渋谷 隆太郎(しぶや りゅうたろう、1887年4月5日 - … 渋谷 隆太郎(しぶや りゅうたろう、1887年4月5日 - 1973年4月8日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。最後の海軍艦政本部長を勤める。杉政人、上田宗重らと同様に機関科出身者として最初の海軍大将候補であった。 福井県出身。渋谷徳蔵の長男として生まれる。1910年4月、海軍機関学校(18期)を卒業。同年12月、海軍機関少尉任官。1916年12月、海軍大学校機関学生となり、1918年12月、戦艦「比叡」分隊長に着任。1919年12月から海軍大学校選科学生として学び、翌年12月、海軍艦政本部部員(第5部)となる。 1925年8月、横須賀海軍工廠造機部員となり、造兵監督官(米国出張)、舞鶴要港部部員などを経て、1930年12月、機関大佐に昇進し海軍艦政本部第4部部員となった。
鈴鹿 野風呂(すずか のぶろ、1887年(明治20年)4月5… 鈴鹿 野風呂(すずか のぶろ、1887年(明治20年)4月5日 - 1971年(昭和46年)3月10日)は、日本の俳人。本名・登。 京都生まれ。鹿児島の第七高等学校造士館 (旧制)を経て、1916年京都帝国大学文学部国文科卒。高濱虚子に師事、「ホトトギス」同人。大学卒業後、鹿児島の川内中学校(現・鹿児島県立川内高等学校)教諭となる。1920年京都に戻り、大日本武徳会武道専門学校 (旧制)の教授となる(戦後、同校最後の校長に就任)。「京大三高俳句会」を母体として日野草城らとともに「京鹿子」創刊。同誌はのちに野風呂が主宰となり、関西におけるホトトギス派の中軸となっていった。俳諧活動の傍ら学校でも教鞭をとり、戦後は大阪成蹊女子短期大学教授を務める。
谷村 唯一郎(たにむら ただいちろう、1887年4月5日 -… 谷村 唯一郎(たにむら ただいちろう、1887年4月5日 - 1982年5月29日)は、日本の弁護士・最高裁判所判事。 鹿児島県大島郡名瀬町(名瀬市を経て現奄美市)生まれ。会計検査院の書記をしながら、1914年に中央大学法律科を卒業。1917年に弁護士となり、戦前には東京弁護士会会長を務める。戦後は法曹一元化に一環として司法次官(後の法務事務次官)として数々の法改正を手がけ、司法研修所の設立に力を尽くした。また、GHQの公職追放解除を審査する公職資格訴願審査委員会委員長を歴任。 1951年4月、最高裁判所判事となる。 定年前の1956年11月に「定年なんて老いぼれの烙印を押されるのは嫌」として依願退官。
高木 友三郎(たかぎ ともさぶろう、1887年(明治20年)… 高木 友三郎(たかぎ ともさぶろう、1887年(明治20年)4月5日 - 1974年(昭和49年)5月12日)は、日本の経済学者、ジャーナリスト。法政大学教授、北日本新聞主筆・会長。 1887年(明治20年)4月5日、富山県に生まれる。 1914年(大正3年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。 同年、不動貯金銀行に入社。翌年、増田ビルブローカー銀行に転動。市場調査、株式売買を担当。 1917年(大正7年)大阪毎日新聞入社。経済部副部長を務める。 1918年(大正8年)東京帝国大学大学院法学部ドイツ法律学科に入学し、金井延もとで経済学・経済政策を研究。 同年10月、法政大学に、わが国初の経済学部を創設。
永井 幸太郎(ながい こうたろう、1887年4月4日 - 1… 永井 幸太郎(ながい こうたろう、1887年4月4日 - 1983年1月23日)は、日本の実業家。高畑誠一とともに日商を設立し、同社代表取締役社長や、貿易庁長官、学校法人甲南学園理事長、日本発条代表取締役社長等を歴任した。藍綬褒章受章。 兵庫県氷上郡(現丹波市)山南町下滝出身。柏原中学校(現兵庫県立柏原高等学校)首席卒業を経て、1909年神戸高等商業学校(現神戸大学)卒業。同期には高畑誠一や出光佐三、和田恒輔がいた。卒業後スタンダード石油入社。その後高畑の誘いを受け鈴木商店に入社。本店穀肥主任、取締役本店総支配人等を経て、日本商業に出向。鈴木商店破綻後、台湾銀行の森広蔵頭取や三菱財閥の各務鎌吉などの支援を得て、高畑らとともに日本商業を分離して日商を設立し取締役に就任した。
山端 祥玉(やまはた しょうぎょく、1887年4月4日 - … 山端 祥玉(やまはた しょうぎょく、1887年4月4日 - 1963年2月24日)は、日本の写真家、実業家。本名は啓之助。 1887年(明治20年)、福井県勝山市に生まれる。小学校を卒業後、1904年(明治37年)より東京・本郷の望月東涯に写真を学ぶ。その後、近衛歩兵第1連隊に入営し、 除隊後出張写真師となり、1910年(明治43年)、蘭領スマトラ島メダン市の朝日写真館技師長に就任する。1914年(大正3年)、英領シンガポールに写真材料商サン商会と写真館を設立する。帰国後、1927年(昭和2年)に東京・築地にG.T.サン商会(1943年(昭和18年)に山端写真科学研究所と改称)を創設し、1933年(昭和8年)に写真印画用の高速輪転機で特許を取得する。
