藤川 勇造(ふじかわ ゆうぞう、1883年(明治16年)10… 藤川 勇造(ふじかわ ゆうぞう、1883年(明治16年)10月31日 - 1935年(昭和10年)6月15日)は、大正時代から昭和初期に活躍した彫刻家である。妻は洋画家の藤川栄子。 香川県高松市の江戸時代に活躍した玉楮象谷を大伯父に持つ漆芸の一家に生まれる。香川県立高松工芸高等学校漆工科(1899年(明治32年)に木彫科に転身)卒業後上京し、東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)に入学し彫刻を学んだ。卒業後の1909年(明治42年)に留学のためフランスへ渡り、アカデミー・ジュリアンでジャン=ポール・ローランスに師事し、彫刻を学ぶ。これによって1912年に当時同学校に勤めていたオーギュスト・ロダンの晩年の助手となった。
後藤 慶二(ごとう けいじ、1883年10月29日 - 19… 後藤 慶二(ごとう けいじ、1883年10月29日 - 1919年2月3日)は日本の建築家。司法技師として監獄等の建設に従事、豊多摩監獄(後の中野刑務所)が代表作。 東京市小石川生まれ。父・後藤牧太は物理学者で東京高等師範学校教授。東京高等師範学校附属小学校・同中学校を経て、旧制第四高等学校(金沢)第二部甲組を卒業。白馬会菊坂研究所に通い洋画を学ぶ。1906年に東京帝国大学工科大学建築学科に入学し、1909年卒業。同期に山崎静太郎、長谷部鋭吉らがいる。 卒業後は司法省に入り営繕技師になる。山下啓次郎、横浜勉とともに豊多摩監獄の建設に従事。また中央工学校(夜学)の建築科教務主理を務める。1914年頃、佐野利器、内田祥三、内藤多仲らと白光会を組織。
原口 徠(はらぐち きたる、1883年(明治16年)10月2… 原口 徠(はらぐち きたる、1883年(明治16年)10月29日 - 1936年(昭和11年)4月22日)は、日本の銀行家、華族。 1903年東京高等商業学校(現一橋大学)予科入学。1910年同専攻部卒業、日本勧業銀行入行。1919年男爵を襲爵し、正五位に叙される。1926年叙従四位。1934年日本勧業銀行常務理事。叙正四位。1936年死去。享年54。 父は原口兼済。妻は伊東巳代治の娘。 娘の峯子は、博多大丸取締役の武田克(磯部正春の甥、岩崎弥太郎の婚族)に嫁いだ。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
上野 陽一(うえの よういち、1883年〈明治16年〉10月… 上野 陽一(うえの よういち、1883年〈明治16年〉10月28日 - 1957年〈昭和32年〉10月15日)は、日本の経営学者、産業心理学者。産業能率大学の創始者、産業能率短期大学の創設者・学長、立教大学教授・経済学部長、大蔵省作業部計画課長。米国のマネジメント思想と技術を導入、産業界に紹介して、日本最初の経営コンサルタントとなった。中でも、フレデリック・テイラーによる科学的管理法を「能率学」と名付け邦訳し、日本における経営学の端緒を開き「能率の父」と呼ばれる。位階勲等は正四位勲二等。 東京出身。1903年、東京帝国大学(現在の東京大学)文学部哲学科に選科生として入学。心理学を専攻し、1907年に本科生となり1908年に卒業する。
田尻 昌次(たじり しょうじ、1883年(明治16年)10月… 田尻 昌次(たじり しょうじ、1883年(明治16年)10月28日 - 1969年(昭和44年)6月21日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功三級。陸軍の船舶輸送制度を整備し「船舶の神」と呼ばれた。 1883年(明治16年)に兵庫県但馬、現豊岡市日高町浅倉で生まれた。1893年(明治26年)に父親の知人に引き取られ、神奈川県尋常中学校に編入学する。1901年(明治34年)に第三高等学校への進学が決まったが、郷里の祖父が病に倒れたため帰郷。府中尋常高等小学校の代用教員を経て、1904年(明治37年)に陸軍士官学校に入学。1905年(明治38年)に第18期卒業、歩兵第20連隊留守部隊に配属された。
呉 建(くれ けん、1883年(明治16年)10月27日 -… 呉 建(くれ けん、1883年(明治16年)10月27日 - 1940年(昭和15年)6月27日)は、日本の医師、内科学者、洋画家。医学博士(東京帝国大学)、アテネ大学名誉教授。帝国学士院恩賜賞受賞。九州帝国大学教授、東京帝国大学教授、東京帝国大学医学部附属医院医長を歴任。 1930年代に6度ノーベル生理学・医学賞候補となるが、結局、受賞には至らなかった。6度の候補は同賞で日本人最多である。 チャールズ・シェリントン、ジークムント・フロイト、イワン・パブロフに次ぐ中枢神経生理学の権威とされる。 呉文聰・やす夫妻の長男として東京府麹町区元園町に生まれる。曾祖父は蘭学者の箕作阮甫、祖父は阮甫の弟子で娘婿の呉黄石、父は黄石の次男で統計学者の呉文聰、叔父は精神科医の呉秀三、義叔父は書家の日高秩父、弟は経済学者の呉文炳、二男は日本銀行調査局長の呉文二。
