市川 房枝(いちかわ ふさえ、1893年〈明治26年〉5月1… 市川 房枝(いちかわ ふさえ、1893年〈明治26年〉5月15日 - 1981年〈昭和56年〉2月11日)は、日本の婦人運動家、政治家。参議院議員(5期)。 1924年に「婦人参政権獲得期成同盟会」を結成。婦人参政権運動を主導した。終戦直後の1945年11月3日には「新日本婦人同盟」を結成。公職追放を受けるも、解除後の1950年に同団体を「日本婦人有権者同盟」に改称し、国会と女性を結び付ける運動を推し進めた。1953年に参議院議員に初当選。政界浄化、女性の地位や権利の向上に尽力した。 愛知県中島郡明地村字吉藤(現:一宮市明地)に生まれた。男2人、女4人の6人きょうだいで、市川は三女。誕生名は「ふさゑ」。
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中御門 経民(なかのみかど つねたみ、1893年(明治26年… 中御門 経民(なかのみかど つねたみ、1893年(明治26年)5月13日 - 1989年(平成元年)12月31日)は、大正から昭和期の官僚、政治家、華族。貴族院男爵議員。 海軍士官・男爵、中御門経隆の三男として生まれた。父の隠居に伴い、1915年(大正4年)10月30日、男爵を襲爵した。 1917年(大正6年)7月、京都帝国大学法科大学政治経済学科を卒業。同年、拓殖局嘱託となる。その後、衆議院書記官兼拓務書記官、衆議院秘書課長、同調査部二課長、衆議院事務局議事課長、海軍省事務官、議院制度調査会幹事、議会制度審議会幹事などを務めた。 1939年(昭和14年)6月21日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属して1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで2期在任した。
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元泉 馨(もといずみ かおる、1893年〈明治26年〉5月1… 元泉 馨(もといずみ かおる、1893年〈明治26年〉5月11日 - 1948年〈昭和23年〉7月15日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。変名・元金福。 愛媛県出身。小学校・元泉久吉の三男として生まれる。横浜第一中学校(現神奈川県立希望ヶ丘高等学校)卒業を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業し、同年12月、陸軍騎兵少尉に任官し騎兵第11連隊付となる。1926年(大正15年)12月、陸軍大学校(38期)を卒業した。 1927年(昭和2年)3月、騎兵第11連隊中隊長に就任し、陸士教官を経て、1931年(昭和6年)8月、騎兵少佐に昇進し近衛師団参謀となる。1932年(昭和7年)12月、陸軍騎兵学校教官に転じ、1936年(昭和11年)3月、騎兵中佐に進む。
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紅露 みつ(こうろ みつ、1893年〈明治26年〉5月10日… 紅露 みつ(こうろ みつ、1893年〈明治26年〉5月10日 - 1980年〈昭和55年〉12月20日)は、日本の政治家。参議院議員(4期)、衆議院議員(1期)。 群馬県碓氷郡坂本村(現安中市松井田町)出身。神田女学校を卒業して、雑誌記者となり兄の友人[要出典]だった弁護士・紅露昭と結婚。衆議院議員を4期務めた夫の公職追放に伴い、1946年の総選挙に徳島県全県区から出馬(無所属)し、初当選を果たす。 その後民主党に入党するも翌1947年の総選挙では落選、だが同年8月の第1回参議院議員通常選挙補欠選挙で当選(任期3年)して国政復帰を果たし、以後国民民主党→改進党→日本民主党→自由民主党と党籍を変えながら通算4期務める。
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鈴木 泉三郎(すずき せんざぶろう、1893年5月10日 -… 鈴木 泉三郎(すずき せんざぶろう、1893年5月10日 - 1924年10月6日)は、日本の劇作家、編集者である。豊島屋主人(としまやしゅじん)、伊豆 巳三郎(いず みさぶろう)などの筆名ももつ。 1893年(明治26年)5月10日、東京市赤坂区の青山地区(現在の東京都港区北青山か南青山)に生まれる。四谷区左門町(現在の新宿区左門町)にあった旧制・四谷第二小学校(現新宿区立四谷第六小学校)を卒業後、四谷銀行に入社、その傍ら、当時、同市同区葵町3丁目(現在の港区虎ノ門2丁目)にあった旧制・大倉商業学校(現在の東京経済大学)夜間部に通い、卒業する。が同市神田区錦町3丁目(現在の千代田区神田錦町)にあった国民英学会に進む。
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岩切 章太郎(いわきり しょうたろう、1893年5月8日 -… 岩切 章太郎(いわきり しょうたろう、1893年5月8日 - 1985年7月16日)は、日本の実業家。宮崎交通グループの創業者。宮崎県宮崎市出身。 宮崎を観光地として整備した立役者として「宮崎観光の父」と呼ばれる。日南海岸に現在宮崎の風物詩になっているフェニックスの植林を行い、こどもの国の開園、えびの高原の観光開発、橘公園の造園など「大地に絵を描く」という理念で大型の観光開発を行った。 住友時代の同期には、田路舜哉(住友商事会長)、土井正治(住友化学会長)などがいた。また大学の同窓生である岸信介元首相と懇意であり、佐藤栄作元首相に全日空の社長就任を要請されるなど中央政界にも太いパイプを持った人物だった。
