高田 賢治郎(たかだ けんじろう、1898年(明治31年)1… 高田 賢治郎(たかだ けんじろう、1898年(明治31年)1月12日 - 没年不詳)は、内務官僚。東京市・東京都区長。 京都府出身。1921年(大正10年)に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、翌年に高等試験行政科に合格した。大分県属、大阪府属、警視・群馬県警務課長、同保安課長、事務官・福岡県商工課長兼水産課長、熊本県学務部長を歴任し、1932年(昭和8年)に退官した。 1933年(昭和8年)に東京市主事となり、保健局庶務課監理係長、駒込病院事務長、監査局都市計画課長、世田谷区長、教育局防衛課長、城東区長、厚生局保護課長、神田区長、中央卸売市場長、芝区長を歴任した。
陸 直次郎(くが なおじろう、1898年1月12日 - 19… 陸 直次郎(くが なおじろう、1898年1月12日 - 1944年8月11日)は日本の作家。本名は野沢嘉哉(のざわ よしや)。東京府東京市本郷区(現・東京都文京区)本郷出身。 早稲田大学文科中退。中央新聞、時事新報、萬朝報、読売新聞に勤務。妻の清子は直次郎と死別した後、弁当屋の経営を経て小唄の師匠に転向、堀小代清の芸名で活動した。 息子は4人おり、三男はクラブ馬主「東京ホースレーシング」創業者の野沢直哉、四男は声優・俳優・演出家の野沢那智、孫にお笑いタレントの野沢直子(直哉の娘)、クリエイティブディレクターの野澤直龍(直哉の息子)、声優・俳優の野沢聡(那智の息子)、曾孫に格闘家の真珠・野沢オークレアー(直子の娘)。
福島 久作(ふくしま きゅうさく、1898年1月11日 - … 福島 久作(ふくしま きゅうさく、1898年1月11日 - 1990年11月13日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 1898年 1月11日 埼玉県深谷市血洗島 出生 1920年 5月26日 陸軍士官学校32期 卒業 1929年11月29日 陸軍大学校41期 卒業 1940年 3月 9日 第8師団参謀長 1941年 3月 1日 歩兵第4連隊長 陸軍大佐 1942年 4月 1日 西部軍高級参謀 1945年 1月29日 第16方面軍 兼 西部軍参謀副長 1945年 3月 1日 陸軍少将 大東亜戦争で西部軍高級参謀から第16方面軍兼西部軍参謀副長(第2総軍)に転じ、本土決戦に備えていた。
松沢 兼人(松澤、まつざわ けんじん / かねんど / かね… 松沢 兼人(松澤、まつざわ けんじん / かねんど / かねと、1898年(明治31年)1月10日 - 1984年(昭和59年)5月23日)は、日本の社会運動家、教育者、政治家。衆議院議員(3期)、参議院議員(3期)。 新潟県北蒲原郡水原町(現阿賀野市)で、裁判官の息子として生まれる。父の転勤に伴い各地の小学校へ転校した。1915年、長野県立上田中学校を卒業し、第七高等学校造士館に入学。同年12月、メソヂスト鹿児島教会(現:日本基督教団鹿児島加治屋町教会)で洗礼を受けた。1918年、東京帝国大学法科大学政治学科に入学し、新人会の結成に加わった。1921年、同大法学部を卒業した。 卒業後、大阪市社会部に勤務し、その後、大阪労働学校主事兼講師に就任。
鶴 友彦(つる ともひこ、1898年(明治31年)1月10日… 鶴 友彦(つる ともひこ、1898年(明治31年)1月10日 - 1960年(昭和35年)9月1日[要出典])は、大正から昭和時代前期の台湾総督府官僚、海軍司政長官。 鶴丈一郎の三男として大阪府大阪市に生まれる。第八高等学校を経て、東京帝国大学法学部政治学科に入学し、在学中の1922年(大正11年)11月に高等試験行政科に合格。1923年(大正12年)同大卒業と同時に台湾総督府殖産局農務課に奉職。 翌年12月、台南州警務局警務課長に転じ、1927年(昭和2年)台北州内務部勧業課長、1930年(昭和5年)同州地方課長、1931年(昭和6年)総督府交通局参事、逓信部庶務課長兼海事課長、1933年(昭和8年)総督府高等海員審判所審判官、1935年(昭和10年)台中州内務部長を経て、1936年(昭和11年)台南州内務部長に就任。
村松 恒一郎(むらまつ こういちろう、1898年1月10日 … 村松 恒一郎(むらまつ こういちろう、1898年1月10日 - 1984年5月11日)は、日本の西洋史学者。一橋大学名誉教授。南山大学名誉教授。 東京府八王子生まれ。1919年に東京高等商業学校を、1921年に同校専攻部経済科を卒業。三浦新七門下。同年4月東京商科大学助手。1925年に東京商科大学予科教授兼助教授。 1926年からオーストリアに留学し、アルフォンス・ドプシュ(英語版)や、ベルリンでフリードリヒ・マイネッケに師事した。また、留学中和辻哲郎や大西克礼と交友を持った。1928年からイタリア、アメリカ合衆国に留学。 1936年東京商科大学教授。1946年東京商科大学附属図書館長。1949年一橋大学教授兼東京商科大学教授。
