柴田 政太郎(しばた まさたろう、1884年(明治17年)1… 柴田 政太郎(しばた まさたろう、1884年(明治17年)11月10日 - 1953年(昭和28年)3月12日)は、日本の素封家、篆刻家、刀工、俳人。上記以外にも書、画、謡曲、大皷、鼓などで活動した。号は果(か)、紫陽花、木鶏。第二次世界大戦頃、一部の刀には光興と銘すると昭和町の歯科医である菅原鶴太郎は言及している。 印は犬養毅、張学良たちに愛用された。刀工としては国工の称号を持つ。日本刀鍛錬練習所所長の栗原彦三郎によって「聖代刀の暫定委列と標準価格」の中では神品の列に挙げられている。刀剣研究家の得能一男によって柴田は昭和元年から20年までの主要な刀工として、息子の清太郎は昭和の主要な刀工として挙げられている。
金沢 春友(かなざわ はるとも、1884年11月10日 - … 金沢 春友(かなざわ はるとも、1884年11月10日 - 1974年11月21日)は、日本の地方政治家、郷土史家。戦前に旧常豊村町長を1期務め、戦後には塙町町長を2期務めた。また、郷土史家としても、地元である福島県南部の古文書の掘り起こしや、水戸天狗党の研究などに業績を残した。 当時の福島県東白川郡石井村に生まれた。生家は、かつては名主の家柄であった。福島県立安積中学校(後の福島県立安積高等学校の前身)に学んだが、父の死によって1902年に学校を中退し、農業に従事した。その後、常豊村(後の塙町)に移り、酒造業を興し、さらに発電所建設などに携わった。1925年に常豊村村会議員となり、助役を経て、1937年11月14日から1941年6月30日まで常豊村長を務めた。
当真 嗣合(とうま しごう、1884年(明治17年)11月1… 当真 嗣合(とうま しごう、1884年(明治17年)11月10日 - 1946年(昭和21年)8月24日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)、ジャーナリスト。
神原 甚造(かんばら じんぞう、1884年〈明治17年〉11… 神原 甚造(かんばら じんぞう、1884年〈明治17年〉11月10日 - 1954年〈昭和29年〉4月2日)は、日本の学者、裁判官、香川大学初代学長。法学士。 司法官試補、大審院判事などを務め、京都帝大・早稲田大学・中央大学で刑法・民法を教える。 昭和25年、香川大学初代学長となった。
小柴 博(こしば ひろし、1884年11月9日 - 1925… 小柴 博(こしば ひろし、1884年11月9日 - 1925年6月19日)は、日本のボーイスカウト運動の創始者のひとり。
守屋 栄夫(もりや えいふ、守屋 榮夫、明治17年(1884… 守屋 栄夫(もりや えいふ、守屋 榮夫、明治17年(1884年)11月8日 - 昭和48年(1973年)2月1日)は、日本の内務官僚、政治家、弁護士、歌人。衆議院議員、宮城県塩竈市長。宮城県平民。 元駐アフガニスタン公使守屋和郎の兄。元防衛事務次官守屋武昌の父。 明治17年(1884年)、宮城県遠田郡に生まれた。守屋徳郎の長男。宮城県古川高等学校卒業。二高を経て、 明治43年(1910年)東京帝国大学法科大学独法科を卒業。文官高等試験に合格。 内務省に入省。千葉、愛知各県理事官、内務監察官、内務省参事官、朝鮮総督府秘書官、同秘書課長、同庶務部長、内務省社会局社会部長を歴任。1925年(大正14年)3月、社会局第二部長を務めていた際に、第7回国際労働会議政府代表に前田多門とともに選出。
鈴木 信太郎(すずき しんたろう、1884年(明治17年)1… 鈴木 信太郎(すずき しんたろう、1884年(明治17年)11月8日 - 1958年(昭和33年)6月27日)は、日本の内務官僚。官選府県知事、錦鶏間祗候。 山形県南置賜郡米沢芳泉町(のち南原村大字芳泉町、現米沢市)出身。元米沢藩士・鈴木幸松の長男として生まれ、母方の祖父・鈴木伊和太の養子となる。第一高等学校を経て、1909年、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1910年、内務省に入り、石川県警部に任官した。 1910年12月、愛媛県警視となる。以後、岩手県事務官、神奈川県理事官、島根県警察部長、台湾総督府警視兼参事官、内務書記官、地方局市町村課長などを歴任した。
海野 清(うんの きよし、1884年〈明治17年〉11月8日… 海野 清(うんの きよし、1884年〈明治17年〉11月8日 - 1956年〈昭和31年〉7月10日)は、工芸家(彫金)、日本芸術院会員、人間国宝。 全日本工芸美術家協会会長、日本彫金家会会長、日本美術刀剣会常任審査員などを兼任し、彫金界の長老として長年に渡り要職を務めた。 海野勝珉の三男として東京に生まれる。1911年(明治44年)、東京美術学校金工科卒。父および加納夏雄に師事。1919年(大正8年)母校東京美術学校助教授、1928年(昭和3年)、帝展特選、1929年(昭和4年)から帝展、新文展審査員を務める。 1932年(昭和7年)母校教授に就任、のち同校在外研究員としてフランス留学し1934年(昭和9年)、帰国。
