高井 利平(たかい りへい、旧姓・臼井、前名・竹次郎、186… 高井 利平(たかい りへい、旧姓・臼井、前名・竹次郎、1868年11月18日〈明治元年10月5日〉 - 没年不明)は、日本の実業家・地主・資産家。万里銀行頭取。五十六銀行常務取締役。三十八銀行、高井織物各監査役。姫路莫大小取締役。族籍は兵庫県平民。 兵庫県加東郡上福田村字木梨(現・加東市)に生まれた。臼井庄吉の二男。小野中学校卒業後、東京、大阪、琉球等の各地の銀行に勤務した。高井家の養子となり、1898年に養祖父利平の後を承け家督を相続し、前名竹次郎を改め襲名した。 資性温厚、誠直であった。趣味は謡曲、仕舞囃子。宗教は曹洞宗。住所は兵庫県姫路市大黒町。
仁井田 益太郎(にいだ ますたろう、1868年11月18日(… 仁井田 益太郎(にいだ ますたろう、1868年11月18日(明治元年10月5日)- 1945年1月17日)は、日本の法学者・裁判官・弁護士。学位は、法学博士。京都帝国大学法科大学教授、東京帝国大学法科大学教授を歴任。 守山藩士県吏仁井田隠重の長男。妻は貴族院議員奥山政敬の娘アイ、甥の陞は中国法制史家、東大教授。 富井政章付きの民法典起草補助委員として活躍し、ドイツ民法草案第一・第二を翻訳して富井に提供したほか、各国の法制度を調査して貢献した。 他の起草補助委員との合著『帝国民法正解』は、民法典施行後出版された最初の書物であり、大体純粋なドイツ法学派の見解から書かれたものであった。 京都帝国大学では民事訴訟法、商法の講座を担当し、東京帝国大学では民事訴訟法、民法、ドイツ法の講座を担当。
下坂 藤太郎(しもざか とうたろう、1868年11月17日(… 下坂 藤太郎(しもざか とうたろう、1868年11月17日(明治元年10月4日) - 1941年(昭和16年)1月12日)は、日本の大蔵官僚、実業家。理財局銀行課長を最後に退官し、台湾銀行理事、副頭取を歴任。東洋製糖(のち大日本製糖)、東洋海上保険(のち日新火災海上保険)、日商(のち日商岩井)の各社長。 会津藩士下坂藤次郎の長男。三春中学、第一高等学校を経て、1894年(明治27年)東京帝国大学を卒業。大蔵省に入省し、翌年の第二回文官高等試験に次席合格する。秋田県収税長、本省参事官、書記官、監督局銀行課長などを経て、1899年(明治32年)6月辞職。翌月台湾銀行理事に就任し、副頭取に進む。1906年(明治39年)から翌年にかけて銀行制度調査のため欧米出張。
石渡 繁胤(いしわたり しげたね又はいしわた しげたね、明治… 石渡 繁胤(いしわたり しげたね又はいしわた しげたね、明治元年10月3日(1868年11月16日) - 1941年8月18日)は、日本の養蚕学者。 蚕の雌雄鑑別法で成果を上げた。 1901年に、蚕に卒倒病を引き起こす病原細菌を発見した。石渡はこの細菌を卒倒病菌と名付け、後にバチルス・チューリンゲンシスと命名された。 妻は政治家中村舜次郎の二女のトシ。正五位勲五等。 明治元年(1868年)、現在の神奈川県逗子市出身。明治25年(1892年)東京帝国大学農科大学を卒業し、農商務技師兼蚕業講習所技師、明治41年(1908年)に京都蚕業講習所長、明治44年(1911年)に原蚕種製造所技師、蚕業試験所技師、東京農業大学教授などを歴任した。
上田 太郎(うえだ たろう、1868年11月15日〈明治元年… 上田 太郎(うえだ たろう、1868年11月15日〈明治元年10月2日〉- 1937年〈昭和12年〉5月16日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功四級。 美濃国不破郡矢道村(青墓村、赤坂町を経て現岐阜県大垣市矢道町)で上田半右衛門の長男として生まれ、1909年(明治42年)に家督を相続した。 1888年(明治21年)岐阜県第一中学校(現岐阜県立岐阜高等学校)を卒業。1892年(明治25年)7月、陸軍士官学校(3期)を卒業し、1893年(明治26年)3月、陸軍歩兵少尉に任官。日清戦争に従軍。1901年(明治34年)11月、陸軍大学校(15期)を卒業し参謀本部に配属された。日露戦争では大本営兵站総監部副官として出征した。
早速 整爾(はやみ せいじ、1868年11月15日〈明治元年… 早速 整爾(はやみ せいじ、1868年11月15日〈明治元年10月2日〉- 1926年〈大正15年〉9月13日)は、明治・大正期の日本の実業家、政治家。初代大蔵政務次官、農林大臣及び大蔵大臣。 安芸国沼田郡新庄村(現:広島市西区新庄町)出身。出生名は中山米吉。 中山源蔵の二男として生まれ苦学して、旧制広島中学を経て1887年(明治20年)に東京専門学校政治経済英学科(現:早稲田大学)を卒業。前年、秀才で通りながら遊び過ぎて卒業試験に失敗した事から「爾(なんじ)を整(ととの)へよ」と自省し整爾と改名し、中山整爾となった。卒業前に埼玉英和学校校長代理兼教頭を務めた。 1889年(明治22年)、芸備日日新聞社主の早速勝三の養子となり、早速整爾に名を改め、同年、社長兼主筆として新聞を経営、優秀な頭脳と速筆で活躍。