塚原 二四三 (つかはら にしぞう、1887年(明治20年)… 塚原 二四三 (つかはら にしぞう、1887年(明治20年)4月3日 - 1966年(昭和41年)3月6日)は、日本の海軍軍人。海兵36期・海大18期。最終階級は海軍大将。日本海軍で最後に大将に昇進した二人の軍人の一人。 1887年4月3日、福井県で父・塚原開太郎と母・たけの(山梨県西八代郡高田村の青柳忠左衛門の長女)の五男として生まれる。名前の「二四三」は「明治二十年四月三日生まれ」であることに因む。 本籍は山梨県中巨摩郡三恵村(現南アルプス市)で 、父は郡議会議員を務めた。長兄の塚原竹麿は村議会議員や助役を務め、次兄の塚原甲麿は大日本国民中学会の講師、弟の塚原懿智三は満州鉄道技師となった。甲府中学を経て、1908年(明治41年)11月21日に海軍兵学校36期を20位の成績で卒業、少尉候補生となり、練習航海に出発。
鳳 谷五郎(おおとり たにごろう、1887年4月3日 - 1… 鳳 谷五郎(おおとり たにごろう、1887年4月3日 - 1956年11月16日)は、千葉県印旛郡大森村(現:千葉県印西市大森)出身で宮城野部屋(一時期勝ノ浦部屋)に所属した大相撲力士。第24代横綱。現役引退後は年寄として後進の指導につとめた。本名は瀧田 明(たきた あきら)。 1887年4月3日に千葉県印旛郡大杜村(現:千葉県印西市大森)で米屋「米庄」を営む家に生まれる。父親の滝田丹治は大の相撲好きが高じて玉垣部屋へ入門、三段目まで進んだが家業を継ぐために廃業した。そんな父を間近で見て育った明も相撲好きになったが、廃業後も田舎相撲に熱中し過ぎて財産を失った挙句、家業の米屋を廃業せざるを得なくなってしまった父は自身の二の舞を演じさせまいと明を船橋の呉服屋へ奉公に出して相撲の道に進ませぬように図った。
稲垣 英夫(いながき ひでお、1887年(明治20年)4月1… 稲垣 英夫(いながき ひでお、1887年(明治20年)4月1日 - 1937年(昭和12年)2月12日)は、日本の建築家。内務省造神宮使庁に勤務した後独立して稲垣建築事務所を設立し、数多くの神社建築等を手掛けた。 東京出身。郁文館中学校を卒業したのち、工学院建築科を卒業。 1910年(明治43年)東京税務監督局新築工事現場監督拝命(1913年(大正2年)まで)。 以後横浜電気工業株式会社、株式会社東陽銀行、同保土ケ谷支店、横浜市開港記念館、茂木佐平次東京別邸、金光教青生会、キッコーマン宮内省御用醸造場など工事設計や監督に携わる。 1916年(大正5年)10月、内務省造神宮使庁に入省し、翌年4月明治神宮造営局に勤務。
三木 良英(みき よしひで、1887年(明治20年)3月31… 三木 良英(みき よしひで、1887年(明治20年)3月31日 - 1970年(昭和45年)2月18日)は、日本の陸軍軍人、内科医。最終階級は陸軍軍医中将。 兵庫県出身。三木駿三の長男として生まれる。姫路中学校(現兵庫県立姫路西高等学校)、第三高等学校を経て、1912年(明治45年)6月に東京帝国大学医科大学を卒業し、二等軍医に任官し歩兵第20連隊付となる。1913年(大正2年)8月、東京第二陸軍病院(現国立成育医療研究センター)付となる。1914年(大正3年)8月、東京帝大大学院に入学。1915年(大正4年)8月、一等軍医に昇進し、歩兵第71連隊付、青島病院付、スイス駐在を務め、1921年(大正10年)3月、三等軍医正に進級しドイツ駐在となる。
沢田 茂(さわだ しげる、1887年(明治20年)3月29日… 沢田 茂(さわだ しげる、1887年(明治20年)3月29日 - 1980年(昭和55年)12月1日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 高知県高知郡鴨部村(現・高知市鴨部町)出身。農業・沢田栄之助の三男として生まれる。兄弟四人のうち、長男を除く三兄弟が陸軍将校となった。1899年(明治32年)4月に高知県立海南中学校に入校。同期は山下奉文で、永らく交友を結んだ。広島陸軍地方幼年学校を経て、1905年(明治38年)11月15日、陸軍士官学校(第18期)を卒業。翌年6月26日、砲兵少尉に任官し野戦砲兵第16連隊付となる。野戦砲兵第22連隊付などを経て、1910年(明治43年)11月26日、陸軍砲工学校高等科を卒業。
