小野 耕一(おの こういち、1882年(明治15年)6月24… 小野 耕一(おの こういち、1882年(明治15年)6月24日 - 1962年(昭和37年)9月10日)は、大正から昭和時代の政治家。実業家。貴族院多額納税者議員。 東京府麹町区飯田町三丁目(現東京都千代田区飯田橋)出身。小野金六の長男として生まれ、1923年(大正12年)3月に家督を相続する。東京外国語学校を修了し、1907年(明治40年)フランスへ留学する。 東京割引銀行頭取、日本煉炭、東洋製罐、松菱殖産、内外食品、東洋鋼鈑各社長、富士製紙、中央ゴム工業、北海道電灯、富士身延鉄道、秋田電気、小武川電力、王子電気軌道、京浜電力各取締役、富士山麓土地、富士山麓電気鉄道各監査役を歴任した。ほか、帝国水産会特別議員、大日本水産会理事、国家総動員審議会委員などを務めた。
野村 泊月(のむら はくげつ 1882年6月23日 - 19… 野村 泊月(のむら はくげつ 1882年6月23日 - 1961年2月13日)は、兵庫県出身の俳人。本名勇。 竹田村(現丹波市)生。酒造家西山騰三の次男で兄は西山泊雲。1897年、早稲田大学英文科卒。同年結婚して野村姓となる。中国の杭州で教職についたが、病により帰国し、1910年より大阪九条で日英学館を経営した。在学中より高浜虚子に師事。兄泊雲とともに丹波二泊と呼ばれた。1922年、田村木国、皆吉爽雨と「山茶花」を創刊、雑詠選者。1936年、「山茶花」を辞し「桐の葉」を創刊・主宰。豪放磊落な性格で酒豪であった。 「ホトトギス」停滞期の作家で、三村純也は「虚子の提唱を忠実に守りぬき、平明な写生句が実を結ぶ先駆けをなした」としている(『現代俳句大事典』)。
高木 繁(たかぎ しげる、1881年7月20日 - 1946… 高木 繁(たかぎ しげる、1881年7月20日 - 1946年11月27日)は、明治-昭和時代前期の日本の医学者。泌尿器科学における日本のパイオニア。九州帝国大学医学部泌尿器科を設立し、初代教授となる。1933年皆見省吾と雑誌「皮膚と泌尿」を創刊。皮膚疾患治療剤グリテールを開発した。また、江戸末期の浮世絵師、歌川国芳に注目し、その作品を収集。息子である高木健太郎が繁の遺志を継ぎ、健太郎の妻の節子が平成12年に「高木繁浮世絵コレクション」として約530点を名古屋市博物館に寄贈。『名古屋市博物館資料図版目録二』に全作品が掲載されている。 下山順一郎(日本最初の薬学博士、東京大学教授、私立薬学校:現東京薬科大学の創立者、初代校長)と母志満の長男として、東京都神田区新石町に生まれる。
岡村 金蔵(おかむら きんぞう、1881年7月17日 - 没… 岡村 金蔵(おかむら きんぞう、1881年7月17日 - 没年不明)は、日本の工学者。 オイルシェール(油母頁岩)から含有される石油を採取する方法を発明した。この発明を実施しつつあった南満洲鉄道株式会社撫順炭鉱の1938年の生産量は、粗油14万5千トン(重油8万5百トン)に達した。1939年の日本の十大発明家の1人に選出されている。 1906年に京都帝国大学理工科大学電気工学科を卒業した。その後、八幡製鉄所に入る。1910年に京都市技師を経て、1913年に南満洲鉄道株式会社に入る。1928年に撫順炭鉱臨時製油工場建設事務所長となり、同社の研究所長、化学課長を歴任した。1934年に退社した。
松山 茂(まつやま しげる、明治14年〈1881年〉7月14… 松山 茂(まつやま しげる、明治14年〈1881年〉7月14日 - 昭和12年〈1937年〉12月29日)は、大正・昭和期の日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。長崎・平戸出身。 旧平戸藩士・松山雲八の五男。私立尋常中学猶興館より海軍兵学校に入学。海兵30期を187名中74位で卒業。30期の首席は百武源吾大将。同期8名の中将の中では156位の重岡信治郎中将、99位の湯地秀生中将に次ぐハンモックナンバー下位のスタート。「松島」での遠洋航海を終えて「磐手」乗組が初任地。日露戦争をそのまま「磐手」のクルーとして経験し、蔚山沖海戦・日本海海戦に参加。蔚山沖海戦後の明治38年(1905年)1月12日、中尉に進級している。
細田 忠治郎(ほそだ ちゅうじろう、1881年7月14日 -… 細田 忠治郎(ほそだ ちゅうじろう、1881年7月14日 - 1968年6月10日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 兵庫県多可郡松井庄村(現・多可町)生まれ。1907年、早稲田大学商科卒。農業の傍ら、松井庄村議、多可郡議、同参事会員、兵庫県参事会員となる。また、松井庄商事(株)専務理事、多可郡工業会長、兵庫県播州織工業組合、工業組合中央会、商工組合中央会各理事、兵庫県織物組合連合会、同県織物統制組合各理事長を歴任した。 1923年9月25日の兵庫県会議員選挙に多可郡選挙区から立候補して、当選した。しかし、1924年4月11日に失職した。その後、1927年9月25日に返り咲いた。1931年、1935年、1939年の選挙にも当選した。