坂本 素魯哉(さかもと そろや、1868年11月10日(明治… 坂本 素魯哉(さかもと そろや、1868年11月10日(明治元年9月26日) – 1938年(昭和13年)8月3日)は、日本の銀行家、政治家(衆議院議員)。実弟は、衆議院議員を務めた坂本志魯雄。 1868年、土佐国長岡郡瓶岩村亀岩(現・高知県南国市)出身。1885年、高知師範学院卒業。1893年、大阪の関西法律学校(関西大学の前身)を卒業。1896年、明治法律学校(明治大学の前身)卒業後、日本銀行に入行。台北出張所に赴任し、台湾銀行創設に参画。1905年、彰化銀行設立に伴い、支配人として招聘され、1914年、専務取締役に就任。1920年、第14回衆議院議員総選挙で立憲政友会から高知県第3区に立候補して当選。
西村 陸奥夫(にしむら むつお、明治元年9月21日(1868… 西村 陸奥夫(にしむら むつお、明治元年9月21日(1868年11月5日) - 明治45年(1912年)1月8日)は、日本の内務官僚、佐賀県知事。 陸奥国津軽郡妙堂崎村(後青森県西津軽郡水元村、現在の北津軽郡鶴田町)出身。西村孫兵衛の長男として生まれる。東奥義塾を卒業し、1887年(明治20年)から1889年(明治22年)まで北津軽郡立高等小学校で雇教員として働いた。1890年(明治23年)、東京専門学校政学部(現早稲田大学政経学部)を卒業。1891年(明治24年)、青森県内務部雇となり、1893年(明治26年)には青森県会に異動となった。翌年、職を辞して上京し、法律学の勉強に励んだ。1895年(明治28年)11月、文官高等試験行政科試験に合格し、翌年に内務省属・県治局勤務となった。
鹿島 房次郎(かじま ふさじろう、旧姓・田部、1868年11… 鹿島 房次郎(かじま ふさじろう、旧姓・田部、1868年11月5日(明治元年9月21日) - 1932年(昭和7年)7月29日)は、日本の実業家、政治家。神戸市会議員を経て第4代神戸市長(在任:1910年2月28日 - 1920年)。 自治体官僚主導による都市経営手法の源流を創った人物の一人とされ、その人格および手腕は、歴代神戸市長中の白眉と称される。族籍は兵庫県平民。 広島県比婆郡庄原村(現・庄原市)出身。裕福な農家、田部香蔵の弟。鹿島家に入り慶應義塾幼稚舎を経て、慶應義塾大学部理財科を卒業し、次いで東京高等商業学校(後の一橋大学)を矢野二郎排斥事件により中退、さらにアメリカ合衆国のミシガン大学に4年間留学した。
矢部 規矩治(やべ きくじ、明治元年9月20日〈1868年1… 矢部 規矩治(やべ きくじ、明治元年9月20日〈1868年11月4日〉 - 1936年〈昭和11年〉10月2日)は、日本の農学者(醸造学)、大蔵技師。清酒酵母の発見者であり、醸造試験所(酒類総合研究所の前身)の設立に関わるなど、日本の酒造業の発展に貢献した。また、科学的に納豆を研究した先駆者としても知られている。 位階・勲等は正三位勲二等。学位は農学博士。 前橋藩士の長男として、上野国勢多郡一毛村(現在の群馬県前橋市城東町)で生まれた。 群馬県中学校(現在の群馬県立前橋高等学校)卒業後、1886年(明治19年)に第一高等学校に進学。東京帝国大学農科大学(現在の東京大学農学部)に進み、農芸化学を専攻した。
上松 泰造(うえまつ たいぞう、1868年11月1日(明治元… 上松 泰造(うえまつ たいぞう、1868年11月1日(明治元年9月17日) - 1949年(昭和24年)8月2日)は、明治から昭和時代前期の大地主、政治家、銀行家。貴族院多額納税者議員。 関谷與藤治の二男、関谷醇三の弟としてのちの岐阜県に生まれ先代上松治郎一の養子となり1905年(明治38年)1月、家督を相続する。岐阜県師範学校を経て、東京法学院を卒業する。農業を営む傍ら、濃飛農工銀行、岐阜貯蓄銀行、第十六銀行各取締役、鏡島銀行頭取、岐阜不動産、岐阜信託各取締役、岐阜県農会長、稲葉郡農会副会長などを歴任した。 1915年(大正4年)岐阜県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年10月2日から1925年(大正14年)9月28日まで在任した。
百瀬 興政(ももせ おきまさ、1868年10月27日〈明治元… 百瀬 興政(ももせ おきまさ、1868年10月27日〈明治元年9月12日〉- 1939年〈昭和14年〉4月21日)は、長野県出身の医師、政治家。松本市長。旧姓・柳野。 信濃国松本城下(現:長野県松本市)に松本藩士・柳野興一の次男として生まれ、百瀬元章の養子となる。1888年(明治21年)東京帝国大学医科大学別科を卒業。翌年、松本に医院を開業。医院を経営する傍ら、従兄弟の木下尚江らとともに普選運動や禁酒運動に参加する。1901年(明治34年)東筑摩郡看護婦会を組織する。1922年(大正11年)5月1日、松本信用組合(現:松本信用金庫)を設立し組合長に就任。 1898年(明治31年)松本町会議員に当選。