安 駿相(アン・ジュンサン、朝鮮語: 안준상、1898年1月… 安 駿相(アン・ジュンサン、朝鮮語: 안준상、1898年1月9日 - 1994年12月27日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の教育者、実業家、政治家、独立運動家。制憲韓国国会議員。 初代文教部長官の安浩相は従弟。 慶尚南道宜寧郡富林面立山里の耽津安氏(朝鮮語版)の世居地である立山村出身。東萊高等普通学校、正則英語学校(現・正則学園高等学校)卒。早稲田大学政経科2年修了。三・一運動のときは宜寧郡内の万歳運動を主導し、その後も族叔の安熙済の独立闘争活動を手伝った。また、立山学院長、古今社経営者、宜寧協同組合創立・経営者、馬山ゴム工業社経営者、薬草栽培園経営者を歴任した。光復後は慶尚南道ハングル文化普及会長、釜山東亜大学(現・東亜大学校)理事、独立促成国民会釜山支部副会長、朝鮮民族青年団慶尚南道団部理事、釜山一五倶楽部幹事、宜寧郡選出の国会議員、制憲同志会会長などを務めた。
宇都宮 直賢(うつのみや なおかた、1898年(明治31年)… 宇都宮 直賢(うつのみや なおかた、1898年(明治31年)1月9日 - 1997年(平成9年)6月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 本籍鹿児島県。東京府で鉄道省技師・宇都宮新の二男として生まれる。加治木中学校(現鹿児島県立加治木高等学校)を経て、1920年(大正9年)5月、陸軍士官学校(32期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し近衛歩兵第4連隊付となる。1925年(大正14年)4月から1926年(大正15年)3月まで東京外国語学校英語科で委託学生として学んだ。 1930年(昭和5年)11月、陸軍大学校(42期)を卒業した。 1930年12月、近衛歩兵第4連隊中隊長に就任。1931年(昭和6年)9月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員(米班)、参謀本部付(支那研究員、上海・香港駐在)、参謀本部付(上海武官補佐官)、陸軍省兵務局付(防諜班長)を務め、1938年(昭和13年)3月、歩兵中佐に昇進。
内田 正練(うちだ まさよし、1898年1月7日 - 194… 内田 正練(うちだ まさよし、1898年1月7日 - 1945年2月14日)は、日本の水泳選手。オリンピックに出場した日本最初の水泳選手の一人であり、日本でのクロール泳法の普及に尽力した。 静岡県浜松市に生まれる。内田家は浜松有数の名家で、父が産業家、母が産婦人科開業医師で、5人兄弟の二男であった。兄の内田千尋(東京帝国大学卒)が水府流太田派古式泳法の師範という環境で、内田も幼少時より水練に親しみ、古式泳法を習得した。 旧制浜松中学校(現在の静岡県立浜松北高等学校)に入学すると、浜松中水泳部に属して水泳を研鑽した。内田は部員にとって憧れの存在であり、1学年後輩の田畑政治も内田に憧れた1人であった。
箕田 貫一(みのた かんいち、1898年 <明治31年> 1… 箕田 貫一(みのた かんいち、1898年 <明治31年> 1月6日 - 1983年 <昭和58年> 1月13日)は、日本の経営者。栗本鐵工所社長を務めた。位階は正五位。 和歌山県出身。1926年に神戸高等商業学校を卒業し、同年に日本綿花に入社した。1938年に栗本鐵工所に転じ、1944年に取締役に就任し、常務、専務を経て、1950年8月から1953年3月までと1953年9月から1961年5月までに社長を務めた。 1965年に藍綬褒章を受章し、1968年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1983年1月13日老衰のために死去。85歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
本多 静雄(ほんだ しずお、1898年(明治31年)1月5日… 本多 静雄(ほんだ しずお、1898年(明治31年)1月5日 - 1999年(平成11年)5月6日)は、愛知県西加茂郡上郷村(現・豊田市)出身の実業家、陶芸研究家。愛知工業大学教授。猿投古窯跡を発見した功績で知られる。 1898年(明治31年)1月5日、愛知県西加茂郡上郷村花本(現・豊田市花本町)に生まれた。父は本多松三郎、母はちかであり、静雄は次男だった。 11歳だった1909年(明治42年)、宇佐美一夫の娘である7歳の宇佐美美恵と見合いし、美恵は静雄の許嫁となった。1910年(明治43年)に西加茂郡猿投第二尋常高等小学校(現・豊田市立青木小学校)を卒業し、1915年(大正4年)3月に愛知県立工業学校(現・愛知県立愛知工業高校)を卒業すると、同年4月には東京・神田の私立東京中学校(現・東京高等学校)に編入した。