児玉 衛一(こだま もりかず、旧字体: 兒玉 衞一、1883… 児玉 衛一(こだま もりかず、旧字体: 兒玉 衞一、1883年〈明治16年〉10月27日 - 1952年〈昭和27年〉4月7日)は、大正から昭和にかけての日本の実業家・資産家。長野県小県郡和村(現・東御市)出身。上田殖産銀行(旧・信濃銀行)頭取・大正自動車代表・八十二銀行取締役・長野電気取締役・長野県会議員などを歴任。 児玉衛一は、1883年(明治16年)10月、児玉猛次郎の長男として生まれた。父が早世したため祖父・彦助の手により育つ。彦助は長野県小県郡和村(後の東部町、現・東御市)の大地主・多額納税者で、村の収入役・助役や第十九銀行(上田市)監査役などを務めた人物である。松本市の松本中学校を経て上京し、早稲田大学政治経済学部を1905年(明治38年)に卒業する。
中松 真卿(なかまつ しんけい、1883年(明治16年)10… 中松 真卿(なかまつ しんけい、1883年(明治16年)10月26日 – 1952年(昭和27年)10月4日)は、日本の商工官僚、特許局長官。日本製鉄株式会社社長。 和歌山県西牟婁郡田辺町(現在の田辺市)出身。1908年(明治41年)に東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。農商務属、特許局審査官補となり、高等文官試験に合格した。特許局審査官・事務官、農商務書記官、同参事官、簡易保険局書記官・商工書記官、特許局総務部長・意匠商標部長、保険事務官、商工省保険部長などを歴任。1929年(昭和4年)、商工省鉱山局長となり、翌年には特許局長官に就任した。 1936年(昭和11年)に退官した後は、日本製鉄株式会社常務取締役となり、ついで代表取締役社長に就任した。
前田 幸太郎(まえだ こうたろう、1883年10月26日 -… 前田 幸太郎(まえだ こうたろう、1883年10月26日 - 1965年3月8日)は、日本の経済学者。専門は経済学史、経済史。第3代横浜市立大学学長。横浜文化賞受賞。 京都府出身。1904年東京高等商業学校(現一橋大学)本科卒業。1909年同専攻部領事科卒業。市立下関商業学校教諭、山口高等商業学校教授を経て、1932年から横浜市立横浜商業専門学校校長、横浜市立商業学校校長を務め、教員の充実化などを進めた。1933年横浜経済研究所(のちの横浜市立大学経済研究所)を設立し所長に就任。1949年初代横浜市立大学商学部長兼横浜市立経済専門学校校長。1955年度横浜文化賞受賞。1957年横浜市立大学学長。
花岡 正庸(はなおか まさつね、1883年〈明治16年〉10… 花岡 正庸(はなおか まさつね、1883年〈明治16年〉10月24日 - 1953年〈昭和28年〉2月15日)は、日本の酒造技術者。秋田清酒の父、秋田の酒造りの父、秋田吟醸酒の父などとされる人物である。 長野県中野市出身。1907年に大阪高等工業学校酒造科を卒業した。卒業後、実家の家業であった酒造に従事したが火災のため実家が廃業した。その後、1913年より丸亀税務監督局に勤務し、仙台税務監督局に転じ、1918年から秋田県醸造技師を兼任した。 酵母の硝酸銀応用や酒の低音長期保存法などの新技術を導入・普及させ、秋田における酒造業を牽引した。 1922年に秋田県酒造組合連合会長の伊藤恭之助や県内の有力者、企業家とともに秋田銘醸を創立し顧問となった。
関口 寿(關口 壽、せきぐち ひさし、1882年〈明治15年… 関口 寿(關口 壽、せきぐち ひさし、1882年〈明治15年〉11月21日 - 没年不詳)は、明治末期から昭和戦前期にかけて活動した日本の電気技術者、実業家。逓信省の技官を経て実業界入りし、大阪電灯技師長や大同電力常務取締役、日本揮発油(現・日揮ホールディングス)初代専務取締役などを務めた。 関口寿は1882年(明治15年)11月21日、東京府関口慶吉の長男として生まれた。1901年(明治34年)7月東京の第一高等学校第二部工科を卒業、次いで1904年(明治37年)7月東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業する。卒業後は逓信省に入り通信技手となる。翌年時点の職員録には逓信省通信局所属の通信技手とある。
山岡 重厚(やまおか しげあつ、1882年(明治15年 )1… 山岡 重厚(やまおか しげあつ、1882年(明治15年 )11月17日 - 1954年(昭和29年 )3月27日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
平山 蘆江(ひらやま ろこう、1882年11月15日 - 1… 平山 蘆江(ひらやま ろこう、1882年11月15日 - 1953年4月18日)は日本の新聞記者、作家。
