亀岡 崇(かめおか たかし、1891年6月30日 - 195… 亀岡 崇(かめおか たかし、1891年6月30日 - 1954年12月26日)は、日本の洋画家。東京都出身。 1891年6月30日、東京府東京市赤坂区青山に生まれる。父は陸軍工兵中佐・従五位・勲四等の亀岡為定。陸地測量部課長等を歴任し、大正9年12月3日没。祖父は幕臣の亀岡平次で、曽祖父の樋田豊治も幕臣であった。母は旧幕臣・上田登代。父方の従兄に陸軍中将・杉原美代太郎、陸軍中将・黒澤準がいる。また母方の従兄に海軍中将・上田宗重がいる。 府立一中を経て東京美術学校卒業。岡田三郎助、黒田清輝の門下。在学中に中村彝と知り合い交遊を結ぶ。彝の名作「友の像」のモデルとなる。第1回より欠かさず二科展に出品。
岩崎 栄(いわさき さかえ、1891年6月29日 - 197… 岩崎 栄(いわさき さかえ、1891年6月29日 - 1973年3月5日)は、日本の作家。 岡山県児島郡琴浦町(現・倉敷市)に農家の次男として生まれる。岡山商業学校(現岡山県立岡山東商業高等学校)卒。 郷里の商工学校で教えたりしたが上京し、早稲田大学予科および明治大学中退。帰郷し、岡山新聞、大阪時事新報支局の記者をしたのち1920年大阪毎日新聞に入社、1928年東京日日新聞社会部に転じ、社会部副部長を務め1939年に退社。 1934年8月、佐山栄太郎の筆名で『改造』に発表した「天保忠臣蔵」が1935年片岡千恵蔵によって映画化された。 はじめ政治家伝などを書き、戦後はエロティック歴史小説を書いた。
千輪 浩(ちわ ひろし、1891年6月29日 - 1978年… 千輪 浩(ちわ ひろし、1891年6月29日 - 1978年8月13日)は、日本の心理学者、東京大学名誉教授。 旧制第六高等学校、東京帝国大学文学部哲学科心理学専攻卒業。1926年東京帝大助教授、のち教授、1952年定年退官。1965年 日本心理学会名誉会員。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
平島 良一(ひらしま りょういち、1891年(明治24年)6… 平島 良一(ひらしま りょういち、1891年(明治24年)6月29日 - 1956年(昭和31年)11月17日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 大阪府日根郡北信達村、のち泉南郡信達村→信達町、現在の泉南市で平島幸吉の息子として生まれる。1915年(大正4年)明治大学法律科を卒業した。 大阪木津川セメント (株) に入社し用度課長を務めた。在勤中、雨の日には出勤せず、会社もしかたなく公認した。その後、会計士の業務に従事。鉱業、農業に転業し、1943年(昭和18年)コバルト採掘鉱業に関係した。その他、合資会社信達織布工場理事、平島紡績取締役、同会長などを務めた。 1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙で大阪府第2区から立候補したが落選。
吉田 晴風(よしだ せいふう、1891年(明治24年)6月2… 吉田 晴風(よしだ せいふう、1891年(明治24年)6月24日 - 1950年(昭和25年)6月30日)は、日本の尺八奏者、邦楽作曲家。本名は吉田 康次(よしだ やすじ)。旧号は吉田 竹堂(よしだ ちくどう)。 1891年(明治24年)、熊本県玉名郡長洲町で酒造業を営む家に生まれる。父の死後、7歳で家業が途絶える。1898年(明治31年)、長洲町立長洲小学校在学中に近所の若者が吹く尺八の音色に魅了され、翌年には親戚から尺八を贈られ演奏を始めた。1908年(明治41年)、熊本商業学校(現・熊本県立熊本商業高等学校)に入学後、姉の援助で本格的な尺八を購入し、琴古流の鳥井虚霧洞に師事した。 1911年(明治44年)、熊本商業学校を首席で卒業後、日本統治時代の朝鮮に渡り大豆貿易商として修業したのち、穀物商として独立。
長谷川四郎(はせがわ しろう、1891年6月24日 - 19… 長谷川四郎(はせがわ しろう、1891年6月24日 - 1982年3月19日)は、英文学者、教育者。長谷川五郎の父。オセロ (ボードゲーム)の名付け親。別名・長谷川朝暮。 東京本郷生まれ。1914年旧制一高英語文科卒、1917年東京帝国大学文科大学英文科卒。 現在は廃校となった旧制水戸高等学校の元教授。1921年4月、水高の最年少教授となり、以降水高廃校まで29年教壇に立った水高を代表する名物教授であった。教え子に後藤田正晴などがいる。この時代に四郎宅での句会に出席していた金子兜太によると、四郎は変わった髪型(前頭部に後ろの髪をかき集めてきて束ね、とぐろに巻いて油で固定している)にピーマン形の鼻、大きな目にしゃれた小さな縁なし眼鏡をかけ、エドガー・アラン・ポーの心酔者だったという。