山縣 昌夫(やまがた まさお、1898年(明治35年)1月4… 山縣 昌夫(やまがた まさお、1898年(明治35年)1月4日 - 1981年(昭和56年)3月3日)は、日本の船舶工学者。東京大学名誉教授。
樋浦 誠(ひうら まこと、1898年〈明治31年〉1月4日 … 樋浦 誠(ひうら まこと、1898年〈明治31年〉1月4日 - 1991年〈平成3年〉1月14日)は、日本の農学者。専門は植物病理学。農学博士(北海道帝国大学)。酪農学園大学初代学長。酪農学園短期大学初代学長。聖隷学園浜松衛生短期大学初代学長。 新潟県西蒲原郡西川町(現新潟市西蒲区)出身。 1916年東北帝国大学農科大学予科入学。1919年北海道帝國大学農学部に進学。 1922年北海道帝國大学農学部農業生物学科卒業。同農学部助手。1924年岐阜高等農林学校教授。1929年アメリカ・ヨーロッパ留学。1949年各種学校として酪農学園大学部を設立し、学長に就任。1950年酪農学園短期大学を設立に参画し、初代学長に就任。
鈴木 信雄(すずき のぶお、1898年〈明治31年〉1月4日… 鈴木 信雄(すずき のぶお、1898年〈明治31年〉1月4日 - 1979年〈昭和54年〉6月15日)は、日本の弁護士、政治家、実業家。勲等は勲三等。位階は従四位。 弁護士としては1921年(大正10年)の登録から50年以上に渡って活動し、その間に生地静岡県における三百屋の規制や被疑者の人権擁護などに役割を果たした。政治家としては戦前に立憲政友会の所属で静岡市議、静岡県議を務め、戦後も県政において保守派の重鎮として影響力を保った。その他、1976年(昭和51年)に設立された静岡県民放送の初代社長を務めるなど、県の行政分野にも影響を残している。 1898年(明治31年)1月4日、静岡県小笠郡笠原村の裕福な農家に生まれる。
栗林 友二(くりばやし ともじ、1898年1月3日 - 19… 栗林 友二(くりばやし ともじ、1898年1月3日 - 1977年8月8日)は、日本の実業家・篤志家・馬主。 実業家・政治家の栗林五朔の息子として北海道に生まれる。札幌中学を経て東京帝国大学農学部獣医学科を卒業後、イギリス・ケンブリッジ大学に留学。帰国後は父が興した栗林商船に入社し、後に会長を務めた。本業の傍らで競走馬の馬主としても著名であり「ミスター・ケイバ」と呼ばれ、全日本馬主協会連合会(現・日本馬主協会連合会)会長などを歴任した(後述)。1977年8月8日、肺炎により79歳で死去。 兄は栗林商船や栗林商会社長、政治家などを務めた栗林徳一。弟には南方林業の社長を務めた栗林定四朗がいる。長男・定友は栗林商船、三男・英雄は栗林運輸の社長を務めた。
貝塚 武男(かいづか たけお、明治31年(1898年)1月3… 貝塚 武男(かいづか たけお、明治31年(1898年)1月3日 - 昭和19年(1944年)10月25日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。海軍兵学校46期生。
桜井 安右衛門(さくらい やすうえもん、1898年(明治31… 桜井 安右衛門(さくらい やすうえもん、1898年(明治31年)1月3日 - 1994年(平成6年)8月9日)は、日本の内務・厚生官僚。官選栃木県知事。 東京府出身。桜井常次郎の長男として生まれる。第一高等学校を卒業。1922年(大正11年)、東京帝国大学経済学部を卒業。同年11月、高等試験行政科試験に合格。農商務省を経て内務省に入省し社会局属となり労働行政畑を歴任。 1925年(大正14年)、第七回国際労働会議にジュネーブ帝国事務所書記兼社会局事務官の肩書で政府代表委員附として参加。 1938年(昭和13年)、厚生省大臣官房文書課長となる。1942年(昭和17年)1月、栃木県知事に就任。戦時下の対応に尽力。
熊澤 貞夫(くまざわ さだお、1898年1月3日 - 198… 熊澤 貞夫(くまざわ さだお、1898年1月3日 - 1986年1月8日)は、日本の経営者。神奈川県出身。 1920年に東京高等商業学校本科を卒業し、同年に王子製紙に入社。 1946年11月に取締役に就任し、1950年1月に常務、1952年11月に専務、1958年2月に副社長を経て、1967年4月に社長に就任した。1968年11月から相談役を務めた。 1986年1月8日心不全のために死去。88歳没。
五味 國男(ごみ くにお、1898年1月2日 - 没年不詳)… 五味 國男(ごみ くにお、1898年1月2日 - 没年不詳)は、日本の俳優、映画監督、元子役である。新漢字表記五味 国男。クレジットは五味 國雄(新漢字表記五味 国雄)と表記されることもあった。本名小崎 久雄(こさき ひさお)、父を初代とし、二代目 五味 國太郎(にだいめ ごみ くにたろう、新漢字表記五味 国太郎)を名乗ることもあった。 1898年(明治31年)1月2日、東京府東京市日本橋区(現在の東京都中央区日本橋)に生まれる。父は俳優の五味國太郎(1875年 - 1922年)、妹はのちに女優の五味國枝(1905年 - 没年不詳)になった。生年月日については、初期の文献である『日本映画年鑑 大正十三・四年』には「明治三十年一月二日」(1897年1月2日)、『日本映画俳優名鑑 昭和四年版』では「明治三十年一月元旦」(1897年1月1日)とされている。