南 鉄太郎(みなみ てつたろう、1887年(明治20年)3月… 南 鉄太郎(みなみ てつたろう、1887年(明治20年)3月29日 - 1944年(昭和19年)9月8日)は、日本の衆議院議員。海軍軍人。弁護士。 兵庫県三原郡賀集村(現在の南あわじ市)出身。1912年(明治45年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業。同大学院で学んだ後、海軍経理学校乙種学生を修了した。海軍では中主計から主計少佐に至った。その間、第十二駆逐隊主計長、臨時南洋群島防備隊附、砲艦「伏見」乗員、海軍経理学校教官、同監事を歴任した。1924年(大正13年)に予備役に編入された後は、弁護士を開業した。 1942年(昭和17年)、第21回衆議院議員総選挙(いわゆる「翼賛選挙」)に兵庫2区(当時)から翼協非推薦で出馬し、当選を果たした。
塩田 せつ(しおだ せつ、1887年(明治20年)3月29日… 塩田 せつ(しおだ せつ、1887年(明治20年)3月29日 - 1958年(昭和33年)10月27日)は、日本の教育者である。旧姓は飯田。 千葉県印旛郡木下町(現在の印西市)に生まれ、千葉女子師範学校(現在の千葉大学教育学部・大学院教育学研究科)に入学する。1904年(明治37年)に卒業後は、成田尋常小学校(現在の成田市立成田小学校)で教鞭を執り以後千葉県内の小学校および師範学校の教師として活動した。1909年(明治42年)に水産学校の講師として活動した塩田文隣と結婚したことにより、夫の勤務地であった宮城県宮古市を経て岩手県、北海道内の学校に転勤する。 1919年(大正8年)に夫が死去したことにより、帰郷し布鎌尋常小学校(現在の栄町立布鎌小学校)にて訓導にあたった。
矢野 機(やの はかる、1887年3月27日 - 1992年… 矢野 機(やの はかる、1887年3月27日 - 1992年2月10日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。
工藤 祐舜(くどう ゆうしゅん、1887年(明治20年)3月… 工藤 祐舜(くどう ゆうしゅん、1887年(明治20年)3月26日 - 1932年(昭和7年)1月8日)は、日本の植物学者。現在の秋田県平鹿郡増田町(現横手市)縫殿生まれ。植物分類学の泰斗として知られる。 父祐哲は浄土真宗の寺院通覚寺の19世住職であり、祐舜は長男であったが、のちに弟祐信を養子として寺を継がせている。 1901年(明治34年)秋田県立第三中学校(現秋田県立横手高等学校)に入学、植物好きの教師宮沢運治に傾倒し、宮沢もまた工藤を殊の外かわいがって植物採集に連れまわし、あたかも助手のような扱いであったという。中学時代、すでに海外の植物園や博物館などと標本交換をおこない、学名不明の植物を札幌農学校の宮部金吾に送ったことで2人の文通が始まった。
加藤 隆太郎(かとう りゅうたろう、1887年(明治20年)… 加藤 隆太郎(かとう りゅうたろう、1887年(明治20年)3月26日 – 1973年(昭和48年)12月31日)は、明治末から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(2期)。板橋区から練馬区の独立に貢献した。 東京府北豊島郡上土支田村(石神井村大字上土支田、大泉村大字上土支田、板橋区東大泉町、練馬区東大泉町を経て現東京都練馬区東大泉)で、農業・加藤信太郎、だい の第2子、長男として生まれる。1901年(明治34年)3月、大泉村立泉小学校(現練馬区立大泉小学校)高等科3学年を修了し東京府立第二中学校(現東京都立立川高等学校)に進んだが、病のため1902年(明治35年)11月に中退した。家業の肥料商を手伝い、1906年(明治39年)4月から私立正則予備学校、同英語学校(現正則学園高等学校)で学んだ。
千葉 命吉(ちば めいきち、1887年3月26日 - 195… 千葉 命吉(ちば めいきち、1887年3月26日 - 1959年12月29日)は明治 - 昭和時代の教育研究者、教育者。奈良女高師付属小学校訓導などをへて、大正9年(1920年)広島師範付属小学校の主事(現在の校長と同等)となる。大正10年(1921年)八大教育主張講演会で子供の独創性を重視する「一切衝動皆満足論」を発表。大正11年(1922年)ドイツに留学、独創学を研究。昭和3年(1928年)大日本独創学会を設立した。著作に「独創主義教育価値論」「独創教育学」など。 千葉命吉の創造教育論というのは1919年1月の『創造教育の理論及実際』でではじめて提唱された。その独創的理論が評価され大正9年(1920年)に小学校校長に抜擢された。
南雲 忠一(なぐも ちゅういち、1887年〈明治20年〉3月… 南雲 忠一(なぐも ちゅういち、1887年〈明治20年〉3月25日 - 1944年〈昭和19年〉7月6日)は、日本の海軍軍人。海兵36期。太平洋戦争初期から中期にかけて第一航空艦隊および第三艦隊(南雲機動部隊)司令長官を務めた後、サイパンの戦いで自決。死後一階級特進により、最終階級は海軍大将。正三位勲一等功一級。 1887年3月25日、山形県南置賜郡米沢信夫町(現在の米沢市)で、郡役所書記の父・南雲周蔵と母・志んの次男として生まれる。6人兄弟姉の末子であった。父の周蔵は旧米沢藩士であり、藩では御扶持方(中士階級)でもあった。 米沢尋常中学興譲館を経て、1905年(明治38年)海軍兵学校36期に入校。