村瀬 玄(むらせ げん、1881年(明治14年)7月12日 … 村瀬 玄(むらせ げん、1881年(明治14年)7月12日 - 1963年(昭和38年)5月6日)は、日本の会計学者。元東京商科大学(現・一橋大学)附属商学専門部教授。日本会計学会発起人。 愛知県出身。1899年愛知県名古屋商業学校(現・名古屋市立名古屋商業高等学校)卒業、同校嘱託教員。1903年東京高等商業学校(現・一橋大学)附属商業教員養成所卒業。1923年ペンシルベニア大学ウォートン・スクール卒業、MBA(経営学修士)。 熊本県立商業学校(現・熊本県立熊本商業高等学校)教諭時代の教え子に、のちに同僚になる堀潮がいた。小倉市立小倉商業学校(現・福岡県立小倉商業高等学校)校長を経て、小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)教授在任中、1921年から1924年までイギリス、アメリカ合衆国、ドイツ帝国に留学。
松岡 映丘(まつおか えいきゅう、1881年(明治14年)7… 松岡 映丘(まつおか えいきゅう、1881年(明治14年)7月9日 - 1938年(昭和13年)3月2日)は、大正・昭和初期にかけて活動した日本画家。本名は輝夫。 播磨北部の神東郡田原村辻川(現在の兵庫県神崎郡福崎町辻川)の旧家・松岡家に産まれた。父は松岡操。兄には医師の松岡鼎、医師で歌人・国文学者の井上通泰(松岡泰蔵)、民俗学者の柳田國男、海軍軍人で民族学者、言語学者の松岡静雄がおり、映丘は末子にあたる。他に3人の兄がいたが夭折し、成人したのは映丘を含め5人で、これが世にいう「松岡五兄弟」である。 幼少時に長兄の鼎に引き取られ、利根川べりの下総中部の布川町(現在の茨城県北相馬郡利根町)に移った。
綾浪 源鋭(あやなみ げんえい、1881年7月6日 - 19… 綾浪 源鋭(あやなみ げんえい、1881年7月6日 - 1927年10月27日)は、現在の青森県青森市出身で追手風部屋に所属した力士。本名は一戸 源逸。8代湊川。179cm、101kg。最高位は東関脇。 6代高砂の遺弟子。1900年5月序ノ口、1909年1月十両昇進、1910年1月新入幕。幕下時代に日露戦争に従軍し、金鵄勲章功六級と勲八等白色桐葉章を授与された。後に土俵入りで化粧廻しに勲章をつけて人気を博した。1911年2月に横綱梅ヶ谷と引き分け、1912年5月関脇昇進。1915年5月には新鋭栃木山を破っているが1916年1月引退し、8代湊川を襲名。湊川部屋を再興し、綾錦や楢錦を育てた。 二所ノ関部屋を率いた玉錦が若い頃に酒で暴れて立場を悪くした時、綾浪は親身になって玉錦を庇って救った。
須藤 新吉(すどう しんきち、1881年〈明治14年〉7月4… 須藤 新吉(すどう しんきち、1881年〈明治14年〉7月4日 - 1961年〈昭和36年〉12月21日)は、日本の哲学者、論理学者、心理学者。第一高等学校名誉教授。 新潟県中蒲原郡能登村(現 新潟市南区能登)出身。1901年(明治34年)3月に新潟中学校を卒業、1905年(明治38年)7月に第三高等学校を卒業、1908年(明治41年)7月に東京帝国大学文科大学哲学科(心理学専修)を卒業。 1908年(明治41年)10月から1910年(明治43年)7月まで、浦和中学校に嘱託教師として勤務。1909年(明治42年)9月から1914年(大正3年)7月まで、東京帝国大学文科大学大学院で心理学を研究(「リズムノ生理心理的研究」)。
張 忠一(ちょう ただかず、1881年7月3日 - 没年不詳… 張 忠一(ちょう ただかず、1881年7月3日 - 没年不詳)は、日本の鉄道技術者。 山口県士族張至誠の長男として生まれる。1901年福岡県立中学修猷館を経て、1908年7月東京帝国大学工科大学応用化学科を卒業。 四日市製紙、富士製紙などに勤務した後、1912年鉄道院の技手となり、鉄道技師に進み、鉄道大臣官房研究所兼経理局第二課勤務を経て、1929年鉄道大臣官房研究所第一科長に就任。1935年5月退官する。
溝部 洋六(みぞべ ようろく、1881年(明治14年)6月2… 溝部 洋六(みぞべ ようろく、1881年(明治14年)6月27日 - 1919年(大正8年)11月6日)は、大日本帝国海軍の軍人。最終階級は海軍大佐。大分市出身。 溝部竹太郎(三男、四女)の長男として、府内城下中上市町(現大分市中央町)に生まれる。1894年(明治27年)大分県尋常中学校入学。四年の課程を終え、五年次の8月に海軍兵学校を受験し合格。入校時成績順位は137名中第5位。1898年(明治31年)12月海軍兵学校入校(第29期)。卒業時成績順位は125名中第1位(首席、望遠鏡を下賜さる)。1913年(大正2年)海軍大学校(甲種13期)に入校し首席卒業、恩賜の長剣を拝受する。 資性闊達にして明敏、帝国海軍きっての逸材であり将来は将官と期待されたが、戦艦伊勢にて大演習中に病に罹り、38歳の働き盛りで病没。