江口 孝(えぐち たかし、1898年 <明治31年> 1月1… 江口 孝(えぐち たかし、1898年 <明治31年> 1月1日 - 1985年 <昭和60年> 3月14日)は、日本の経営者、理学博士。福岡県出身。位階は従四位。 1920年に大阪高等工業学校応用化学科を卒業。1929年に海軍技師を経て、1944年に人道石油取締役に就任し、1951年に日本瓦斯化学工業専務を経て、1959年5月に副社長に就任し、1966年11月には社長に昇格した。1968年11月から相談役を務めた。 1962年11月に紫綬褒章を受章し、1968年に勲三等瑞宝章を受章。 1985年3月14日腎不全のために死去。87歳没。死没日付をもって従五位から従四位に進階した。
加藤 瀧二(滝二、かとう たきじ、1898年〈明治31年〉1… 加藤 瀧二(滝二、かとう たきじ、1898年〈明治31年〉1月1日 - 1984年〈昭和59年〉3月22日)は、昭和時代の政治家。官吏。埼玉県川越市長。 加藤甚左エ門の長男として、福井県大野郡下庄村(下庄町を経て、現大野市)に生まれる。1926年(大正15年)日本大学法文学部政治学科を卒業し、同年高等試験(行政科)に合格する。1927年(昭和2年)官界に入り、資源局企画課、拓務省文書課勤務、資源局統計官、総務企画部、資源局企画院総務部属を経て、1940年(昭和15年)8月に和歌山県経済部長となり、群馬県経済部長、富山県内務部長を歴任した。1947年(昭和22年)富山県知事選挙に立候補するも落選し、官界を退き川越へ移住する。
岡戸 武平(おかど ぶへい、1897年12月31日 - 19… 岡戸 武平(おかど ぶへい、1897年12月31日 - 1986年8月31日)は、日本の小説家、ノンフィクション作家。 愛知県知多郡横須賀町(現・東海市)生まれ。小学校教員を経て、『名古屋新聞』『大阪時事新報』に勤務。小酒井不木の助手として『闘病術』の執筆を手助けする。 後に上京して博文館に入社。『文藝倶楽部』の最後の編集主任となる。1932年の同誌廃刊と同時に退社し、作家活動に入る。 1935年に第1回直木賞の候補となる。 太平洋戦争下の1944年に愛知県有松町(現・名古屋市)へ疎開し、そのまま名古屋に定住する。 戦後は東海地方の企業史執筆が多く、1960年に愛知県文化功労者。 『大阪時事新報』時代には江戸川乱歩と同僚であり、乱歩名義で発表された『蠢く触手』の代作を行ったことがある。
手塚 文蔵(文藏、てづか ぶんぞう、1897年 <明治30年… 手塚 文蔵(文藏、てづか ぶんぞう、1897年 <明治30年> 12月29日 - 1988年 <昭和63年> 11月16日)は、日本の経営者、銀行家。佐賀銀行頭取を務めた。位階は従五位。 佐賀県西松浦郡有田町出身。1920年に東京高等商業学校を卒業。1954年4月に佐賀興業銀行頭取に就任し、1955年7月から1960年5月までに佐賀銀行頭取を務めた。 1969年に勲四等瑞宝章を受章。 1988年11月16日急性心不全のために死去。90歳没。死没日付をもって従五位に叙された。
出口 日出麿(でぐち ひでまる、旧名:高見元男、1897年1… 出口 日出麿(でぐち ひでまる、旧名:高見元男、1897年12月28日 - 1991年12月25日)は、大本教の第三代教主補。岡山県倉敷市出身。第二次大本事件にて当時の政府管轄の元特高警察により不当逮捕後、投獄。獄中にて殴打、抜歯、焼鉄、抜爪、ほか、筆舌に尽くし難い凄惨な拷問を受けるが、奇跡的に一命を取り留める。 1897年(明治30年)岡山県倉敷市阿智町に高見元男として生まれる。旧制岡山中学、旧制六高を経て、1924年に京都帝国大学文学部を中退。 1928年、大本の第三代教主となる出口直日と結婚。大本総統補、昭和青年会総裁補、人類愛善新聞社社長など大本の要職につき出口王仁三郎の後継と目される。
山田 穣(やまだ みのる、1897年(明治30年)12月27… 山田 穣(やまだ みのる、1897年(明治30年)12月27日 - 1985年(昭和60年)12月4日)は、昭和時代の日本の鉱山学者。採鉱学の権威。主な研究分野は炭坑内のガス爆発や炭塵爆発。九州大学名誉教授。 現在の愛媛県伊予市にて生まれる。1922年(大正11年)九州帝国大学工学部採鉱学科を卒業。1939年(昭和14年)工学博士。同年、母校の九州帝国大学の教授となり、生産科学研究所長、工学部長を歴任。1953年(昭和28年)11月から1961年(昭和36年)11月まで同大学総長を、退官後の1967年(昭和42年)4月から1978年(昭和53年)3月まで九州共立大学の学長を務めた。ほか、1963年(昭和38年)11月に起きた三井三池三川炭鉱炭塵爆発の政府技術調査団団長を務めた。