山下 知彦(やました ともひこ、1891年(明治24年)6月… 山下 知彦(やました ともひこ、1891年(明治24年)6月23日 - 1959年(昭和34年)5月2日)は、日本の海軍軍人、華族。山下源太郎の養嗣子で艦隊派の一員である海軍大佐、男爵である。 高知市に生まれる。米沢の医師、水野廉平の次男。山本五十六夫人の礼子は従妹。山下源太郎の長女、千鶴子と結婚し山下家の養嗣子となる。米沢中学を経て海軍兵学校40期を卒業。席次は144名中30番。山口多聞、大西滝治郎、宇垣纏らが同期生である。1913年(大正2年)12月に少尉任官。 第一次世界大戦では「周防」乗組みとして出征し、青島攻略戦で陸戦隊を指揮して功五級に叙せられた。山下は砲術学校高等科、および同校の教官養成課程である専攻科を修了した砲術専攻の士官で、同校教官や軽巡洋艦「球磨」砲術長などを務めた。
岸田 劉生(きしだ りゅうせい、男性、1891年6月23日 … 岸田 劉生(きしだ りゅうせい、男性、1891年6月23日 - 1929年12月20日)は、大正~昭和初期の洋画家。父親はジャーナリストの岸田吟香。
柳沢 光治(柳澤、やなぎさわ みつはる、1891年(明治24… 柳沢 光治(柳澤、やなぎさわ みつはる、1891年(明治24年)6月22日 - 1957年(昭和32年)11月7日)は、大正から昭和期の技術者、政治家、華族。貴族院子爵議員。 旧黒川藩主、子爵・柳沢光邦の三男として生まれる。父の死去に伴い、1923年(大正12年)12月20日、子爵を襲爵した。 1915年(大正4年)7月、東京帝国大学工科大学応用化学科を卒業。同年、日本醋酸製造技手となる。以後、同技術部主任、東京府工業技師、同産業技師、同商工技師、府立東京商工奨励館委員、同化学部主任などを務めた。 1939年(昭和14年)11月4日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
千田 貞敏(せんだ さだとし、1890年7月22日 - 19… 千田 貞敏(せんだ さだとし、1890年7月22日 - 1944年12月25日戦死認定)は、日本海軍の軍人。ビアク島の戦いにて戦死。戦死後、一階級進級し海軍中将。正四位勲二等旭日重光章。
佐竹 義春(さたけ よしはる、1890年〈明治23年〉7月1… 佐竹 義春(さたけ よしはる、1890年〈明治23年〉7月17日 - 1944年〈昭和19年〉4月13日)は、大正から昭和期の華族。佐竹宗家34代当主。貴族院侯爵議員。位階は従二位。勲等は勲二等。 侯爵・佐竹義生、祚子夫妻の長男として生まれる。父の死去に伴い1915年(大正4年)3月30日、侯爵を襲爵。同年、東京帝国大学文科大学国史科を卒業。同年7月16日、満25歳に達し貴族院侯爵議員に就任した。1928年(昭和3年)火曜会に入会して死去するまで在任した。 明治以来、佐竹侯爵家の財政は逼迫しており、1917年(大正6年)11月、家令の大縄久雄が義春同意のもと、益田鈍翁、高橋箒庵を世話人とした美術品の売立て「佐竹侯爵家御蔵器入札」を東京美術倶楽部で行った。
楠本 実隆(實隆、くすもと さねたか、1890年(明治23年… 楠本 実隆(實隆、くすもと さねたか、1890年(明治23年)7月17日 - 1979年(昭和54年)10月11日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 鹿児島県、のちの川内市(現薩摩川内市)で、楠本右之助の長男として生まれる。1912年(明治45年)5月、陸軍士官学校(24期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第33連隊付となる。1921年(大正10年)11月、陸軍大学校(33期)を卒業。 1922年(大正11年)12月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員、参謀本部付(支那研究員)、参謀本部員を務め、1928年(昭和3年)3月、歩兵少佐に昇進し近衛歩兵第3連隊付となる。1929年(昭和4年)3月、近衛歩兵第3連隊大隊長に就任し、中国出張(支那政府応聘、北京陸軍大学教官)、歩兵第42連隊付、参謀本部付を務め、1932年(昭和7年)8月、歩兵中佐に進み参謀本部付(上海駐在)となる。
岡 新(おか あらた、1890年〈明治23年〉7月16日 -… 岡 新(おか あらた、1890年〈明治23年〉7月16日 - 1958年〈昭和33年〉3月23日)は、日本の海軍軍人。第3代総力戦研究所所長。海兵40期首席、海大甲種22期首席、砲術校高等科18期首席。最終階級は海軍中将。 東京府麻布区、現在の東京都港区出身。旧制東京府立第一中学校より海軍兵学校第40期入校。入校時成績順位は150名中第38位、卒業時成績順位は144名中首席。海軍大学校も首席卒業。 太平洋戦争勃発直前に於ける総力戦研究所での活躍が知られている。 「スピード、スピード、これからの歴史は、今までの何倍、何十倍のスピードで進む。起ち上がるのも、亡び去るのも。」「若いときのひらめきには概して間違いがない。