小穴 喜一(おあな きいち、1881年〈明治14年〉6月26… 小穴 喜一(おあな きいち、1881年〈明治14年〉6月26日 - 1953年〈昭和28年〉6月18日)は、日本の弁護士。書家。号は雨堂。1907年に弁護士登録してから約46年にわたり弁護士として活動した。 1881年(明治14年)6月26日、長野県南安曇郡温村楡(現在の安曇野市三郷温)に小穴善平とちよの二男として生まれた[要出典]。小穴家は、貞享騒動に加担して処刑された小穴善兵衛の末裔家である。 若くして、松本の弁護士界の重鎮であり親戚筋でもある森山儀文治の書生となる[要出典]。 1901年(明治34年)9月、森山儀文治の支援により上京して明治法律学校(明治大学の前身校の一つ)に入学する。1904年(明治37年)7月、明治大学法科(1903年3月専門学校令に基づき明治法律学校から名称変更)を卒業した。
山本 忠興(やまもと ただおき、1881年(明治14年)6月… 山本 忠興(やまもと ただおき、1881年(明治14年)6月25日 - 1951年(昭和26年)4月21日)は、日本の電気工学者、発明家、教育者。 高知県香美郡岩村(現南国市金地)出身。政治家山本忠秀の長男として生まれるが、母親の山本さがは入籍前に死去したため、忠秀の養子として育てられる。 1893年(明治26年)高知県尋常中学校進学、野球やボートなどスポーツに取り組み、英語や体操は得意だったが、数学や図画は不得意だった。1898年(明治31年)同校を首席で卒業し上京、1899年(明治32年)9月第一高等学校入学、剣道や野球、ボートの選手として活躍する。1902年(明治35年)9月東京帝国大学工科大学電気工学科入学、在学中に植村正久の指導でキリスト教に入信。1905年(明治38年)同大学を卒業、芝浦製作所(現東芝)に入所。
岡本 実太郎(おかもと じつたろう、明治14年(1881年)… 岡本 実太郎(おかもと じつたろう、明治14年(1881年)6月25日 - 昭和27年(1952年)4月30日)は日本の官僚、政治家、弁護士。 愛知県西加茂郡猿投村(現豊田市)出身。明治法律学校を卒業し第10回高等文官試験に合格し、1904年に大蔵省入省。 司法官試補、専売局事務官、広島専売局長などを歴任し、1920年退官。 弁護士としては、日本弁護士連合会理事、税務弁理士会監事(民政・愛知)などを務めた。 1924年の第15回衆議院議員総選挙で当選(以後、第16回・第17回・第19回・第20回・第22回と計6回当選)。立憲政友会政務調査会長や立憲民政党総務、農林参与官などを歴任した。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
後藤 幸三(ごとう こうぞう、1881年〈明治14年〉6月2… 後藤 幸三(ごとう こうぞう、1881年〈明治14年〉6月22日 - 1977年〈昭和52年〉7月9日)は、大正・昭和期に愛知県名古屋市を拠点に活動した実業家である。株式相場で財を成した後藤安太郎の長男で、日本車輌製造社長や中央製作所社長をはじめ多数の会社役員を務めた。 美術品収集家でもあり、死後の1978年(昭和53年)になって自邸跡に美術品を一般公開する「昭和美術館」が開館した。 1881年(明治14年)6月22日、岐阜県海津郡今尾町(現・海津市)出身。後藤安太郎の長男として生まれた。後藤は1904年(明治37年)7月に京都の第三高等学校を卒業し、1908年(明治41年)7月に東京帝国大学法科大学政治学科を卒業した。
牧野 一成(まきの かずしげ、1880年(明治13年)7月2… 牧野 一成(まきの かずしげ、1880年(明治13年)7月22日 - 1958年(昭和33年)9月25日)は、大正から昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。 旧丹後田辺藩主・牧野弼成の長男として生まれる。父の隠居に伴い、1916年2月21日、子爵を襲爵した。 学習院高等科を経て、同大学科を修了。1915年、大礼使典儀官を務めた。 1921年2月、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し、1932年7月まで2期在任した。
深沢 友彦(ふかざわ ともひこ、1880年(明治13年)7月… 深沢 友彦(ふかざわ ともひこ、1880年(明治13年)7月20日 - 1970年(昭和45年)8月27日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。第10代八王子市長を務めた。 細川家の家臣である深澤家の長男として熊本県熊本区藪内町(現熊本市中央区上通町)に生まれる。熊本県立済々黌中学校を卒業後、1900年(明治33年)に陸軍士官学校(12期)卒業。1901年(明治34年)6月25日、陸軍歩兵少尉に任官。シベリア出兵では1924年(大正13年)10月にサガレン州派遣軍歩兵第一大隊長となる。 その後、熊本陸軍幼年学校長、熊本陸軍教導学校長、歩兵第45連隊長などを経て、1930年(昭和5年)12月、陸軍少将に進み歩兵第33旅団長に就任。