深川 繁治(ふかがわ しげはる、1887年〈明治20年〉3月… 深川 繁治(ふかがわ しげはる、1887年〈明治20年〉3月25日 - 1976年〈昭和51年〉9月6日)は、日本の逓信官僚。台湾総督府官僚。 佐賀県出身。1911年(明治44年)、高等文官試験に合格し、翌年に東京帝国大学法科大学法律学科を卒業した。逓信管理局書記、逓信局事務官、通信副事務官・税関副事務官、東京中央郵便局長などを歴任。1920年(大正9年)、台湾総督府事務官に転じ、逓信局庶務課長・海事課長を経て、交通局参事・逓信部長、台北州内務部長などを務めた。1932年(昭和7年)に交通局理事・逓信部長に就任し、1935年(昭和10年)には文教局長に転じた。 1937年(昭和12年)に退官した後は、台湾放送協会常務理事を1943年(昭和18年)まで務めた。
赤木 正雄(あかぎ まさお、1887年(明治20年)3月24… 赤木 正雄(あかぎ まさお、1887年(明治20年)3月24日 - 1972年(昭和47年)9月24日)は、日本の農学博士・政治家。位階は正三位、勲等は勲一等。文化勲章受章者。 日本において砂防の重要さをいち早く説いた人物で「砂防の父」や「砂防の神様」と称される。 兄は中筋村(現豊岡市)村長の赤木一雄、甥に画家の赤木蘇夫二(そぶじ)、政治学者の赤木須留喜(するき)、子供は1男4女、三女(玲子)の岳父はドイツ語学者の武内大造、四女(淑子)の夫は生物学者の太田次郎。 兵庫県城崎郡中筋村(現豊岡市)引野に生まれる。父甚太夫、母たみの四女二男の末っ子で、地方の豪農であった赤木家は甚太夫で11代目に当たる。
岡田 春夫(おかだ はるお、1887年(明治20年)3月24… 岡田 春夫(おかだ はるお、1887年(明治20年)3月24日 - 1937年(昭和12年)12月11日)は、日本の政治家。通算3回衆議院議員選挙に当選した。 兵庫県生まれ。1911年(明治44年)関西大学法律科を卒業、北海タイムスに入社し政治部記者となる。美唄町議、北海道議、北海道参事会員を経て、1928年(昭和3年)普通選挙が日本に導入されて初の総選挙に立憲民政党公認で旧北海道4区から立候補したが落選。1930年(昭和5年)の第17回衆議院議員選挙に前回の総選挙と同じく民政党公認で立候補し初当選。 1932年(昭和7年)の第18回衆議院議員選挙では次点だったものの、4年後の第19回衆議院議員選挙では再び当選し政界に返り咲いた。
吉本 貞一(よしもと ていいち、1887年3月23日 - 1… 吉本 貞一(よしもと ていいち、1887年3月23日 - 1945年9月14日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。
小村 雪岱(こむら せったい、明治20年(1887年)3月2… 小村 雪岱(こむら せったい、明治20年(1887年)3月22日 - 昭和15年(1940年)10月17日)は、大正から昭和初期の日本画家、版画家、挿絵画家、装幀家。 明治20年(1887年)、埼玉県川越市郭町に父小村繁門(しげかど)、母もんの長男として生まれる。本名は泰助。明治24年(1891年)に父が病没し、翌年母が小村家より離縁されたため、幼くして両親を失い、伯父の小村万吉に養育されることになった。明治33年(1900年)、坂戸尋常高等小学校を卒業した雪岱は、翌明治34年(1901年)、東京の神田神保町に住む叔母の家に寄宿し始めた。明治35年(1902年)、叔母の世話で、日本橋檜物町に住む外務省勤務の書家安並賢輔方で学僕となる。
中山 晋平(なかやま しんぺい、1887年(明治20年)3月… 中山 晋平(なかやま しんぺい、1887年(明治20年)3月22日 - 1952年(昭和27年)12月30日)は、日本の作曲家。多くの傑作といわれる童謡・流行歌・新民謡などを残した。作品は多岐にわたり、校歌や社歌等を含め中山の作品と判明しているものだけで1770曲存在する。 一部の作品は現在も抒情歌または日本歌曲として歌い継がれている。長調の曲はほとんどがヨナ抜き音階で書かれている。また、童謡には「兎のダンス」や「蛙(かはづ)の夜回り」のようなピョンコ節がかなりある。その作品群は独特の曲調から俗に「晋平節」と呼ばれ親しまれている。 長野県下高井郡新野村(現・中野市)に生まれる。生家は名主、村長を出した旧家であったが父親の急死により落魄し、養蚕をする母親に女手一つで育てられ、長野師範学校講習科を修了後、1903年(明治36年)に尋常高等小学校の代用教員となる。
