兼史(しもむら けんじ、1903年2月10日 − 1967年4月27日)は、日本の鳥類生態写真家、記録映画監督。 映画作品『或日の干潟』(理研科学映画、1940年)が文部大臣賞、皇紀2600年奉祝芸能祭文化映画コンクール首席、『ちどり』(東宝教育映画部、1947年9月公開)が映画世界賞受賞、文部省選定、『こんこん鳥物語』(東宝教育映画、1949年)が文部大臣賞、第4回毎日映画コンクール教育文化映画賞受賞。その他の作品でも受賞多数。鳥類を中心に、写真や映像に野生生物をフィルムに収め、日本初の鳥類生態写真集を刊行し、鳥類標本では得られない生態の研究に貢献した。 鳥類を撮影した写真は、財団法人山階鳥類研究所にかなりの数が収蔵されている。
中村 禎二(なかむら ていじ、1903年(明治36年)2月9… 中村 禎二(なかむら ていじ、1903年(明治36年)2月9日 - 1991年(平成3年)6月9日)は、昭和期の農業技術者、政治家。参議院議員(2期)、長崎県議会議長。 長崎県西彼杵郡時津村(現時津町)で生まれる。1923年(大正12年)長崎県立農学校(現長崎県立諫早農業高等学校)を卒業した。 小学校教員、農業技術員を務めた。長崎県議会議員に選出され5期在任し、同議長も務めた。また、自由民主党長崎県連総務会長、同幹事長などを歴任した。 1971年(昭和46年)6月の第9回参議院議員通常選挙に長崎県地方区から自民党公認で出馬して初当選し、1977年(昭和52年)7月の第11回通常選挙でも再選され、参議院議員を連続2期務めた。
吉川 重国(きっかわ しげくに、1903年(明治36年)2月… 吉川 重国(きっかわ しげくに、1903年(明治36年)2月9日 - 1996年(平成8年)3月16日)は、日本の宮内省官僚、華族。岩国藩主吉川家分家の人物。父は吉川重吉、兄に吉川本家の家督を継いだ吉川元光。妻は福井松平家分家の子爵松平慶民の次女、綾子。従四位男爵。 吉川重吉の次男として東京で生まれる。京都帝国大学卒業後の大正5年(1916年)に男爵となった。東洋拓殖に勤務の後、昭和2年(1927年)からヨーロッパへ留学。帰国後、宮内省に入省し、式部官狩猟官となる。昭和16年(1941年)には課長に昇進。 戦後は宮中儀礼の専門家として活動。昭和28年(1953年)のエリザベス2世戴冠式出席の皇太子明仁親王に随行した。
砂間 一良(すなま いちろう、1903年2月8日 - 199… 砂間 一良(すなま いちろう、1903年2月8日 - 1992年12月12日)は、日本のジャーナリスト、政治家。元日本共産党衆議院議員。民医連運動発祥の地とされる、大崎無産者診療所で看護師を務めていた、社会運動家の秋子は配偶者。 静岡県田方郡土肥村(土肥町を経て現在は伊豆市)出身。錦城中学校、第一高等学校を経て、1928年東京帝国大学経済学部を卒業。一高在学中の1923年9月1日に発生した関東大震災では、新人会のメンバーと「一高震災防護団」を立ち上げ、被災者救援活動を行った。また、帝大入学後は新人会へ加入、1927年には無産者新聞へ無給社員として入る。翌年の三・一五事件以後責任者に就くと共に、日本共産党へ入党する。
繪島 千歌子(えじま ちかこ、1903年2月8日 - 没年不… 繪島 千歌子(えじま ちかこ、1903年2月8日 - 没年不詳)は、日本の女優である。新漢字表記絵島 千歌子、本名・旧芸名東 八重子(あずま やえこ)。舞台協会在籍時、日活向島撮影所との提携で映画初出演を果たし、後年は東亜キネマ甲陽撮影所の看板女優として大正末期まで活動した。 1903年(明治36年)2月8日、東京府東京市深川区(現在の東京都江東区深川)に生まれる。『世界のキネマスター』(報知新聞社)によれば、本名は東 八枝(あずま やえ)であるという。 日本聖公会系の立教高等女学校(現在の立教女学院中学校・高等学校)を卒業する。満18歳のときに1921年(大正10年)、花柳章太郎が同年に設立した新派の劇団・新劇座に参加、翌1922年(大正11年)には、山田隆弥らの新劇の劇団・舞台協会に参加している。
棈松 源一(あべまつ げんいち、1903年2月7日 - 19… 棈松 源一(あべまつ げんいち、1903年2月7日 - 1993年2月18日)は、日本のモンゴル語学・モンゴル文化学者。日本におけるモンゴル語研究の先駆者で、大阪外国語学校(現:大阪大学外国語学部)初の日本人モンゴル語専任教員。大阪外国語大学名誉教授。 鹿児島県鹿児島市小川町生まれ。鹿児島市立名山小学校から鹿児島市立清水小学校に移り卒業した後、鹿児島県立第二鹿児島中学校(旧制、現:鹿児島県立甲南高等学校)を1921年に卒業。官立大阪外国語学校(現:大阪大学外国語学部)に進み本科蒙古語部第1期生として1925年3月に卒業。 1927年、鹿児島県の花岡村立古江商業実務学校勤務。1929年、母校・大阪外国語学校蒙古語部講師となり、1935年に助教授に就任し、後に教授に昇任。