大堀 孝(おおほり たかし、1880年(明治13年)7月20… 大堀 孝(おおほり たかし、1880年(明治13年)7月20日 - 1947年(昭和22年)2月3日)は、日本の衆議院議員(立憲国民党→純正国民党)。 和歌山県和歌山市出身。1900年(明治33年)、東京法学院(現在の中央大学)を卒業。翌年、紀州日報社を創刊して社長兼記者となったが、1903年(明治36年)に廃刊となり、政界入りを志すようになった。1909年(明治42年)、和歌山市会議員に選ばれ、副議長となった。 1915年(大正4年)、立憲国民党から第12回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した。第13回衆議院議員総選挙でも再選を果たしたが、普通選挙を主張し、党議に敗れて離党した。
熊谷 岱蔵(くまがい たいぞう、1880年(明治13年)7月… 熊谷 岱蔵(くまがい たいぞう、1880年(明治13年)7月19日 - 1962年(昭和37年)2月19日)は、内科学者、医学博士。東北帝国大学医科大学(後の東北大学医学部)教授、東北帝国大学総長。抗酸菌病研究所初代所長。興亜工業大学顧問を兼任した。 長野県東筑摩郡洗馬村(現:塩尻市)の代々医家の熊谷家に生まれる。熊谷陸蔵の長男。曾祖父には浅田宗伯に医学の薫陶を施した熊谷珪碩がいる。旧制松本中学時代の同級生には吉江喬松がいた。東京外国語学校ドイツ語科に一年間通った後、一高、東京帝国大学医学部卒業後、青山胤通の内科学教室に入局。 1911年(明治44年)から1913年(大正2年)までドイツのベルリン大学・ブレスラウ大学に留学し内科学、免疫学、実験治療、医化学等を学ぶ。
古木 章光(ふるき あきみつ、1880年(明治13年)7月1… 古木 章光(ふるき あきみつ、1880年(明治13年)7月18日 - 没年不詳)は、台湾総督府官僚。 原籍は静岡県。学習院高等科を経て、1909年(明治42年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業した。台湾総督府財務局、殖産局に勤務し、財務局打狗出張所長、財務局金融課長、財務局税務課長を歴任した。 1924年(大正13年)、新竹州知事に就任し、1927年(昭和2年)に退官した。
小峰 満男(おみね みつお、1880年〈明治13年〉7月18… 小峰 満男(おみね みつお、1880年〈明治13年〉7月18日 - 1935年〈昭和10年〉10月3日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。旧姓・島村。 茨城県東茨城郡水戸上市備前町(現水戸市)で島村新一の三男として生まれ、多賀郡松原町の酒造業・小峰くりの入夫となり家督を相続した。 1907年(明治40年)明治大学法律経済科、翌年同大学の高等研究科を卒業。松原町議、多賀郡会議員、茨城県会議員となる。また高萩運送、常盤商事、茨城無煙炭礦、水戸ツウリング自動車各(株)取締役社長、多賀製塩所、多賀銀行、多賀電気、久慈川電気工業、東部電力、茨城電力、小里川電気、茨城醤油各(株)取締役を務める。 1928年(昭和3年)第16回衆議院議員総選挙において茨城2区から立憲民政党公認で立候補してトップ当選し1930年(昭和5年)第17回総選挙で再選し、衆議院議員を2期務めた。
石垣 倉治(いしがき くらじ、1880年〈明治13年〉7月1… 石垣 倉治(いしがき くらじ、1880年〈明治13年〉7月16日 - 1942年〈昭和17年〉4月7日)は、日本の内務・警察官僚。官選長野県知事、長野市長。 山形県北村山郡小田島村(現・東根市)出身。石垣吉蔵の三男として生まれる。第二高等学校を卒業。1910年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し警視庁警部となる。 以後、警視庁警視、南元町警察署長、原庭警察署長、神奈川県警視、福島県警察部長、同県産業部長、香川県警察部長、鹿児島県書記官・内務部長、青森県書記官・内務部長などを歴任し、1929年、長野県書記官・内務部長に就任。 1931年8月、長野県知事に昇格。
雑賀 信三郎(雜賀、さいか しんざぶろう / のぶさぶろう、… 雑賀 信三郎(雜賀、さいか しんざぶろう / のぶさぶろう、1880年(明治13年)7月16日 - 1956年(昭和31年)8月3日)は、明治末から昭和前期の農業技術者、政治家、実業家。衆議院議員、山口県豊浦郡豊東村長。 山口県豊浦郡上保木村(豊東村上保木、菊川町を経て現下関市菊川町大字上保木)で、雑賀敬二郎の息子として生まれる。山口高等学校を経て、1907年(明治40年)東京帝国大学農科大学を卒業した。1908年(明治41)12月、一年志願兵として入営し、1911年(明治44年)4月、陸軍歩兵少尉に任じられ、のち歩兵中尉に昇進。 島根県農業技師に任官。熊本県農業技師に転じ、同県農商課長、熊本県農会幹事、同県産牛馬組合連合会副組長、同県茶業組合連合会顧問、熊本商業会議所特別議員、大日本産業組合熊本支部理事、大日本蚕糸業組合熊本支会商議員、同県実業団体連合会顧問などを務めた。