高畑 誠一(たかはた せいいち、1887年(明治20年)3月… 高畑 誠一(たかはた せいいち、1887年(明治20年)3月21日 - 1978年(昭和53年)9月19日)は、日本の実業家。日商株式会社(後の日商岩井、現・双日)の元会長。 愛媛県喜多郡内子町出身。父・宗次郎、母・タキセの長男。生家は内子町ではかなり古い家系で、誠一で14代目になる。呉服、食料品、日用雑貨までなんでも扱う小売店をやっていた。いわゆる“よろずや”だったが、誠一が小学校にあがる頃この“よろずや”を廃業し、生糸と木蝋の製造業を始めた。 旧制西条中学校(現・愛媛県立西条高等学校)を経て神戸高等商業学校(現・神戸大学)を卒業。同期に永井幸太郎、出光佐三、和田恒輔。神戸高商在学中は三井物産への入社を志望していたが、尊敬する同校校長の水島銕也の推薦ということで鈴木商店に入社する。
大島 浩(おおしま ひろし、1886年(明治19年)4月19… 大島 浩(おおしま ひろし、1886年(明治19年)4月19日 - 1975年(昭和50年)6月6日)は、日本の陸軍軍人、外交官。最終階級は陸軍中将。 第二次世界大戦前から戦中にかけて駐ドイツ特命全権大使を務め、日独伊三国同盟締結の立役者としても知られる。終戦後の極東国際軍事裁判ではA級戦犯として終身刑の判決を受けた。 大島は、陸軍士官学校、及び陸軍大学校を卒業した陸軍軍人であった。1921年(大正10年)、駐在武官補として初めてドイツに赴任、ナチ党とのあいだに強い個人的関係を築くようになった。1938年(昭和13年)には駐ドイツ日本大使に就任、日独同盟の締結を推進し、1940年(昭和15年)に調印された日独伊三国同盟も強力に支持した。
岡田 満(おかだ みつる、1886年4月19日 - 1962… 岡田 満(おかだ みつる、1886年4月19日 - 1962年4月28日)は、日本の大正・昭和期における歯科医、大学教授。滋賀県出身者の歯科医として、初の医学博士。 1886年(明治19年)4月19日、滋賀県野洲郡守山村吉身(現・滋賀県守山市吉身)で誕生。 父は滋賀県議会議長や衆議院議員を務めた岡田逸治郎、母は逸治郎の3番目の妻・義子。八男七女の七男として誕生したが、長男と四男が夭折しており対外的には五男と称す。 1898年(明治31年)早稲田中学入学に伴い上京し、長兄岡田国太郎宅より通う。1908年(明治41年)7月20日、東京歯科医学専門学校(現東京歯科大学)第14回生(本科6名の一人)として卒業する。
赤羽 一雄(あかはね かずお、1886年4月17日 - 19… 赤羽 一雄(あかはね かずお、1886年4月17日 - 1981年5月21日)は、日本の教育者。号は王郎。 王郎の正確な来歴については、正否の判定が難しい部分が多い。履歴書が流浪先で適当に書かれたものであり、来歴に関する具体的な口述が少ないこと、晩年は事実と本人の願望が錯綜したことを述べていたためである。 長野県上伊那郡東春近村(現伊那市)生まれ。旧制飯田中学(長野県飯田高等学校)を経て、東京美術学校学校図案課を卒業後、長野県学務課に勤務。1910年に自殺未遂を起こし、翌年、更級郡中津尋常高等小学校の代用教員となり、諏訪郡玉川小学校に転任。この頃、来県した武者小路実篤に出会い、白樺派同人と交流を深め、以後長野県における白樺派教育の先導者となり、人道主義の思潮と芸術運動を盛り上げた。
湛増 庸一(たんそう よういち、1886年(明治19年)4月… 湛増 庸一(たんそう よういち、1886年(明治19年)4月17日 – 1941年(昭和16年)5月14日)は、日本の政治家、教育者。衆議院議員(1期)。 岡山県久米郡倭文西村(現在の美咲町)出身。1904年(明治37年)、岡山県立第一中学校を卒業。1908年(明治41年)に東京帝国大学農科大学を卒業。その後、アメリカ合衆国に留学して、ミネソタ州立農科大学を卒業し、さらにノースダコタ大学に学んだ。1912年(明治45年)に帰国した後は、岡山県農業試験場講師、山本農学校校長・山本実科高等女学校校長などを務めた。 1924年(大正13年)の第15回衆議院議員総選挙に出馬して当選を果たしたがその際、同じ岡山県第七区での競合相手だった藤島守太と談合して藤島方の選挙民を1万円で買収、衆議院選挙罰則違反で禁錮3月の判決を受け、1925年(大正14年)11月19日、大審院で上告棄却され、失職した。
前田 鼎(まえだ かなえ、1886年(明治19年)4月16日… 前田 鼎(まえだ かなえ、1886年(明治19年)4月16日 - 1961年(昭和36年)7月2日)は、医学者、京都帝国大学医学部長・名誉教授。第三高等学校長も務めた。 前田鼎は、1886年(明治19年)4月16日に滋賀県高島郡大溝村(現滋賀県高島市)の前田文良の三男として生まれた。前田家は代々大溝藩殿医を務めた。滋賀県立第2中学校(滋賀県立膳所高等学校)から1907年(明治40年)第三高等学校第三部を、また1911年(明治44年)京都帝国大学医科大学を卒業した。 卒業後荒木寅三郎教授に師事し医化学教室へ入室、同年12月には助手に任ぜられ、1915年(大正4年)6月荒木教授の京都帝国大学総長就任に伴い助教授に昇任した。