上原 正吉(うえはら しょうきち、1897年(明治30年)1… 上原 正吉(うえはら しょうきち、1897年(明治30年)12月26日 - 1983年(昭和58年)3月12日)は、日本の実業家、政治家。位階は正三位、勲等は勲一等。参議院議員(5期、自由民主党)。科学技術庁長官(第16代)。 若き頃、大正製薬創業者の石井絹治郎に見出され、以後、懐刀として活動、後に第3代目社長に就任した。また高額納税者番付の常連としても知られ、1964年-1966年、1976年、1977年、1979年の計6回トップを占めた。甥は参議院議長、埼玉県知事を務めた土屋義彦。 埼玉県北葛飾郡田宮村(現在の杉戸町)に、中学校教師の六男として生まれる。幼くして両親と死別し、高等小学校卒業後兄を頼って上京。
海野 十三(うんの じゅうざ)、1897年(明治30年)12… 海野 十三(うんの じゅうざ)、1897年(明治30年)12月26日 - 1949年(昭和24年)5月17日)は、日本の小説家、SF作家、推理作家、漫画家、科学解説家。「日本SFの始祖の一人」と呼ばれる。本名は佐野 昌一(さの しょういち)。 徳島市徳島本町に生まれ、幼少期は安宅町の祖父の家で育つ。徳島市立福島小学校3年生の時、神戸に移住。神戸一中(現兵庫県立神戸高等学校)を卒業後、早稲田大学理工科で電気工学を専攻。逓信省電務局電気試験所に勤務しながら、機関紙などに短編探偵小説を発表。 1928年(昭和3年)、雑誌『新青年』から依頼を受け、探偵小説「電気風呂の怪死事件」を発表して本格的文壇デビュー。
岸田 正次郎(きしだ まさじろう、1897年〈明治30年〉1… 岸田 正次郎(きしだ まさじろう、1897年〈明治30年〉12月26日 – 1979年〈昭和54年〉3月29日)は、日本の実業家。 元衆議院議員岸田正記の弟。元衆議院議員岸田文武の叔父。衆議院議員・第100代内閣総理大臣岸田文雄の大叔父。 広島県出身。父は岸田幾太郎。大正10年(1921年)早稲田大学政経科、大正14年(1925年)ハーバード大学各卒業。英独に留学、昭和元年(1926年)帰朝、内務省嘱託、富士瓦斯紡績に勤務、昭和9年(1934年)幾久屋百貨店専務。 宗教は真宗。趣味は庭球、碁。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
大久保 琴(おおくぼ こと、1897年〈明治30年〉12月2… 大久保 琴(おおくぼ こと、1897年〈明治30年〉12月24日 - 2013年〈平成25年〉1月12日)は、日本のスーパーセンテナリアン。神奈川県川崎市在住していた長寿の女性。2012年(平成24年)12月17日から死去するまで存命中の女性長寿世界一となっていた。 2011年12月2日に佐賀県在住の長谷川チヨノが死去したことに伴い、女性長寿日本一となる。 2012年12月17日、ディーナ・マンフレディーニが死去したことに伴い、114歳359日で女性長寿世界一となる。 2013年1月12日午前12時過ぎ、肺炎のため川崎市高津区の有料老人ホームで死去。7002115000000000000♠115歳19日没。
金子 武麿(かねこ たけまろ、1897年〈明治30年〉12月… 金子 武麿(かねこ たけまろ、1897年〈明治30年〉12月22日 - 1959年〈昭和34年〉1月14日)は、日本の実業家、政治家、華族。貴族院伯爵議員。位階は従四位。勲等は勲六等。 官僚・政治家、金子堅太郎の二男として生まれる。父の死去に伴い1942年(昭和17年)6月1日、伯爵を襲爵した。 1922年(大正11年)、東京帝国大学文学部を卒業。1923年(大正12年)内閣属となる。以後、加藤友三郎内閣・第2次山本内閣・清浦内閣の内閣総理大臣秘書官、田中義一内閣内閣総理大臣秘書官兼外務大臣秘書官、齋藤内閣・中島久万吉商工大臣秘書官、大礼使事務官などを歴任。 実業界では、電気化学工業取締役、台湾電化取締役、日本塗紙工業取締役、東北振興化学監査役、カーバイト共販監査役、東京都商工経済会評議員、日本硫硝酸統制社長などを務めた。
青木 孝義(靑木孝義、あおき たかよし、1897年1月19日… 青木 孝義(靑木孝義、あおき たかよし、1897年1月19日 - 1962年1月14日)は、日本の経済学者、政治家。位階は正三位、勲等は勲二等。日本大学教授、衆議院議員(3期)、国務大臣、経済安定本部総務長官(第7代)。経済学博士。 愛知県南設楽郡平井村(現在の新城市)出身。1920年3月、日本大学専門部政治科を卒業。さらに1921年に同大高等専攻科を卒業。その後、日大から派遣されドイツに留学し、ベルリン大学、ハイデルベルク大学、ゲッティンゲン大学で、金融などを学び経済学博士の学位を取得。帰国後、日本大学の教授、経済学部長、理事を歴任。 戦後、1946年4月の第22回衆議院議員総選挙で愛知県第2区に日本自由党から立候補し初当選。