後藤 多喜蔵(ごとう たきぞう、1882年(明治15年)11… 後藤 多喜蔵(ごとう たきぞう、1882年(明治15年)11月15日 - 没年不詳)は、日本の検察官、裁判官、内務・警察官僚、政治家。官選県知事、門司市長、久留米市長。 福岡県出身。後藤増蔵の四男として生まれる。1910年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年8月2日、司法省に入省。司法官試補となり東京地方裁判所及同検事局並東京区裁判所及同検事局で事務修習を命じられた。 1912年12月10日、検事に任官し、予備検事・東京地方裁判所検事局兼東京区裁判所検事局詰となる。以後、東京地方裁判所兼東京区裁判所検事、大阪地方裁判所兼大阪区裁判所検事を務めた。1916年1月11日、判事となり、横浜区裁判所判事に就任。
郷古 潔(ごうこ きよし、1882年(明治15年)11月13… 郷古 潔(ごうこ きよし、1882年(明治15年)11月13日 - 1961年(昭和36年)4月28日)は、日本の実業家。三菱重工業社長、太平洋戦争時の東條内閣顧問。戦後はA級戦犯として逮捕され、公職追放された。 地域の教育者であった郷古玉三郎、ゆうの長男として岩手県胆沢郡水沢町(水沢市を経て、現・奥州市)不断町にて生まれた。先祖は仙台藩伊達氏の一門である留守家に仕えた藩医。盛岡中学校(及川古志郎、野村胡堂らと同級)、第一高等学校(東京大学教養学部)、東京帝国大学法科大学法律科を経て、1908年8月、三菱合資会社に入社。入社後すぐに九州の炭鉱へ転勤を命じられた。後には三菱造船、神戸造船、三菱重工、日本航空会社と三菱財閥の各社で勤務。
上野 直昭(うえの なおてる、1882年〈明治15年〉11月… 上野 直昭(うえの なおてる、1882年〈明治15年〉11月11日 - 1973年〈昭和48年〉4月11日)は、日本の美学者。日本学士院会員、東京藝術大学名誉教授。 出典:(日本美術年鑑)・(百年史) 1882年(明治15年)、上野昭道の長男として神戸市に生まれた。慶應義塾幼稚舎、東京正則中学校、第一高等学校を経て、1908年東京帝国大学文科大学哲学科(心理学専攻)を卒業。 1911年(明治44年)から1921年(大正10年)まで、美学者である大塚保治教授の主宰する東京帝大文科大学美学研究室の副手をつとめた。その在任中の1916年(大正5年)に東照宮三百年祭記念会が帝国学士院に委托した研究費の補助を得て、絵巻物の調査研究に当たった。
織田 一磨(おだ かずま、1882年(明治15年)11月11… 織田 一磨(おだ かずま、1882年(明治15年)11月11日 - 1956年(昭和31年)3月8日)は明治期から昭和期の芸術家、版画家。 洋画を川村清雄、石版画をオットマン・スモリック、金子政次郎に学ぶ。「自画石版の織田一磨」として知られる。主な作品は東京国立近代美術館などに収められている。 1882年(明治15年)11月11日、織田信徳の四男として東京府芝区にて誕生した。1894年(明治27年)頃、父信徳らと大阪に転居する。その後、広島石版印刷所や大阪市役所図案調製所に勤務する。1898年(明治31年)、16歳の時、兄の織田東禹の元で更に石版画の技術を学んだ。1907年(明治40年)に石井柏亭らによって刊行された美術雑誌『方寸』に参加し、創作版画の道に進んだ。
浅利 三朗(淺利 三朗、あさり さぶろう、1882年(明治1… 浅利 三朗(淺利 三朗、あさり さぶろう、1882年(明治15年)11月10日 – 1966年(昭和41年)11月3日)は、日本の内務及び朝鮮総督府官僚、政治家。栃木県知事(官選第25代)、香川県知事(官選第19代)、衆議院議員(3期)。 岩手県西磐井郡平泉町出身。浅利杏坪の三男として生まれ、兄・浅利寛の養子となる。一関中学、第二高等学校を経て、1909年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。同年12月、内務省に入省し三重県属となり、内務部勧業課に配属された。 1910年5月、三重県内務部地方課に配属。以後、山形県事務官、同視学官、大阪府視学官、茨城県警察部長、高知県警察部長、新潟県警察部長、北海道庁警察部長、富山県内務部長などを歴任。
村上 武次郎(むらかみ たけじろう、1882年11月10日 … 村上 武次郎(むらかみ たけじろう、1882年11月10日 - 1969年7月29日)は、日本の冶金学者。 京都府南桑田郡(現:亀岡市)に生まれる。京都府師範学校を経て東京高等師範学校を卒業し、京都府立第一高等女学校(現:京都府立鴨沂高等学校)の教師職に就くが、再び学問を志し29歳で京都帝国大学理学部純正化学科へ入学。卒業後も大学に残り講師を務める。近重眞澄の推挙で、1916年新たに設立される東北帝国大学に臨時理化学研究所(所長本多光太郎、現:東北大学金属材料研究所)に赴任する。以後KS鋼・新KS鋼の研究に携わり、ステンレス鋼や高速度工具鋼など新素材の領域で優れた業績を上げた。 娘婿に今井勇之進がいる。