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川村 カ子ト(かわむら カネト、1893年〈明治26年〉5月… 川村 カ子ト(かわむら カネト、1893年〈明治26年〉5月5日 - 1977年〈昭和52年〉1月6日)は、上川アイヌの長で、日本国有鉄道の測量技手。アイヌ文化の啓発・普及にも寄与した。国鉄退職後は川村カ子トアイヌ記念館の館長、旭川アイヌ民族史跡保存会長、旭川アイヌ民族工芸会長などを務めた。弟に川村才登、妹・コヨの夫に貝澤藤蔵がいる。 なお、「カネト」の「ネ」を「子」と書いているのは、かつて使われた、カナの「ネ」の異体字である。「カネト」と書かれることもある。また、カネトアイヌの正確な発音は、長男の川村兼一によると、カネトゥカイヌである。 1893年(明治26年)、旭川永山町(現旭川市永山)キンクシベツに生まれる。
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3代 諸橋 久太郎(もろはし きゅうたろう、1893年(明治… 3代 諸橋 久太郎(もろはし きゅうたろう、1893年(明治26年)5月3日 - 1973年(昭和48年)2月12日)は、昭和時代の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。福島県平市長。旧名・守次。位階は正五位。勲三等旭日中綬章。 福島県磐前郡平町(石城郡平町、平市を経て現いわき市)の金物商、釜屋商店の2代諸橋久太郎の嗣子として生まれる。1916年(大正5年)早稲田大学政治経済科を卒業。1930年(昭和5年)3代久太郎を襲名した。1931年(昭和6年)石城郡農会長に就任したのを皮切りに、平市農会長、信用組合平庶民金庫理事長、諸橋合名会社代表、磐城水産工業、片倉磐城製糸、植田水力電気、福島県農工銀行、相馬塩業などの重役を歴任した。
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尼崎 康定(あまさき やすさだ、旧姓・戸田、1893年(明治… 尼崎 康定(あまさき やすさだ、旧姓・戸田、1893年(明治26年)5月2日 - 1952年(昭和27年)1月16日)は、日本の実業家。尼崎汽船部常務。尼崎造船、尼崎海上火災、関西汽船各取締役。大阪曹達、大阪曹達商事各監査役。 信州松本藩主・戸田光則(松平光則)の孫。子爵・戸田康泰の息子。子爵・戸田康保の弟。1919年、北海道帝国大学附属水産専門部を卒業した。趣味は謡曲、ゴルフ。宗教は神道。住所は大阪市天王寺区生玉町、同市福島区鷺洲南。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
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立花 秀吉(たちばな ひでよし、1893年〈明治26年〉5月… 立花 秀吉(たちばな ひでよし、1893年〈明治26年〉5月1日 - 1956年〈昭和31年〉6月13日)は、福島県磐城市(現・いわき市)長。 福島県磐前郡小名浜町(のち石城郡小名浜町→磐城市、現・いわき市)出身。小名浜の大船主の家に生まれる。1937年、小名浜町会議員となり、1954年に小名浜町長に就任する。同年、小名浜町は泉町、江名町、渡辺村と合併し、磐城市が発足、合併後の市長選挙に立候補し、当選した。市長就任後は小名浜港1万トン埠頭の建設、臨海工場の誘致などに常磐地区総合開発期成同盟会の副会長として力を尽くした。1期目在任中の1956年に死去した。
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西 春彦(にし はるひこ、1893年〈明治26年〉4月29日… 西 春彦(にし はるひこ、1893年〈明治26年〉4月29日 - 1986年〈昭和61年〉9月20日)は、大正・昭和期の外交官。太平洋戦争開戦時の外務次官である。 鹿児島県川辺郡加世田町津貫(後の加世田市津貫、南さつま市加世田津貫)生まれ。1911年3月旧制鹿児島県立川辺中学校(現鹿児島県立川辺高等学校)卒業。旧制第一高等学校一部丙類(独法・政・独文)に1911年9月入学、1914年7月卒業。東京帝国大学法学部独法科に1914年9月入学、1918年7月卒業。高等文官試験外交科に合格し、1918年10月外務省に入る。1920年結婚。外交官として長春在勤領事(1923年1月)、ソヴィエト連邦在勤大使館三等書記官(1925年8月)、外交書記官ならびに通商局第一課長(1928年2月)、欧米局第一課長(1933年3月)、欧亜局第一課長(1934年6月)、青島在勤総領事(1935年12月)、ソヴィエト連邦在勤大使館参事官(1936年12月)、欧亜局長(1939年6月)、ソヴィエト連邦出張特命全権公使(1940年9月)を歴任し、1941年5月に離任帰国。
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石橋 長英(いしばし ちょうえい、1893年4月26日 - … 石橋 長英(いしばし ちょうえい、1893年4月26日 - 1990年9月25日)は、日本の医学者である。千葉市出身。 1918年、東京帝国大学に留学。1920年東京女子医科大学教授に就任。1925年公益財団法人日本国際医学協会を組織し。1936年から日独医学協会長を務めた。1973年獨協医科大学初代学長に就任。