羽室 庸之助(はむろ ようのすけ、1868年10月26日(明… 羽室 庸之助(はむろ ようのすけ、1868年10月26日(明治元年9月11日) - 1944年(昭和19年)12月30日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(1期)。 兵庫県出身。1890年、東京工業学校(現・東京工業大学)機械科卒。私立中学鳳鳴義塾教師となる。その後、農商務省製鉄所技手となり、ドイツに留学、住友製鋼所副支配人、羽室鋳鋼所所長、日本水道衛生、大阪機械工作所(株)監査役を歴任する。御影師範学校附属小学校保護者会役員であったことから、近隣の新中学として1923年から灘校設立運動を支援。 1924年の第15回衆議院議員総選挙において大阪3区から立候補したが落選。1926年の補欠選挙の再選挙に実業同志会公認で立候補して当選した。
人見 米次郎(ひとみ よねじろう、1868年10月24日(明… 人見 米次郎(ひとみ よねじろう、1868年10月24日(明治元年9月9日) - 1935年(昭和10年)1月6日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 滋賀県出身。1879年、彦根初等師範学校(現・滋賀県立彦根東高等学校)卒。数学とドイツ語を学ぶ。第百三十三国立銀行(現・滋賀銀行)、日本生命保険、神戸井上倉庫各(株)勤務を経て、運送業と日豪貿易を営み、欧米各国を巡遊する。また、神戸市会議員となる。 1912年の第11回衆議院議員総選挙において滋賀県郡部から立憲国民党公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1915年の第12回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1935年に死去した。
大久保 忠均(おおくぼ ただひら、1868年10月24日(明… 大久保 忠均(おおくぼ ただひら、1868年10月24日(明治元年9月9日) - 1909年(明治42年)10月8日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 下総国相馬郡高柳村(のち千葉県南相馬郡風早村→東葛飾郡風早村→東葛飾郡沼南村→沼南町、現在の柏市)に生まれる。儒学者蒲生重章に漢学を学ぶ。風早村書記、同村会議員、東葛飾郡会議員、千葉県会議員、同参事会員、地方衛生会員、所得税調査委員となる。 1902年の第7回衆議院議員総選挙において千葉県から立憲政友会公認で立候補して初当選する。1903年の第8回衆議院議員総選挙で再選。衆議院議員を2期務め、1904年の第9回衆議院議員総選挙は不出馬。その後は東葛飾郡農会幹事長、同副会長となり、1907年風早村長に就任した。
伊東 忠太(いとう ちゅうた、慶応3年10月26日〈1867… 伊東 忠太(いとう ちゅうた、慶応3年10月26日〈1867年11月21日〉 - 1954年〈昭和29年〉4月7日) は、明治から昭和期の建築家、建築史家である。号は紅雲。位階・勲等・学位・称号は、正三位・勲二等瑞宝章・工学博士・東京帝国大学名誉教授・早稲田大学教授。出羽国米沢(現山形県米沢市)出身。米沢市名誉市民第1号。 少年時代を東京、佐倉で過ごす。帝国大学工科大学(現在の東京大学工学部)を卒業して同大学大学院に進み、のちに工学博士・東京帝国大学名誉教授となる。 西洋建築学を基礎にしながら、日本建築を本格的に見直した第一人者で、法隆寺が日本最古の寺院建築であることを学問的に示し、日本建築史を創始した。
岸田 幾太郎(きしだ いくたろう、1867年11月19日〈慶… 岸田 幾太郎(きしだ いくたろう、1867年11月19日〈慶応3年10月24日〉 - 1908年〈明治41年〉9月14日)は、日本の実業家。 第100・101代内閣総理大臣の岸田文雄と元経済産業大臣の宮澤洋一は曽孫である。 1867年11月19日(慶応3年10月14日)、安芸国賀茂郡奥屋村(現:広島県東広島市志和町奥屋)に岸田忠次郎・さみ夫妻の長男として生まれる。岸田家は、幾太郎の曽祖父である岸田直五郎の代に「新出屋(あたらしや)」を屋号にして分家し、以来奥屋村で農業を営んだ。 1891年(明治24年)頃に農機具、種苗、呉服などを輸出し、輸出先の北海道から仕入れた海産物の販売業を始める。1894年(明治27年)に三宅直之助の四女・スミと結婚。
武内 作平(たけうち さくへい、1867年11月18日(慶応… 武内 作平(たけうち さくへい、1867年11月18日(慶応3年10月23日) - 1931年(昭和6年)11月8日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員、内閣法制局長官。 伊予国越智郡日吉村(現・今治市)に士族武内清治の長男として生まれる。関西法律学校(現・関西大学)、和仏法律学校(現・法政大学)、東京専門学校(現・早稲田大学)に学ぶ。1897年(明治30年)に弁護士試験に合格する。大阪北浜で弁護士事務所を開業し、大阪弁護士会長、大阪米穀取引所、大阪土地建物、日本冷蔵、阪堺電鉄などの役員を歴任する。1902年(明治35年)に衆議院議員に初当選。その後、海軍政務次官、大蔵政務次官、予算委員長を経て第2次若槻内閣では法制局長官を務める。