白神 邦二(しらかみ くにじ、1882年(明治15年)11月… 白神 邦二(しらかみ くにじ、1882年(明治15年)11月10日 - 1934年(昭和9年)4月15日)は、大正から昭和初期の実業家、政治家。衆議院議員。 岡山県浅口郡勇崎村西浦(柏崎村、玉島町、玉島市を経て現倉敷市玉島勇崎)で、肥料問屋「北国屋」白神亀五郎、貞の二男として生れ、白神カチの養子となり1897年(明治30年)家督を相続した。玉島尋常高等小学校を卒業。その後の経歴は不明確で、ロシア帝国沿海州などを視察し、帰郷して岡山市で海産物商、米穀仲買人などを営む。 その後大阪に移り、堂島などで相場、株式の知識を習得し、1918年(大正7年)米相場、株式を掲載した『大阪毎夕新聞』を創刊し1921年(大正10年)社長に就任した。
菰田 万一郎(こもだ まんいちろう、1882年(明治15年)… 菰田 万一郎(こもだ まんいちろう、1882年(明治15年)11月9日 - 1939年(昭和14年)3月6日)は、日本の教育者。旧姓は早川。 長野県小県郡当郷(現青木村)生まれ。長野県尋常中学校上田支校(1899年(明治32年)には長野中学校上田支校に、翌1900年(明治33年)に上田中学校として独立、現・長野県上田高等学校)、同松本本校(現・長野県松本深志高等学校)を経て、旧制浦和高等学校、東京帝国大学哲学科卒業。尋常中学校の同級生に五島慶太がいた。千葉県夷隅郡中川村の菰田家の養子となる。 東京府立第二中学、旧制山口高等学校で教壇に立った後、1928年(昭和3年)文部省学務局事務官となり、翌年学生課長、調査課長を務めた。
出光 万兵衛(いでみつ まんべえ、1882年〈明治15年〉1… 出光 万兵衛(いでみつ まんべえ、1882年〈明治15年〉11月9日 - 1964年〈昭和39年〉7月16日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。侍従武官としての宮仕えを経て、海軍兵学校校長、舞鶴要港部司令官を務めた。 福岡県宗像市出身。地主・出光勝兵衛の三男として生れる。旧制東筑中学校(現福岡県立東筑高等学校)を経て、1905年11月、海軍兵学校(33期)を卒業し、1906年12月に海軍少尉任官。海軍水雷学校高等科を優等で卒業し、第1艦隊参謀などを経て、1916年11月、海軍大学校(甲種14期)を卒業。 以後、水雷学校教官、イギリス駐在、軍令部第1班第2課参謀、兼参謀本部員、軍令部第2班第4課長、給炭艦「野島」艦長、「多摩」艦長、海軍省人事局第1課長、「八雲」艦長、「迅鯨」艦長、海軍通信学校教頭などを歴任し、1930年12月、海軍少将に進級。
中井 猛之進(なかい たけのしん、1882年11月9日 - … 中井 猛之進(なかい たけのしん、1882年11月9日 - 1952年12月6日)は、日本の植物分類学者。東大教授、小石川植物園長、ボゴール植物園長、国立科学博物館長。小説家の中井英夫は息子。 チョウノスケソウ Dryas octopetala L. var. asiatica (Nakai) Nakai などを命名したほか、ノジギク Chrysanthemum japonense (Makino) Nakai、ミヤギノハギ Lespedeza thunbergii (DC.) Nakai などの分類学的検討を行い、名を残した。また、セリ目 Apiales Nakai、インドカラムス属 Indocalamus Nakai、ムニンヤツデ属 Boninofatsia Nakai などの分類群を設立した。
河崎 蘭香(かわさき らんこう、1882年(明治15年)11… 河崎 蘭香(かわさき らんこう、1882年(明治15年)11月9日 - 1918年(大正7年)3月12日)は、西宇和郡郷村(現八幡浜市郷)生まれの日本画家。明治から大正にかけての女性日本画家。上村松園と並び称されることもあたったが、若くして他界した。 名を菊といい、実父は医師である神山謙斎であるが、明治8年(1890)郷村に開校した石堂小学校の校長河崎奨(たすく)郁(かおる)夫妻の養女となる。 小学校を卒業後、上京し音楽学校に入学。1年後に卒業すると、今度は画家を志し、明治32年(1899)には京都に移り住み菊池芳文(きくちほうぶん)の門下生となり、四条派の画法を学ぶ。 明治34年(1901)20歳の蘭香は、八幡浜栗野浦の八坂神社本殿の天井を飾る絵を30枚受け持ち、梶谷南海や他の郷土の画家とともに描き奉納。
板垣 政参(いたがき まさみつ、1882年〈明治15年〉11… 板垣 政参(いたがき まさみつ、1882年〈明治15年〉11月8日 - 1967年〈昭和42年〉10月28日)は、日本の医学者、教育者。医学博士。九州大学名誉教授。内分泌や黄体ホルモンの生理学的研究や、久留米大学附設中学校・高等学校を設立したことで知られる。 岩手県盛岡市出身。板垣征四郎の兄。旧制盛岡中学、旧制二高、京都帝国大学医学部を経て、1910年より京都帝国大学福岡医科大学助教授に就任。1913年陸軍2等軍医になる。1914年3月より3年間ヨーロッパに留学し、1918年九州帝国大学教授となる。その後1932年九州帝国大学医学部長、1933年温泉治療学研究所長を歴任。太平洋戦争中にはジャカルタ医科大学学長を務めた。