谷中 安規(たになか やすのり、1897年(明治30年)1月… 谷中 安規(たになか やすのり、1897年(明治30年)1月18日 - 1946年(昭和21年)9月9日)は、昭和時代前期の日本の版画家・挿絵画家。通称〈アンキ〉とも言われる。 奈良県桜井市初瀬の生まれ。6歳で母と死別、1904年(明治37年)父と朝鮮の京城に渡る。単身帰国し、東京の豊山中学に通うが学資が続かず中退、以後放浪生活を続ける。1922年(大正11年)日本美術学院出版の永瀬義郎著『版画を作る人へ 』から影響を受け、その書籍をもとに独学で木版画製作を始める。その後、1924年(大正13年)第一書房に勤め、社主の長谷川巳之吉に画才を認めらるその頃長谷川から日夏耿之介、堀口大學、佐藤春夫、与謝野晶子らを紹介される。
安藤 豊禄(あんどう とよろく、1897年1月18日 - 1… 安藤 豊禄(あんどう とよろく、1897年1月18日 - 1990年2月26日)は、日本の経営者。小野田セメント社長を務めた。大分県出身。 1921年に東京帝国大学工学部応用化学科を卒業し、同年に小野田セメントに入社した。1944年に取締役に就任し、1947年に専務を経て、1948年から社長に就任。1966年に取締役相談役を経て、1975年に相談役に就任した。 1990年2月26日心不全のために死去。93歳没。
米山 久(よねやま ひさ、1897年(明治30年)1月17日… 米山 久(よねやま ひさ、1897年(明治30年)1月17日 - 1981年(昭和56年)2月9日)は、日本の政治家、歌人。石川県出身の婦人運動家。衆議院議員(1期)。本名は米山 久子。 石川県金沢市で生まれる。1914年、石川県立第一高等女学校(現・石川県立金沢二水高等学校)卒。市川房枝の婦人参政権運動に参加。大日本国防婦人会金沢地方本部理事、大日本婦人会石川県支部副支部長を務めた。 1946年4月10日、第22回衆議院議員総選挙石川県全県区に日本社会党から出馬し初当選、石川県初の女性国会議員となる。1947年4月25日、第23回衆議院議員総選挙に出馬し落選した。 日本仏教婦人連盟顧問となり、仏教婦人運動にも尽くした。
薄田 美朝(すすきだ よしとも、1897年1月16日 - 1… 薄田 美朝(すすきだ よしとも、1897年1月16日 - 1963年4月16日)は、日本の内務官僚、政治家、弁護士。官選県知事、警視総監、衆議院議員。 秋田県出身。薄田正美の長男として生まれる。函館中学、旧制第二高等学校を経て、1920年7月、東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業。1919年10月、高等試験行政科試験に合格。1920年7月、内務省に入り大阪府属兼警部として警察部特別高等警察課に配属された。 1921年11月、香川県警視となり警察部に勤務。1923年2月、朝鮮総督府に転じ総督官房庶務部に勤務し、警務局に異動。 1926年12月、地方事務官として栃木県農商課長に就任。以後、内務事務官・警務官、岡山県書記官・警察部長、長崎県書記官・警察部長、広島県書記官・警察部長、京都府書記官・警察部長、警視庁警務部長などを歴任。
黒川 利雄(くろかわ としお、1897年〈明治30年〉1月1… 黒川 利雄(くろかわ としお、1897年〈明治30年〉1月15日 - 1988年〈昭和63年〉2月21日)は、日本の内科学者、医学博士。東北大学医学部教授・学部長、同大学第10代総長。専門は内科学、消化器病学、臨床放射線学、特に消化管のレントゲン診断学。財団法人宮城県対がん協会を設立、日本初のがん集団検診(胃がん)を行った。正三位。勲一等瑞宝章。勲一等旭日大綬章。文化勲章受賞、文化功労者。日本学士院長。仙台市名誉市民。東京都名誉都民。北海道三笠市出身。東京で死去、享年91。子息に黒川雄二。 1897年1月15日、北海道空知郡三笠山村大字幾春別(現:三笠市幾春別町2丁目)で、福井県人黒川利三吉と熊本県人母ツネの5男3女の長男として誕生。
藤原 繁太郎(ふじわら しげたろう、1897年(明治30年)… 藤原 繁太郎(ふじわら しげたろう、1897年(明治30年)1月15日 - 1981年(昭和56年)5月28日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 長崎県南松浦郡奈留島村(のち奈留町、現・五島市)出身。1923年(大正12年)早稲田大学商学部を卒業した。 日本電報通信社通信記者となる。興亜精機顧問、興亜産業顧問、興亜産業取締役社長を務めた。また、日本漁民組合組合長、日本社会党長崎県支部連合会副会長を務めた。1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙に長崎県第2区から日本社会党所属で出馬して当選し、衆議院議員を1期務めた。 その後、長崎新聞社常務、同東京支社代表取締役、同社長、民華企業取締役など務めた。