蘆田 慶治(あしだ けいじ、1867年11月18日(慶応3年… 蘆田 慶治(あしだ けいじ、1867年11月18日(慶応3年10月23日) - 1936年(昭和11年)8月18日)は、戦前日本のキリスト教神学者。 丹波国氷上郡鴨内村(現在の兵庫県丹波市氷上町鴨内)生まれ。幼時に家事の都合で京都に移り、京都府立中学校を卒業する。 1888年(明治21年)に大阪の南美以教会でJ.W.ランバスから洗礼を受け、翌年関西学院神学部に入学する。卒業後の1898年(明治31年)にアメリカへ渡り、ヴァンダービルト大学とイェール大学で学ぶ。1902年(明治35年)に帰国して関西学院神学部で教鞭をとったが、1909年(明治42年)に同志社神学校に移る。間もなく同志社から再び渡米してハーバード大学で研究を重ねる。
宮島 詠士(みやじま えいし、慶応3年10月20日(1867… 宮島 詠士(みやじま えいし、慶応3年10月20日(1867年11月15日) - 昭和18年(1943年)7月9日)は、明治から昭和前期にかけて活躍した能書家、教育家(中国語)。山形県米沢の出身。名は吉美、通称は大八(だいはち)、詠士は字で、号に詠而帰廬主人がある。 詠士は明治37年(1904年)に中国語の教科書『官話急就篇』を刊行し、中国語の私塾・善隣書院を創設して生涯その経営にあたるなど、戦前の中国語教育に大きな足跡を残した。また書家としても著名で、代表作『犬養公之碑』は日本書道史に異彩を放つ楷書碑として尊い。書の門弟に上條信山、藤本竹香がいる。 国立国会図書館 憲政資料室所蔵『宮島誠一郎関係文書』、早稲田大学図書館所蔵『宮島誠一郎文書』、神戸大学附属図書館所蔵『宮島家文書』には一部大八関係の資料が収められている。
阪本 三郎(さかもと さぶろう、1867年11月11日(慶応… 阪本 三郎(さかもと さぶろう、1867年11月11日(慶応3年10月16日) - 1931年(昭和6年)4月14日)は、日本の検察官、裁判官、内務官僚、教育者。憲政会系官選県知事、早稲田専門学校長。「坂本」と表記される場合がある。樋口一葉の婚約者(旧姓・渋谷)であったことで知られる。 武蔵国南多摩郡原町田村(後の町田村、現町田市)で旅籠武蔵屋を営む渋谷徳治郎の二男として生まれ、1892年8月、阪本タカの養子となる。祖父・真下専之丞(晩菘)の融貫塾、近在の小野路にある小島韶斎塾、藤沢の耕余塾で学ぶ。1888年7月、東京専門学校法学部を卒業。1890年12月、文官高等試験に合格。1891年1月22日、司法官試補に任じられ新潟地方裁判所詰となる。
中村 啓次郎(なかむら けいじろう、1867年11月10日〈… 中村 啓次郎(なかむら けいじろう、1867年11月10日〈慶応3年10月15日〉- 1937年〈昭和12年〉5月22日)は、日本の政治家、弁護士、実業家。衆議院議員、衆議院議長。銀行家巽孝之丞の実弟。また、小泉信三の祖父小泉文庫はいとこにあたる。 紀伊国和歌山山崎(現在の和歌山県和歌山市岩出町)に生まれる。英吉利法律学校を卒業。日清戦争において陸軍省雇員として大本営付となる。さらに占領地総督府民政部庶務課長兼司法課長に就任。1895年(明治28年)、遼東半島の還付後に台湾へ移り、弁護士を開業。台湾弁護士会会長、北港製糖・台湾瓦斯の各監査役、北海鉱業社長などを歴任し、『日刊台湾民報』を発刊した。
三田村 甚三郎(みたむら じんざぶろう、1867年11月7日… 三田村 甚三郎(みたむら じんざぶろう、1867年11月7日(慶応3年10月12日) - 1934年(昭和9年)2月13日)は、福井県武生市(現越前市)出身の日本の実業家、政治家。 越前打刃物の名産地として知られる越前市越前府中(現越前市あおば町)でも有数の打物問屋に長男・欽二として出生。明治29年、家督を相続し、甚三郎を襲名。福井県立福井中学校(現福井県立藤島高等学校)を経て、東京専門学校(現早稲田大学)に入学し政治学を学ぶ。 福井新聞、有限責任信用組合武生金庫(現武生信用金庫)、武岡軽便鉄道株式会社(福井鉄道南越線)を設立。 福井県会議員を歴任後、衆議院議員に二期当選(1898-1902、1930-32)18年間無報酬で武生町長を務める。
鈴木 喜三郎(すずき きさぶろう、1867年11月6日〈慶応… 鈴木 喜三郎(すずき きさぶろう、1867年11月6日〈慶応3年10月11日〉- 1940年〈昭和15年〉6月24日)は、日本の司法官僚、政治家。立憲政友会第7代総裁。旧姓は川島。鳩山和夫の長女カヅと結婚し、鳩山一郎は義弟にあたる。司法官僚から、貴族院議員、清浦奎吾内閣の司法大臣、田中義一内閣の内務大臣を歴任し、衆議院議員から再度貴族院議員となった。犬養毅暗殺後の立憲政友会第7代総裁(在任、昭和7 - 昭和12、1932年 - 1937年)を務めた。位階勲等は従二位勲一等。 慶応3年10月11日(1867年11月6日)、武蔵国橘樹郡大師河原村(後の神奈川県川崎市)の川島富右衛門の三男に生まれる。