落合 慶四郎(おちあい けいしろう、1886年(明治19年)… 落合 慶四郎(おちあい けいしろう、1886年(明治19年)4月16日 - 1965年(昭和40年)3月12日)は、日本の内務官僚。徳島県知事、東京市第一助役、宇都宮市長、福井市長。 島根県神門郡、のちの簸川郡朝山村(現出雲市)出身。落合亀四郎の二男として生まれる。1910年、日本大学大学部法律学科を卒業。1911年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1912年、内務省に入り徳島県属となる。 以後、徳島県理事官、鳥取県東伯郡長、山梨県理事官、大分県警察部長、三重県警察部長、長野県警察部長、群馬県書記官・内務部長、秋田県書記官・内務部長、石川県書記官・内務部長、愛知県書記官・警察部長、神奈川県内務部長などを歴任。
宇佐 玄雄(うさ しずお/げんゆう、1886年4月15日 -… 宇佐 玄雄(うさ しずお/げんゆう、1886年4月15日 - 1957年2月14日)は、日本の臨済宗の僧、精神科医(医学博士)。京都三聖病院の初代院長。森田正馬の弟子で森田療法の実践者。 この頃、倉田百三(この時の体験が『神経質者の天国』になる)を治療 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
多田 満長(ただ みつなが、1886年(明治19年)4月14… 多田 満長(ただ みつなが、1886年(明治19年)4月14日 – 1951年(昭和26年)2月9日)は、日本のジャーナリスト・政治家で立憲民政党所属の衆議院議員。 千葉県君津郡神納村(現在の袖ケ浦市)出身。多田子之助の二男として生まれ、兄の昌太郎は君津郡会議員・神納村長を務めた。千葉師範学校に入学するが、病のため退学した。その後明治学院を経て、1911年(明治44年)に早稲田大学政治経済科を卒業した。卒業後は大日本通信社を創設し、社長を務めた。 1930年(昭和5年)、第17回衆議院議員総選挙に民政党公認で出馬し初当選。5回連続当選を果たした。その間、廣田内閣で逓信参与官を、阿部内閣で外務政務次官を務めた。
井上 日召(いのうえ にっしょう、1886年〈明治19年〉4… 井上 日召(いのうえ にっしょう、1886年〈明治19年〉4月12日 - 1967年〈昭和42年〉3月4日)は、日本の宗教家、政治運動家、テロリスト、右翼指導者。本名は井上 昭(いのうえ あきら)、別号に日象。血盟団を結成して「一殺多生」を唱え、1932年に血盟団事件を起こした。無期懲役の判決を受けたが恩赦により出所。戦後は右翼団体・護国団を結成した。日蓮宗を信仰し、仲間からは「和尚」と呼ばれたものの僧籍は有していない。 群馬県利根郡川場村に、医師・井上好人の四男として生まれる。幼名は四郎、通称尚(たすく)。幼少期より母との関係が悪く、野火を付けたり脇差を持ちだして門松を斬り倒したりする悪童だった。
大倉 燁子(おおくら てるこ、1886年4月12日 - 19… 大倉 燁子(おおくら てるこ、1886年4月12日 - 1960年7月18日、本名:物集 芳子(もづめ よしこ))は、日本の小説家。 国学者・物集高見の三女。兄の物集高量は国文学者、妹の物集和子も小説家。 東京府東京市本郷区弓町(現・東京都文京区本郷)出身、学歴は東京女子高等師範学校中退。文学を志して妹の和子とともに二葉亭四迷に弟子入りしたが、1908年、二葉亭は朝日新聞社特派員としてロシアに赴任することになったので、同社の同僚であった夏目漱石に物集姉妹の世話を依頼した。以後は漱石門下の作家として、本名や「岩田由美」、「岩田百合子」の名義で『兄』、『生家』、『母』などの小説を発表した(1909年 - 1912年)。
鳥居 維(とりい つな、1886年4月11日 - 1966年… 鳥居 維(とりい つな、1886年4月11日 - 1966年9月14日)は、日本のヴァイオリニスト、作曲家、音楽教師。 愛知県出身。1906年7月に東京音楽学校本科器楽部を卒業。1909年9月に同校研究科器楽部ヴァイオリン専攻を修了した。安藤幸とアレクサンドル・モギレフスキーに師事。1906年9月から1944年3月まで東京音楽学校の器楽部ヴァイオリン専攻の音楽教師を務め、1912年4月に教務嘱託、1919年4月に講師、1929年6月に助教授、1934年11月に教授となった。1930年から1941年まで同校管弦楽部員(ヴァイオリン)。大日本作曲家協会員および大日本音楽協会員。 邦楽に通じ、三味線楽譜の著作がある。