松岡 俊三(まつおか としぞう、1880年(明治13年)7月… 松岡 俊三(まつおか としぞう、1880年(明治13年)7月14日 – 1955年(昭和30年)2月16日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→自由党)、拓務政務次官。ジャーナリスト。 山形県北村山郡楯岡村(現在の村山市)出身。1899年(明治32年)に浄土宗大学を卒業した後、日本法律学校(現在の日本大学)で学んだ。日露戦争に従軍。都新聞社に入り、政治部記者、副社長、常任監査役、編集顧問を歴任した。 1920年(大正9年)の第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第21回に至るまで7回当選を果たし、1940年(昭和15年)に発足した米内内閣では拓務政務次官を務めた。この間、1927年(昭和2年)には、議会乱闘事件に関与したとして傷害の容疑で起訴。
梅崎 延太郎(うめざき のぶたろう、1880年(明治13年)… 梅崎 延太郎(うめざき のぶたろう、1880年(明治13年)7月13日 - 1964年(昭和39年)4月24日)は、大日本帝国陸軍軍人。陸軍士官学校12期、陸軍大学校22期。最終階級は陸軍中将(1931年8月1日)。栄典は従三位勲一等。 1880年(明治13年)7月13日、士族の梅崎信量の長男として生まれる。1916年(大正5年)家督を相続。 1901年(明治34年)陸軍士官学校を卒業し、陸軍少尉に任官する。 それからドイツ、スウェーデンなどに留学し、スウェーデン公使館、デンマーク公使館附武官を勤め、1920年(大正9年)9月27日、騎兵第18連隊長、1928年(昭和3年)3月8日陸軍騎兵学校長、1929年(昭和4年)8月1日騎兵第1旅団長、1930年(昭和5年)12月22日、軍馬補充本部長などを歴任する。
佐藤 剛蔵(さとう ごうぞう、1880年(明治13年)7月5… 佐藤 剛蔵(さとう ごうぞう、1880年(明治13年)7月5日 ‐ 1960年(昭和35年)5月13日)は日本の医師、医学博士、医学教育者。旧姓、夏目。 新潟県長岡藩の士族、夏目洗蔵(長岡洋学校等の教員であった)の弟として生まれ、古志郡立長岡尋常中学校(現在の新潟県立長岡高等学校)を1899年(明治32年)に卒業、1902年に佐藤織居の養子となる。1906年 (明治39年)に京都帝国大学医科大学(現在の京都大学医学部)を卒業し、1907年6月に、1906年開院の平壌同仁医院長として朝鮮半島に渡った。 佐藤は 大韓医院医育課長、1916年京城医学専門学校教授、1924年に京城帝国大学医化学教授を兼任し、 1927年に京城医学専門学校の校長(第7代)を1945年まで務めた。
藤本 幸太郎(ふじもと こうたろう、1880年7月4日 - … 藤本 幸太郎(ふじもと こうたろう、1880年7月4日 - 1967年6月1日)は、日本の商学者・経済学者。専門は、海上保険論・統計学。当時の日本の保険学の最高権威とされた。一橋大学名誉教授。日本統計学会会長、東京海上火災保険監査役等を歴任。また、日本初の商学博士としても知られる。勲二等旭日重光章受章。村瀬春雄門下。 福井県丹生郡生まれ。三重県四日市市川原町出身。小学校時代は常に優等で鳴らし、三重県初の商業学校である四日市商業学校(現三重県立四日市商業高等学校)を第1期生として卒業後、同校で教鞭を執った。その後も母校四日市商業にたびたび貢献し、創立90周年記念に作成された胸像「藤本幸太郎翁」が正面玄関に置かれている。
山本 正夫(やまもと まさお、1880年7月1日 - 194… 山本 正夫(やまもと まさお、1880年7月1日 - 1943年4月5日)は、日本の作曲家、音楽教育者。 1880年、兵庫県出石郡出石松ヶ枝町(現在の豊岡市出石町松枝)生まれ。東京音楽学校本科器楽部でヘルマン・ハイドリヒにピアノを師事し、1903年7月に卒業。卒業期にはラファエル・フォン・ケーベルとノエル・ペリ(英語版)の指導下で歌劇の研究をした。1903年から島根県師範学校に、1909年から東京府豊島師範学校に勤める。師範学校勤務の傍、多くの童謡唱歌や校歌を制作した。退職後の1937年に帝都学園女学校を設立。 1903年7月に日本初のオペラ『オルフェオとエウリディーチェ』(旧東京音楽学校奏楽堂)に参加。