高橋 作衛(たかはし さくえ、1867年11月5日(慶応3年… 高橋 作衛(たかはし さくえ、1867年11月5日(慶応3年10月10日)- 1920年(大正9年)9月12日)は、日本の法学者・政治家。専門は国際法。学位は、法学博士。東京帝国大学名誉教授。帝国学士院会員、貴族院議員、法制局長官。 信濃国高遠藩儒で、維新後に長野県立長野中学教諭となった高橋白山の長男として肥前国(長崎県)に生まれる。第一高等学校を経て、1894年9月、帝国大学法科大学政治学科を首席で卒業。海軍教授となり、日清戦争に際し常備艦隊司令長官付の幕僚(法律顧問)、さらに旅順口根拠地司令長官付(通訳)に異動。1895年5月、海軍大学校勤務となり1896年3月まで務めた。1897年9月から英仏独に留学。
島田 墨仙(しまだ ぼくせん、1867年11月4日(慶応3年… 島田 墨仙(しまだ ぼくせん、1867年11月4日(慶応3年10月9日) - 1943年(昭和18年)7月9日)は、明治から昭和初期に活躍した日本画家。橋本雅邦の弟子で、歴史画、特に歴史人物画に優品を残した。 越前国福井城下で、元福井藩士島田雪谷の次男として生まれる。父・雪谷、兄・島田雪湖 [Wikidata]も日本画家である。9歳頃から父から絵を学び始める。1882年(明治15年)頃、福井中学校(現在の福井県立藤島高等学校)に入学。しかし、1884年(明治17年)1月に稼ぎ頭の父を亡くすと、家計の事情から中学3年を修了した春に退学。自分は士族に生まれたからには軍人にならねばならぬと思い込んだ墨仙は、すぐに陸軍士官学校、陸軍教導団に志願するが、視力が合格の1.0に満たず不合格となる。
吾妻 勝剛(あづま かつたけ、1867年11月1日〈慶応3年… 吾妻 勝剛(あづま かつたけ、1867年11月1日〈慶応3年10月6日〉- 1923年〈大正12年〉9月1日)は、明治から大正時代の産婦人科医。 生家は出羽久保田藩医。1875年(明治8年)上京し普通学を修めたのち、1880年(明治13年)より同人社および独逸学校などに学び、1884年(明治17年)9月、大学予備門に入り、1890年(明治23年)9月に帝国大学医科大学に入学し、1893年(明治26年)11月、卒業した。卒業後、医科大学産科婦人科学教室助手となり、1898年(明治31年)2月には文部省の命によりドイツに留学する。帰朝後の1899年(明治32年)12月、京都帝国大学医科大学助教授となり、再度の留学を経て、1901年(明治34年)6月に帰朝した。
岩瀬 弥助(いわせ やすけ、旧字:岩瀨彌助。1867年11月… 岩瀬 弥助(いわせ やすけ、旧字:岩瀨彌助。1867年11月1日(慶応3年10月6日) - 1930年(昭和5年)1月3日)は、日本の実業家・慈善家。幼名は吉太郎。西尾鉄道初代社長を務めたほか、私財を投じて岩瀬文庫をも創設した。 三河国西尾城下の須田町(現・愛知県西尾市)にて、肥料商を営む岩瀬弥蔵の長男として生まれる。小学校を卒業すると家業を継いだ。1887年(明治20年)20歳の時に本家の猪代治が亡くなったため、本家の山本屋へ養子に入る。その際、猪代治の長女と結婚し、祖父の名を襲名して四代目弥助を名乗る。同年、旧西尾藩士・矢島貞廉(やじま ていれん)が中心となって結成した、法律、経済、社会問題について学ぶ「談話会」に入会し幹事となる。
竹中 彰元(たけなか しょうげん、慶應3年10月3日〈186… 竹中 彰元(たけなか しょうげん、慶應3年10月3日〈1867年10月29日〉 - 1945年(昭和20年)10月21日)は日本の僧。真宗大谷派(本山・東本願寺、京都市下京区)に属する、美濃国岩手村(現在の岐阜県垂井町)の明泉寺の寺族として生まれた。出生名は竹中 慈元であった。 1876年(明治9年)に数え9歳にして得度し、僧侶となった。以後、生まれた明泉寺の住職を務めた。1891年(明治24年)10月1日に井上円了が開いた哲学館(現在の東洋大学)に入学したが、半年後には中退している。1893年(明治26年)に大谷派の学階「擬得業」を授けられ、1895年(明治28年)に京都真宗大学専科(現在の大谷大学)に入学した。
高柳 覚太郎(たかやなぎ かくたろう、慶応3年10月3日(1… 高柳 覚太郎(たかやなぎ かくたろう、慶応3年10月3日(1867年10月29日) - 昭和12年(1937年)12月21日)は、衆議院議員(憲政本党→立憲国民党→革新倶楽部)、浜松市長。 遠江国敷知郡北庄内村(現在の静岡県浜松市中央区)に、高柳源四郎の長男として生まれる。1890年(明治23年)、東京法学院(現在の中央大学)を卒業し、代言人の免許を受け、浜松市で弁護士として活動した。 県会議員を経て、1908年(明治41年)の第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、当選回数は4回を数えた。また浜松市会議員、市参事会員としても活動した。 1933年(昭和8年)、浜松市長に選ばれ、翌年まで務めた。
井上 密(いのうえ ひそか、慶応3年10月2日〈1867年1… 井上 密(いのうえ ひそか、慶応3年10月2日〈1867年10月28日〉 - 大正5年〈1916年〉9月13日)は、日本の憲法学者、政治家。京都帝国大学教授、京都帝国大学法科大学長。第4代京都市長。位階勲等は従四位勲三等。 安房国長狭郡下小原村の富坂家に生まれる。後に大多喜村の旧大多喜藩藩士・井上義行の養子となった。独逸学校(獨逸学協会学校とは別)、第一高等中学校、帝国大学法科大学出身。 京都帝国大学法科大学国法学講座教授、法科大学長(1909年)、京都法政学校教頭、財団法人立命館初代協議員を歴任。第4代京都市長(在任期間は1913年(大正2年)3月31日 - 1916年(大正5年)7月19日)。