松本 信一(まつもと しんいち、1884年11月7日 - 1… 松本 信一(まつもと しんいち、1884年11月7日 - 1984年8月1日)は、日本の医学者、皮膚科医。京都帝国大学名誉教授、元大阪医科大学学長。福島県会津若松市生まれ。 再感染免疫をスピロヘータを使用した実験等、病理組織学や細胞免疫学の各方面から梅毒の研究を行う。1917年5月14日、医学博士の学位を受けた。1966年文化功労者、1976年勲一等瑞宝章。主著に『皮膚病学』等。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
高橋 明(たかはし あきら、1884年(明治17年)11月5… 高橋 明(たかはし あきら、1884年(明治17年)11月5日 - 1972年(昭和47年)3月12日)は、日本の医学者。新潟医科大学(現・新潟大学医学部)および東京帝国大学(現・東京大学)教授・日本医師会会長・学校法人獨協学園理事長などを務めた。泌尿器科学が専門。 1884年11月5日に愛知県渥美郡泉村(現・田原市)に生まれる。旧制第一高等学校を経て京都帝國大学福岡医科大学(現・九州大学医学部)に入学した。1909年11月に同校を卒業し、翌月東京帝国大学(現・東京大学)大学院に入学。皮膚病学会を創設した土肥慶蔵教授に学ぶ。1913年9月に大学院を退学し、ベルリン大学に留学して泌尿器疾患の研究を行なう。
楠山 正雄(くすやま まさお、1884年11月4日 - 19… 楠山 正雄(くすやま まさお、1884年11月4日 - 1950年11月26日)は、日本の演劇評論家、編集者、翻訳家、児童文学者。主に大正時代から昭和時代戦後初期にかけて活動した。 東京府京橋区新橋竹川町(現在の銀座)で、小売と卸売を兼業し、印刷業の写真画問屋も営む楠山秀太郎の子として生まれる。祖父で幕臣の楠山孝一郎は、同じく幕臣で編集者の成島柳北の兄にあたる。俳優・森繁久弥とも縁戚にあたる。 しかし3歳になった1886年2月15日、父秀太郎が急死。後に母親が再婚するが、再婚相手の起こした不祥事から会社が倒産して苦しい家計に追われることになり、親戚の家を盥回しにされるなど、多難な少年時代を送る。
鹿子木 員信(かのこぎ かずのぶ、1884年(明治17年)1… 鹿子木 員信(かのこぎ かずのぶ、1884年(明治17年)11月3日 - 1949年(昭和24年)12月23日)は、日本の哲学者、海軍軍人。最終階級は海軍機関中尉。
渡辺 節(わたなべ せつ、1884年(明治17年)11月3日… 渡辺 節(わたなべ せつ、1884年(明治17年)11月3日 - 1967年(昭和42年)1月21日)は、近代日本の建築家。元鉄道院技師。古典主義をベースとした様式建築を自在に設計し、近畿を中心に商業ビルの秀作を多く残した。門下に村野藤吾がいる。 東京府麹町区(現東京都千代田区)生まれ。天長節(のちに明治節。明治天皇の誕生日)に生まれたことから「節」と名づけられた。父は相馬藩士、後に陸軍中将。 旧制二高を経て、東京帝国大学建築学科を卒業。鉄道院に入り、京都駅(後に焼失)などを設計。1916年(大正5年)に独立、大阪に設計事務所を開設。1920年(大正9年)~1921年(大正10年)には欧米を視察。
石橋 理一(いしばし りいち、1884年〈明治17年〉11月… 石橋 理一(いしばし りいち、1884年〈明治17年〉11月3日 - 没年不明)は、日本の商人(畳表商)、醸造家、広島県多額納税者。 広島県人・石橋喜助の二男。1917年、家督を相続する。酒造業を営み直接国税1110円を納め、広島県多額納税者に列する。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。住所は広島県呉市泉場町。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
川越 丈雄(かわごえ たけお、1884年11月1日 - 19… 川越 丈雄(かわごえ たけお、1884年11月1日 - 1966年3月11日)は、日本の大蔵官僚、銀行家。大蔵次官、法制局長官。 鹿児島県出身。川越武助の長男として生まれる。加治木中学、第一高等学校を経て、1910年10月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験に合格し大蔵省に入省。専売局書記兼大蔵属・専売局長官官房兼理財局勤務となる。 1918年6月、大蔵省主計官・主計局予算決算課に配属され、以後、大蔵書記官、主計局司計課長、同決算課長、同予算決算課長、預金部長などを歴任。1934年5月、銀行局長に就任。対満事務局次長を経て、1936年3月、大蔵次官となる。1937年2月、林内閣の法制局長官となり同年6月まで在任した。