大海原 重義(おおみはら しげよし、1882年(明治15年)… 大海原 重義(おおみはら しげよし、1882年(明治15年)11月8日 - 1940年(昭和15年)11月21日)は、日本の内務官僚。府県知事。位階および勲等は正四位・勲二等。 滋賀県犬上郡彦根町出身。旧彦根藩士・大海原尚義(近江鉄道、大日本製糖重役)の長男として生まれる。三重県第一中学校、学習院高等科を経て、1908年、東京帝国大学法科大学を卒業し大学院に進む。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1909年2月、内務省に入り香川県属となる。 以後、香川県事務官、熊本県事務官、埼玉県警察部長、千葉県警察部長、長崎県警察部長、内務省警保局事務官兼内務書記官、東京府内務部長などを歴任。 1922年10月、山梨県知事に就任。
児玉 実良(兒玉 實良、こだま さねよし、1882年(明治1… 児玉 実良(兒玉 實良、こだま さねよし、1882年(明治15年)11月5日 - 1956年(昭和31年)3月20日 )は、明治末から昭和期の裁判官、検察官、弁護士。衆議院議員。 鹿児島県薩摩郡樋脇郷麓(樋脇村、樋脇町を経て現薩摩川内市)で、児玉善輔の長男として生まれた。1908年(明治41年)京都帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。司法官試補に任じられ、徳島地方裁判所判事、千葉地方裁判所判事、名古屋地方裁判所・名古屋区裁判所検事、七尾区裁判所検事、小倉区裁判所検事、高松地方裁判所・高松区裁判所検事、京都地方裁判所・京都区裁判所検事、鹿児島区裁判所検事などを歴任した。退官後は鹿児島市で弁護士を開業した。
大橋 清太郎(おおはし せいたろう、1882年11月3日 -… 大橋 清太郎(おおはし せいたろう、1882年11月3日 - 1962年11月25日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 現在の東京都出身。東京府立一中卒(現・東京都立日比谷高等学校)。材木商を営み、品川町議、同町長、東京市議、同参事会員、東京府議、同参事会員、同議長を経て、1940年、斯波貞吉と麻生久の死去による東京5区(当時)の衆議院議員補欠選挙で初当選。 1939年(昭和14年)に盛り上がりを見せた反英運動には大橋も積極的に参画。7月14日に行われた山王台などで行われた反英市民同盟主催の集会では座長の一人を務めた。 1942年の第21回衆議院議員総選挙では大政翼賛会の推薦を受けて当選した。
中村 藤兵衛(なかむら とうべえ、1882年〈明治15年〉1… 中村 藤兵衛(なかむら とうべえ、1882年〈明治15年〉11月3日 - 1949年〈昭和24年〉11月30日)は、日本の貴族院勅選議員、太田市長。 群馬県新田郡太田町(現在の太田市)に太田保次郎の長男として生まれ、中村勘蔵の婿養子となった。1910年(明治43年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業した。翌年より会計検査院書記となり、同副検査官となった。1915年(大正4年)より衆議院書記官も兼任し、1923年(大正12年)より衆議院書記官長を務めた。1930年(昭和5年)に退官した後は国政研究会を主宰した。1935年(昭和10年)より内閣調査局(のち企画庁)参与を務めた。この間、文官普通試験委員長、臨時議員建築局、大蔵省営繕管財局各参与、大礼使事務官、議会制度審議会臨時委員などを務めた。
青山 徹蔵(あおやま てつぞう、1882年11月2日 - 1… 青山 徹蔵(あおやま てつぞう、1882年11月2日 - 1953年1月10日)は日本の医学者(外科学)、華族(男爵)。 長野県東筑摩郡洗馬村(現塩尻市)の代々医家の熊谷家に生まれる。熊谷陸蔵の次男で、元東北帝国大学総長熊谷岱蔵の実弟。 明治39年(1906年)東京大学医科大学(東京大学医学部)卒業。在学中に同大内科教授青山胤通の娘芳子と結婚、青山姓となった。大正5年(1916年)「胆石形成に関する実験的研究」で医学博士号取得。同8年(1919年)東京帝大外科学助教授、同14年(1925年)外科学第1講座教授。外国留学後、昭和11年(1936年)視力障害を理由に依願退職。従三位勲三等。 腹部外科、特に胆石症や胃潰瘍などの権威として知られ、著作に「小外科総論」がある。