末次 信正(すえつぐ のぶまさ、1880年〈明治13年〉6月… 末次 信正(すえつぐ のぶまさ、1880年〈明治13年〉6月30日 - 1944年〈昭和19年〉12月29日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍大将、従二位・勲一等。第1次近衛内閣の内務大臣。実弟に古河鉱業取締役の末次猛。坊ノ岬沖海戦で戦死した末次信義海軍中佐は長男。 旧徳山藩士・末次操九郎の次男として山口県に生まれる。広島一中から海軍兵学校(27期)に進み、114名中50番で卒業した。卒業席次は平凡であったが、日露戦争に出征後、海軍最高学府である海軍大学校甲種学生(7期)を首席で卒業した。 1910年(明治43年)、海軍砲術学校教官となった末次は、艦の中心線上一列に主砲を装備し、一斉射撃の効率を高める独創案を無断で学生に伝授した。
高橋 新八(たかはし しんはち / しんぱち、1880年(明… 高橋 新八(たかはし しんはち / しんぱち、1880年(明治13年)6月28日 - 1923年(大正12年)4月9日)は、明治から大正期の造船技術者、実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。旧名・新作。 英学者・高橋新吉の長男として生まれる。父の死去に伴い、1918年(大正7年)12月20日、男爵を襲爵した。 1909年7月(明治42年)東京帝国大学工科大学造船学科を卒業。神戸川崎造船所技師を経て、1917年(大正6年)八千代生命保険監査役に就任。その他、南国護謨監査役、輸出水産取締役、墨田川造船所社長などを務めた。 1922年(大正11年)5月13日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属して活動し1923年4月8日まで在任した。
西川 義方(にしかわ よしかた、1880年6月28日 - 1… 西川 義方(にしかわ よしかた、1880年6月28日 - 1968年8月27日)は、日本の医師、内科学者。 和歌山県出身。東京帝国大学医学部卒。日本医学専門学校教授、東京医科大学教授。1919年宮内省侍医として大正天皇を診た。1922年の主著「内科診療の実際」はロングセラーとなった。温泉に関する随筆でも知られ、短歌も詠んだ。
逢坂 元吉郎(おうさか もときちろう、1880年6月25日 … 逢坂 元吉郎(おうさか もときちろう、1880年6月25日 - 1945年6月10日)は、日本の牧師、神学者である。既存の教会に限界を感じ、民衆教会を提唱した。 1880年(明治13年)、石川県江沼郡大聖寺町字番場町(現加賀市)に、父 平塚鎌吉、母 きしのの五男として生まれた。後に、逢坂家の養子となる。石川県尋常中学校および第四高等学校に在学中に西田幾多郎の感化を受けて、1903年(明治36年)に東京帝国大学法科大学政治学科へ入学した。上京後の1904年(明治37年)、植村正久から洗礼を受けた。一時的に、植村が創立した東京神学社にも籍を置いた。 東京帝国大学を中退し、1908年(明治41年)に渡米。
小早川 常雄(こばやかわ ときお、1879年(明治12年)7… 小早川 常雄(こばやかわ ときお、1879年(明治12年)7月21日 - 1970年(昭和45年)2月)は、日本の実業家。京三製作所創業者。 広島県賀茂郡出身。1906年(明治39年)東京帝国大学工科大学電気工学科卒業後、川越電気鉄道技師長を経て、1907年(明治40年)芝浦製作所(現・東芝)入社。技術部・商務部各副部長を務めた後、1918年(大正7年)独立し、東京電機工業を創業。会社事務所を当時の東京市京橋区の三十間掘に置いたことから、"京橋"と"三十間掘"から一字ずつとって「京三商会」(現・京三製作所)と名付けた。 当初は水力・火力発電所や電気鉄道の計画・設計・工事の請負や出願書類の作成、これらに関わる機械器具類の製造販売を手掛けていたが、その後鉄道信号機の製造を始めた。
山川登美子(やまかわ とみこ、1879年(明治12年)7月1… 山川登美子(やまかわ とみこ、1879年(明治12年)7月19日 - 1909年(明治42年)4月15日)は、滋賀県遠敷郡竹原村(現福井県小浜市)出身の歌人。本名・とみ。弟は小説家の山川亮。 1879年(明治12年)7月19日、滋賀県遠敷郡竹原村(現福井県小浜市)に山川貞蔵、ゑいの4女として生まれる。生家は小浜藩の上級藩士の旧家筋であった。1895年(明治28年)、大阪のミッションスクール梅花女学校に入学、1897年(明治30年)同校を卒業。同年12月、『新声』に短歌を初めて投稿し入選する。 1900年(明治33年)4月、母校の研究生となり英語を専修。同年6月、与謝野鉄幹が創った東京新詩社『明星』の社友となり、8月には鉄幹と与謝野晶子(旧姓・鳳)に出会う。