上野 正雄(うえの まさお、1890年〈明治23年〉7月16… 上野 正雄(うえの まさお、1890年〈明治23年〉7月16日 - 1965年〈昭和40年〉2月16日)は、日本の華族、海軍軍人。北白川宮能久親王の六男。爵位は伯爵、最終階級は海軍少将。旧姓は永田。 → 詳細は「北白川宮能久親王」項の「落胤」節を参照 東京府出身。母は福井県士族前波某の娘の栄。北白川宮能久親王の第六男であると判明したため、1897年(明治30年)7月1日、伯爵を授けられ華族に列した。 1912年(明治45年)7月17日、海軍兵学校を卒業(40期)。翌年12月、海軍少尉任官し「金剛」乗組となる。1918年(大正7年)12月から1年間、海軍水雷学校高等科で学んだ。 1919年(大正8年)12月、「扶桑」分隊長となり、「龍田」分隊長、「浦風」水雷長兼水雷学校教官、「汐風」水雷長などを経て、1923年(大正12年)3月、海軍大学校選科学生となった。
川村 音次郎(かわむら おとじろう、1890年7月15日 -… 川村 音次郎(かわむら おとじろう、1890年7月15日 - 1973年2月12日)は、日本の実業家。キリンビール代表取締役社長や、同社代表取締役会長を務め、在任中ビール業界トップシェアを実現した。 東京・深川(現在の東京都江東区深川)生まれ。東京府第三中学校(現東京都立両国高等学校)を経て、1915年東京高等商業学校(現一橋大学)専攻部卒業。剣道部出身。 卒業後三菱合資会社入社。1935年三菱商事ロンドン支店長。1942年三菱商事産業部長。 1943年岩崎小弥太の意向による人事で、キリンビール専務取締役に転じる。1951年からはキリンビールで取締役社長を務め、1954年には朝日麦酒、日本麦酒を抜きビール業界トップシェアを実現。
神林 浩(かんばやし ひろし、1890年(明治23年)7月1… 神林 浩(かんばやし ひろし、1890年(明治23年)7月14日 - 1966年(昭和41年)4月12日)は、日本の陸軍軍人、医師。最終階級は陸軍軍医中将。旧姓・小岩井。 長野県出身。小岩井永次郎の二男として生まれ、神林玄進の養子となる。松本中学校(現長野県松本深志高等学校)、第二高等学校を経て、1917年(大正6年)6月に東京帝国大学医科大学を卒業し、二等軍医に任官し歩兵第56連隊付となる。1918年(大正7年)6月、久留米衛戍病院付となる。1920年(大正9年)8月、陸軍軍医学校に専攻学生として入学。1921年(大正10年)4月、一等軍医に昇進。その後、東京陸軍幼年学校付、陸軍省医務局課員を務め、1925年(大正14年)3月、医学博士の学位を受けた。
澤瀉 久孝(おもだか ひさたか、1890年〈明治23年〉7月… 澤瀉 久孝(おもだか ひさたか、1890年〈明治23年〉7月12日 - 1968年〈昭和43年〉10月14日)は、日本の国文学者、万葉学者。京都大学名誉教授。学位は、文学博士。 1890年(明治23年)、三重県度会郡宇治山田町(現:三重県伊勢市)で生まれた。三重県立第四中学校(現:三重県立宇治山田高等学校)・第三高等学校を経て、京都帝国大学文科大学に進学。文学科国文学専攻で学び、1915年に卒業。 第五高等学校教授を経て、1922年に京都帝国大学文学部助教授に就いた。1935年、学位論文『上代歌謡ノ作者及ビ時代考』を京都帝国大学に提出して文学博士の学位を取得。翌1936年に教授昇格。1951年、京都大学教授を辞職し、京都大学名誉教授となった。
犬塚 惟重(いぬづか これしげ、1890年7月11日 - 1… 犬塚 惟重(いぬづか これしげ、1890年7月11日 - 1965年2月19日)は、日本の海軍軍人、ユダヤ研究家。最終階級は海軍大佐。筆名は宇都宮 希洋(うつのみや きよう)。 陸軍の安江仙弘と共に日本軍のユダヤ人問題専門家であった。 蒲池氏庶流犬塚氏出身。本籍佐賀県。佐賀藩士、翻訳家・犬塚浩道の長男として東京で生まれる。 新明きよ子(1910年(明治43年)生まれ)は、毎日新聞婦人記者、帝都日日新聞記者を経て、1939年(昭和14年)春、政府が正式に河豚計画を承認すると同時に、讀賣新聞上海特派員となり、上海で犬塚と初対面し、間もなく、犬塚の妻となった。 早稲田中学校を経て、1911年7月、海軍兵学校(39期)を卒業し、1912年12月、海軍少尉に任官。
川島 正次郎(かわしま しょうじろう、1890年〈明治23年… 川島 正次郎(かわしま しょうじろう、1890年〈明治23年〉7月10日 - 1970年〈昭和45年〉11月9日)は日本の政治家。旧姓柳原。栄典は従二位勲一等旭日桐花大綬章。衆議院議員当選14回、自治庁長官、行政管理庁長官等を歴任した。 自治庁長官、行政管理庁長官、北海道開発庁長官、第18回オリンピック東京大会担当国務大臣、自民党幹事長、自民党副総裁を歴任。 閣僚としては軽量級ポストしか経験しなかったが、党の幹部としては重職を得た。川島派(交友クラブ)領袖であり、長く自由民主党副総裁として、自民党のナンバー2に君臨した。当選14回。 専修大学総長、千葉工業大学理事長・会長、成田山奉賛会初代会長を歴任。