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白木 一平(しらき いっぺい、1893年4月26日 - 19… 白木 一平(しらき いっぺい、1893年4月26日 - 1948年10月17日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 愛知県出身。1910年愛知県立農林学校(現・愛知県立安城農林高等学校)卒。農業の傍ら、郵便局長、奥町(現・一宮市)会議員、中島郡会議員、同副議長、奥町教育会長、同農業会長、中島郡農会長、愛知県農会幹事長、蘇東耕地整理組合長、愛知県農業保険組合連合会副会長、中部種苗(株)取締役社長となる。 1946年の第22回衆議院議員総選挙で愛知1区(大選挙区)から日本進歩党公認で立候補して当選。党内では会計監督となった。翌1947年の第23回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。後、公職追放となった。
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長友 次男(ながとも つぎお、1893年(明治26年)4月2… 長友 次男(ながとも つぎお、1893年(明治26年)4月25日 - 1986年(昭和61年)9月30日)は、大日本帝国陸軍の陸軍少将、中部憲兵隊司令官。戦後、A級戦犯として逮捕された。 宮崎県に生まれ、東京帝国大学法科を卒業。 1914年、陸軍士官学校を卒業(26期)して陸軍少尉となる。以後、憲兵一筋。 1933年、憲兵司令部第1課長、1937年、憲兵候補者隊長、1938年、羅南憲兵隊長、1939年、陸軍憲兵大佐、1940年、満州の関東憲兵隊警務部長となる。1943年、関東憲兵隊総務部長兼警務部長、1944年、陸軍少将・大阪憲兵隊長、1945年3月、中部憲兵隊司令官となる。 1945年12月、連合国より第三次戦犯指名され、A級戦犯として逮捕され収監された。
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江熊 哲翁(えぐま / えくま てつお、1893年(明治26… 江熊 哲翁(えぐま / えくま てつお、1893年(明治26年)4月25日 – 1974年(昭和49年)5月20日)は、大正から昭和期の水産技術者、政治家。参議院議員。 大分県宇佐郡、現在の宇佐市で生まれる。1916年(大正5年)農商務省水産講習所(現東京海洋大学)本科養殖科を卒業した。 1918年(大正7年)大分県水産技手に就任。以後、水産試験場技手、台湾総督府技手、滋賀県技手、地方農林技師・佐賀県水産課長兼水産試験場長・水産製品検査所長、愛媛県水産課長、山口県水産課長、下関漁港事務所長事務取扱などを歴任した。その後、山口県健民対策審議会専門委員、同水産業会長、同漁業組合連合会長、山口漁村振興協議会長、福石商会会長、天山商事社長などを務め、山口県の水産業界の振興に尽力した。
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野田 信夫(のだ のぶお、1893年4月24日 - 1993… 野田 信夫(のだ のぶお、1893年4月24日 - 1993年4月30日)は、日本の経営学者、元成蹊大学学長。 長野県飯田市生まれ、北海道旭川市育ち。旧制北海道立上川中学、旧制第一高等学校卒業。1918年(大正7年)、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業後、1921年に同経済学科を卒業した 同年三菱財閥合資会社に入社する。のち三菱経済研究所研究員となり、東京帝国大学工学部の講師も務めた。1946年(昭和21年)に三菱重工業企画室調査役となるが、翌1947年(昭和22年)に政府の経済安定本部に迎えられ生産局長となる。物価庁次長(1948年)を経て、1949年には経済安定本部副長官を務めた。 1949年に成蹊大学政治経済学部教授となり、1958年から1969年まで学長を務めた。
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山本 為三郎(やまもと ためさぶろう、1893年(明治26)… 山本 為三郎(やまもと ためさぶろう、1893年(明治26)4月24日 - 1966年(昭和41)2月4日)は、実業家。大阪市中央区船場生まれ。「ビール王」、「ホテル王」と呼ばれた。
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中田 瑞穂(なかた みずほ、1893年〈明治26年〉4月24… 中田 瑞穂(なかた みずほ、1893年〈明治26年〉4月24日 - 1975年〈昭和50年〉8月18日)は、日本の脳神経外科医・俳人。新潟大学名誉教授。俳号はみづほ、瑞翁、穭翁。島根県津和野町生まれ。 日本における脳神経外科学の権威で、その数々の功績から「日本脳外科の父」とも呼ばれる。 日本初の脳神経外科学講座を新潟大学に設立し、新潟大学脳研究所の設立と発展に貢献した。また、てんかんの治療法として現在も行われている大脳半球切除手術に日本で初めて成功したことでも知られる。ホトトギス派の俳人。主著に『脳手術』、『脳腫瘍』等。 旧制六高を経て東京帝国大学医科大学を卒業後直ちに同大学の近藤次繁教授の外科教室に入局し、4年間の勤務の後新潟医科大学の外科教室に助教授として赴任した。
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伊集院 松治(いじゅういん まつじ、1893年〈明治26年〉… 伊集院 松治(いじゅういん まつじ、1893年〈明治26年〉4月21日 - 1944年〈昭和19年〉5月24日)は、日本の海軍軍人、華族。最終階級は海軍中将。男爵。 東京府麹町区(現東京都千代田区)出身。旧制東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)より海軍兵学校43期入校。席次は入校時100名中93番、卒業時96名92番。伊集院五郎元帥は父、大野竹二海軍少将は弟。