高井 ルビー(たかい ルビー、1903年2月7日 - 197… 高井 ルビー(たかい ルビー、1903年2月7日 - 1972年7月5日)は、日本の歌手、女優である。本名は「天田 春音(あまだ はるね)」。大正期~昭和初期の浅草オペラでソプラノの歌姫として活躍。 東京都本所区向島にて出生。東京育ちではあるが、祖父は群馬の博徒国定忠治の子分の一人であり左の腕にあたる人物であったという。 鎌倉高等女学校を卒業後、歌手・井上起久子に師事。1920年に演出家の獏与太平に見初められオペラ女優の仲間入りを果たす。初期の芸名は「高井爾美」(読み同じ)。この芸名は井上に付けられたという。なお、芸名の由来は駆け出しの頃大学生のパーティに招かれた際、指輪がないので小道具の指輪をはめて行き、学生に「あっ、高いルビー」と言われたのにちなんだと言われる。
齊藤 金作(さいとう きんさく、1903年2月6日 - 19… 齊藤 金作(さいとう きんさく、1903年2月6日 - 1969年11月25日)は、日本の刑法学者。従四位勲三等旭日中綬章。埼玉県出身。
百井 盛(ももい さかり、1903年〈明治36年〉2月5日 … 百井 盛(ももい さかり、1903年〈明治36年〉2月5日 - 2015年〈平成27年〉7月5日)は、日本の教育者、長寿者(スーパーセンテナリアン)。埼玉県さいたま市中央区在住。2014年6月8日以降死去するまで男性長寿世界一となっていた。 福島県相馬郡石神村(現、南相馬市)出身。福島師範学校卒業後、1924年に東京帝国大学農学部へ入学。1927年に同大学、同学部(専門課程:農芸化学)卒業。同年、咸鏡北道公立新義州高等普通学校に化学教諭として赴任。1948年から1951年まで福島県立塙高等学校(現、福島県立塙工業高等学校)の初代校長、1953年から1959年まで埼玉県立与野高等学校の第5代校長を務めた。
前川 佐美雄(まえかわ さみお、1903年2月5日 - 19… 前川 佐美雄(まえかわ さみお、1903年2月5日 - 1990年7月15日)は、昭和期の歌人。妻の前川緑、長男の前川佐重郎も歌人。五味康祐夫人千鶴子は妻の妹。 奈良県南葛城郡忍海村(現葛城市忍海)の素封家の長男として生まれる。父は佐兵衛、母は久菊。祖父佐重良は一族の長老として分家にも采配を振るっていた。 小学校六年で初めて短歌を作り、14歳で奈良の儒者越智黄華の漢学塾に学ぶ。1921年、下淵農林学校卒業。同年竹柏会「心の花」入会、佐佐木信綱に師事する。1922年に上京して東洋大学専門部倫理学東洋文学科に入学。木下利玄、石槫茂(後の五島茂)ら「心の花」の精鋭が集まる「曙会」にも参加し、「心の花」の新鋭として注目を浴び始める。
猿丸 吉左衛門(さるまる きちざえもん、1903年(明治36… 猿丸 吉左衛門(さるまる きちざえもん、1903年(明治36年)2月4日 - 1983年(昭和58年)1月4日)は、日本の実業家・政治家。芦屋市長(1948年 - 1952年)、兵庫県議会議員。初名は吉雄。 スポーツ黎明期に万能選手として知られた人物である。相撲では学生横綱となり、柔道でも活躍、陸上競技では砲丸投とハンマー投で日本記録を残した。 現在の兵庫県芦屋市出身。芦屋の猿丸家は猿丸大夫の末裔を称する旧家で、そのうち当主が「吉左衛門」の名を世襲する家系の出身である。 同じ名を名乗った父の猿丸吉左衛門(1853年 - 1932年)は、1928年から1930年にかけて精道村(芦屋市の前身)の村長を務めた。
武原 はん(たけはら はん、1903年(明治36年)2月4日… 武原 はん(たけはら はん、1903年(明治36年)2月4日 - 1998年(平成10年)2月5日)は、徳島県出身の日本舞踊家。本名・武原幸子。 1903年2月4日、徳島県徳島市籠屋町に生まれる。家は花街の裏手にあり、父親はブリキ職人だった。1915年、大阪宗右衛門町の大和屋芸妓学校に入学。山村流の上方舞を修行。14歳で芸者になり、20歳まで大和屋で働いた。1930年、青山二郎の後妻として結婚。青山を通じて小林秀雄、永井龍男、中原中也、宇野千代らとの交流が始まる。1931年、上京し、料亭「灘万」の若女将を務める。藤間勘十郎や二世西川鯉三郎に師事、関西の上方舞を東京に根付かせるのに尽力した。1934年、青山と離婚。