土方 成美(ひじかた せいび、明治23年(1890年)7月1… 土方 成美(ひじかた せいび、明治23年(1890年)7月10日 - 昭和50年(1975年)2月15日)は、日本の経済学者。東京帝国大学教授、経済学部長。統制経済の第一人者。専攻は理論経済学、財政学。結婚前の旧姓は、「町田 成美」(まちだ せいび)。 1890年、兵庫県姫路市に生まれる。父は姫路市会議長を経て1903年に衆議院議員となった町田猛郎(たけし)。祖先は代々酒井家に仕える武士であったという。兵庫県立姫路中学校を卒業後、父の意向で旧制高等学校の中では姫路に一番近い岡山の第六高等学校に進学する。東京帝国大学法科大学経済学科を首席で卒業。 在学中に高等文官試験に合格していたが、大学に残る。
霜田 静志(しもだ せいし、1890年7月9日 - 1973… 霜田 静志(しもだ せいし、1890年7月9日 - 1973年1月28日)は、日本の物理学者・教育者・教育学者。東京大学名誉教授、日本学士院会員の霜田光一は息子。 埼玉県出身。本名・利平。1912年東京美術学校卒。小・中学校教師を経て、1920年東京帝国大学で美学・心理学の研究をする。1928年英国へ留学、教育家A・S・ニイルに師事。帰国後、主婦之友社で児童相談を担当。のち、井荻児童研究所を設立し所長となる。多摩美術大学教授、長野女子短期大学教授も務めた。1968年『ニイル著作集』で第5回日本翻訳文化賞受賞。堀真一郎、國分康孝が門下にいる。
鶴田 吾郎(つるた ごろう、1890年7月8日 - 1969… 鶴田 吾郎(つるた ごろう、1890年7月8日 - 1969年1月6日)は、日本の画家(洋画家)、版画家。日本美術展覧会会員。 東京に生まれる。早稲田中学を中退したのち、まず倉田白羊の白羊洋画研究所に入り、洋画を学んでいる。その後、白馬会洋画研究所に入門し、さらに太平洋画会研究所に移って中村不折に師事して油絵を学んでいる。示現会に所属。 1910年(明治43年)、味の素株式会社広告部に勤務した後、1912年(大正元年)には京城日報社に入社し、翌1913年(大正2年)から1920年(大正9年)まで朝鮮、満洲大連、ハルピン及びシベリアに滞在していた。その間、1915年(大正4年)に川端龍子とともにスケッチ倶楽部を創設し、1917年に版画集『スケッチクラブ画集』(高坂栄之助摺)を出版、通信教育の講義録を担当している。
山田 忠次(やまだ ちゅうじ、1890年〈明治23年〉7月8… 山田 忠次(やまだ ちゅうじ、1890年〈明治23年〉7月8日 - 1986年〈昭和61年〉3月22日)は、日本の逓信官僚。朝鮮総督府官僚。 山形県出身。1917年(大正6年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、高等文官試験に合格。逓信局書記、同属、通信事務官補、秋田郵便局長、福島郵便局長、朝鮮総督府逓信事務官、京城貯金管理所長、通信事務官、京都郵便局長、逓信局事務官、広島逓信局規画課長、大阪逓信局規画課長、同用品課長、逓信書記官、郵務局規画課長、経理局需品課長、大臣官房保健課長、同秘書課長を経て、1936年(昭和11年)に仙台逓信局長に就任した。同年7月、朝鮮総督府逓信局長に移り、高等海員審判所長を兼ねた。
峰地 光重(みねじ みつしげ、1890年7月8日 - 196… 峰地 光重(みねじ みつしげ、1890年7月8日 - 1968年12月28日)は、日本の教育者、評論家。 鳥取県西伯郡大山町出身。鳥取師範学校卒。東京の私立池袋児童の村小学校などで小砂丘忠義、野村芳兵衛らとともに生活綴方教育を行う。1927年鳥取県上灘小学校校長。42年綴方運動弾圧により退職。戦後52年教職に復帰。57-61年岐阜県多治見市立池田小学校つづ原分校教諭。65年ペスタロッチ賞受賞。著作集18巻がある。
山中 辰四郎(やまなか たつしろう、1890年(明治23年)… 山中 辰四郎(やまなか たつしろう、1890年(明治23年)7月7日 - 1971年(昭和46年)12月11日)は、昭和期の日本の政治家で、公選2人目の佐世保市長である。 佐世保市出身。戦前に佐世保市議会議員を1期(1933年~1937年)務めた後、市役所職員となり、総務課長、助役を経て、1955年4月の市長選挙で現職の中田正輔を破って第15代佐世保市長に就任、2期8年間に及び市長を務めた。 在職中には佐世保工業高等専門学校、海上自衛隊教育隊の誘致を実現したほか、石岳動植物園の開園、鹿子前への観光道路整備など、観光都市としての基盤整備に努めた。 1963年4月の市長選に3選を目指し出馬したが、元市議会議長の辻一三に阻まれ落選、4年後の1967年4月の市長選にも再度挑戦したが再び辻に敗れた。
ダーン・ゴパル・ムカージー(Dhan Gopal Muker… ダーン・ゴパル・ムカージー(Dhan Gopal Mukerji, 1890年7月6日 - 1936年7月14日)は、インド出身の英語で書いた児童文学作家。 米国で初めて成功を収めたインド出身の作家。1928年にニューベリー賞を受賞している。カルカッタ大学、東京帝国大学、カリフォルニア大学バークレー校、スタンフォード大学で学んだ。 カルカッタ近郊の村に生まれた。父は弁護士だが音楽家を諦めていた。1910年にダーン・ゴパルは機械工学と織機を学ぶため東京へ留学に出されたが、東京で工場労働者の劣悪な環境にショックを受け、船でサンフランシスコへ渡った。アナキストとしての思想を持ち始めていたムカージーは1914年にスタンフォード大学で哲学の学士号をとる。