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富本 一枝(とみもと かずえ、1893年4月20日 - 19… 富本 一枝(とみもと かずえ、1893年4月20日 - 1966年9月22日)は、日本の明治時代〜昭和時代の画家、随筆家、婦人運動家。富山県富山市出身。旧姓は尾竹一枝。筆名、尾竹紅吉(おたけ べによし)。 日本画家尾竹越堂の長女として生まれる。夕陽丘高等女学校卒業、1910年に女子美術学校日本画選科に入学するが中退。平塚らいてうに心酔し、『青鞜』創刊翌年の明治45年(1912年)に青鞜社に入社、紅吉を名乗り、随筆や詩の執筆、また1周年記念号の表紙を担当する等、積極的に活動する。しかし、らいてうとの同性愛関係や、バーでの飲酒(「五色の酒事件」)、吉原遊廓の見学(「吉原登楼事件」)などがスキャンダルを呼び、「新しい女」の一人として批判され、10月には青鞜社を退社する。
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高津 正道(たかつ まさみち、1893年4月20日 - 19… 高津 正道(たかつ まさみち、1893年4月20日 - 1974年1月9日)は、日本の社会運動家、政治家。衆議院議員(5期)、衆議院副議長などを歴任した。 広島県御調郡羽和泉村(現・三原市)生まれ。真宗本願寺派南光寺住職の長男で、18歳のときに京都に移り、京都予備学校(のちの京都商業)で学ぶ。卒業後は実家に戻り、1914年に住職を継ぐが、仏教改革を志して檀家と対立した結果、仏教を捨てるに至る。 1918年、妻多代子(のち日本初の女性社会主義グループ「赤瀾会」創立メンバー、28歳で早逝)と共に上京し、早稲田大学文学部哲学科に入学。在学中「暁民会」を組織するなど、活発な社会主義運動を展開した。そのため大学を追われ、日本社会主義同盟を設立するが、1921年に暁民共産党事件で有罪判決を受ける。
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三枝 博音(さいぐさ ひろと、1892年〈明治25年〉5月2… 三枝 博音(さいぐさ ひろと、1892年〈明治25年〉5月20日 - 1963年〈昭和38年〉11月9日)は、日本の哲学者。 思想史・科学史・技術史についての研究も多い。 広島県山県郡本地村(現・北広島町)出身。生家は浄土真宗の寺院・浄専坊。第四仏教中学(現・崇徳高等学校)を経て、東京帝国大学文学部哲学科に進む。在学中1年間の兵役体験から、社会的なものへ傾倒しマルクス主義に没頭した。 1922年大学卒業後は同郷で、医学史の大家・富士川游に師事。東洋大学、立正大学、法政大学などで教職に就いた。1928年、無神論運動を起こす。1931年半年間ドイツに留学、世界観の変革に多大な影響を受けた。1932年に戸坂潤らとともに唯物論研究会の創立に参加。
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柳 兼子(やなぎ かねこ、1892年(明治25年)5月18日… 柳 兼子(やなぎ かねこ、1892年(明治25年)5月18日 - 1984年(昭和59年)6月1日)は、日本の声楽家(アルト歌手)。白樺派の柳宗悦の妻である。長男の柳宗理は工業デザイナー、次男の柳宗玄は美術史家、三男の柳宗民は園芸家として知られている。
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山本 作兵衛(やまもと さくべえ / さくべい、1892年〈… 山本 作兵衛(やまもと さくべえ / さくべい、1892年〈明治25年〉5月17日 - 1984年〈昭和59年)12月19日〉)は、福岡県出身の炭鉱労働者、炭鉱記録画家。 日本で初めてユネスコ記憶遺産(世界の記憶)の登録を受けた炭鉱画で知られる。 1892年(明治25年)、福岡県嘉麻郡笠松村鶴三緒(現・飯塚市)で、石炭を輸送する川舟の船頭をしていた山本福太郎の次男として産まれる。1899年(明治32年)、1893年(明治26年)に開通した筑豊本線によって石炭輸送の代替が進んだため、福太郎は川舟を廃業して一家で上三緒炭坑(現・飯塚市)に移住し、炭鉱夫に転職した。作兵衛も7歳で兄とともに炭鉱に入り、父の仕事を手伝うようになる。
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石川 興二(いしかわ こうじ 1892年5月16日 - 19… 石川 興二(いしかわ こうじ 1892年5月16日 - 1976年3月25日)は、昭和時代に活動した日本の経済学者、教育者。経済学博士(京都帝国大学)。京都大学名誉教授。 第六高等学校を経て、1917年に京都帝国大学法科大学政治経済科を卒業。在学時には西田幾多郎の指導を受け、日本では先例のない経済哲学を研究した。経済学は河上肇を師として慕った。1920年より京都帝国大学経済学部講師、彦根高等商業学校教授を務め、1926年から京都帝国大学経済学部助教授、次いで1930年には教授となった。同年、同大学経済学博士。1937年から評議員として大学運営に参画、1939年に経済学部長に就任。1943年には著書『新体制の指導原理』(1940年)の記述内容が帝国議会に於いて問題視され休職処分を受けている(いわゆる石川事件)。