高木 義人(たかぎ よしと、1886年(明治19年)4月10… 高木 義人(たかぎ よしと、1886年(明治19年)4月10日 - 1956年(昭和31年)8月15日)は、日本の政治家、陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。政治家としては衆議院議員を歴任した。長野県出身。陸士19期、陸大26期。 長野県南安曇郡高家村(現在の安曇野市)出身。松本中学を経て、1907年(明治40年)5月、陸軍士官学校(19期)を卒業し、同年12月、歩兵少尉に任官。1914年(大正3年)には陸軍大学校(26期)を卒業した。浦塩派遣軍参謀、参謀本部員、第14師団参謀、第6師団参謀、台湾歩兵第1連隊大隊長、奉天独立守備第2大隊長、福井連隊区司令官、歩兵第26連隊長、第8師団参謀長、歩兵第39旅団長などを歴任し、1938年(昭和13年)7月15日には留守第2師団長に就任し、1939年(昭和14年)3月9日陸軍中将に進級した。
横田 清蔵(よこた せいぞう、1886年4月7日 - 196… 横田 清蔵(よこた せいぞう、1886年4月7日 - 1964年6月11日)は、日本の政治家。元衆議院議員(1期)。 千葉県出身。1907年、千葉県師範学校卒業。千葉県会議員、同議長、飯岡町(現在の旭市)長、千葉県町村長会長、飯岡信用購買販売組合長、千葉県農業会監事、飯岡町農業会長、飯岡農業協同組合長を歴任した。 1946年の第22回衆議院議員総選挙において千葉県から日本自由党公認で立候補して当選。衆議院議員を1期務めた。次の1947年の第23回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1964年死去。
榊原 弥生(さかきばら やよい、1886年〈明治19年〉4月… 榊原 弥生(さかきばら やよい、1886年〈明治19年〉4月7日 - 1935年〈昭和10年〉4月19日)は、日本の婦人運動家。大正デモクラシーの時期の京都で、市民的な女性運動が盛んになった際に、その中心となって諸運動の連携に尽力した人物である。山形県鶴岡出身、明治女学校専攻科卒業。従兄弟に聖書学者の黒崎幸吉がいる。 1886年(明治19年)に誕生した。東京の明治女学校卒業を経て、熊本女学校や東京女子商業学校など、日本各地の女学校に教員として勤めた。兄の仕事の関係で、満州でも教鞭をとった。 1919年(大正8年)7月、当時の京都大学教授の厨川白村の勧めで、厨川の妻や中外日報記者ら女性たちと共に、知的階級女性による文化団体「京都PL会」を結成した。
石丸 梧平(いしまる ごへい、1886年4月5日 - 196… 石丸 梧平(いしまる ごへい、1886年4月5日 - 1969年4月8日)は、日本の宗教家、小説家。 大阪府生まれ。号を梅外。茨木中学校(現茨木高等学校)卒。早稲田大学高等師範部歴史地理科卒業後、教員となる。その後小説など執筆活動を始め、青年に対する教育的・啓蒙的なものを多く書いた。雑誌『人生創造』を刊行し、花園大学客員教授などを務めた。川端康成は若いころ梧平の影響下にあった。妻の石丸喜世子も評論家として活動した。
服部 嘉香(はっとり よしか、1886年(明治19年)4月4… 服部 嘉香(はっとり よしか、1886年(明治19年)4月4日 - 1975年(昭和50年)5月10日)は、日本の詩人・歌人・国語学者。 東京市日本橋区浜町の旧松山藩主久松家邸内で生まれた。愛媛県士族・服部嘉陳の長男。父の嘉陳は松山藩士・藤野正久の次男で、服部家を継いだ。 1889年(明治22年)に父の故郷である松山に移る。その後間もなく父が病没したため、叔父藤野漸の下で養育される。松山中学校を卒業後、1904年(明治37年)に再び上京して早稲田大学に入学。1908年(明治41年)、大学部文学科英文学科を卒業。同級生に北原白秋・三木露風・若山牧水・土岐善麿などがいた。中学時代から雑誌『少年世界』『中学世界』などに新体詩を投稿していたが、早大進学によって詩壇での活動はより活発になる。
平林 広人(ひらばやし ひろんど、1886年4月3日 - 1… 平林 広人(ひらばやし ひろんど、1886年4月3日 - 1986年2月21日)は、日本の児童文学翻訳家。デンマーク文学者。アンデルセンの研究で知られる。
大宮 庫吉(おおみや くらきち 1886年(明治19年)4月… 大宮 庫吉(おおみや くらきち 1886年(明治19年)4月1日 - 1972年(昭和47年)1月19日)は、大正・昭和時代の日本の実業家。寳酒造を日本有数の酒造会社にした宝酒造中興の祖。愛媛県宇和島市出身。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
金子 廉次郎(かねこ れんじろう、旧姓:山口、1886年〈明… 金子 廉次郎(かねこ れんじろう、旧姓:山口、1886年〈明治19年〉3月31日 - 1945年〈昭和20年〉7月23日)は、日本の内科学者、内科医。医学博士。九州帝国大学名誉教授。「日本脳炎」という名称の元になった症例を学会に報告した。 新潟県南蒲原郡猪子場新田(現 三条市猪子場新田)の素封家・山口新次郎の長男に生まれた。 1904年(明治37年)3月に新潟中学校を卒業、1907年(明治40年)7月に第三高等学校を卒業、新潟県南蒲原郡大面村大字蔵内(現 三条市蔵内)の大面村初代村長の金子正次の婿養子になった。 1907年(明治40年)9月に京都帝国大学福岡医科大学医学科に入学、1911年(明治44年)11月に九州帝国大学医科大学を優等で卒業、恩賜の銀時計を下賜された。