六代目 歌川 豊国(うたがわ とよくに、明治36年(1903… 六代目 歌川 豊国(うたがわ とよくに、明治36年(1903年)2月3日 - 平成12年(2000年)11月11日)は、大正時代から平成時代の浮世絵師。 明治36年、2代目歌川国鶴の次男として、東京市麻布区笄町(現在の東京都港区西麻布)に生まれる。母は四条派の絵師ゆた。祖父は歌川国鶴。始めは2代目歌川国春と号しており、明治38年(1905年)に大阪市南区(現在の中央区)徳井町に移った。さらにその3年後、明治41年(1908年)には京都市に転居している。父の2代目歌川国鶴のもと、浮世絵を学んだ後、山元春挙及び中井汲泉に師事し、運筆及び風景画を習得した。大正7年(1918年)には、叔父の5代目歌川豊国に引き取られ、再び浮世絵を学んだ後、大正11年(1922年)には東京府下幡ヶ谷の前田英に師事し、写真背景画を学んでいる。
橋 閒石(はし かんせき、1903年2月3日 - 1992年… 橋 閒石(はし かんせき、1903年2月3日 - 1992年11月26日)は、石川県出身の俳人、英文学者。神戸商科大学名誉教授。俳誌「白燕」(びゃくえん)創刊・代表。本名泰来(やすき)。 金沢市十三間町に生まれる。本名の泰来は、石圃または閒遊と号した書家であった祖父・往來(ゆきき)の名からとっており、のちの俳号閒石もこの祖父の号に由来する。金沢二中(現・石川県立金沢錦丘中学校・高等学校)、四高を経て京都帝国大学英文科卒。中学の後半からたびたび病に臥せるようになり、病床で俳書を読んだことから独学で俳句を学ぶ。 1928年、京大卒業し和歌山県立和歌山中学校(現・和歌山県立桐蔭高等学校)教諭に赴任。1931年、新設された兵庫県立神戸高等商業学校(兵庫県立神戸商科大学を経て、現・兵庫県立大学)教授となり神戸に移住。
板垣 正貫(いたがき まさつら/しょうかん、明治36年(19… 板垣 正貫(いたがき まさつら/しょうかん、明治36年(1903年)2月3日 – 昭和17年(1942年)11月26日)は、板垣退助の孫で土佐板垣氏(乾氏)の第12代当主。 明治36年(1903年)2月3日、板垣鉾太郎の三男として東京府荏原郡品川町大字北品川宿141番地に生まれる。母は松本丑太郎の長女 節子(せつこ)。本名は「まさつら」と読むが、家人をはじめ親しい人からは「しょうかん」と音読みで呼ばれた。 大正15年(1926年)、早稲田大学専門部政治経済科を卒業し、浅野スレート株式会社に勤務する。 同年(1926年)、兄板垣守正が、祖父退助を侮辱するかのような戯曲『自由党異変』を上演しようとして、自由党員らの反発を買い問題化したため、同5月24日付けで東京区裁判所の判決により6月12日に守正が隠居し、正貫が家督を相続することで事態を沈静化させた。
秋山 謙蔵(あきやま けんぞう、1903年(明治36年)2月… 秋山 謙蔵(あきやま けんぞう、1903年(明治36年)2月1日 - 1978年(昭和53年)3月5日)は、日本の歴史学者。号は一石。日中関係史、琉球貿易などの研究で知られる。大正大学教授、國學院大學教授、女子美術大学教授などを歴任した。大日本言論報国会理事。主著に『日支交渉史話』『日支交渉史研究』。 広島県比婆郡西城町(現・庄原市)に生まれる。旧姓は江木。1925年に第七高等学校造士館を卒業し、東京帝国大学文学部国史学科に入学、1928年に卒業、同大学院に入学。 国史学科卒業後すぐに史学会委員となり、東洋史学者の中山久四郎や日本歌謡史研究者の高野辰之のところに出入りする。国史学科の1年後輩にあたる森克己によれば、当時、高野辰之は「秋山は近年国史学界の生んだ鬼才ではないか?」と評していたという。
菅井 準一(すがい じゅんいち、1903年2月1日 - 19… 菅井 準一(すがい じゅんいち、1903年2月1日 - 1982年6月14日)は、日本の科学史家。 山形県出身。旧制山形高校、東京帝国大学理学部物理学科卒業。陸軍士官学校教授などを経て、1942年文部省視学官兼科学官。教育科学研究会の科学教育研究部会数学教育分会に参加。1941年の日本科学史学会創立に加わり『近代科学成立史』を編集した。1973年横浜商科大学教授。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。