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中村 正雄(なかむら まさお、1892年(明治25年)5月1… 中村 正雄(なかむら まさお、1892年(明治25年)5月15日 - 1939年(昭和14年)12月25日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。岳父は陸軍砲兵大佐 藤室松次郎(陸士旧8期)。功二級。 石川県出身。中村三雄の息子として生まれる。金沢第一中学校、名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1913年5月、陸軍士官学校(25期)を卒業、同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第35連隊付となる。1920年11月、陸軍大学校(32期)を卒業。 参謀本部付勤務、参謀本部部員、フランス大使館付武官補佐官、陸大教官、参謀本部部員、歩兵第18連隊大隊長、陸軍歩兵学校教官、イタリア大使館付武官、参謀本部部員兼軍令部部員、第12師団参謀長、参謀本部通信課長などを歴任し、1939年3月、陸軍少将に進級。
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大塚 金之助(おおつか きんのすけ、1892年5月15日 -… 大塚 金之助(おおつか きんのすけ、1892年5月15日 - 1977年5月9日)は、日本の経済学者。一橋大学名誉教授。 近代経済学から始め、ベルリン大学留学後、マルクス経済学者となり、治安維持法で検挙された。日本の降伏後復帰し、日本学士院会員、日本ドイツ民主共和国友好協会会長等を務めた。フンボルト大学名誉哲学博士。 1892年、東京府神田で生まれた。旧制神戸第一中学校(現兵庫県立神戸高等学校)を経て、神戸高等商業学校(現・神戸大学)に進学。在学中は授業料免除特待生であり、坂西由蔵ゼミで学んだ。その後東京高等商業学校(現・一橋大学)専攻部に進み、坂西の師にあたる福田徳三ゼミで指導を受けた。1916年に卒業。
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三輪 茂義(みわ しげよし、1892年5月15日 - 195… 三輪 茂義(みわ しげよし、1892年5月15日 - 1959年2月27日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。
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東屋 三郎(あずまや さぶろう、1892年5月15日 - 1… 東屋 三郎(あずまや さぶろう、1892年5月15日 - 1935年7月3日)は、日本の俳優である。本名は油屋 三三郎(あぶらや さんざぶろう)。 1892年(明治25年)5月15日、東京市神田区駿河台南甲賀町(現在の東京都千代田区神田駿河台三丁目)に「油屋 三三郎」として生まれる。父親は代議士の光妙寺三郎、母親は柳橋の芸者・お六。1893年の父の死後は、父の親友であった西園寺公望が引き取って養育した。 慶應義塾大学に入学、在学中に青山杉作らと出会い、1917年(大正6年)2月17日、新劇の劇団「踏路社」を結成する。『画家とその弟子』で初舞台を踏む。 1920年代には、舞台協会に参加し、1923年(大正11年)、舞台協会が日活向島撮影所と出演提携を結び、サイレント映画に出演する。
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宮沢 才吉(みやざわ さいきち、1892年(明治25年)5月… 宮沢 才吉(みやざわ さいきち、1892年(明治25年)5月15日 - 1956年(昭和31年)5月11日)は、日本の政治家。衆議院議員。 長野県小県郡祢津村(現東御市)生まれ。大正8年(1919年)村収入役となり、学校移転問題で村政が紛糾する中、同14年(1925年)村長に推挙されて解決し、昭和10年(1935年)長野県会議員を戦時特例で村長と兼任した。昭和21年(1946年)第22回衆議院議員総選挙に当選、翌年(1947年)公職追放された。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
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玉田 昇次郎(たまだ しょうじろう、1892年(明治25年)… 玉田 昇次郎(たまだ しょうじろう、1892年(明治25年)5月13日 - 1938年(昭和13年)2月16日)は、日本の内務・警察官僚。官選香川県知事。 愛知県中島郡稲沢村(現稲沢市)出身。第一高等学校を卒業。1919年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省に入省し京都府属となる。同年10月、高等試験行政科試験に合格。 以後、京都府警視、北海道庁理事官、同事務官、都市計画地方委員会事務官兼地方事務官、大阪府勤務、山梨県書記官・学務部長、同県書記官・警察部長、千葉県書記官・警察部長、埼玉県書記官・総務部長などを歴任。 1937年12月、香川県知事に就任。着任以来、体調が優れず、登庁したのは一日だけで、在任中に死去した。