水島 彦一郎(みずしま ひこいちろう、1882年(明治15年… 水島 彦一郎(みずしま ひこいちろう、1882年(明治15年)11月1日 - 1953年(昭和28年)2月13日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。旧舞鶴市長。 京都府加佐郡中筋村(現在の舞鶴市)出身。1906年(明治39年)、早稲田大学政治経済科を卒業。東京日日新聞記者、東京毎日新聞記者を経て、富士製紙に勤めた。第一次世界大戦中は大阪で松田製作所、大阪金工などの軍需工業の経営に従事した。その後郷里に戻り、中筋村会議員、加佐郡会議員、同参事会員に当選。また京都府会議員に2回選出され、参事会員、郡部会議長、議長を歴任した。また舞鶴町長に選ばれ、加佐郡町村長会会長、京都府町村長会会長、全国町村長会副会長に就いた。
佐藤 尚武(さとう なおたけ、1882年(明治15年)10月… 佐藤 尚武(さとう なおたけ、1882年(明治15年)10月30日 - 1971年(昭和46年)12月18日)は、日本の外交官、政治家。林内閣外務大臣、第二次世界大戦末期のソ連対日参戦当時の駐ソビエト連邦大使、戦後には参議院議長(第2・3代)等を歴任した。 旧弘前藩士で当時大阪府警部であった田中坤六の次男として大阪府に生まれる。旧制正則中学校(正則高等学校の前身)卒。1904年(明治37年)、東京高等商業学校(一橋大学の前身)全科卒。同専攻部領事科へ入学。一橋では同級生の向井忠晴(三井総元方理事長や大蔵大臣を歴任)や福島喜三次(元三井合名理事)と首席を争った。後年、向井に駐米大使を打診したが飛行機嫌いであるとして固辞されている。
上野 精一(うえの せいいち、1882年(明治15年)10月… 上野 精一(うえの せいいち、1882年(明治15年)10月28日 - 1970年(昭和45年)4月19日)は、日本の新聞経営者。朝日新聞社社主。 1882年、朝日新聞社社主・上野理一の長男として大阪市東区平野町に生まれる。北野中学校、第三高等学校を経て、東京帝国大学法科大学卒。大学院在籍のまま日本勧業銀行に入行するが、1910年に朝日新聞社に入社。営業部長、副社長を歴任。妻は九鬼隆義の娘の梅子(琴の奏者として知られる。戒名は慈徳院殿仁讓琴室梅箏大姉) 村山龍平社長のもとに専務取締役、取締役会長を経て1933年に社長就任。廃止されていた主筆制を復活させる。1946年、全国中等学校野球連盟(現日本高等学校野球連盟(高野連))設立、初代会長に就任。
若尾 謹之助(わかお きんのすけ、1882年〈明治15年〉1… 若尾 謹之助(わかお きんのすけ、1882年〈明治15年〉10月24日 - 1933年〈昭和8年〉1月25日)は、明治末から昭和初期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。 山梨県出身。若尾民造の三男として生まれる。1911年(明治44年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し実業界に入る。 1917年(大正6年)父の死去に伴い三男であったが二人の兄が早逝していたため家督を相続した。若尾銀行頭取、若尾保全社長、常盤生命代表取締役、若尾貯蓄銀行代表取締役、日本電化代表取締役、日本電気炉工業取締役、日本電球取締役、東京電燈取締役、東京瓦斯取締役、日本機械製造監査役、甲府商業会議所常議員、甲府市商業学校商議員などを務めた。
藤井 種太郎(ふじい たねたろう、1881年(明治14年)1… 藤井 種太郎(ふじい たねたろう、1881年(明治14年)11月22日 - 1968年(昭和43年)6月22日)は、日本の教育者。宮中顧問官。文学博士。 兵庫県出身。1903年(明治36年)、陸軍歩兵少尉となり、日露戦争では歩兵第40連隊に属して出征し、中尉に昇進した。1908年(明治41年)、広島高等師範学校英語部を卒業し、さらに1911年(明治44年)に京都帝国大学文科大学哲学科を卒業。明治専門学校(現在の九州工業大学)生徒監・教授を務め、1918年(大正7年)に学習院教授に就任。さらに広島高等師範学校教授、広島文理科大学教授を歴任した。1932年(昭和7年)からは宮内省に入り、皇后宮職、皇子御養育掛長を務め、1937年(昭和12年)に宮中顧問官に任命された。
時実 秋穂(ときざね あきほ、1881年(明治14年)11月… 時実 秋穂(ときざね あきほ、1881年(明治14年)11月22日 - 1962年(昭和37年)1月21日)は、内務官僚、福岡市長、岡山市長、玉野市長。 岡山県邑久郡長浜村(現在の瀬戸内市)に時実惣次郎の長男として生まれた。1907年(明治40年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年に高等文官試験に合格し、翌年に岩手県事務官に任じられた。その後、徳島県事務官・警察部長、愛媛県警察部長、島根県警察部長、茨城県内務部長を歴任した。1919年(大正8年)、朝鮮総督府忠清南道知事に転じ、朝鮮総督府監察官を経て、1923年(大正12年)に京畿道知事に任じられた。 1926年(大正15年)に福岡市長に選出され、5年間在任した。