石川 金次郎(いしかわ きんじろう、1897年〈明治30年〉… 石川 金次郎(いしかわ きんじろう、1897年〈明治30年〉1月14日 - 1953年〈昭和28年〉3月24日)は、日本の政治家、社会運動家、弁護士。衆議院議員(4期、日本社会党)。 国家社会主義の活動家だった石川準十郎は実弟。子息の石川克次郎は、弁護士で民主社会党結成に参加した。 岩手県岩手郡玉山村大字日戸(現在の盛岡市近郊)に比較的裕福な家庭に生まれる。1907年(明治40年)日戸小学校を卒業(四年制)。後、義務教育年限延長により王仁小学校に通学。1909年(明治42年)王仁小学校尋常科を卒業、盛岡市立高等小学校に進学。1911年(明治44年)岩手県立工業学校(現・岩手県立盛岡工業高等学校)機械科に進学、1914年(大正3年)同校を卒業。
新田 純興(にった すみおき、1897年1月14日 - 19… 新田 純興(にった すみおき、1897年1月14日 - 1984年8月1日)は、北海道出身のサッカー選手、サッカー指導者。東京帝国大学工学部冶金学科卒業。
金井 寛人(かない ひろと、1897年(明治30年)1月14… 金井 寛人(かない ひろと、1897年(明治30年)1月14日 - 1977年(昭和52年)11月30日)は、日本の実業家。帝国ホテルの会長を務めた。 1897年(明治30年)1月14日、長野県諏訪市に生まれる。 上田蚕糸専門学校(現信州大学繊維学部)を卒業し片倉製糸に勤務した後、1931年(昭和6年)に国際商事を設立し、1937年(昭和12年)には山東塩業、1943年(昭和18年)には華北興業の社長に就任した。華北興業では主に中国産の塩や葉たばこを扱った。 戦後は公職追放となるも1950年(昭和25年)に解除された。 東京殖産の長田庄一から多額の資金援助を受け、大倉喜七郎の株を肩代わりする形で1953年(昭和28年)に帝国ホテルの会長に就任した。
木村 荘十(きむら そうじゅう、1897年〈明治30年〉1月… 木村 荘十(きむら そうじゅう、1897年〈明治30年〉1月12日 - 1967年〈昭和42年〉5月6日)は東京府出身の作家。 牛鍋チェーン店「いろは」経営者木村荘平の妾腹の十男として、東京市深川区(現在の東京都江東区)の「いろは」第7支店に生まれる。4歳のとき実母が愛人と失踪したため、東京市浅草区(東京都台東区)吉原日本堤の"いろは"第9支店に預けられ、そこが人手に渡ると、ただちに裏の家へと預けられて育った。 慶應義塾大学中退。第一次世界大戦中に渡英し、のち帰国。異母兄の第2代木村荘平と不和を生じて骨董店の店員となり、政治家の愛人と密通して共に渡満。南満州鉄道の事務員や新聞記者(満州商業新報主筆、満州日日新聞政治記者)などを経て、大連で「満蒙評論社」なる雑誌社を経営。
加藤 榮吉(かとう えいきち、1897年(明治30年)1月1… 加藤 榮吉(かとう えいきち、1897年(明治30年)1月10日- 1946年(昭和21年)8月1日)は、大日本帝国海軍の軍人。海軍兵学校46期で、最終階級は大佐。ブーゲンビル島の戦いで島の北部を固守した。住民殺害を命じた戦争犯罪の有罪判決を受け、死刑となった。 1897年(明治30年)に会津若松市に住む商人の家に5男として生まれる。尋常小学校3年生の時に、仙台市で私塾の育英塾を開いていた15歳年上の次兄の加藤利吉の下へ、母と三兄の利喜松とともに移り住む。その後、利吉の養子として育てられ、立町尋常高等小学校2年から東北学院普通科(後の東北学院中学部)3年に編入し、卒業。 1915年(大正6年)9月に海軍兵学校へ入り、46期で卒業。
西 文雄(にし ふみお、1897年1月10日 - 1990年… 西 文雄(にし ふみお、1897年1月10日 - 1990年9月3日)は、日本の柔道家(講道館8段、大日本武徳会範士)。 主に福岡県に拠点を置き、選手として熊本・福岡対県試合や全日本選士権大会で活躍する傍ら、福岡・満州対抗試合や全日本東西対抗大会の開催に尽力するなど柔道界の運営にも携わった。その技量は名人・達人の域に達していたと云われるが、晩年は故あって講道館と全日本柔道連盟に反目し、柔道界からは距離を置いて過ごした。 東京府青梅市の出身。中学生となって静岡県浜松市の旧制浜松中学校(現・県立浜松北高校)に在学中、他校の柔道教師であった戸田順吉に傾倒し、1915年に旧制浜松中学校を卒業するのと前後して戸田が指導する静岡市の講道館分道場義正館へ入門した。
高嶋 辰彦(たかしま たつひこ、1897年(明治30年)1月… 高嶋 辰彦(たかしま たつひこ、1897年(明治30年)1月10日 - 1978年(昭和53年)9月24日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。旧姓・多賀谷。高島と表記される場合がある。 福井県出身。港湾業・多賀谷儀三郎の四男として生まれ、陸軍中佐・高嶋嘉蔵の養子となる。四日市中学校(現三重県立四日市高等学校)、名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1918年(大正7年)5月、陸軍士官学校(30期)を首席で卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第38連隊付となる。1925年(大正14年)11月、陸軍大学校(37期)を首席で卒業した。 1926年(大正15年)12月、陸軍省軍務局付勤務となり、軍務局課員(軍事課)を経て、1929年(昭和4年)1月からドイツ駐在として、ベルリン大学、キール大学で学んだ。