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高田 富與(たかだ とみよ、1892年5月11日 - 197… 高田 富與(たかだ とみよ、1892年5月11日 - 1976年10月17日)は、日本の弁護士、政治家。札幌市議、第5代札幌市長(在任1947年 - 1959年。3期。初代公選市長)、自由民主党所属の衆議院議員(2期)。 福島県石城郡大野村(現・いわき市)生まれ。従兄の子に鯨岡兵輔がいる。11歳で渡道し、豊平村(現・札幌市豊平区)の知人宅に身を寄せる。100日余で野幌兵村(現・江別市野幌)の親戚を頼って転居。江西尋常高等小学校(現・江別第二小学校)高等科卒業までの3年半を過ごす。卒業後、札幌郵便局通信伝習生養成所で学び、電信の取り扱いを習得。修了後は郵便局職員として岩見沢に赴任。1908年7月から江別郵便局勤務。
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山口 青邨(やまぐち せいそん、1892年〈明治25年〉5月… 山口 青邨(やまぐち せいそん、1892年〈明治25年〉5月10日 - 1988年〈昭和63年〉12月15日)は、日本の俳人・鉱山学者。岩手県出身。東京大学名誉教授。 本名は吉郎(きちろう)。初号は泥邨。高浜虚子に俳句を師事、工学博士として東京大学に勤めながら俳誌「夏草」を主宰した。 岩手県盛岡市出身。父は士族の家柄。5歳のときに母が死去し、母方の叔父笹間夫妻の元で育った。岩手県立盛岡中学校卒業、1910年、第二高等学校入学。野球部でキャプテンを務めた。1916年、東京帝国大学工科大学採鉱科卒業。古河鉱業に入社。1918年、退社し農商務省技師として鉱山省に勤務。19年にはシベリア炭鉱を調査した。
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山本 募(やまもと つのる、1892年(明治25年)5月10… 山本 募(やまもと つのる、1892年(明治25年)5月10日 - 1963年(昭和38年)10月27日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 福岡県出身。農業・山本勘四郎の三男として1892年(明治25年)に生まれた。旧制東筑中学校を経て、1914年(大正3年)5月、陸軍士官学校第26期卒業。同年12月歩兵少尉に任官し、歩兵第7連隊附となる。1922年(大正11年)陸軍大学校第34期卒業。1923年(大正12年)より歩兵第7連隊中隊長心得、陸軍兵器本廠附、陸軍省整備局課員、歩兵第1連隊附(日大附属中学校配属)、津軽要塞参謀、陸軍省整備局課員などを歴任。 1936年(昭和11年)に台湾軍司令部附を経て、1937年(昭和12年)に台湾軍参謀に就任。
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丸山 敏雄(まるやま としお、1892年5月5日 - 195… 丸山 敏雄(まるやま としお、1892年5月5日 - 1951年12月14日)は、日本の教育者、社会教育家、書家。倫理研究所、秋津書道院、しきなみ短歌会の創立者。戦後の日本において、倫理運動と呼ばれる生活改善運動を創始した。 1892年(明治25年)5月5日、福岡県上毛郡合河村字天和(現在の福岡県豊前市天和)に、半三郎・ギン夫妻の四男として生まれる。 父親は浄土真宗の熱心な信徒で、神仏礼拝を重んじた。家の跡継ぎではない敏雄を僧侶にしたいとの願いから、父親は「信を取れ!」と言い続け、敏雄に厳格な信仰教育を施した。 10歳の時、敏雄は従兄と家の近所の池で遊んでいた際に溺れてしまったが、近くに住む青年に助けられた。
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榎本 芝水(えのもと しすい、1892年〈明治25年〉5月5… 榎本 芝水(えのもと しすい、1892年〈明治25年〉5月5日 - 1978年〈昭和53年〉8月19日)は日本の琵琶奏者。本名榎本 弁之助。 1892年(明治25年)東京市日本橋区檜物町に生まれる。1909年(明治42年)1月に永田錦心の一水会に入り同氏に師事。1936年(昭和11年)5月に独立して芝水流宗家を創立する。 この項目は、音楽家(演奏者・作詞家・作曲家・編曲家・バンドなど)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ:音楽)。
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松下 芳男(まつした よしお、1892年〈明治25年〉5月4… 松下 芳男(まつした よしお、1892年〈明治25年〉5月4日 - 1983年〈昭和58年〉4月9日)は、日本陸軍の軍人(陸軍中尉)・軍事評論家・軍事史家。「明治軍制史論」で法学博士(東京大学)。新潟県新発田町(新発田市)出身。 祖父は越後長岡藩藩士、父は陸軍少佐松下亀蔵である。松下はその長男として生まれる。松下の長男は東京大学教授。小学校時代の友人の兄に大杉栄がおり、大杉の死の直前まで交友があった。新発田中学、仙台陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て、大正2年(1913年)に陸軍士官学校を卒業(25期)。士官学校の同期には武藤章・富永恭次・田中新一らがいる。 同年、陸軍歩兵少尉となり、弘前の歩兵第52連隊に配属される。
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大村 清一(おおむら せいいち、旧字体: 大村淸一、1892… 大村 清一(おおむら せいいち、旧字体: 大村淸一、1892年(明治25年)5月4日 - 1968年(昭和43年)5月24日)は、日本の内務官僚、弁護士、政治家。衆議院議員(6期、自由民主党)。貴族院議員(勅選)、防衛庁長官(第2代)、内務大臣(第65代)。日本林業協会長、相模女子大学長。 防衛庁長官を務めた大村襄治は子。岳父は東大名誉教授本多静六。 岡山県津山市に生まれる。大村吉五郎の長男。 鹿児島高等農林学校卒業の後、1917年(大正6年)京都帝国大学法科大学独法科卒業。同大学院修了。内務省に入省。土木局属。鹿児島県揖宿郡長、東京市主事、地方、復興局、内務、鉄道各事務官、内務書記官、長野、神奈川県知事となり、長野県知事を2度務め話題になった。