国友 末蔵(くにとも すえぞう、1881年〈明治14年〉11… 国友 末蔵(くにとも すえぞう、1881年〈明治14年〉11月17日 - 1960年〈昭和35年〉10月17日)は、明治後期から昭和時代にかけて活動した日本の電気技術者、実業家である。新潟県上越市(旧・高田市)の電力会社中央電気にて技師長および専務取締役を務め、同社の電源開発に携わった。京都市出身。 1881年(明治14年)11月17日、京都の三条通白川橋にて国友藤九郎の四男として生まれた。国友家は戦国時代から近江国坂田郡国友村(現・滋賀県長浜市)で鉄砲を生産していた鉄砲鍛冶の家だが、父・藤九郎は明治維新後京都へ移り活版印刷機の生産にあたっていた。国友は京都府立第一中学校を経て京都の第三高等学校へ進学し、1903年(明治36年)7月に卒業。
吉田 秀弥(よしだ しゅうや、吉田秀彌、1881年(明治14… 吉田 秀弥(よしだ しゅうや、吉田秀彌、1881年(明治14年)11月15日 - 1955年(昭和30年)11月19日)は、日本の実業家。京成電鉄第3代取締役社長。 福島県西白河郡滑津村(現中島村)の吉田精一郎の長男として生まれる。 1907年、早稲田大学政治学科を卒業し、二六新報に入社。もっぱら政治畑を歩く。 1916年5月、当時の京成電気軌道に庶務課長兼電燈課長として入社し、1931年取締役総務部長、1937年常務取締役。 1946年1月、今日の京成の基礎を築いた後藤圀彦が前年死去したため、第3代社長に就任。戦後混乱期の会社を牽引した。また、同年に鉄道連隊演習線の払い下げを受け、新京成電鉄を発足させる。
正宗 敦夫(まさむね あつお、明治14年(1881年)11月… 正宗 敦夫(まさむね あつお、明治14年(1881年)11月15日(戸籍上は11月30日) - 昭和33年(1958年)11月12日)は、日本の国文学者、歌人。 岡山県和気郡穂浪村(現・備前市穂浪)生まれ。兄に小説家で文学評論家の正宗白鳥がいる。東京を活動の拠点とした兄とは違い郷里で家業を営み、その傍ら作歌をし、国文学の研究を行った。1897年(明治30年)から井上通泰に師事し、島木赤彦、斎藤茂吉などとも親交を持った。1909年(明治42年)、歌文珍書保存会を主宰し、古書・稀少本を収集・刊行を行った。1925年(大正14年)与謝野寛・与謝野晶子夫妻と「日本古典全集」シリーズを刊行する。1927年(昭和2年)、株式会社日本古典全集刊行会を設立するが倒産する。
田子 一民(たご いちみん、1881年〈明治14年〉11月1… 田子 一民(たご いちみん、1881年〈明治14年〉11月14日 - 1963年〈昭和38年〉8月15日)は、日本の官僚、政治家。位階は正三位。 衆議院議長(第34代)、衆議院副議長(第27代)、官選三重県知事、農林大臣(第4次吉田内閣)、衆議院議員(通算9期)などを務めた。岩手県盛岡市出身。東京帝国大学法科大学卒業。 岩手県士族の田子勘治の次男として生まれる。現在の盛岡市立城南小学校、盛岡中学、旧制二高を経て、1908年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し、内務省に入省。山口県警部、山口県都濃郡長、山口県警察部長、内務省社会局第一課長兼第二課長、社会局長、官選三重県知事などを歴任し、その後政界に転じる。
渋谷 伊之彦(しぶや いのひこ、1881年11月14日 - … 渋谷 伊之彦(しぶや いのひこ、1881年11月14日 - 1935年12月14日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
小沢 碧童(おざわ へきどう、1881年(明治14年)11月… 小沢 碧童(おざわ へきどう、1881年(明治14年)11月14日 - 1941年(昭和16年)11月17日)は、日本の俳人。本名は清太郎、のちに西徳。忠兵衛とも。東京都出身。 1881年(明治14年)に日本橋区(現在の中央区)本船町で生まれる。生家は魚問屋を営んでいたが、8歳で祖父の元に養子に出された。祖父は「西徳めぐすり」という目薬を作って生計を立てていた。当初は正岡子規門下の松下紫人から定形俳句を学んでいたが、やがて河東碧梧桐の新傾向俳句に傾倒し、前述の目薬を碧梧桐が買いに来た縁で、碧梧桐の主宰する『海紅』に参加、自由律俳句を詠むようになる。明治37年、上根岸町(現在の台東区根岸)の自宅を骨立舎と命名して俳道場も開いた。
松平 濱子(まつだいら はまこ、1881年11月13日 - … 松平 濱子(まつだいら はまこ、1881年11月13日 - 1967年3月16日)は、日本の教育者、歌人。学校法人関東学園の創設者である。旧姓は細谷。 群馬県佐波郡伊与久村(佐波郡境町を経て現伊勢崎市)に生まれる。日本女子大学校(当時は専門学校)に進学し、その最初の卒業生となった。東京帝国大学が聴講生として女性の受講者を認めた際に、その最初のひとり(国文学専攻)ともなっている。 1924年、現在の東京都新宿区西新宿(当時は淀橋町)に「関東高等女学校」(のちの関東国際高等学校)を開設し、これが関東学園の始まりとなる。太平洋戦争の空襲で校舎を失ったため、1946年に館林市で「関東女子専門学校」(関東短期大学の前身)を開校した。