鮫島 実三郎(さめじま じつさぶろう、1890年(明治23年… 鮫島 実三郎(さめじま じつさぶろう、1890年(明治23年)7月3日 - 1973年(昭和48年)4月30日)は、日本の物理化学者である。 大阪市の生まれ。東京帝国大学理科大学(現在の東京大学大学院理学系研究科・理学部)に入学し、1914年(大正3年)に卒業後は後に義理の父となる池田菊苗に師事した。1918年(大正7年)離日し、アメリカ合衆国ではノーベル化学賞を受賞したセオドア・リチャーズに師事しイギリスではアイルランド出身のフレデリック・ドナン、フランスではジャン・ペランに師事する等欧米の津々浦々で学ぶ。その後帰国し1921年(大正11年)には東北帝国大学(現在の東北大学)の助教授となり、翌1922年(大正12年)には同大学の教授に昇格した。
多田 等観(ただ とうかん、1890年(明治23年)7月1日… 多田 等観(ただ とうかん、1890年(明治23年)7月1日 - 1967年(昭和42年)2月18日)は、日本の僧侶、仏教学者。明治末から大正にかけてチベットに入り、チベット仏教を修行。日本への帰国に際して多数の仏典、文献を持ち帰り、斯界の学識経験者として活躍した。 南秋田郡土崎港町旭町(現在の秋田市土崎港)の西船寺の住職の3男として生まれる。家庭が6男2女の子だくさんであまり豊かではなかったため、小学校卒業時から檀家回りをして家計を助ける。秋田県立秋田中学校(現在の秋田県立秋田高等学校)卒業後、勉学のため京都にのぼり西本願寺に入籍、法要を手伝うようになる。第二十二世法主の大谷光瑞にその才覚を認められ、ダライ・ラマ13世が派遣したチベットの高僧ら留学生3人の世話役と日本語教師を任される。
高村 豊周(たかむら とよちか、1890年〈明治23年〉7月… 高村 豊周(たかむら とよちか、1890年〈明治23年〉7月1日 - 1972年〈昭和47年〉6月2日)は、日本の鋳金家。金沢美術工芸大学名誉教授。日本芸術院会員。 高村光雲の三男、高村光太郎の弟として東京下谷区に生まれる。津田信夫に入門、1915年(大正4年)に東京美術学校鋳造科本科を卒業する。 1919年(大正8年)、岡田三郎助、長原孝太郎、藤井達吉らと装飾美術家協会を設立。1926年(大正15年)、東京美術学校助教授。同年、工芸団体・无型(むけい)を組織し、1935年(昭和10年)、実在工藝美術会結成に参加する。その間、1934年(昭和9年)には帝展審査員に就任。その後も新文展、日展審査員を務める。
鈴木 正吾(すずき しょうご、1890年(明治23年)6月3… 鈴木 正吾(すずき しょうご、1890年(明治23年)6月30日 – 1977年(昭和52年)6月1日)は、大正から昭和期の政治家・ジャーナリスト。衆議院議員、愛知県豊川市長。旧姓・渥美。 愛知県碧海郡志貴村(矢作町を経て現岡崎市)で渥美半五郎の三男として生まれた。1899年(明治32年)宝飯郡佐脇村下佐脇村(御津村、御津町を経て現豊川市)の鈴木金次郎家を相続。1907年(明治40年)学生団体・丁未倶楽部に加わり第一次護憲運動で反桂内閣として活動した。1914年(大正3年)明治大学政治科を卒業した。 卒業後は読売新聞記者を経て、雑誌『第三帝国』編集長、雑誌『大観』編集長などを務める。1915年(大正4年)2月から3月にかけて大隈伯後援会遊説部員として第12回衆議院議員総選挙で遊説を行った。
尾崎久彌(おざき きゅうや、1890年6月28日 - 197… 尾崎久彌(おざき きゅうや、1890年6月28日 - 1972年6月2日)は、国文学者。近世文学、浮世絵、書誌学が専門。死後、江戸文学関係書など、約一万点の蔵書が名古屋市の蓬左文庫に寄贈された。 1890(明治23)年6月28日に愛知県名古屋市に生まれる。愛知一中(現在の旭丘高校)に通ったのち、國學院大學へと進学する。このときから文章を書き始める。卒業後は愛知県へと戻り、愛知一中、豊橋中学(現在の時習館高校)などで教鞭をとる。のちに国学院大の講師、東邦高校の教師を勤め、1953年からは名古屋商科大学教授となるなど教育者としても幅広く活動した。晩年は名古屋市文化財調査委員会の委員長も務めている。 教育に尽力した傍ら、創作活動や浮世絵の収集、江戸軟派文学の研究を行っており、特に収集家としての評価は現在でも高い。