覚心 平十郎(覺心 平十郎、かくしん へいじゅうろう、前名・… 覚心 平十郎(覺心 平十郎、かくしん へいじゅうろう、前名・政造、1879年〈明治12年〉7月17日 - 没年不明)は、日本の酒造家、資産家、兵庫県多額納税者、会社役員。族籍は兵庫県平民 兵庫県武庫郡西宮町(現・西宮市)の人、先代平十郎の長男。先代は1代にして巨万の富を積んだ。 1913年、家督を相続し、前名・政造を改める。酒造業を営む。また加島屋取締役、恵美酒銀行監査役などをつとめる。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。精力は絶倫で、頭脳明晰、統理経営の才に長じる。趣味は囲碁。宗教は真宗。住所は西宮市本町。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
曽我 鍛(そが きたう/きとう、1879年(明治12年)7月… 曽我 鍛(そが きたう/きとう、1879年(明治12年)7月15日 - 1959年(昭和34年)12月28日)は、日本の編集者、作家、記者。通称はきたえ。号は正堂、黄塔、鬼塔、青銅散士など。 1879年7月15日、愛媛県西宇和郡布喜川村(現在の西予市三瓶町鴫山)に生まれる。1901年旧制松山中学校卒業、1905年7月早稲田大学文学部卒業。同年9月に帝国大学史料編纂係となる。1906年帝国大学編纂係を依願退職、同年3月に三井家史料編纂の嘱託となる。1911年、病気療養のため三井家史料編纂嘱託を依願退職、帰郷する。帰郷後、療養中に双岩村の委嘱により村誌編集にあたる。 1913年4月、伊予日々新聞(柳原極堂経営)の主筆となる。
古武 弥四郎(こたけ やしろう、1879年7月12日 - 1… 古武 弥四郎(こたけ やしろう、1879年7月12日 - 1968年5月30日)は、岡山県出身の生化学、医化学者。 旧大阪府立高等医学校卒業後、京都帝国大学荒木寅三郎の門下となる。のち大阪帝国大学医学部教授。退官後県立和歌山県立医科大学の設立に参画、同学長。帝国学士院賞。文化功労者。勲二等旭日重光章。アミノ酸、特にトリプトファンの中間代謝の研究で知られる。和歌山県立理科短期大学(1955年廃止)の学長にも就任した。 以下の記述は古武弥四郎が昭和37-38年に邑久町医師会誌「この道」に発表した記事が基になっている。 古武弥四郎の研究経歴を見ると1910年(明治43年)から2年間のドイツ留学が一大転機となったことが分かる。
河野 正義(こうの まさよし、1879年(明治12年)7月1… 河野 正義(こうの まさよし、1879年(明治12年)7月12日 - 1944年(昭和19年)11月18日)は、明治から昭和前期の著述家、実業家、政治家。衆議院議員、大日本国民中学会創立者。 茨城県行方郡、のちの武田村(北浦村、北浦町を経て現行方市)で、農業・河野清次の二男として生れた。小学校卒業後、家庭の事情で進学できず独学で学んだが、当時は適当な講義録がなかったため相当な困難を覚えていた。 1900(明治33年)に上京して出版社に勤務。商用で長野県から東北地方に向かい、秋田県のある寒村で一夜を酒屋で過ごした際に、隣の部屋で高等小学校卒の少年たちが中学講義録で独習をしていたが「此の講義録は非常に六ケ敷くて到底自分等には解しかねる。
大木 彝雄(おおき つねお、1879年(明治12年)7月4日… 大木 彝雄(おおき つねお、1879年(明治12年)7月4日 - 没年不詳)は、日本の宮内官僚。宮中顧問官。 富山県。1906年(明治39年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業。宮内省会計審査局勤務、大臣官房総務課勤務、宮内書記官・文書課長、宮内事務官兼式部官・用度課長、同大膳課長を歴任。1933年(昭和8年)、宮中顧問官に任命された。
岩田 衛(いわた まもる、1879年(明治12年)7月2日 … 岩田 衛(いわた まもる、1879年(明治12年)7月2日 - 1942年(昭和17年)6月9日)は、日本の内務官僚。官選県知事、長岡市長。 熊本県出身。岩田春耕の長男として生まれる。第五高等学校を卒業。1905年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。内務省に入省し静岡県属となる。1906年11月、文官高等試験行政科試験に合格。 以後、茨城県事務官、岩手県事務官・警察部長、愛知県警察部長、奈良県内務部長、東京府内務部長などを歴任。 1920年9月、鳥取県知事に就任。災害復旧、結核予防、衛生思想普及などに尽力。1922年10月、福島県知事に転任。1923年10月に休職。1924年4月29日に退官した。
岩元 禧(いわもと き、1879年(明治12年)7月2日 -… 岩元 禧(いわもと き、1879年(明治12年)7月2日 - 1944年(昭和19年)9月14日)は、日本の内務官僚。官選沖縄県知事、鹿児島市長。 鹿児島県鹿児島市出身。士族の四男として生まれる。第七高等学校の第1回卒業生。1908年(明治41年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、同年に高等文官試験に合格した。内務省に入り、千葉県属、秋田県事務官、神奈川県理事官・視学官、香川県警察部長、島根県内務部長、茨城県内務部長を歴任。1923年(大正12年)から翌年まで沖縄県知事を務めた。1926年(大正15年)6月23日、休職満期となり退官した。 國學院大學・皇典講究所専務理事を経て、1933年(昭和8年)から1936年(昭和11年)まで第10代鹿児島市長を務めた。