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簗瀬 真琴(やなせ まこと/やなせ まさこと、1892年(明… 簗瀬 真琴(やなせ まこと/やなせ まさこと、1892年(明治25年)5月2日 - 1978年(昭和53年)10月23日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 福島県出身。簗瀬家は旧会津藩士で北原家、内藤家と会津三家と称された家である。幕末の当主で家老を務めた簗瀬三左衛門は簗瀬の祖父にあたる。三左衛門は西郷頼母、田中玄清以上の高禄(2200石)を食んだ。白虎隊士として自刃した簗瀬勝三郎、簗瀬武治は簗瀬の血族である。 会津中学を経て陸軍士官学校26期。1914年(大正3年)12月歩兵少尉に任官。少佐時代に近衛歩兵第1連隊附として麻布中学配属将校、中佐時代は近衛歩兵第3連隊附を務めている。 支那派遣軍高級副官を経て、橘連隊の異名を持つ歩兵第34連隊の連隊長として日中戦争に出征。
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田口運蔵(たぐち うんぞう、1892年(明治25年)5月1日… 田口運蔵(たぐち うんぞう、1892年(明治25年)5月1日 - 1933年(昭和8年)10月26日)は、日本の社会主義運動家。コミンテルン初期の日本人代表として知られる。
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須田 皖次(すだ かんじ、1892年〈明治25年〉5月1日 … 須田 皖次(すだ かんじ、1892年〈明治25年〉5月1日 - 1976年〈昭和51年〉2月19日)は、日本の海洋学者(理学博士)。東海大学名誉教授、初代海上保安庁水路部長をつとめた。 群馬県勢多郡横野村樽(赤城村を経て現・渋川市)生まれ。1913年(大正2年)群馬県師範学校本科第一部卒業、1917年(大正6年)東京高等工業学校教員養成所卒業。同年逓信省技手となる。 1921年(大正10年)東北帝国大学理学部物理学科を卒業。同年神戸海洋気象台入所。イギリス・アメリカ・ノルウェーへの留学を経て、1932年(昭和7年)中央気象台福岡支台長となった。1938年(昭和13年)、“On the dissipations of energy in the density current” (密度流内のエネルギーの損失に就いて)により理学博士(東北帝国大学)。
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伊藤 範治(いとう のりはる、1892年(明治25年)4月3… 伊藤 範治(いとう のりはる、1892年(明治25年)4月30日 - 1985年(昭和60年)10月31日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1892年(明治25年)に福井県福井市にて伊藤恒右エ門の四男として生まれた。陸軍士官学校第25期卒業。1938年(昭和13年)5月30日に高射砲第16連隊長に就任し、7月15日に陸軍砲兵大佐に進級した。1940年(昭和15年)8月に陸軍防空学校幹事に転じ、1941年(昭和16年)7月に第2高射砲隊長に着任。 1942年(昭和17年)8月1日に陸軍少将に進級し、11月9日に中部防空旅団長(中部軍)に着任。1944年(昭和19年)4月27日に砲兵監部附となり、8月22日に千葉陸軍高射学校長を経て、1945年(昭和20年)4月1日に西部高射砲集団長に着任。
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貫井 清憲(ぬくい きよのり、1892年〈明治25年〉4月2… 貫井 清憲(ぬくい きよのり、1892年〈明治25年〉4月28日 - 1984年〈昭和59年〉8月3日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、埼玉県児玉郡若泉村長、同阿久原村長、同神泉村長。 埼玉県児玉郡若泉村(のち阿久原村を経て神泉村、現:児玉郡神川町)で生まれる。1910年(明治43年)、群馬県立富岡中学校を卒業。 実業家としては1920年(大正9年)から9年間鬼石銀行(現・群馬銀行)取締役を、1922年(大正11年)から18年間上武自動車社長を、1933年(昭和8年)から8年間児玉郡乾繭組合長をそれぞれ務めた。また、1943年(昭和18年)に上信電鉄取締役に、1951年(昭和26年)に武蔵野銀行取締役にそれぞれ就任した。
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鷲尾 雨工(わしお うこう、本名:鷲尾 浩、1892年4月2… 鷲尾 雨工(わしお うこう、本名:鷲尾 浩、1892年4月27日 - 1951年2月9日)は日本の小説家。 新潟県西蒲原郡黒鳥村(現・新潟市西区黒鳥)生まれ。新潟県立小千谷中学校、早稲田大学英文科卒業。 作家を志し、学生時代にはダヌンツィオの『フランチェスカ・ダ・リミニ』を翻訳出版。卒業後、直木三十五と冬夏社を立ち上げ経営するも関東大震災により半年で倒産。 『吉野朝太平記』で第二回直木賞受賞。代表作に『明智光秀』『甲越軍記』などの歴史小説がある。 ペンネームは夫人が『南総里見八犬伝』から得たもの。