磯部 愉一郎(いそべ ゆいちろう、1881年11月11日 -… 磯部 愉一郎(いそべ ゆいちろう、1881年11月11日 - 1970年5月20日)は、日本の経営者。関東電化工業株式会社の創業発起人及び代表取締役専務、旭電化工業株式会社の専務取締役及び代表取締役、花王油脂株式会社の取締役社長及び会長を務めた人物。 また、早稲田大学の「早稲田大学百年史」の歴代箇所長一覧に代表取締役と早稲田大学の「早稲田二十日会」の副会長を務めていた。「早稲田二十日会」は、二十日会の第3代会長の佐々木省三によると、実業界で活躍していた日本化薬の原安三郎と日本工業倶楽部常任理事の中村元督らが話し合った結果、早稲田の卒業生で実業界に籍をおく者たちに呼びかけ「二十日会」をつくり、毎月二十日に日本工業倶楽部で会合を開き、勉強会を開くとともに大いに親睦を旨とすることにしたとの記述がある。
安国 幸左衛門(安國 幸左衛門、やすくに こうざえもん、18… 安国 幸左衛門(安國 幸左衛門、やすくに こうざえもん、1881年〈明治14年〉11月8日 - 1949年〈昭和24年〉5月12日)は、日本の政治家、地主・家主。神戸市会議員。 兵庫県武庫郡西灘村(現・神戸市)出身。安国幸右衛門の長男。早稲田大学政治経済科卒業。一年志願兵として軍務に服し、三等主計に進む。除隊後父業に従事する。在郷軍人分会長に推される。 1929年、西灘村が神戸市に編入されるにあたって推されて市会議員に当選する。岩屋青年会会長、灘信用組合理事、神戸商業大学柔道師範、兵庫県柔道有段者会会長等の名誉職を兼ねる。1948年、公安委員に任命される。 趣味は柔道、銃猟、釣魚、乗馬。住所は兵庫県神戸市灘区岩屋町。
山田 乙三(やまだ おとぞう、1881年(明治14年)11月… 山田 乙三(やまだ おとぞう、1881年(明治14年)11月6日 - 1965年(昭和40年)7月18日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。
吉原 正隆(よしはら まさたか、1881年(明治14年)11… 吉原 正隆(よしはら まさたか、1881年(明治14年)11月5日 - 1926年(大正15年)6月24日)は、明治末から大正期の政治家。衆議院議員(立憲政友会)、貴族院多額納税者議員。位階は正五位。勲等は勲三等。 福岡県三潴郡大川町(現在の大川市)出身。1906年(明治39年)京都帝国大学法科大学経済科を卒業し、さらに大学院で植民政策学を専攻した。 1912年(明治45年)第11回衆議院議員総選挙に出馬し当選。第14回総選挙に至るまで4回連続当選を果たした。その間、野田卯太郎逓信大臣の秘書官を務めた。 1925年(大正14年)福岡県多額納税者として貴族院多額納税者議員に互選され、同年9月29日に就任し、研究会に所属し死去するまで在任した。
貝島 太市(かいじま たいち、1881年11月3日 - 19… 貝島 太市(かいじま たいち、1881年11月3日 - 1966年8月28日)は、日本の実業家。貝島炭礦社長。 貝島炭礦の創始者である貝島太助の四男として、福岡県遠賀郡に生まれる。1895年、福岡県立尋常中学修猷館に入学、在学中の1898年、貝島鉱業合名会社を、社長・貝島太助、社員・貝島六太郎(太助の次弟)、貝島嘉蔵(太助の三弟)、貝島太市の4名で設立する。1901年、東京高等商業学校(現・一橋大学)を目指すため、修猷館を退学して東京商工中学校へ入学し、1902年、東京高等商業学校に進学する。在学中の1904年、旧長州藩士鮎川弥八の三女で鮎川義介(日産コンツェルン創始者)の妹であるフジと結婚する。
桑山 鉄男(くわやま てつお、1881年(明治14年)11月… 桑山 鉄男(くわやま てつお、1881年(明治14年)11月1日 - 1936年(昭和11年)2月20日)は、日本の逓信官僚。貴族院勅選議員。従三位、勲二等。 愛媛県出身。桑山吉輝(大津事件の犯人津田三蔵巡査の上司(大津警察署長))の長男として生まれる。旧制第三高等学校を経て、1906年に東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業し、高等文官試験に合格。逓信省に入省し、通信事務官、京都郵便局管理課長、長野逓信管理局長、逓信省参事官、逓信官吏練習所教官、逓信監察官、逓信大臣秘書官などを歴任した。1920年、初代簡易保険局長に就任。1924年6月、逓信次官に就任し、1929年7月まで在任した。次官在任中、新設の逓信省航空局長を兼任し、大礼使参与官を務めた。
西尾 寿造(にしお としぞう、明治14年(1881年)10月… 西尾 寿造(にしお としぞう、明治14年(1881年)10月31日 − 昭和35年(1960年)10月26日)は、日本の陸軍軍人。陸軍大将正三位勲一等功一級。初代支那派遣軍総司令官。