郡 虎彦(こおり とらひこ 1890年(明治23年)6月28… 郡 虎彦(こおり とらひこ 1890年(明治23年)6月28日 - 1924年(大正13年)10月6日)は、東京府出身の日本の劇作家。萱野二十一(かやの はたかず)の筆名でも知られる。虎彦はまた、ダンヌンツィオの『秋夕夢』を日本に翻訳紹介し、三島由紀夫に大きな影響を与えた。 東京府東京市京橋区南八丁堀(現在の東京都中央区湊)にて、鈴木耕水(私塾経営者)・錫(すず、旧姓石渡)夫妻の六男として誕生。生後まもなく母方の叔母夫婦の養嗣子となる(ただし入籍は5歳の時)。養父の郡寛四郎は幕末の会津藩家老・萱野長修の三男で日本郵船の最古参の船長。実母と養母が石渡家出身の姉妹で、石渡荘太郎は郡の従弟である。 3歳から養父の勤務地である神戸市に育ち、神戸幼稚園から神戸尋常小学校に進む。
間宮 不二雄(まみや ふじお、1890年(明治23年)6月2… 間宮 不二雄(まみや ふじお、1890年(明治23年)6月26日 - 1970年(昭和45年)10月24日)は、日本の実業家。日本で最初の図書館用具商社を開く。図書館用品製造販売業者である間宮商店を創業した。 東京市本郷区(現在の東京都文京区)の旧旗本の家に生まれる。生母はいわゆる「未婚の母」であったために、戸籍上は実の祖父母の5男として記録されている。 東京高等師範学校付属小学校(現在の筑波大学附属小学校)高等科卒業後、家運が傾いたために書籍販売業の丸善に丁稚として入社する。24歳の時、担当していたタイプライターの構造を学ぶために東京府立工芸学校(現在の東京都立工芸高等学校)の夜学に通う。だが、会社側は丁稚上がりの間宮の能力を正当に評価しなかった。
高田 博愛(たかた ひろちか、1890年〈明治23年〉6月2… 高田 博愛(たかた ひろちか、1890年〈明治23年〉6月25日 - 没年不明)は、日本の実業家、鳥取県多額納税者、地主。族籍は鳥取県平民。 鳥取県西伯郡県村大字福万(のち伯仙町、現・米子市)出身。高田繁太郎の二男。1918年、家督を相続、12代の主となる。農業、金融業、不動産業を営む。マルタ商会代表取締役、雲陽実業銀行、山陰土地各取締役などをつとめる。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。高額所得者である。 村内に28町歩の土地を66人に小作させた。村外には約64町歩の土地があった。年の小作米も3000俵といわれ、広大な邸内に米蔵が棟を並べた。別に山林原野が村内に70町歩、村外にも同じ位あった。
三上 英夫(みかみ ひでお、1890年6月24日 - 198… 三上 英夫(みかみ ひでお、1890年6月24日 - 1982年11月6日)は、青森県出身の官僚、実業家。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
鈴木 三郎助(すずき さぶろうすけ、1890年6月23日 -… 鈴木 三郎助(すずき さぶろうすけ、1890年6月23日 - 1973年6月19日)は、日本の実業家。鈴木商店(現味の素)創業者二代目鈴木三郎助の長男で、同社代表取締役社長や、京浜急行電鉄代表取締役社長を務めた。 神奈川県三浦郡葉山町出身。1907年(明治40年)に京華商業学校(現京華商業高等学校)卒業後、東京高等商業学校(現一橋大学)に進学。第一ホテル創業者の土屋計左右は、同郷かつ東京高等商業学校の同窓で親しく、のちに鈴木家持株会社鈴木三栄の常務理事に就任した。 1908年(明治41年)、父親が池田菊苗が発明した化学調味料の製造権を取得。家族でネーミングを考えた結果、三郎(当時3代目襲名前)が提案した「味の元」が選ばれた。
青山 杉作(あおやま すぎさく、1889年7月22日 - 1… 青山 杉作(あおやま すぎさく、1889年7月22日 - 1956年12月26日)は、日本の俳優、演出家、映画監督である。本名は青山 達美(あおやま たつみ)。 新潟県北蒲原郡紫雲寺村(紫雲寺町を経て、現在の新発田市米子)にある浄土真宗大谷派紫雲寺に、父・宣と母・綱の長男として生まれる。12歳下の弟に青山敏美 がいる。旧制新発田中学校(現在の新潟県立新発田高等学校)を卒業した。 1909年(明治42年)、旧制早稲田大学哲学科に入学した。在学中から演劇活動に参加し、同大学創立記念祭の野外公演で、青山杉作を名乗り初舞台を踏む。しかし、僧籍を拒み演劇活動に熱中しすぎたため、実家から送金を絶たれてしまい、英文科に転じた後大学を中退する。
岡田 喜久治(おかだ きくじ、1889年〈明治22年〉7月2… 岡田 喜久治(おかだ きくじ、1889年〈明治22年〉7月21日 - 1959年〈昭和34年〉2月2日)は、日本の内務官僚、政治家。衆議院議員(3期、立憲民政党)、参議院議員(1期、民主党)。農林政務次官。 栃木県芳賀郡清原村(現在の宇都宮市)出身。1914年(大正3年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業。同年の高等文官試験に合格し、宮城県志田郡長、北海道庁理事官、石川県理事官を経て、警視庁理事官に任命され、工場課長、保安課長、外事課長、特別高等課長を歴任した。その後、宮崎県書記官・警察部長、三重県書記官・警察部長に就任。1927年(昭和2年)、京都市助役となった。1929年(昭和4年)、岐阜県書記官・警察部長となり、翌年には宮崎県書記官・内務部長となった。