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田中 頼三(たなか らいぞう、1892年(明治25年)4月2… 田中 頼三(たなか らいぞう、1892年(明治25年)4月27日 - 1969年(昭和44年)7月9日)は、日本の海軍軍人。海兵41期。最終階級は海軍中将。 山口県山口市嘉川(旧嘉川村)の本間家の三男に生まれる。 旧制山口中学校を卒業。1913年(大正2年)12月海軍兵学校41期卒。生粋の駆逐艦乗りで、水雷屋としてキャリアを重ねた。 第一次世界大戦では第二特務艦隊に属し、地中海で連合国艦船の護衛任務に従事している。 第一次世界大戦後の1920年11月、山口県の田中家へ入籍し姓が田中となる。 太平洋戦争直前の1941年(昭和16年)9月15日、五藤存知少将の後任として第二水雷戦隊司令官となる。そのまま日米開戦を迎え、南方作戦・蘭印作戦に従事。
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成瀬 正一(なるせ せいいち、1892年4月26日 - 19… 成瀬 正一(なるせ せいいち、1892年4月26日 - 1936年4月13日)は、日本のフランス文学者。ロマン・ロランの翻訳・紹介を行った。大学卒業後まもなく創作から研究の道に転じ、九州帝国大学法文学部教授として仏蘭西浪漫主義思想を専門とした。43歳で病死したが、この時代の良き知識人として、後世の文学や美術研究に大いに寄与した。パリ留学中の1921年、松方幸次郎のアドバイザーとして松方コレクション(国立西洋美術館)の絵画彫刻の蒐集購入に協力した。 成瀬正恭(十五銀行頭取)の長男として、神奈川県横浜市に生まれる。 麻布中学校、第一高等学校を経て東京帝国大学文科大学英文科卒業。大学在学中に芥川龍之介、久米正雄、菊池寛、松岡譲と第4次『新思潮』を創刊する。
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井上 起久子(いのうえ きくこ、1892年(明治25年)4月… 井上 起久子(いのうえ きくこ、1892年(明治25年)4月25日 - 不明)は日本の歌手、音楽指導者。歌手としては大正期から昭和戦前期にかけて、オペラ、歌謡曲、ジャズ、童謡など、幅広いジャンルで活動した。戦後は長らく音楽教室を主宰し後進の育成に努めた。 1892年(明治25年)4月25日に愛媛県新居郡西条町(現在の西条市)で生まれる。 西条高等女学校を経て、1914年(大正3年)に女子音楽学校卒業。小学校などでの音楽教師を経て帝国劇場洋劇部の第一期生としてイタリア人舞踏家ジョヴァンニ・ヴィットーリオ・ローシーに師事した。同年夏に帝国劇場にてオペラ歌手として初舞台を踏み、帝劇が財政難のためオペラから撤退した後は、ローシーに従って彼の設立したローヤル館で演じた。
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小室 孝雄(こむろ たかお、1892年(明治25年)4月23… 小室 孝雄(こむろ たかお、1892年(明治25年)4月23日 - 1955年(昭和30年)9月29日)は、日本の洋画家。 長野県南安曇郡東穂高村(現・安曇野市)に生まれる。東穂高農業補習学校(現長野県穂高商業高等学校)を卒業後、農業に従事するが、大正3年(1914年)に上京。本郷洋画研究所で岡田三郎助に師事して、油絵制作に精進し、大正15年(1926年)西荻窪にアトリエを構えた。大正5年(1916年)第10回文部省美術展(文展)に「静物」が初入選すると、以後入選を重ねる。昭和12年(1937年)に従軍画家として中国大陸に渡り、戦場や戦時下の都市の風景を描いた。「大日本陸軍従軍画家協会」の名簿には、石井柏亭、小磯良平、川端龍子、向井潤吉らとともに名を連ねている。
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赤石 二郎(あかし じろう、1892年4月22日 - 197… 赤石 二郎(あかし じろう、1892年4月22日 - 1977年3月27日)は、日本の経営者、銀行家。群馬県前橋市出身。 1919年に京都帝国大学法学部を卒業し、同年に加島銀行に入行。1929年に野村銀行に転じ、1938年に庶民金庫理事を経て、1948年に近畿無尽社長に就任。1963年に会長を経て、1967年4月には相談役に退いた。 1958年に黄綬褒章を受章し、1965年に勲四等瑞宝章を受章。 1977年3月27日心不全のために死去。84歳没。
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長口 宮吉(おさぐち みやきち、1892年4月22日 - 1… 長口 宮吉(おさぐち みやきち、1892年4月22日 - 1962年4月10日)は、日本の写真化学技術者。 1892年(明治25年)4月22日、現在の静岡県伊豆市小下田[要出典]に生まれる。東京薬学校(東京薬科大学の前身の一つ)を1914年に卒業した。その後、東京美術学校(現在の東京芸術大学)助手を経て[要出典]、東京高等工芸学校(現在の千葉大学工学部)教授を務めた。1933年(昭和8年)、日本最初の色彩写真を完成する。この方式は長口式天然写真として特許となり現代カラー写真の礎を築く。[要出典] 1939年(昭和14年)、富士写真フイルムに入社する。同社では技師を務め、カラーフィルム(フジカラー)の開発に成功した。
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