五十嵐 敬之助(いそあらし けいのすけ、1884年11月1日… 五十嵐 敬之助(いそあらし けいのすけ、1884年11月1日 - 1964年2月12日)は、現在の千葉県印西市出身で勝ノ浦部屋に所属した力士。本名は宮澤 啓助(旧姓椎名)。7代勝ノ浦。164cm、83kg。最高位は西前頭4枚目。 染物屋に奉公していたが、元力士の兄の世話で入門した。1902年5月新序、1909年1月十両昇進、2場所連続好成績で1910年6月滝ノ音の四股名で入幕を果たす。入幕2場所目に前頭4枚目まで昇進したがそれ以降は幕内下位に甘んじた。小兵だったが小手投げ、押しを得意とし、櫓投げや内無双もあった。1911年に後援者の名から五十嵐に改名。1914年には師匠の御舟潟の名を継ぎ、幕下に陥落した1917年5月に引退し、7代勝ノ浦を襲名、年寄として一時部屋も経営し、44年間在職し1961年1月に定年制実施で76歳で退職した。
藤原 咲平(ふじわら さくへい、「ふじはら」「さきへい」表記… 藤原 咲平(ふじわら さくへい、「ふじはら」「さきへい」表記もある、1884年〈明治17年〉10月29日 - 1950年〈昭和25年〉9月22日)は、日本の気象学者。学術論文などでのアルファベット表記(日本語のローマ字表記)は「Sakuhei Fujiwhara」を使用した。親族の証言によると本来は「ふじはら」姓で、本人のこだわりからFujiwhara表記をしたという。 長野県諏訪郡上諏訪町(現在の諏訪市)生まれ。高島尋常小学校・諏訪高等小学校(後の諏訪市立高島小学校、2021年4月以降は諏訪市立上諏訪小学校)を卒業。高島尋常小学校・諏訪高等小学校では陸軍中将の永田鉄山と同級であり、また同じく諏訪出身で岩波書店の創立者である岩波茂雄らとは生涯にわたって交友があったとされる。
田中 良(たなか りょう、1884年10月29日 - 197… 田中 良(たなか りょう、1884年10月29日 - 1974年12月31日)は、日本の舞台美術家・画家。 東京府麹町区生まれ。東京帝国大学農科大学教授・田中宏(1859年鹿児島県高麗町生まれ)の長男として生まれ、学習院中等部在学中に太平洋画会研究所に通う。東京美術学校(後の東京藝術大学美術学部)西洋画科で5年間学んだ時期は大伯父の奈良原男爵邸に同居している。1910年(明治43年)4月に卒業。同期生に九里四郎、近藤浩一路、長谷川昇、藤田嗣治など。 帝国劇場の背景部に所属して舞台の背景を手がけたほか、伯父・奈良原三次設計による奈良原式1号機の製作を手伝っている。1919年(大正8年)にはヨーロッパ諸国、アメリカ合衆国を視察する。
畔上 賢造(あぜがみ けんぞう、1884年10月28日 - … 畔上 賢造(あぜがみ けんぞう、1884年10月28日 - 1938年6月25日)は、内村鑑三門下(無教会派)のキリスト教独立伝道者。 農村伝道に従事し、またミルトン、カーライル、ブラウニング等の英文学を積極的に翻訳・紹介した。 1884年、長野県上田町(現上田市)に生まれる。1902年、旧制上田中学(長野県上田高等学校)卒業、早稲田大学予科入学。1904年、内村鑑三の門下生となる。1906年、早稲田大学文学部哲学科を卒業し、千葉県立千葉中学校の英語教師となる。1909年に同じ内村門下であった、成沢むつと結婚。1911年、千葉中学校を辞職。千葉県東金町の農村をベースに独立伝道を開始、また執筆・出版活動を行う。
高須 四郎(たかす しろう、1884年10月27日 - 19… 高須 四郎(たかす しろう、1884年10月27日 - 1944年9月2日)は、日本の海軍軍人。海軍兵学校35期。最終階級は海軍大将。 1884年10月27日、茨城県稲敷郡桜川村(現・稲敷市)に生まれる。旧制土浦中学校(現・土浦第一高等学校)を経て、1907年(明治40年)11月20日、海軍兵学校35期を172名中10位で卒業。1917年(大正6年)12月1日、海軍大学校甲種学生(17期)。 1923年(大正12年)6月1日、在イギリス大使館付武官補佐官。 1932年(昭和7年)5月15日、五・一五事件発生。高須は軍令部出仕兼海軍省出仕として、この事件の海軍側関係者を裁く軍法会議の判士長を務めた。
松山 基範(まつやま もとのり、1884年10月25日 - … 松山 基範(まつやま もとのり、1884年10月25日 - 1958年1月27日)は、日本の地球物理学者・古地磁気学者。山口大学初代学長。能楽師。京都大学名誉教授。理学博士(1918年)取得。1929年に世界で初めて「地球の磁場逆転現象」説を提唱したことで知られ、258万~77万年前の逆磁極期は「松山逆磁極期」と名付けられている。 大分県宇佐郡駅館村大字上田(駅川町を経て現宇佐市)の曹洞宗の寺院雲栖寺の住職であった墨江天外と末原コウの間に出生。当時は、僧職の妻帯は認められていなかったため母の姓を名乗り、1896年に父が山口県豊浦郡清末村(現下関市)の高林寺の住持になると、姓を父方に改めた。少年期を過ごし両親の墓も存在する同地には現在顕彰碑が建てられている。