中山 巳代蔵(なかやま みよぞう、1867年10月27日(慶… 中山 巳代蔵(なかやま みよぞう、1867年10月27日(慶応3年10月1日) - 1921年(大正10年))は、日本の内務官僚、実業家。官選栃木県知事。 備前国邑久郡、のちの岡山県邑久郡豊原村(現瀬戸内市)出身。中山壮左衛門の長男として生まれる。第一高等学校を卒業。1894年、帝国大学法科大学を卒業。1895年、内務省に入省し土木局属となる。1906年12月、文官高等試験行政科試験に合格した。以後、長崎県参事官、土木監督署事務官兼内務事務官、内務書記官、京都府事務官などを歴任。 1906年12月、栃木県知事に就任。谷中村在留民の強制立ち退き、渡良瀬川改修を推進した。1911年8月、知事を休職となった。
山本 熊吉(やまもと くまきち、慶応3年10月1日(1867… 山本 熊吉(やまもと くまきち、慶応3年10月1日(1867年10月27日) - 大正10年(1921年)2月2日)は、日本の漢詩人、政治家。鳥取県西伯郡境町長(3代)。鳥取県会議員(議長)、郡会議員、町会議員。号碧湾。 境町長(17代)山本亮の父。 川店(かわみせ)と号する資産家の出身。 明治32年(1899年)7月境町長となる。 病気のため明治33年(1900年)4月町長を辞任したが、同年花町に伝染病院を建設した。更にこの年宿願の鉄道敷設工事着工に伴い、県営の荷揚場拡張工事に着手した。 明治36年(1903年)この荷揚場工事の完成と朝鮮貿易を目的として設立された境貿易株式会社への補助金確保のため。
平沼 騏一郎(ひらぬま きいちろう、1867年10月25日〈… 平沼 騏一郎(ひらぬま きいちろう、1867年10月25日〈慶応3年9月28日〉- 1952年〈昭和27年〉8月22日)は、日本の司法官僚、政治家。位階勲等爵位は正二位勲一等男爵。学位は法学博士。号は機外。 大審院検事局検事総長(第8代)、大審院長(第11代)、日本大学総長(第2代)、大東文化学院総長(初代)、財団法人大東文化協会会頭(第3代)、司法大臣(第26代)、貴族院議員、枢密院副議長(第11代)、枢密院議長(第17・21代)、内閣総理大臣(第35代)、国務大臣、内務大臣(第62代)を歴任。 美作国津山藩士平沼家に生まれる。東京帝国大学法科卒業後、明治21年から司法省に入省し、東京控訴院検事に補せられて以降、検事畑を進み、1905年(明治38年)には大審院検事、1906年(同39年)には司法省民刑局長に就任した。
近藤 会次郎(こんどう かいじろう、1866年11月20日(… 近藤 会次郎(こんどう かいじろう、1866年11月20日(慶応2年10月14日) - 1920年(大正9年)7月5日)は日本の技術者、経営者。浅野石油技師長。次男はピアニストの近藤柏次郎。 浅野財閥の石油事業に携わり、米国の石油技術を日本に導入した人物である。 1866年11月20日(慶応2年10月14日)に岐阜県安八郡仁木村藻池新田(現:輪之内町藻池新田)で古くからの農家の家に生まれた。1880年(明治13年)4月8日に岐阜県で最高学府だった華陽農学校に入学し、1883年(明治16年)7月13日に卒業すると、そこで助教諭として務めたが、半年後に辞職した。上京して共立英学校で数ヶ月学んでから、予備門(旧制第一高等学校)の入学試験に合格し入学し、1889年(明治22年)7月に卒業した。
内田 嘉吉(うちだ かきち、1866年11月18日〈慶応2年… 内田 嘉吉(うちだ かきち、1866年11月18日〈慶応2年10月12日〉- 1933年〈昭和8年〉1月3日)は、日本の逓信官僚、政治家。位階は正三位、勲等は勲一等。 逓信省管船局長、台湾総督府民政長官、逓信次官、台湾総督(第9代)、貴族院議員などをつとめた。 東京出身。内田正八の長男として生まれる。岡山中学、第一高等学校を経て、1891年(明治24年)7月、帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。同年7月、司法官試補、翌月、逓信省試補となり逓信省に入る。逓信事務官、逓信書記官(兼務)、船舶司検所司検官兼逓信省参事官、逓信大臣秘書官、官房秘書課長、人事課長(兼務)、高等海員審判所所長などを歴任。
石原 久(いしはら ひさし、1866年11月18日(慶應2年… 石原 久(いしはら ひさし、1866年11月18日(慶應2年10月12日) - 1941年(昭和16年)6月19日)は明治〜昭和期の医学博士、口腔外科医・歯科医。東京帝国大学教授、医科大学における日本で最初の「歯科」教室の創始者。 石原久は1866年(慶應2年)に武蔵国川越藩典医筆頭の石原昌迪(いしはら まさみち)の次男として生まれた。東京帝国大学医学部歯科学講座教授、医術開業試験委員、日本口腔科学会の前身である日本歯科口腔科学会初代会長を歴任した。