森 幸太郎(もり こうたろう、1889年7月20日 - 19… 森 幸太郎(もり こうたろう、1889年7月20日 - 1964年2月4日)は、昭和期の日本の政治家。衆議院議員、農林大臣、滋賀県知事などを歴任。位階は正三位。勲一等瑞宝章。 滋賀県東浅井郡竹生村(現在の長浜市)出身。1905年に長浜農学校を卒業後、家業の農業・蚕種製造・水産業などを行っていたが、政治の世界を志して竹生村長となり、1917年には38歳で立憲政友会より滋賀県会議員となり2期務める。1936年の第19回衆議院議員総選挙で滋賀県選挙区から立憲政友会の公認で立候補して当選するが、3期目を目指した1942年の第21回衆議院議員総選挙では翼賛政治体制協議会の推薦を受けずに立候補して落選した。
生駒 高常(いこま たかつね、1889年(明治22年)7月1… 生駒 高常(いこま たかつね、1889年(明治22年)7月19日 - 1955年(昭和30年)10月16日)は、日本の内務・台湾総督府官僚。台中州知事、官選石川県知事。 兵庫県出身。生駒八十弥の長男として生まれる。第一高等学校を卒業。1913年、東京帝国大学法科大学経済学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。大蔵省に入省し専売局書記兼大蔵属となる。その後、内務省に転じた。 以後、警視庁警視、岡山県理事官、台湾総督府事務官兼同参事官、同内務局学務課長、同府秘書官、同総督官房文書課長兼調査課長、台中州知事などを歴任。1929年7月、拓務省管理局長に就任した。 1935年1月、石川県知事(「石川県知事一覧」参照)に就任。
木村 蓬伍(きむら ほういつ、1889年7月19日 - 19… 木村 蓬伍(きむら ほういつ、1889年7月19日 - 1964年4月22日)は、日本の牧師。学校法人関西学院理事長を歴任した。 1889年、山口県宇部市に生まれる。1908年、日本メソヂスト下関教会で高橋泰平牧師より受洗。関西学院神学部を卒業後、エモリー大学神学部、同大学院を修了。1926年、受按。呉、京城、大阪東部(現:東梅田教会)各教会の伝道・牧会に従事した後、大阪東部伝道局巡回教師となる。西宮教会(現:西宮公同教会)の牧師在任中、ランバス女学院神学部、聖和女子学院神学部、関西学院神学部の講師を務めた。1960年6月から1964年4月まで、関西学院理事長を務めた。
木戸 幸一(きど こういち、1889年〈明治22年〉7月18… 木戸 幸一(きど こういち、1889年〈明治22年〉7月18日 - 1977年〈昭和52年〉4月6日)は、日本の華族・官僚・政治家。 昭和天皇の側近の一人として東條英機を内閣総理大臣に推薦するなど、太平洋戦争前後の政治に関与した。敗戦後にGHQによって戦争犯罪容疑で逮捕され、極東国際軍事裁判において終身刑のA級戦犯となったが後に仮釈放された。 1889年(明治22年)7月18日に東京府赤坂区新坂町六二において侯爵木戸孝正の長男として生まれた。父の木戸孝正は、明治の元勲である木戸孝允の妹治子と長州藩士来原良蔵の長男である。 学習院高等科では原田熊雄、織田信恒などと同級だった。近衛文麿は1学年下に当たる。
梅園 篤彦(うめぞの あつひこ、1889年〈明治22年〉7月… 梅園 篤彦(うめぞの あつひこ、1889年〈明治22年〉7月17日 - 1978年〈昭和53年〉8月4日)は、大正から昭和期の神職、政治家、実業家、華族。貴族院子爵議員。 男爵・梶野行篤の七男として生まれ、1913年(大正2年)6月、子爵・梅園実師の養子となる。養父の死去に伴い、1917年(大正6年)10月10日、子爵を襲爵した。 1909年(明治42年)京都府立第二中学校を卒業。1912年(明治45年)3月、大阪市立高等商業学校を卒業。その後、京都帝国大学法科大学を修了した。 1916年(大正5年)官幣中社白峯宮主典に就任。以後、府社男神社社司、京都市主事、京都市嘱託、滋賀県嘱託、京都薬学専門学校講師、京都計理士会会長、三島製紙常務取締役、精版印刷監査役などを務めた。
永井 要造(ながい ようぞう、1889年(明治22年)7月1… 永井 要造(ながい ようぞう、1889年(明治22年)7月16日 - 1962年(昭和37年)7月13日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 山梨県 甲府市下一条町(現城東)で、雑穀商・永井忠兵衛の長男として生まれる。市立甲府商業学校(現甲府市立甲府商業高等学校)を卒業後、満州、朝鮮に渡ったが帰国した。 1923年(大正12年)3月、横浜の日清製菓 (株) を買収し合資会社に改組して代表社員に就任。その他、日清煉乳取締役社長、ABC製菓取締役社長、日清化学食産社長、早川鉄工監査役、横浜商工会議所議員などを務めた。 1930年(昭和5年)横浜市会議員に選出され同参事会員も務め、1938年(昭和13年)まで2期在任した。