左近司 政三(さこんじ せいぞう、1879年(明治12年)6… 左近司 政三(さこんじ せいぞう、1879年(明治12年)6月27日 - 1969年(昭和44年)8月30日)は、日本の海軍軍人。政治家。最終階級は海軍中将。第3次近衛文麿内閣の商工大臣。鈴木貫太郎内閣の国務大臣。
本野 亨(もとの とおる、1879年(明治12年)6月27日… 本野 亨(もとの とおる、1879年(明治12年)6月27日 - 1951年(昭和26年)2月8日)は、明治から昭和初期の電気工学者。神奈川県出身。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
田辺 淳吉(たなべ じゅんきち、1879年6月26日 - 1… 田辺 淳吉(たなべ じゅんきち、1879年6月26日 - 1926年7月13日)は主に大正期に活躍した日本の建築家。清水組(現清水建設)の技師として銀行、学校、邸宅等を設計し、後に独立。
藤塚 鄰(ふじつか ちかし、1879年〈明治12年〉6月26… 藤塚 鄰(ふじつか ちかし、1879年〈明治12年〉6月26日 - 1948年〈昭和23年〉12月24日)は、明治-昭和期の日本の漢学者・昭和天皇進講者・帝国大学教授・斯文会理事長・大東文化学院(大東文化大学)総長・位階は従二位・勲等は勲二等。号は素軒。旧姓佐々木、鄰は隣の旧字。 1879年(明治12年)、岩手県前沢村(江戸期の仙台領前沢城下、旧岩手県胆沢郡前沢町、現:奥州市前沢)の佐々木家に生まれる。 1908年(明治41年)、東京帝国大学支那哲学科卒業後、旧制第八高等学校(現:名古屋大学)教授に就任。1923年(大正10年)より中国留学。1928年(大正15年)日本領朝鮮の京城(ソウル)帝国大学新設開校と同時に教授、1931年(昭和6年)に法文学部長となり1940年(昭和15年)、京城帝国大学退職し帰国する。
椙山 正弌(すぎやま まさかず、明治12年(1879年)6月… 椙山 正弌(すぎやま まさかず、明治12年(1879年)6月26日 - 昭和39年(1964年)2月18日)は、岐阜県生まれの尾張藩士族であり、愛知県名古屋市の教育者。椙山女学園初代学園長・理事長。藍綬褒章の受章2回。 尾張藩士・椙山正明の長男として生まれる。椙山家は代々尾張徳川家に仕えた名家であり、士族であった。現在の名古屋の中心、広小路通に面した島田町(現、中区錦2丁目)に屋敷を構えていた。明治2年(1869年)の版籍奉還で父・椙山正明は土地、屋敷などを返上して岐阜県武儀郡高野村に移り、洲原神社神主の職を経て、武儀郡乾村官選戸長を数期務めた。 椙山正弌は明治28年(1895年)3月、岐阜県師範学校(現・岐阜大学教育学部)乙種講習科修了。
塩田 正太郎(しおた しょうたろう、1879年〈明治12年〉… 塩田 正太郎(しおた しょうたろう、1879年〈明治12年〉6月22日 - 没年不明)は、日本の政治家、実業家。香川県三豊郡仁尾町長(初代)。香川県会議員。仁尾塩田(現・仁尾興産)取締役。 香川県三野郡仁尾村(現・三豊市)生まれ。塩田廣太郎の長男。1899年、慶應義塾高等科卒業。1918年、父退隠により家督を相続した。1921年1月から1924年3月まで仁尾村長をつとめた。1924年4月から1925年2月まで仁尾町長をつとめた。 仁尾塩田会社の重役で、三豊紡績会社の重役を兼ねた。また香川県参事会員であった。 1923年頃の社会不安(農民党と地主との対立)について、塩田が出てその間の調停をうまくやり、その手腕は社会から認められた。
厚東 篤太郎(こうとう とくたろう、1878年7月22日 -… 厚東 篤太郎(こうとう とくたろう、1878年7月22日 - 1958年9月18日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。
東久世 秀雄(ひがしくぜ ひでお、1878年(明治11年)7… 東久世 秀雄(ひがしくぜ ひでお、1878年(明治11年)7月19日 - 1951年(昭和26年)11月18日)は、日本の農商務・宮内官僚、政治家、華族。貴族院男爵議員。 東京府出身。伯爵・東久世通禧の四男として生まれる。1897年(明治30年)12月6日、分家に際し父・通禧の功により男爵を叙爵した。 第一高等学校を経て、1905年(明治38年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。同年、農商務省に入省し農商務属となる。 以後、農商務省山林局書記、山林局事務官、宮内事務官、帝室林野局事務官、貴族院書記官、同書記官長代理、農商務書記官兼同参事官、皇后宮主事、内匠頭などを歴任。