上野 金太郎(うえの きんたろう、1866年11月15日〈慶… 上野 金太郎(うえの きんたろう、1866年11月15日〈慶応2年10月9日〉 - 1936年〈昭和11年〉6月4日)は、日本の薬学者、薬学博士、東京薬学専門学校理事兼校長、資産家、実業家。大日本麦酒顧問。族籍は東京府士族。 東京府士族・上野銈三郎の三男。小石川久堅町(現・東京都文京区)生まれ。1883年、家督を相続した。 第一高等中学校を経て1891年7月、帝国大学医科大学薬学科を卒業、薬学士の称号を得た。日本麦酒会社に入り技師となり1906年、技師長に進んだ。同社解散に伴い大日本麦酒目黒工場長に就任した。1908年、薬学博士の学位を取得。 1917年、取締役に挙げられ転じて1925年、監査役となる。
小田桐 政信(おだぎり まさのぶ、慶応2年10月5日〈186… 小田桐 政信(おだぎり まさのぶ、慶応2年10月5日〈1866年11月11日〉 - 1945年〈昭和20年〉5月)は、明治から昭和時代戦前の実業家、政治家。青森市会議長。 青森県士族の小田桐伊三郎の長男として生まれ、1897年(明治30年)家督を継ぐ。青森県立弘前中学校(現・青森県立弘前高等学校)を卒業し、1895年(明治28年)青森警察署に出仕する。 青森製材製柾社長、青森製氷・函館運送社・青森運送合同・運送相互保証各取締役、青森薪炭監査役などを歴任し、のち推挙され青森市参事会員となる。ほか、1941年(昭和16年)8月に青森県会議員に当選した。のち青森市会議長在任中に死去した。
藤井 健次郎(ふじい けんじろう、1866年11月11日〈慶… 藤井 健次郎(ふじい けんじろう、1866年11月11日〈慶応2年10月5日〉 - 1952年〈昭和27年〉1月11日)は、日本の植物学者、遺伝学者。理学博士、東京帝国大学名誉教授。文化勲章受章。 1866年、加賀国金沢で[要出典]、加賀藩士の家に生まれる。幼くして両親を亡くし、叔母に育てられる。 1892年(明治25年)、東京帝国大学理科大学生物学科卒業。卒業後、同大学助手、助教授として植物学教室で研究と学生の指導を継続。 藤井は中等教育教科書の編纂に注力する一方で、長らく学位論文を提出せず、学位は論文提出ではなく、総長推薦によって授与された。 1901年から帝政ドイツ、英国に留学、植物形態学、細胞学、化石学などを学び帰国。
木村 駿吉(きむら しゅんきち、1866年11月8日(慶応2… 木村 駿吉(きむら しゅんきち、1866年11月8日(慶応2年10月2日) - 1938年10月6日)は、明治から昭和期の物理学者、工学者、教育者。日本海軍の軍属(技師)、特許弁理士のほか、第一高等中学校(現・東京大学)教授、立教学校(現・立教大学)教頭、第二高等学校(現・東北大学)教授、海軍大学校教授を歴任。海軍技師として、日露戦争の勝利に貢献した三六式無線電信機を開発したことでも知られる。 幕臣・木村摂津守喜毅(木村芥舟)の三男として江戸(芝 新浅座、現在の港区浜松町1丁目あたり)で生まれた。父・芥舟は、江戸幕府の海軍伝習所取締として日本の海軍創設に関わり、日本への西洋の科学技術導入の黎明期で活躍し、軍艦奉行として咸臨丸を指揮し、日本人による初の太平洋往復の渡航を成功させた人物である。
鳥居 鍗次郎(とりい ていじろう、慶応3年9月28日(186… 鳥居 鍗次郎(とりい ていじろう、慶応3年9月28日(1866年11月5日) - 大正8年(1919年)5月25日)は、衆議院議員(立憲同志会→憲政会)、弁護士。 越後国岩船郡村上本町(現在の新潟県村上市)出身。1888年(明治21年)、英吉利法律学校(現在の中央大学)出身。ついで代言人試験に合格し、弁護士を開業した。1898年(明治31年)、大阪区裁判所検事に転じ、翌年には大阪地方裁判所検事を務めるも、1900年(明治33年)に辞職して、再び新潟市で弁護士業務に従事し、新潟市弁護士会長も務めた。 新潟県会議員、新潟市参事会員を経て、1915年の第12回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第2次大隈内閣で内務副参政官を務めた。
松井 茂(まつい しげる、1866年11月4日(慶応2年9月… 松井 茂(まつい しげる、1866年11月4日(慶応2年9月27日) - 1945年(昭和20年)9月9日)は、日本の内務官僚、政治家。法学博士。族籍は東京士族。 1866年11月(慶応2年9月)、広島県広島市猿楽町(のち広島市中区大手町)生まれ。有隣の長男。広島尋常中学(広島国泰寺高等学校の前身)で、柴野登一(中村是公)、玉井喜作らと同級。1880年父親の転勤で丸亀に移り、翌1881年上京。獨逸学協会学校(現・獨協中学校・高等学校)、東京大学予備門(第一高等学校)を経て1893年東京帝国大学法科大学独法科卒業、引き続き法科大学研究科で警察法を研究。 日清戦争直前の1893年内務省入省。警視庁四谷警察署長を振り出しに香川県警察部長、警保局警務課長、警視庁第二部長兼任内務書記官、兼任消防署長(のちの消防総監)などを経て1905年、警視庁第一部長となり日比谷焼打事件の鎮圧指揮にあたった。