堀内 謙介(ほりのうち けんすけ、1886年〈明治19年〉3… 堀内 謙介(ほりのうち けんすけ、1886年〈明治19年〉3月30日 - 1979年〈昭和54年〉11月1日)は、日本の外交官。1930年代後半に外務次官及び駐米大使、戦後は駐中華民国(台湾)大使を務めた。 兵庫県多紀郡篠山町(のち丹波篠山市)にて旧篠山藩士堀内令順の次男として生まれる。私立尋常中学鳳鳴義塾、旧制山口高等学校、第一高等学校を経て、1910年7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。東京帝大在学中の1909年に文官高等試験合格、さらに1911年10月の外交官及領事官試験に合格(同期は重光葵・芦田均・縫田栄四郎・栗野昇太郎・村上義温・酒匂秀一・桑島主計)、翌11月に外交官補に任じられ清国在勤を命じられた。
大中 肇(おおなか はじめ、1886年3月28日 - 195… 大中 肇(おおなか はじめ、1886年3月28日 - 1950年9月15日)は、日本の建築家。熊本県天草郡楠浦村(現・天草市楠浦町)出身。 福岡県立工業学校建築科(現・福岡県立福岡工業高校)卒業。愛知県刈谷市を中心とする西三河地方で活躍し、建築学者の瀬口哲夫は大中を「タウンアーキテクト」と称している。代表作として亀城尋常高等小学校本館(現・刈谷市郷土資料館、登録有形文化財)がある。 1886年(明治19年)3月28日、熊本県の天草諸島にある天草郡楠浦村(現・天草市楠浦町)に生まれた。父親は大中清八、母親はキヨであり、肇は長男だった。大中家は肇の教育面を考えて、八代海の対岸にある鹿児島県出水郡中出水村下鯖渕(現・出水市下鯖町)に移住した。
赤塚 五郎(あかつか ごろう、1886年〈明治19年〉3月2… 赤塚 五郎(あかつか ごろう、1886年〈明治19年〉3月27日 - 1935年〈昭和10年〉3月2日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 新潟県西蒲原郡、のちの松長村(現燕市)出身。上京し、神田区会議員、東京府会議員、同議長、神田区信用組合長となる。 1928年の第17回衆議院議員総選挙において東京2区から立憲民政党公認で立候補したが次点で落選。1930年の第17回衆議院議員総選挙で立候補してトップ当選し、衆議院議員を1期務めた。1932年の第18回衆議院議員総選挙では次点で落選した。1935年死去。
大和田 愛羅(おおわだ あいら、1886年3月24日 - 1… 大和田 愛羅(おおわだ あいら、1886年3月24日 - 1962年8月11日)は、日本の音楽家、声楽家、教育家。 東京府東京市牛込区牛込下宮比町(現在の東京都新宿区下宮比町)で医師の長男として生まれる。父親が若くして亡くなったため新潟県村上市の祖父のもとで育てられ、新潟師範学校付属小学校、新潟県中学校を経て東京音楽学校声楽科に入学。卒業後は東京府立女子師範学校、東京府立第二高等女学校の教諭となる。1938年4月には第6回日本音楽コンクールの審査員を務めている。 第二次世界大戦後は上野学園大学の教授に就任。明治大学、東京慈恵会医科大学、国立音楽学校、東洋音楽学校などでも学生の指導にあたった。 第二次世界大戦以前の童謡や学校唱歌を多数作曲したほか、新潟県内を中心に学校校歌の作曲を手掛けた。
平野 運平(ひらの うんぺい、1886年3月23日 - 19… 平野 運平(ひらの うんぺい、1886年3月23日 - 1919年2月6日)は、旧名を「榛葉」という、ブラジル移民の先駆者として働き「ブラジル移民の父」と称された明治・大正期の海外開拓家である。 平野運平は1886年3月23日に現在の掛川市にあたる静岡県小笠郡栗本村で生まれた、榛葉健蔵の三男である。 同氏は、掛川中を卒業したのち、義兄の平野家に入籍したのち、同氏は東京外国語学校大西語科を卒業した。 1908年4月28日には神戸港より笠戸丸に乗船して出発した第1回ブラジル移民の笠戸丸移民に通訳五人衆の一人として同行し、シベリア経由での50日余の航海ののち、1908年6月18日にサンパウロ州のサントス港に入港した。
吉村 萬治郎(よしむら まんじろう、1886年(明治19年)… 吉村 萬治郎(よしむら まんじろう、1886年(明治19年)3月22日 - 1969年(昭和44年)5月23日)は、古河合名会社(古河財閥)副総帥、古河鉱業(現在の古河機械金属)社長、富士通信機製造(現在の富士通)創業者・初代社長。古河財閥創始者・古河市兵衛の大甥(兄弟姉妹の孫のこと)。 京都府生まれ。古河市兵衛の大甥であり、市兵衛の実兄(木村万治郎)の孫に当たる。父親は木村長兵衞。古河家親族の中川末吉らと共に財閥解体まで古河財閥の要職を歴任した。古河財閥総帥の古河虎之助は義兄(妻の兄)。