中野 邦一(なかの ほういち、1884年(明治17年)10月… 中野 邦一(なかの ほういち、1884年(明治17年)10月25日 - 1965年(昭和40年)4月13日)は、日本の内務官僚、政治家、弁護士。官選県知事、衆議院議員。位階は正四位。 旧佐賀藩士・木村清の長男として佐賀県佐賀郡西与賀村(現:佐賀市)で生まれる。母が中野方蔵の姪という関係から中野家の養嗣子となった。佐賀中学校、山口高等学校を経て、1909年、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。1910年11月、文官高等試験行政科試験に合格し、内務省に入り警視庁警部となる。 以後、警視庁警視、芝西久保警察署・本郷駒込警察署・浅草南元町警察署の各署長、高知県・愛知県の各理事官、香川県警察部長、岡山県警察部長、宮城県警察部長、京都府警察部長、愛媛県内務部長、秋田県書記官・内務部長などを歴任。
白梅 文治郎(しらうめ ぶんじろう、1884年10月25日 … 白梅 文治郎(しらうめ ぶんじろう、1884年10月25日 - 1936年1月31日)は、群馬県山田郡(現在の桐生市)出身で峰崎部屋(入門時は白玉部屋)に所属した大相撲力士。最高位は西張出前頭18枚目。現役時代の体格は身長164cm、体重86kg。得意手は右四つ、投げ。 7代白玉(最高位:幕下二段目、現役名:淀川)の弟子となり、初め小枩谷の四股名で取り進んだ。序二段の1903年1月場所で白梅と改名。1907年5月場所で新十両となったが、病気がちで幕下に陥落した場所もあったものの、1912年1月場所で5勝2敗1分2休の成績を挙げると、翌5月場所に入幕して幕尻格(前頭18枚目格)の張出前頭となるが、2勝8敗と大負けして1場所限りで十両陥落。
高橋 直行(たかはし なおゆき、1884年10月24日 - … 高橋 直行(たかはし なおゆき、1884年10月24日 - 1969年2月17日)は、日本の経営者。日本酸素社長を務めた。 東京都出身。1935年に大倉高等商業学校を卒業。1924年に日本酸素支配人に就任し、取締役、常務を経て、1943年から1963年までに社長を務めた。 1955年に藍綬褒章を受章し、1965年に勲三等瑞宝章を受章。 1969年2月17日老衰のために死去。84歳没。
原 孝吉(はら こうきち、1884年(明治17年)10月24… 原 孝吉(はら こうきち、1884年(明治17年)10月24日 - 1968年(昭和43年)9月22日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 福島県安積郡小原田村(小原田村大字小原田を経て現郡山市)で、原五郎八の三男として生まれる。実家が貧しかったため、幾多の困難を乗り越えて畳製造販売業を営んだ。 実業界では、東北木工社長、福島県土木建築職種別組合協議会長、同畳商工業協同組合理事長、郡山商工会議所常議員などを務め、1947年(昭和22年)全国畳商工会長に就任した。 政界では、郡山市会議員(5期)、同第5代議長(1945年6月8日から1947年4月30日まで)、福島県会議員(3期)を務めた。1947年4月、第23回衆議院議員総選挙で福島県第1区から民主党公認で出馬して当選した。
鈴木 五六(すずき ごろく、1883年(明治16年)11月2… 鈴木 五六(すずき ごろく、1883年(明治16年)11月21日 - 1932年(昭和7年)11月27日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 愛知県渥美郡赤羽根村(現在の田原市)出身。1902年(明治35年)、東京法学院(現在の中央大学)を卒業。司法官試補を務めた後、弁護士を開業した。 豊橋市会議員に選出され、同参事会員、同副議長を務めた。さらに愛知県会議員、同郡部会議長、同議長を務めた。 1928年(昭和3年)、第16回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した。
岡田 信一郎(おかだ しんいちろう、1883年(明治16年)… 岡田 信一郎(おかだ しんいちろう、1883年(明治16年)11月20日 - 1932年(昭和7年)4月4日)は、大正・昭和初期に活躍した建築家である。大阪市中央公会堂(原案)や東京府美術館、歌舞伎座、明治生命館などの設計作品で知られる。 東京帝国大学建築学科を卒業した後、東京美術学校(現・東京芸術大学)と早稲田大学で教壇に立ち、今和次郎、今井兼次、三井道男、吉田五十八、岡田捷五郎(実弟)、村田政真、吉村順三ら多くの後進を育成した。 病弱なため外遊をする機会はなかったが、海外の建築雑誌等を通して近代建築の動向を把握し、優れた建築評論を執筆している。 設計作品には鉄筋コンクリートで和風意匠を表現した歌舞伎座、日本における西欧様式建築の最高傑作と評される明治生命館、イギリス風邸宅建築の鳩山一郎邸などがある。