御手洗 忠孝(みたらい ただたか、慶応2年9月27日(186… 御手洗 忠孝(みたらい ただたか、慶応2年9月27日(1866年11月4日) - 1940年(昭和15年)2月11日)は、明治から昭和時代前期の政治家、実業家。愛媛新報社長。県会議員。愛媛県松山市長、温泉郡道後湯之町町長。立憲同志会、憲政会の中心人物。 松山城下西町で松山藩士の家に生まれる。若くして医学を志し上京するが、病により帰郷し、1890年(明治23年)愛媛新報社に入り記者となり、不迷と号した。 1891年(明治24年)松山市会議員を経て、1896年(明治29年)松山市長・白川福儀の懇請により助役に就任し、1900年(明治33年)まで務めた。助役を退くと、愛媛新報社に戻り、主筆として言論活動を続ける。
屋部 憲通(やぶ けんつう、1866年10月31日(尚泰王1… 屋部 憲通(やぶ けんつう、1866年10月31日(尚泰王19年9月23日) - 1937年(昭和12年)8月27日)は、戦前活躍した沖縄県の唐手家で陸軍軍人。最終階級は陸軍中尉。松村宗棍に師事した首里手の大家で松茂良興作、糸洲安恒にも師事した。 1866年(尚泰19年、慶応2年)、屋部憲通は首里山川村(ヤマガー)(現・那覇市首里山川町)に生まれた。隣家が松村宗棍宅であり幼少の頃から松村に唐手を師事した。屋部は松村死去後は同門で兄弟子の糸洲安恒の門下となった。屋部は他にも本部朝勇、本部朝基とともに泊手の松茂良興作に師事し変手を磨いた。 1890年(明治23年)、屋部は沖縄県立第一中学校(現・沖縄県立首里高等学校)を中退して陸軍教導団に志願入団した。
野坂 吉五郎( 慶応2年9月21日(1866年10月29日)… 野坂 吉五郎( 慶応2年9月21日(1866年10月29日) - 没年不明)は日本の実業家、政治家。元中国興業銀行常務取締役。元中国貯蓄銀行取締役。元米子町会議員、郡会議員。自治功労者。地主。 元衆議院議員野坂茂三郎の弟。元米子市長野坂寛治の叔父。洋食のレストラン“十字屋”経営主で米子市会議員を務めた野坂康久の養父。米子市長野坂康夫は曾孫にあたる。 伯耆国米子法勝寺町(現鳥取県米子市法勝寺町)の商家に生まれた。屋号は油屋。野坂與八郎の五男。 明治14年(1881年)家督を相続す。 大正2年(1913年)9月、町会議員(一級)に当選。 大正4年(1915年)9月30日 - 大正8年(1919年)9月29日、郡会議員。
杉山 義雄(すぎやま よしお 1866年10月26日(慶応2… 杉山 義雄(すぎやま よしお 1866年10月26日(慶応2年9月18日) - 1933年(昭和8年)4月8日)は、日本の実業家。 1866年、遠江国(静岡県)に出生。 明治法律学校(現明治大学)を卒業。 1920-1932年の長期に亘り、秀英舎(大日本印刷)社長を務めた。 社外に於いては、東京商工会議所副会頭や、東京印刷同業組合組長などの他、日本耐火工業や日本エッチビー特許製版の取締役、東台銀行、武田割引銀行、日本開墾の監査役などを務めた。 また、昭和女子薬学専門学校(現昭和薬科大学)の設立に参画し、理事長に就任した。 1933年4月8日、死去。68歳。
太田 覚眠(おおた かくみん、1866年10月24日(慶応2… 太田 覚眠(おおた かくみん、1866年10月24日(慶応2年9月16日) - 1944年(昭和19年)11月30日)は、明治時代から昭和時代(戦前期)の僧。伊勢国(三重県四日市市)出身。東京外国語学校(現在の東京外国語大学)卒業。 浄土真宗本願寺派法泉寺(四日市市京町に建立)の16世僧侶。その生涯をロシアと蒙古(モンゴル)での布教活動に捧げた近代の傑僧である。 日露戦争前年の1903年(明治36年)、開教使としてロシアのウラジオストクの浦潮本願寺に駐在となる。開戦直前の1904年(明治37年)2月、渡航していた多くの日本人に日本政府からの引揚げ命令が出され、各地に赴任していた人がウラジオストクに集結した。
福田 英子(ふくだ ひでこ、慶応元年10月5日(1865年1… 福田 英子(ふくだ ひでこ、慶応元年10月5日(1865年11月22日) - 昭和2年(1927年)5月2日)は、江戸時代末期(幕末)から昭和初期にかけての社会運動家。婦人解放運動のさきがけとして知られ、「東洋のジャンヌ・ダルク」と称された。旧姓は景山。
竹越 與三郎(たけこし よさぶろう、慶応元年10月5日(18… 竹越 與三郎(たけこし よさぶろう、慶応元年10月5日(1865年11月22日) - 昭和25年(1950年)1月12日)は、日本の明治から戦前昭和にかけての歴史家・思想史家・殖民学者・政治家。衆議院議員・枢密顧問官・貴族院勅選議員・宮内省臨時帝室編修局御用掛、同編修官長などを歴任し、戦後に公職追放指定を受け、一切の職を辞任。位階は正三位、勲等は勲一等。号は三叉(さんさ)。 明治・大正・戦前昭和の3つの時代に渡り言論界をリード。日刊雑誌『世界之日本』主筆を皮切りに、「世界の日本乎、亞細亞の日本乎」 を以て自由帝国主義に根差した独自の文明史観で多くの著述を行った。またイギリスのホイッグ史観の代表的歴史家のトーマス・マコーリーに影響を受け「新日本史」と「二千五百年史」を著述した竹越は「日本のマコウレー」と言われた。