岡村 徳長(おかむら とくなが、1897年1月10日 - 1… 岡村 徳長(おかむら とくなが、1897年1月10日 - 1972年7月19日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中佐。戦後は日本共産党員として活動した。弟は名戦闘機搭乗員で鹿屋基地司令・岡村基春大佐(海軍兵学校50期)。末妹の清子は艦爆の神様江草隆繁大佐の妻。 1897年(明治30年)に高知県安芸郡井ノ口村(現在の安芸市井ノ口)で生まれる。海軍兵学校45期。岡村は天衣無縫の好漢でその奇行で海軍内でも有名だった。航空機開発に情熱を燃やし大西瀧治郎中将に心酔していた。 横須賀航空隊教官時代、計器飛行の実験中に、主翼が海に接触し危うく一命を落としかけた。1928年(昭和3年)2月29日、悪天候の中、搭乗していた一三式艦上攻撃機が佐賀県鹿島付近に墜落・炎上し、岡村は顔に大火傷を負った。
若木 勝蔵(勝藏、わかき かつぞう、1897年〈明治30年〉… 若木 勝蔵(勝藏、わかき かつぞう、1897年〈明治30年〉1月10日 - 1969年〈昭和44年〉11月9日)は、大正・昭和期の教育者、労働運動家、政治家。参議院議員(2期)。 北海道岩内郡、のちの岩内町で生まれる。1916年(大正5年)札幌師範学校本科一部を卒業した。 虻田第一小学校、札幌北九条小学校、札幌師範学校訓導、小樽市潮見台小学校長、札幌市中央創成小学校長、同市西創成小学校長を歴任。この間、教材の改良などを行い、児童の自発的な活動を重視した教育を実践した。 1945年(昭和20年)12月、札幌市教職員組合委員長に就任。1946年(昭和21年)北海道教員組合(現北海道教職員組合)初代委員長となる。
市川 忍(いちかわ しのぶ、1897年1月9日 - 1973… 市川 忍(いちかわ しのぶ、1897年1月9日 - 1973年11月2日)は、日本の実業家。丸紅の初代社長。 1897年1月9日、茨城県北相馬郡布川町(現:利根町布川)に生まれる。 1919年に神戸高等商業学校(現:兵庫県立大学)を卒業し、伊藤忠商事に入社。同系列の大同貿易を経て、丸紅商店に移り、貿易部長、上海支店長を歴任。 1941年9月、丸紅と伊藤忠商事と岸本商店の合併によって設立された「三興」の専務となり、1944年9月に三興と呉羽紡績と伊藤忠商事の貿易部門として分離していた大同貿易が合併され、「大建産業」が設立された後も専務を担当した。 1949年、GHQによる過度経済力集中排除(財閥解体)の中で、丸紅初代社長に就任。
池内 調造(いけうち ちょうぞう、1897年1月9日-198… 池内 調造(いけうち ちょうぞう、1897年1月9日-1988年2月16日)は、日本の実業家。KBS京都代表取締役、京都新聞社取締役、日本民間放送連盟の営業・予算・財務・総務の各委員及び理事を20年近くにわたり担務し民放界の発展に大きく寄与。
山内 継喜(やまうち つぐよし、1897年(明治30年)1月… 山内 継喜(やまうち つぐよし、1897年(明治30年)1月8日 - 1973年(昭和48年)12月26日)は、日本の内務・警察官僚、政治家。官選山形県知事、陸軍司政長官、初代勝山市長。 福井県大野郡荒土村(現:勝山市荒土町境)で、山内喜一郎の長男として生まれる。第四高等学校を卒業。1920年10月、高等試験行政科試験に合格。1921年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省に入省し青森県属となる。 1923年、警視庁警視となる。以後、板橋警察署長、大塚警察署長、本富士警察署長、警視庁監察官、台湾総督府事務官、青森県書記官・警察部長、岐阜県書記官・警察部長、山口県書記官・警察部長、宮城県書記官・警察部長、京都府書記官・警察部長、愛知県書記官・総務部長などを歴任。
熊谷 友一郎(くまがい ともいちろう、1897年(明治30年… 熊谷 友一郎(くまがい ともいちろう、1897年(明治30年)1月7日 - 1966年(昭和41年))は、大正から昭和時代の政治家。長野県伊那市長。 長野県上伊那郡伊那町(現・伊那市)に生まれる。松本中学校(現長野県松本深志高等学校)を卒業後、西春近小学校教員を2年間務め、渡米し1916年(大正5年)コロンビア大学を卒業した。 帰国後は火災保険代理店を営み、荒井区長、伊那町消防組頭、同町農地委員、同町会議員を経て、1949年(昭和24年)伊那町長に就任。上伊那郡町村会長、長野県町村長会副会長を兼任した。1954年(昭和29年)の町村合併の折には、伊那市実現に向け尽力し、市制施行と共に同年4月30日に初代伊那市長に就任し、1958年(昭和33年)4月まで1期務めた。