重松 俊章(しげまつ しゅんしょう、1883年(明治16年)… 重松 俊章(しげまつ しゅんしょう、1883年(明治16年)11月18日 - 1961年(昭和36年)10月6日)は、日本の東洋学者・真言宗豊山派僧侶。 愛媛県温泉郡荏原村生まれ。1894年(明治27年)に得度し、私立豊山中学校を卒業。1909年(明治42年)、東洋大学本科を3年修了で退学した後、東京帝国大学文科大学史学科選科生として入学。1913年(大正2年)東京帝国大学文科大学の史学科を卒業。 1919年6月、松山高等学校教授、1926年から1年間の中国留学後、1927年11月、九州帝国大学法文学部東洋史学講座の初代教授として赴任。1944年9月、定年退官。退官後、松山市にある四国八十八箇所霊場第51番札所の熊野山石手寺の第41世住職に就任した。
2代 見目 清(けんもく きよし、1883年(明治16年)1… 2代 見目 清(けんもく きよし、1883年(明治16年)11月16日 - 1963年(昭和38年)4月5日)は、明治から昭和期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。幼名・清三。 栃木県塩谷郡太田村(北高根沢村を経て現高根沢町)で、素封家・初代見目清の長男として生まれる。県立宇都宮中学校(現栃木県立宇都宮高等学校)を経て、早稲田大学政治経済科を卒業。父の死去に伴い1904年(明治37年)5月に家督を相続し2代清を襲名した。 矢口長右衛門らと宝積寺銀行を立上げて取締役となり、1915年(大正4年)頭取に就任。下野実業銀行頭取にも就任し、その後、6銀行合併して下野中央銀行が創立され副頭取に就任し、1926年(大正15年)2月、頭取に就任した。
米原 章三(よねはら しょうぞう、明治16年(1883年)1… 米原 章三(よねはら しょうぞう、明治16年(1883年)11月16日 - 昭和42年(1967年)10月19日)は日本の実業家、政治家。鳥取県多額納税者。鳥取県会議員、貴族院議員。鳥取市名誉市民。旧姓藤縄。 鳥取県八頭郡河原町(現・鳥取市)に生まれた。実父の範七は1885年に県会議員となったが1890年に病没、その後家運は衰退した。国英村の八上高等小学校を終えると鳥取県立簡易農学校(現・鳥取県立倉吉農業高等学校)に入った。17歳の春に同校を卒業すると、若桜小学校で代用教員として短期間勤務した。 1900年9月、大日本農会附属私立東京農学校(現・東京農業大学)に入学、1903年に卒業。続いて早稲田大学専門部政治経済科に入学。
新庄 祐治郎(しんじょう ゆうじろう、1883年(明治16年… 新庄 祐治郎(しんじょう ゆうじろう、1883年(明治16年)11月16日 - 1951年(昭和26年)2月2日)は、日本の内務・朝鮮総督府官僚。政友会系官選県知事。 京都市上京区新烏丸通二条上ル出身。第五高等学校を卒業。1909年7月、京都帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。1910年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1911年、内務省に入省し京都府警部となる。 以後、山口県厚狭郡長、同県玖珂郡長、山口県理事官、鹿児島県理事官、静岡県理事官、朝鮮総督府事務官、同慶尚北道第三部長、同道警察部長、総督府警務局高等警察課長、福岡県警察部長、和歌山県書記官・内務部長、広島県書記官・内務部長、愛知県書記官・内務部長、福島県書記官・内務部長などを歴任。
林 忠一(はやし ただかず、1883年(明治16年)11月1… 林 忠一(はやし ただかず、1883年(明治16年)11月15日 - 1952年(昭和27年)12月23日)は、大正から昭和期の弁護士、政治家、華族。貴族院男爵議員。 旧上総国請西藩主家当主・林忠弘の長男として生まれる。 1910年(明治43年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。第10師団法官部理事を経て、1917年(大正6年)大阪地方裁判所所属弁護士となった。同年1月31日、前年の忠弘死去に伴い男爵を襲爵した。 1946年(昭和21年)5月11日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