加野 宗三郎(かの そうざぶろう、1889年7月14日 - … 加野 宗三郎(かの そうざぶろう、1889年7月14日 - 1946年1月23日)は、日本のパトロン、美術品収集家。 「金盛」という酒を醸造販売する、造り酒屋「萬屋」を営む加野熊次郎の長男として、福岡市中奥堂町(現・博多区)に生まれる。1908年福岡県立中学修猷館を経て、1911年大阪高等工業学校(現・大阪大学工学部)醸造科を卒業。 家業の酒造業を営む傍ら、美術や文芸に関心を向け、多くの美術家や詩人・俳人らと交友を持つ。所有する別邸「柳北亭」や「環水荘」は、来福の文人墨客のたまり場となった。交友のあった美術家には、青木繁、青山熊治(ドイツ語版)、津田青楓、森田恒友、正宗得三郎、村上華岳、榊原紫峰、冨田溪仙、小野竹喬、山崎朝雲、冨永朝堂、恩地孝四郎などがあり、文筆家では与謝野鉄幹・晶子夫妻、北原白秋、吉井勇、高浜虚子といった人たちがいた。
高橋 百千(たかはし ももち、1889年7月14日 - 19… 高橋 百千(たかはし ももち、1889年7月14日 - 1973年8月8日)は船舶交通に関する人物。 台湾総督府交通局技師として現地の方を尊重し、台湾と日本の関係良好の礎を築いた。戦後は日本モーターボート選手会が今の競艇に発展するための法整備などに尽力。[要出典] 広島県広島市東白鳥町で生まれる。1916年(大正5年)、官立商船学校機関科(現・東京海洋大学海洋工学部)卒業。日本郵船機関士を務めた後、1917年(大正6年)逓信省管船局に入り、名古屋逓信局海事部長を経て、1940年(昭和15年)日本船用品統制副社長、1949年(昭和24年)日本船燈監査役となる。 1956年(昭和31年)日本船舶機関士協会会長、1957年(昭和32年)全国モーターボート競走施行者協議会事務局長を務める。
平澤 計七(ひらさわ けいしち、1889年7月14日 - 1… 平澤 計七(ひらさわ けいしち、1889年7月14日 - 1923年9月3日)は、近代日本の劇作家・労働運動家である。日本のプロレタリア演劇の祖にして、生活協同組合及び労働金庫の設立の提言者でもある。関東大震災直後に、亀戸警察署に検束され労働運動家であったために他の活動家とともに虐殺された。妻の松は森竹次郎(森泰吉郎の父である磯次郎の義父)の次女。実子は、平澤綾子がいた。 若い頃、「潮態」あるいは「紫魂」の筆名を用いた。新潟県小千谷町(現・小千谷市)の出身。小学校を卒業すると、日本鉄道株式会社(現・JR東日本)大宮工場に就職した父に連れられて故郷を後にし、同工場付属職工養成所に入った。そこで3年間、近代的鍛冶工としての技術を身につけた。
兪 万兼(ゆ まんけん、ユ・マンギョム、朝鮮語: 유만겸、1… 兪 万兼(ゆ まんけん、ユ・マンギョム、朝鮮語: 유만겸、1889年(高宗26年 / 明治22年)7月13日 - 1944年(昭和19年)12月13日)は、大正から昭和にかけての朝鮮総督府官僚。位階は正四位、勲位は勲三等。 1889年に兪吉濬の長男として漢城府で生まれた。培才学堂、興化学校を卒業し、日本に留学。1913年(大正2年)に岡山県の旧制第六高等学校を卒業し、東京帝国大学法学部経済科に入学。1917年(大正6年)に卒業。大学院に進んだが、1918年(大正7年)に朝鮮に帰り、朝鮮総督府に奉職する。1920年(大正9年)に聞慶郡守に昇進し、1921年(大正10年)に慶尚北道庶務課長、1922年(大正11年)に同道社会課長などを歴任した。
地主 悌助(じぬし ていすけ、1889年(明治22年)7月1… 地主 悌助(じぬし ていすけ、1889年(明治22年)7月12日 - 1975年(昭和50年)11月26日)は、日本の洋画家。 1889年、地主正次の次男として山形県鶴岡最上町(現:鶴岡市)に生まれる。 1905年に山形県立荘内中学校(現:山形県立鶴岡南高等学校)に進むも中退。検定試験に合格し小学校教諭となる。 1913年、画家坂本繁二郎の作品を見て、感銘を受け、弟子となる。 その後、図画教諭の検定試験に合格。秋田県師範学校、山口県女子師範学校、鶴岡中学校(現:鶴岡南高等学校)で教鞭を執った。また1950年には鶴岡の美術団体「白甕社」会長に就任。庄内の芸術文化の発展にも尽力した。 1954年に健康を害したことから、転地療養も兼ね、友人である真田祐太郎が居住する神奈川県中郡二宮町に移る。
菅野 廉(かんの れん、1889年(明治22年)7月12日 … 菅野 廉(かんの れん、1889年(明治22年)7月12日 - 1988年(昭和63年)7月8日)は、日本の洋画家。宮城県黒川郡大衡村生まれ。東京美術学校を卒業し、戦前は二科で、戦後は河北美術展などで活躍した。「蔵王の画家」と呼ばれる。 昭和万葉の森の敷地内にある「大衡村ふるさと美術館」は、作品の一部を常設展示している。 1889年(明治22年)7月12日、宮城県黒川郡大衡村に生まれる。1910年(明治43年) 宮城県師範学校卒業。1911年(明治44年) 東京美術学校に入学。1915年(大正4年) 東京美術学校卒業。 1925年(大正14年) 二科展に入選。1931年(昭和6年) パリに留学。