植村 嘉三郎(うえむら よしさぶろう、1883年〈明治16年… 植村 嘉三郎(うえむら よしさぶろう、1883年〈明治16年〉11月15日 - 1958年〈昭和33年〉3月12日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 兵庫県多紀郡、のちの福住村(多紀村、多紀町、篠山町、篠山市を経て現丹波篠山市)で、植村建次郎の二男として生まれた。幼くして東京に出て苦学した。やまと新聞、国民新聞、中央新聞の各記者となり、昼夜通信社専務取締役社長となる。 1936年(昭和11年)の第19回衆議院議員総選挙において兵庫5区(当時)から立憲民政党公認で立候補して当選する。次の1937年(昭和12年)の第20回衆議院議員総選挙で落選した。1942年(昭和17年)の第21回衆議院議員総選挙では非推薦で立候補したが最下位で落選した。
衛藤 利夫(えとう としお、1883年11月14日 - 19… 衛藤 利夫(えとう としお、1883年11月14日 - 1953年7月7日)は、日本の満州文化史研究者、図書館員。 熊本県上益城郡飯野村(現益城町)出身。五男は衛藤瀋吉。1908年第五高等学校文科退学、東京帝国大学文学部選科に入る、1912年選科修了(大塚保治に師事)。1915年東京帝大司書。1919年満鉄大連図書館司書、1920年奉天簡易図書館主事。1922年満鉄奉天図書館長、1932年大同学院顧問。1941年奉天図書館長を辞任、日本図書館協会理事。1946年同理事長。
小川 順之助(おがわ じゅんのすけ、1883年(明治16年)… 小川 順之助(おがわ じゅんのすけ、1883年(明治16年)11月13日 - 1961年(昭和36年)6月23日[要出典])は、関東庁官僚。大連市長。 東京府に郡会議員小川弥次郎の子として生まれる。1911年(明治44年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業。長野県庁内務部勤務、岩手県東磐井郡長、同下閉伊郡長、大阪府理事官を務めた。1919年(大正8年)、関東都督府参事官・事務官に転じ、関東庁参事官・事務官、長官官房文書課長、大連民政署長事務取扱、内務局地方課長、同殖産課長などを歴任し、勅任官の待遇を受けた。 1930年(昭和5年)に退官し、翌年に大連市長に就任した。その後、関東州天津貿易斡旋所長、同北支貿易斡旋所長を経て、関東州薬工品株式会社社長を務めた。
竹內 薰兵(たけうち くんぺい、1883年〈明治16年〉11… 竹內 薰兵(たけうち くんぺい、1883年〈明治16年〉11月12日 - 1973年〈昭和48年〉3月21日)は、日本の医師、医学者(小児科学)、歌人。勲等は勲四等。学位は医学博士(京都帝国大学・1923年)。日本児童学会名誉会長、社団法人日本小児科学会名誉会員。旧姓は鈴木(すずき)。号は青夏(せいか)。姓の「內」は「内」の旧字体でありJIS X 0213:2004に収録されておらず、名の「薰」は「薫」の旧字体でありJIS X 0208に収録されていないことから、新字体で竹内 薰兵(たけうち くんぺい)、竹內 薫兵(たけうち くんぺい)、竹内 薫兵(たけうち くんぺい)とも表記される。 京都帝国大学での勤務を経て、竹内病院院長、東洋大学教授などを歴任した。
山田 忠治(やまだ ちゅうじ、1883年〈明治16年〉11月… 山田 忠治(やまだ ちゅうじ、1883年〈明治16年〉11月11日 - 1971年〈昭和46年〉7月7日)は、日本の海軍軍人。海軍航空草創期の搭乗員の一人で、第一次世界大戦においては日本初の航空作戦に携わった。最終階級は海軍少将。 愛知県に生まれる。海南中学校を経て明治38年(1905年)11月海軍兵学校(33期)を卒業、明治39年(1906年)12月20日海軍少尉任官。海軍大学校乙種学生を経て大尉任官後の1912年(明治45年)6月26日に海軍航空術研究委員に任ぜられた。7月に渡米して飛行免状を取得し、帰国後は同委員会練習将校の指導に当たった。 1913年(大正2年)6月24日に水上機による世界高度記録(2,500m)を達成したとされる。
高山 勝司(たかやま かつじ、1883年〈明治16年〉11月… 高山 勝司(たかやま かつじ、1883年〈明治16年〉11月10日 - 1961年〈昭和36年〉9月30日)は、大正から昭和時代の関東庁官僚。千葉県長生郡豊岡村長。旅順市長。 千葉県長生郡弓渡村(豊岡村、本納町を経て、現茂原市)出身。高山粂蔵の次男として生まれる。1907年(明治40年)明治大学専門部法律科卒業後、関東都督府(1919年(大正8年)関東庁に改組)警察部に出仕する。警部補、警部、警視と進み、旅順、大連、安東、新京各警察署長を歴任し、1935年(昭和10年)3月退官。翌月、旅順市助役を経て、1936年(昭和11年)1月25日、旅順市長に就任した。ほか、旅順市会議長を務めた。 戦後は、豊岡村長を歴任した。
玉椿 憲太郎(たまつばき けんたろう、1883年(明治16年… 玉椿 憲太郎(たまつばき けんたろう、1883年(明治16年)11月10日 - 1928年(昭和3年)9月19日)は、富山県中新川郡下条郷上砂子坂村(現・富山市)出身で雷部屋に所属した大相撲力士。本名は森野 健次郎。小兵でありながら多彩な技としぶとい相撲で関脇まで上り詰め、「名人」「怪力士」などと呼ばれた。現役時代の体格は159cm、90kg。 父と兄が草相撲の強者だったことから、これに影響を受けて力士を志すようになる。1895年(明治28年)ごろ、知人を通して梅ノ谷に紹介してもらい、その師匠である雷部屋に入門。1897年(明治30年)1月場所初土俵。この時の四股名は湊山。1900年(明治33年)の一場所のみ玉ヶ関と改名するが、これは兄弟同様にしていた玉ヶ関という力士が死去したため、弔いの意味で付けたものであった。
伊勢ノ濱 慶太郎(いせのはま けいたろう、1883年11月9… 伊勢ノ濱 慶太郎(いせのはま けいたろう、1883年11月9日 - 1928年5月17日)は、東京府本所区(現在の東京都墨田区)出身で友綱部屋(入門時は根岸部屋)に所属した大相撲力士。本名は中立 慶太郎(なかだち けいたろう)。最高位は大関。現役時代の体格は、身長168cm、体重105kg。得意手は左四つ、寄り、上手投げ。 父は明治中期(1880年代)に活躍した幕内力士の伊勢ノ濱荻右エ門で、祖父は行司9代木村庄太郎、従兄には年寄根岸治右エ門がいるという相撲一家の生まれ。日本橋の酒店に奉公していたが父親譲りの力自慢で、18歳の時に根岸に入門した。1902年1月場所初土俵。しかし根岸の部屋には土俵がなかったため名門友綱部屋に通い、太刀山、國見山らの胸を借りて成長した(のちに友綱部屋へ移籍)。
安倍 邦太郎(あべ くにたろう、1883年〈明治16年〉11… 安倍 邦太郎(あべ くにたろう、1883年〈明治16年〉11月8日 - 1946年〈昭和21年〉4月26日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(1期)、新潟市会議員(6期)、第14・15代新潟市会議長。 新潟県中蒲原郡流作場新田(現 新潟市中央区三和町)の名家・安倍家の11世当主・安倍周平の長男として出生。 1902年(明治35年)3月に新潟中学校を卒業、4月に東京専門学校高等予科(現 早稲田大学高等学院)に入学、新潟中学校の2年先輩の会津八一とともに東京府東京市牛込区牛込原町(現 東京都新宿区原町)の玉川温徳方に下宿。 1903年(明治36年)7月に早稲田大学高等予科を修了、9月に早稲田大学大学部政治経済学科に入学、1906年(明治39年)7月に卒業、ウラジオストクと樺太を視察、鍵三銀行支配人、新潟保育院理事などに就任。
木村 正路(きむら まさみち、1883年11月8日 - 19… 木村 正路(きむら まさみち、1883年11月8日 - 1962年10月13日)は、日本の物理学者。京都帝国大学理学部名誉教授。日本物理学会名誉会員。帝国学士院元会員。学術研究会議元会員・海軍航空廠嘱。日本学術振興会元委員。元理化学研究所主任研究員。長岡半太郎・高嶺俊夫と共に、初期の分光学の権威の一人。位階は従三位、勲等は勲二等。 専門は、物理光学・分光学、輻射学・放射学・スペクトル。 1883年兵庫県神戸生まれ。1907年京都帝国大学理工科大学物理学科を卒業。同大学講師となり、1909年助教授。1915年米ジョンズ・ホプキンズ大学(JHU)留学(ロバート・ウィリアム・ウッドに師事)し、物理光学・分光学の研究に従事、1917年帰国し、京都帝国大学理科大学教授となり、1918年理学博士(京都帝国大学)。
林 平馬(はやし へいま、1883年11月6日 - 1972… 林 平馬(はやし へいま、1883年11月6日 - 1972年3月19日)は、日本の政治家、著作家。位階は従三位。 福島県耶麻郡塩川町(現・喜多方市)で生まれる。1907年日本体育会体操学校(現・日本体育大学)を卒業し小学校の訓導となる。その後日本大学法律科を卒業する。早くから政治家を志し、1928年の第16回衆議院議員総選挙に立憲民政党公認で旧福島2区から出馬し初当選。その後通算7回当選。1932年の第18回衆議院議員総選挙のみ旧福島1区から立候補し当選している。平沼内閣で鉄道参与官を務め、政党解消後は翼賛政治に反対し興亜議員同盟に所属。1942年の翼賛選挙には非推薦候補として立候補したが落選した。
富田 満(とみた みつる、1883年11月5日 - 1961… 富田 満(とみた みつる、1883年11月5日 - 1961年1月15日)は、日本の神学者、牧師(日本基督教団芝教会)。教会合同、エキュメニカル運動の指導者。日本基督教会(現日本キリスト教会)大会議長、日本基督教団統理者として天皇に賜謁。神の国運動委員長、東京神学大学、明治学院大学理事長、金城女子専門学校理事長、日本基督教連盟議長、日本キリスト教協議会の幹部、など要職を歴任。 愛知県東春日井郡印場村(春日井市)の農家に三男として生まれる。5歳の頃から教会学校に通った。16歳の時南長老ミッションのR・E・マカルピン宣教師より洗礼を受ける。 1904年、明治学院神学部に入学。日露戦争に従軍。1907年、神戸神学校に転校し、1909年卒業。
村上 精一(むらかみ せいいち、1883年〈明治16年〉11… 村上 精一(むらかみ せいいち、1883年〈明治16年〉11月2日 - 1959年〈昭和34年〉9月10日)は、日本の英語学者、青山学院大学教授、青山学院専門部文学部長、青山学院高等部長。 1883年11月2日、静岡県引佐郡細江町に生まれる。静岡県立浜松中学校を経て、1903年4月、青山学院高等科に入学する。1906年3月に卒業し、同年5月から秋田県立本荘中学校の教諭となる。1910年9月に依願免職、同年10月からアメリカ合衆国インディアナ州のデポー大学に入学する。1913年6月に卒業し、B.A.の学位を受ける。同年9月、イリノイ州のシカゴ大学に入学し、1916年3月にM.A.の学位を受け、同年9月に卒業、B.D.の学位を受ける。
酒井 忠克(さかい ただたえ、1883年〈明治16年〉11月… 酒井 忠克(さかい ただたえ、1883年〈明治16年〉11月2日 - 1939年〈昭和14年〉6月17日)は、日本の宮内官僚、政治家、華族。貴族院伯爵議員。 東京府出身。伯爵・酒井忠道の二男として生まれる。1906年(明治39年)学習院高等科を卒業し、さらに東京帝国大学法科大学を修了。父・忠道の死去に伴い、1920年(大正9年)3月10日、家督を相続し伯爵を襲爵した。 1914年(大正3年)以降、主猟官、式部官兼主猟官、中央失業対策委員会委員などを務めた。 1925年(大正14年)7月10日、貴族院伯爵議員に選出され、研究会に属して死去するまで在任した。
中野 猛雄(なかの たけお、1883年〈明治16年〉11月2… 中野 猛雄(なかの たけお、1883年〈明治16年〉11月2日 - 1950年〈昭和25年〉8月27日)は、日本の政治家。衆議院議員(4期)。 熊本県天草郡碇石村(現・天草市)生まれ。1907年(明治40年)早稲田大学政治経済科卒。宮地岳村長を務めた。1923年(大正12年)、熊本県会議員選挙に天草郡選挙区から立憲政友会公認で立候補して当選した。1927年(昭和2年)に退任した。1928年(昭和3年)の第16回衆議院議員総選挙で熊本2区(当時)から立憲政友会公認で立候補して初当選。以来4回連続当選した。 他、肥州窯業、九州新聞(現:熊本日日新聞)の各社長、中西銀行、九州商船などの取締役も務めた。
綾川 五郎次(あやがわ ごろうじ、1883年11月2日 - … 綾川 五郎次(あやがわ ごろうじ、1883年11月2日 - 1933年2月16日)は、青森県南津軽郡(現黒石市)出身で入間川部屋に所属した大相撲力士。本名は村上 要作(むらかみ ようさく)。最高位は関脇。 1883年11月2日に青森県南津軽郡(現黒石市)で生まれる。幼少期から宮相撲で活躍して力士を志し、旧制盛岡中学校を中退して高砂部屋へ入門、1905年1月場所で序ノ口から初土俵を踏んだ。1910年6月場所で十両に昇進し、1914年1月場所で新入幕を果たした。入幕後は負け越しがなく、鳳谷五郎を二度破るなど「鳳キラー」として活躍、1915年5月場所で小結へ、1916年5月場所で関脇へ昇進したが、腎結石のために初日の取り組みに出場(黒星)のみで残りを全休、それ以降も不振で番付が降下していった。
熊谷 武雄 (くまがい たけお、1883年11月2日- 1… 熊谷 武雄 (くまがい たけお、1883年11月2日- 1936年8月21日)は、日本の歌人(明治~昭和時代前期)。歌人の熊谷龍子は孫。 宮城県本吉郡新月村(現・気仙沼市)生まれ。少年時、及川義亮に歌を学ぶ。郷里・気仙沼で農林業に従事しながら前田夕暮に師事。 1911年(明治44年)「詩歌」創刊に参加し同時に短歌結社「白日社」同人となる。1912年(大正元年) 仙台の文芸誌「シャルル」同人となり、郷土の文学の高揚に尽力した。 1921年 新月村の村会議員に就任。 1924年(大正13年)「日光」に前田夕暮らとともに参加。「詩歌」同人らが自由律口語短歌に転向するなかで定型律文語短歌をまもり、山村生活をうたった。
小泉 源一(こいずみ げんいち、1883年11月1日 - 1… 小泉 源一(こいずみ げんいち、1883年11月1日 - 1953年12月21日)は、日本の植物学者。日本植物分類学会の創立者で、日本の植物分類学の基礎を築いた一人である。 植物学者の小泉秀雄は実弟。 1883年、山形県米沢市林泉寺町にて父清次、母たかの長男として生まれる。小泉家は米沢藩の猪苗代組(中士階級)の家柄であり、先祖は武田遺臣の小泉源五郎。札幌農学学校林学実科を経て、1905年、東京帝国大学(現:東京大学)に選科生として入学。松村任三に師事し植物分類学を学んだ。1908年に卒業、1916年にバラ科植物の研究で理学博士を取得。 マーシャル諸島ヤルート島における植物と自然地理の観察依頼を東京理科大学から受け、1914年(大正3年)12月19日に神奈川丸に乗船、翌年2月13日までミクロネシアとマーシャル各群島の現地調査(フィールドワーク)を行う。